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『鶯邨画譜』と『屠龍之技』 ブログトップ

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十五) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十五 双亀

亀図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「亀図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html  『鶯邨画譜』の最後を飾る一枚である。この『鶯邨画譜』を媒体として、画人・抱一、そして、俳諧師(俳人)・抱一(屠龍)の、その一端に触れようとしたが、この『鶯邨画譜』は、抱一の主たる「画業」におけるマニュアル(「教科書」)で、俳諧師(俳人)・抱一(屠龍)の、自筆句稿『軽挙観句藻』や自撰句集『屠龍之技』の実像などを探るには、いささか無理があろう。
 この亀図も、下記のアドレスで紹介した「蓬莱山図」、そして、抱一門の池田孤邨の「蓬莱・百亀・百鶴図」(三幅対) などとの関連性を通して、この抱一の『鶯邨画譜』が抱一門の江戸琳派の面々に如何に受容されていったかというアプローチの方が、より適切なことなのかも知れない。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-01-03

 ここでは、この『鶯邨画譜』の、抱一と親しく交流のあった国学者加茂季鷹と、漢詩人中井敬義の、その「序」を掲載しておくことに止めたい(なお、『鶯邨画譜』は、初版と後刷本とがあり、早稲田図書館蔵本は後刷本で、この「序」は付せられていない)。

①序文(加茂季鷹)

大方ゑかく人、くれ竹の世に其名きこえたる上手、其いと多かる中にも、百とせばかりむかし、光琳法橋ときこえしハ、倭もろこし乃おかしき所々をとり並べことそぎたる中に、力を入てみやびかなるおもむきせしもむねと書あらはし筒、其頃此道にならぶ人は多なかりけり、こゝに等覚院抱一君ハ弓を袋にをさめて画に世を乃がれたまひ、かの法橋のあとをしたひてかき出たまへるが、山乃たゝずまい、水のこゝろばへは、いふもさらなり、鳥、化物、はふむしなどハ、さながらたましひ有てうごき出ぬべき心ちなんせられける、とりたてかくこ乃み給ふ事あらたまのとし月つもらざりせば、いかでかくは物しき給ふべき、されば彼法橋もなかなかに及びかたかめりとさへ見侍るハ、藍を出しあゐの藍より青してふためしならむかし、あまりあやしきまで見めでつゝたくもえあらで、いさゝかゝきしるし侍る也、あなめでたあなめでた

②序文(中井敬義)

此一帖は抱一上人ねん翁の、いとまことに画なしぬへるものにして、いたり深くやことなきすとハ、けにたとふへきかたなしかし、上人早うより世の塵を厭ひて、おくまりたる山陰に庵し候て、ひたすら水艸のきく傳を慰めにてかき籠り給へるを、あたらしきことにおもひて、こゝろよせきこゆる人は、あなかちにまいり給はむ、くひておのかしゝ迺心やりにとてかき捨たまへる原繪なとこひ閲(み)ゆるも、あまたありぬ契のもとなり、ためしなき上手にておはすうへに、からくにのふるきおきてをまなへり、我国のミやひたる跡をとめて、ひろくまねひ、ふかく習ひとなぬへき、尤なほさりの墨かきたき世の人とはいとことなり、そもそも三乗の法をときて聖人の御果を絵かき給ふとて、かしこの傳にもありとか法の属にして画をし覚すきたまへる、さるいはれあることになん、おのれ此本をうちひらき見より、上人のらうしねんに走しらす事にならひて其侭に気韻高かりけると、かたかた尊きことおほえて世のひとゝきのやさしきも忘れて、此はしつかたをふとけかしつせるは、感すこゝろの深きよりと、人も又見ゆるしなん也

(『江戸名作画帖全集六(駸々堂)』所収「図版解説・資料」)


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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十四 唐橘(百両)

唐橘.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「唐橘図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

百両と書(かき)たり年の関てがた(第五 千づかのいね)

 この句は、植物の「百両(唐橘)」(三冬)の句ではなく、関所手形・往来手形などの句で、「年の関てがた(手形)」の「新年」の句であろう。
 そして、「万両(藪橘)」「千両(草珊瑚)」「百両(唐橘)」「十両(藪柑子・山橘)」「一両(蟻通)」は、何れも秋から冬に赤熟し、「三冬」の季語であるが、正月の飾りものとして、ここでは、「年の関てがた」の「年」に掛かり、「年立つ(新年)」の意を兼ねての用例と解したい。
 この句の主題は、下五の「関てがた」で、その「関所手形」(この句では女性の旅の必須の「女手形」?)の手続きは、「大家→町名主→町年寄→奉行所→江戸城留守居役」の手続きを経て発行されるなど、それらと、この上五の「百両」(そして「唐橘」)が関係しているような、そんなことが、この句の背景なのかも知れない。

 下記のアドレスで、先に、「藪柑子と竹籠図」について触れた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

 この「藪柑子(山橘)」は、別名が「十両」で、『屠龍之技』には、「十両」の句は見当たらない。「千両」の句は、下記の句が収載されている。

   千両で売るか小倉の初しぐれ(第九 梅の立枝)

 しかし、この句は、「万両(藪橘)・千両(草珊瑚)・百両(唐橘)・十両(藪柑子・山橘)・一両(蟻通)」などの植物の句ではない。「初しぐれ(時雨)」(初冬)の句である。この句の「小倉」は、藤原定家が百人一首を編纂した京都の小倉山の麓・嵐山の「時雨殿(しぐれでん)」を指しているのだろう。その「小倉」の「時雨殿」の「初時雨」は何とも風情があり、「千両で売ろうか」との、抱一の粋な洒落の一句ということになる。

   一文の日行千里としのくれ(第五 千づかのいね)

 この句の前には、「歳暮」との前書きがある。抱一の時代(江戸時代中後期)の「一両」(現代=約七万五千円)は「六千五百文」で、「一文」は「約十二円」とかが、下記のアドレスで紹介されている。

https://komonjyo.net/zenika.html

 「一文の日行千里としのくれ」の「日行千里」は、四字熟語の感じだが、「一文の日行千里としのくれ」は、字義とおりに解すれば、「歳の暮れにあたり、一文無しに近い日々を重ねて、思えば遥かにも千里の道を来たかわい」というようなことであろう。

   鳥既に闇り峠(くらがりとうげ)年立つや (早野巴人『夜半亭発句帖』)

 抱一の俳諧の師の馬場存義を介すると、抱一の兄弟子にも当たる与謝蕪村の俳諧の師・早野巴人(馬場存義と同じく其角系の江戸座の俳人)の「年立つや」(年立ちかえる)の一句である。
この句の「鳥(とり)」は「掛けとり・借金とりの『とり(鳥)』」で、大晦日に駆けずり廻り、「大晦日は一日千金」の「掛け売りの借金取り」が、その裏(ウラ)の意のようである。
そして、この「闇り峠」は、松尾芭蕉が奈良から大坂へ向かう途中この峠で、「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」を詠んだ、その古道の峠であるが、ここでは大晦日の闇夜の暗がり峠の意をも込めている。
そして、「年立つや」は、「大晦日が過ぎて新しい年を迎えたのであろうか」という意である。
即ち、この巴人の句は、「大晦日の借金取りは、私の所まで手が廻らず、大晦日が過ぎて新年を迎えることが出来れば、また、一年、借金返済の猶予の口実が出来るわい」というようなことのようである。
 抱一の、上記の、「百両・千両・一文」の句などは、間違いなく、この巴人の「年立つや」の句と、同じ世界のものという雰囲気を有している。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』] [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十三  「梨図」周辺

梨図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「梨図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

  遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな (第四 椎の木かげ)

 『屠龍之技』の「第七 椎の木かげ」に収載されている、この句の前に、「寛政九年丁巳十月十八日、本願寺文如上人御参向有しをりから、御弟子となり、頭剃こぼちて」との前書きがある。


梨図・句.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0017_m.html

 この寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳時の「年譜」には、次のとおり記載されている。

【 九月九日、出家にあたり幕府に「病身に付」願い出。十月十六日、姫路藩より、千石五十人扶持を給することに決定する。抱一の付き人は、鈴木春草(藤兵衛)、福岡新三郎、村井又助。(御一代)
十月十八日、出家。西本願寺十六世文如上人の江戸下向に会して弟子となり、築地本願寺にて剃髪得度。法名「等覚院文詮暉真」。九条家の猶子となり準連枝、権大僧都に遇せられる。(御一代)酒井雅樂頭家の家臣から西本願寺築地別院に届けられる。(本願寺文書・関東下向記録類)
十一月三日より十二月十四日まで、挨拶のため上洛。< 抱一最後の上方行き >(御一代) 十一月十七日京都へ到着。俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴した。(句藻)
十二月三日、「不快に付」門跡に願い出て、京都を発つ。この間一度も西本願寺に参殿することはなかった。(御一代)
十二月十七日、江戸へ戻る。築地安楽寺に住むことになっていたか。(御一代・句藻)
年末、番場を退き払い、千束に転居。(句藻) 】

 遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな 

 この句は、抱一の出家の時の句ということになる。抱一の俳諧日誌『軽挙観句藻』には、この時の抱一の和歌も記載されている。

 いとふとてひとなとがめそ
     うつせみの世にいとわれし
            この身なりせば

 この「いとふ」は「厭ふ」で、「世を厭ふ」の「出家する」の意であろう。「ひとなとがめそ」は、「人な咎めそ」で、「な…そ」は「してくれるな」の意で、「私のことを咎めないで欲しい」という意になろう。「うつせみの世」は、「空蝉の世(儚い世)と現世(浮き世)」とを掛けての用例であろう。次の「いとわれし」は、ここでは、「出家する」という意よりも、「厭われる・敬遠される」の意が前面に出て来よう。
 この全体の歌意は、「出家することを、どうか、あれこれと咎めだてしないで欲しい。思えば、この夢幻のような現世(前半生)では、いろいろと、敬遠されることが多かったことよ」というようなことであろう。
 この出家の際の歌意をもってすれば、前書きのある、次の抱一の出家の際の句の意は明瞭となって来る。 
 
  遯るべき山ありの實の天窓哉

 この句の表(オモテ)の意は、「出家する僧門の天窓(てんそう・てんまど)には、その僧門の果実がたわわに実っています」というようなことであろう。
 そして裏(ウラ)の意は、「僧門に出家するに際して、天窓(あたま)を、丸坊主にし、『ありの実』ならず『無し(梨)の実』のような風姿であるが、これも『実(み)=身』と心得て、その身を宿世に委ねて参りたい」ということになる。

 抱一の、この出家に際しては、松平定信の寛政の改革、とりわけ、抱一の兄事していた亀田鵬斎らが弾劾される「異学の禁」に対する意見書などを幕府あて提出したなど、さまざまな流言がなされているが、その流言の確たるものは、不明のままというのが、その真相であろう。
 ただ一つ、掲出の、抱一の俳句と和歌とに照らして、抱一の出家は、抱一自身が自ら望んで僧籍に身を投じたことではないことは、これは間違いないことであろう。
 なお、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」の、その「天窓(あたま)」の読みは、抱一の同時代の小林一茶(抱一より二歳年下)の、その文化十一年(一八一四)の、次の句などから明瞭である。

  三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす
  五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
  片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼


(参考:小林一茶『おらが春』・文化十一年)

https://blog.goo.ne.jp/kojirou0814/e/267f5ffa138227d3849117331f82c170


 雪とけて村一ぱいの子ども哉
 御雛をしやぶりたがりて這子(はふこ)哉

五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我が身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ、あきらめがたきは業のふしぎ、おそろしくなん思ひ侍りぬ。

 三日月に天窓(あたま)うつなよほととぎす

千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らんとて、隣々へ酒ふるまひて、
 
五十婿天窓(あたま)をかくす扇かな
 片天窓(あたま)剃て乳を呑夕涼
 子宝が蚯蚓のたるぞ梶の葉に
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十i二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十二 紅葉に鹿

鹿に紅葉.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紅葉に鹿図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html   

   啼く山の姿も見えつ夜の鹿  (第九 うめの立枝)
   又もみぢ赤き木の間の宮居かな(第九 うめの立枝)

 抱一画集『鶯邨画譜』の「紅葉に鹿図」は、何とも、花札の「紅葉に鹿図」のありふれた図柄であるが、『屠龍之技』の「鹿」(一句目)の句もまた、何ともありふれた平明な句という装いをしている。

   啼(な)く山の姿を見えつ夜(よる)の鹿(しか)

 句意は、「山で啼いている鹿の姿を、夜で暗いのに、見ることが出来た」ということで、この中七の「見えつ」の「つ」は、完了の助動詞(た。…てしまう。…てしまった)と解するのが一般的であろう。
 そして、「夜の鹿」の句として、芭蕉の次の句などが連想されて来る。

   ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿    芭蕉 「笈日記」

 芭蕉には、もう一句、「鹿の声」の句がある。

   武蔵野や一寸ほどな鹿の声    芭蕉 「俳諧当世男」

 この句の中七の「一寸ほどな」の「ほどな」は、「ほどなる」の「る」が脱落したものの用例で、「広大な武蔵野」の中では、「尾を引いて長鳴きする鹿の声もほんの一寸」程度の印象を受けるというのが、一般的な解となっている。
 これらの芭蕉の句の関連ですると、抱一の句は、「芭蕉さんが、広大無辺の武蔵野の一角で、一寸ほどの短い鹿の鳴き声を聞いたように、一寸ほどの近い距離で、その姿を見ることが出来た」というようなことが、この句の背景として理解することも可能であろう。
 
 すがる鳴く秋の萩原朝たちて旅行く人をいつとか待たむ(『古今集・三六六』)
 すがる臥す木暮が下の葛まきを吹き裏返す秋の初風 (『山家集・中巻』)

上記の『古今和歌集』の「詠み人しらず」の「すがる」は、「腰の細い小型の蜂の古名で、じが蜂」というのが一般的である。そして、次の『山家集』の西行の「すがる」は、「蜂」ではなく「鹿」の異名というのが、一般的である。この西行の歌などから、「鹿」の別名として、「すずか・すがる・しし・かのしし」などが、季語集などには列挙されている。

 この『古今和歌集』の「すがる」(じが蜂)は、次の『万葉集』の「腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)」を踏まえているようである。

【 しなが鳥 安房(あは)に継(つぎ)たる 梓弓(あずさゆみ) 周淮(すゑ)の珠名(たまな)は 胸別(むなわけ)の ひろき吾妹(わぎも) 腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)のその姿(かほ)の 端正(たんせい)しきに 花の如(ごと) 咲(ゑ)みて立てれば 玉桙(たまほこ)の 道行く人は 己(おの)が行く 道は行かずて 召(よば)なくに 門(かど)に至りぬ さし並(なら)ぶ 隣の君は あらかじめ 己妻(おのづま)離(か)れて 乞(こは)なくに 鍵(かぎ)さへ奉まつる 人皆の かく迷(まど)へれば 容(かほ)艶(よき)に よりてそ妹(いも)は たはれてありける ―高橋虫麻呂―(巻九・一七三八) 】

   啼く山の姿を見えつ夜(よ)の鹿(すがる)

 「夜の鹿」を、「夜(よ)の鹿(すがる)」と読み、そして、この「鹿(すがる)」を、「細腰の娘子(をとめ)」と解する句意もあろう。得てして、平明な何の変哲もないような装いをしている其角流の抱一の句は、何かしらの趣向が施されているのが通例であり、その抱一流の趣向からすると、この「夜(よ)の鹿(すがる)」の読みと句意も捨てがたい。

   又もみぢ赤き木の間の宮居かな

 この句は、「啼く山の姿も見えつ夜の鹿」と、同じ頃(「第九うめの立枝」)の「もみぢ(紅葉)」の句である。「宮居」とは「神が鎮座する神社・祠」などを指すのであろう。

   まだ暮れぬ紅葉の寺へ息子行き (『柳多留十六篇』)

 この『柳多留』に掲載されている句の「紅葉の寺」は、浅草竜泉寺町の正燈寺(しょうとうじ)を指し、品川の海晏寺(かいあんじ)と共に、当時の江戸の紅葉狩りの双璧だったようである。浅草の正燈寺の近くに、吉原遊郭があり、品川の海晏寺の近くに品川遊郭が控えている。この句は、「紅葉狩りに息子は正燈寺に行き、その帰りに吉原に寄ってくる」というものであろう。

   又もみぢ赤き木の間の宮居かな

 この句の上五の「又もみぢ」というのは、「紅葉狩りに出かけ、その帰りに、又、紅葉狩り(遊女狩り)に吉原遊郭に寄り道をし」、その吉原遊郭地の中で、中七の『赤き木の間(「赤い木の鳥居」の見立て)』に、下五の、「お稲荷さんなどを祀った『宮居』(祠)」で手を合わせている」というようなことであろう。

吉原.jpg

『絵本吾妻抉(えほんあずまからげ)』(「正燈寺」)



https://www.web-nihongo.com/edo/ed_p027/

(追記)

山中の鹿図  なく山のすがたも見へず夜の鹿 (『柳花帖』一九)
鹿図     しかの飛ぶあしたの原や廿日月 (『柳花帖』四六)
瓦灯図    啼く鹿の姿も見へつ夜半の声  (『『柳花帖』四㈦)


 抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「啼く山の姿も見えつ夜の鹿(第九 うめの立枝)」なのであるが、文政二年(一八一九)、抱一、五十九歳頃に成った『柳花帖』(抱一が吉原で描いたとされている「俳画集」)では、どうにもこうにも、「鹿」の句が、上記のとおり、三句(そして、三画)が収載されている。

 ここで、二句目の「「しかの飛ぶ」というのは、「鹿(しか)が飛ぶ」というよりも、『古今和歌集』の「すがる(鹿)」(じが蜂)の、『万葉集』の「腰細(こしぼそ)の すがる娘子(をとめ)」を踏まえているものと解したい。
 そして、この句の「あしたの原や」の、「足下(あした)の(が)原」は、「足立(あだち・安達)の(が)原」の、捩り(反意語の捩り)で、能の「黒塚」(「安達ケ原の鬼婆」の場面)を背景にしているという雰囲気である。
 こういう抱一の、趣向に趣向を凝らした精妙な洒落句について、俳句革新を目指している正岡子規は、その『病床六尺』で、次のとおり酷評することになる。

「抱一の画、濃艶愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣(せつれつ)見るに堪へず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の賛あるに至つては、金殿に反古(ほご)張りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚だし。」

 ここで、この三句を並列して見て、一句目は「夜の鹿」、二句目は「しかの飛ぶ」、三句目は、「啼く鹿」の表記で、「五・七・五」のリズムからすると、一句目は「夜(よ)の鹿(すがる)」、三句目は「啼く鹿(しか)の」の詠みの雰囲気である。
 その上で、この一句目と三句目へ並列する、またまた、抱一の新しい趣向が浮かび上がって来る。

   なく山のすがたも見へず夜の鹿 (「山中の鹿図」)
   啼く鹿の姿も見へつ夜半の声  (「瓦灯図)

 この一句目の中七「すがたも見へず」の「見へず」(見えない)と、この二句目の中七「姿も見へつ」の「見へつ」(見えた)と、ここにも、何かしら仕掛けがあるような雰囲気なのである。
 そして、この二句目の画題の「瓦灯(かとう)図」からして、これらの句が収載されている『柳花帖』の、その「跋文」、「夜毎郭楼(吉原)に遊びし咎(とが)か予(抱一)にこの双紙(俳画集)へ書きてよ」との、当時の吉原遊郭文化と深い関わりを有しているものと解すべきものなのかも知れない。
 正岡子規が、「抱一の画、濃艶愛すべし」の指摘のごとく、「抱一の句、濃艶愛すべし」として鑑賞するのが、そのスタートなのかも知れない。


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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二十一 牡丹図

牡丹.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「牡丹図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html  

 飛ぶ蝶を喰(くは)んとしたる牡丹かな (第一 こがねのこま)
    牡丹一輪青竹の筒にさして
    送られける時
  仲光が討て参(まゐり)しぼたんかな  (第三 みやこどり)
    画賛狂句、彦根侍の口真似
    して
  さして見ろぎょやう牡丹のから傘ダ   (第三 みやこどり)

 『屠龍之技』中の「牡丹」の三句である。蕪村にも「牡丹」の佳句が目白押しである。

  牡丹散つてうちかさなりぬ二三片  蕪村 「蕪村句集」
  牡丹切て気の衰へし夕かな     蕪村 「蕪村句集」
  閻王の口や牡丹を吐かんとす    蕪村 「蕪村句集」
  地車のとゞろとひゞく牡丹かな   蕪村 「蕪村句集」  

 抱一の一句目の句は、蕪村の「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句に近いものであろう。二句目の前書きのある「仲光と牡丹」の句は、能「仲光(なかみつ)」を踏まえてのもので、その「仲光」中の、「美女丸」の身代わりになって、「仲光」に打ち首にされる仲光の実子の「幸寿丸 」を「牡丹」に見立てての一句ということになる(下記の「参考」)。
 三句目の「彦根侍と牡丹」の句は、「大老四家(井伊家・酒井家・土井家・堀田家)」の文治派・酒井家に連なる生粋の江戸人・抱一の、武断派・井伊家(彦根藩・彦根侍)の風刺の意などを込めての一句と解したい。この「ぎょやう」(ぎょうよう)というのが、「仰々しい(大げさ)」の彦根方言のような感じに受ける。

(参考)

http://www.kanshou.com/003/butai/nakami.htm

能「仲光」のストリー
【 多田満仲は、一子美女丸を学問の為、中山寺へ預けております。しかし、美女丸は学問をせず、武勇ばかりに明け暮れており、父満仲は、藤原仲光に命じ、美女丸を呼び戻します。ここから能「仲光」は始まります。
 「こは誰が為なれば…、人に見せんも某が子と言う甲斐もなかるべし…」これは誰の為であるのか。人に見せても、誰某の子という甲斐もない。親が子を叱る時の、昔も今も変わらぬ心情です。満仲は、憤りのあまり、美女丸を手討にしようとします。更に、中に入って止めた仲光に美女丸を討つよう命じます。
 仲光は、主君に何と言われても、美女丸を落ち延びさせるつもりでいますが、頻りの使いに、ついに逃がす事が出来なくなります。「あわれ某、御年の程にて候わば、御命に代り候わんずるものを…」同じ年頃であれば、お命に代ろうものを…と嘆く仲光の言葉を、仲光の子の幸寿が聞きます。幸寿は「はや自らが首をとり、美女御前と仰せ候いて、主君の御目にかけられ候え。」と言います。美女丸も、自分の首をと言い、仲光はついに幸寿に太刀を振り下ろしてしまいます。
 満仲は、美女丸を討ったと報告する仲光に、幸寿を自分の子と定めると言います。仲光は、幸寿が美女丸のことを悲しみ、髪を切り出て行ったと言い、自分も様を変え、仏道に入りたいと言います。
 比叡山、恵心僧都が美女丸を連れて来ます。満仲もついには許し、めでたい事と僧都に所望され仲光は舞を舞います。「この度の御不審人ためにあらず。かまえて手習学問、ねんごろにおわしませと…。」この度の事は人のせいではありません。これからは、手習学問を熱心にするように…。仲光に言われ、美女丸は恵心僧都と再び帰って行きます。  】



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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二十)

その二十 葛図

抱一・葛図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「葛図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

抱一の代表作は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた「夏秋草図屏風」(二曲一双)が挙げられるであろう。その左隻の「秋草図」には、「ススキ・オミナエシ・フジバカマ・クズ」が描かれている(下記の左方の「紅白」が「クズ」、その下方に「フジバカマ」、右方の「紅」は「オミナエシ」)。

抱一・秋草図部分図.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」の左隻の部分図

月に秋草図屏風.jpg

酒井抱一筆「月に秋草図屏風」六曲一隻 東京国立博物館寄託

 この「月に秋草図屏風」は、夏目漱石の「門」に出てくる。

「下に萩、桔梗、芒、葛、女郎花を隙間なく描いた上に、真丸な月を銀で出して、其横の空いたところへ、野路や空月の中なる女郎花、其一と題してある。
宗助は膝を突いて銀の色の黒く焦げた辺から、葛の葉の風に裏を返してゐる色の乾いた様から、大福程な大きな丸い朱の輪廓の中に、抱一と行書で書いた落款をつくづくと見て、
父の行きてゐる当時を憶ひ起さずにはゐられなかつた。」(夏目漱石「門」より)

 上記の「野路や空月の中なる女郎花」は抱一の句で、抱一の高弟・鈴木其一が、その句を書き添えているというのであろう。この抱一の句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「かぢのおと」に、「野路や空月の中なるおみなへし」の句形で収載されている。俳人でもある夏目漱石は、確かに、抱一の自撰句集『屠龍之技』を熟知していて、そして、上記の抱一の「月に秋草図屏風」類いのものを目にしていたのであろう。
 抱一の俳諧の師筋に当たる馬場存義にも、葛の花の句がある。

  鹿野焼や手のうらかえす葛の花     馬場存義

 また、夏目漱石の俳句の師筋に当たる正岡子規や旧知の高浜虚子門下にも、葛の花の句が多い。

  山葛にわりなき花の高さかな      正岡子規
  抱一の観たるがごとく葛の花      富安風生
  堰堤に匍ひもとほれる葛の花      富安風生
  山桑をきりきり纒きて葛咲けり     富安風生
  こぼれつぐ葛の花屑雨の淵       高浜年尾
  流れ継ぐ花葛の色まぎれなし      高浜年尾
  兎跳ね犬をどり入る葛の花       水原秋櫻子
  朝霧浄土夕霧浄土葛咲ける       水原秋櫻子
  渋の湯の裏ざまかくす葛の花      水原秋櫻子
  四五人の無用の客や葛の花       高野素十
  山川や流れそめたる葛の花       高野素十
  木曽馬も花葛も見ず馬籠去る      高野素十
  大学の中に弥生ケ丘葛咲いて      山口青邨
  有耶無耶といふ関葛の花襖       阿波野青畝
  どちらかと言へば好きなり葛の花    清崎敏郎
  山道も吾妻郡葛の花          清崎敏郎

(追記)

 夏目漱石の「門」に出てくる「月に秋草図屏風」に類いするものは、六曲一隻の大作ではなく、下記アドレスの「紙本金地著色秋草花卉図(酒井抱一筆)・紙本金地著色孔雀牡丹図(谷文晁筆)」などのより小品ものであったと思われる。抱一には、「月に秋草図」(一幅)ものなどは多い。

www.city.kiryu.lg.jp/kankou/bunkazai/1010700/kenshitei/1001968.html
タグ:鶯邨画譜
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十九)  [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十九) 

その十九 禊図

禊・抱一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「禊図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「禊図」は下記のとおり。

禊・光琳.jpg

尾形光琳筆「禊図」一幅 絹本着色 九七・〇×四二・六cm 畠山記念館蔵
【 この図は藤原家隆(一一五八~一二三七)の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を描いたもので「家隆禊図」ともいわれる。左下に暢達(ちょうたつ)した線にまかせて、簡潔に水流の一部を表わし、流れに対して三人の人物が飄逸な姿で描かれ、色調は初夏のすがすがしさを思わせる。「法橋光琳」の落款、「道崇」の方印がある。 】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説131」)

尾形光琳は、下記の宗達の『伊勢物語』(第六十五段)の「禊」の場面の「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」に対して、藤原家隆の「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」の歌意を上部に「楢の木」を配して表現している。。


禊・宗達.jpg
宗達派「伊勢物語図屏風」の部分図「禊図」(「国華」九七七)
画賛「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」

 ここで、『鶯邨画譜』の「禊図」は、「風そよぐならの小川の夕暮にみそぎぞ夏のしるしなりける」(家隆)の「禊」の場面よりも、「恋せじと御手洗川にせし禊神は受けずもなりにけるかも」(『伊勢物語』)の「禊」の場面のように思われる。

(追記) 下記のアドレスの「乾山の『禊図屏風』」で取り上げている(家隆の歌の「なら」を「楢」と「奈良」とを掛詞としての歌意にしていたが、この歌も京都の上賀茂神社の「御手洗川」と解するのが一般的なようである)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-23

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十八) 

その十八 蓬莱山図

蓬莱.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「蓬莱山図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

蓬莱二.jpg

池田孤邨画「蓬莱・百亀・百鶴図」三幅対 絹本著色 各九六・〇×三二・四㎝ 個人蔵
【池田孤邨(一八〇三~六八)は其一より七歳年下抱一の弟子。抱一没後は雨華庵から独立し、鶯蒲や其一とある程度の距離を保ちながら明治維新直前まで活躍した。最晩年の元治元年(一八六四)には『光琳新撰百図』を、翌慶応元年(一八六五)には『抱一上人真蹟鏡』を発行、光琳、抱一と連なる流派の一員であることを意欲的に示した。三幅対の中幅は海上に聳える蓬莱の島に初日、右幅は夥しい亀を、左幅にも刈田に鶴の群れを配して新年を祝す掛物である。(後略) 】(『江戸琳派の旗手 鈴木其一』所収「120 蓬莱・百亀・百鶴図」)

 この中幅が「蓬莱山図」である。「蓬莱山」は、仙人の住む理想郷で、中国の神仙思想のシンボルの山である。

「中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。しかし,遠く望めば雲のようであり,近づけばどこへか去って,常人にはいたりえないところという。前4世紀頃から盛んにいわれるようになり,神仙思想の原型となった。日本にも伝わって,富士山,熊野山,宮城県の金華山などの霊山の呼び名となった。また,熱田神宮を蓬莱と呼ぶこともある。」
https://kotobank.jp/word/蓬莱山-132488

 この孤邨が描く「百鶴図」は、「丹頂鶴と真鶴を混ぜる図様も光琳画を継承している」(上記の「作品解説」)と、前回の「鍋鶴」は、「真鶴」と解するのが妥当のようである。
 なお、『江戸琳派の旗手 鈴木其一』には、次のような、「蓬莱山図」主題の「吉祥物」(縁起物)が掲載されている。

 酒井道一画「蓬莱・桜・瓢箪図」三幅対(作品解説129)
鈴木其一画「雛掛物」三幅対 滴翠美術館蔵(作品解説139)

この其一の「雛掛物」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「中央は蓬莱山に日輪、右幅には白椿に鴛鴦、左幅には鯉に萍(うきくさ)を描く三幅対。(中略)蓬莱山の上には二羽の鶴が飛翔し、鴛鴦、鯉も番(つがい)であることを考え合わせれば、婚礼調度として誂えた雛道具の一種だろうか。」

 鈴木其一画「亀蓬莱山図」一幅 細見美術館蔵(作品解説161)

この其一の「亀蓬莱山図」の解説(抜粋)は次のとおりである。

「(前略)海の彼方にある蓬莱山は古代中国の神仙思想に基づくが、江戸琳派では仙人の住む理想郷として緑の松とともにユニークな形で描かれ、新年の床飾りとして多くの注文を得たようだ。(後略)」

 さて、抱一の「蓬莱山」に関する句というと、抱一自撰句集『屠龍之技』を丹念に見ていくと、これはというのにお目にかかるのかも知れないが、ここは、抱一の先輩格の与謝蕪村の次の句が相応しいであろう。

  蓬莱の山まつりせむ老の春 (蕪村 安永四年=一七七五 六十歳)

 この蕪村の句の意は、「還暦に当たる老いの正月に、蓬莱山を床の間に飾り目出度い寿ぎの年を迎えたい」というようなことであろう。
 この句は、蕪村の夜半亭一門の歳旦開き(初句会)の句で、この句を発句にしての歳旦三つ物が今に遺されている。

  安永乙未歳旦
 ほうらいの山まつりせむ老の春   蕪村
  金茎の露一杯の屠蘇       我則
 閣寒く楼あたたかに梅咲きて    月渓

  其二
 みよし野の旅出撰ばんはつ暦    月渓
  花の都やみなさくら人      蕪村
 おぼろ月堤の小家ゆかしくて    我則

 其三
 冨士の夢さめ行窗や初霞      我則
  よゝと雑煮をくらふ家の子    月渓
 春風に朱のそを舟哥ふらん     蕪村
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十七) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十七 双鶴図

鶴一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「双鶴図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「鶴は千年亀は万年」の諺のとおり、「鶴」「亀」は、長寿のシンボルで、「吉祥物」(縁起物)の典型的な画題である。「双鶴(そうかく)図」になると、鶴は、生涯一羽としかつがいにならないとの、貞操を守る理想の夫婦像のシンボルにもなっている。
 これらの吉祥物の「鶴」は、「丹頂(たんちょう)鶴」が馴染み深いが、この双鶴図は、胴体の羽衣の色が鍋についた煤のように見える「鍋(なべ)鶴」である。

鶴二.jpg

尾形光琳画「群鶴図屏風」六曲一双 紙本金地著色 (フリーア美術館蔵)

 光琳の上記の「群鶴図屏風」は「鍋鶴」で、抱一は、この光琳の群鶴図を念頭に置いての「群鶴図屏風」も制作している。

鶴三.jpg

酒井抱一画「群鶴図屏風」二曲一双 紙本金地著色 (ウースター美術館蔵)

 もとより、光琳も抱一も、「鍋鶴」だけではなく、「丹頂鶴」を画題にしているのも多い。例えば、下記のアドレスで紹介した、抱一の『絵手鑑』の「八鶴」は「丹頂鶴」で、こちらの方が馴染みやすい「鶴」ということになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-07

鶴四.jpg

瀬戸民吉製「色絵双鶴図小皿」十枚一組 (国立歴史民族博物館蔵)

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/110/witness.html

 この小皿は「文政九戌十一月瀬戸民吉製」とあり、文政九年(一八二六)の瀬戸焼(愛知県瀬戸焼き)の一つということになる。この文政九年は、抱一、六十六歳の時で、その六月には、『光琳百図後編』が刊行された年である。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、その後、十年足らずして、陶器に意匠化されて、抱一ブランドが製品化されているのは特記して置く必要があろう。

鶴五.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0032_m.html

 「花ぬふ(縫ふ)とり(鳥)」の次の前書きの「己巳(きみ・つちのとみ)」は、文化六年(一八〇九)、抱一、四十九歳の時である。「藤塚」は「下谷根岸大塚村」であろう。ここが、「鶯の里」で、それが抱一の号「鶯邨(むら)・おうそん」となっている。
 この四句目は、正月の「鶴」の句である。

  元日の朝寝起すや小田の鶴

 現在の上野の下谷・根岸周辺も、抱一の時代には、下記の広重画にあるとおり、この丹頂鶴を見ることが出来たのであろう。この抱一の句は、「下谷根岸大塚村」に転居しての初めて正月の実景にもとづくものなのかも知れない。
 しかし、冒頭の「双鶴図」の掛幅が、正月の床の間に飾ってあって、その小田の双鶴に「元日の朝寝を起こされた」とする鑑賞の方が、『鶯邨画譜』を有する抱一の句に相応しい感じで無くもない。

鶴六.jpg 

安藤広重画「名所江戸百景」のうち「蓑輪 金杉 三河しま」

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十六)  [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十六 紫式部図

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

紫式部二.jpg

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.jpg

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm

紫式部句.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0009_m.html

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」は、「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の「詠みと意味」ということになろう。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十五) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十五 流水に菊

流水に菊.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「流水に菊」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「光琳意匠」の代表的な「流水紋様」と「菊紋様」との組み合わせで、これらの全体像は、下記のアドレスに詳しい。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/kawaii.html

• い:金井紫雲編『芸術資料』第1期 第11冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ろ:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• は:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• に:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• ほ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• へ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• と:金井紫雲編『芸術資料』第3期 第7冊,芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• ち:中野其明編『尾形流略印譜』春陽堂,明治25(1892)【15-156】
• り:神坂雪佳『百々世草』山田芸艸堂,明治42-43(1909-1910)【406-32】
• ぬ:法橋光琳画『光琳扇面画帖』小林文七,明治34(1901)【寄別4-3-2-3】
• る:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• を:石井柏亭編『浅井忠 画集及評伝』芸艸堂,昭和4(1929)【553-116】
• わ:恩賜京都博物館編『抱一上人画集』芸艸堂,昭和5(1930)【424-52】
• か:池田孤村『池田孤村画帖』写【寄別1-7-2-2】
• よ:金井紫雲編『芸術資料第一期 第三冊』芸艸堂,昭和16(1941)【K231-35】
• た:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• れ:中村芳中画『光琳畫譜』和泉屋庄次郎,文政9(1826)【午-24】
• そ:抱一筆『鶯邨畫譜』須原屋佐助,1800年代【か-44】
• つ:帝國博物館編『稿本日本帝国美術略史』農商務省,明治34(1901)【貴7-126】
• ね:新古画粋社編『新古画粋 第9編(光琳)』新古画粋社,大正8(1919)【421-1】


抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)についても、下記のアドレスで、その全体像を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0001_m.html

重陽.jpg

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0015_m.html

 「椎の木かげ」編の「重陽」の二句。上記の「見劣し人のこゝろや作りきく」の後に、一行の空白がある。「重陽」の前書きは、次の菊の二句にかかる。

 太刀懸に菊一(ひ)とふりやけふの床
 見劣(みおとり)し人のこゝろや作りきく
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十四 団扇(抱一の「団扇図」周辺) 

抱一・団扇図二.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「団扇図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「団扇図」の「賛」(発句=俳句)は、『屠龍之技』所収「千づかのいね」編の、次の句であろう。

  井の水の浅さふかさを門すゞみ (『屠龍之技』所収「千づかのいね」編)

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)での、この句が収載されている箇所は次のとおりである。

抱一・屠龍の技・李笠翁.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)
http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186/0022_m.html

   李笠翁になろふて
  一幅の春掛ものやまどの冨士
  井の水の浅さふかさを門すゞみ
  水になる自剃盥や雲のみね

 上記の「写本」を見る限りでは、「李笠翁になろふて」は、この三句の前書きのような感じである。
 この「李笠翁」(李漁)については、百科事典(マイペディア)などでは、次のとおり紹介されているが、与謝蕪村と池大雅の競作画帖「十便(大雅画)十宣(蕪村画)図」(国宝)の主題が、李笠翁の山居「伊園」における漢詩に基づくものであるということと、蕪村や大雅に大きな影響を与えた『芥子園画伝』(中国、清初に刊行された画譜)の「序」を起草した、その人こそ「李笠翁(李漁)」ということの方が、上記の抱一の句の前書きには相応しいのかも知れない。

https://kotobank.jp/word/李漁-148469

【「李笠翁」(李漁)→中国,明末清初の劇作家。字は笠翁(りゅうおう)。江蘇省の出身。明滅亡後清に仕えず終わる。自作の戯曲を上演し全国の名家を巡遊。自由で大胆な表現で恋愛や滑稽(こっけい)を扱った《笠翁十種曲》,口語短編小説集《無声戯》,戯曲論,演出論を含む随筆集《閑情偶寄》などがある。日本には18世紀初頭に伝えられ,読本(よみほん)などに影響を与えた。】

  李笠翁になろふて
 一幅の春掛ものやまどの冨士

 この「一幅の春掛ものやまどの冨士」は、上記に紹介した、蕪村と大雅の「十便十宣図」や『芥子園画伝』(画譜)を背景にしたものではなく、上記の随筆集『閑情偶寄』などの、その「居室部」などを背景にしているようなのである。

李笠翁一.jpg

https://baike.baidu.com/item/闲情偶寄

 抱一は、歌川豊春に「浮世絵」、宋紫石に「漢画(明画)」を習ったされ(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収「屠龍之技(贅川他石稿)」)、その宋紫石の『古今画藪』に、上記の「閑情偶奇」のものが、下記のとおりに翻刻され、掲載されている。

李笠翁二.jpg

『古今画藪、後八種』(宋紫石画)「笠翁居室図式」(第八巻)「尺幅窓図式」(「早稲田大学図書館蔵・高村光雲旧蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_b0132/bunko08_b0132_0008/bunko08_b0132_0008_p0014.jpg

 この「尺幅窓図式」とは、「窓枠を掛幅に見立て、窓の外の風景を絵として楽しむ趣向を
あらわしている」図ということになる。
 ここで、抱一の、「李笠翁になろふて」を前書きとする「一幅の春掛ものやまどの冨士」の句意は明瞭になってくる。すなわち、「李笠翁に倣って、この窓枠を一幅の春掛物と見立てて、実景の『冨士』を愉しむこととしよう」ということになる。

  井の水の浅さふかさを門すゞみ

 この句は、「門(かど)涼み」(外に出て夕涼みをすること・晩夏の季語)の句である。「井の水」の、「井」は、「掘り抜き井戸」ではなく、「湧(わ)き水や川の流水を汲み取る所」の意であろう。「門涼み」とは別に、「噴井(ふきい)」(絶え間なく水が湧き出ている井戸、三夏の季語)という季語もある。
 句意は、「外に出て、団扇を仰ぎながら、涼風の強さ弱さを、丁度湧水の浅さ深さで探る風情で、夕涼みをしている」というようなことであろう。特別に「李笠翁になろふて」の前書きが掛かる句ではないかも知れないが、強いて、その前書きを活かすとすれば、「風流人・李笠翁に倣い」というようなことになろう。
 そして、次の無風流な宝井其角の作とされる句と対比させると、「風流人・李笠翁に倣い」というのが活きてくるという雰囲気で無くもない。

  夕すずみよくぞ男に生れけり  宝井其角(伝)

 次の三句目の句は、抱一が、寛政九年(一七九七)に剃髪得度して、法名「等覚院文詮(もんせん)暉真(きしん)」を名乗っている頃のものとして、注目すべき句の一つであろう。

  水になる自剃盥や雲のみね

 季語は「雲のみね(峰)」(聳え立つ山並みのようにわき立つ雲。積乱雲。夏といえば入道雲であり、夏の代名詞である。盛夏の季語)、「自剃盥」というのは、剃髪用の盥というようなことであろう。句意は、「雲に峰の夏の真っ盛りで、自剃盥も、お湯ではなく、冷たい水で、それが実に気持ちが良い」というようなことであろう。

  香薷(じゆ)散犬がねぶつて雲の峰  宝井其角(『五元集』)

 この句は、抱一俳諧の師筋として敬愛して止まない其角の「雲の峰」の句である。表面的な句意は、「雲の峰が立つ真夏の余りの暑さに、犬までが暑気払いの『香薷(じゆ)散』を舐(なぶ)っている」というようなことであろう。
 しかし、この句の背景は、『事文類聚』(「列仙全伝」)の故事(准南王が仙とし去った後、仙薬が鼎中に残っていたのを鶏と犬とが舐めて昇天し、雲中に鳴いたとある)を踏まえているという。
すなわち、其角は、この句に、当時の其角の時代(元禄時代)の、「将軍綱吉の『生類憐れみの令』による犬保護の世相と、犬の増長ぶりを諷している」(『其角と芭蕉と(今泉準一著)』)というのである。
 とすると、抱一の、この「水になる自剃盥や雲のみね」の句も、抱一の寛政時代の「松平定信の寛政の改革」と、自己に降り掛かった、その「寛政時代(寛政九年)の出家」が、その背景にあると解しても、それほど違和感もなかろう。
 ここまで来ると。この句の、意表を突く上五の「水になる」というのは、抱一の、当時の「時代風詩」と「己の自画像」と読めなくもない。
 すなわち、この句の「雲の峯」は、「寛政の改革の出版統制や風紀統制」など、また、抱一自身の「若き日の青雲の志」などが、その背景にあると解すると、この句の上五の「水になる」は、文字とおり、それらの「青雲の志」が、「水になる」ということになろう
 ここで、これらの句が収載されている前頁の、次の前書きのある一句に注目したい。

   辛酉 春興
   今や誹諧蜂の如くに起り
   麻のごとくにみだれその
   糸口をしらず
 貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし

 「辛酉」は、享和一年(一八〇一)、抱一、四十一歳時のもので、「春興」は、「新年の会席において詠まれた発句・三つ物のこと」である。「貞徳」は、松永貞徳(元亀二(一五七一)~承応二(一六五三)、貞門俳諧の祖。松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。歌人・狂歌師としても名高い)である。
 当時の抱一は、浅草寺北の千束村に転居し、その住まいを「軽挙草堂」と称していた。寛政九年(一七九七)、三十七歳時の、剃髪得度した年に、京都の西本願寺に挨拶のため上洛したが、その折りの随行者は、「俳友の其爪、古櫟、紫霓、雁々、晩器の五人が伴をした」(『軽挙観(館)句藻』)と、画人との交遊よりも、俳人との交遊関係の方が主であった頃である。
 「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎・文晁」との交遊関係も、享和二年(一八〇二)、四十二歳時に、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと、常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」)と、その一端が今に知られている。
 その上で、この前書き「今や誹諧(俳諧)蜂の如くに起り/麻のごとくにみだれその/糸口をしらず」とは、俳諧宗匠・酒井抱一(「抱一」の号は、寛政十年(一七九八)、三十八歳時の『軽挙観(館)句藻』「千つかの稲」が初出)の、当時の江戸俳壇に対する真摯なる感慨ということになろう。
 そして、「貞徳も出よ長閑(のどけ)き酉のとし」の句は、新年の抱一門句会の、抱一の歳旦吟であると同時に、「貞徳を出(いで)よ」、その混迷した江戸俳壇に一指標を見出したいという、抱一の自負を込めての一句ということになろう。
 これらのことは、先に紹介した、鵬斎の『軽挙観(館)句藻』の、その「序」に、その一端が記されている(下記のアドレスのものを再掲して置きたい)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-18

(再掲)

【 屠龍之技序
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

(追記)

一 日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収の「屠龍之技」では、「李笠翁になろふて」の前書きのある三句は、下記のとおり、
「一幅の春掛ものやまどの冨士」に掛かるものとして、次の「井の水の浅さふかさを門すゞみ」の間に、一行を空白にしている。
 「一幅の春掛ものやまどの冨士」は「春の句」、「井の水の浅さふかさを門すゞみ」と「水になる自剃盥や雲のみね」は「夏の句」で、「李笠翁になろふて」の前書きは、「一幅の春掛ものやまどの冨士」の一句のみのものと解する方が妥当のようである。

   李笠翁になろふて
  一幅の春掛ものやまどの冨士

  井の水の浅さふかさを門すゞみ
  水になる自剃盥や雲のみね

二 上記の森鴎外「写本」に出て来る「榎島参詣」というのは、日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』所収の「屠龍之技」でも、「榎島参詣」だが、『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(松尾知子編)」の「享和一 一八〇一 辛酉 四一歳 二月二十一、江ノ島参籠」とあり、「江ノ島」であろう。その翌年の正月にも「江ノ島参詣」があり、抱一と「江ノ島」とは深い関係にある(「江ノ島神社」を「亀図天井図」も制作している)。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十三 百合(抱一の「百合図」周辺)

抱一・百合図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「百合図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 下記のアドレスで、尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双・東京国立博物館蔵)と酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双・東京国立博物館蔵)との秘めたるヒストリーというのを見てきた。 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26

 さらに、続けて、下記のアドレスで、その「銀地」の酒井抱一筆「夏秋草図屏風(二曲一双 東京国立博物館蔵)と、その下絵なる「金地(下絵)」の抱一筆「夏秋草図屏風草稿」(二曲一双 出光美術館蔵)とのヒストリーを見てきた。
 
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-28

 ここで、上記のアドレスで紹介した、「風神雷神図屏風(光琳筆)・夏秋草図屏風(抱一筆)」(重要文化財)について、次のアドレスの、「国立博物館所蔵 国宝・重要文化財」の「解説文」を掲載して置きたい。

http://www.emuseum.jp/detail/100321/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=1&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=201&num=2

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg

上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵

【宗達の「風神雷神図」を光琳が模写し、その屏風の裏面に抱一がみずからの代表作を描きつけたもの。琳派の系譜を象徴的に表すこの記念的な両面屏風も、画面の損傷から守るべく、近年表裏を分離してそれぞれの一双屏風に改められた。「雷神図」の裏には驟雨(しゅうう)にうたれて生気を戻した夏草と、にわかに増水した川の流れを、「風神図」に対しては強風にあおられる秋草と舞い上がる蔦(つた)の紅葉を描く。
抱一(1761~1828)は諸派の画風を遍歴したあげく光琳の絵画に傾倒し、琳派の伝統を江戸の地に定着、開花させた。がその作風には彼の得意とした俳諧の感覚に通じる風雅な趣が支配的で、琳派伝統の「たらし込み」の手法も抒情的な草花表現にもっぱら活用されている。この図は銀地の上に可憐な草花を描いた抱一らしい優美な作品であるが、一方、色の濃淡の変化を避けて明快な色彩効果をねらっている点に注目したい。抒情性と装飾表現の自然な統合を目指した、おそらく抱一画の到達点を示す一作ということができる。両隻に「抱一筆」の落款、「文詮」の朱文円印がある。】

 この抱一の「夏秋草屏風図」の右隻に、「驟雨(しゅうう)にうたれて生気を戻した夏草」の一つに、「百合」が描かれている。この「百合」の一輪は、冒頭の『鶯邨画譜』所収「百合図」と合致する。

百合図二.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)の「部分・拡大図」

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十二 萩(抱一の「萩図」周辺) 

抱一・萩.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「萩図」の賛(発句=俳句)は、抱一自撰句集『屠龍之技』所収の次の句であろう(句形は異なっている)。

 夕露や小萩がもとのすゞり筥(『屠龍之技』所収「千づかのいね」と題するものの一句)

ここで、抱一自撰句集『屠龍之技』について、下記のアドレスで、「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の全容を見ることが出来る。

http://rarebook.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/ogai/data/E32_186.html

 その「写本」の紹介について、そのアドレスでは、下記のとおり記されている。

【 [書写地不明] : [書写者不明], [書写年不明] 1冊 ; 24cm
注記: 書名は序による ; 表紙の書名: 輕舉観句藻 ; 写本 ; 底本: 文化10年跋刊 ; 無辺無界 ; 巻末に「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮樓主人」と墨書あり
鴎E32:186 全頁
琳派の画家として知られる酒井抱一が、自身の句稿『軽挙観句藻』から抜萃して編んだ発句集である。写本であるが、本文は鴎外の筆ではなく、筆写者不明。本文には明らかな誤りが多数見られ、鴎外は他本を用いてそれらを訂正している。また、巻末に鴎外の筆で「明治三十一年十二月二十六日午夜一校畢 観潮楼主人」とあることから、この校訂作業の行われた時日が知られる。明治30年(1897)前後、鴎外は正岡子規と親しく交流していたが、そうしたなかで培われた俳諧への関心を示す資料だと言えよう。】

屠龍之技一.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「序」)

 この『屠龍之技』の、亀田鵬斎の「序」は、『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』の「屠龍之技」(追加編)を参考にすると、次のように読み取れる。

【 屠龍之技
軽挙道人。誹(俳)諧十七字ノ詠ヲ善クシ。目ニ触レ心ニ感ズル者。皆之ヲ言ニ発ス。其ノ発スル所ノ者。皆獨笑獨泣獨喜獨悲ノ成ス所ナリ。而モ人ノ之ヲ聞ク者モ亦我ト同ジク笑フ耶泣ク耶喜ブ耶悲シム耶ヲ知ラズ。唯其ノ言フ所ヲ謂ヒ。其ノ発スル所ヲ発スル耳。道人嘗テ自ラ謂ツテ曰ハク。誹諧体ナル者は。唐詩ニ昉マル。而シテ和歌之ニ効フ。今ノ十七詠ハ。蓋シ其ノ余流ナリ。故ニ其ノ言雅俗ヲ論ゼズ。或ハ之ニ雑フルニ土語方言鄙俚ノ辞ヲ以テス。又何ノ門風カコレ有ラン。諺ニ云フ。言フ可クシテ言ハザレバ則チ腹彭亨ス。吾ハ則チ其ノ言フ可キヲ言ヒ。其ノ発ス可キヲ発スル而巳ト。道人ハ風流ノ巨魁ニシテ其ノ髄ヲ得タリト謂フ可シ。因ツテ其首ニ題ス。
文化九年壬申十月  江戸鵬斎興  】

 「下谷三幅対」と称された、「鵬斎・抱一・文晁」の、抱一より九歳年長の、亀田豊斎の「序」である。この文化九年(一八一二)は、抱一、五十二歳の時で、抱一の付人の鈴木蠣潭は、二十一歳、鈴木其一は、十七歳で、其一は、この翌年に、抱一の内弟子となる。
 『鶯邨画譜』が刊行されたのは、文化十四年(一八一七)で、この年の六月に、蠣潭が二十六歳の若さで夭逝する。
その抱一が、鶯の里(鶯邨=村)の、「下谷根岸大塚村」に転居したのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、抱一が、自筆句集「軽挙観(館)句藻」(静嘉堂文庫蔵)第一冊目の「梶の音」を始めたのは、寛政二年(一七九〇)、三十歳の時である。
爾来、この「軽挙観(館)句藻」は、抱一の生涯にわたる句日記(三十数年間)として、二十一巻十冊が、静嘉堂文庫所蔵本として今に遺されている。
翻って、上記の亀田鵬斎の「序」を有する刊本の、抱一自筆句集ではなく、抱一自撰句集の『屠龍之技』は、抱一の俳諧人生の、前半生(三十歳以前から五十歳前後まで)の、その総決算的な、そして、江戸座の其角門の俳諧宗匠・「軽挙道人(「抱一」、白鳧・濤花・杜陵(綾)・屠牛・狗禅、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」、庭柏子、溟々居、楓窓)の、その絶頂期の頃の、「鶯村・雨華庵・『軽挙道人』」の、抱一(軽挙道人)自撰句集のネーミングと解して差し支えなかろう。
 ここで、この自撰句集『屠龍之技』を構成する全編(全自筆句集)の概略は次のとおりとなる。

第一編「こがねのこま」(「梶の音」以前の句→三十歳以前の句?)
第二編「かぢのおと(梶の音)」(寛政二年(一七九〇)・三十歳時から句収載?→自筆句集「軽挙観(館)句藻」第一冊目の「梶の音」)
第三編「みやこどり(都鳥)」(「梶の音」と「椎の木かげ」の中間の句収載?)
第四編「椎の木かげ」(寛政八年(一七九六)・三十六歳時からの句収載? 「庭柏子」号初見。この年『江戸続八百韻』を刊行する。「軽挙観(館)句藻」第二冊目?)
第五編「千づかのいね(千束の稲)」(寛政十年(一七九八)・三十八歳時からの句収載? 「軽挙観(館)句藻」第三冊目? 「抱一」の号初出。)
第六編「うしおのおと(潮の音)」(「千束の稲」と「潮の音」の中間の句収載?)
第七編「かみきぬた(帋きぬた)」(文化五年(一八〇八)、四十八歳時からの句収載? 「軽挙観」の号初出。)
第八編「花ぬふとり(花縫ふ鳥)」(文化九年(一八一二)、五十二歳、自撰句集『屠龍之技』編集、刊行は翌年か? 「帋きぬた」以後の句収載?)
第九編「うめの立枝」

屠龍之技二.jpg

抱一自撰句集『屠龍之技』「東京大学付属図書館蔵」(明治三十一年森鴎外「写本」)の「千づかのいね」)

 「千都かのいね」(「千づかのいね」「千束の稲」)は、『軽挙観(館)句藻』(静嘉堂文庫所蔵・二十一巻十冊)収録の「千づかのいね」(自筆句集の題名)を、刊本の自撰句集『屠龍之技』の第五編に収載したものなのであろう。
 この第五編「千づかのいね」(『日本名著全集江戸文芸之部第二十七巻(追加編二巻)俳文俳句集(日本名著全集刊行会編)』)の六句目「夕露や小萩かもとのすずり筥」が、冒頭の、
抱一画集『鶯邨画譜』所収「萩図」の賛(発句=俳句)ということになろう。
 そして、四句目の「其夜降(る)山の雪見よ鉢たゝき」の前書き「水無月なかば鉢叩百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」は、六句目の「夕露や小萩がもとのすゞり筥」にも掛かるものと解したい。
 この前書きの「鉢叩百之丞得道して空阿弥と改(め)」の、「鉢叩百之丞」は、其角の『五元集拾遺』(百万坊旨原編)に出て来る「鉢たゝきの歌」などに関係する、抱一の俳諧師仲間の一人なのであろう。

   鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世を驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       稀れなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの    鉢叩やな
  凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき    其角

 ちなみに、『去来抄』の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)に、「鉢叩月雪に名は甚之丞」(越人)の句もあり、「鉢叩百之丞」は、その「鉢叩甚之丞」などに由来のある号なのであろう。
 
  水無月なかば
  鉢叩百之丞得
  道して空阿弥
  と改、吾嬬に
  下けるに発句
  遣しける
 夕露や小萩がもとのすゞり筥

 句意は、「俳諧師仲間の鉢叩百之丞が、得度して出家僧・空阿弥となったが、折しも、小萩に夕べの露が下り、その露を硯の水とし、得度の形見に発句を認めよう」というように解して置きたい。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十一 波濤(抱一の「波濤図」周辺) 

抱一・波一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「波濤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の「波濤図屏風」(二曲一隻・メトロポリタン美術館蔵)、酒井抱一の「波図屏風」(六曲一双・静嘉堂文庫美術館蔵)、俵屋宗達の『雲龍図屏風』(六曲一双・フーリア美術館蔵)」、そして、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵・メトロポリタン美術館蔵)などについて、下記のアドレスで触れた。そのうちの抱一の「波図屏風」と光琳の「波濤図屏風」関連などを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30

(再掲)

抱一・波二.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」(六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館蔵)
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 この光琳の「波濤図屏風」の解説中の、「波濤をかたどる二本の墨線の表現」というのは、いわゆる、「二管の筆を同時に握って描く『双筆』という中国由来の伝統的な水墨技法」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」)を指しているのであろう。
 そして、「其一の波濤図―北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの(久保佐知恵稿)」のサブタイトルの「北斎と共有し、光琳・応挙から得たもの」というのは、これは、其一よりも、その其一の師の「酒井抱一」に、より冠せられるものという思いを深くする。
 特に、光琳の「波濤図屏風」は、抱一の『光琳百図』に収載されており、抱一、そして、其一の「波濤図」関連のものは、すべからく、ここからスタートしていると解して差し支えなかろう。

光琳百図・波.jpg

『光琳百図』(酒井抱一編・筆)所収「波濤図」(「ARC浮世絵データベース」)
https://ja.ukiyo-e.org/image/met/DP266705_CRD

 上記の(再掲)の最初に、抱一の「波図屏風」(紙本銀地墨画着色)を掲げたが、抱一には、「銀地」ではなく「金地」の「波図屏風」(二曲一双)もある。

抱一・波三.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図でき絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」中の裏面に「池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした」の、その孤邨の作は次のとおりである。

孤邨・千鳥.jpg

池田孤邨筆「千鳥群図」(酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)裏面)

 この池田孤邨より五歳年長の、抱一の一番弟子の鈴木其一には、次の「松に波濤図屏風」がある。

其一・波.jpg

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その十) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その十 藤(抱一の「藤図」周辺)

抱一・藤一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藤図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 先に、次のアドレスで、鈴木蠣潭画・酒井抱一賛の師弟合作の「藤図扇面」について紹介した。上記の「藤図」は、その蠣潭の「藤図」と関係が深いものなのであろう。その画像とその一部の紹介記事を再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24

(再掲)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)

 この抱一・蠣潭の合作の「藤図扇面」の、抱一の賛(発句=俳句)「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」は、抱一句集『屠龍之技』には収載されていないようである。その『屠龍之技』に収載されている句の中では、下記のものなどが、その賛の発句(俳句)に関係があるような雰囲気である。

   文晁が畫がける山水のあふぎに
 夕ぐれや山になり行(く)秋の雲

 この抱一の句は、前書きの「文晁が畫がける山水のあふぎに」(畏友・谷文晁が描いた「山水図」の扇)に、画・俳二道を極めている「酒井鶯邨(抱一)」が、その「賛」(発句=俳句)を認めたものなのであろう。

 当時の江戸(武蔵)の、今の「上野・鶯谷」(「下谷」=「鶯邨」=「鶯村)の「三幅対」といわれた「亀田鵬斎(儒学者・書家・文人)・酒井抱一(絵師・俳人・権大僧都)・谷文晁(絵師=法眼・松平定信の近習)の、この三人の交遊関係は、当時の「化政文化期」を象徴するものであった。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-25

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

(再掲)

ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。
上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

其一・燕子花.jpg

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 この『草花十二ヵ月画帖』のものについては、下記のアドレスで紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-05

其一・藤一.jpg

鈴木其一筆『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)所収「四月」(藤図・絹本著色、二〇・二×一八・四㎝)

 これらの其一の画帖は、抱一の『鶯邨画譜』(版本)を念頭に置いてのものとうよりも、抱一の『絵手鑑』(肉筆画)に近い、其一の「絵手本」として制作されたものなのかも知れない(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説137(岡野智子稿))。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その九) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その九 藪柑子に竹籠(抱一の「藪柑子と竹籠図」周辺)

  次のアドレスの、「本でだどる琳派の周辺」(「国立国会図書館(国立国会図書館デジタルコレクション)」)で、中村芳中の『光琳画譜』と酒井抱一の『光琳百図』・『尾形流略印譜』
について、次のように紹介している。

http://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/20/1.html#anchor1

【芳中の『光琳畫譜』が出版されてから13年後の文化12(1815)年、同じく江戸の地で、酒井抱一(1761-1828)が光琳の百回忌に遺墨展を催しました。その際に刊行されたのが『光琳百図』と『尾形流略印譜』の2冊です。ごく少部数の私家版としてつくられた初版本の表紙には、『光琳百図』に菊花、『尾形流略印譜』には燕子花をモチーフにした模様が雲母刷
きらずりで施されていました。菊と燕子花はいずれも光琳が得意とした題材で、この表紙デザインも抱一の光琳研究の成果といえます。『光琳百図』は抱一が光琳の作品を模写し集めたもので、表紙を簡素に変えて色々な版元から何度も再販されました。
琳派の造形は京都ではじまり、こうした版本を通じて江戸を中心とした庶民にも広く浸透していきました。 】

 これに続いて、『鶯邨画譜』について、次のように紹介している。

【書名の鶯邨とは酒井抱一の俳号で、抱一が49歳で移り住んだ根岸が鶯で有名だったことからきています。この資料は、絵手本として出版されました。梅の枝を描いた絵は『光琳百図』にある尾形光琳の模写に似ており、抱一が光琳の作品に学んでいたことがわかります。その他には和の草花や縁起物を描いたもの、平安時代から続くやまと絵という伝統的な様式の人物画が収められています。特徴的な美しいグラデーションは、拭きぼかしという版木をしめらせて刷る錦絵の高度な技法によるものです。
『光琳百図』と『尾形流略印譜』同様、初版本(1815年)の表紙は波模様の雲母刷でした。波も光琳の代表的モチーフで、のちに「光琳波」と呼ばれるようになり、特に工芸の分野ではよく利用されています。 】

 この『鶯邨画譜』も、そして、『光琳百図』・『尾形流略印譜』も、版本なのであるが、抱一には、別に『絵手鑑』(一帖七十二図・絹本著色墨画・「静嘉堂文庫美術館」蔵)という、肉筆画の画帖がある。
 この『絵手鑑』については、下記のアドレスで、「冨士山」「蓮池に蛙」「八鶴」の三点を紹介している。

http://www.seikado.or.jp/collection/painting/006.html

【酒井抱一(1761~1828)は、姫路藩主の弟として生まれ、尾形光琳の画風を継承し江戸で新たな展開をみせた江戸琳派を代表する画家。全72図が画帖の表裏に貼りこまれた本作は、抱一が光琳のみならず、狩野派・土佐派・円山四条派・中国画など幅広い画技を習得していたことを如実に物語る作品。抱一自身による箱書のある内箱、酒井道一(どういつ)(抱一の画風に傾倒し、雨華庵(うげあん)四世を継ぐ)による外箱を備え、装丁(そうてい)も当初のものと考えられる。伊藤若冲の版画帖『玄圃瑤華(げんぽようか)』の図様を取り入れた画や、当時流行していた「古画趣味」を反映した王朝の古典人物、俳画など、おさめられた画はバラエティーに富む。抱一の多彩な魅力がつまった珠玉の画帖である  】

絵手鑑一.jpg
 (十九)富士山    (二十一)蓮池に蛙     (三十)八鶴

 この『絵手鑑』は「七十二図」(各二五・一×一九・七㎝)から成るが、上記の括弧書きは、その収載番号である(『琳派五―総合―』所収「静嘉堂文庫美術館蔵酒井抱一筆「絵手鑑について」(玉蟲敏子稿)」)。
 その(六十五)に「藪柑子」と題するものがあるが、抱一は、この「藪柑子」に、「燕子花」などと同じような特別の思い入れが有ったのかも知れない。その句集の『屠龍之技』では、「藪柑子」の句は目につかない。

抱一・藪柑子.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「藪柑子と竹籠図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 鈴木其一には、『草花十二ヵ月画帖』(各一六・七×二一・二㎝)の「十二月」に「雪と藪柑子」と『月次花鳥画帖』(各二〇・二×一八・四㎝)に「藪柑子」が収載されている。

其一・藪柑子一.jpg

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』所収「雪と藪柑子」図(「MOA美術館」蔵)

其一・藪柑子二.jpg

鈴木其一筆『月次花鳥画帖』所収「藪柑子」図(「細見美術館」蔵)

 其一の孫弟子に当たる中野其玉の『其玉画譜』にも、「藪柑子」は収載されている。

其玉・藪柑子.jpg

中野其玉筆『其玉画譜』所収「藪柑子」(個人蔵)
http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その八) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その八 燕子花(抱一の「燕子花図」周辺)

抱一・燕子花.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「燕子花図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 尾形光琳の、「燕子花図屏風」(国宝・根津美術館蔵)・「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)・「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝・東京国立博物館蔵)・「伊勢物語八橋図」(東京国立博物館蔵・掛幅)・「燕子花図」(大阪市立博物館蔵・掛幅)そして、尾形乾山の「八ツ橋図」(国(文化庁)・重要文化財(美術品))などについては、次のアドレスで簡単な紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06

 また、酒井抱一の、「八橋図屏風」(出光美術館蔵)・「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)、そして、『光琳百図』(尾形光琳画・酒井抱一編)所収「燕子花図屏風」などについて、下記のアドレスで紹介をしている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27

 これらの、光琳・抱一の次代の江戸琳派の旗手・鈴木其一の「燕子花」図関連の大作ものは目にしない。しかし、其一には、「雑画巻」(出光美術館蔵)や『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)などで、その小品ものの「燕子花」図を目にすることが出来る。

其一・燕子花.jpg

鈴木其一筆『草花十二ヵ月画帖』(MOA美術館蔵)所収「五月」(紙本著色、十六・七×二一・二㎝)

 「月次の草花を十二枚に描き、画帖としたもの」の、「五月」の図柄である。この図柄は「藤と燕子花」であろう。其一は、この画帖とは別に、『月次花鳥画帖』(細見美術館蔵)という画帖もあり、その画帖には「燕子花」図はなく、「藤」図が「四月」に描かれている。
 其一には、これらの画帖の他に、「十二ヵ月花木短冊」(個人蔵)、「十二ヵ月花鳥図扇面」(ファインバーグ・コレクション)、「十二ヵ月図扇」(太田記念美術館蔵)など、「四季の花卉」などを「十二ヵ月に描き分ける」という趣向のものが多い。この趣向は、「師の抱一が確立したもので、人気が高く、かなりの需要があったようである」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説135 十二ヵ月花鳥図短冊」)。
 上記の『鶯邨画譜』所収「燕子花図」は、上記の其一の『草花十二ヵ月画帖』所収「五月」(「燕子花」図)のマニュアル(抱一筆)と解しても差し支えなかろう。
 そして、この「燕子花」図は、「抱一→其一→其明→其玉」と、脈々と受け継がれて行くのである。

其玉・燕子花.jpg

中野其玉筆『其玉画譜』(小林文七編・ARC古典籍ポータルデータベース)所収「燕子花図」
www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=BM-JH398&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その七) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その七 桜町中納言(抱一の「桜町中納言図」周辺)

桜町中納言・鶯邨画譜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29

(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)
没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み,風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

 また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01

(再掲)

ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09

(再掲)

其一・桜町中納言.jpg

鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵
【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)

 ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
 さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

(箱表) 桜町中納言  竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印

 この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。

一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal

二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その六) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その六 白椿に楽茶碗(抱一の「白椿に楽茶碗」と「白椿・楽茶碗之句」関連)

白椿・楽茶碗一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「白椿に楽茶碗図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 抱一句集『屠龍之技』には、「白椿」の句は目にしないが、次の「黒楽焼茶碗」の句が収載されている。

 黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり

 中七の「茶碗の欵(かん)や」の「欵(かん)」は、「親しみ・よしみ」の意なのであろうか。下五の「いなびかり」は、季語の「稲光」で、「雷」が夏の季語とすると秋の季語ということになる。蕪村にも「稲妻」(稲光)の句が多い。

  稲づまや浪もてゆへる秋津島 (蕪村 明和五年=一七六八 五十三歳)
  いな妻の一網うつや伊勢の海 (同上)
  いな妻や秋津島根のかゝり舟 (同上)
  稲妻や海ありがほの隣国   (同上)

 「稲妻」と大景の「秋津島(日本の古称)・伊勢の海・秋津島根(日本の古称)・隣国(中国・朝鮮)」との取り合わせの句であろう。

  稲妻にこぼるゝ音や竹の音  (蕪村 年次未詳)

 視覚的な「稲妻」と聴覚的な「竹の音」との取り合わせの句、何とも感覚的な句作りである。
 抱一の句も、「黒楽焼茶碗」の「黒」と「稲光」の「一閃・閃光」との取り合わせの句と解したい。句意は、「常時慣れ親しんでいる黒楽焼茶碗、一閃の稲光で、その黒さが見事である」というようなことであろう。

  古庭に茶筌花咲く椿哉  (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この蕪村の句の句意は、「茶室の古庭に茶筌のような椿が咲いている」というようなことであろう。抱一の、上記の「白椿に楽茶碗図」は、「茶室の黒焼茶碗の脇に茶筌のような白椿が活けられている」というような光景であろう。

蠣潭・楽茶碗.jpg

鈴木蠣潭筆「白椿に楽茶碗図扇面」一幅 紙本著色 一六・〇×四五・六㎝ 個人蔵

 抱一の附人で、抱一の助手として傍に仕えた鈴木蠣潭の「白椿に楽茶碗図」である。この蠣潭は二十六歳の若さで狂犬病により急死した。その跡を継いだのが、当時、二十二歳の鈴木其一である。その其一にも、同じ画題のものがある。

其一・楽茶碗.jpg

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗図」(「諸家寄合書画帖」のうち)一枚(一帖のうち)絹本著色
二五・七×二九・三㎝ 個人蔵
【 黒楽茶碗に白椿の折り枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品計八十三葉を貼り込んだ画帖の一葉である。其一に関係の深い人物としては、師の酒井抱一、谷文晁・文一父子、松本交山、大田南畝などがいる。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを効かせたうるおいある筆で表している。また、口造りや腰の部分に見える粗く擦れた筆致は、艶のないかせた肌合いを表現したものと思われ、細部に脂ののった其一の画技が冴える。黒楽茶碗の右端に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。署名の下に「元長」(朱文壺印)が捺される。  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(岡野智子他執筆)』所収「作品解説65(久保佐知恵稿)」)

其一には、掛幅ものの「白椿に楽茶椀花鋏図」もある。また、「鈴木其一書状」の中に、「小絹茶碗椿出来仕り候間御使へ差上申候」と記したものものあり、「茶道や華道に嗜みのある江戸の文化人に好まれた画題であった」のであろう(『岡野他・前掲書』所収「作品解説87」)。

其一・楽茶碗 掛幅.jpg

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗花鋏図」 一幅 絹本著色 九㈣・六×三二・四㎝ 細見美術館蔵

 こういう、蠣潭や其一の「白椿に楽茶碗図」を見てくると、冒頭の『鶯邨画譜』の「白椿に楽茶碗」の画題というのは、抱一よりも、蠣潭や其一が好んで手掛けたもののように思われる。

 「酒井抱一書状巻」(ミシガン大学本)の中に、次のようなものがある。

「此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 」

 この「必庵」は、鈴木蠣潭の号の一つであり、蠣潭宛てのものと解されているが、其一は、蠣潭から、この号を継受されており、同書状に出てくる「為三郎」(鈴木其一)の号の一つの鈴木其一宛とも解されている(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

 酒井抱一の画業の背後には、抱一を取り巻く、蠣潭・其一等々の、「雨華庵」工房の優れた絵師たちが、その手足になっていたことは、この書状などから明瞭になって来よう。この『鶯邨画譜』などは、とりわけ、鈴木其一の「雑画巻(一巻)」(出光美術館蔵)などと極めて親近感の強いものであることは付記して置く必要があろう。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その五) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その四 月に梅(抱一の「月に梅図」と「月に梅之句」関連)

月に梅図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「月に梅図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 この「月に梅図」の「月」は、左側の薄い「三ケ月」のようなものなのであろうか。ほとんど、この版本では識別ができない無月のような感じである。抱一句集『屠龍之技』に、次のような前書きのある一句がある。

   葛城とゆふ謡曲
   一聲一調をうけ
   たまわりて
  聞け春の夜の月なし梅白し

 どことなく、この句が、上記の「月に梅図」の情景を醸し出している印象を受けるのである。「月に梅図」というのは、夜の情景なのであろう。謡曲「葛城」というのは、「一面雪の葛城山を舞台とする夢幻能(前シテ=葛城山の女、後シテ=葛城明神)」で、この「月の梅図」の背後には、その夢幻能の「葛城」の旋律が流れている。その「一聲一調」を耳にしながら、「春の夜の白梅」を目にしていると、その夢幻能「葛城」の一面の雪のような「白梅」が浮かび上がってくる。その「白梅」の白さで、上空の月さえ、まるで「夜の月なし」の光景のように、その白さのみが浮かび上がってくる。
 
 しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり (蕪村 天明三年=一七八三 六十八歳)

 蕪村の絶吟である。「白梅の清浄馥郁たる香りの中に、初春を迎える夜が白じらと明けようとしている。もはや私の前にはこうした芳香の中に明ける夜ばかりとなったことよ。薄明の浄土の到来を賛嘆し、心穏やかに新たな旅に立つ思いを託した。臨終三吟の絶吟」(『蕪村全集一 発句(尾形仂・森田蘭校注)』)。

 しら梅に明(あく)る夜(よ)ばかりとなりにけり (蕪村)
 聞け春の夜(よる)の月なし梅白し        (抱一) 

 この蕪村と抱一の「白(しら)梅」の、この両句が、ここに確かに相互に響き合っていることを実感する。そして、その背景に、謡曲「葛城」と、この抱一の「月と梅図」をもってくることに、いささかの躊躇も感じない。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その四 菜の花(抱一の「菜の花図」と「菜の花之句」関連)

菜の花図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「奈の花図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』の「菜の花」の句に次のような句がある。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 

 この句の情景は、どのようなものなのであろうか。とにかく、抱一の句は、其角流の「比喩・洒落・見立て・奇抜・奇計・難解」等々、現代俳句(「写生・写実」を基調とする)の物差しでは計れないような句が多い。
 しかし、江戸時代の俳句(発句)であろうが、現代俳句であろうが、「季題(季語)・定形。切字・リズム・存問(挨拶)・比喩・本句(歌・詩・詞)取り」等々の、基本的な定石というのは、程度の差はあるが、その根っ子は、同根であることは、いささかの変わりはない。
 ここで、同時代(江戸時代中期=「蕪村」、江戸時代後期=「抱一」)の、同一系統(其角流「江戸座」俳諧の流れの「蕪村・抱一」)の、蕪村の同一季題(季語)の句などを、一つの物差しにして、この抱一の句の情景などの背景を探ることとする。

  菜の花や和泉河内へ小商ひ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この「和泉河内」は、現大阪の南部で、当時の「菜種油」の産地である。一面の菜の花畑が、この句の眼目である。抱一の「菜の花や」の「上五『や』切り」でも、「菜種油=一面の菜の花畑」は背後にあることだろう。

  菜の花や壬生の隠れ家誰だれぞ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この句の「壬生」は、現京都市中京句で、「壬生忠岑の旧知」である。抱一の句の「道の幅」の「道」も、抱一旧知の「「誰だれ」が棲んでいたのかも知れない。

  菜の花や油乏しき小家がち  (蕪村 安永二年=一七七三 五十八歳)   

 「一面の菜の花畑」は「満地金のごとし」と形容される。その一面の菜の花畑とその菜の花から菜種を取る農家の家は貧しい小家を対比させている。ここには「諷刺」(皮肉・穿ち)がある。抱一の句の「落(おとし)たる」「道の幅」などに、この「穿ち」の視線が注がれている。

  菜の花や月は東に日は西に   (蕪村 安永三年=一七七四 五十九歳) 

 蕪村の傑作句の一つとされているこの句は、「東の野にかぎろひの立つ見えて顧りみすれば月傾きぬ(柿本人麿『万葉集』)の本歌取りの句とされている。しかし、洒落風俳諧に片足を入れている蕪村は、その背後に、「月は東に昴(すばる)は西にいとし殿御(とのご)は真中に」(「山家鳥虫歌・丹後」)の丹後地方の俗謡を利かせていることも。夙に知られている。この句は、蕪村の後を引き継いで夜半亭三世となる高井几董の『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』にも採られており、俳諧撰集『江戸続八百韻』(寛政八年=一七九六、三十六歳時編集・発刊)を擁する抱一も、おそらく、目にしていると解しても、それほど違和感はないであろう。
 ここでは、その『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』(几董編著)ではなく、『続明烏』(几董編著)の「菜の花や」(歌仙)の「表(おもて)」の六句を掲げて置きたい。

  菜の花や月は東に日は西に    (蕪村、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し  (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの     (几董、季語「雪」=冬)

 この「俳諧」(「歌仙」=三十六句からなる「連句」)の一番目の句(発句)を、抱一の句(俳句=発句)で置き換えてみたい。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (抱一、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)      (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと  (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し   (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの      (几董、季語「雪」=冬)

 これは、蕪村の発句が、生まれ故郷の「浪華」(「和泉河内」を含む)や現在住んでいる京都(「島原」)辺りの句とするならば、抱一の句は「武蔵」、そして、『軽挙館句藻』に出てくる「千束村(浅草寺北の千束村)に庵むすびて」の「吉原」辺りの句と解したい。
 その上で、当時の抱一に焦点を当てて、これら六句の解説を施して置きたい。

(発句)菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅  抱一

 簇(むら)」は、「菜の花の叢(むら・群生)の意に解したい。「道の幅」の「幅」は、「ふち・へり」の方が句意を取りやすい。句意は、「(千束村から吉原に行く)道すがら、その道の両側には、菜の花が、まるで、取り残されたように、群れ咲いている」。

(脇)山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

 「雪ながら山もと霞む夕べかな(宗祇)/行く水遠く梅匂ふ里(肖白)」(『水無瀬三吟』)を踏まえている。抱一に「菜の花に雲雀図」(「十二ケ月花鳥図・二月」)がある。

(第三)渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて  几董

 「詩商人(あきんど)年を貧(むさぼ)る酒債かな」(其角『虚栗』)を踏まえてのものであろう。抱一は、文化三年(一八〇六、四十六歳)の、其角百回忌に際し、「其角肖像百幅」を制作するとの落款(印章)があるほど、其角に私淑していた。

(四)御国(おくに)がへとはあらぬそらごと      蕪村

 抱一は、天明元年(一七八一、二十一歳)に。兄の姫路藩主・忠以に従い上洛し(光格天皇即位の奉賀)、その折り姫路城まで足を伸ばしている。大名家にとっては、「御国替え」というのは、一大事のことであった。

(五)脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し     樗良

  寛政九年(一七九七、三十七歳)に出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗る前は、酒井雅楽頭家の藩主に次ぐ、次男の「忠因(ただなお)」がその本名であり、脇差は必携のものであったろう。

 もとより、上記のものはバーチャル(仮想の「そらごと」)のものであるが、町絵師風情の蕪村よりも、風流大名家の一員の抱一の世界に、より多く馴染むような、そんな内容の運びであるということを付記して置きたい。

花鳥図一.jpg

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「一月 梅図に鶯図」「二月 菜花に雲雀図」「三月 桜に雉子図」「四月 牡丹に蝶図」「五月 燕子花に水鶏図」「六月 立葵紫陽花に蜻蛉図」

花鳥図二.jpg

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「七月 玉蜀黍朝顔に青蛙図」「八月 秋草に螽斯(しゅうし=いなご)図」「九月 菊に小禽図」「十月 柿に小禽図」「十一月 芦に白鷺図」「十二月 檜に啄木鳥図」

【 十二の月に因む植物と鳥や昆虫を組み合わせ、余白ある対角線構図ですっきりかつ隙のない構成で描き出す。いかにも自然だと共感できる姿が選び抜かれ、モチーフ相互の関係も絶妙に作られている。多くの十二ヵ月花鳥図の中で、唯一、終幅に「文政癸未年」(文政六年=一八二三)と年紀があり、抱一六十三歳の作とわかる基準作。抱一が晩年に洗練を究めた花鳥画の到達点であり、伏流となって近現代まで生き続ける江戸琳派様式の金字塔である。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説162(松野知子稿)」)

 この「十二ヵ月花鳥図」は、十二の月に因む花と鳥(虫)とを組み合わせた連作もので、上記の「宮内庁三の丸尚蔵館本」の他に、「畠山記念館本」「出光美術館本」「香雪美術館本」「ブライス・コレクション本」「ファインバーグ・コレクション本」などが現存している。  
これらは、その制作当初はいずれも六曲一双の屏風に貼られていたと推察されている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。そして、「『十二ヵ月花鳥図』は好評を得たらしく、いくつもの作例があるが、なかには構図に締まりのないものや、緊張感の緩んだ筆致も見られる。雨華庵には多くの弟子を抱えた工房を形成しており、『十二ヵ月花鳥図』のような手のかかる作品の注文に、複数の弟子が分担して関与していた可能性は低くない」と指摘している(岡野「前掲稿」)。
抱一の作品には、最初の弟子(抱一の付き人)の鈴木蠣潭や蠣潭の後継者の鈴木其一などの代筆などか多いことは、夙に知られているところで(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)、
この抱一の晩年の頃の『十二ヵ月花鳥図』の連作については、抱一の後継者となる酒井鶯蒲などが深く関わっているのであろう。
 鶯蒲が、抱一、妙華尼の養子になるのは文政元年(一八一八)、抱一、五十八歳、鶯蒲が十二歳の時であった。文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、二十一歳)の抱一の年譜に「鶯蒲とともに扇子を水戸候に献上」とあり、抱一の晩年の頃には、其一以上に、この鶯蒲などの出番が多かったことであろう。
 ここで、抱一の時代(江戸時代)の絵画というのは、チーム(工房など)の共同(協同)
制作などをベースにしており、作者に代わって制作するなどの、いわゆる代筆などにおいても、今よりも寛容の度合いは緩やかなものであったということは理解して置く必要があろう。
 これは、当時の俳諧(俳句・連句)の世界においては、絵画の世界より以上に、チーム(座)をリードする主宰者(宗匠=捌き、助手=執筆)の「選別・推敲・一直(手直し)」などが基本になっており、その作者のオリジナル(独創性など)なものは、逆に排除され、最終的な作品は、個々の作品というよりも、そのチーム(座)の、そのメンバー(連衆)の「総意」のようなものが、それこそ「創意」と同一視されるような世界と言っても、決して、過ちでもなかろう。
 そして、このような、「美術(絵画)と俳諧(俳句・連句)」との接点の上で、とりわけ、抱一の、この『鶯邨画譜』を見ていくと、抱一の世界の底流に流れているもの基本的なものが浮かび上がってくるような思いを深くする。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その三 糸桜(抱一の「糸桜と短冊図」と「糸桜之句」関連)

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 この『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」の「短冊」に書かれている句は、抱一句集『屠龍之技』に、次のように前書きを付して収載されている。

   墨子悲絲
 そめやすき人の心やいとざくら

 これは、抱一(俳号・屠龍)が師筋に仰いでいる其角流の「謎句」的な句作りである。そして、抱一に負けず劣らずの其角好きの蕪村にも、次の一句がある。

  恋さまざま願ひの糸も白きより (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 この蕪村の句の季語は「願ひの糸」(七夕の、願いを祈る五色の糸)である。句意は、「七夕の宵に、女子たちが、さまざまな願い事を五色の糸に託しているが、今は無垢の白い糸も、やがて様々な恋模様を経て、一つのいる色に染め上げて行くことだろう。そのことを中国の墨子さんは嘆じているが、恋も人生も、その定めにあがなうことはできないであろう」というようなことであろう。

 蕪村には、もう一句ある。

  梅遠近(おちこち)南(みんなみ)すべく北(きた)すべく
                  (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 「梅遠近(おちこち)」の「チ音」、「南(みんなみ)すべく北(きた)すべく」の「ク音」と、リズムの良い句である。句意は、「梅の花が近くにも遠くにも咲いている。さい、南の道を行こうか、それとも、北の道を行こうか、ほとほと困ってしまう。そのことを中国の揚子さんは嘆じているが、そういう逡巡もまた、人間の定めのようなもので、それにあがなうことはできないであろう」というようなことになろう。

 この蕪村の二句は、中国の古典の『蒙求(もうぎゅう)』に出て来る、「墨子悲絲(ぼくしひし)」、「楊朱泣岐(ようしゅきゅうき)」という故事に由来があるものである。
 
 淮南子曰 (えなんじにいわく)
 楊子見逵路而哭之(ようしきろをみてこれをこくす)
 為其可以南可以北(そのもってみなみにすべく、もってきたにすべきがなり)
 墨子見練絲而泣之(ぼくしれんしをみてこれをなく)
 為其可以黄可以黒(そのもってきにすべく、もってくろにすべきがなり)
 高誘曰(こういういわく)
 憫其本同而末異(きほんおなじくして、すえことなるをあわれむなり)

 蕪村は、享保元年(一七一六)の生まれ、抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、蕪村が四十五歳年長である。抱一の俳諧の師の馬場存義は、元禄十六年(一七〇三)生まれ、
蕪村の俳諧の師の早野巴人は、延宝四年(一六七六)生まれで、巴人が亡くなった後の、実質的な巴人俳諧(夜半亭俳諧)の継承者は存義であった。
こと座を同じくする、いわば、兄弟子というような関係にある。
 すなわち、江戸時代中期の「画・俳」二道を究めた蕪村と、江戸時代後期の、これまた「画・俳」二道を究めた抱一とは、「其角・巴人・存義」を介して、こと「俳諧」の世界においては、身内のような関係にあったということになろう。

 ここまで来ると、冒頭の『鶯邨画譜』の「糸桜と短冊図」と、『屠龍之技』の「糸桜之句」については、もはや、付け加えるものもなかろう。
それよりも、抱一関連のもので「蕪村」に関するものは、まず目にすることは出来ないが、「画・俳」二道を究めた同門ともいうべき、「中興俳諧」と「日本南画」の旗手ともいうべき蕪村への、「中興俳諧(芭蕉復古俳諧)と其角俳諧(洒落・粋俳諧)との二道」と「江戸琳派(その創始者)」を目指している抱一の、一つのメッセージと解することも出来るのかも知れない。

(再掲) 「其角・巴人・存義・蕪村・抱一」の世界

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

抱一・其角肖像二.jpg

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。

(歌仙) 柳ちり (底本『反古ぶすま』 寛延三年以前の作と推定)
 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ     蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月      李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに        百万(旨原)
(以下 略)

(歌仙) 思ふこと (底本『東風流』 宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人       宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫      春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(ねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん  雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)
 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
 そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(『寛保四年宇都宮歳旦帖(蕪村編著)』)

 寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯

(「歳旦三つ物」)
  いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
  かも川の水音にやや春を告げたり
 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱   宰鳥(蕪村の前号)
   神馬(じんめ)しづかに春の白たへ     露鳩
 谷水の泡だつかたは根芹にて          素玉
  (中略)
 名月の根分の芋も雑煮かな           嶺月
  大黒舞の気にも子(ね)の味         宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
  宝引綱(ほうびきづな)もみる喰(くひ)の紅 露長
 のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて   宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
(「歳末」)
  (前略)
 水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり  宰鳥(蕪村の前号)
(「春興」)
 梅が香や能(よき)瓶持(もち)て酒一斗    雁宕(結城)
   (中略)
 逃水(にげみづ)に羽をこく雉子の光哉     大済(下館)
   (中略)
 梅が香や画具(ゑのぐ)のはげる御所車     阿誰(関宿さか井)
   (中略)
 梅が香や隣の娘嫁(か)せし後         潭北(佐久山)
   (後略)
(軸)
 古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら        蕪村(「蕪村」の改号)
(追加) (後略)
(追附) (前略)
  四十のはるを迎(むかへ)て
 七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 存義

 寛保四年(一七四四)、蕪村、二十九歳の時、結城の砂岡雁宕の娘婿である佐藤露鳩の後援を得て宇都宮で歳旦帖を出した。歳旦帖を出したということは俳諧宗匠として一人立ちをしたということである。
 『寛保四年宇都宮歳旦帖』は、紙数九枚(十七頁)の片々たる小冊子であるが、蕪村が編集した最初の俳書であり、また、「蕪村」の号が初めて見える文献として重要な意味を持つ。
 その表紙に記された、「寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯」の「渓霜蕪村」の「渓霜(けいそう)」は、「芭蕉桃青(とうせい)のように、号を二つ重ねたものなのかも知れない。また、「谷(口)蕪村」の「渓」の意味もあるのかも知れない。また、この「霜」は、寛延三年(一七五〇)の「月夜行旅図」の落款に「霜蕪村」とあり、その関連もあるのかも知れない。
 この歳旦帖には、蕪村の句(付句を含む)は五句あるが、それは、上記のとおり、蕪村の前号の「宰鳥」の名で、「歳旦三つ物」の「発句」(「鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱」)・「脇句」(「大黒舞の気にも子(ね)の味」)・「第三」(「のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて」)、「歳末」の句(発句=俳句)「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」の四句、そして、「春興」の軸句(発句=俳句、巻軸句として一番重要な句)の、「蕪村」の号による「古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら」の句である。
 そして、さらに重要なことは、この蕪村のこの「軸」句の後に、「追加」として、「東都(江戸)」俳人、さらに続けて、「追附」として、同じく、「東都(江戸)」の俳人の句を続けて、その「巻末」の句に、存義の「四十のはるを迎(むかへ)て」の前書きのある七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 」の句を以て、この歳旦帖を締め括っているのである。
 すなわち、「蕪村」の改号披露を兼ねての、俳諧宗匠として一人立ちを意味する「(宗匠)立机」披露の初「歳旦帖」を刊行するにあたり、その最高後援者の、お墨付けを与える役として、実質上、亡き夜半亭一世宋阿こと早野巴人の『夜半亭俳諧』を引き継いだ、江戸座の総宗匠格の馬場存義が、この句を蕪村に下賜して、江戸座の俳諧宗匠としての蕪村を認知したということを意味しよう。
 そして、その存義を頂点とする蕪村を巡る先輩格の江戸座の宗匠の面々が、雁宕(結城)・
大済(下館)・ 阿誰(関宿さか井)・潭北(佐久山)・露鳩(宇都宮)等々ということになろう。
 その俳諧宗匠として一人立ちをした、当時、二十九歳の蕪村が、六十二歳と老齢を重ねた安永六年(一七四四)に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」と、当時、十七歳の酒井抱一が、蕪村と関係の深かった、その馬場存義の江戸座俳諧に入門して来るのである。

 これは、「画・俳」の二道を極めた、日本南画の大成者の一人でもある与謝蕪村と、ともすると、「江戸琳派の創始者」として、その「画」道の人としのみに見られがちの酒井抱一が、実は、蕪村と同じ宝井其角に通ずる、江戸座の俳諧宗匠の大立者の馬場存義を介して、「俳」(俳諧=連句・俳句)の世界の人でもあったということと、それに併せ、「浮世絵・狂歌・漢詩・茶道・能」等々に通じた、蕪村以上のディレッタント(多種多用な芸術や学問を趣味として愛好する好事家などを意味する)であることを、思い知るのである。

 ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二 尺八(抱一の「尺八図」と「尺八之句」関連)

尺八一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「尺八図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』には、「尺八」の句は見当たらない。酒井抱一俳画集『柳花帖』に、次の一句がある。

14 浴衣図  紫陽花や田の字つくしの濡衣 

 この句は、『屠龍之技』では、「江戸節一曲をきゝて」の前書きが付して収載されている(句形は「紫陽花や田の字盡しの濡ゆかた」)。
 この「江戸節」とは、「江戸浄瑠璃のうち、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)の肥前節、江戸半太夫の半太夫節、十寸見河東(ますみかとう)の河東節の三流」をさしてのもののようであるが、抱一の時代ですると、「河東節」ということになろう。
 それは吉原文化と深い関わりをもつもので、豊後節や常磐津節が人気を博するようになると、河東節は吉原などのお座敷での素浄瑠璃として、江戸通人や富裕層に愛好されるように様変わりしてくる。
 抱一は、酒井雅楽頭家の次男坊で、長兄(忠以)が二代目姫路藩主になり、参勤交代の折りには、忠以の仮養子となり江戸の留守居を仰せつかっている。しかし、抱一、十七歳時に、忠以に、長男忠道が誕生し、抱一の仮養子願いが取り下げられると、酒井家における抱一の立場は微妙となってくる。
 その酒井家における、いわば身の置き所が無いような抱一の二十歳代に、抱一は吉原(台東区千束)を舞台にして、俳諧(馬場存義門)、狂歌(大田南畝・四方側狂歌連)、浮世絵(歌川豊春系)、洒落本(北尾政演=山東京伝画「手拭合」「吾妻曲狂歌文庫」など)等の世界で、「絵に文学に才覚ある酒井家の御曹司」として、それらの世界のスターダムの一角を占めるようになってくる。

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。

三味線と尺八.jpg

葛飾北斎画「三味線と尺八」(「立命館大学」蔵)
https://ja.ukiyo-e.org/source/ritsumei

 これは、抱一と同時代の葛飾北斎の「三味線と尺八」と題する作品の一つである。北斎は、宝暦十年(一七六〇)、武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓の出で、宝暦十一年(一七六一)、神田小川町の酒井雅楽頭家別邸生まれの抱一とは一歳違いだが、両者の境遇は月とスッポンである。
 抱一が、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院殿御一代」)と、美人画を得意とする歌川派とすると、北斎は役者絵を得意とする勝川春章門であるが、寛政六年(一七九四)、三十五歳の頃、その勝川派から破門されている。
 上記の『吾妻曲狂歌文庫』に抱一が登場するのは、天明六年(一七八六)、抱一、二十六歳の頃で、その頃の北斎は、「群馬亭」の号で黄表紙の挿絵などを描いている。
抱一が、上記の北斎が描く「三味線と尺八」の図ですると、この右端の「御大尽」、そして、北斎は、左端の尺八を吹いている「幇間芸人」ということになろう。そして、この御大尽の風貌が、『吾妻曲狂歌文庫』のトップを飾る「尻焼猿人」(抱一)と瓜二つという風情なのである。
 この『吾妻曲狂歌文庫』で「尻焼猿人」を描いたのは、戯作者の雄・山東京伝(狂歌名=身軽折輔)こと浮世絵師・北尾政演(北尾派)その人であり、版元の蔦屋重三郎と手を組んで、黄表紙・洒落本などの世界のスーバースターだったのである。
 しかし、この蔦屋重三郎も山東京伝も、寛政二年(一七九〇)の「寛政の改革」(異学の禁・出版統制強化)により、「手鎖・身上半減の刑」を受け、寛政九年(一七九七)には蔦屋重三郎が亡くなり、山東京伝も厳しい出版統制下の中で、文化十三年(一八一六)に、その五十五年の生涯を閉じている。
 抱一もまた、この「寛政の改革」の余波に晒されることになるが、蔦屋重三郎が亡くなった年に、三十七歳の若さで出家し、西本願寺第十八世文如の弟子となり「等覚院文詮暉真」の法名を名乗ることになる。すなわち、「抱一上人」に様変わりするのである。

抱一上人.jpg

鏑木清方筆「抱一上人」絹本著色/三幅のうち中幅/四〇・五×三五・〇㎝/「永清文庫」蔵/明治四十二年(一九〇九)作
【 鏑木清方(一八㈦八~一九二七)は、随筆中でもよく抱一に触れ、その画風や生き方に共感を示した。三味線をつま弾く抱一を中央に、作画の支度をする遊女と禿を左右に配した三面構成の本図は、まさに清方の思い描いた抱一像。連日吉原に通った抱一の粋人ぶりをよく捉えている。清方はほかに「雨華庵風流」「雨華庵風流下絵」で抱一の肖像を手掛けており、度々抱一像に取り組んだ。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「描かれた抱一像(岡野智子稿)」)

 江戸琳派の創始者・酒井抱一の世界は、まさしく、北尾政演(山東京伝)が描く「尻焼猿人」の有髪の伊達男・抱一と、後代の鏑木清方の描く「等覚院文詮暉真」こと「抱一上人」との、この狭間の世界であるということを思い知る。

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その一 冨士(抱一の「冨士之図」と「冨士之句」)

冨士.jpg

 抱一画集の『鶯邨画譜』は、文化十四年(一八一七)、酒井抱一、五十七歳のとき刊行されたもので、生前に刊行された抱一の唯一の作品集である。「序文」は賀茂季鷹、「跋」は中井菫堂、「題詞」は佐原鞠場が草し、「煙霞供養」との自題が付されている。
 収載されている画譜は全二十五図で、次のアドレス(早稲田大学図書館蔵)で、その全容を知ることができる。上記の「冨士」図は、自題の「煙霞供養」の次に出てくる、全二十五図のトップのものである。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi04/chi04_00954/index.html

 抱一句集『屠龍之技(とりょうのぎ)』は、文化九年(一八一二)、抱一、五十二歳のときに自撰した句集で、「序文」は亀田鵬斎、「跋」は、酒井忠実・大田南畝(蜀山人)のものである。刊行は翌年と思われる。
 この系列のものは、今に、下記のアドレスの「日本俳書体系本第14巻」で、その翻刻されたものが収載されているが、それをネット上で閲覧することは出来ないようである。

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001669668-00


 唯一、現時点で、抱一句集としてネット上で閲覧できるものは、下記のアドレスの、『西鶴抱一句集』(国立国会図書館デジタルコレクション)が基本となるものであろう。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

 その『西鶴抱一句集』(国立国会図書館デジタルコレクション)に、次の抱一の「不二(冨士)」の句がある。この句は『屠龍之技』にも収載されている。

名月や筆法居士が霧の不二  抱一

 この「筆法居士」は誰なのか(?)→ これは、ずばり、狩野探幽その人のようである。

冨士二.jpg

https://books.google.co.jp/books?id=3MErFjL-jUMC&pg=PA69&lpg=PA69&dq=%E7%AD%86%E6%B3%95%E5%B1%85%E5%A3%AB&source=bl&ots=Eo_Osu53zH&sig=9wImzRTi7Crz0nhpk65XoqOm_1I&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiXmvbuuJ7dAhVOM94KHYiiDEkQ6AEwAHoECAAQAQ#v=onepage&q=%E7%AD%86%E6%B3%95%E5%B1%85%E5%A3%AB&f=false

 上記は、『日本の絵画の見方』(榊原悟著・角川選書)の、ネット上閲覧の出来るものの一つであるが、まさしく、江戸琳派の創始者・酒井抱一の、この『鶯邨画集』のトップを飾る「冨士」の図は、宗達・光琳の「冨士」図というよりも、狩野派の中枢に君臨し続けていた狩野探幽の、その「不二(冨士)」図を念頭に置いているのかも知れない。
 抱一の「不二(冨士)」図は何点かあるが、次の「富士山に昇龍図」を掲げて置きたい(これは、北斎の絶筆ともいわれている「冨士越龍図」の先行的な作品と解したい)。

https://heritager.com/?p=54251

冨士三.jpg

酒井抱一筆「富士山に昇龍図」一幅 絹本墨画 五三・八×一一一・八㎝ 東京都江戸東京博物館蔵(市ヶ谷浄栄寺伝来)

(追記)
酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図    是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図   さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図     門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図     月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図  紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図     名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図      石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図    湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図      温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図    長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図      茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図     先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」
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