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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十二 月岡芳年「官女ステーション着車之図」など) [洛東遺芳館]

(その二十二) 月岡芳年「官女ステーション着車之図」など

芳年・官女.jpg

月岡芳年 「官女ステーション着車之図」 (洛東遺芳館蔵)

 『芳年(岩切友里子編著)』に、題名は同じなのだが、図柄は異なるものが掲載されている。その「作品解説」は次のとおりである。

【 大判三枚続 明治十年(一八七七)頃 御届六月十三日 津田源七版 彫工山室春吉 個人蔵
駅舎に到着した華やかな官女の一行。明治十年の天皇の奈良への行幸に際し、皇后は一足早く東京を発たれた。この行啓は、明治九年十二月御届の「明治小史年間記事 皇后宮西京行啓鉄道館発車之図」に扱われている。 】(『岩切友里子・同著』所収「図版解説276」)

 芳年には、明治四年(一七八一)作の「東京名所高輪 蒸気汽車鉄道之全図」(大判三枚続)がある。新橋・横浜間に鉄道が開通したのは、明治五年九月で、その一年前の作である。芳年は、実際には、蒸気機関車を見ていないで、想像で描いたものであろう。
 錦絵では、明治三年(一七八〇)に、歌川国輝(二代)の「東京高輪鉄道蒸気車走行之図」などが出版されており、それらを参考にしているのであろう。しかし、芳年作のものは、機関車の乗客や傍らの見物人が、みな西洋人で、「東京名所高輪」の風景というよりも、何処か、エキゾチックな風景だが、その蒸気機関車を上の橋の方から見ている見物人は、日本人で、メルヘン的な雰囲気を醸し出している。

芳年・汽車.jpg

「東京名所高輪 蒸気汽車鉄道之全図」(大判三枚続)月岡芳年(港区立郷土資料館蔵)

 この種の錦絵(浮世絵版画)は、「横浜絵・開化絵」(補記一)といわれる。それは、江戸から東京の様代わり、すなわち、文明開化で変遷する世相の様代わりを象徴するものであった。そして、それは、「洋装・洋髪の日本人、お雇い外国人の設計・指導による洋風建築物、石橋や鉄橋に架け替えられた橋、汽車・鉄道馬車・蒸気船などの開化乗物」などが、その主たるテーマとして取り上げられた。
 また、上記の赤色を基調とする「官女ステーション着車之図」は、別称「赤絵」とも称せられた。それは、江戸末期の頃から、ベロ藍やアニリン(赤)、ムラコ(紫)といった人口顔料が輸入され、この輸入顔料により浮世絵の色合いはより鮮明になり、特に明治に入ると毒々しいまでの赤のアニリン染料が多用されことに由来する。
 「無残絵・血みどろ絵」が、その代名詞にもなっている「芳年」の「赤」は、染料に膠を入れて光らせるなど、様々な工夫が施されているようだが、この冒頭の「開化絵」では、
アニリン染料の「赤」が効果的なのであろう。
 しかし、これらの「浮世絵版画・錦絵・赤絵・横浜絵・開化絵」などは、明治四十年(一九〇七)代になると、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」(十月四日「朝日新聞」朝刊)と、その姿を消してしまうのである(補記一)。
 翻って、上記の「官女ステーション着車之図」が制作された頃の、明治十年(一八七七)には「西南戦争」があった年で、その西南戦争の錦絵が多数制作された、錦絵の華やかな時代であった。
 それは、次第に、木版印刷から、石版・活版による大量印刷の時代と変遷し、明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争の頃には、平版による大量のカラー印刷が可能となり、完全に放逐されて行くということになる。
 暁斎が亡くなった明治二十二年(一八八九)の頃は石版の全盛時代、芳年が亡くなった明治二十五年(一八九二)の頃には、写真亜鉛版の製版法が実用化され、写真の印刷が前面に出て来るという時代史的な背景がある。
 すなわち、「浮世絵師」(版元・浮世絵師・彫師・塗師)時代は終焉を迎え、それと共に、
幕末期と明治の動乱期に名を馳せた「浮世絵師・月岡芳年」は、「最後の浮世絵師」の名を冠せられ、「狩野派絵師・浮世絵師、河鍋暁斎」は、「狩野派と浮世絵の最終地点にいる暁斎」と、狩野派すら、その終焉を迎えたと言っても過言ではなかろう。
 「近代化=西欧化=文明開化=鹿鳴館時代=西欧のものなら何でもよい」という時代の流れは、絵画の世界でも、「西洋画」が次第に力を増して、それに比して、それまでの「大和絵・漢画・文人画・水墨画・浮世絵」等々は、「西洋画」に対する「日本画」の中に埋没して、上記のとおり、その終焉を遂げたと解して差し支えなかろう。

鹿鳴館.jpg

河鍋暁斎「鹿鳴館之図」(『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』の「パリス劇場表掛かり場」)
絹本着色 一面 六二・九×九〇・八cm 明治十ニ年(一八七九)作 
GAS MUSEUM がす資料館蔵

 暁斎が、「新富座妖怪引幕」を公衆の面前で揮毫したのは、明治十三年(一八八〇)で、その一年前に、新富座の夜芝居『漂流奇譚西洋劇』(河竹黙阿弥作)のための行燈絵の十六面(月岡芳年等との競作)制作され、上図は、その内の一面のものである。
長らく「鹿鳴館之図」と呼ばれ、作者が特定出来なかった作品なのだが、つい最近の、平成二年(一九九〇)に、河鍋暁斎記念博物館の下絵から、この作品は、暁斎の「『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』パリス劇場表掛かり場」のものということが判明した、いわくつきの作品なのである。
それらの下絵には、「守田勘彌座夜芝居行燈絵五枚之内」「明治十ニ年卯」との記述があり、暁斎は、他に四面の行燈絵を手掛けているのだが、その一つの『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』米国砂漠原野之図」(補記二)は、遠く、ドイツのビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館に所蔵されている。
 このビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館は、東京医学校(現・東京大学医学部)の教師として招聘されて、明治天皇の侍医(暁斎の主治医)でもあったベルツ博士の生地の博物館で、ベルツ博士が最後まで手元に置いていた暁斎の作品などが所蔵されているようである(補記三)。
 このベルツ博士(エルヴィン・フォン・ベルツ)が、当時の江戸から東京への大動乱期について、「日本国民は、十年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した五百年あまりの期間を飛び越えて、十九世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている」(『ベルツの日記』)のとおり記している。
 続けて、「もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである」と、当時の西洋文化崇拝・輸入に血眼となり、あまつさえ、「廃仏毀釈」の寺院の廃合、仏像・仏具の破壊などの風潮に対して警鐘をならしている。
 この「廃仏毀釈」の風潮の、その延長線上に、上述の、浮世絵を始め、日本固有の「公家もの・武家もの・町もの」の絵画等々を価値なきものとして排斥し、それらが結果的に、ベルツ博士らの西洋人によって、蒐集され、それぞれの母国で再生・復活を遂げているということなのであろう。
 暁斎が亡くなったのは、明治二十二年(一八八九・五十九歳)のことだが、その最期について、暁斎の主治医でもあったベルツ博士は、その「ベルツ日記」で、「現在の日本最大の画家である暁斎は、もう今日はもつまい、胃癌にかかっているのだ。かれの絵は戯画に近いが、構想が雄大で、構成の重厚な点では、他に匹敵するものがない」と、当時の日本人の誰よりも、暁斎を高く評価しているのである。
 このベルツ博士以上に、暁斎に親炙し、暁斎の門人となり、暁斎より「暁英」の画号を授かった、イギリス・ロンドン出身の建築家(「工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)」教授)、ジョサイア・コンドルが居る。
 コンドルは、暁斎没後、『河鍋暁斎―本画と画稿』(“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai”)を出版し、暁斎の名を北斎や広重の名に匹敵する画人として、その名を高からしめた。
 その他に、フランス人の、エミール・ギメ(ギメ東洋美術館の創始者)と画家のフェリックス・レガメ、イタリー人の、エドアルド・キヨソーネ(印刷技術者)、イギリス人の、モティマー・メンピス(画家)、ウイリアム・アンダソン(医師)、フランシス・ブリンクリー(軍人・ジャーナリスト)等々、暁斎の『絵日記』に登場する西洋人は枚挙にいとまがないほどである(これらについては、「芸術新潮(2015/7)」所収「暁斎タイフーン世界を席巻中(及川茂稿)」「全貌を掴ませない絵師は、いかにして葬られ、復活を遂げたか(安村敏信稿)」に詳しい)。
 
さて、暁斎画塾の門人でもあるコンドルが設計した「鹿鳴館」(華族会館)は、戦前に取り壊され、現在は存在しない。しかし、その威容は、コンドルの絵画の師・暁斎によって、上記の「鹿鳴館之図」(「パリス劇場表掛かり場」)のとおり、暁斎画として蘇っている。
また、三菱の顧問となったコンドルが、教官時代の教え子の建築家・曾禰達蔵と共に手掛けた、丸の内の赤煉瓦街・三菱館の、その一角の「三菱美術館」(旧三菱一号館美術館)で、平成二十七年(二〇一五)に、「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展で、その再生・復活を遂げている。

 翻って、平成五年(一九九三)の大英博物館での「暁斎展」(Demon of Painting;The Art of Kawanabe Kyosai」、そして、平成二十年(二〇〇八)の、京都国立博物館での、「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋-」と、爾来、「暁斎タイフーン世界を席巻中」のネーミングさながらに、着実に、その再生・復活の途を歩み始めている(補記六)。

 ここで、冒頭の「洛東遺芳館」所蔵の芳年作「「官女ステーション着車之図」に戻って、この種の開化ものが、関西の、京都の、老舗中の老舗の一角の「洛東遺芳館」に、秘かに眠っていたということは、上記のとおり、暁斎が、着実に、その再生・復活の途を歩み始めていることと軌を一にして、芳年の、その再生・復活の途も、これまた、着実に、その歩を進めて行くことであろう。

補記一 明治の錦絵

www.ndl.go.jp/landmarks/column/5.html

補記二 【河鍋暁斎】・・・・・超絶技巧の魔術師

http://blog.livedoor.jp/tama173/archives/2008-11-08.html

補記三 江戸と明治の華──皇室侍医ベルツ博士の眼

http://artscape.jp/exhibition/pickup/1199313_1997.html

補記四 三菱の人ゆかりの人 ジョサイア・コンドル(上・下)

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man12.html

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man13.html

補記四 「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展

http://mimt.jp/exhibition/pdf/outline_kyosai.pdf

補記五 河鍋暁斎展 at 京都国立博物館☆ -KYOSAI Show!-

https://blogs.yahoo.co.jp/stream_blueearth/38623899.html

補記六 他館での展覧会 - 公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館

http://kyosai-museum.jp/hp/tennrannkai.html


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十一 河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」など) [洛東遺芳館]

(その二十一) 河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」など

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縦401.0×横1704.0㎝
幕末明治の戯作者仮名垣魯文(かながきろぶん)が、明治前期に東京を代表する劇場であった新富座に贈った引幕。明治13年(1880)6月30日に、魯文の友人である暁斎が、酒を楽しみつつ4時間で書き上げたという。当時の歌舞伎界を代表する9世市川団十郎、5世尾上菊五郎 をはじめとする人気役者たちをモデルとした妖怪が、葛籠からぞろぞろと飛び出して新富座の客席へと繰り出す趣向が描かれている。個性溢れる絵師暁斎の作品としても、引幕が保存された稀有な例としても、非常に興味深い。

https://www.waseda.jp/enpaku/collection/54/

早稲田大学演劇博物館「河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕 (かわなべきょうさいが しんとみざようかいひきまく)」

新富座妖怪引幕
明治十三年(㈠八八〇)六月三〇日/㈠張/布墨画着色/縦401.0×横1704.0㎝/早稲田大学演劇博物館

幅十七m、高さ四mという歌舞伎舞台の引き幕である。いろは新聞の社長の仮名垣魯文が、開場二年目の新富座に贈ったもの。同年六月三十日午前十時頃、暁斎は門人一人を伴って京橋区銀座の二見写真館に現われ、まず二、三本の酒瓶を傾けたのち、おもむろに筆を執って一気呵成に描き上げたという。幕の天地は葛籠と、その蓋であり、そこから歌舞伎役者の似顔である妖怪たちが飛び出してくるという趣向。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木英里子稿)

引幕二.jpg

新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一(上記の右から、「地(下)=「葛籠」の一部省略)

一 「いろは新聞社長 歌舞伎新報補者」の肩書で、安政二年(一八五五=暁斎・二十五歳、魯文・二十七歳)の「安政の大地震」に係わる「安政見聞誌」(戯文=魯文、鯰絵=暁斎)以来のコンビの、「仮名垣魯文」(戯作者・報道記者)に依頼されて、明治十三年(一八八〇・暁斎=五十歳)に、河鍋暁斎が「一気呵成に描いた即興の大作、桁外れの席画」である。

二 上段(天)の「葛籠の蓋」に描かれた紋様は、右から、「市川左団次→中村仲蔵あるいは坂東家橘→市川小団次」で、右上の「奴凧」と右下の「化け猫」の中央に描かれている妖怪の「怪座頭(ばけざとう)」は、「三世中村仲三」である。
 その下の大盃を被っている妖怪(「般若湯大盃の鉢かつぎ)が、「三世河原崎国太郎」で、その左上の妖怪「蝦蟇/がま」は、「初世市川団右衛門」である。その下の妖怪(「難倫坊/なりんぼう」)が、「五世市川小団次」である。

引幕三.jpg

新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その二(上記の右から)

一 上段(天)の紋様は、右から「市川団右衛門→河原崎国太郎→中村宗十郎」である。右の鬼の妖怪(「鬼の念仏米」)は、「初世中村宗十郎」である。その左の妖怪(狐町/こまち)は、「八世岩井半四郎」である(「五世尾上菊五郎」という説もある)。
 その「狐町/こまち」の左側に、「惺々暁斎 於二見写真館 席画」と署名されている。この「二見写真館」は、下記(補記一)で見ることが出来る。

二 この暁斎の「席画」について、次のような記述がある。

【 真ん中に踊るような文字で記された「席画」という言葉は、この引幕が、二見朝隈が銀座に構えた写真館二階で、他人が見守る中で描いたことを意味している。しかも、その時、暁斎は酔っ払っていた。筆の代わりに棕櫚箒を揮った。幕の上には、歩き回った暁斎の足跡がぺたぺたと付いている。
 このすべてが、その後の画家たちには嫌われてゆく。画家はアトリエという名の密室、あるいは聖域に籠り、妖怪の代わりに生身のモデルを前にし、制作に十分な時間をかけ、しかし自らの姿を見せず、完成作のみを展覧会に出品する。観客はそれを黙って眺める。会場での会話、飲食は厳禁である。これが「美術鑑賞」と呼んで、われわれの身つけてきたいささか窮屈な態度である。
 そして、暁斎の絵の中にみなぎる力やスピード、笑いや楽しさ、パフォーマンス性や身体性を見失う結果となった。それらを美術の世界に取り戻すためには、もう一度、暁斎の絵の前に立ち、「誇張の弊」や「風調野鄙」に代わる暁斎を語る言葉を手に入れなければならない。 】『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「暁斎を語る言葉(木下順之稿)」  

引幕四.jpg

新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その三(上記の右から)

一 上段(天)の紋様は、右から「尾上菊五郎→中村鶴助→岩井小紫→中村鶴蔵」である。

二 右側の舌を出している妖怪(「大目玉のろくろ首」)は、「九世市川団十郎」である。その舌の先の中央の妖怪(「化け猫」)は、「五世尾上菊五郎」と言われている(八世岩井半四郎という説もある)。その後ろの小さな妖怪(老婆)は、「五世中村鶴助」で、一番左側の妖怪(「鼻美人」)が、「三世岩井小紫」である。

引幕五.jpg

新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その四(上記の右から、「地(下))=「葛籠」省略)

一 上段(天)の紋様は、右から「坂東家橘あるいは中村仲蔵→岩井半四郎→市川団十郎」である。

二 右側の妖怪(「天狗面の金毘羅業者」)は、初世市川左団次、中央の後ろの妖怪(「業平猿冠/なりひらさるかぶり」)は、初世坂東家橘、その手前の妖怪(「有材餓鬼/うざいがき」)は、二世中村鶴蔵である。そして、左端の蓮華の妖怪(「散蓮華の物の怪」)は、坂東喜知六とのことである。

(上記の記載は、『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木英里子稿)」に因っている。)

恣意的な「コメント」(絵文字入りコメント)

一 上記の「席画」に関しての、「誇張の弊」や「風調野鄙」については、「ことさらに筆力を示すところ、誇張の幣に陥りて、風調野鄙に流れざるを得ず」(藤岡作太郎著『近世絵画史』)から来ている。また、岡倉天心(東京美術学校長)は、「(狩野派)の最後の変革者として、狩野芳崖と橋本雅邦を高く評価する一方、河鍋暁斎については、徳川時代の狩野派が世襲ゆえに『其の技大いに退歩するに至れり』と論じたあと、『彼の河鍋暁斎氏は其の門(駿河台狩野派)より出づ』と、たったひと言で片付けているとのことである(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「暁斎を語る言葉(木下順之稿)」)。

要は、岡倉天心流の「狩野芳崖・橋本雅邦」、そして、それらに続く、「文部省美術展覧会」(「文展」「日展」)の出品画家・出品作品等を基準として、「絵画・造形芸術一般」が、その主流となり、それらに逸脱するものは枠外として、「誇張の幣」「風調野鄙」として、排斥され続けたということであろう(((;◔ᴗ◔;)))

これらは、俳諧(連句・俳句・川柳)の世界ですると、蕉風俳諧流の「高悟帰俗」「造化随順」「不易流行」「風雅の誠」などを基準として、それらに逸脱する、談林俳諧流の「夢幻の戯言(ざれごと)」(宗因)「無心所着(むしんしょじゃく)」(「心の到る所なく」、いわば「興のおもむくままによむ」ことの意。しかし、そこには、意外にことばの味が表われる)などは、見向きもされないということと、歩を一にするのであろう(((;◔ᴗ◔;)))

ここで思い起こされるのは、談林俳諧の雄である井原西鶴が、一昼夜の間に発句(俳句)をつくる数を競う「矢数俳諧」の創始を誇り、貞享元年(一六八四)に、摂津住吉の社前で一昼夜に、二万三千五百句の独吟し、以後、「二万翁」と自称しているという事実である。まさしく、暁斎の、この「新富座妖怪引幕」は、「幅十七m、高さ四m」という、巨大な画面で創作するという、西鶴の『西鶴大矢数』の二万三千五百句に匹敵するものであろう。また、西鶴の「一昼夜」に比して、暁斎のそれは「四時間」程度で仕上げたということになると、西鶴すら唖然とすることであろう。また、西鶴にしても暁斎にしても、これらの一大事の偉業を「公衆の面前」で壮行していることも、「アトリエ」や「句会」という、いわば、狭い温室でのみで創作作業する輩は、想像を絶して、発する言葉もなかろう。それが故に、暁斎のこの種のものに、「誇張の幣」や「風調野鄙」を高言する輩は、言わば、「負け犬」の遠吠えのようなものであろう☻☻♫•*¨*•.¸

二 この暁斎の「新富座妖怪引幕」を一瞥して、やはり、暁斎の師である、浮世絵の大家・歌川国芳の「武者絵・妖怪画」、さらには、暁斎を引き立てていた三代豊国(国貞)の「役者絵」などの影響が顕著であるということを痛感する☻☻♫•*¨*•.¸


引幕六.jpg

「源頼光公館土蜘蛛妖怪図(部分図)」(歌川国芳)ボストン美術館蔵

この国芳の「源頼光公館土蜘蛛妖怪図(部分図)」の右端の上が「土蜘蛛」の妖怪で、その下で眠っているのが「源頼光」である。この「土蜘蛛」と、冒頭の「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一」の「化座頭」とが、何やら似通っている。さらに、中央の「ろくろ首」の妖怪は、ずばり、「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一・その二・その三」の「大目玉のろくろ首」と繋がっている。さらに、「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その三」の「化け猫」は、三代豊国(国貞)の「花野嵯峨猫魔稿‐化け猫‐」などが連想されてくる☻☻♫•*¨*•.¸

ともすれば、「妖怪画の暁斎」というのが独り歩きしているが、暁斎に取って、「妖怪画」というのは、ほんの一部であって、「美人画」「風俗・故事人物」「仏界・冥界」「戯画」等々、
「狩野派と浮世絵の最終地点いる暁斎」(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収(天明屋尚稿)」)というネーミングが、より相応しいであろう☻☻♫•*¨*•.¸

もう一点、上記の国芳の「源頼光公館土蜘蛛妖怪図」は、遠く、「ボストン美術館」にもあるようである(補記三)。「ボストン美術館」と言えば、先の芳年の「猫鼠合戦」も同美術館の所蔵であった。これは、どうやら、上記に出てくる岡倉天心の右腕でもあったフェノロサ(帰国後、ボストン美術館東洋美術部長に就任している)が、何らかの関与をしていることであろう。暁斎の作品では、「風神雷神図」「地獄太夫」(補記四)などを所蔵しているようである。岡倉天心や藤岡作太郎は、暁斎を「誇張の弊」や「風調野鄙」と低い評価であったが、フェノロサの方が、日本の先達よりも、より「目利き」であったということなのであろうか。このことに関連して、暁斎が亡くなる一年前の明治二十一年(一八八八)に、天心とフェノロサが河鍋家を訪ねて、東京美術学校(現東京芸術大学)の指導者として要請したとの記述も見られる。もし、これが実現していたとしたら、日本の美術界というのは、大きく様変わりをしていたことであろう☻☻♫•*¨*•.¸

ここまで来て気が付いたことだが、『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』の、その掲載「作品リスト」は、「本画」「錦画・版画・版本など」「意匠」「伝記・絵日記など」の四分類で、「本画」(肉筆画)が圧倒的に多く、今更ながらに、妖怪画などの浮世絵師というよりも、本格的な、言わば、「最後の狩野派・肉筆画絵師 河鍋暁斎」という思いを深くする☻☻♫•*¨*•.¸


補記一 河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕 (早稲田大学演劇博物館)

https://www.waseda.jp/enpaku/collection/54/

補記二 写真師・二見朝隈の写真館(二丁目)

https://jaa2100.org/entry/detail/037560.html

補記三  源頼光公館土蜘作妖怪図

(早稲田大学図書館)
www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

(ボストン美術館)
www.mfa.org/collections/object/the-earth-spider-generates-monsters-at-the-mansion-of-lord-minamoto-yorimitsu-minamoto-yorimitsu-raikô-kô-no-yakata-ni-tsuchigumo-yôkai-o-nasu-zu-464901

補記四 「ボストン美術館×東京藝術大学 ダブル・インパクト」展  東京藝術大学大学美術館

河鍋暁斎 「風神・雷神」 19世紀後半 明治時代 ボストン美術館
河鍋暁斎 「地獄太夫」 19世紀後半 明治時代 ボストン美術館

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十 河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」など) [洛東遺芳館]

(その二十) 河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」など

蛙大合戦之図風流.jpg

河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」 大判三枚続 河鍋暁斎記念美術館蔵 元治元年(一八六四)作

 本図は暁斎が、蛙合戦に見立てて描いた幕府の長州征伐だといわれる。それは、右端の大鵬の車輪や陣幕には紀州徳川家の裏紋・六葉葵が、相手方の陣幕には毛利家の紋・沢瀉(おもだか)が描かれていることからわかる。水鉄砲に蒲の穂の槍と武器はユーモラスだが、細部には首を切られて血を流す蛙や突き刺す蛙もいる壮絶な合戦図だ。お咎めを恐れ版元は「スハヰ」、「暁斎」は「狂人」「狂者」と、それぞれ仮名を使っている。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(加美山史子稿)

 月岡芳年が、「最後の浮世絵師」と冠せられるのに比すると、河鍋(かわなべ)暁斎(きょうさい)は「幕末の天才絵師」、あるいは、「奇想の天才絵師」と、「浮世絵師」よりも、より広い意味合いのある「絵師」(浮世絵師+日本画家)のネーミングが用いられるのが多い(『別冊太陽 河鍋暁斎―奇想の天才絵師 超絶技巧と爆笑戯画の名手―)・安村敏信監修』)。
 芳年(天保十年=一八三九~明治二十五年=一八九二)と暁斎(天保二年=一八三一~明治二十二年=一八八九)とは、暁斎が芳年よりも年長であるが、ほぼ、同時期(幕末の江戸期から明治期への大動乱時代)に活躍し、その同時期の人気を二分した双璧的な「浮世絵師・日本画家」と解して差し支えなかろう。
 そして、共に、歌川国芳門なのであるが、暁斎の国芳門(天保八年=一八三七=七歳~二年程度)の期間は短く、天保十一年(一八四〇=十歳)には、駿河台狩野派(前村洞和・狩野洞白)に入門し、嘉永二年(一八四九=十九歳)には、「洞郁陳之(とういくのりゆき)」の画号を得て、異例の若さで、狩野派の御用絵師の一角に、その名を記している。
 すなわち、暁斎は、浮世絵師・歌川国芳門というよりも、駿河台狩野派門の「本画」(「浮世絵」に対する「本画)の絵師というバックグラントを、終生、堅持し続けていることを、「河鍋暁斎」の、その全体像を把握するのには、ここからスタートとする必要がある。
 それに比して、芳年は、嘉永三年(一八五〇=十一歳)に、歌川国芳門に入門し、国芳没(文久元年=一八六一)後も、その国芳の「浮世絵」の世界を、これまた、終生、堅持し続けていることを、「月岡芳年」の、その全体像を把握するのには、やはり、ここからスタートする必要があろう。

国芳宅.jpg

『暁斎画談. 外篇 巻之上』所収「暁斎幼時国芳ヘ入塾ノ図」(補記二)

 暁斎には、自らが挿絵を描いた伝記『暁斎画談』(瓜生政和著 河鍋洞郁画)がある。上記の図は、暁斎が七歳の時に、浮世絵師・歌川国芳門に入塾した折りの暁斎自身の挿絵である。中央の猫を抱いて、右手に筆をもって、子供の絵に手入れをしているのが、国芳である。そして、国芳の指導を受けているのが、幼少名・周三郎こと暁斎その人である。猫好きの国芳は猫を抱きながら、その文台の前にも猫が数匹居る。国芳は暁斎を「奇童」と呼び、可愛がったとの記述がある。
 幼少時の暁斎には、この猫好きの、そして、反骨精神の旺盛な国芳の影響が大きかったというのは、この挿絵からも強烈に伝わって来る。

暁斎二.jpg

『暁斎画談. 外篇 巻之上』所収「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」(補記二)

 上記の図は、国芳画塾を後にして、天保十一年(一八四〇・十歳)に狩野派の絵師・前村洞和門に入った後、洞和が病に倒れ、洞和の師筋の、駿河台狩野洞白に入門した天保十ニ年(一八四一・十一歳)以降の「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」である。
 ここでも、洞和が、暁斎を「画鬼」と呼んで可愛がったとの記述があり、この図の右上にお茶をもって、客間の方に行く童子が、「画鬼」と呼ばれていた暁斎のようでもある。
この狩野派画塾で、狩野派の根幹である「臨写」は勿論、さまざまな「古画」の修得、さらには、大和絵、文人画など、あらゆるジャンルのものに食指を伸ばし、嘉永二年(一八四九・十九歳)に、狩野派絵師として独立し、安政二年(一八五五・二十五歳)の江戸大地震(安政大地震)の年、仮名垣魯文の戯文に「鯰絵」を描いて、一躍人気絵師の仲間入りをする。
この背景には、御用絵師の狩野派絵師だけでは成り立たない時代で、謂わば、浮世絵師としての戯画・風刺画、そして、挿絵画を手掛け、その傍流の画業のもとに、主流の注文画(本画)を続けるというのが、当時の絵師の日常であったのかも知れない。
そして、暁斎は、この二刀流(狩野派絵師+浮世絵師)の達人で、安政五年(一八五八・二十八歳)には、「惺々狂斎(せいせいきょうさい)」と号して、暁斎の「狂画」の世界における「狂斎」の時代がスタートとする。
その一方、その翌年の、安政六年(一八五九・二十九斎)には、駿河台狩野派絵師として、芝増上寺宝蔵院・黒本尊の院殿修復にも参加し、この狩野派の一員であることは、例えば、明治十七年(一八八四・五十四歳)の年譜に、「八月、狩野洞春秀信(前名洞栄)死亡。暁斎は洞春臨終に際して駿河台狩野派の画技遵守を依頼され、宗家である狩野永悳立信(えいとくたちのぶ)に再入門する」など、それは頑として堅持し続けている。

 さて、冒頭の「風流蛙大合戦之図」に戻って、これを制作した「元治元年(一八六四・三十四歳)」には、暁斎は、その年譜の「浮世絵の大家、三代歌川豊国(この年に没)に引き立てられ、狂斎、周麿の画号を用いて数々の錦絵を合筆とする」など、暁斎の最初の師の国芳よりも人気の高かかった三代豊国(国貞)と合筆するという、狩野派絵師「暁斎」よりも浮世絵師「(惺々)暁斎・狂斎」の画業が群れを抜いていた頃のものである。
 一方、「最後の浮世絵師」の名が冠せられる芳年は、この年(元治元年)、二十六歳の頃で、その翌年(慶應元年=一八六五=二十七歳)に、当時の『流行一覧歳盛記』(浮世絵師細見)で、その第十位に名を連ねている頃に当たる。
 そして、先に紹介した芳年の「猫鼠合戦」(安政五・六年=一八五八・五九)は、二十歳代の芳年のデビュー当時のもので、暁斎(狂斎)の、冒頭の「風流蛙大合戦之図」(元治元年=一八六四)とは、その背景は、幕末から明治に掛けての大動乱の時代のものであるが、相互に、無関係なものと解した方が無難のようである。
 しかし、両者に共通することは、「鎖国(保守=旧)派対開国(革新=新)派」(芳年の「猫鼠合戦」)と「幕府軍(攘夷穏健派=保守派=旧」対長州軍(過激攘夷派=革新派=新」(暁斎の「風流蛙大合戦之図」)との、新しい時代の幕開けの「旧派と新派」との混沌とした世相を見事に風刺化する、二人の共通の師である「歌川国芳」の「諧謔精神」を見事に引き継いでいる、すなわち、「国芳の継承者」であることは、断言しても差し支えなかろう。

「風流蛙大合戦之図」の「謎々」と恣意的な「コメント」(絵文字入りコメント)

一 この「大判錦絵(浮世絵版画)三枚続(三枚続きのパノラマ画図)」の版元「スハヰ」、そして、絵師の「暁斎・狂人・狂者」など、この画図が、お咎めを恐れてのアングラ版的な用例であることは、そうなのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

二 この「三枚続」を、「右・中・左」の合成の、「風流蛙大合戦之図」と解して、全体として、「右」の画面の「六葉葵」(紀州徳川家の裏紋=幕府・長征軍)と左の画面の「沢瀉」(毛利家の紋=長州軍)の「青蛙」(幕府・長征軍)と「赤蛙」(長州軍)との合戦図(第一次長州征討)と解することも、そうなのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

三 しかし、第一次長州征討は、この合戦図のように、両軍がぶつかり合うことはなく、「禁門の変」に関係した、長州藩の三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放ということで、一応の決着がなされている。そして、その停戦の仲介役として大きな役割をしたのが、薩摩藩の西郷隆盛(幕府・長征軍の参謀)で、どうやら、右上の、大きな青蛙の上に乗って、何やら采配をふっている大きな赤蛙が、その西郷隆盛(吉之助)なのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

暁斎三.jpg

(上記三の「大きな赤蛙」)

四 そして、この「風流蛙大合戦之図」のポイントなる「大砲」の如き玩具の「水鉄砲(大砲)」と「六葉葵」(紀州徳川家の裏紋=幕府・長征軍)は、その時の「停戦条件」(毛利藩に一方的な過酷な条件ではなく、言わば、「蛙に水」で、呑める条件の意があるのかも知れない)を示唆しているのかも知れない☻☻♫•*¨*•.¸

暁斎四.jpg

(上記四の「水鉄砲(大砲)」・「六葉葵」など)

五 そして、その「水鉄砲(大砲)」の前に、衝撃的且つ鮮明な「赤い血痕・血しぶき」と「斬首された蛙の首」などは、まさに、上記三の停戦条件(「参謀の斬首」)に合致するのである。また、この「六葉葵」の陣幕周辺は、上記の停戦条件の「家老の切腹」を示唆するのかも知れない。とすると、画面「中」の「大きな赤蛙」は、追放された「五卿」の一人、三条実美を示唆しているのかも知れない。まさに、この周辺の図は、「合戦」の図というよりは、海へ突き落している「追放」の図という雰囲気が相応しい☻☻♫•*¨*•.¸

六 第一次長州征討の「幕府・長征軍」は、次の五か所から、総勢約十五万の兵員を陸・海から包囲・進軍し、萩城のある萩ではなく、藩主父子が政務を司っている山口にとどめを刺すという遠大なものであった。「風流蛙大合戦之図」の「右」図は、その陸路、「中」図は、その陸路と海路、そして、「左」図は、長州の「山口」と「萩」の光景で、「水鉄砲(大砲)」の砲弾が命中し、爆破した所は、山口なのであろう。
そして、その背後で整然と見守っている長州軍は、日本海に面した「萩」城下であろうか。しかし、上記の「停戦条件」の成就のもとに、この図のような砲弾(らしきもの)が大爆破するようなことは無かったのである。しかし、この大爆破があって、空中に舞い上がっている「赤蛙」は、即時挙兵派の「高杉晋作」派と、「青蛙」は融和派の「赤禰武人」派と、これらの「赤蛙」「青蛙」が、次の、「元治の内乱」「第二次長州征討」の、それぞれの歴史の一コマに登場して来るのであろう。
 おそらく、暁斎は、ここに出て来る一匹、一匹の、その隅々まで、何らかの寓意や風刺を込めて、そして、それを自分の分身である「蛙」に語らせようとしていることは間違いない。
 さらに、慶應二年(一八六六)の「第二次長州征討」の翌年に、「放屁合戦絵巻(ほうひかっせんえまき)」(二巻)という長大(各28.2×897.0cm)な絵巻(鳥羽僧正覚猷筆のパロディ化)ものも手掛けているが、それとも連動しているように思われるのである☻☻♫•*¨*•.¸

① 芸州口・陸路、広島から岩国を経て山口へのルート
広島藩、松山藩、松代藩、福山藩、勝山藩、播州山崎藩、岡山藩、竜野藩など
② 石州口・陸路、石見国から萩を経て山口へのルート
鳥取藩、浜田藩、津和野藩、津山藩、松江藩、丸岡藩など
③ 周防大島口・海路、四国から徳山を経て山口へのルート
徳島藩、高松藩、宇和島藩、今治藩など
④ 小倉口・海路、下関から山口へのルート
肥後藩、小倉藩、中津藩、筑前藩、佐賀藩、唐津藩など
⑤ 萩口・海路、萩から山口へのルート
薩摩藩、島原藩、久留米藩、柳川藩など

補記一 これぞ暁斎!(ゴールドマンコレクション) 石川県立美術館

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/4441/

補記二 『暁斎画談. 外篇 巻之上』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850342
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十九 月岡芳年「猫鼠合戦」など) [洛東遺芳館]

(その十九) 月岡芳年「猫鼠合戦」など

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月岡芳年「鼠合戦」中判二丁掛(全六図)ボストン美術館蔵 (補記一・補記二)

 「最後の浮世絵師」の名を冠せられている「月岡(つきおか)芳年(よしとし)」については、下記(補記三)に紹介されている。そこで触れられていないようなことについて、活字情報(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』など)で追加をして置きたい。

一 猫好きの芳年
 芳年の師匠の国芳は大の猫好きであったが、芳年もまた猫好きで、タマという名前のオスの白猫を飼っていた。その可愛がりようは尋常ではなかった。(中略) 芳年が懸命に描いた絵をタマが暴れて破いてしまっても、決して怒らず、「タマちゃん、いけないねえ」というくらいで済んだという。(本田嘯月『新小説(明治四十三年)』所収「大蘇芳年翁」)

二 『明治名人伝(初編・明治十五年)』の「月岡芳年」
 故一勇斎国芳の門下に名ある者寡(すくな)からざるが、中に出藍の誉(ほまれ)なるは此(この)人なり。通称を米次郎といひ、一魁斎、大蘇(たいそ)等の号あり。近年、菊池容斎が画風を慕ひて人物の動静神(しん)に入(いら)ざるはなし。殊に武者と芸妓を写すに妙を得たるは、故人も若(しか)ず。且(かつ)性質磊々楽々(らいらいらくらく)として、巨額の潤筆を得るとも、酒食に費(ついや)し、絃妓を聘(へい)して一時に散じ、孤独にして清貧を楽(たの)むは、実に画工中の一畸人といふべき者なり。

三 写真に収められた芳年(「補記三」で紹介されている「芳年肖像(写真)」)
 今でいふオールバックといったやうな髪の刈りかた、つぶら眼、それにふさはしい大きな眼鏡、厚い唇、背は高い方ではなかつたがや、太り肉(じし)のゆつたりしたものいひ、落ちついたものごし、いかにも芸ごとの一流を極めた人と、その頃の子供心にも一目にそれと見てとれる。大蘇(たいそ)芳年(よしとし)といふ名が自づから體(からだ)を現はす。それが今でも私の印象に残る芳年先生の俤である。(鏑木清方『浮世絵研究(昭和十六年)』所収「俤に残る芳年先生」)

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月岡芳年「菓子袋(上)」「岩見銀山(下)」(中判二丁掛)

「上: お菓子の紙袋をかぶった猫を割竹で叩こうというネズミたち」
「下 ,猫の押し立てている旗は、岩見銀山ねずみとりの行商人の旗で、この薬は『猫いらず』とも呼ばれた砒素系の殺鼠剤であった。ネズミたちも、これを持ち出されては敵わない。」 (『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』)

(絵文字入りコメント=恣意的コメント)

一 「菓子袋(上)」の、その「猫」は、お師匠さんの「一勇斎国芳」の、「其のまゝ地口猫飼好五十三疋 上中下」の、その「28袋井(ふくろい)=『袋(ふくろ)い(り)=猫が頭を袋の中に入れている』」と同じ。そして、それは、また、それは、お師匠の「たとゑ尽(づくし)の内」の、「13 (右下の猫)『猫に紙袋(菓子袋)』」と同じ。♬☻☻♫•*¨*•.¸

二 「中判二丁掛」(補記二)とは、『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』にも出てこない。「中判二枚縦続き」ものを「摺り」の二度手間を一度手間で仕上げるようなことか(((;◔ᴗ◔;)))  確かに、この「上」と「下」とは、別々の合戦場面である(((ʘ ʘ;)))

三 題名(「猫鼠合戦」)の枠は、鈴の付いた猫の首輪で、それぞれ「上」と「下」に描いてある。しかし、「上」は青い背景で、「下」は緑の背景で、それが、次の二枚目に移ると、「上」が緑の背景で、「下」が青い背景となる。その順序で、次の三枚目の「上」は青い
背景、「下」となり、これは、横に繋げる時の表示のようである(((;◔ᴗ◔;)))

四 それぞれの「画題(名)」の、「菓子袋」(上)と「岩見銀山」(下)は、別枠を取っての「文字」では表示せずに、「画面」上に取り込んで描いているような感じを受ける(((;◔ᴗ◔;)))

岩見銀山二.jpg

月岡芳年「またたび(上)」「盗み食い(下)」(中判二丁掛)

「上: ネズミたちは、またたびの香を焚いたようで、へろへろと吸い寄せられる猫たちを、ネズミたちは神棚の上から見物。」
「下: 藁を編んだ飯櫃入れにもたれて猫がうたたねする間に、ネズミたちは、アワビ貝に盛られた猫の飯を食べてしまう。」
(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』)

(絵文字入りコメント=恣意的コメント)

一 この「上」と「下」との関連は、全く、別々なのかというと、何やら、「切れているようで、切れてはいない」(((ʘ ʘ;))) 「俳諧(連句・俳句)」の用語ですると、「切れ・間(マ)=空白」とかと、何やら連動しているように思われてくる(((༼•̫͡•༽)))

二 この「上」と「下」とを連動すると、「またたび」(上)を嗅いで「眠った猫」(下)を見て、それを仕掛けた「ネズミ」(上)が、まんまと、「猫の飯」(下)を平らげるということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

三 そして、一枚目(「菓子袋・岩見銀山」)が、外の合戦風景とすると、この二枚目(「またたび・盗み食い」)は、内(陣中)なる合戦風景ということになる。ここで、「俳諧(連句・俳句)」の用語ですると、「(前句との)付け・付け味」の妙味と連動しているように思われてくる(((༼•̫͡•༽)))

岩見銀山三.jpg
月岡芳年「犬張子(上)」「枡落とし(下)」(中判二丁掛)

「上: 犬張子にまたがって雄々しく采配を揮う白ネズミの大将の出現に、猫たちは大慌て
で腰を抜かさんばかりである。」
「下: 枡落としは、枡をふせた中に餌を入れて、つっかい棒で支えて、ネズミが入るようにしておき、ネズミが中に入ると、棒が倒れ、ネズミが出られなくなるという仕掛け。」
(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』)

(絵文字入りコメント=恣意的コメント)

一 国芳の「大判二丁掛」ものに出会った。「流行道外(りゅうこうどうけ)こまづくし」というものである(『もっと知りたい 歌川国芳(悳俊彦)』)。その絵図は、補記四のとおり。悳俊彦著では、次のように解説している。
「 流行道外こまづくし
  こまの五郎時宗・こまやし朝日奈・ももんごまァ
  天保十四年(一八四三)頃 大判二丁掛
 当時、名人竹沢藤次の曲独楽が大流行。それを当て込み、独楽の擬人化による錦絵が多数出版された。説話や、当盛風俗、当時の見世物芸の演目なども取り入れたシリーズである。画面上のすべてのものが独楽で形づくられており、国芳のこだわりが感じられる。しかも自然で無理がない。紐と独楽でできた髑髏は特に印象が深い。(p62) 」 
 ここで、「大判二丁掛」というのは、「大判二枚続」と同じ大きさで、「大奉書」全体(約39×53cm)ということになる。この大きさのものは、「大倍判(オオバイバン)」と呼ばれ、北斎の鳥瞰図などが、この判型である。そして、国芳の「戯画」などでは、この判型のものは、まずはお目にかかれない。(補記五)
 どうやら、これは、「中判二丁掛」のようである。(補記四)(((;◔ᴗ◔;)))

二 さらに、国芳の「戯画」を続けると、当時、いわゆる、「天保の改革」で「役者絵の禁止」とかが罷り通っていたらしい(((ʘ ʘ;)))  それに対する国芳の反骨精神の現れが、国芳の「戯画」の背後に潜んでいるらしい(((ʘ ʘ;))) すなわち、国芳の「戯画」は「ふざけて描いた絵」ではなく(そういうものもあるが)、どちらかというと「風刺画」(直ぐにそのカラクリが分からないように、かなり高度な仕掛けが施されている)と理解すると、その真相が時に姿を現して来る(((;◔ᴗ◔;)))

三の一 さて、冒頭の、芳年の「猫鼠合戦」に戻って、上記の「犬張子」の左側の巨大な「犬張子」は、何やら、ギリシャ神話の「トロイの木馬」が思い起こされて来る。もとより、芳年は、「トロイの木馬」は知らないであろうが、この「猫鼠合戦」が出来たのは、安政六年(一八五九)、芳年が二十一歳の時である(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』所収「月岡芳年年譜」)。
 この前後の、当時の世相は、嘉永六年(一八五三)、「ペリーの浦賀来航」、安政元年(一八五四)、「日米和親条約調印」、そして、安政五年(一八五八)は、「安政の大獄」があった年である。この翌年(安政六年=一九五九)に、この「猫鼠合戦」が制作され、その翌年(万延元年=一八六〇)が、「桜田門外の変。横浜開港」があった年である。その翌年(文久元年=一八六一)に、芳年の師匠の国芳が、その六十五年の生涯を閉じた年ということになる(((;◔ᴗ◔;)))

三の二 とすると、この「犬張子(上)」を、ペリーの「黒船」とすると、その黒船をバックとする「開国派(新勢力)」と、それを阻止せんとする「鎖国派(旧勢力)」との抗争が、この芳年の「猫鼠合戦」の背景ということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

四 とすると、上記の「枡落とし(下)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、「ペリーの黒船に伴う薪・水・長期航海用の食料など」を、頑として応じない、その姿勢の絵図ということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

五 ということで、またまた、冒頭に戻って、「菓子袋(上)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、「鎖国して、時世が読めない」ということを暗示しているということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

六 とすると、「岩見銀山(下)」は、その「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、それではならじと、「鎖国遵守」の錦の御旗をもって、応戦するという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

七 続く、「またたび(上)」は、「開国派(新勢力)=鼠派」が、何やら、「鎖国派(旧勢力)」に、「魅力的な開国条件の匂い」を嗅がせているという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

八 とすれば、続く、「盗み食い(下)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が安心して惰眠している内に、「開国派(新勢力)=鼠派」が、その開国の甘い汁を謳歌しているという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

九 ここで、「三の二」に戻って、この「犬張子(上)」は、「開国派=鼠派」が攻めに攻めているという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

十 さて、さて、「十」というのは、一つの区切りで、この「枡落とし(下)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、次なる「開国派(新勢力)=鼠派」に対する「巻き落とし」を狙っているという図になる☻☻♫•*¨*•.

十一 ここからは、番外編(余話)ということになるが、これらの芳年の「猫鼠合戦(安政六年=一八五九)」を始め、芳年の傑作画「桃太郎豆撒之図(安政六年=一八五九)」、「東叡山文殊楼焼討之図(明治七年=一七八四)」などが、日本の美術館(中央・地方を問わず)ではなく、遠く、米国の「ボストン美術館」に所蔵されているというのは、これは、まさしく、「猫鼠合戦(安政六年=一八五九)」における「開国派(新勢力)=鼠派」の、その一端を象徴するものなのであろうか(((༼•̫͡•༽)))

十二 「中判二丁掛」の「上」と「下」とは「切れていない」(裁断されていない)。そし
て、次の「中判二丁掛」(二枚目)とは、「切れている」(別用紙「大判」で、当然ながら裁断されている)。以下、三枚目の「中二丁掛」も、同じ要領となる。この「切れている」「切れていない」というのは、冒頭の、(「鼠合戦」中判二丁掛(全六図)ボストン美術館蔵)を見ると、明瞭になって来る。
そして、これは、「全六図」で終わるとはいうよりも、「俳諧(連句・俳句)」用語ですると、「歌仙(三十六句形式)」「半歌仙(十八句形式)」「五十韻」(五十句形式)「百韻」(百句形式)とかと深く関わっていて、ちなみに、「全六図」というのは、「歌仙形式」の「表」の六句(場面)ということになる。
そして、それ以上を続けるかどうかは、その時の「捌(さば)き」(進行者)の役割で、浮世絵版画ですると、「絵師」よりも「版元」が、その役割を担っているのであろう。そして、それを続けるか、打ち止めにするかは、一に、その作品(歌仙なり錦絵など)が、面白いかどうか(人気があるかどうか、売れるかどうか)ということが、その決め手になってくるのであろう。
 どうも、この作品(全六図)が、ボストン美術館蔵というのは、本家本元の日本では、それほど、当時の人の人気を呼ぶ作品ではなかったということなのかも知れない(((༼•̫͡•༽)))
 なお、芳年の、当時の世相風刺などを背景とする「大合戦」ものは、「追記一(台所大合戦)、そして、「追記二(和漢獣物大合戦之内)」があるが、これらは、「大判・三枚・続き」で、いわゆる、「パノラマ大画面」を相互に形成するものであって、これらには、いわゆる、「切れ」は無い。
 ここに、冒頭の「中判二丁掛」の「猫鼠合戦」と、その他の「三枚続」のものとの相違がクローズアップされて来る☻☻♫•*¨*•.

補記一  ボストン美術館 日本の美術

http://kunio.raindrop.jp/photo-usa-boston5.htm

補記二 中判二丁掛

https://www.adachi-hanga.com/staffblog/2014/08/

補記三 月岡芳年

https://ja.wikipedia.org/wiki/月岡芳年

補記四 補記四 国芳の「大判二丁掛」=「流行道外こまづくし」

https://ameblo.jp/giantlimited/entry-10975625723.html

補記四 図版解説 歌川国芳画「流行道外こまづくし」(浮世絵芸術データベース)

http://unno.nichibun.ac.jp/geijyutsu/ukiyoe-geijyutsu/lime/143_031.html

補記五 歌川国芳-奇と笑いの木版画 出品目録  府中市美術館

https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kikakuten/kikakuitiran/kuniyoshi.files/kuniyoshi-mokuroku.pdf

補記六 『笑う浮世絵―戯画と国芳一門―』 太田記念美術館

www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2013_warau-ukiyoe

追記一 台所大合戦

大判三枚続 安政六年(一八五九) 遠州屋彦兵衛版 千代田区教育委員会寄託三谷家資料

 右側、台所方の大将は「釜之冠者たき安」。兵卒は「鍋の九郎」「茶釜茶九郎」「水野組左ヱ門」「水瓶大右ヱ門」など。「こう神燈明斎は」が火の用心の旗を掲げて突撃している。左側、座敷方の大将は「箪笥之錠鍵盛(たんすのじょうかぎもり)。兵卒は「こたつの上猫八」「手習双四郎」「火鉢棒海尊」など。中国には、座敷方の「ごばんの忠信」が投げた碁石が散乱している。諸道具それぞれの名前や動きが面白い。
『芳年(岩切友里子編著)』所収「図版解説(4)」

画像 入間市博物館蔵

www.alit.city.iruma.saitama.jp/search/artifact/det.html?data_id=14302

追記二  和漢獣物大合戦之図

大判三枚続 万延元年(一八六〇九) 十月改印 亀屋岩吉版 埼玉県立文書館寄託小室家資料

 題名に「和漢」とあるが、日本と外国の獣の合戦であろう。日本側は黒熊が大将で、兵卒は、犬、猿、馬、猪、兎など。外国の大将は白象で、虎、豹、山羊のほか、狛犬のような兵卒がいる。 黒駒の陣羽織には源氏を表す笹竜胆が描かれている。この絵の出版された前年の安政六年に、神奈川、長崎、函館が開港して、外国との貿易が始まったが、これに伴い、江戸市中では物価が上昇して攘夷の機運を招き、万延元年三月には桜田門外で井伊大老が暗殺される事件も起きている。本図にも何らかの寓意が含まれるのではないかと見られるが、詳らかではない。
『芳年(岩切友里子編著)』所収「図版解説(5)」

画像  東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ

http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?qf=&q=%E8%8A%B3%E5%B9%B4%E3%80%80%E5%92%8C%E6%BC%A2%E7%8D%A3%E7%89%A9%E5%A4%A7%E5%90%88%E6%88%A6%E4%B9%8B%E5%9B%B3&start=0&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=list&tilcod=0000000003-00223082&mode=result&category=

追記三 猫鼠合戦

中判二丁掛 安政六年(一八五九) 九月改印 遠州屋彦兵衛版 個人蔵
「6 菓子袋・岩見銀山(上・下)」「7 犬張子・枡落とし(上・下)」「8 またたび・盗み食い(上・下)」(「図版解説」=上記の『別冊太陽 月岡芳年(岩切有里子監修)』所収の「解説」と同じ。   『芳年(岩切友里子編著)』所収「図版解説(6・7・8)」

※上記の『別冊太陽 月岡芳年(岩切有里子監修)・2012初版発行』所収の「解説」のものは、「ボストン美術館」所蔵のものであったが、『芳年(岩切友里子編著)・2014初版発行』所収「図版解説(6・7・8)」では、「個人」所蔵のもので、解説がなされている。この後者のものは、日本国内で所蔵されているものなのかも知れない。
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十八 歌川国芳「たとゑ尽の内」など) [洛東遺芳館]

(その十八) 歌川国芳「たとゑ尽(づくし)の内」など

たとゑ尽の内.jpg

歌川国芳「たとゑ尽の内(たとえづくしのうち)」大判三枚続(補記一)

これは、猫に関係する慣用句を絵にした3枚続きもの。実は一部が海外に流出していたため長らく3枚そろうことがなかった作品です。それが、2011年12月17日(土)~2012年2月12日(日)に「森アーツセンターギャラリー」で開催された「没後150年 歌川国芳展」で初めて3枚そろった状態で公開されました!さてさてどんな慣用句が描かれているかというと、たとえば右上は「猫にかつおぶし」「猫をかぶる」「猫に小判」「猫の尻へ才槌(寸法が合わず不釣合いなこと)」など。猫をかぶっている猫ちゃんのすました後姿がたまりません。

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(右) 右上から左へ、そして、下へ・・・
1 猫にかつおぶし → 油断大敵 → 食べられるぞ(((;◔ᴗ◔;)))
(国芳=「尻の二本の鰹節は、『其のまま地口 猫飼好五十三疋』の「日本橋=二本節(ぶし=ばし)」のスタート(発句)ということ。「鰹(かつお)」が「ヌケ」ているけど、この「ヌケ(省略)」は、談林俳諧の「ヌケ(俳諧の技法)」ですぞ。今回の、この「猫にかつおぶし」は、口元の「一本の鰹節」なんだ。この意味分かる♬☻☻♫•*¨*•.¸)
2 猫をかぶる → 上辺はおとなしい → 直ぐに噛みつくぞ (((;◔ᴗ◔;)))
3 猫に小判 → 猫に小判やる馬鹿がいるか(((;◔ᴗ◔;))) → 分からずやは放っとけ(((ʘ ʘ;)))
4 猫の尻へ才槌(木槌) →「猫は才槌使えないノヨ」→ どうにもナンセンス(((ʘ ʘ;))) (((ʘ ʘ;)))
(国芳=「絵文字」は、「猫(ねこ)ぽっいのにした」ぞ。これが(下記)=アドレス。アドレスがリンクしないのがあるけど、余り、「絵文字」も「パソコン」も、「縁が無いんだ」)☻☻♫•*¨*•.)

http://kaomoji-cafe.jp/tag/simple/

たとゑ尽の内中.jpg

(中)右上から左へ、そして、下へ・・・
5 猫舌 → 熱いものは駄目なんだ(((;ꏿöꏿ;))) → 冷めては美味くないよ(((༼•̫͡•༽)))
(国芳=この「図」は、湯気が出ていないぞ(((;◔ᴗ◔;))) こういう時には、「復刻版(補記二)を用いた方が、分かり易いよ( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) )
6 猫背 → この図は、「首が前に出て背中が丸くなっていること」、即ち、「猫背だ」(((ʘ ʘ;))) → (国芳曰く)「これはネ(((;꒪ꈊ꒪;))) 前の「 2 猫をかぶる」と「対」になっているんだ(((ʘ ʘ;))) 「首輪をしていないだろ( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 『猫をかぶって、おとなしくしていて、猫ポーズ(猫背というより、これが地のポーズなのよ。そして、飼い主さん=佳い人・旦那・お大尽さんを探しているんですぞ(((;ꏿöꏿ;))))
7 猫顔 → 「猫顔、犬顔というけど、これぞ『猫顔』なのよ」( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 「黒毛でなく赤毛になっている(((;◔ᴗ◔;))) それはネ(((;꒪ꈊ꒪;))) 『茶髪(チャハツ)にしたんですぞ』♬☻☻♫•*¨*•.¸
8 有っても無くても猫の尻尾(シッポ)→ 「あってもなくてもいいもののこと」(((;◔ᴗ◔;)))
→ 誰かさんがほざいてたいた(((༼•̫͡•༽))) → 「尻尾のないヒトのひがみだ」と(((ʘ ʘ;))) 勝手に『有っても無くてもヨカンベーなんと、二度とほざくなよ』(((༼•̫͡•༽)))
9 猫叱るより猫を囲え→ 「猫に魚を取られて猫を叱るより、取られないように用心することが大切、問題が起きる前に予防策を講じよ、という意味。」(補記三)
(国芳)「この着物の柄は分かるかい」(((;◔ᴗ◔;))) ヒントは、『其のまま地口 猫飼好五十三疋』の「日本橋=二本節(ぶし=ばし)」の、「鰹節を縛っている藁縄」なんだ。そうよ、『お大尽(だいじん)』なんだぞ(((ʘ ʘ;))) 「吾が輩が『7猫顔=8お尻向けている猫』の、そうよ、その旦那さんということなんだ(((༼•̫͡•༽))) 『目が窪んで黒くなっているのは分かるかい』(((;◔ᴗ◔;))) ヒントは、『お大尽』の「尽(使い果たす)」ということかな( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 「意味が分かった、それはイイネ」♡⍢⃝♡

たとゑ尽の内左.jpg

(左)右上から左へ、そして、下へ・・・
10 (右上の三匹を一緒にして)「猫が顔(耳)を洗うと雨が降る」→「猫が手で耳の後ろから洗うような動作をすると、雨が降るということ。この成句、言い伝えは広く知られているが、猫の天気予報は日本に限らず、西洋にも伝えられている。猫が身繕いをしたり、草を食べると雨、水を飲むと雪、くしゃみをしても雪になるとか。」(補記三)
(国芳)この三匹のうち、上の赤猫は、「蝦蟇(雨を呼ぶ蝦蟇)」の真似をしている(((;◔ᴗ◔;)))
真ん中の猫は主役よ(((ʘ ʘ;))) その下の背中を向けている猫は、主役の猫がプロポーズしている♡⍢⃝♡ 「それで、耳でなく、前足なめているのか」(((;◔ᴗ◔;)))
11 (左上の猫)「猫も食わない」→「猫の魚辞退」「猫跨ぎ」(補記三)→「猫も食わないほど『不味い』ということ」(((ʘ ʘ;))) それとも、「内心食いたいのだが、遠慮している素振りを見せている」(((ʘ ʘ;)))
(国芳)「狂句・狂画ものに、正解はない。どうとっても結構ザンス」♬☻☻♫•*¨*•.¸
12(着物を着て鼠を見ている猫)「猫と庄屋に取らぬは無い」→「鼠を取らない猫がいないように、賄賂を取らない庄屋はいないということ。」(補記三)
(国芳)「この着物の柄は分かるかい」(((;◔ᴗ◔;))) ヒントは「猫に小判」の「小判」なんだが、「猫の鼻先に鼠を置くよう」とか「鼠捕る猫は爪を隠す」とか、その他イロイロアルヨ(((༼•̫͡•༽))) マア「庄屋さん」と解して結構・結構♬☻☻♫•*¨*•.¸ この「庄屋さん」は、「9お大尽さん」と同じ( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 「目が黒くない」(((ʘ ʘ;))) 「鼠の前では、目が黒くならない」(((ʘ ʘ;)))  「意味が分かった、それはイイネ」♬☻☻♫•*¨*•.¸
13 (右下の猫)「猫に紙袋(菓子袋)」→「猫の頭に紙袋を被せると前には行かず後へさがることから、後退りすることの例え。」(補記三)→「菓子袋に首を突っ込んで、取れなくなった図ジャナイノカナ」(((ʘ ʘ;))) 
(国芳)吾が輩の弟子の「月岡芳年」に「菓子袋・岩見銀山」という「猫鼠合戦」ものがあるんだ(((ʘ ʘ;))) そこに出て来るのは「菓子袋」なんだ(((ʘ ʘ;))) 「洛東遺芳館」には「月岡芳年」ものの佳いのがあるね(((༼•̫͡•༽))) 「もう疲れた」ฅ ̂⋒ิ ˑ̫ ⋒ิ ̂ฅ 「では、バイバイ」(ɔ ˘⌣˘)˘⌣˘ c)

補記一 幻の猫浮世絵

http://artnews.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/E291AEE3819FE381A8E38291E5B0BDE381AEE38186E381A1.jpg.html


補記二 【新復刻完成コラム】 国芳の猫づくし~「たとゑ尽の内」編~

https://www.adachi-hanga.com/staffblog/000833/

補記三 ことわざに見る猫<日本>

http://www.necozanmai.com/zatsugaku/proverb-japan.html

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十七 歌川国芳「其のまま地口 猫飼好五十三疋」など) [洛東遺芳館]

(その十七) 歌川国芳「其のまま地口 猫飼好五十三疋」など

国芳 猫一.jpg
歌川国芳「其のまゝ地口猫飼好五十三疋 上中下」渡邊木版美術画舗蔵 (補記一)

 この「其のまゝ地口猫飼好五十三疋 上中下」の、「上中下」というのは、浮世絵版画(錦絵)の、標準的な「大判竪(たて)三枚続(つづき)」の「上・中・下」で、この右の一枚目には、「其(その)まま地口/猫飼好五十三疋/上」との表示がある。
 そして「上」の字の上方に、「版元印」と「検印」とかは不明だが、二つの印が捺されているようである(「中」「下」にも、左の下方に何か「印」が捺されているようである)。

 「大判三枚続」ものは、上記のように、「横に三枚続き」が標準スタイルなのだが、これは、一枚目が、「上」の表示、そして、二枚目に「中」、三枚目に「下」と表示している。
署名は、「一勇斎国芳戯画」で、一枚目(上)は、右の半ば、二枚目(中)と三枚目(下)は、右下に為されている。そして、三枚目(下)の左端(末尾)に、「版下」の名(伊場屋仙三郎)が書かれているようである。
 どうも、「上・中・下」と表示したのは、「横に三枚続き」(標準スタイル)ではなく、「竪(立て=縦)に三枚続き」を、作者(国芳)は意図しているように思われる。

猫上.jpg

(上)
『其のまま地口 猫飼好五十三疋』(そのままぢぐち・みゃうかいこう・ごじゅうさんびき)
=東海道五十三次の宿場町名を、地口(語呂合わせ)しで猫の仕草で描いている(「地口」というのは、両方を「平仮名」にして対比すると分かり易い)。
1 日本橋(にほんばし)=「二本(にほん)だし(「二本の鰹節を引っ張り出す」と「出汁」との掛け)」
2 品川(しながわ)=「白顔(しらがを)の猫」
3 川崎(かわさき)=「蒲焼(かばやき)を嗅いている」
4 神奈川(かながわ)=「(猫が)嗅ぐ皮(かぐかわ)」
5 程ヶ谷(ほどがや)=「喉かい(のどかい)=喉が痒い」
6 戸塚(とつか)=「はつか(二十日鼠)を睨んでいる猫」
7 藤沢(ふじさわ)=「ぶちさば(鯖を咥えたぶち猫)」
8 平塚(ひらつか)=(子猫が)「育(そだ)つか」
9 大磯(おおいそ)=「(獲物=蛸が)重(おも)いぞ」
10 小田原(おだわら)=「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りのどら猫)」
11 箱根(はこね)=「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」
12 三島(みしま)=「三毛(みけ)ま(三毛猫の魔物=化け猫=猫又)」
13 沼津(ぬまづ)=「鯰(なまづ)を睨んでいる猫」 
14 原(はら)=「どら(猫)」
15 吉原(よしわら)=は「ぶち腹(はら)=(腹もぶちだ)」
16 蒲原(かんばら)=「てんぷら(を食おうとしている猫)」
17 由比(ゆい)=「鯛(たい)を口にしている猫」
18 興津(おきつ)=「(猫が)起(おき)ず」
19 江尻(えじり)=「(猫が)齧(かじ)る」

猫中.jpg

(中)
20 府中(ふちゅう)=「(猫が)夢中(むちゅう)」
21 鞠子(まりこ)=「張り子(はりこ)の猫」
22 岡部(おかべ)=「赤毛(あかげ)の猫」
23 藤枝(ふじえだ)=「ぶち下手(へた)=(ぶち猫は鼠取が下手だ)」
24 島田(しまだ)=「(魚が)生(なま)だ」
25 金谷(かなや)=「(猫の名前が)タマや」
26 日坂(にっさか)=「食(く)ったか」
27 掛川(かけがわ)=「(猫の)化(ば)け顔(がを)」
28 袋井(ふくろい)=「袋(ふくろ)い(り)=猫が頭を袋の中に入れている」
29 見付(みつけ)=「(猫の)ねつき(寝つき)」
30 浜松(はままつ)=「鼻熱(はなあつ)=猫の鼻が炭火で熱い」
31 舞坂(まいざか)=「(猫が)抱(だ)いたか」
32 新居(あらい)=「洗(あら)い=猫の顔洗い」
33 白須賀(しらすか)=「じゃらすか=子猫をじゃらすか」
34 二川(ふたがわ)=「当(あ)てがう=乳をあてがう」
35 吉田(よしだ)=「(猫が)起(お)きた」
36 御油(ごゆ)=二匹の猫の「恋(こい)」
37 赤坂(あかさか)=「(目指しの)頭(あたま)か」
38 藤川(ふじかわ)=「ぶち籠(かご)に居る猫」
39 岡崎(おかざき)=「尾(お)が裂(さ)け=尾が裂けて化け猫か」

猫下.jpg

(下)

40 池鯉鮒(ちりゅう)=「器量(きりょう)良しの猫」
41 鳴海(なるみ)=「軽身(かるみ)を見せる猫」
42 宮(みや)=「親(おや)猫」
43 桑名(くわな)=「(猫さん、それは)食(く)うな」
44 四日市(よっかいち)=「寄(よ)ったぶち=ぶち猫が寄り合っている」
45 石薬師(いしゃくし)=「(猫が)いちゃつき」
46 庄野(しょうの)=「(猫を)飼(か)うの」
47 亀山(かめやま)=「化(ば)け尼(あま)=猫が尼に化ける」
48 関(せき)=「牡蠣(かき)=猫が牡蠣の臭いを嗅いている」
49 坂下(さかのした)=「赤(あか)の舌(した)=猫の赤い舌」
50 土山(つちやま)=「ぶち邪魔(じゃま)=猫の恋を邪魔してる」
51 水口(みなぐち)=「皆(みな)ぶち(猫)」
52 石部(いしべ)=「みじめ(な猫)」
53 草津(くさつ)=「炬燵(こたつ)の上の猫」
54 大津(おおつ)=「上手(じょうず=鼠捕りが上手)」
55 京(きよう)=「ぎやう(猫に捕まった鼠の悲鳴)」。

補記一 国際浮世絵学会創立50周年記念「大浮世絵展」:中京テレビ

http://www2.ctv.co.jp/ukiyoe/2014/04/page/4/

補記二 猫飼好五十三疋

www.konekono-heya.com/ukiyoe/myoukaikou.html

補記三 其まま地口 猫飼好五十三疋

https://poohchan-cute.net/category/etc/etc-kuniyoshi-cats.html



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十六 歌川国芳「大物浦」など) [洛東遺芳館]

(その十六) 歌川国芳「大物浦」など

国芳.jpg
歌川国芳(うたがわくによし) 大物浦(だいもつのうら)

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

 嘉永(かえい)三年(1850)前後、国芳(くによし)五十代中頃の作品です。平家(へいけ)を滅ぼした後、頼朝(よりとも)に追われる身となった義経(よしつね)が、西国(さいごく)に向かう途中、大物浦(だいもつのうら)(現在は陸地となっていて、尼崎市(あまがさきし)の一地区)で平家(へいけ)の亡霊に襲われる場面です。国芳の傑作のひとつですが、版によって亡霊の姿に少し違いがあります。この版は亡霊の目が黒く、真ん中あたりの亡霊の一体が雲英(きら)で刷ってあるのが特徴です。

 喜多川歌麿が亡くなったのは、文化三年(一八〇六)のことで、北斎は、四十七歳の時である。その翌年(文化四ねん)の頃から、読本『椿説弓張月(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)』の刊行が開始される。北斎は、まさに、当時の浮世絵界の第一人者であった。
 この北斎と共に、浮世絵の花形である色摺りの錦絵版画の第一人者であったのが、歌川豊国(初代)で、その美人画・役者絵は北斎の人気を凌ぐものがあった。この豊国門には俊秀が集まった。二代豊国(豊重)、三代豊国(国貞)、国芳、等々である。
 広重も、十五歳の頃(文化八年=一八一一)、この豊国門の入門を希望したが、その弟弟子の豊広門の方に振り分けられている。この豊広が、名所絵版画の第一人者で、以降、「豊広→広重→二代広重(重宣)」と引き継がれて行く。
 冒頭の「大物浦」の作者・国芳(補記一)と広重は、共に、寛政九年(一七九七)の同年生まれで、共に、歌川派の創始者・豊春の孫弟子に当たり、ほぼ、活躍した時代は同じということになる。この国芳門から、「河鍋暁斎・月岡芳年」等が出て、この芳年門から、「水野芳方→鏑木清方→伊東深水・川瀬巴水」と引き継がれて行く。

細見.jpg
『当代全盛江戸高名細見(江戸寿那古細撰記)』嘉永六年(一八五三)
〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉 (補記二)

 寛永六年(一八五三)というと、江戸時代の末の幕末期ということになるが、当時の浮世絵界のピッグスリーというのが、上記(補記二)のとおり、「豊国(三代目豊国・国貞)→国芳→広重」の順となる。その注にそれぞれ平仮名で、「豊国(にがほ=似顔)」、「国芳(むしゃ=武者)」、そして、「広重(めいしょ=名所)」とある。
 この「豊国(にがほ=似顔)」は、広重が亡くなった折に出版された訃報錦絵である「死絵」(補記三)を描いている。
 冒頭の「大物浦」(補記一)を描いた「国芳(むしゃ=武者)」は、文政十年(一八二七)の頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』(補記四)の『水滸伝』シリーズで、一躍、人気絵師となり、「武者絵の国芳」と称せられるに至った。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。号は、「一勇斎国芳」(文政初年から万延元年)、「彩芳舎(国芳)」(文政中期)、「朝桜楼(国芳)」(天保初年から万延元年)などと変遷している。

 冒頭の「大判竪三枚続」の「大物浦平家の亡霊」(洛東遺芳館「大物浦」)は、国芳に関する様々なことを伝達して来る(補記五)。

 まず、それぞれの画面の右下に、「一勇斎国芳画」とあり、「一勇斎」の号で、嘉永年間(一~五年=一八四八~五二)の、五十歳代のものとされている。「版元」は「遠彦」(遠州屋彦兵衛)、さらに、「検印」(名主印)があるようである(ここでは、名主印=福島和十郎のようである)。

「大判竪三枚続」については、先に、「美濃紙」の「大判・大々判・細判」(初期浮世絵期)の例を引いたが、「美濃紙」ではなく、「大奉書」(「錦絵」の標準的なもの)の「大判」の、その「竪(立て=縦)三枚続(つづき)」(補記)ということである。

 さらに、右の一枚目の右上に、この「大物浦」のストリーの要点が書かれ、二枚目と三枚目との船中の人物については、それぞれ源氏の武将の名が記され、この三枚ものの背景には、「続き物」の共通としての、平家の武将の亡霊がシルエット的に描かれている。これらのことについて、「補記五」では、次のように記されている。

「西国に逃れようと船出した義経一行に、恨みを抱いた平家の亡霊が襲いかかる。飲み込もうとする大きな波に対抗するように船が進む、職人国芳のすごさは、舟に小さな白い浪を配したところである。これで舟が浪に揉まれて上下する動きが感じられる。背景は均一だがそこにシルエットの亡霊を濃淡で描き分け奥行きを出した。歌舞伎の舞台にすぐ使えるような構成である。東京国立博物館蔵」

 この解説(紹介文)に続けるとしたら、「浮世絵界の『青の時代』」の、「ペロ(ベロリン)藍」(ベルリンブルー)の、色鮮やかな、既存の「藍色」(インディゴブルー)とは異質の、一種の「色彩革命」の「新しい青」の、その「波」の現出であろう。
 この「新しい青」は、遠く、西欧のフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて、広重の「ヒロシゲブルー」とも呼ばれるものの源流であって、それは、まぎれもなく、次の、北斎の最高傑作の一つとされている、「冨嶽三十六景」の、「神奈川沖浪裏」(補記七)の、この「ホクサイブルー」と、そして、その国芳がフォローした「ホクサイの『白い浪』」の紋様にあることであろう。

北斎・ブルー .jpg
葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (太田美術館) 補記七

補記一 歌川国芳 大判3枚続  (パブリックドメイン  浮世絵、 錦絵の世界)

www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/html/1440_kuniyoshi.html

補記二 浮世絵文献資料館

www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/u-yougo/yougo-ukiyoesi-banduke.html

補記三 豊国画「広重の死絵」 (江戸東京博物館象蔵)

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0183200121&sk=%89%CC%90%EC%8D%91%92%E5%28%8F%89%91%E3%29%2F%89%E6

補記四 国芳ヒーローズ~水滸伝豪傑勢揃 (太田記念美術館)

www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/kuniyoshi-heroes

補記五 ―歌川国芳の傑作武者絵 奇想三枚 悪狐、亡霊、鰐鮫―

http://www.photo-make.jp/hm_2/kuniyoshi_kisou_6.html

補記六  浮世絵版画のサイズ

http://nobuko.biz/ukiyoe/kubun-3.html

(抜粋)

丈長奉書(たけながぼうしょ)縦72-77cm×横52.5cm
大広奉書(おおびろぼうしょ)縦58cm×横44cm
大奉書(おおぼうしょ)縦39cm×横53.5cm
中奉書(ちゅうぼうしょ)縦36cm×横50cm
小奉書(こぼうしょ)縦33cm×横47cm

大判(おおばん) 大奉書の縦2つ切り。もっとも一般的なサイズ。縦39cm×横26.5cm
中判(ちゅうばん) 大奉書の4分の一。大判の横2つ切り。縦19.5cm×横26.5cm
小判(こばん) 大奉書の8分の一。大判の4分の一。縦19.5cm×横13cm

大短冊判(おおたんざくばん) 大奉書の縦3つ切り。縦39cm×横18cm
中短冊判(ちゅうたんざくばん) 大奉書の縦4つ切り。縦39cm×横13cm
小短冊判(しょうたんざくばん) 大奉書の縦6つ切り。縦39cm×横9cm
色紙判(しきしばん) 大奉書の6分の1。他の紙より厚手。縦20.5cm×横18.5cm
長判(ながばん) 大奉書の横2つ切り。縦19.5cm×横53.5cm

掛物絵(かけものえ) 大判の縦2枚つなぎ。縦78cm×横26.5cm

柱絵((はしらえ)
1.小奉書の縦3つ切り。縦72cm-77cm×横17cm
2.大長奉書の縦4つ切り。縦72cm-77m×横13cm

細判(ほそばん)
1.小奉書の縦3つ切り。縦33cm×横15cm
2.大長奉書の縦2つ切り。縦16cm×横47cm

続絵(つづきえ)
同じ大きさの紙を並べて大画面にしたもの。大判を横に3枚並べた大判3枚続が一般的だが、5枚続や6枚続もある。又、縦に2枚、3枚と繋いだり、まれに3米続を上下に並べて6枚にする場合もあった。続絵は1枚ずつが独立した画でありながら、つなぐことによって、さらにスケールの大きな作品にまとまるよう構成されている。それぞれの画は別々に摺られ、ばら売りされていたので、現在では一枚しか見つからないことも多い。

補記七 葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (太田美術館)

www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list17



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十五 歌川広重筆「富士三十六景・甲斐大月の原」など) [洛東遺芳館]

(その十五) 歌川広重筆「富士三十六景・甲斐大月の原」など

広重.jpg
歌川広重画「富士三十六景・甲斐大月の原」(大判)

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「広重最晩年の揃い物『富士三十六景』の中の一枚で、このシリーズの中で最も人気のある作品です。富士の裾を隠している山脈が、甲斐の風景らしくしていますが、この山脈がなければ、武蔵野図によく似ています。浮世絵版画の富士山図に大きな影響を与えた河村岷雪の『百富士』にも、この図とよく似た武蔵野図がありますが、広重のこの作品は秋草を大きく描いて、遠近感を強調しているのが特徴です。」

 歌川広重が生まれたのは、寛政九年(一七九しち)、この年に、喜多川歌麿、東洲斎写楽、そして、北尾政演(山東京伝)などの名プロデューサーとして知られている、版元(出版人)の蔦屋重三郎(初代)が、その四十六年の生涯を閉じた年である。
 「版元」というのは、「浮世絵界の采配者」でもあり、「版元が企画を立て、その企画に沿い、絵師が描き、彫師が彫り、摺師が摺り」、そして、その完成品(浮世絵版画)を「宣伝し、販売する」という、まさに、「采配者」で、その全てに対する責任と自負が、その「版元印」に込められている(『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』)。
 この蔦屋重三郎(初代)が、寛政三年(一七九一)、山東京伝(北尾政演)の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹籭(きぬぶるい)』が、寛政の改革により摘発され、過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖五十日という処罰を受けたことについては、先に触れた(その九「酒井抱一・その四)。
また、前回の「葛飾北斎画『潮来絶句』」に関連して、その初版(初代蔦屋重三郎=版元)の北斎画は、「宗理の時代」(寛政七年・三十六歳~寛政十年・三十九歳)に描いたものということと、その初版のものは、やはり、寛政の改革の検閲で発禁処分になり、享和二年(一八〇二)版」のものは、二代目蔦屋重三郎が関わっているということは、先に触れた(「その十四・葛飾北斎筆『潮来絶句』の追記一)。
 これらに、下記の「葛飾北斎と蔦屋重三郎そして山東京伝」(補記一)と「北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る-」を加味すると、その全体像が浮き彫りになって来る。

 さて、上記の冒頭の作品解説中の、「広重最晩年の揃い物『富士三十六景』」については、下記(補記三)で全画(三十六景)が閲覧できる。その最初に、次のような記載がある。

「広重が9月に亡くなる直前の安政5年(1858)4月に版下の検閲が済んでいるが、刊行は広重の没後、翌年の6月である。蔦屋吉蔵より出版。竪大判、全36枚揃、別に目録あり。」

 この文中の「版下の検閲」というのは、上記に触れた「寛政の改革」に伴う「出版統制」のことである。その「出版統制」の内容は、時代の変遷はあれ、凡そ次のようなことである(『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』)。

一 幕府の体制維持に反する思想等についての出版を禁止する。
二 武家についての記述を制限する。
三 幕府政治への批判を禁止する。
四 贅沢を取り締まる意味から豪華な出版物の禁止。
五 風紀を乱す出版物の禁止。

 上記の第五が、蔦屋重三郎等が処分された違反内容の主なものなのであるが、これは出版物に限らず、徐々に、一枚絵(肉筆画など)まで拡充されて行くこととなる。

 さらに、この文中の、「蔦屋吉蔵より出版」の、その「蔦屋吉蔵」(蔦吉・紅英堂)と、「蔦屋重三郎」(蔦重・耕書堂)とは、それぞれ別家で、共に、大手の地本問屋(版元)ということになる。両者の関係は、「蔦重=老舗の版元」、「蔦吉=新興の版元」ということになろう(補記四)。

 続く、「竪大判、全36枚揃」の、「竪大判」というのは、通常の「浮世絵判型(横型)」の「美濃紙(約四六×三三cm)」を「竪(立て)」にしてのということで、次の「全36枚揃」というのは、それが、「一揃い=三十六枚もの」ということになる。

 そして、何よりも、その文中の、「刊行は広重の没後、翌年の6月である」と、広重は、自己の揃いものの総決算というべき、この「冨士三十六景」の、その刊行の全貌を見ずに亡くなっているということなのである。広重が亡くなったのは、安政五年(一八五八)、六十一歳であった。

 もとより、広重の、この「冨士三十六景」は、北斎の「富嶽三十六景」を念頭に置いてのものであろうが、北斎は、広重が瞑目した六十一歳の、その同じ年齢の時(文政六年・一八二〇=六十一歳)、「為一」(還暦で振り出しに戻るとの決意を秘めてのもの)と名乗り、その新ジャンルの「名所絵」たる「富嶽三十六景」を刊行したのは(版元は「永寿堂西村屋与八」)、文政十三年(一八三〇)、七十一歳の時である。
 すなわち、広重の「冨士三十六景」が、広重の六十一歳のゴール地点とすると、北斎の「富嶽三十六景」は、その六十一歳の新たなるスタート地点を意味するものであって、同じ、「冨士・富嶽の三十六景」でも、広重と北斎のそれとでは、その年輪の重みが違うのである。
 
 事実、北斎の「富嶽三十六景」は、その「三十六景」に止まらず、さらに、十枚が追加され、その追加された十枚は「裏冨士」として、その総体は「四十六景」ということになる。その「四十六景」の最後は、次の「諸人登山(もろびととざん)」で、そこには、「冨士山の『遠景・中景・近景』の姿影」は無い(補記五)。

緒人登山.jpg
葛飾北斎「諸人登山」(『富嶽三十六景』の十枚追加された「裏冨士(十景)の最後の画)」)
(補記五)

 この北斎の「諸人登山」(『富嶽三十六景』の十枚追加された「裏冨士(十景)の最後の画)」)を、北斎よりも三十七歳年下の広重が、目にしていないとしたら、それは眉唾ものということになろう。
 ずばり、この北斎の描く「諸人登山」の、その中央の「同行二人」の、その前を行く笠を背にして無帽の、その人は、「北斎」その人であり、その後を行く笠を被った人は、「広重」と解すると、ここで、始めて、広重が生前に見ることが出来なかった「冨士三十六景」と、そして、その一つの、冒頭の、「富士三十六景・甲斐大月の原」の、その何たるかが見えて来る。

補記一 葛飾北斎と蔦屋重三郎そして山東京伝

http://www.ten-f.com/hokusai-to-tutaya.html

補記二 北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る- 江戸時代における知的財産戦略(小林  聡稿)

https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200705/jpaapatent200705_041-048.pdf

補記三 歌川広重 冨士三十六景 (山梨県立美術館)

www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_fujisan_03fuji.htm

補記四 改元前の版元 (老舗の版元と新興の版元など) (たばこと塩の博物館)

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2001/0109seip/hanmoto.html

補記五 葛飾北斎「諸人登山(もろびととざん)」 (山梨県立美術館)

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_46.htm



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十四 葛飾北斎筆「潮来絶句」など) [洛東遺芳館]

(その十四) 葛飾北斎筆「潮来絶句」など)

北斎.jpg
葛飾北斎画「潮来絶句」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「潮来絶句(いたこぜっく)」は、江戸の吉原で流行っていた潮来節(いたこぶし)を、藤堂良道(とうどうよしみち)が漢詩に翻訳し、谷文晁(たにぶんちょう)の弟の東隄(とうてい)が書き、北斎(ほくさい)が絵を描いたものです。蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が出版しましたが、 発禁処分を受けていました。享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴(きょくていばきん)の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました。展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません。」

「天才浮世絵師」「画狂人」「HOKUSAI」(「過去1000年で最も偉大な業績を残した100人」の86位にランクインした世界的画家」=「Life Millennium;1999」)と様々な異名を持つ葛飾北斎というのは、どうにも得体の知れない画人である。
 この「北斎の生涯と画業」について、「北斎館」(補記一)では、次の七区分で概括している。

● 幼少年時代 
1760(宝暦10)~1778(明和7)
●「春朗」の年代 
1779(安永8)~1794(寛政6)
●「宗理様式」の年代 
1795(寛政7)~1804(文化1)ころ
●「葛飾北斎」の年代 
1805(文化2)~1810(文化7)ころ
●「戴斗」の年代 
1810(文化7)~1820(文政3)
●「為一」の年代 
1820(文政3)~1833(天保4)
●「卍」の年代 
1834(天保5)~1849(嘉永2)

 上記の「『春朗』の年代」がスタートとする安永八年(一七七九)に、「日本のダ・ヴィンチ」の異名を有する平賀源内が、五十歳の若さで不慮の死を遂げる。源内は画家というよりも、静電気の「エレキテル」などの発明などの蘭学者・発明家として知られている。 
 アメリカ「Life」(1999)の「過去1000年で最も偉大な業績を残した100人」のトップは、アメリカの発明家の「トーマス・エジソン」である。そして、その第五位が、イタリアのルネッサンス期を代表する芸術家の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」である。
 源内の静電気の「エレキテル」とエジソンの「白熱電球」、そして、「江戸の浮世絵師(町絵師)・北斎」と「イタリア・ルネッサンス期の世紀の天才画家、レオナルド・ダ・ヴィンチ」との取り合わせは、何か因縁めいたものすら抱かせる。
 この北斎の「春朗時代」は、役者絵界の大御所であった「勝川春章」の門人の一人として、その春章の様式に倣った役者絵や美人画、黄表紙の挿絵などを、ひたすら描いていた時代であった。デビュー作は、二十歳の時の『吉原細見』の挿絵などである。
 この時代は、喜多川歌麿が、『婦女人相十品』などの「美人大首絵」で人気絶頂の時で、
北斎こと春朗は、はるかに後塵を拝していた時代である。

 寛政七年(一七九五)正月、数えで三十六歳の時から、北斎こと春朗は、「宗理」に改号する。この「宗理」という号は、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」に連なる京都の「宗達・光琳」の、その「俵屋宗達」に関係するもので、抱一とは別の琳派の「俵屋」派の「宗理」を襲名してのものなのかも知れない。
 「下谷の三幅対」の「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」との知己中の知己の大田南畝(蜀山人)が、その原撰した『浮世絵類考』で次のように記している。

「 古俵屋宗理ノ名ヲ続
二代目
宗理 寛政十年の比北斎と改む
三代目
宗理 北斎門人
これまた狂歌摺物の画に名高し浅草に住す
すへて摺物の絵は錦絵に似ざるを尊ぶそ  」(『浮世絵類考』=補記二―「P141」以降など)

 すなわち、寛政十年(一七九八)の、三十九歳の頃、北斎こと宗理は、それまでの「勝川春章」門の「春朗」でもなく、続く「俵屋宗理(初代)」を引き継いでの「宗理(二代目)」でもなく、完全に、独立しての「北斎」(「北極星」に因んでの号)を名乗るようになる。
この「北斎」に、画姓の「葛飾」を冠して、「葛飾北斎」と名乗るのは、文化二年(一七八〇五)、四十六歳の頃からで、この翌年に、喜多川歌麿が亡くなっている。
 そして、文化七年(一八一〇)、五十一歳の時な、「葛飾北斎戴斗画」と「戴斗(たいと)」の号を用いるようになる。この号は、文政二年(一八一九)までの役九年間にわたり用いられている。
 この「戴斗の時代」の、文化十一年(一八一四)に、西欧の芸術家たちに多大な影響を与え、その北斎を象徴する作品の一つと評せられている『北斎漫画』(ホクサイ・スケッチ)の、その初編が、名古屋の版元「永楽屋東四郎(東壁堂)」から刊行され、江戸での販売は奥付に名を連ねている「角丸屋甚助」であった(後に、もう二店の版元が参加している)。
そして、この『北斎漫画』のシリーズは、弘化四年(一八四七)に及ぶ大ロングセラーとなり、その完結編の十五編は、北斎没(嘉永二年=一八四九)後の、明治十一年(一八七八)のことだったという(『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』)。

北斎漫画初編.jpg
葛飾北斎画『北斎漫画』初編(山口県立萩美術館)の「巻末」(補記三)

 この『北斎漫画』初編の「巻末」に出て来る「大石真虎」は、北斎の門人(名古屋の浮世絵師)で、北斎は、これらの『北斎漫画』の下絵(三百余図)を、北斎の門人「月光亭墨仙」こと「牧墨僊」(名古屋の浮世絵師)宅で描き、その一端が、上記の初編として刊行されたのであろう。
 その初編の版元の跋(永楽屋東四郎)にある通り、この『北斎漫画』は、いわゆる「狂歌・狂句」に対応する「狂画」というのがその本態なのであろう。

『北斎漫画』初編・二編・三編
「興に乗じ心にまかせてさまざまの図(かたち)を写す篇を続(つい)て全部に充(ミでん)こと速(すみやか)也」
同四編
「草筆に加え席上の臨本にしからしむることを要す」(『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』)

 「漫画」というのは、「興に乗じ心にまかせて描く画」(「初編」等)というのが、その本態とされるが、それは、「草筆に席上の臨本にしからしむることを要す」(四編)と、いわゆる、蕪村等の「草画・席画」を加味しての世界のものなのであろう。そして、この蕪村の「草画」の代表的な世界の「俳画(俳諧・俳句と合体している画)」は、その「俳諧・俳句=狂句(俳句・川柳)」の世界で、それらは、まさしく、「狂歌・狂句」に対応する「狂画」というのが、最も相応しいであろう。
 この「戴斗の時代」に、例えば、文政元年(文化十五年・一八一八)の「東海道名所一覧」(補記四)のような「鳥観図」(バーズアイ・ビュー)を数多く手がけている。
 これらの北斎の、「北斎漫画」(ホクサイ・スケッチ)の「狂画」と「鳥観図」(バーズアイ・ビュー)は、北尾政美(鍬形蕙斎)から、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したとの逸話が残っている(斎藤月岑『武江年表』の「寛政年間の記事」)との背景となっている。

 次の「為一(いいつ)の時代」は、文政三年(一八二〇)、六十一歳の時からスタートとする。それは、還暦で振り出しに戻るという意を背景にしての「為一」の号で、この「為一期」こそ、北斎を象徴する時期ということになろう。

一 風景画 「富岳三十六景」(補記五)など
二 名所絵 「琉球八景」(補記六)など
三 古典画 「詩歌写真鏡」(補記七)など
四 花鳥画 「北斎花鳥画伝」(補記八)など
五 雑画ほか(怪談・幽霊画・玩具絵・団扇絵・その他) 「百物語」(補記九)など

 上記の分類などは、『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』を参考としているが、「浮世絵」の代名詞ともなっている「春画」については、触れられていない。上記に、「春画」の項目を追加して置きたい。

六 春画 「蛸と海女」(補記十)など

 北斎は、天保五年(一八三四)、七十五歳の時に、富士図を集大成した『富嶽百景』初編(補記十一)を刊行する。この『富嶽百景』初編の巻末に初めて、最後に用いた「画狂老人卍」の画号で「自跋」を載せている。その北斎の「自跋」は、次のようなものである。

「己(おのれ)六才より物の形状(かたち)を写(うつす)の癖(へき)ありて、半百の此(ころ)より、数々(しばしば)画図を顕(あらハ)すといへども、七十年前画(ゑが)く所は、実に取るに足るものなし。七十三歳にして、稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木(さうもく)の出生(しゅっしゃう)を悟(さと)し得たり。故に八十歳にしては、益々進み、九十歳にして、猶(なほ)其(その)奥意(あうい)を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)、百有(いう)十歳にしては、一点一格にして生(いけ)るがごとくならん、願くは長寿の君子、予(よ)が言(こと)の妄(まう)ならざるを見たまうべし。画狂老人卍述 」

画狂老人卍.jpg
『富嶽百景』巻末(補記十一)

 これが、北斎の「画狂老人卍期」のスタートである。そして、八十歳の中頃より、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸へと複数回訪ねている(小布施には、北斎の最晩年に描いた「冨士越龍図」を蔵する「北斎館」と妖怪画で名高い「高井鴻山美術館」とがある)。
 北斎が没したのは、嘉永二年(一八四九)四月十八日、江戸・浅草聖天町、遍照院境内の仮宅で、その九十年の生涯を閉じている。
辞世の句は、「人魂(ひとだま)で行く気散じや夏野原」、そして、北斎が最晩年の絶筆に近い「冨士越龍図」(補記十二)に、天に昇って行く「龍」(北斎の「人魂」)が描かれている。

補記一 北斎の生涯と画業 (北斎館)

https://www.book-navi.com/hokusai/life/life.html

補記二 『浮世絵類考』(大田南畝著) (国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068946

補記三 葛飾北斎『北斎漫画』 初編 (山口県立萩美術館)

www.hum2.pref.yamaguchi.lg.jp/sk2/book/manga1.htm

補記四 「東海道名所一覧」 (すみだ北斎美術館)

http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/43

補記五 葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き

http://fugaku36.net/

補記六 浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №1 №2

http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/8cb4940e55988c8770b6dd85a9ec729f?fm=entry_awp_sleep

http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/e70b89e9d2a8039310123c4fb1f7e119

補記七 「詩歌写真鏡」  Ritsumeikan University

https://ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0170-211

補記八 「北斎花鳥画伝」 国立国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851635

補記九 百物語 こはだ小平二  (すみだ北斎美術館)

http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/74

補記十 蛸と海女  (江戸ガイド)

https://edo-g.com/blog/2015/11/shunga.html

補記十一 『富嶽百景(初編)』  (ARC古典籍ポータルデータベース)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results1024.php?f1=BM-JIB0214&f12=1&enter=portal&max=1&skip=0&enter=portal

補記十二 「冨士越龍図」

北斎先生の生涯③~北斎、天にのぼる編~
http://hokusai-kan.com/w/北斎新聞

大英博物館 国際共同プロジェクト― 北斎 ―富士を超えて―
https://www.artlogue.org/event/joint-international-project-with-the-british-museum-hokusai2017/

冨士越龍図.jpg
北斎筆「冨士越龍図」(「北斎館」蔵)


追記一 葛飾北斎画「潮来絶句」(洛東遺芳館蔵)について、

 冒頭の「潮来絶句」に関連して、その「作品解説」中の、「享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました」の、「享和二年版」のものは、「補記十」で、その全文(全画)が閲覧できる。
 また、この「作品解説中」の、「藤堂良道が漢詩に翻訳し、谷文晁の弟の東隄が書き、北斎が絵を描いたものです。蔦屋重三郎、 発禁処分を受けていました」に関連して、蔦屋重三郎(初代)は、寛政九年(一七九七)に四十八歳で没しており、「発禁処分を受けた」、その初版のものは、北斎の「宗理の時代」(寛政七年・三十六歳~寛政十年・三十九歳)に描いたものということになろう(ここに描かれて美人像は、まさしく、北斎こと宗理の描く抒情性を漂わせている細面のものが多い)。
 それが、「作品解説」中の、「展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません」の、発禁処分を受けた「初編」なのかどうかは、定かではない。
 なお、「享和二年版」の版元は、二代目の蔦屋重三郎で、北斎は、その「初代」と「二代目」の、両方の「蔦屋重三郎」と「版元と浮世絵師」との関係にあるのだろう。そして、その背後には、「曲亭馬琴」が居り、それらが、文化四年(一八〇七)の、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本『鎮西弓張月』の刊行開始と連動してくるように思われる。
 ここで、発禁処分を受けた「初版」のものと、曲亭馬琴が前面に出て来る「再版」との、その時代史的背景、そして、この『潮来絶句』の、「藤堂良道、谷文晁の弟・東隄、北斎、蔦屋重三郎」との、この四者の関係というのは、「北斎」からの視点ではなく、「寛政年間の谷文晁」(補記十三)、「享和、文化年間の谷文晁.」(補記十四)、そして、トータル的に、「谷文晁」(補記十四・十五・十六)などに視点を当てると、その実像が見えてくるような、
そんな感じでなくもない。

補記十三 潮来絶句 / 富士唐麻呂著・葛飾北斎画 (早稲田大学図書館蔵)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he07/he07_04653/index.html

補記十四 寛政年間の谷文晁― 福島大学附属図書館

www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005035/16-165.pdf

補記十五 享和、文化年間の谷文晁. (磯崎康彦稿)

http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005092/16-177.pdf

補記十六 ARC古典籍ポータルデータベース ― 谷文晁関係

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f7=%E8%B0%B7%E6%96%87%E6%99%81



追記二 『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』の著者逝去

訃報:永田生慈さん 66歳=浮世絵研究家、元太田記念美術館副館長
毎日新聞 · 14時間前

https://mainichi.jp/articles/20180207/ddm/041/060/206000c

永田生慈氏が死去 北斎研究の第一人者
日本経済新聞 · 22時間前

永田生慈氏死去=66歳、北斎研究の第一人者
時事通信 · 20時間前

葛飾北斎美術館の永田生慈館長が2月24日、ティエリー・ダナ駐日フランス大使により、芸術文化勲章オフィシエに叙されました。

https://jp.ambafrance.org/article9838
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十三 北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」など) [洛東遺芳館]

(その十三) 北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」など

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北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

賛は大田南畝の狂詩と狂歌です。題には「百富士」とあって、百枚シリーズとして企画されたようですが、実際には、わずかしか作られなかったようです。吉田暎二の『浮世絵事典』には「七枚を知っている」とあります。当館も七枚所蔵しています。河村岷雪の『百富士』(明和4年)の影響を受けていますが、風景画としては、はるかに完成度が高く、特にこの作品では、鳥瞰図を得意にした政美の特徴がよく出ています。

 この「北尾政美」は、後の「鍬形蕙斎」その人である。先に、北尾政演(山東京伝)に関連して、同門(北尾重政門)・同年齢(宝暦十一年=一七六一)で紹介したが、政美は、明和元年(一七六四)の生まれで、三歳後輩のようである。
 また、酒井抱一に関連して、『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の挿絵を掲載し、その登場人物の一人は、「酒井抱一」としているものもあるが、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎」であるとしたものを紹介した(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「北尾政美」(鍬形蕙斎)も、「北尾政演」(山東京伝)に劣らず、狂歌名は「麦蕎雄魯智(麦野大蛇麿=おろち)」、戯作名は「気象天業=てんごう」など、マルチの多種・多芸・多才のスーパータレントの一人である。
 安永七年(一七七八)の咄本『小鍋立』(作者不明、一冊)が初筆とされ、巻末に「北尾重政門人三治郎十五歳画」と署名している。この「三治郎」は俗称で、父が畳職人であったことから、その俗称と併せ「畳屋の三公」が、そのあだ名である。
 その「畳屋の三公」が、寛政六年(一七九四)、三十一歳の時に、津山藩の御用絵師(大役人格、十人扶持、別に絵の具料三両支給)となり、破格の抜擢で、剃髪し、名も「鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)紹真(つぐざね)」を称するようになるのである。しかも、
御用絵師になった後も、主たる本拠地は江戸で、津山藩には、文化七年(一八一〇)、四十七歳当時、一年弱の赴任の程度なのである。

 大田南畝が深く関与している『増補浮世絵類考』では、「政美(鍬形蕙斎)は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又(ハ)光琳(尾形)或(イハ)芳中(中村)が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評している。
この政美(蕙斎)の「略画式」(補記一)や「鳥瞰的な一覧図」(補記二)は、同時代の葛飾北斎に、「北斎漫画」や「東海道名所一覧」「木曽名所一覧」といった形で真似されたとも伝えられ、政美(蕙斎)はこれを苦々しく思っていたらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したとの逸話が残っている(斎藤月岑『武江年表』の「寛政年間の記事」)。

 平成十一年(一九九九)の、『ライフ』(アメリカの有力雑誌」)の企画の、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(「Life's 100 most important people of the second millennium」)で、日本人として唯一ランクインしている「北斎」に比すると、その北斎が生きていた、日本の「江戸時代」では、「北斎嫌いの、蕙斎好き」という評が一般的であったほどの「蕙斎(政美))」は、今や、完全に北斎の後塵を拝して、影の薄い存在に追いやられているということは、どうにも致し方のない現実の一端なのであろう。

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鍬形蕙斎(北尾政美)筆『略画式大全』(冒頭画)→(「補記三」の内『略画式大全』の内)

ダビンチ2.jpg
レオナルド・ダ・ヴィンチ筆「ウィトルウィウス的人体図」(補記四)

 上記の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(「Life's 100 most important people of the second millennium」)では、日本で唯一ランクインされた「北斎」は、八十六番目だが、その五番目にランクされているのは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 (イタリア)である。
そのダ・ヴィンチの、上記の「ウィトルウィウス的人体図」は、夙に知られている作品で、その「モナ・リザ」が、芸術的な傑作画(ペインティング)とすると、こちらは、科学的な医学の専門的な分野でも高く評価されている、ペインテイク(色彩画など)というよりも、理想的な人体図を意図してのドローイング(デッサン・素描など)の傑作画ということになろう。

 ここで、思い起こされて来るのは、杉田玄白の『解体新書』の表紙絵などを描いた、秋田蘭画の「小田野直武」と、その小野田直武を、杉田玄白に紹介・推薦をした、「日本のダ・ヴィンチ」との異名も有する「平賀源内」との二人である。
 この小田野直武が、この『解体新書』の作業に取り掛かったのは、安永三年(一七七四)、二十五歳、秋田の片田舎から江戸に出て来て、目を白黒している直武は、当時、四十一歳の玄白に、『ターヘル・アナトミア』を始め、全く「未聞・未見の洋書を五・六冊預けられて、一挙に世紀の大事業への直接参加を強いられる」(補記五)という、前代未聞の珍事ともいうべきことに遭遇するのである(補記五には、『解体新書』と『ターヘル・アナトミア』の表紙絵が併記して掲載されている)。
 この直武には、重要文化財に指定されている「東叡山不忍池図」(秋田県立近代美術館蔵)がある(補記六)。
 その画面前景(「芍薬の大輪」など)は、「立体を意識した陰影法・遠近法」、そして、中景から遠景(「不忍池」など)は、「遠くに淡色、近くに濃色を使った空気遠近法」が駆使され、日本画の中に西洋画の技法を応用したという、直武作品の傑作画とされている。
 この直武の「東叡山不忍池図」の前景の「芍薬の大輪」に、次の平賀源内の「西洋夫人図」を入れ替えると、これは、紛れもなく、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と鑑賞して差し支えなかろう。

源内・西洋夫人図.jpg
平賀源内筆「西洋婦人図」(神戸市立博物館蔵)

 その、もう一人の「日本のダ・ヴィンチ」の異名を有する平賀源内は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」等々と、これはまさしく前代未聞の、多種・多芸・多才のマルチ・スーパータレントの元祖のような人物として、これまた、差し支えなかろう。

 この平賀源内は、安永八年(一七七九)に、五十歳で不慮の死を遂げる。そして、その不慮の死に関係するかのように、小田野直武も、その翌年に、その三十年の生涯を閉じている。
 そして、この平賀源内が没する一年前の、安永七年(一七七八)の咄本『小鍋立』(作者不明、一冊)に、当時、十五歳の、「北尾重政門人三治郎十五歳画」の、その「三治郎」こと、鍬形蕙斎(北尾政美)がデビューして来るのである。

 こうして見て来ると、「安永三年(一七七四)のフットボール時代」(杉田玄白→平賀源内→小田野直武)は、「蕪村(五十九歳)→大雅(五十二歳)→応挙(四十二歳)」等々の「京都画壇のフットボール時代」であった。
 これらの「江戸中期のフットボール時代」の流れが、次の「抱一(一七六〇生まれ)→北斎(一七六〇生まれ)→山東京伝(一七六一生まれ)→文晁(一七六三生まれ)→蕙斎(一七六四生まれ)」等々と、「江戸後期の江戸(東京)フットボール時代」へと変遷して行くということになる。
 この変遷の背景には、老中・松平定信が断行した「寛政の改革」がある。寛政三年(一七九一)の、山東京伝作洒落本三部作(版元・蔦重)の摘発などは、酒井抱一らに対する陰に陽にの圧力となって、それらが、「江戸後期の江戸(東京)のフットボール」の大きな陰となっているのは歪めない事実のことであろう。
 しかし、この白河候は、一方で、谷文晁や鍬形蕙斎の創作活動を重視し、それを積極的に、己が目指している「寛政の改革」に関する施策の実行に当たり、取り入れ、且つ、それらを活用しているのである。
 その一つの現れが、定信の近習として仕えた文晁の「公余探勝図」、また、その定信の命を受け、古文化財を調査しての図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に繋がって来る。
 さらに、定信は、鍬形蕙斎の略画の絵手本『略画式』を高く評価し、それらに連なる技法を駆使して、蕙斎に、「近世職人尽絵詞」(東京国立博物館所蔵)(補記一)や「黒髪山縁起絵巻」(寛永寺所蔵)(補記七)などの作品を手がけさせている。その「鳥瞰的な一覧図」(補記二)なども、定信との何らかの関連があるものなのであろう。

 ここで、当時の幕藩体制の中心に位置する松平定信が、当時の、一介の画人の、谷文晁や鍬形蕙斎などを重視し、一方で、同じ画人でもある、山東京伝などに厳しい姿勢で臨んだ、その背景の一端には、その「風俗観・風俗施策」などと深く関わるものなのであろうが(補記八)、そういうことを抜きにして、ズバリ、現在の、「写真家、リポーター(現地・現場の情報収集者・報告者)」のような才能を、文晁や蕙斎に見出していたように思われる。

「いま画というものは、浮世絵なりといふは激論なり。されど唐の十八学士の図をみて、そのころの服をもしるぞかし。(中略)さればこのうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし、真の山水をものちの証とはなすべし。」(『退閑雑記(巻一))』

 この「いま画というものは、浮世絵なり」というのが、当時の江戸中期から後期にかけての、 松平定信(楽翁)の名言なのだが、その「浮世絵」の中にあって、その「真の山水」の、この「真」こそ、定信が、谷文晁や鍬形蕙斎(北尾政美)に期待してものと、そんな思いを深くするのである。

補記一 近世職人尽絵巻(文化遺産オンライン)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/13984

(抜粋)鍬形蕙斎(1764-1824)は浮世絵師北尾重政の門人だが,津山藩松平家のお抱え絵師となった異色の経歴を持つ。本図巻は白河侯松平定信の需めにより描いたもので,江戸における多種多様な職業に従事する人々を,軽妙かつ生き生きとした筆致でとらえている。

補記二 江戸一目図屏風(文化遺産オンライン)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86296

補記三 ARC古典籍ポータルデータベース

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?-format=results-1.htm&f7=北尾政美(画)&-max=10&enter=portal

www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Ebi0574&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal#

補記四 レオナルド・ダ・ヴィンチ 「ウィトルウィウス的人体図」

https://www.musey.net/48

補記五 秋田蘭画の不思議 ―小田野直武とその同時代世界―(芳賀徹 稿)

http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1402.pdf

補記六 絹本著色不忍池図〈小田野直武筆/〉文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151921

補記六 平賀源内記念館

http://hiragagennai.com/hiragagennai/

補記七 銘石「黒髪山」 附、箱・紙本着色黒髪山縁起絵巻(鍬形蕙斎画)

www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/kurokamiyama.html

補記八 松平定信のジェンダー観 ―風俗政策の背景― (鬼頭 孝佳 稿)

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol11/07.pdf

補記九 『退閑雑記』(松平定信著)

http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898547

補記十 退閑雑記. 巻之1-13 / 定信 [撰]

www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he10/he10_05194/index.html


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十二 鈴木其一筆「抱一上人像」など) [洛東遺芳館]

(その十二) 鈴木其一筆「抱一上人像」など

抱一上人像.jpg
鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵

「抱一は文政十一年(一八二八)十一月二十九日に亡くなった。その尊像は、翌年四月に鶯蒲が二幅を描いたことや、孤邨も手掛けていたこと(『抱一上人真蹟鏡』所収)が知られている。また抱一の孫弟子野崎真一による肖像画もある。円窓の中に師の面影を描く。鶯蒲作は面長で痩せたイメージに描かれるが、其一本は全体に丸味を帯びた容姿である。其一はこの時期「亀田鵬斎像」(個人蔵)などを手掛けおり、肖像画には強いこだわりをもっていたことと思われる。「噲々其一謹写」と書かれた署名からも、師への崇敬の念が伝わってくる。角ばった頭の形や衣服の描写は、抱一の「其角像」(個人蔵)に通じるものがあり、あるいは抱一が敬愛した其角のイメージも重ねられているのかも知れない。」
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

 酒井抱一の一番弟子の鈴木其一の、この「抱一上人像」は「洛東遺芳館蔵」ではなく、「個人蔵」である。抱一と其一の作品は、京都では「細見美術館蔵」のものが多いのだが、「洛東遺芳館蔵」の其一作品として、「三社図」(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品90」)などがある。
 冒頭の作品解説にある「亀田鵬斎像」(鈴木抱一筆)は、サントリー美術館などで開催された「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展(2016/9/10~10/30)には出品されていなかった。
 その作品は、次のものなのかも知れない(「補記一」)。

鵬斎像.jpg
「亀田鵬斎像」(鈴木其一筆か?) 

 「下谷の三幅対」の、酒井抱一と亀田鵬斎との、その肖像らしきものを見て来ると、もう一人の「谷文晁」(自画像)も併載して置きたくなる。
「文晁年譜」(『日本の美術№257 谷文晁』所収)の「享和元年(一八〇一)四十歳」の項に「三月二カ月前没した木村蒹葭堂(67)の肖像を描く(款記)。五月鵬斎、抱一と共に常陸国若芝金龍寺に遊び江月洞文筆蘇東坡像を模写、後その複写を二人に贈る(相見香雨集二)。」とある。下記の「谷文晁」(自画像)は、その頃のものである。

谷文晁.jpg
谷文晁筆「谷文晁(自画像)」 近世名家肖像図巻(谷文晁筆)・東京国立博物館

 また、「文晁年譜」(『日本の美術№257 谷文晁』所収)の「文化十二年(一八一五)五十三歳」の項に、「十月中屋六右衛門隠宅における酒合戦に、抱一、鵬斎、南畝等と参加(後水鳥記)。『酒合戦』描く。」とある。
 この文晁が描いた「酒合戦」における「酒井抱一像(抱一上人像)」は、次のもの(中央の僧体の人物)なのかも知れない(補記二)。

酒合戦・抱一.jpg
谷文晁筆(?)「抱一上人像(?)」(中央の僧体の人物)

補記一 亀田鵬斎について

http://sawarabi.a.la9.jp/040725isasaramai/kamedabousai.htm

補記二 酒合戦 →  ミュージアム巡り 江戸のレシピ 街談文々集要

http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2011/e/d8038e593ad23653fc66cc14623c4b37

補記三 酒合戦 → 千住宿

http://www.wikiwand.com/ja/千住宿

(抜粋)
千住酒合戦
千住酒合戦とは、文化12年(1815年)10月21日、千住宿の飛脚問屋の中屋六衛門の六十の祝いとして催された。現在の千住一丁目にあった飛脚宿であり、会場を中屋とした。 審査員として、下谷の三福対である江戸琳派の祖の酒井抱一、絵師の谷文晁、儒学者・書家の亀田鵬斎の他、絵師谷文一、戯作者の太田南畝など、著名人が招かれた。酒合戦の時には、看板に「不許悪客下戸理窟入菴門」と掲げられた。この酒合戦は競飲会であり、厳島杯(5合)、鎌倉杯(7合)、江島杯(1升)、万寿無量杯(1升5合)、緑毛亀杯(2升5合)、丹頂鶴杯(3升)などの大杯を用いた。亀田鵬斎の序文(『高陽闘飲序』)によれば、参加者は100余名、左右に分かれた二人が相対するように呑み比べが行われた、1人ずつ左右から出て杯をあけ、記録係がこれを記録した。
千住酒合戦に関する記録は多数あり、『高陽闘飲図巻』:『高陽闘飲序』亀田鵬斎、『後水鳥記』 谷文一・大田南畝、『擁書漫筆』三 小山田与清(高田與清)、『酒合戦番付』、『千住酒合戦』(木版)、そして『街談文々集要』(万延元年(1860年)序)石塚重兵衛(号:豊芥子)などがある。


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十一 谷文晁の水墨画・肖像画) [洛東遺芳館]

(その十一) 谷文晁の町物(水墨画・肖像画)

文晁.jpg
谷文晁筆「人物花鳥押絵貼屏風」一双のうち「墨梅図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

天保元年(1830)、文晁六十八歳の時の作品です。文晁は、五十歳代から江戸画壇の第一人者として活躍していました。最盛期の文晁には、大胆な筆使いのものがあって、時に批判されることもありますが、この墨梅図では、梅の枝振りを表現するのに効果的に使われています。このような表現は、弟子の立原杏所(きょうしょ)の葡萄図にも通うところがあり注目されます。

 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。

 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。
 この時に、谷文晁は、呉春(月渓)が描いた「蕪村肖像」を模写して、その模写絵と己の「八か条の画論」とを一緒に一幅に仕立てているのである。

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」が、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

 呉春(月渓)は、他にも数点の蕪村像は描き、さらに、木彫りにしたものも見受けられるが、この像こそ「蕪村肖像」としては、最も、蕪村を知る最側近の、呉春(月渓)」ならではの会心の作と解して差し支えなかろう。
 そして、あろうことか、「江戸南画・関東南画の大成者」「江戸後期の日本画壇の第一人者」として、その「江戸画壇・関東画壇・日本画壇」の、その頂点に位置した「谷文晁」が、この呉春(月渓)の「蕪村肖像」を実見して、それを模写(臨写)して、それを、さらに、己の「八か条の画論」を付して、一幅に仕立てものが、今に、現存しているのである。

文晁・蕪村模写.jpg
谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

 ここまで来て分かったことは、しからば、これなる「谷文晁」が、今に残している「傑作画」というのは無数にあるし、あり続けるのであろうが、その内でも、その人物像、そして、その肖像画(その有名・無名の一人ひとり)、ここに注目をしたいのである。これは、おそらく、永遠不滅という思いがするのである。

 ということで、これまでにも、このサイトで活用したものなどを、ここに掲示をして置きたい。

補記一 蒹葭堂肖像画について(谷文晁筆) 大阪府教育委員会蔵(重要文化財)

www.mus-nh.city.osaka.jp/collection/kenkado/top_01kensho.html

補記二 近世名家肖像図巻(谷文晁筆) 東京国立博物館

円山応挙
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024598

谷文晁
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

大典和尚
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024595

六如(僧)と皆川淇園
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024599

田中納言
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

岸駒
http://image.tnm.jp/image/1024/C0024600.jpg

木村蒹葭堂
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024604

大田南畝
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024608

頼春水(弥太郎)と村田春海
http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024610

その他(この追記が、今後の課題であろう)


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十一 酒井抱一・その六) [洛東遺芳館]

(その十一) 酒井抱一(その六)「京琳派・江戸琳派など」

伊年.jpg

「鶴図」(「伊年」印) 洛東遺芳館蔵

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2015.html

「伊年」印が押されています。この印は俵屋宗達の工房印と考えられています。「伊年」印にも幾種類かありますが、この作品に押されたものは国宝「蓮池水禽図」(京都国立博物館所蔵)のものと同じと思われます。鶴の姿は、明時代初期の画家文正が描いた「鳴鶴図」(承天閣美術館所蔵)の左幅の鶴をモデルにしています。かなり忠実に似せていますが、首の羽毛表現、尾羽のたらしこみには宗達の特徴が表れています。

 この「伊年」印については、次のアドレスのものが詳しい。すなわち、俵屋ブランドのマーク(俵屋宗達工房のマーク)というのである。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/163.html

京都国立博物館→草花図襖「伊年」印

(抜粋)

作者について詳(くわ)しくは分(わか)りません。でも、俵屋宗達(たわらやそうたつ)という絵師と関係の深い作品と考えられています。俵屋宗達は、桃山時代から江戸時代の初めに京都で活躍した絵師で、「風神(ふうじん)・雷神図屏風(らいじんずびょうぶ)」の作者として有名ですよね。

 応仁(おうにん)の乱(らん)で荒廃(こうはい)した京都では、「町衆(まちしゅう)」という、裕福(ゆうふく)な商工業者(しょうこうぎょうしゃ)たちが構成する自治組織(じちそしき)が力をたくわえ、やがて、それまでの武家(ぶけ)や公家(くげ)に代わって、新(あら)たな文化の担(にな)い手となっていきます。

 宗達も、その「町衆」のひとりでした。「俵屋」という屋号(やごう)の「絵屋(えや)」の経営者で、自分も製作し、職人である弟子たちを指導していたようです。「絵屋」は、桃山時代から江戸初期にかけて登場した新しい職業で、色紙(しきし)や短冊(たんざく)の下絵、扇絵(おうぎえ)、灯籠(とうろう)の絵、あるいは染織の描絵や下絵などを手がけ、製作した絵を店頭(てんとう)で販売したり、受注製作(じゅちゅうせいさく)を行なったりしていました。

 「俵屋」は、高級ブランドとして、当時たいへんな人気を集め、やがて、お寺や朝廷からも注文がくるようになります。その俵屋製とみられる金箔地に草花を描いた襖絵や屏風絵が何点かのこされています。そのなかで最も古く、すぐれた作品として昔から定評(ていひょう)があるのがこの絵。宗達のすぐれた弟子のひとりによって描かれたとみられています。右端の下に、「伊年」と読めるハンコが捺(お)されていますね。これは、俵屋ブランドのマークなのです。

酒井抱一.jpg

酒井抱一筆「桜楓図」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2015.html

紅葉ではなく、青楓が桜と対になっているのは珍しいですが、光琳に屏風の作例があり、それに傚った抱一の屏風作品もあります。それらの屏風作品は装飾的な画風ですが、この作品は描写的で、同時代の円山四条派に似た雰囲気があります。左幅では、橘千蔭の賛にも「ややそめ(染め)かくる」とあるごとく、紅葉しかけている姿が描写されています。
落款の書体から、初期の作品であることが分かります。鈴木其一の「雨中桜花楓葉図」(静嘉堂文庫美術館所蔵)は、この作品が原型になっているようです。

 「伊年」印が、俵屋ブランドのマーク(俵屋宗達工房のマーク)とすると、「酒井抱一工房」は、そのマークはともかく、文化六年(一八〇九)末に移り住んだ、下谷大塚の寓居(アトリエ)の「雨華(うげ)庵」ということになろう。
そして、抱一画に、上記の橘千蔭賛、また、抱一画に、亀田鵬斎賛があると、それは、「酒井抱一工房」作品というよりも、抱一のオリジナル的な、「画・文(詩・歌・句など)」一致の、「江戸琳派の抱一画」というよりも、「江戸町物(衆)の抱一画」という趣がして来る。
とにもかくにも、抱一の「雨華庵」については、次のアドレスのものが詳しい。

http://ctobisima.blog101.fc2.com/blog-entry-314.html



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十 酒井抱一・その五) [洛東遺芳館]

(その十) 酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

夏秋草図屏風.jpg
酒井抱一筆「夏秋草図屏風」紙本銀地着色 二曲一双 各一六四・五×一八一・八cm
東京国立博物館蔵(重文) 文政四・五年(一八二一・二二)頃

「銀箔地の右隻は夕立にしなだれる夏草、左隻には風にたなびく秋草を描く。一八二一(文政四)年末頃。十一代将軍徳川家斉の実父、一橋治済(はるさだ)の注文で描かれたことが、下絵とともに出現した書付から判明した。もとは光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれていたが、現在は別々の屏風に仕立て直されている。機知に富む構成、曲線を多用した優美で卓越した描写など、抱一作品の最高峰を誇る。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の風流を描く(岡野智子稿)」)

 この解説文の、「下絵とともに出現した書付から判明した。もとは光琳の『風神雷神図屏風』の裏面に描かれていたが、現在は別々の屏風に仕立て直されている」の、その下絵なるものの、「夏秋草図屏風草稿」は、次のものなのである。

抱一下絵.jpg
酒井抱一筆「夏秋草図屏風草稿」紙本着色 二曲一双 各一六二・〇×一八一・四cm
出光美術館蔵 文政四年(一八二一)

「一九九一年の発見当時、大きく話題になった『夏秋草図屏風』の本下絵。もとは折り畳まれて保管されていたようだが、現在屏風に改装されている。その屏風の裏に添付されている書付によると、この下絵は文政四年十一月九日に、抱一から注文主の一橋治斎に宛てた、伺下絵であった。この下絵から本絵への制作過程に、構図上の変更はほとんどない。」
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の風流を描く(岡野智子稿)」)

 この「夏秋草図屏風草稿」(「夏秋草図屏風」下絵)が発見されたのは、平成三年(一九九一)のことなのである。そして、この草稿(下絵)には書付があって、そもそもは、尾形光琳の「風神雷神図屏風」の裏に描かれたものであることが判明したというのである。

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg
上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵

 ここまで来ると、光琳筆「風神雷神図屏風」は「金地」なのに対して、抱一筆「夏秋草図屏風」は「銀地」を配したということが鮮明になって来る。
 さらに、
光琳筆「風神雷神図屏風」は、「風神雷神」という「天」に対して、抱一筆「夏秋草図屏風」は、「夏秋草」という「地」を配したということが鮮明になって来る。
 さらに、
光琳筆「風神雷神図屏風」の「風神」に対して、抱一は「風に靡く秋草」、その光琳の「雷神」に対して、抱一は「雷雨に打たれる夏草」を配したということが鮮明になって来る。

 その上で、この下絵が描かれた文政四年(一八二一)は、三月から大旱魃に見舞われた年で、七月に漸く降雨があったが、抱一が「夏秋草図屏風」を手掛けるにあたり、風神雷神に雨乞いの祈りを託し、雨の恵みを受ける夏草を描いたとなると、これは、誠に、数奇なドラマの一コマということになる。

 さて、そのドラマの一コマに続く、次の一コマは、「風神雷神あれこれ」(画像は省略)である。

一 俵屋宗達筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 各154.5×169.8㎝ 国宝 建仁寺蔵

二 尾形光琳筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(18世紀) 各166×183㎝ 重文 東京国立博物館蔵 

三 酒井抱一筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(19世紀) 各170.7×170.2㎝ 出光美術館蔵

四 鈴木其一筆「風神雷神図襖」四面表裏(部分) 絹本着色 各面169×116㎝ 東京富士美術館蔵

これらのドラマの解説は、次の「補記一・補記二」に、その一部が掲載されている。そして、「補記三」に続くのである。


補記一 「夏秋草図屏風」の見どころチェック! (東京国立博物館)

http://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2013/09/15/夏秋草図屏風見どころ/

補記二 京琳派、江戸琳派の「風神雷神図」

https://intojapanwaraku.com/art/20170330/10332

補記三 『光琳百図』(国立国会図書館デジタルコレクション) 八九頁中の「八二頁と八三頁」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その九 酒井抱一・その四) [洛東遺芳館]

(その九) 酒井抱一(その四)「鵬斎・文晁などの交友」

料理通.jpg
『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「グルメ紹介本」は、当時、山谷にあった高級料亭「八百善」の主人・栗山善四郎が刊行したものである。酒井抱一は、表紙見返し頁(P2)に「蛤図」と「茸・山葵図」(P45)などを描いている。「序」(p2・3・4・5)は、亀田鵬斎の漢文のもので、さらに、谷文晁が、「白菜図」(P5)などを描いている(補記一のとおり)。
 ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。

 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「享和二年(一八〇二)四十二歳」に、「亀田鵬斎、谷文晁とともに、常陸の若芝金龍寺に出かけ、蘇東坡像を見る」とある。
 この年譜の背後には大きな時代の変革の嵐が押し寄せていた。それは、遡って、天明七年(一七八七)、徳川家斉が第十一代将軍となり、松平定信が老中に就任し、いわゆる、「寛政の大改革」が始まり、幕府大名旗本に三年の倹約令が発せられると、大きな変革の流れであったのである。
 寛政三年(一七九一)、抱一と同年齢の朋友、戯作者・山東京伝(浮世絵師・北尾政演)は、洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五十日の処分を受ける。この時に、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」こと蔦屋重三郎も過料に処せられ、財産半分が没収され、寛政九年(一七九七)には、その四十八年の生涯を閉じている。
 この蔦屋重三郎が没した寛政九年(一七九七)、抱一、三十七最の時が、抱一に取って、大きな節目の年であった。その十月十八日、西本願寺第十八世文如の弟子となり、出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗り、以後、「抱一上人」と仰がれることになる。
 しかし、この抱一の出家の背後には、抱一の甥の姫路藩主、酒井忠道が弟の忠光を養嗣子に迎えるという幕府の許可とセットになっており、抱一は、酒井家を実質的に切り捨てられるという、その「酒井家」離脱を意味するものなのであろう。
 この時に、抱一は、柿本人麻呂の和歌「世の中をうしといひてもいづこにか身をばかくさん山なしの花」を踏まえての、「遯入(のがれい)る山ありの実の天窓(あたま)かな」(句稿『椎の木陰』)との、その出家を受け入れる諦めにも似た一句を詠んでいる。そして、この句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」と、自らの意思で出家をしたように、断定的な句形で所収され、それが最終稿となっている。これらのことを踏まえると、抱一の出家というのは、抱一に取っては、不本意な、鬱積した諸事情があったことを、この一句に託していねかのように思われる。
 これらのことと、いわゆる、時の老中・松平定信の「寛政の改革」とを直接的に結びつけることは極めて危険なことであるが、亀田鵬斎の場合は、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥するところの、いわゆる「寛政異学の禁」の発布により、「異学の五鬼」(亀田鵬斎・山本北山・冢田大峯・豊島豊洲・市川鶴鳴)の一人として目され、その門下生が殆ど離散するという、その現実的な一面を見逃すことも出来ないであろう。
 この亀田鵬斎、そして、その義弟の建部巣兆と酒井抱一との交友関係は、この三人の生涯にわたって密なるものがあった。抱一の「画」に、漢詩・漢文の「書」の賛は、鵬斎のものが圧倒的に多い。そして、抱一の「画」に、和歌・和文の「書」は、抱一が見出した、橘千蔭と、この二人の「賛」は、抱一の「画」の一つの特色ともなっている。
 そして、この橘千蔭も、鵬斎と同じように、寛政の改革により、その賀茂真淵の国学との関係からか、不運な立場に追い込まれていて、抱一は、鵬斎と千蔭とを、自己の「画」の「賛」者としていることは、やはり、その根っ子には、「寛政の改革」への、反権力、反権威への、抱一ならでは、一つのメッセージが込められているようにも思われる。
 しかし、抱一は、出家して酒井家を離脱しても、徳川家三河恩顧の重臣の譜代大名の酒井雅樂頭家に連なる一員であることは、いささかの変わりもない。その酒井雅樂頭家が、時の権力・権威の象徴である、老中首座に就いた松平定信の、いわゆる厳しい風俗統制の「寛政の改革」に、面と向かって異を唱えることは、決して許されることではなかったであろう。

 さて、「下谷の三幅対(抱一・鵬斎・文晁)」の、鵬斎・抱一に並ぶ、もう一人の谷文晁は、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」とすると、親「松平定信(楽翁)ということになる。
文晁は、寛政四年(一七九に)に、寛政の改革の中心人物・松平定信に認められて、その近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂にも従って挿図を描いている。
 その画塾写山楼には多くの弟子が参集し、渡辺崋山・立原杏所など後の大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。門弟に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われ、、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だったと言う。弟子思いの師としても夙に知られているが、権威主義的であるとの批判も伝えられている。それは、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」なのに比して、親「松平定信(楽翁)」であったことなどに由来しているのかも知れない。
 しかし、この「鵬斎・抱一・文晁」の三人の交友関係は、その「下谷の三幅対」の命名のとおり、「長兄・鵬斎、次兄・抱一、末弟・文晁」の、真ん中に「鵬斎」、右に「抱一」、左に「文晁」の、その「三幅対」という関係で、そして、その関係は、それぞれの生涯にわたって、いささかの微動すらしていないという思いを深くする。
 その末弟の文晁が、その長兄の鵬斎を描いた肖像画がある。

鵬斎像・文晁筆.jpg
「亀田鵬斎像」谷文晁画 北村探僊縮模

 この「鵬斎」像と、冒頭に掲げた「食卓を囲む文人たち」の中央に位置する「鵬斎」像とを交互に見て行くと、江戸後期の、当時の並み居る「文人・墨客」の中で、まさに、鵬斎というのは、常に中央に居した、その人物像が彷彿として来る。
 ちなみに、冒頭の「食卓を囲む文人たち」の、右端の大田南畝(蜀山人・四方赤良)は、左端の、大窪詩仏(詩聖堂・既酔亭)について、「詩は詩仏(大窪詩仏)、書は米庵(市川米庵)に狂歌俺(大田南畝)、芸者小万(山谷堀の花形芸者)に料理八百善(山谷堀の名店)」という狂歌を残している。
 この狂歌は、料亭・八百善で、当時の山谷堀の花形芸者であった小万に、その三味線の胴裏に、この狂歌の賛を書いたとも言われている。
 そして、もう一人の、鵬斎の前面に座っている、抱一と間違われている坊主頭の鍬形蕙斎は、一介の浮世絵師から異例の抜擢で美作津山藩の御用絵師となった画人で、山東京伝(北尾政演)とは、同門(北尾重正門)、同年齢(宝暦十一年=一七六一)の間柄である。

補記一 『江戸流行料理通大全 見返し題:八百善料理本』 早稲田大学図書館 (Waseda University Library)

www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wo08/wo08_00046/index.html

補記二 江戸の食文化

http://hikog.gokenin.com/edonosyokubunka2.html

四代目の八百善主人栗山善四郎は趣味が広く、当時一流の文人墨客と交流があり、その著書『料理通』には、蜀山人(大田南畝)、亀田鵬斎が序文、谷文晁、葛飾北斎、酒井垉一などが挿絵を寄せている。八百善はペリーへの饗応料理も担当したことでも名を残している。

「客が二、三人で極上の茶と、うまい香物のお茶漬けを注文したら、お茶漬けは結構な味ではあったが、その勘定書はなんと1両2分であった」とか(現在の貨幣価値だと約15万円?)。
八百善は材料をよく吟味し、それらをうまく引き立てる為、手間暇をかけていたのであろう。ぼったくりとも思える法外な値段の大きな理由として、主人曰く、京都のお茶にあう「水」を佐川急便もとえ早飛脚を使って、玉川上水まで取りに行かせたのだと云う。(『寛天見聞記』)

酒井抱一(さかい・ほういつ)
(1761-1828) 江戸後期の画家。姫路城主酒井忠以(ただざね)の弟。本名、忠因(ただなお)。狂歌・俳諧もたしなむ。絵は特に光琳に傾倒し、遺墨を集めて「光琳百図」「尾形流略印譜」を刊行。代表作「夏秋草図屏風」など。

亀田鵬斎(かめだ・ぼうさい)
(1752-1826)宝暦二年江戸に生まれ、文政9年没 74歳。儒者。名は長興、字は穉龍。別号を鵬齋または善身堂と号した。長じて井上金峨に学び、20歳にして業を市中に開いた。文化の初めより下谷金杉に住し、同所に没した。詩文を善くし、書に巧みで、酒を嗜み『金杉の酔先生』とも呼ばれていた。

大田南畝(おおた・なんぽ)
(1749.03.03-1823.04.06) 江戸中期の戯作者、別号には蜀山人・四方赤良など。江戸生まれ。生家は御徒を勤める幕臣であったが、平賀源内との出会いを契機として、19歳で狂詩集『寝惚先生文集』を出版。以後、狂歌・洒落本・黄表紙などで活躍した。軽妙な笑いと機知によって広く歓迎され、天明期を制するが、寛政の改革に抵触して断筆。以降は役人としての仕事に專心して大坂・長崎に出役したが、その後も文名は衰えなかった。

谷文晁(たに・ぶんちょう)
(宝暦十三年(1763)九月九日-天保十一年(1841)十二月十四日、江戸下谷ニ長町の自宅で歿、享年七十八歳。) 江戸時代後期の画家。父は田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷。画ははじめ狩野派の加藤文麗、長崎派の渡辺玄対に学び、鈴木芙蓉から山水画を学ぶ。古画の模写と写生を基礎に南宗画・北宗画・洋風画などを加えた独自の画風を生み出した。また、松平定信に認められ、「集古十種」の編纂に携わり、その挿絵を描くなどして社会的な地位を得、江戸における文人画壇の重鎮となった。その門下からは渡辺崋山、立原杏所などのすぐれた画家を輩出した。包一、鵬斎、文晃の三人は「下谷の三幅対」と云われ、生涯の遊び仲間であった。

大窪詩仏(おおくぼ・しぶつ)  
(1767~1837) 江戸時代後期の漢詩人。菊池五山とともに江戸詩壇で名声を博した。

葛飾北斎(かつしか・ほくさい)
(1760~1849) 浮世絵師葛飾北斎は、当館に程近い本所割下水[ほんじょわりげすい](現在の墨田区亀沢)に生まれ、約70年に及ぶ画業のなかで、多彩な創作活動を展開した。伝統の枠組みにとらわれない独創的な作品は、のちにヨーロッパの画家に影響を与えたことでも有名である。

北尾政美(まさよし) 後の鍬形恵斎(くわがた・けいさい)
(1764~1824) 鍬形恵斎は号で、本名は赤羽紹真という。ほかに、北尾政美などと号す。絵師北尾重政に入門し、挿し絵、錦絵などで活躍する。一介の浮世絵師から異例の抜擢で寛政6年(1794)美作津山藩の御用絵師となり、その縁で狩野派の画風も学ぶ。葛飾北斎も手本にしたと云われる絵師・鍬形恵斎である。

補記四 亀田鵬斎と良寛

https://books.google.co.jp/books?id=4-1OJhAYApIC&pg=PA158&lpg=PA158&dq=%E4%BA%80%E7%94%B0%E9%B5%AC%E6%96%8E%E3%81%A8%E8%89%AF%E5%AF%9B&source=bl&ots=hgG7i6f6ee&sig=TV8IXjN-WHEEDIyesCDrwz0bcow&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjy5tHFgfDYAhWIEbwKHS61CS04ChDoAQg9MAQ#v=onepage&q=%E4%BA%80%E7%94%B0%E9%B5%AC%E6%96%8E%E3%81%A8%E8%89%AF%E5%AF%9B&f=false

補記五 重要文化財「公余探勝図巻」(谷文晁筆)

www.emuseum.jp/detail/100324/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=201&num=4




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その八 酒井抱一・その三) [洛東遺芳館]

(その八) 酒井抱一(その三)「晋子肖像」
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。

(歌仙) 柳ちり (底本『反古ぶすま』 寛延三年以前の作と推定)
 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ     蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月      李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに        百万(旨原)
(以下 略)

(歌仙) 思ふこと (底本『東風流』 宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人       宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫      春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(ねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん  雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)
 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
 そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(『寛保四年宇都宮歳旦帖(蕪村編著)』)

 寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯

(「歳旦三つ物」)
  いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
  かも川の水音にやや春を告げたり
 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱   宰鳥(蕪村の前号)
   神馬(じんめ)しづかに春の白たへ     露鳩
 谷水の泡だつかたは根芹にて          素玉
  (中略)
 名月の根分の芋も雑煮かな           嶺月
  大黒舞の気にも子(ね)の味         宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
  宝引綱(ほうびきづな)もみる喰(くひ)の紅 露長
 のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて   宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
(「歳末」)
  (前略)
 水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり  宰鳥(蕪村の前号)
(「春興」)
 梅が香や能(よき)瓶持(もち)て酒一斗    雁宕(結城)
   (中略)
 逃水(にげみづ)に羽をこく雉子の光哉     大済(下館)
   (中略)
 梅が香や画具(ゑのぐ)のはげる御所車     阿誰(関宿さか井)
   (中略)
 梅が香や隣の娘嫁(か)せし後         潭北(佐久山)
   (後略)
(軸)
 古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら        蕪村(「蕪村」の改号)
(追加) (後略)
(追附) (前略)
  四十のはるを迎(むかへ)て
 七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 存義

 寛保四年(一七四四)、蕪村、二十九歳の時、結城の砂岡雁宕の娘婿である佐藤露鳩の後援を得て宇都宮で歳旦帖を出した。歳旦帖を出したということは俳諧宗匠として一人立ちをしたということである。
 『寛保四年宇都宮歳旦帖』は、紙数九枚(十七頁)の片々たる小冊子であるが、蕪村が編集した最初の俳書であり、また、「蕪村」の号が初めて見える文献として重要な意味を持つ。
 その表紙に記された、「寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯」の「渓霜蕪村」の「渓霜(けいそう)」は、「芭蕉桃青(とうせい)のように、号を二つ重ねたものなのかも知れない。また、「谷(口)蕪村」の「渓」の意味もあるのかも知れない。また、この「霜」は、寛延三年(一七五〇)の「月夜行旅図」の落款に「霜蕪村」とあり、その関連もあるのかも知れない。
 この歳旦帖には、蕪村の句(付句を含む)は五句あるが、それは、上記のとおり、蕪村の前号の「宰鳥」の名で、「歳旦三つ物」の「発句」(「鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱」)・「脇句」(「大黒舞の気にも子(ね)の味」)・「第三」(「のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて」)、「歳末」の句(発句=俳句)「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」の四句、そして、「春興」の軸句(発句=俳句、巻軸句として一番重要な句)の、「蕪村」の号による「古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら」の句である。
 そして、さらに重要なことは、この蕪村のこの「軸」句の後に、「追加」として、「東都(江戸)」俳人、さらに続けて、「追附」として、同じく、「東都(江戸)」の俳人の句を続けて、その「巻末」の句に、存義の「四十のはるを迎(むかへ)て」の前書きのある七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 」の句を以て、この歳旦帖を締め括っているのである。
 すなわち、「蕪村」の改号披露を兼ねての、俳諧宗匠として一人立ちを意味する「(宗匠)立机」披露の初「歳旦帖」を刊行するにあたり、その最高後援者の、お墨付けを与える役として、実質上、亡き夜半亭一世宋阿こと早野巴人の『夜半亭俳諧』を引き継いだ、江戸座の総宗匠格の馬場存義が、この句を蕪村に下賜して、江戸座の俳諧宗匠としての蕪村を認知したということを意味しよう。
 そして、その存義を頂点とする蕪村を巡る先輩格の江戸座の宗匠の面々が、雁宕(結城)・
大済(下館)・ 阿誰(関宿さか井)・潭北(佐久山)・露鳩(宇都宮)等々ということになろう。
 その俳諧宗匠として一人立ちをした、当時、二十九歳の蕪村が、六十二歳と老齢を重ねた安永六年(一七四四)に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」と、当時、十七歳の酒井抱一が、蕪村と関係の深かった、その馬場存義の江戸座俳諧に入門して来るのである。

 これは、「画・俳」の二道を極めた、日本南画の大成者の一人でもある与謝蕪村と、ともすると、「江戸琳派の創始者」として、その「画」道の人としのみに見られがちの酒井抱一が、実は、蕪村と同じ宝井其角に通ずる、江戸座の俳諧宗匠の大立者の馬場存義を介して、「俳」(俳諧=連句・俳句)の世界の人でもあったということと、それに併せ、「浮世絵・狂歌・漢詩・茶道・能」等々に通じた、蕪村以上のディレッタント(多種多用な芸術や学問を趣味として愛好する好事家などを意味する)であることを、思い知るのである。

 ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり

補記三 建部巣兆

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-takebesocho.html

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巣兆筆「盆踊り図」

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その七 酒井抱一・その二) [洛東遺芳館]

(その七) 酒井抱一(その二)「文読む美人図」

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酒井抱一筆「文読む美人図」一幅 太田記念美術館蔵

「二十代の抱一が多数描いた美人画の中でも最初の段階を示す作らしく、手つき足首など、たどたどしく頼りなさがあるが、側面の顔立ちが柔和で、帯の文様など真摯な取り組みが初々しい。安永期に活躍し影響の大きかった浮世絵師、磯田湖龍斎による美人画の細身なスタイルの反映があることも、制作時期の早さを示す。『楓窓杜綾畫』と署名し、『杜綾』朱文印を捺す。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

 抱一は、酒井家の家老、松下高除の著書『摘古探要』中の「等覚院殿御一代」(抱一の法名「等覚院文詮暉真」)に、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」とあり、浮世絵の最大の流派である歌川派の始祖、「歌川豊春」(一七三五~一八一四)に、浮世絵美人画を学んだと目されている。
 豊春の出生地は、豊後国臼杵(うすき)ともいわれ、また、但馬国豊岡、江戸ともいわれている。京都に出て、江戸狩野派の鶴沢探鯨(たんけい)に学んだ後、江戸に出て烏山石燕(せきえん)に入門したという。
 豊春の門人の双璧は、初代歌川豊国と歌川豊広で、その両門下から秀抜した浮世絵師たちが多数輩出し、その後の浮世絵界をリードする一大勢力を築き上げている。「洛東遺芳館」にも、この豊春や豊国に連なる浮世絵が多数あり、応挙、そして、呉春に連なる「円山四条派」の作品と共に、一つの特色となっている。

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歌川豊春筆「松風村雨図」絹本著色 一幅 洛東遺芳館蔵

補記一 江戸の琳派芸術 (出光美術館)

http://blog.livedoor.jp/aa3454/archives/72320153.html

「遊女と禿図」(抱一筆)

「天明七丁未初冬尻焼猿人画」の署名と「猿人」の朱文印が捺されている。抱一、二十七歳の作。賛は吉原五明楼の扇屋花扇が、寝惚子こと大田南畝の戯文を書いたもので、絵の花魁のモデルは花扇と見る説もある。

補記二 「生誕250年記念展 酒井抱一と江戸琳派の全貌」(総出品目録)

http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2011/1010/1010_list2.pdf

補記三 酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

www.j-bunka.jp/comment/10suzuki.pdf


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その六 酒井抱一・その一) [洛東遺芳館]

(その六) 酒井抱一(その一)「冨士図」

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酒井抱一筆「富士図」 絹本墨画金泥 一幅

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

富士の表現には、周囲を薄墨で暗くし、富士山自体は塗り残して白さを際立たせる外隈という技法が使われています。その富士山に墨の濃淡で表わされた雲が重なっています。
このような表現は、抱一に限らず、墨画の富士図に一般的ですが、抱一の特徴は、雲に用いる墨の滲みを、形がなくなるまで最大限に生かして、富士山の単純な形と対照させる点です。さらに、この作品は、稜線を真っ直ぐにして、デザイン性の強い琳派らしい作品となっています。

 酒井抱一(一七六一~一八二八)は、譜代大名酒井雅樂頭(うたのかみ)家の一員として生を享け、三十七歳で出家し(西本願寺第十八世文如光暉のもと「権大僧都等覚院文詮暉真」の称号を賜る)、酒井家を離れる。しかし、姫路十五万石を擁する有力大名家の出自は、生涯にわたり、抱一の基盤であり、その拠り所の中核に居するものであった。
 抱一は、「江戸琳派」の創始者として名高いが、その画業の開始は「浮世絵」であった。
抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、「安永八年(一七七九)十九歳」には、「杜綾(とりょぅ)」の号初めて用いる。古川藩主、土井家からの仮養子の所望を断る」とある。
 この年譜にもあるとおり、抱一の出発点は、画業としては「浮世絵」であったが、その母胎は、「遊びの文芸」としての「俳諧」、そして、それに続く、「狂歌・戯作」の世界であった。

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「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。


補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その五 呉春) [洛東遺芳館]

(その五) 呉春の「手描き友禅」「双六」

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呉春 手描 白絖地雪中藪柑子図描絵小袖 一領

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 蕪村の、天明初年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛て書簡に、次のような文面のものがある。

「小糸かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合(とりあわせ)甚あしく候。やはり梅亭可然候。梅亭は毎度美人之衣服に書き覚(おぼえ)候故、模様取(どり)、旁(かたがた)甚よろしく候。小糸右之道理をしらずしての物好きと被存候。我等が画きたるを見候はゞ、却(かえつ)て小糸後悔可致ときのどくに候。小糸事に候ゆへ、何をたのみ候てもいなとは申さず候へども、物好きあしく候ては、西施に黥(イレズミ)いたす様成(なる)物にて候。美人之形容見劣り可申といたはしく候。二三日中に右あはせ仕立候て、もたせ遣(つかわし)候よし申遣候。どふぞ小糸に御逢被成候て、とくと御聞かせ可被下候。縷々(るる)筆談に尽しがたく候。何事も御顔御物がたりと申候。以上」

 天明初年(一七八一)というと、蕪村、六十六歳の時である。ここに出て来る「小糸」とは、晩年の蕪村の贔屓の芸妓である。この頃の蕪村の書簡には、「杉月(さんげつ)・雪楼(富永楼)・一菊楼・玉松亭・中村屋・井筒屋」などの茶屋(料亭)の名が、しばしば出て来る。
 この茶屋遊びには芸妓が付き物だが、蕪村の贔屓の芸妓は、「小糸・小雛・石松・琴野」などで、中でも、小糸に対する寵愛ぶりは相当なものがあったらしい。

「青楼(せいろう)の御意見承知いた候。御もつともの一書、御句にて小糸が情も今日限りに候。よしなき風流、老いの面目をうしなひ申し候。禁ずべし。さりながせ、もとめ得たる句、御批判下さるべく候。
 妹(いも)がかきね三味線草の花咲きぬ 」(安永九年四月二十五日付け道立宛て書簡)

 「青楼」とは遊郭のことだが、ここは茶屋(料亭)遊びのこと。上記の書簡は、道立が蕪村の茶屋遊びを諫めているものの返書なのであろう。儒学の名門に生まれ、自らも儒学者であった樋口道立は、夜半亭一門では蕪村に諫言できる唯一の人物であったのであろう。
 蕪村書簡で、道立の名はしばしば出て来るが、蕪村は必ず「様」「子」「君」などの敬称を付けており、道立を呼び捨てにしているものは目にしないない。年齢的に、道立は蕪村よりも二十歳程度も年下なのであるが、蕪村は道立を一目も二目も置いていたのであろう。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)  大阪 うめ
  さそえばぬるむ水のかも河           其答
 盃にさくらの発句をわざくれて          几董
  表うたがふ絵むしろの裏           小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月            夜半(蕪村)
  おりおりかほる南天の花            佳棠

 天明二年(一七八二)、蕪村、六十七歳の折に刊行した、春興帖『花鳥篇』の中の俳諧(連句)の半歌仙(十二句の「連句」)の、表六句である。この表六句の発句は、大阪の梅女からの書簡に見える一句である。この「梅女」こそ、後に、呉春の後妻になる、当時の大阪の名妓なのである。
 この梅女の発句の句意は、「(蕪村さんが上げている)この凧(歌仙)が、(蕪村さんが肩入れしている)小糸(こいと)さんにによるものなら、何とも、憎らしい」というようなことであろう。
 それ続く、脇句の作者「其答(きとう)」とは、歌舞伎役者、初代・沢村国太郎その人である。俳号「其答」、屋号「三笠屋(後に「天満屋)で、京坂の舞台で活躍した大立者である。それに付けての「第三」は、夜半亭二世・蕪村の名跡を継ぐ、夜半亭三世・高井几董である。
 それに続く「四句目」は、蕪村御贔屓の芸妓、小糸の句である。「蕪村さんの御贔屓は表面だけで、その裏の真意は分かりません」というようなことであろうか。それに、蕪村がぬけぬけとと五句目を付けている。「近づきの印に小糸との語らいに、外には夏の月が掛かっている」と、ご満悦の様子である。
 続く、六句目の折端の句は、蕪村のパトロンの一人の、京都の書肆汲古堂の主人、田中庄兵衛こと、俳号・佳棠の句である。この佳棠が、蕪村の茶屋遊びの指南役なのであろう。

「いつもとは申しながら、この節季(せつき)、金ほしやと思ふことに候。今日はあまりのことに、手水鉢(ちようずばち)にむかひ、かかる身振り(手水鉢を叩こうとする人物を描く)いたし候へども、その金ここに、といふ人なきを恨み候。されどもこの雪、ただも見過ごしがたく候。二軒茶屋中村屋へと出かけ申すべく候。いずれ御出馬下さるべく候。是非是非。以上 二十七日 佳棠福人 」

 「かかる身振り」というのは、浄瑠璃の「ひらがな盛衰記」の登場人物、梅が枝(え)のしぐさで、彼女が金が欲しいといいながら手水鉢を叩くと、二階から「その金ここに」と小判三百両が投げ出される。金が無いといいながら、茶屋で雪見酒と洒落ようというのである。金が無いというのは、支払いの方は佳棠さんよろしくということであろう。福人は、その金持ちの敬称で、佳棠も福人と敬称で言われれば、雪見酒の費用は持たない訳にはいかないということであろう。佳棠の汲古堂の店は、寺町五条上ル町にあった。

 さて、司馬遼太郎に、呉春を主人公にした「天明の絵師」という小説がある。登場人物は、「蕪村・呉春・応挙・上田秋成」などである。そこでは、呉春について、「おそろしく器用なのだ。尋常一様の器用ではない。いまからすぐ呉服屋の番頭がつとまるほど如才ないし、手さきの器用さにかけては、それこそ人間ばなれしていた」と、呉春の、マルチの多芸多才ぶりを記している。
 そして、この呉春の師匠の蕪村は、「蕪村の病中、家計がいよいよ窮迫し、呉春は必死にかけまわってね金策した。借りられるところはすべて借りた。蕪村の俳句の弟子である宇治田原の庄屋奥田治兵衛には、正月の粟餅の無心をいったほどだ」と、その窮乏振りを記している。
 そして、蕪村と呉春について、「蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、『勅命』で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい」と、この両者の比較を結語にしている。
 しかし、同じ時代に生きた、「天明の絵師」の、年齢順に、「蕪村・応挙・呉春」の三人のうちで、「茶屋遊び・芝居好き」にかけては、上記の佳棠との交遊などにあるとおり、その筆頭格であったことであろう。
 上記の、「『勅命』で思想を一変した呉春」といのは、「蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門成家の大建築に描くような張りのあるものではない」、「いま勅命があって、御所の杉戸、襖、天井などに絵をかけ、といわれれば、蕪村の絵ではつとまらんよ」という、応挙の画論のことで、呉春が、蕪村亡き後に、応挙の、この画論に従い、応挙門の、御所向きの絵に様変わりしたという指摘なのである。
 それらに続けて、「応挙の死後御所の御用をつとめ、その権威も手つだって画料はいよいよ高騰し、門人は数百人をかぞえるにいたり、呉春が四条通りに住んだところから門人たちはその周辺に居を移し、このため呉春の派は、『四条派』といわれ、繁栄し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇にまで及んでいる」とし、「呉春が、もし蕪村の流れに生涯貞潔であったとすれば、単に無名の月渓でおわったろうし、また天明ノ大火がなかったなら、呉春は貧窮のうちに死んでいたのかもしれない」と、「蕪村好き」の司馬遼太郎らしい、「応挙・呉春」観を披露している。
 しかし、画人、あるいは、画壇の主流というのは、この「応挙・呉春」の流れであって、いわゆる、日本の文人画という「蕪村」の流れというのは、その亜流と化し、今や絶滅品種の類いのものということであろう。

 さて、また、冒頭の、呉春の「手書き友禅」に戻って、こういうものは、その師匠の蕪村も、上記の蕪村書簡にあるとおり、手掛けなかったし、また、司馬遼太郎の「御所向きの大建築の障壁画」を目指している応挙も、いかに、懇望されても、「その任に非ず」と、この種のものは、今に遺されていないようである。
 そして、マルチの、多芸多才の呉春は、この種のものだけでなく、子供向けの「双六」まで手掛けているのである。

双六.jpg

呉春 下絵 すごろく 木版 寛政十年

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 こういう、「天明の絵師」の、マルチの多芸多才の「呉春」に匹敵する人物は、浮世絵師・北尾政演こと戯作者・山東京伝、そして、図案集『小紋新法』、滑稽図案集『絵兄弟』、滑稽本『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』、そして、紙製煙草入れ店を開き、そのデザインした煙草入れを大流行させた、「天明のマルチ・スーパースター」の、呉春より九歳年下の、江戸の「山東京伝」を抜きにしては語れないであろう。

補記一 司馬遼太郎の「天明の絵師」周辺

http://rikachanhouse.com/3914.html%E3%80%8D

補記二 山東京伝の「デザイン」周辺

http://www.ee-kimono.net/komon.html



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その四 北尾政演・山東京伝) [洛東遺芳館]

(その四) 浮世絵(北尾政演・山東京伝作「吉原傾城新美人合自筆鏡」)

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北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

 この「章台」は、遊里のこと。「折揚柳(セツヨウリュウ)」は、「別離の時に歌う楽曲(楽府題=がふだい)の名」、そして、「春日」は「春の日」、「路傍情」は、「路傍を見ている遊女との心の交流」のようなことであろう。

澱河歌.jpg

 蕪村筆「澱河曲」扇面自画賛(A) 紙本淡彩 一幅 一七・八×五〇・八センチ

款 右澱河歌曲 蕪村
印 東成(白文方印)

賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓→伏見百花楼ニ遊ビテ浪花ニ帰ル人ヲ送ル 妓ニ代ハリテ

  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願並枕長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン

  君は江頭の梅のことし
  花 水に浮て去ること
  すみやか也
  妾は水上の柳のことし
  影 水に沈て
  したかふことあたはす

澱河歌二.jpg

蕪村筆「澱河歌」扇面自画賛(B) 紙本淡彩 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  
款 夜半翁蕪村
印 趙 大居(白文方印)

賛 澱河歌 夏
  若たけや
  はしもとの遊女
  ありやなし
    
澱河歌 春
  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願同寝長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン
  君は江頭の梅のことし
   花 水に浮て去事すみ
   やか也
   妾は岸傍の柳のことし
   影 水に沈てしたかふ
   ことあたはす

 蕪村には、「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)、「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」の、三大俳詩がある。この「春風馬堤曲(十八首)」と「澱河歌(三首)」とは、安永六年(一七七七)、六十二歳の折の春興帖『夜半楽』に収載されているもので、「老鶯児(一首)」と併せ、三部作の連作詩篇として夙に名高い。
 この『夜半楽』収載の三部作のうち、「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、その従属的な作品と解されがちであったが、上記の「扇面自画賛」(AとB)などの紹介などと併せ、逆に、「春風馬堤曲」の先行的な作品として、『澱河歌の周辺』(『与謝蕪村(安藤次男著)』)などで、蕪村のエロティシズムの俳詩として再評価されている。
 『蕪村の世界(尾形仂著)』では、「扇面自画賛」(A)は、「これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される」とし、さらに、「扇面自画賛」(B)に記されている「若竹やはしもとの遊女ありやなし」の句について、「安永四年五月二十一日、几董庵月並句会での兼題『若竹』によるものであろう」とし、その前後の作であることを示唆している。
 何れにしろ、安永六年(一七七七)、春興帖『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲(十八首)、「澱河歌(三首)」、そして「「老鶯児(一首)」は、それぞれに相互に連動している、晩年の蕪村の「華やぎと老懶」の詩境を如実に反映していることは想像する難くない。
 そして、この『澱河歌』の、「澱河」(澱水)は、淀川、「菟水」は、宇治川の中国風の呼び名で、「京都伏見の百花楼で、淀川を舟で浪花へ帰る男を見送る遊女にかわって、蕪村がその惜別の情を詠んだ漢詩(二首)、和詩(一首)より成る、楽府題の一曲」というのが、この俳詩の解題ということになろう。

 ここで、冒頭の北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」とに戻りたい。この楽府題の歌語の「折揚柳」は、蕪村の「澱河歌」の、「君は江頭の梅のことし/妾は水上の柳のことし」と対応している。
 すなわち、上記の冒頭の「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川の背後には、蕪村が「扇面自画賛(A)」で描いている、「男(少年)」との別離が見え隠れしているのである。さらに、「扇面自画賛(B)」で続けるならば、その冒頭に出て来る「若竹やはしもとの遊女ありやなし」と連動している。
 この「はしもと(橋本)」は、現京都府八幡市内、当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多く、蕪村がその竹林の奥に幻視しているのは、『撰集抄』に見える「江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか」と、西行に連なる遊女のそれであろう。
 そして、蕪村は、安永六年(一七七七)の、この春興帖『夜半楽』の刊行に続けて、亡母追善の意を込めての回想集『新花摘』を刊行するが、そこに収載されている、「ころもがへ母なん藤原氏なりけり」「ほととぎす歌よむ遊女聞こゆなる」などの発句は、蕪村の亡母追悼のものとして、これまた、「春風馬堤曲」と併せて、夙に知られているものである。
 
 ここまで来て、扇面自画賛(B)の、「澱河歌 夏」「澱河歌 春」に対応しての、蕪村の、それに続く、「澱河歌 秋」、そして、「澱河歌 冬」は、それらは、どのようなものであったのであろうか(?)
 それらは、永遠の謎ということになろう。そして、その蕪村の、永遠の謎の一つの解明として、安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳の折の、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」、そして、安永七年(一七七八)、六十三歳の折の、「絶えだえの雲しのびずよ初しぐれ」の句が、冒頭の、北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」と、見事に交叉して来るのである。

補記一 「吉原傾城新美人合自筆鏡」(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

補記二 浮世絵 山東京伝・北尾政演

http://heartland.geocities.jp/hamasakaba/44kyoden/

補記三 東洲斎写楽の登場秘話、蔦屋と山東京伝の筆禍

http://www.ten-f.com/kansei3nen.html

補記四 山東京伝・歌川豊国らの「腹筋逢夢石」

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306128158-1

補記五 蕪村の俳詩「澱河歌」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/11/blog-post.html

補記六 蕪村の「夜半楽」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/09/blog-post.html

夜半楽(『蕪村全集七 編著・追善』所収)

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首
(この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。)

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

(「歌仙(一巻)」「春興雑題(四十三首)」略)

   謝 蕪 邨
余一日問耆老於故園。渡澱水
過馬堤。偶逢女歸省郷者。先
後行數里。相顧語。容姿嬋娟。
癡情可憐。因製歌曲十八首。
代女述意。題曰春風馬堤曲。

春風馬堤曲 十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤ヨリ下テ摘芳草  荊與蕀塞路
 荊蕀何妬情    裂裙且傷股
○溪流石點々   踏石撮香芹
 多謝水上石   敎儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
 無恙を賀し且儂が春衣を美ム
○店中有二客   能解江南語
 酒錢擲三緡   迎我讓榻去
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
○呼雛籬外鷄   籬外草滿地
 雛飛欲越籬   籬高墮三四
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得す去年此路よりす
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋邊財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
○郷を辭し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
○故郷春深し行々て又行々
 楊柳長堤道漸くくだれり
○嬌首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
 待春又春
○君不見古人太祇が句
  藪入の寢るやひとりの親の側

澱河歌 三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 舟中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 舟中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

老鶯児 一首

春もやゝあなうぐひすよむかし声 

安永丁酉春 正月
    門人 宰鳥校
平安書肆 橘仙堂板

補記七 蕪村の『新花摘』周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/06/blog-post_114982024055218622.html




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その三・歌麿) [洛東遺芳館]

(その三) 浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

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多川歌麿作「画本虫ゑらみ」

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天明七年(1787)八月十四日の夜、朱楽菅公、大田南畝などが、向島押上あたりの庵崎(いおさき)で虫聞きの狂歌会を開きました。その時の狂歌に歌麿の絵を添えて、翌年、蔦屋重三郎が出版したのが、この『画本虫ゑらみ』です。今回、少し遅れて出版された歌麿の狂歌絵本『潮干のつと』も展示しています。いずれも完成度が高く、独自の画風の美人画で成功する前に、別のジャンルでこれほどの技量を発揮していたのは驚きです。

 歌麿は、宝暦三年(一七五三)の生まれとすると、天明七年(一七八七)は、三十四歳の頃ということになる。この年に、京都の円山応挙は、五十五歳、金刀比羅宮の障壁画や、大乗寺障壁画(前期)に取り組んでいた頃である。
 歌麿というと浮世絵の美人画のジャンルの第一人者ということになるが、この「画本虫撰(ゑらみ)」のような花鳥画のジャンルでも卓抜した技量の持ち主であったことを証明している。
 「画本虫撰(ゑらみ)」は上巻八図、下巻七図の、計十五図からなる木版絵本で、一画面に歌麿の草花と二種類の虫の図、当時の狂歌師三十人の虫を詠題とした狂歌が合わせられている。
 そして、上記の紹介文で重要なことは、この「画本虫撰」の「版元」(出版者)が、浮世絵文化の仕掛人とも言われている「蔦重(つたじゅう)」こと「蔦屋重三郎」というところである。
 この蔦重が世に出した浮世絵師は、六大浮世絵師のうち、美人画の筆頭格の「喜田川歌麿」、役者絵の謎の浮世絵師「東洲斎写楽」、そして浮世絵全般の画狂人こと「葛飾北斎」のデビュー当時の「勝川春章」、そして、もう一人、浮世絵師・北尾政演(まさのぶ)こと、戯作者・山東京伝(さんとうきょうでん)で、この山東京伝は、蔦屋重三郎の弟分というようなことであろう。
 浮世絵というのは、一点物の「肉筆画」(絵画)と何点も刷り上げる「版画」との二種類があるが、一般的には、当時の一般町人が求めやすい、後者の「浮世絵版画」と解して差し支えなかろう。
 そして、この「浮世絵版画」というのは、次のような「版元」(プロデューサー)を主軸としてのチーム制作ということになる。

版元 → プロデューサー兼出版・販売
絵師 → 版元と共に企画立案し、それを絵画化する
彫師 → 絵師の版下絵を彫る
摺師 → 彫師の版木を摺る

 これを「浮世絵肉筆画」ですると、「彫師・摺師」とがカットされて、「絵師・版元」でも「絵師」が、その主役の世界ということになろう。しかし、「浮世絵版画」の中でも、この冒頭の「画本虫撰(ゑらみ)」でするならば、「絵師」は「挿絵画家」というポジションで、その全体の「画本」からすると、「版元」が主要なポジションを得ることになろう。
 「浮世絵」(「浮世絵版画」)というのは、この「版元」の活動(企画・制作・出版・販売)を抜きにして存在しないといっても過言ではなかろう。そして、その「版元」でも、江戸の三大版元として、「蔦重(蔦屋重三郎)・西村屋(西村屋与八)・鶴喜(鶴屋喜右衛門)」が特に有名で、この三大版元の動向が、即、浮世絵の動向といっても、これまた過言ではなかろう。
 例えば、美人画のジャンルで、西村屋が鳥居清長のそれを売り出すと、それに対抗して、蔦重が喜多川歌麿をデビューさせ、さらに、京都から参入した鶴喜が、蔦重と共に歌麿をバックアップするなど、この三者のせめぎ合いというのは、浮世絵の背後に蠢いている。
 さらに、「錦絵」(多色摺り版画)の誕生(「墨摺り」→「墨摺りに手彩色」→「錦絵」)に関連しても、その切っ掛けは、「絵暦」(富裕の商人らの贈答用絵入りカレンダー)で、この絵暦も、版元が「絵師・彫師・摺師」を駆使して考案していったということが、その背景に蠢いている。
 さて、冒頭の、この「画本虫撰」に描かれている、歌麿の「赤蜻蛉」と「いなご」の、この精緻な描写は、応挙の「写生帖」や若冲の「菜蟲譜」などが連想されて来る。この若冲には、通常の木版画とは異質の「拓版画」ともいうべき四種類の版画の世界がある。

一 「乗興舟(じょうきょうしゅう)」(淀川両岸図巻)一巻 → 明和四年(一七六七)春の大典顕常の跋がある。
二 「玄圃瑤華(げんぽようか)」一帖(四十八図) → 明和五年(一七六八)三月の大典顕常及び菅原世長の跋がある。
三 「素絢帖(そけんじょう)」一帖(四十八図) → 明和五年(一七六八)四月の四辻公亨(龍門承猷の兄)の跋がある。
四 「著色花鳥版画」六枚 → うち一図の印文に明和八年(一七七一)の年紀がある。

水葵.jpg

若冲作「玄圃瑤華」のうち「冬葵図」

この作品のタイトル「玄圃瑤華」の「玄圃」とは、「崑崙山(こんろんさん)にある仙人の住む理想郷」、そして、「瑤華」とは「玉のように美しい」という意味らしい。そして、「水葵」「糸瓜」「瓢箪」「蕪」などの花卉蔬菜に「昆虫」を配して、さながら、冒頭の、歌麿の「花卉と昆虫図」の前駆的な作品というイメージで無くもないが、前者の、「『虫撰(ゑらみ)』とは、虫合わせであり互いの出した虫に合わせ歌の優劣を競うもの」で、必ず、二種類の昆虫を描くものとは、本質的に狙いを異にしている。
さらに、前者の歌麿の「画本虫撰(ゑらみ)」が、錦絵に近い多色摺り(狂歌摺物で、配りものに使うため贅を尽くした非売品の版画や木版画本)なのに比して、後者の若冲のものは、「拓版画」で、絵柄を凹版に彫り、濡らした紙を押し付けて凹んだ部分以外に墨を塗って仕上げた、若冲独特の技法を駆使したモノトーンの世界で、イメージ的には、この両者の世界は、似ても非なる世界のものと理解すべきなのであろう。
 そして、それは、前者が江戸(東京)の「狂歌人と浮世絵師(歌麿)」との「遊びの世界」とすると、後者は京都の五山(禅林)の「漢詩人と奇想の画家(若冲)」との「詩画合作の世界」とでも換言することが出来るのかも知れない。

花鳥版画.jpg

若冲作「著色花鳥版画」のうち「竹に錦鳥」(リッカー美術館蔵)

 これは「浮世絵=多色摺りの錦絵」ではない。また、上記若冲の「乗興舟・玄圃瑤華・素絢帖」の、モノトーンの「拓版画」でもない。若冲が最後に到達した、「型紙を用いて輪郭を写し、筆で彩色する、上方版画での手法の『合羽摺(かっぱずり)』」で、下絵から彩色まで、何から何まで全て若冲の個人作業による「型紙と筆と刷毛での手作りの錦絵」とでも称する世界のものであろう。
 「浮世絵=多色摺りの錦絵」というのは、明和二年(一七六五)以降に創始された技法とかで、この若冲の「著色花鳥版画」は、明和八年(一七七一)、五十六歳の作とすると、京都以外の土地を知らない若冲も、江戸で流行している「浮世絵=多色摺りの錦絵」を承知し、それと同じような効果を、若冲独自の手法で実現したと理解しても良いのかも知れない。
 この明和八年(一七七一)の頃の歌麿は、未だ十八歳の頃で、浮世絵師としてはデビューしていない。明和七年(一七七〇)の頃、「石要」の名で俳諧歳旦帖などの挿絵画家をしていたとの記録もあるようだが、何れにしろ、歌麿は、京都の孤高の異色の画人、そして、独自の「型紙と筆と刷毛での手作りの錦絵」とでもいうべき作品の「著色花鳥版画」の世界などとは、全くの無縁のことであったことであろう。
 しかし、江戸中期の同じ時代に、その年齢差や、京都と江戸との活躍する場の相違はあれ、二人の天才画人(若冲と歌麿)が、同じような「花卉と昆虫」とを画題とし、さらに、共通の「版画」そして「多色摺りの『錦絵』と合羽摺りの『著色版画』」という共通の土俵を有していたことの不可思議さを、しみじみと実感するのである。

補記一 浮世絵の構造(小林忠稿)

http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/index.html

補記二 北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る- 江戸時代における知的財産戦略

https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200705/jpaapatent200705_041-048.pdf

補記三 喜多川歌麿の狂歌絵本 『画本虫撰』(むしえらみ)驚嘆する歌麿の画力

http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_mushi.html

補記四 円山応挙「写生帖」

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/13964

補記五 伊藤若冲「菜蟲譜」

https://www.city.sano.lg.jp/museum/collection/jakucyu.html

補記六 伊藤若冲≪着色花鳥版画≫考−その制作と受容をめぐって−

http://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/06-1-28-nishi-gotou.pdf

補記七 上方版画と伊藤若冲

https://core.ac.uk/download/pdf/34704303.pdf




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二・清長) [洛東遺芳館]

(その二) 浮世絵(鳥居清長作「浅草金龍山十境 二十軒茶屋」)

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鳥居清長 浅草金龍山十境 二十軒茶屋

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 柏原家伝来の鳥居清長の作品のなかには、他では見られないものも数点含まれています。『浅草金龍山十境』の「二十軒茶屋」もそのひとつです。この『十境』は天明三年(1783)の作と考えられていますが、前年の作と思われる『浅草金龍山八境』の後を受けていています。この「二十軒茶屋」に対応する『八境』の図は、従来誤って「仲見世」と呼ばれていました。

 この上記の紹介文によると、六大浮世絵師の一人の、鳥居清長には、「浅草金龍山十境」(天明三年作)と「浅草金龍山八境」(天明二年作)とがあり、前者の「二十軒茶屋」は、後者では「仲見世」とされているが、上記のものは、前者の希少価値のある「二十軒茶屋」のものであるというようなことであろう。
 とにもかくにも、これは、現在の東京(江戸)浅草寺境内の「仲見世」付近、そして、その内の「二十軒茶屋」と評判(名所)の「水茶屋」を背景としての、「風俗・美人画」ということになろう。
 ここで、六大浮世絵師を、年齢順にすると、「鈴木春信(一七二四~七〇)、鳥居清長(一七五二~一八一五)、喜多川歌麿(一七五三~一八〇六)、東洲斎写楽(?~一七九五)、葛飾北斎(一七六〇~一八四九)、歌川(安藤)広重(一七九七~一八五八)」となるが、「春信・清長・歌麿・写楽」の四人は、「初期(~一七六四)・中期(一七六五~一八〇〇)・後期(一八〇〇~)の三区分ですると、中期の、浮世絵全盛時代の人ということになる。

 そして、清長の上記の作品は、天明三年(一七八三)の作で、この年の十二月二十五日の未明に、日本南画の大成者の一人の与謝蕪村が京都で六十八年の生涯を閉じ、円山派の創始者・円山応挙は、その前年の五十歳の時に、『平安人物志』の画家の部で、その筆頭に掲載されるなど、その全盛時代の頃と重なる。
 応挙は、享保十八年(一七三三)の生まれ、清長は、宝暦二年(一七五二)の生まれ、その年齢差は、応挙が三十一歳年上で、応挙の名声は、京都の関西圏だけではなく、江戸の関東圏まで行き渡っていた頃である。
一方、清長は、江戸の新しい浮世絵というジャンルにあって、新進気鋭の若手の筆頭格のような位置で、その鳥居派の得意とする「役者絵」は勿論、「美人画」の鈴木春信などの作風へと食指を伸ばし、単に、人物画のみの美人画ではなく、その背景に「風物・風俗」を配しての、いわゆる、「風俗美人画」という世界を切り開いていた。

浮世絵の「美人画」というのは、この「春信→清長→歌麿」、そして、「風物・風俗」の「風景画」というのは、「清長→広重」、そして、「役者絵」というのは、「鳥居派→清長→写楽」という、いずれの「浮世絵」の「美人画・風景画・役者画」の、この三大潮流の、そのキィ―ポイントの浮世絵師が、この冒頭に掲げた「浅草金龍山十境の内『二十軒茶屋』」の作者、鳥居清長ということになろう。
 この清長の、その本拠地の江戸でも希少価値のある、この冒頭の「浅草金龍山十境」の、この「二十軒茶屋」が、江戸から遠く離れた、日本南画の「大雅・蕪村」、そして、今に続く京都画風の「円山・四条派」の、その祖の「応挙・呉春」の、そして、その本拠地の、いわゆる、「京都町物」の一角を今に多く所蔵している「洛東遺芳館」が、今に伝えている、その邂逅ということは、これは、前回の応挙の「虎」と、この清長の「風俗美人画」とが呼応している、そんな邂逅と同じような趣で無くもない。

補記一 天心が行った浮世絵の時代区分

http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/02_tenrankai/03_kinen_tenshin-theme/images/201503_chronology.pdf

補記二 鳥居清長の世界

www.ccma-net.jp/publication_artnews/vol42.pdf

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その一・応挙) [洛東遺芳館]

(その一) 京都町物(応挙「虎図」)

虎一.jpg

応挙筆「虎図」(洛東遺芳館)

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虎は龍と対になって勢いある姿に描かれるのが伝統的です。応挙もそのような虎を描いていますが、一方で、応挙独自の虎を展開して行きます。応挙全盛期の天明三年(1783)四月に描かれたこの虎は、龍とは対にならず、草地の上でくつろいでいて、まさに応挙的な虎の傑作と言えます。応挙は実際の虎を見たことはなかったので、全体的な姿はリアルではありませんが、毛描きによる質感表現は絶妙です。

 「浮世絵」に比して、「町物」という言葉は未だ一般には通用しない、特殊な用語の部類なのかも知れない。意味するものは、「公家文化(公家時代の書画など)」=「公家物」、「武家文化(武家時代の書画など)」=「武家物」とすると、「町人文化(浮世絵師・町絵師時代の書画など)」=「町物」というようなことである。
 そして、この「町物」の代表的なものは、江戸時代の江戸(東京)で、今に、世界に通ずる日本文化の一翼を担っている「浮世絵」の世界ということになろう。
この「浮世絵」に携わった絵師などを「浮世絵師」とすると、「浮世絵師」というジャンルではなく、「町絵師」による「公家物」「武家物」(さらに「五山文化」=「僧侶物」)などに携わった世界が、これが、いわゆる、京都の円山応挙を祖とする「円山四条派」の世界と見做して大筋差し支えなかろう。
そして、「浮世絵」が大流行した江戸(東京・関東)においても、京都の応挙に匹敵する、
「酒井抱一・谷文晁・渡辺崋山など」の、狩野派の御用絵師ではなく、当時の一般人(町人など)に支持された、その出身を問うことなく、いわゆる「町絵師」が、「浮世絵師」に匹敵する、いや、それ以上の多種多様な世界を構築していたということなのである。
 これらを、「浮世絵」に伍して、江戸(関東)と京都(関西)に二分して、それぞれ「江戸町物」「京都町物」と二分して、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の三区分で、その上に、京都の、「公家文化=御所」ではなく、その「武家文化=二条城」ではなく、その「僧侶文化=相国寺」ではなく、その「町人文化=洛東遺芳館」という観点で、この「洛東遺芳館」の、これまでの展示などをフォローしていきたいのである。

 その上で、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」での三区分ですると、その「京都町物」のその筆頭格は、この応挙の「虎図」ということになるが、これは、単に、その三区分以上に、その、三区分の「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の全てを象徴するような作品の一つとしてとらえたい(これは、例えば、「二条城」の「武家文化」を象徴する「障壁画」の「虎図」に対するアンチテーゼの、応挙の「京町衆(柏原家)」への、それへのメッセージとしての「虎図」と解したいのである)。

補記一 「武家物」の「虎」(襖絵)→「狩野甚之/竹虎図/二条城二の丸御殿」

http://nico-wisdom.com/newfolder1/fusuma-nijyoujyou.html

補記二 モノを描く : 16世紀における「絵画の変」)

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/53317/jjsd47_051.pdf

補記三  扇面画の美術交渉 ― 日本・中国からフランスへ ―

www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/46/kiyo4604.pdf

補記四 応挙と応挙工房周辺

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306134552-1


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その十 三井家当主の画業など) [洛東遺芳館]

(十)三井高就筆「馬追」(洛東遺芳館蔵)

三井一.jpg

三井高就筆・大典和尚賛「 馬追」 紙本墨画(洛東遺芳館蔵)

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作者は北三井家七代目・高就(たかなり)です。落款には「牧山」とありますが、これは高就の号の一つです。賛は、高就と親交のあった大徳寺の大典(だいてん)和尚が書いています。絵も賛も写しで、原作は、絵が松花堂昭乗、賛は沢庵和尚です。その原作は、古くから茶人の間では有名で、現在は根津美術館に所蔵されています。

 ここで、まず、この賛をした「大典和尚」とは、江戸時代中期の禅僧・漢詩人にして、当時の「応挙・若冲・大雅・蕪村」等々の、その背景に必ずや登場する、特に若冲の支援者としても知られる、相国寺第百十三世の「大典顕常(だいてんけんじょう、享保四年(一七一九)~ 享和元年(一八〇一))、その人であろう。
 そして、この画を描いた「三井高就(たかなり)」とは、三井惣領家・北三井家七代目当主その人である。現在国宝に指定されている応挙の代表作『雪松図屏風』は、この高就の誕生百二十日目の宮参りにあわせて、天明六年(一七八六)に制作されたともいわれている。高就は、惣領家に二十七年ぶりに誕生した男子とかで、こうした目出度いお祝いの席に使用する屏風として、三井家と最も友誼関係にある応挙に、その制作を依頼したのが、この屏風制作の背景のようである(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」・安村敏信著』)。

 応挙と最も親密な関係にあった三井家の当主は、四代目高美(たかはる)で、応挙との合作や応挙との逸話も多く残されている。この高美は文雅的体質が強く、経営者として不向きな面もあり、この高美に代わって家業を取り仕切ったのが、弟の新町三井家三代目の高彌(たかひさ)で、応挙の「郭子儀祝賀図」は、高美が高彌の隠居祝いに贈呈したものといわれている。
 この高美、そして、高彌の跡を継いだのが高美の子の五代目高清、続く、六代目祐(たかすけ)の、次が、七代目の高就ということになる。
応挙は、この北家三井家とは、四代目高美、五代目高清、六代目高祐と親交があり、応挙亡き後も、この円山家と三井家との親交関係は続くこととなる。

 応挙と三井家との関係は、単に、惣領家の北家三井家だけでなく、南家三井家四代目高業(たかなり、狂歌号・嘉栗)とも親交があり、その高業(嘉栗)が編んだ『狂歌奈良飛乃岡』には、応挙だけでなく蕪村も、その挿絵を描いているようである(『安村・前掲書』他)。

 さて、冒頭の、この「三井高就筆・大典和尚賛『 馬追』」は、「(その)原作は、絵が松花堂昭乗、賛は沢庵和尚です。その原作は、古くから茶人の間では有名で、現在は根津美術館に所蔵されています」というのである。
 この「松花堂昭乗」は、書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、近衛信尹(のぶただ)、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられている、その人である。
 そして、「沢庵和尚」とは、安土桃山から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、書画・詩文・茶道に通じ、江戸(東京)で没した一大の傑僧、その人である。
 とすると、この「馬追」は、沢庵和尚が江戸に呼ばれて東下りする途中に詠んだ和歌の「何ゆゑに おもに(主に・重荷)おほ津(大津・負ふつ)の うま(生ま・馬)れきて なれ(汝)もうき世(浮世)か 我もうきよに」を踏まえてのものなのであろう。
 そして、この三井家というのは、みな、それぞれに、高美(一成)、高清(宗徹)、高祐(宗節)、そして、高就(宗睦)と、茶人で、その伝統が、その背景に深く根ざしているのである。

 ここで、この三井家と現在の洛東遺芳館を旧邸とする柏原家というのは、洛東遺芳館が所蔵する「北三井家ゆかりの品々」(その紹介文など)を見ると、姻族関係にあり、その輪は、単に、両家だけではなく、当時の京都随一の両替商・那波屋九郎左衛門家などと結びついていたことが、一目瞭然となって来る。
 当時の京都の文化というのは、御所で象徴される公家文化と、二条城で象徴される武家文化と、五山の寺院に代表される僧侶文化の他に、新たに上記の三井家や柏原家を筆頭とする町衆に支えられた町人文化ともいうべきものが勃興し、それらの比重は、これまでの伝統的な格式を重んじる貴族的文化よりも、新興の自由溌剌とした庶民的文化へと軸足を移しつつあったということになる。
 そして、応挙と、応挙を祖とする「円山派」、さらに、蕪村の流れを汲む呉春が合体しての「円山四条派」の絵師たちは、江戸の「浮世絵」の浮世絵師と同じように、その活躍の場を拡大しつつ、京都画壇の主流と化していったということになろう。
 それは、専門的な町絵師(「円山四条派」の絵師たち)を頂点とし、その下に、三井家の当主たちのように、その絵師たちの指導下で趣味的に創作活動に励んでいる愛好者と、鑑賞や蒐集などを趣味とする愛好者と、ピラミッド型のように、その底辺の裾野が拡大していったということと歩調を一にしているということになろう。

 ここで、冒頭の、三井高就筆・大典和尚賛「 馬追」に再度戻って、その原作の賛(沢庵和尚)は、次のとおりのようである。

「何ゆへに 重荷おおつ(負う・大津)の うま(馬・生)れきて なれもうき世に 我もうきよに  と 馬おいのよみしは むへ(べ)もやさしき こころはへ(ばえ)なり」

 この「大津」は、三井家発祥の地の「近江(国)」、そして、「主に(重荷)」は、三井家の家業(主に「越後屋」の家業など)、そして、「大津馬」は、「大津の荷馬のように働く新興商人たち(三井家の当主など)」、そして、この「うき世」は、「うきよ(浮き世・憂き世)」の、「現世(江戸の「浮世絵」、京都の「円山四条派の絵」に象徴される、その現世)と解すると、何処かしら、「江戸中・後期の京師(京都)の画人たち」のイメージが鮮明になってくるのである。

補記一 「北三井家ゆかりの品々展」・「北三井家当主たちの書画」「三井家・柏原家・那波家」など

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補記二 応挙の「郭子儀祝賀図」と山口素絢の「郭子儀図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-30

補記三  近世京都商人那波家の江戸店経営とその没落について

http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/17308.pdf

補記四 松花堂照乗年譜考(下)

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/1424/1/bunga_53_yamaguchi.pdf

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その九 塩川文麟) [洛東遺芳館]

(九)塩川文麟筆「兜に菖蒲図」(洛東遺芳館蔵)

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塩川文麟筆「兜に菖蒲図」

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五月五日は端午の節句です。古代中国では、この日、厄除けにヨモギの人形と菖蒲を飾る風習がありました。それが日本に伝わりますが、次第に、武具が飾りに加わるようになります。菖蒲が「尚武(しょうぶ)」を連想させるためとも言われています。さらに旗に鍾馗や鯉が描かれるようになり、江戸時代後期には、鯉のぼりが登場します。上記(5の)作品には、菖蒲とヨモギの前に兜が描かれていて、兜には柏原家の家紋が入っています

 上記の紹介文に出て来る「柏原家の家紋」の「柏原家」とは、この「洛東遺芳館」のホームページの「黒江屋」の、その京都の本拠地で、その旧邸が「洛東遺芳館」である。この「洛東遺芳館」は、「現在の建物も幾多の大小火難を逃れ、数百年来の商家の体裁を保っている京都でも数少ないものであります」のとおり、天明八年(一七八八)正月の、いわゆる「天明の大火」でも罹災しなかった、稀有的な商家の一つである。
 この天明の大火の時、応挙は五条鴨川東の喜雲院に避難し、そこで偶然に呉春と同居するという、「円山四条派」にとっては、エポック的な出来事のあった年でもある。そして、何よりも、この柏原家は、当時の応挙の支援者であった。そして、後に、呉春も応挙を介して、この柏原家に出入りするようになり、応挙没後の呉春の有力な支援者となる。爾来、この柏原家と「円山四条派」との友誼関係は続くことになる。
 さて、その柏原家の端午の節句のお祝いに描いた冒頭の「兜に菖蒲図」を描いた作者・塩川文麟は、江戸中期・後期の画家というよりも、幕末・明治期の画家としても差し支えなかろう。
 享和元年(一八〇一)、京都の生まれ、没したのは明治十年(一八七七)、七十七歳であった。字は士温、号は雲章、別号は可竹斎・竹斎・泉声など。通称は図書。呉春の高弟・岡本豊彦門で山水画を得意とした。明治元年(一八六八)、画家の親睦団体である如雲社を主宰し、京都画壇における中枢的指導者となった。教育者としてもすぐれ、近代京都画壇の育成に貢献し、幸野楳嶺以下多くの俊英を門下から輩出させている。

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塩川文麟筆「花鳥図」襖絵(十二面のうちの一部)(京都御所・北の間)

 文麟は、安政二年(一八五五)の御所造営に参加し、新内裏に襖絵(上記「花鳥図)を制作するが、これは、紛れもなく応挙の世界のものであろう。
 そもそも、応挙は、天明八年(一七八八)の、いわゆる「天明の大火」の内裏御所焼失に際しての御所障壁画に一門上げて参加し、寛政二年(一七九〇)に完成させているが、
その応挙らの壁画は、嘉永七年(一八五四)の火災で焼失し、現存していない。
 その応挙ら壁画が焼失した後、「応挙」(一代)からすると、「応瑞・源琦・芦雪・呉春など」(二代)、「応震・景文・豊彦・義董など」(三代)の次の四代目(応立・文麟・来章など)が、現在の御所の造営に参加しているということになる。
 ちなみに、天明の大火の際の御所造営の、その応挙一門(応瑞・源琦・芦雪など)の中には、文人画(南画)の蕪村の流れを汲む呉春は入っていない。それは、御所との関わりなどの前歴を記載しての「禁中御用絵師任用願」などを提出して、その選考を経るというステップを踏むことと関係しているようである(『別冊太陽 円山応挙』所収「応挙年代記・五十歳から晩年まで・五十嵐公一稿」)。
 応挙と応挙一門の画人たちが参加した、寛政御所造営の障壁画が見ることは出来ないが、この文麟らの、応挙の流れを汲む「円山四条派」の画人たちが参加した、安政の御所造営の障壁画は、時に公開され今に目にすることが出来る。そして、その背後には、焼失してしまった幻の応挙らの、その障壁画の残像を宿していることは間違いない。

補記一 京都御所・北の間(塩川文麟筆「花鳥図」襖十二面)

http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori6.pdf

補記二 塩川文麟の師の岡本豊彦の「春慶墨画草花図 小吸物膳 十膳揃」

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蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306117368-1

補記三 「呉春筆 寿老・鶴・亀 絹本着色」→「三井家」と「柏原家」との関係

「文政七年(1824)二月の江戸の火事で、三井家の江戸駿河町店が類焼しました。その時、柏原家の江戸本町店から多数の者が手伝いに出ました。同じ年の十二月、「則兵衛」から「御挨拶」(お礼)として「呉春三幅対」が贈られてきました。「則兵衛」とは北三井家六代目・高祐(たかすけ)で、彼は呉春のパトロンでした。柏原家に伝来している呉春の作品のうち三幅対はこの一点だけですので、これが則兵衛から贈られたものと思われます。」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その八「柴田義董」) [洛東遺芳館]

(八)柴田義董筆「飲中八仙図」(洛東遺芳館蔵)

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柴田義董筆「飲中八仙図」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

飲中八仙図は、杜甫の詩「飲中八仙詩」を絵画化したもので、唐時代の八人の大酒飲みを描いています。八人の中では、詩人の李白と書家の張旭がよく知られています。絵の作者は柴田義董です。呉春の弟子ですので、四条派の画家ですが、人物画を得意にしました。

 柴田義董(安永九=一七八〇~文政二=一八一九)は、字は威仲、号は琴緒・琴海など。通称喜太郎。備前(岡山県)の人で、京都で活躍した。呉春門下の最大画家と称せられ、人物・花鳥・走獣など幅広い画域を誇ったが、特に人物画を得意とし、「花鳥は(松村)景文、山水は(岡本)豊彦、人物は義董」と評された。四十歳の若さで逝去。下京の長講堂に葬られたとされるが、現在は確認できない。

 十八世紀の江戸中期時代の京都画壇は、応挙・若冲・大雅・蕪村・元直などを第一期とすると(安永六年=一七七七版『平安人物志』)、その応挙の「円山派」(源琦・芦雪・文鳴・徹山・守礼・雪亭・孝敏・応受・応瑞・南岳・規礼・楠亭・素絢・月僊・鶴嶺・東洋など)と蕪村門を経て応挙門で活躍する呉春などが第二期ということになろう。
 そして、その円山派(応挙派)は、初代・応挙、二代・応瑞、そして、三代・応震の頃には、呉春系(四条派)の画人(景文・豊彦・義董・月樵・孔寅・公長・広成など)が多く輩出し、「円山四条派」へと移行し、これらが第三期ということになろう。
 柴田義董は、応挙門というより呉春門で、この「円山四条派」の、応挙・蕪村(第一期)からすると第三期の画人で、応挙が没した寛政七年(一七九五)には僅か十五歳であり、義董は、応挙・蕪村らとの直接的な接触は無い時代の画人と解した方が良かろう。
 その上で、この冒頭の義董の「酒中八仙図」を鑑賞すると、まず、この「酒中八仙図」は、日本南画(文人画)の大成者の一人として知られている蕪村が、画巻や屏風絵などで傑作画を残している漢画の代表的な画題なのである。

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蕪村筆「飲中八仙図屏風」 絖本着色 六曲一双
各 一六六・〇×三七〇・〇㎝
「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展展示(「サントリー美術館」)

[ 飲中八仙とは、中国唐代の詩人・杜甫が「飲中八仙歌」(『唐詩選』巻二)で取り上げた、酒を好む八人の文化人のことで、賀知章(がちしょう)、李適手(りてきしゅ)、汝陽王李璡(なんようおうりしん)、崔宗之(さいそうし)、 蘇晋(そしん)、 李白(りはく)、 張旭(ちょうきょく)、 焦遂(しょうすい)をさす。本屏風はその詩に取材したもので、右隻右より、蘇晋、崔宗之、賀知章、汝陽王李璡、左隻右より李白、張旭、憔遂、李適手の順で描かれている。酔って両脇から供に支えられる李白の姿は、独立した主題として好まれたもので、しばしば絵画化された。彩色は緑や茶、淡青などの落ち着いて色を主体としつつも、右隻第一扇の画中画に描かれた布袋らしき人物の衣や、左隻の机および椅子など、朱色を効果的に使うことで、画面を引き締めている。署名は「謝長庚」、印章は「謝長庚」(白文方印)、「謝春星」(白文方印)、絖(ぬめ)に描かれた本作は屏風講時代、四十歳代後半に京都で制作されたとする指摘がある。『旧藤田男爵家別邸燈篭庭石及当市西陣新実家所蔵品入札』(昭和八年)に本屏風が掲載されている。 ](『前掲展示図録・解説(池田芙美稿)』)

 この蕪村の大作「飲中八仙図屏風」は、「山水・人物」画の構成なのだが、冒頭の義董の「飲中八仙図(掛幅)」は、「人物」画本位に仕立て、そして、その人物像は、蕪村風(写意風)よりも応挙風(「写生・写実風」)に描写しているところが、「蕪村・応挙・義董」の三者関連の一つの見所となって来よう。
 そして、これは、まさしく、蕪村と応挙とを、その二人を師とする呉春の、その「円山四条派」の、その流れを顕著にしている作品の一つということになろう。


補記一 蕪村の「鹿」、そして、義董の「鹿」(義董の「蕪村風」の接近)

蕪村の「鹿」図など

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%80%80%E9%B9%BF&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=HRSMN0hFPiTmQM%253A%252CjDrmlGhqkYKSRM%252C_&usg=__2_SUjgzex1lKCn0FfUhkHJo_L5o%3D&sa=X&ved=0ahUKEwjM2u-3r_LXAhUHzbwKHdkpAXIQ9QEINjAC#imgrc=HRSMN0hFPiTmQM:

義董の「鹿」図など

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9F%B4%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%91%A3%E3%80%80%E9%B9%BF%E5%9B%B3&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=8ck62VCQv4olCM%253A%252C-WTjSshMtWdmBM%252C_&usg=__gSD-i0aEnv2Y0jIevyVczMir414%3D&sa=X&ved=0ahUKEwip8MSYrPLXAhUNPrwKHU4nBBIQ9QEIMjAE#imgrc=0ZYXpm8hNYKdkM:

補記二 大雅の書「飲中八仙歌」(「根津美術館蔵)

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=00298

補記三 蕪村の「飲中八仙図襖絵」(銀閣慈照寺障壁画)

http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/g01.html



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その七「源琦」) [洛東遺芳館]

(七)源琦筆「布袋図」(洛東遺芳館蔵)

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源琦筆「布袋図一」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

布袋は唐時代の末に実在していた僧侶です。名を契此(かいし)といいますが、いつも布袋を背負っていたので、布袋と呼ばれました。後に禅僧たちにあがめられ、弥勒の化身とされました。民間でも信仰をあつめ、日本では七福神に入っています。この絵の画家は駒井源琦(こまい・げんき)です。円山応挙の弟子で、応挙の弟子の中でもっとも応挙の画風に忠実でした。この絵も全く応挙風です。

源琦は、延享四年(一七四七)京都の生まれ、寛政九年(一七九七)、師の応挙没後、二年の後に没している。一般に姓の源(みなもと)を音読みする。琦はその名。氏は駒井、字は子韞(しおん)、通称幸之助。とくに唐美人図を得意とし,同門山口素絢の描く和美人と併称された。また彩色に長じ,芦雪とともに応挙門の二哲と呼ばれた。応挙没後,応瑞を補佐して円山派を盛り立て,応挙画風を素直に継承した温雅な画趣を特色としている。
 さて、応門二哲の芦雪と源琦もともに布袋図を描いているが、源琦が冒頭の布袋図のように、応挙の「伝統性・理想性」に比重を置いているとすると、芦雪は応挙の「革新性・奔放性」に比重を置いているように思われる。
そして、それは、師の応挙の二面性に多く由来するもので、芦雪は、応挙の「革新性・奔放性」、そして、源琦は、応挙の「伝統性・理想性」に、より多く身を置いていたということが出来よう。

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応挙筆「布袋図二」(名古屋市立博物館蔵)

 雪舟の室町時代から布袋図は水墨画の主要な画題一つで、多くの画人が布袋図を残している。この応挙の「布袋図」は、それらの伝統を踏まえつつ、応挙ならではの革新性と奔放性とを重ね有している。そして、芦雪は、こういう応挙の革新性や奔放性を重視し、その視点を置いての多くの作品を残している。

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応挙筆「布袋図三」(個人蔵)

 この応挙の「布袋図三」は、先の「布袋図二」(「革新性・奔放性」)に比すると、応挙の作品の多くに見られる「伝統性・理想性」に比重が置かれた作品と理解できよう。そして、源琦は、終始一貫して、師の応挙の、この「伝統性・理想性」の世界により多く身を置いていたということになろう。
この源琦の、ひたすらに応挙一筋、ひたすらに、その「伝統性・理想性」一筋が、冒頭の「布袋図一」のように、師の応挙以上の、「応挙風・応挙らしさ・応挙様式」を具有して来るという、ここに源琦の世界があるように思われる。それは、応門随一といわれる源琦の「唐美人画」の世界に置いて、より顕著に窺い知れるであろう。


補記一 大乗寺(その十二 源琦筆「梅花遊禽図」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-11

補記二 源琦 富士図 

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「源琦は円山応挙の弟子の中でも、最も師の画風に忠実な画家でした。この作品も、応挙が描いた「四季富士図」四幅のうちの「春」によく似ています。近景の山並みには、稚松図から出てきたような若々しい松が描かれていて、春らしい雰囲気を醸しています。筆の線はほとんど残さず、穏やかな濃淡表現でまとめていて、とても新鮮な墨画という感じがします。」
(特記事項) 応挙は、「植松文書」(沼津原宿)によると、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、上記の「四季富士図」の「春」を描いたのであろう。そして、応挙門の側近の源琦も、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、この「富士図」を描いたのであろう。しかし、これは紛れもなく、応挙の「富士山」を踏まえての、未だ、応挙が描いていない「冨士山」の景を水墨画で描いている。

補記三 応挙筆「冨士巻狩図屏風」

https://blogs.yahoo.co.jp/nagoyawalker/62134735.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その六「山口素絢」) [洛東遺芳館]

(六)山口素絢筆「郭子儀図」(洛東遺芳館蔵)

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山口素絢筆「郭子儀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

郭子儀は唐時代の武将です。自身栄達しましたが、子孫もみんな出世しました。ですから郭子儀図には子孫繁栄の願いが込められています。山口素絢は円山応挙の弟子です。この作品は応挙の「郭子儀図」(三井記念美術館)を写したものです。

山口素絢(やまぐちそけん、宝暦九年=一七五九~ 文政元年(一八一八))は、応門十哲の一人に数えられている。通称は武次郎、字は伯後、号は山斎など。京都の人。円山応挙に画技を学び,寛政七年(一七九五)大乗寺障壁画制作(後期)に参加している。文化十年(一八一三))版の『平安人物志』により、そのころ祇園袋町に住していたことがわかる。人物画をよくして時様の和美人を得意とし、兄弟子の源琦の唐美人と併称された。
 さて、冒頭に掲げた「郭子儀図(素絢筆)は、次の「郭子儀祝賀図」(応挙筆)の模写絵である。

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「郭子儀祝賀図」(応挙筆)一幅 絹本着色 一七七五(安永四)一一八・〇×五八・五cm
三井記念美術館蔵
「郭子儀は唐時代陜西華州の人で、数々の武功に輝く名将である。八男七女をもうけ孫は数十人、長寿を誇ったという。老夫妻を頂点に人物が環状に配される構図は、この故事を絵画化したものである。本図は三井高美から実弟である高彌へ隠居祝いとして贈られた。商売にあまり熱心でなかった高美に代わり、高彌は三井家の家業をよくまとめたのである。子孫繁栄と長寿を慶ぶ郭子儀の顔は、なんと高彌の肖像で描かれている。」(『もっと知りたい 円山応挙(樋口一貴著)』)

 応挙は、この郭子儀について、大乗寺障壁画の「郭子儀の間」でも、その襖絵を描いているが、これと全く同じ図柄で、その着衣の色だけを異にしたものを描き、さらに、その「郭子儀図粉本」まで、今に残している(「東京国立博物館(植松家旧蔵)」・「郭子儀携小堂図」「郭子儀図粉本」)。
 すなわち、応挙は、「人物画」「花鳥画」「山水画」などの主たる画題(モチーフ)について、この種のマニュアル(粉本・下絵等)を作成しておいて、制作依頼の需に応じて、いわゆる、応挙工房(応挙と側近門人たち)で、門弟たちが応挙の代筆なども可能にしていたように思われる。
 そして、これらのことは、当時の狩野派にしろ琳派にしろ、障壁画などの大作を制作するような場合には、そういうマニュアル・手順書の類いのものは必須であって、今日の芸術品とか美術品とかを鑑賞する視点とはやや異なるという思いを深くする。
 また、当時の応挙にしろ、蕪村にしろ、芸術家と同意義の「画家・画人」という意識よりも、職人的な「絵師・画工」、そして、何人かで制作する場合のリーダー格は、「絵師・画工の棟梁」(「大乗寺文書(応挙書簡)」など)というような意識だったような思いを深くする。
 冒頭の素絢の、師・応挙の「郭子儀祝賀図」の模写絵のような作品も、「子孫繁栄・長寿」の吉祥的な贈答品の類いのものと理解するのが妥当なのかも知れない。
この「郭子儀祝賀図」の郭子儀の顔は、三井家惣領家(北三井家)四代目高美が一族から義絶された後に、暫定的に高美の跡を継いだ高美の実弟高彌(三井新町家三代目当主)の肖像で描かれているとのことで、こと、三井一族に取っては、この高彌肖像の「郭子儀図」というのは、需要が多く、そんなことと関係しているのかも知れない。
 というのは、そもそも、この三井家四代目の高美は、「大乗寺文書(円山派名簿)」(補記一)に、「京都三井八郎右衛門」と、その名が登場する、列記とした「円山派」の画人の一員なのである。そして、その血筋は、面々と、三井家六代目・高祐、七代目・高就、八代目・高福などが、応挙・応瑞・応震と引き継がれていく円山派の画人として、その作品を今に残している(補記四)。
とすれば、「京都三井八郎右衛門」(三井家惣領家)周辺においては、この種のもの(素絢筆「郭子儀図」)の制作依頼も多かったと解することも可能であろう。
 そもそも、絵師になるために画塾のシステムというのは、口伝による秘伝のようなもので、「臨写を以て始め臨写を以て終る」(橋本雅邦「木挽町絵所」)の、模写教育というのが中心であったのだろう。
 しかし、一人前の絵師になるには、この模写の世界から、自らの創意工夫による、いわゆる「新図」的な世界を会得しないと、例えば、後世に「応門十哲」の一人と目せられるようなことはなかろう。
 そして、「応門十哲」の一人と目せられている山口素絢は、まぎれもなく、応挙の「人物画」の世界を超え、素絢ならではの「美人風俗画」的世界を構築していることが(補記五)、その証左の一つになろう。そして、それらのことが、素絢をして「和美人画に関しては円山派随一」との評価を得ている背景なのであろう。

補記一 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-21

補記二 大乗寺障壁画「郭子図襖」(応挙筆)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-22

補記三 東京芸術大学蔵(植松家旧蔵)「郭子儀携小童図」(応挙筆)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007134

補記四 三井家当主(六代目・七代目・八代目)の作品など

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記五 山口素絢筆「百美人図」について―関連作品との比較から―

https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/23180/039000140008.pdf



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その五「東洋」) [洛東遺芳館]

(五)東洋筆「冨士三保松原図」(洛東遺芳館蔵)

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東洋筆「富士三保松原図」(絹本着色)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

東洋の絵には、どこか素朴で懐かしくなるようなところがありますが、この作品では、特に波の表現にそれが感じられます。しかし、空間表現は高度なもので、近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士と、四段階の遠近法が用いられています。
彩色が次第に薄くなる空気遠近法も効果的で、大きくて、しかも遠方にあるという富士山の表現に成功しています。

 東東洋は、宝暦五年(一七五五年)、現在の登米市石越町の生まれ、 天保十年(一八三九)、八十五歳で没。当初狩野梅笑に狩野派を学び、のち、上洛して円山応挙・池大雅等に師事し、法眼に叙せられた。姓・氏は東、名・通称は洋。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。晩年は帰郷して陸奥仙台藩の御用絵師となる。近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。
 十五歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑から本格的に絵を学ぶ、十八歳の頃、江戸に出て、さらに、二十歳の頃、上洛し、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば各地を歴訪しつつも、京都を中心に活動する。
 三十歳代初めにかけて、長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、天明五年(一七八五)の頃京に再帰し、応挙に師事したのは、この頃であろうか。そして、応挙を介してであろうが、妙法院真仁法親王と親交を結ぶようになる。
 法眼に叙せられたのは、応挙が没する寛政七年(一七九五)前後のことで、寛政八年(一七九六)、四十二歳の時に、仙台藩の絵画制作に携わるようになるが、その仙台藩の仕事を携わる一方、活動の拠点は京都であり続けた。京都から仙台へ帰郷したのは、文政八年(一八二五)、七十一歳の頃で、墓は、仙台(若林区荒町にある昌傳庵)と、京都(下京区にある聖光寺)にある。
東洋は、呉春の「四条派」の画人としているものもあるが、応挙の「円山派」の画人の方がより妥当であろう(『別冊太陽 円山応挙』所収「円山四条派系図」)。
 呉春も東洋も、妙法院宮真仁法親王(光格天皇の兄)の知遇を得、いわゆる、妙法院サロンの有力メンバーの一員なのであるが、それは、応挙の推挙によるものであろう(『応挙・呉春・芦雪(山川武著)』)。ちなみに、応挙の「墓石」に見る「源応挙墓」の四字は、妙法院宮真仁法親王の筆である(『山川・前掲書』、現在「悟真寺」は右京区太秦の地に移されている)。
 そのサロンには、文人・歌人・儒者等の、「伴蒿蹊・小沢蘆庵・慈延法師(大愚)・賀茂季鷹・上田秋成・岡本保考・香川景樹・皆川淇園・村瀬栲亭・釈慈周(六如)」等々、そして、画人には、「応挙・呉春・東洋」等が名を連ねている(「補記一」の画人や「賛」をしている文人等とオーバラップしている)。
 また、東洋については、下記(「補記」三)のものが詳しい。ここでは、冒頭の「富士三保松原図」に関連して、「大雅・応挙」などの「遠近法」などについて触れて置きたい。

 「遠近法」(透視遠近法)というのは、「近くものを大きく、遠くのものを小さく一点に収束するように描く」描法で、古来の日本画や東洋画の描法ではなく、新しく西洋画(ルネッサンス期に体系化された)をルーツとしているものである。
 この「遠近法」について、応挙は、そのスタートの時点で、「玩具店尾張屋」に奉公し、「眼鏡絵」という風景画を描くことを通して、この「遠近法」という描法を自分のものにし、そして、その上で、「写生」を基調とする「応挙風様式」という画法を樹立していった。
 この東洋の「富士三保松原図」は、その応挙の「遠近法」を明確に意識し、「近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士」と、四段階の遠近法を駆使している。そして、この「富士三保松原図」の主題は、大雅が繰り返し主題にしているもので、例えば、「冨士十二景」の「寒林柴扃図(かんりんさいけいず)」(東京芸術大学蔵)と、同一趣向のように解せられる。
 しかし、この大雅の「冨士十二景」(「補記」二)においては、応挙のような、西洋画的な「遠近法」ではなく、東洋的な「遠近法」(高遠は山の下から頂を仰ぎ見る形式、深遠は山の前から後をのぞきうかがう形式、平遠は近山から遠山を望み見る形式)が主たるものと解せられる。
 そして、この東洋の「富士三保松原図」は、大雅と応挙とに学んだ成果を活かして、大雅が試みていた「高遠・深遠・平遠」の東洋的な「三遠法」を、応挙風の「透視的遠近法」に置き換えている点に、東洋の、この絵に託しての狙いがあるように解せられる。


補記一 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲、「(その一)」などは掲載メモ)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」    (「その五」で「冨士十二景図など) 
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛       (その五)
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

補記二 大雅筆「冨士十二景図」(東京芸術大学蔵)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/239493

補記三 東東洋《花鳥押絵貼屏風》──ほのぼのと味わい深い風情「樋口智之」

http://artscape.jp/study/art-achive/10139894_1982.html

補記四 東洋筆「東方朔(とうほうさく)」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

補記五 二条派から古学派へ―堂上歌学の変容と地方への伝播

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_snippet&page_id=13&block_id=21&index_id=126&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese

補記六 東洋と芦雪など

 『書画聞見集(澹斎著)』に、仙台の画人東東洋が京都で見聞したこととして、「芦雪は傲慢な性格で、応挙の死後自分が一番と慢心したため、画はいよいよ悪くなり貧窮して、ついに大阪へ行って自ら首を吊った」ということが記されている。(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」安村敏信著)

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その四「呉春」) [洛東遺芳館]

(四)呉春筆「孔雀図」(洛東遺芳館蔵)

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呉春筆「孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

 呉春は京都の生まれですが、一時、摂津の池田に住んでいました。池田で呉春の作品を対象にした「掛物講」が開かれ、その記録が『池田人物誌』に記録されています。披露される掛物の体裁は決まっていて、縦四尺余、絖の唐表具、撥軸の一幅でした。第二回目の掛物講は天明六年(1786)六月四日で、「松樹に孔雀」が披露され、その表具は「柳茶の絖で明朝仕立て、大一文字は茶の竹屋町」でした。この特徴は全て本作品と一致します。

 『呉春(逸翁美術館編)』の「年譜」によると、呉春の池田寓居は、天明元年(一七八一)、三十歳の時から、寛政元年(一七八九)、三十八歳の頃までの八カ年ということになる。
 その「天明元年(一七八一)」には、「三月晦日妻雛路事故死 八月二十八日父匡程江戸で客死 秋摂津池田に移る」とあり、「寛政元年(一七八九)」には、「五月、池田を引払い、京都四条に住 十月二十三日、几董伊丹で急逝 追悼集『鐘筑波』に付句一、発句一」とある。
 この呉春の八年にわたる池田時代の大きな出来事として、天明三年(一七八三)十二月の蕪村の逝去と、天明八年(一七八八)正月二十九日の天明の大火があげられる。
そして、蕪村没後の天明七年(一七八七)の、応挙一門の「大乗寺障壁画」(前期)に参加し、その「郡山露頂図」(襖絵)を描き、それに関する「大乗寺文書」では、「応挙門人」ではなく「蕪村高弟」と記述されている。
 さらに、天明大火後の、応挙が没する寛政七年(一七九五)の「大乗寺障壁画」(後期)にも参加し、応挙の「松孔雀図」(襖絵)の完成に併せて、呉春は「四季耕作図」(襖絵)を完成させている。
 この前期の「郡山露頂図」は、蕪村晩年の「峨嵋露頂図」や「衡岳露頂図」の連作のような、蕪村風の山水画の趣なのであるが、後期の「四季耕作図」は、それまでの蕪村風から写生を基調としての応挙風への接近が如実に顕われているものであった。
 ここで、冒頭に掲げた天明六年(一七八六)の「孔雀図」と、その翌年の天明七年(一七八七)の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」を併せて鑑賞すると、「蕪村・応挙・呉春」の三者の画風について、次のようなことを指摘して置きたい。

一 呉春の「孔雀図」は、蕪村晩年の漢画を基調にしての「山中採薬図」(下記図)と同じ頃の作品であろう。そして、「山中採薬図」の、この「松樹」の描法は、そのままそっくり、「孔雀図」の「松樹」と重なってくる。そして、この「孔雀」は、蕪村の孔雀というよりも、応挙の孔雀に近いものであろう。そして、呉春にとって、蕪村と応挙というのは、蕪村在世中から、やはり、目標とすべき画人であったと解したい。

山中採薬図.jpg
呉春筆「山中採薬図」(逸翁美術館蔵)

二 この「山中採薬図」(呉春筆)を介在して、蕪村の「漢画」(「俳画」などを除く)は、応挙の「漢画」(「狩野派・土佐派」に対しての「漢画」)と、「写意(蕪村風)・写生(応挙)」の根本的なものは別にして、やはり、共に、「中国山水画・花鳥画」(「銭舜挙・沈南蘋」等)から多くのものを摂取しようとしていたことが了知され、その点においては、この「蕪村・応挙・呉春」の、それぞれの「漢画」の世界は、同一趣向のものであったと解したい。

三 その上で、呉春の、「蕪村(風)から応挙(風)」の転換というのは、一つの自然の流れで、例えば、天明七年(一七八七)作の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」の、この劇的な変化も、それは、主題(モチーフ)に対する、作者・呉春の姿勢に因るものであって、そして、その自然の流れというのは、その後の、「円山派」(応挙風)と「四条派」(呉春風)との流れにいえることで、その峻別に、ことさら視点を当てる必要がないと解したい。

補記一 呉春筆「郡山露頂図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-06

補記二 呉春筆「四季耕作図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-08

補記三 呉春筆 「山水(襖絵)」「竹に亀・寿老人・松に鶴(掛軸三幅対)」等

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html


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