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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十二) [酒井抱一]

その十二  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と『源氏物語第二十帖・朝顔』周辺

国周・朝顔.jpg

豊原国周画「現時五十四情」(第一号から五十四号)の「第二十号」
(早稲田図書館蔵) → 図一
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_b0228/index.html

 幕末から明治期の浮世絵師として名高い豊原国周(くにちか)は、天保六年(一八三五)、鈴木其一の四十歳時に生まれ、安政二年(一八五五)の頃より、豊原国周の名を署名するようになる。
 其一の「四季花鳥図屏風」は、その前年に制作されたもので、それと同時期の頃に制作された「朝顔図屏風」は、浮世絵師として自立する頃の国周は何らかの形で接する機会があったという推測も許されることであろう。
 上記の、国周の「現時五十四情(第二十号)」は、明治十七年(一八八四)に制作されたもので、其一とは何らの接点があるものではないが、この「現時五十四情」は「源氏五十四帖」の「第二十帖・朝顔」を捩ってのもので、上記に書かれているのが、その「第二十帖・朝顔」の、「見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん」の一首である。
 この「第二十帖・朝顔」の前は、「第十九帖・薄雲」で、文政八年(一八二五)、其一、三十歳(抱一=六十五歳)の頃の「薄雲」(新吉原三浦屋の名妓)の美人画(三幅のうちの一幅)がある。

其一・三美人図(薄雲).jpg

鈴木其一筆「雪月花三美人図」(三幅)のうち「雪美人・薄雲図」(一幅)
静嘉堂文庫美術館 → 図二
【 雪月花に、新吉原三浦屋お抱えの薄雲、高尾、長門の三名妓を見立て、寛文美人図の様式で描くという、趣向を凝らした作品である。上部の色紙型や短冊には抱一の手で俳句が記されている。高尾と薄雲の姿には、文政八年刊の『花街漫録』の挿絵に其一が写した花明国蔵の『高尾図』『薄雲図』という菱川印のある古画を参照している。背後に企画者関係者など多くの意向が感じられ、同じ頃の作とすると、其一としてかなり早い時期の大変な力作である。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子)」)

この短冊の抱一の句「(薄雲の句か?)(抱一書)」は、次のものである。

  初雪や 誰か誠も ひとつよき  薄雲

其一・花街漫録(薄雲).jpg

西村藐庵著『花街漫録』(二冊・文化八年=一八二五)所収「薄雲之図」(鈴木其一写)
木版墨絵 各二㈦・五×一八・五㎝  (早稲田大学図書館蔵) → 図三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563734?tocOpened=1

【 吉原江戸町一丁目の名主西村藐庵(みょうあん)が、吉原の故事・古物研究の成果をまとめた書で、抱一が賛辞の序文を寄せ、其一が指図をてがけでいる。江戸市井の富裕層に広がる古物趣味を伝えるもの。中には抱一所蔵品の縮図を掲げ解説がある。このとき其一は三十歳。三浦屋の遊女高尾と薄雲の美人画が、其一の『雪月花三美人図』に生かされていることはよく知られるが、各代の浮世絵をよく写している。】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子)」) 

 図二の「薄雲」と図三の「薄雲」は、姿勢は異なるが、新吉原三浦屋の名妓「薄雲」を其一が「各代の浮世絵をよく写している」、その成果の一つなのであろう。
 其一の師の抱一の出発点は、新吉原の「吉原文化」を背景とする「狂歌と浮世絵」との世界であった。狂歌は四方赤良(大田南畝)、浮世絵は歌川豊春(歌川派の始祖)の流れで、狂歌の号は「尻焼猿人」、浮世絵などの画号は「杜綾・杜陵・屠龍」などを用いた。

抱一・松風村雨図.jpg

酒井抱一筆「松風村雨図」一幅 天明五年(一七八五)細見美術館蔵 → 図四
【 現在知られる抱一作品の中で、数え年二十五歳の最も若い作例である。謡曲「松風」に因み、須磨の松風・村雨姉妹を描く。『松風村雨図』は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれらに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予期させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」) 

 この抱一の「松風村雨図」は、謡曲「松風」に由来するもので、『源氏物語』とは直接関係がないのかも知れないが、この「松風」の題名は、『源氏物語』第十八帖の「松風」に由来があると解しても、それは許されることであろう。
 ここで、上記の浮世絵(図一~図四)と『源氏物語』の各帖名との関係を整理すると次のとおりとなる。

● 「源氏物語・第十八帖『松風』」 → 酒井抱一筆「松風村雨図」(図四)
● 「源氏物語・第十九帖『薄雲』」 → 鈴木其一筆「雪月花三美人図」(三幅)のうち「薄雲図」(図二)と鈴木其一写「薄雲図」(西村藐庵著『花街漫録』所収)(図三)
● 「源氏物語・第二十帖『朝顔』」 → 豊原国周画「現時五十四情」所収「第二十号『朝顔』(図一)

 抱一の「松風村雨図」(図四)は、天明五年(一七八五)の作、そして、国周の「現時五十四情・第二十号(朝顔)」(図一)は、明治十七年(一八八四)刊行時のものとして、凡そ、一世紀(百年)弱の歳月の経過がある。
 歌川豊春系の「抱一」と歌川豊国系の「国周」とを結びつける接点は、抱一の継承者である「其一」ということになろう。
 弘化二年(一八四五)、其一、五十歳時の「新撰花柳百人一首募集摺物」(吉原楼主が遊女の和歌募集摺物)に美人画見本(「玉楼名妓・薄雲)の挿絵を、其一は描いている。この種のものの延長線上に、国周の「現時五十四情(源氏五十四帖)」が誕生する。
 それは取りも直さず、抱一から其一へと継承された、当時の江戸(東京)の「浮世絵と狂歌とを舞台とする吉原文化」が、その背景をなしているということになろう。

其一・百人一首(浮雲).jpg

鈴木其一画「新撰花柳百人一首募集摺物」二枚のうちの一枚(石水博物館蔵)
【 吉原の楼主、玉屋山三郎こと花柳園が企画した、吉原遊女による「新撰花柳百人一首」の募集要項。(略) 其一が『花街漫録』に遊女の挿絵を描いたのはちょうど二十年前になるが、この年五十を迎えた其一は藐庵との交流も続いており、このような企画にも参加していた。「新撰花柳百人一首」が実際に刊行されたかはわからないが、企画段階では其一はともすれば百人の遊女の姿を描く可能性もあったのである。(略)見本に書かれた藐庵の和歌も「君たちのこと葉の花をさくら木にゑりてまた見ぬ人に見せはや」と彼女たちの才知を誘っている。(略)其一の知名度や藐庵ゆかりの人脈が知られるとともに、素顔の其一像は意外とこうした資料から垣間見えるように思う。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十一) [酒井抱一]

その十一 鈴木其一筆「朝顔図屏風」と光琳筆「朝顔図香包」周辺

光琳・朝顔香包一.jpg

尾形光琳筆「朝顔図香包」一幅 絹本金地著色 二六・一×二一・一㎝
サンフランシスコ・アジア美術館蔵 → (図一)

光琳・朝顔香包二.jpg

尾形光琳筆「朝顔図香包」一幅 絹本金地著色 三三・三×二四・五㎝ 
シカゴ美術館蔵 → (図二)
【 両図とも組香で香木を入れるための香包としてデザインされたもので、「シカゴ美術館蔵」の方は、ほぼ同寸のものがこれ以外六点現存しており、セットとして制作されたものと思われる。いずれの場合も香包の機能性を充分考慮に入れて、最終的に下側になる中央部より、表となる側面に重点が置かれて描かれている。金箔地を背景に、草木や鳥が極彩色で描かれた香包は、贅を尽くした蒔絵の道具にも対抗し得る豪華な姿を呈したことであろう。
両図とも葉を墨と緑青で彩色し、葉脈を金泥で描き込んでいる。花の方は、「シカゴ美術館蔵」の方は、やや濃目の群青で花弁を彩色し、花蕊を金泥で描き込んでいるのに対し、「アジア美術館蔵」の花は淡目の群青を使い、胡粉で白い筋を入れ、中心部を暈しており、品種の異なる朝顔を描いていることがわかる。また偶然ではあるが、折目に生じた格子が竹垣のような印象を画面に与えている。 】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(別役恭子稿)」)

 「香包」(香包み)とは、中に香を入れて香席で使うもの(料紙)で、四つ折りにして使うため、表となる位置は画面の左中央の部分となる。光琳は、この彩色した装飾的な香包みを数多く制作しており、その図柄も、上記の「朝顔」だけではなく、「千羽鶴・白梅・紅梅・燕子花」など、いわゆる、「光琳紋様」(光琳の意匠化された図柄など)が目白押しである。
 今に、「琳派」の名の由来ともなっている尾形光琳は「燕子花図屏風」(六曲一双、根津美術館蔵、国宝)や「紅白梅図』(二曲一双、MOA美術館蔵、国宝)などの大画面の画家というイメージが強いが、それ以上に、この「香包」や「扇面画・団扇画・絵皿・蒔絵・小袖画」などの小品物や工芸物の名手なのである。
 そして、この「香包」などは、「扇面画・団扇画・絵皿(絵付け)」などと同じく、下絵を描くような手慣れた即興的な作品と解して差し支えなかろう。

其一・朝顔図拡大.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」のうち左隻「五・六扇」の部分拡大図 → (図三)

 これは、前々回から触れている其一の「朝顔図屏風」(六曲一双)の、左隻の最終部分の一部を切り取って拡大したものである。
 これを、上記の光琳の「朝顔図香包」(図一・図二)とを対比させるための、其一の「朝顔図香包」と紹介しても、よほどの目利きでないと、このトリック(詐術)を暴けないであろう。
それ以上に、実際に、これに香木を包み、その「折り目に生じた格子が竹垣」(図一・図二)のような状況になることを想像すると、これらの作業を媒体としての、新しい「美的空間」の展開すら見えてくる予感をも抱くのである。
 ここで、少なくとも、光琳の「朝顔図香包」(図一・図二)の小品は、其一の「朝顔図屏風」(六曲一双)の大画面の作品(「図三」の母体の「六曲一双」の屏風空間)に反転させることは、「宗達・光琳・抱一・其一」等の琳派の絵師達には容易なことであろう。
 と同時に、其一の「『朝顔図屏風』のうち左隻『五・六扇』の部分拡大図」(図三)の小品から、「宗達・光琳・抱一・其一」等の琳派の絵師達は、その詐術前以上の「朝顔図屏風・襖」などの大画面の大作を創造することは、これまた、極めて容易なことではなかろうかという思いがする。
 いずれにしろ、其一の師の抱一にしても、その「十二か月花鳥図」の基準的作品(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の一つに「朝顔」(「玉蜀黍朝顔に青蛙図(七月)」は取り上げられており、
「光琳・乾山→抱一・其一」の、この流れにおいては、「朝顔」が好みの画題であったことは付記しておく必要があろう。
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十) [酒井抱一]

その十 鈴木其一筆「朝顔図屏風」と宗達筆「雲龍図屏風」・「風神雷神図屏風」周辺

其一・朝顔図屏風一.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵(再掲)→ (其一・金地・「綺麗さび」の「綺麗」)→ (図一)

宗達・雲龍図屏風一.jpg

俵屋宗達筆「雲龍図屏風」六曲一双 紙本墨画淡彩 各一五〇・六×三五三・六㎝
フリア美術館蔵 (宗達・墨画・「綺麗さび」の「さび」)→(図二)

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地淡彩 各一五四・五×一六九・八㎝
建仁寺蔵 → (図三)

其一・風神雷神図襖一.jpg

鈴木其一筆「風神雷神図襖」四面裏表 絹本著色 各一六九・〇×一一六・〇cm
東京冨士美術館蔵→ (図四)

 上記の、其一筆「朝顔図屏風」(図一)と宗達筆「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)とについて、前回、次のように指摘されていることを紹介した。

【 宗達の「雲龍図屏風」(フリア美術館)に通じる構図であり、「風神雷神図屏風」(建仁寺)を源泉として、これに触発され、影響を受け、翻案された一連の琳派における一双形式の屏風の構成に沿うものである。屏風における左右の対比は、流派を問わず珍しいことではない。其一が、朝顔という単一の植物を取り上げて屏風を制作するに当たり、琳派の伝統である「燕子花図屏風」におけるモチーフを反復させる構図色彩がおそらく意識されたのだろう。さらに六曲一双という大画面の構図を思案する際に、抱一が光琳を顕彰しつつ翻案した屏風の制作に寄り添うような、左右が拮抗しあう構成の「朝顔図屏風」であった。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 この宗達の「雲龍図屏風」(図二)の右隻の龍は「降り龍」(「下化衆生」の龍)、左隻の龍は「昇り龍」(「上求菩提」の龍)で、その「降り龍」と「昇り龍」とが、それぞれ姿勢を反転させて、相互に睨み合っている図柄なのである。
 そして、其一の「朝顔図屏風」(図一)の右隻の朝顔図が、宗達の「降り龍」、その左隻の朝顔図が、宗達の「昇り龍」の格好で、その両者が見事に絡み合い、絶妙なコントラスト(対比)的な空間を生じさせている。
 宗達の「雲龍図屏風」(図二)が、「龍図」の具象的、「雲・波図」の半具象的な描法に比して、其一の「朝顔図屏風」(図一)は、「朝顔図」そのものは具象的なのだが、「あたかも空中に浮遊させるがごとく」、全体として、極めて抽象的な描法の一端も見てとれる。
 と同時に、宗達の「雲龍図屏風」(図二)が、「黒と白」との「水墨画」の極致とするならば、其一の「朝顔図屏風」は、「金地に群青と緑青」との「装飾画」の極致という見事な対比となっている。
 其一は、師の抱一から多くのものを学んでいるが、その抱一が多くのものを学んだ光琳、そして、宗達の、いわゆる、「琳派」の、その根元を正しく継承していることを、この両者を対比させて鑑賞していくと、そのことを実感する。

 次に、上記の「風神雷神像図(図三・図四)」関連については、下記のアドレスの「風神雷神図幻想」などで触れているので、ここでは、主として、「朝顔図屏風」(図一)との関連についてのみ記すことにする。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-18

 其一の「朝顔図屏風」(図一)、宗達の「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)は、いわゆる、移動性の「屏風絵(画)」に比して、其一の「風神雷神図襖」は、建物に付属している「襖絵」という違いがある。
 本来は、これらの障壁画(襖絵、杉戸絵、壁貼付絵、天井画、屏風絵、衝立絵などの総称)は、建物の空間と密接不可分のもので、それらを抜きにして鑑賞することは十全ではないのかも知れないが、逆に、それらの本来の空間がどういうものであったかを想像しながら、これの大画面の絵画を観賞する面白さもあるように思われる。
 例えば、この宗達の「雲龍図屏風」(図二)は、「落款が両隻を並べた場合内側となる部分にあることから、並置するのではなく、向かい合わせに置くことを意図していたと推測される」(『琳派四 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)と、そもそもは、其一の「風神雷神図襖」(図四)と同じような意図で制作されたものなのかも知れない。
 さらに、この其一の「風神雷神図襖」(図四)も、襖四面の「裏と表」に描かれていると、上記のように、並置しての、右隻の「風神図」と左隻の「雷神図」との対比が希薄化される恐れがあるように思われる。

 ここで、改めて、上記の四図を見ていくと、この其一の「朝顔図屏風」(図一)は、宗達の「雲龍図屏風」(図二)、そして、其一の「風神雷神図襖」(図四)は、宗達の「風神雷神図」(図三)を、それぞれ念頭に置いて制作したのではないかという思いを深くする。
 と同時に、其一は、宗達の「黒と白」との「水墨画」の極致の「雲龍図屏風」(図二)を、「金地に群青と緑青等の装飾画」の極致の「朝顔図屏風」(図一)に反転させ、そして、宗達の「金地に緑青等の装飾画」の極致の「風神雷神図屏風」(図三)を、「黒と白と淡彩の水墨画」の極致の「風神雷神図襖」(図四)に、これまた、反転させているということを実感する。
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(九) [酒井抱一]

その九 鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)

其一・四季花鳥図右.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(右隻)

其一・四季花鳥図左.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(左隻)
【鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一五四・七×三四一・二㎝
嘉永七年(一八五四) 東京黎明アートルーム蔵
 六曲一双の総金地に四季の花卉草木と小禽を描いた屏風である。右隻には「菁々其一」の署名に「為三堂」(朱文瓢印)、左隻には「嘉永甲寅初秋」の年紀に続けて、同じ「菁々其一」の署名に、「為三堂」(朱文瓢印)と、さらに「其弌」(朱文楕円印)が捺される。したがって嘉永七年(安政元年/一八五四)の制作と判明する貴重な作例であるが、晩年の其一が「朝顔図屏風」のように単一の植物を大画面に描く一方で、琳派の伝統に即したこのような屏風を描いていたことが判明する。
 右隻は白い花を咲かせた辛夷にはじまり、蕨や蒲公英、菫から、中央に立葵、燕子花、罌粟など、春から夏にかけての植物が題材に選ばれる。これに続く左隻は、朝顔や女郎花、などの秋草から、葉鶏頭に鞠、藪柑子に水仙、梅や山茶花などの秋から冬にかけての植物が余白を生かしながら描かれる。立葵、燕子花、秋の七草など、俵屋宗雪や「伊年」印を捺す作例、さらに光琳から抱一へと受け継がれてきた琳派作品に頻出する植物が顔を見せているかと思えば、捩摺、華鬘層、竹似草、小数珠菅など、一般には特定がむずかしい種類も数多く加えられている。そこには渡辺始興(一六八三~一七五五)や抱一と軌を一にして、博物学的な写生に基づく新知見や、園芸植物への関心の高さもうかがえる。一年の季節の巡りの中で、さまざまな植物が身を寄せ合いながら群生し、鳥が心地よさげに飛び交う平和なイメージであり、其一が率いていた時期の江戸琳派を代表するにふさわしい四季花鳥図屏風であるといえよう。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 この「四季花鳥図屏風」を其一が制作した嘉永七年(安政元年/一八五四)は、其一、晩年の五十九歳のときで、その前年にペリーが浦賀に来航し、その翌年の日米和親条約を調印した年に当たる。
 其一の師の抱一が亡くなったのは、文政十一年(一八二八)十一月二十九日(享年六十八)、其一、三十三歳のときである。この頃の作、其一画・抱一賛の「文読む遊女図」については、下記のアドレスなどで触れている。そこで、「抱一・小鸞女史・其一」の、この三者について触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12

其一・四季花鳥図拡大.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(左隻)の「第五扇(部分拡大図)

 この其一の「四季花鳥図屏風画」(左隻)の「第五扇(部分拡大図)の、この白梅上の二羽の鶯は、これは、其一三十代の頃の作、「文読む遊女図」(其一画・抱一賛)の、其一の二人の師である「抱一・小鸞女史」の面影を宿している、その二羽のペアの鶯と解したい・
 そして、ずばり、この地上の鶯(笹子=笹で鳴く鶯=「笹ならず秋草と冬草の狭間で鳴く鶯」)は、その二人の雨華庵で画人として育っていた「其一その人の自画像」の鶯と解したい。
 其一は、四十代後半には家督を長男の守一に譲り(天保十三年=一八四二、四十七歳の「広益諸家人名簿」守一のみが掲載されており、この頃までに家督を守一に譲っているとされている)、この頃から抱一色というよりも其一色の濃い多様な作風が顕著となってくる。
 其一が、晩年の栄光の号「菁々(せいせい)」を落款するのは、弘化元年(一八四四、四十九歳)頃からで、以降、安政五年(一八五八)、その六十三年の生涯の幕を閉じるまで、抱一に近い大名家や豪商の支援の下に、「光悦・宗達→光琳・乾山」の次の時代の「抱一・其一」時代を樹立していくことになる。
 その「抱一・其一時代」の「綺麗さび」の世界の集大成が、冒頭に掲げた、其一、五十九歳時の「四季花鳥図屏風」(六曲一双)と位置付けてもいささかの違和感もなかろう。

其一・朝顔図屏風.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵
【 夏から秋にかけて咲く朝顔のみを取り上げて、六曲一双の大画面に描いた屏風。うねるような朝顔の緑色の蔦や葉と、胡粉を巧みに用いて光を発するかのように描かれた青い朝顔の花を眺めていると時が経つのを忘れてしまうかのようだ。各隻には「菁々其一」の署名に「為三堂」(朱文印)が捺される。一九五四年にアメリカ・メトロポリタン美術館の所蔵となった其一の代表作のひとつである。
 金地を背景に、群青による朝顔の花と緑青による葉を全面に描いたこの屏風は、光琳が描いた「燕子花図屏風」(根岸美術館)や「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館)の題材と色彩の取り合わせを明らかに意識したものと推測されている。抱一もまた『光琳百図』に載る「八橋図屏風」に基づいて、さまざまな画面形式の燕子花を描いたが、その背景には『伊勢物語』第九段の東下りという文学的イメージが暗黙の了解として脈々と受け継がれていた。
 しかるにこの其一が選んだ朝顔という植物には文学的な背景は希薄であり、むしろ江戸後期における園芸熱がこの画題を選ばせた動機ではないかと推測されている。其一がここで取り上げた朝顔の種類は、当時もてはやされた変化朝顔の類ではなく、曜と呼ばれる花弁の筋や、葉の形も普通と代わり映えしない種類である。ただし描かれた花はきわめて大輪で、向きは正面や側面など変化に富み、さらに葉の影に隠れたものを含めれば百五十を超える数が描かれている。よく見ると各所に蕾や膨らみかけた種も描かれ、其一が栽培を通してのことか、朝顔をよく熟知していることは疑いない。
 一方で、本来、朝顔という蔓性の植物は、棹や垣根にからませて栽培し鑑賞するものである。しかし、其一は朝顔の根元を一切明らかにせず、あたかも空中に浮遊させるがごとく、それぞれの蔓を融通無偈に四方に伸びるに任せ、大輪の朝顔をたわわに咲かせた。そこには食物のもつ自然の生命力を感じさせもするが、右隻、左隻を一望に収め、六曲一双の屏風として見たときには、それぞれの花房の示す勢いや方向が、左右で拮抗しあうように慎重に制御されている様子がうかがわれる。
 これはあえて例を挙げれば宗達の「雲龍図屏風」(フリア美術館)に通じる構図であり、「風神雷神図屏風」(建仁寺)を源泉として、これに触発され、影響を受け、翻案された一連の琳派における一双形式の屏風の構成に沿うものである。屏風における左右の対比は、流派を問わず珍しいことではない。其一が、朝顔という単一の植物を取り上げて屏風を制作するに当たり、琳派の伝統である「燕子花図屏風」におけるモチーフを反復させる構図色彩がおそらく意識されたのだろう。さらに六曲一双という大画面の構図を思案する際に、抱一が光琳を顕彰しつつ翻案した屏風の制作に寄り添うような、左右が拮抗しあう構成の「朝顔図屏風」であった。
 それは自らの絵師としての根幹をなす琳派という流派の様式を、たえず新たに問い直す作画活動の中で生まれた琳派ならではの屏風であったと思われる。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 其一筆「朝顔図屏風」の「作品解説」(鑑賞文)のスタンダードのものとして全文を掲載したが、その周辺の下記のことなどについて、次回以降で触れていきたい。

一 其一筆「朝顔図屏風」と宗達筆「雲龍図屏風」・「風神雷神図屏風」周辺
二 其一筆「朝顔図屏風」と光琳筆「朝顔図香包」周辺
三 其一筆「朝顔図屏風」と『源氏物語第二十帖・朝顔』周辺
四 其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(八) [酒井抱一]

その八 鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」(細見美術館蔵)

其一・雪中竹梅図.jpg

鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」双幅・絹本着色 細見美術館蔵 一一一・九×五二・〇cm
【 雪竹に雀を右幅、雪の紅白に雀を左幅に描いた双幅。いずれも枝葉、花にこんもりと雪が積もり、なお画面には雪が舞っている。降り積もった雪を薄い水墨の外隈で表し、降る雪、舞う雪はさらに胡粉を吹き付けて雪らしい感じに仕上げている。雪深い中にも早春の気配を感じさせる図である。
 右幅では雪の重みでしなる二本の竹の枝が大きく弧を描き、雀が当たって勢いよく落ちる雪のさまが雪塊とともに長く滝のように表される。墨を交えた緑の竹と、それを覆うかのような雪が鮮やかなコントラストを見せている。同様な表現は、竹に替わり檜ではあるが、其一「檜図」や「四季図」(四幅対)にも見出され、其一が得意とした画題であった。
 これに対し左幅は、一羽の雀が寒さに耐えて羽を休め、静寂な画面である。ほころび始めた紅梅の花にも蕾にも雪が積もり、複雑な余白の表出を其一は楽しんでいるかのようである。
 雪と雀を左右共通のモチーフとしながら、静と動、緑と紅などを対比させ、雪のさまざまな形の面白さをも追及した意欲的な作品である。師の抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

 この「作品解説」の末尾の「抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った」ということを、「綺麗さび」という観点から見ていくと、抱一の「綺麗さび」は、「さび」(情趣)の表現を重視するのに比して、其一の「綺麗さび」は「綺麗」(造形的な効果)の表現を重視する傾向にあると換言することも出来よう。
 この「綺麗さび」とは、そもそも茶道の用語で、千利休(「わび・さび茶」の利休)と古田織部(「伊達風流」の織部流」)とを止揚する小堀遠州(「綺麗さび」の遠州流)との、この三者(茶人)の茶道観に由来するものと解したい。
 として、この三者(茶人)を俳諧師(俳人)に見立てると、「利休=芭蕉」、「織部=其角」、そして「遠州=屠龍(抱一)」ということになる。
 さらに、ここに抱一ゆかりの画人(絵師)を加味すると、「利休・芭蕉=尾形乾山=『(艶)隠者』」、「織部・其角=尾形光琳=『(伊達風流)歌舞伎者』、そして「遠州・屠龍(抱一)=酒井抱一=『江戸琳派=抱一・其一他『綺麗さび』」ということになる。
 このような観点に立って、改めて、冒頭の「造形的な効果にも多く関心を払った」其一筆「雪中竹梅小禽図」を観賞すると、やはり、其一の師の抱一が樹立した「綺麗さび」の世界であることを痛感する。
 と同時に、其一の師の抱一が、私淑し、目標とし、顕彰し続けた「尾形光琳・乾山」兄弟の、「光琳風(綺麗=造形性)」と「乾山風(さび=情趣性)」の「綺麗さび」の世界であることの印象を深くする。
 これらを証しする、「尾形光琳・乾山」兄弟の作品の一例を掲げて置きたい。

雪芦図団扇.jpg

尾形光琳筆「雪芦図団扇」一幅 紙本金地著色 二〇・九×二四・二㎝
落款「法橋光琳」 印章「潤声」白文方印 ファインバーグ・コレクション
【 団扇形の上辺と下辺を金地として、中央の素地を水辺に見立てる。雪をかむった枯芦が左方向へ倒れかかり、それを落款が受けとめている。商品ながら画面構成の密度は高い。】
(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

乾山・雪竹図.jpg

尾形乾山筆「雪竹図」一幅 紙本墨画 九八・〇×三四・二㎝
落款「七十九紫翠深省画」 印章「霊海」朱文方印
賛「竹の葉は/うす雪ながら/色かへて/しぐれふりにし/つれなさも/なし」
寛保元年(一七四二)作
【(前略)「雪竹図」は『国華』一三一号にも紹介され、早くから乾山水墨画の秀作として名高い。自賛「竹の葉はうす雪ながら色かへてしぐれふりにしつれなさもなし」に、七十九翁の年紀がある。とつとつとした筆致のうちに、能にも通じあう幽玄な趣きが秘められている。(後略) 】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(河野元昭稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(七) [酒井抱一]

その七 「流水四季草花屏風」(東京国立博物館蔵)

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酒井抱一筆「流水四季草花図屏風」(二曲一双)「右隻」(東京国立博物館蔵)

流水四季花鳥図屏風・左隻.jpg

酒井抱一筆「流水四季草花図屏風」(二曲一双)「左隻」(東京国立博物館蔵)
【「流水四季草花図屏風」酒井抱一筆 二曲一双 紙本金地著色 
一六二・〇×一七二・〇(各隻) 落款「抱一筆」(右隻)「雨華抱一筆」(左隻)
印章「文詮」(朱文円印)(各隻)
 抱一が文化・文政期につくり出した草花図・花鳥図は、おりからの花卉園芸ブームと相俟って非常に好評だったようで、よく似た様式の様々なバリエーションの屏風、掛幅画が制作されている。これら大量の草花図をすべて抱一が自ら描いたとは考えられず、いわゆる工房制作の問題が浮上してくるのである。本図は、抱一の作品として、しばしば図録や展覧会などで紹介されるものであるが、先に掲げてきた「四季花鳥図」(陽明文庫)などの基準作例と比較してみた場合、色彩感覚と空間構成に大きな相違が見出されるようだ。たとえば、煩雑な草花の配置と野太い水流の動き、あくが強く洗練性に欠ける濃彩。抱一は鮮度の高い刺激的な色彩をピリッときかせるのに巧みであり、未整理のモチーフをきらうことが多い。裏面に鈴木守一(其一の長男、一八二三~八九)筆の「竹梅図」が描かれており、それと表の本図との筆者の関係は、今後の探求すべき課題のひとつであろう。】(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(玉蟲敏子稿)」)

 この「流水花鳥図」は、上記の「作品解説」がなされた頃(一九八九年=平成元年初版)は、個人蔵であったが、現在は東京国立博物館蔵で、下記のアドレスなどで、その全容を閲覧することが出来る。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0033271

 上記の「作品解説」では、「これら大量の草花図をすべて抱一が自ら描いたとは考えられず、いわゆる工房制作の問題が浮上してくる」に関連して、「裏面に鈴木守一(其一の長男、一八二三~八九)筆の「竹梅図」が描かれており、それと表の本図との筆者の関係は、今後の探求すべき課題のひとつであろう」と、この「流水四季草花図屏風」は、落款は「抱一筆」「雨華抱一」であるが、「雨華庵工(画)房(抱一と其一を中心とする)」の、「其一色」の強い作品であるということを、言外に匂わせている感じでなくもない。
 そして、其一の後継者である守一が、その其一色の濃い抱一筆「流水四季草花図屏風」の裏面に、下記の「竹梅図」(二曲一双)を描いたということは、丁度、光琳の「風神雷神図屏風」(重要文化財・東京国立博物館蔵)の裏面に、抱一が「夏草秋草図屏風」を描いたと
同じように、守一にとっては大きな出来事であったろう。
 この守一の「竹梅図」は、光琳の代表作「紅白梅図屏風」(国宝・二曲一双・MOA美術館蔵)・「竹梅図屏風」(重要文化財・二曲一隻・東京国立博物館蔵)や抱一の「紅白梅図屏風」(六曲一双・出光美術館蔵)、そして、父であり師である其一の「雪中竹梅小禽図」(双幅・細見美術館蔵)や「梅椿図屏風」(六曲一双・ホノルル美術館蔵)などが、その背景になっているのかも知れない。

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「右隻第一扇」

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「右隻第二扇」

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「左隻第一扇」

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「左隻第二扇」
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(六) [酒井抱一]

その六 「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵)

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」(二曲一双)「右隻」(春・夏)京都国立博物館蔵 

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」(二曲一双)「左隻」(秋・冬)京都国立博物館蔵 

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http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/387145

【 四季花鳥図屏風(酒井抱一筆)二曲一双 紙本着色 一五六・〇×一六一・八(各隻)
落款「抱一暉真筆」(各隻)印章「文詮」(朱文円印)(各隻)「文詮」朱文瓢印(各隻) 
 「江戸琳派」の推進者であった酒井抱一と弟子其一との関係は、ちょうど蕪村と呉春、応挙と芦雪、春章と北斎のそれとよく似ているように思われる。師の一種の”貴族”的抑制感覚に対する、弟子における”職人”的技巧の露出趣味である。
 そのなかでも抱一の場合は、その出自からいっても文字どおり”上流”階級の出自であった。抱一の絵画に対する興味の深さにもかかわらず、彼の作品を貫いているのは、彼の意識するとしないとにかかわらず、「殿様芸」であることに外ならない。東京国立博物館蔵「夏秋草図」屏風や旭光学蔵「秋草図」屏風などの水準が、常に維持されたとはいい難い。
 四季の花鳥を二曲一双の画面に描き分けた本屏風の表現は、見ても分かるようにやや硬いというべきであろう。にもかかわらず、その構図感覚は十九世紀前半の江戸画壇にあって出色というが妥当で、琳派の再生とはいいながら四条派の表現感覚を潜かに取り入れた抱一画の標準作と考えてよい。  】(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(狩野博幸稿)」)

 上記の「作品解説」中の、「抱一の絵画に対する興味の深さにもかかわらず、彼の作品を貫いているのは、彼の意識するとしないとにかかわらず、『殿様芸』であることに外ならない」という指摘は、抱一絵画の核心をついている感じでなくもない。
 抱一は、姫路十五万石の譜代大名、酒井雅樂頭家の出自で、その武家の身分を捨て出家して僧籍のまま一介の市井の絵師に身を置いても、酒井家の禄を育んでいる殿様絵師(「千石五十人扶持」=大名の縁戚に連なる地位を維持する石高=年収「千万円」単位より「億円」単位に近い?)で、そのものずばり「殿様芸」(閑と金にゆとりがある殿様の身分の人が描いている絵画)という面では、見事に核心をついている。
 しかし、抱一のその「殿様芸」は、一般的な「殿様芸」(素人芸・慰みにする芸・旦那芸)などの絵画ではなく、「『玄人芸(超一流の専門絵師)』・『琳派・俳画・仏画・中国画・文人画・大和絵・風俗画・浮世絵・節句画・花鳥画・円山四条派・土佐派などあらゆるジャンルに精通している稀有の絵師』・『旦那芸などではなく門人を育て<抱一工房>として注文主の意向に適格に対処する絵所(工房)の主宰者としての統率力』など、それら面では、どうにも「殿様芸」という言葉を当てはめることは、やや無理筋ということになろう。

 上記の「作品解説」の中で、「四季の花鳥を二曲一双の画面に描き分けた本屏風の表現は、見ても分かるようにやや硬いというべきであろう」という指摘については、これは、上記の
「旦那芸などではなく門人を育て<抱一工房>として注文主の意向に適格に対処する統率者としての絵師の力量」に関連して、「抱一風(様式)の先鞭的な抱一作品(抱一個人色の強い作品)」か「その先鞭的抱一作品の亜流的作品(抱一工房色の強い作品)」との、その「抱一風(様式)のオリジナル性」との度合いによる「やや硬い」という、その「濃さの度合い」の問題と解したい。

 その上で、この「作品解説」の冒頭の「『江戸琳派』の推進者であった酒井抱一と弟子其一との関係は、ちょうど蕪村と呉春、応挙と芦雪、春章と北斎のそれとよく似ているように思われる。師の一種の”貴族”的抑制感覚に対する、弟子における”職人”的技巧の露出趣味である」ということは、抱一のこの種の作品については、「抱一の用人(付人)でもある弟子(助手)其一の手が加わっており、その両者の関係は、抱一の『”貴族”的抑制感覚』と其一の『”職人”的技巧の露出趣味』との絶妙な融合(コンビネーション)に因るというようなことを意味しているのかも知れない。

 ここで、この「”貴族”的抑制感覚」というのは、京都(平安時代)の「”公家貴族的抑制感覚」というよりも、江戸(徳川時代)の「”武家”貴族的抑制感覚」ということで、こと抱一の「”公家貴族的抑制感覚」というのは、抱一と極めて近い大名茶人の「松平不昧(公)」(越前松平家宗家七代目藩主)師筋に当たる大名茶人の元祖「小堀遠州(公)」(備中松山藩第二代藩主のち近江小室藩初代藩主)の、その茶道(遠州流茶道)の中核を為す「綺麗(きれい)さび」こそ、その抱一の「”武家”貴族的抑制感覚」の正体と解したい。

 この「綺麗さび」については、『原色茶道大辞典』(淡交社刊)や『建築大辞典』(彰国社刊)などの、主として「茶道の世界」や「建築・造園の世界」で使われる特殊用語扱いで、『日本国語大辞典』(小学館刊)にも、その項目はなく、まだ一般的には通用しない用語なのかも知れないが、次のアドレスの「ジャッパンナレッジ」のものが詳しい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

(上記の解説)

【「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。
 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。
 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。
 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

 「綺麗」という用語は漢語で、その「綺」とは「綾・綾絹」の「上品・品格」のあるものを表している。そして、「麗」とは「形がととのって美しい」ものを表す用語である。一方、「さび」という用語は和語で、「日本の美意識の一つの『わび・さび(侘・寂)』の「さび」で、一般的に質素で静かなものを表す」が、「連歌・俳諧、特に、蕉風俳諧で重んじられた理念で、中世の幽玄・わびの美意識にたち、もの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、洗練されて自然と外ににおい出たもの。閑寂さが芸術化された句の情調」などの意に用いられる。
 
 これらのことを、抱一の絵画の世界に当てはめると、この「綺麗さび」の「綺麗」は、抱一絵画が有する「絵画性・造形性」、そして、この「さび」は、抱一絵画が有する「文芸性・俳諧性」と捉えることが出来ないであろうか。
 具体的に、今回取り上げている「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵)を、「綺麗さび」の「綺麗」(絵画性・造形性)という視点と「さび」(文芸性・俳諧性)という視点で鑑賞していくと、次のようなことが浮き彫りになってくる。

一 四季(春・夏・秋・冬)の花鳥を、二曲一双の両隻(右隻=春・夏、左隻=秋・冬)に配置するということは、抱一特有の「綺麗さび」が、この構成配置から顕著に表れているとは思えない。これらのことは、上記「作品解説」中の「琳派の再生とはいいながら四条派の表現感覚を潜に取り入れていた抱一画の標準作と考えてよい」との指摘のとおり、抱一が樹立した画風(琳派=装飾性+四条派=写実性など)の標準的な世界(既に抱一画房に於いて様式化された世界)ということになろう。

二 これらを個々に見ていくと、右隻第一扇の「白梅と鶯」、右隻第二扇の「燕子花と水鶏」、
左隻第一扇の「尾花他秋草と月」、左隻第二扇の「雪・藪柑子と寒雀」などの取り合わせは、これまでに見て来た、抱一の「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)や「四季花鳥図巻」(東京国立博物館蔵)などで、既に様式化(意匠化・マニュアル化)されたものと解したい。

三 その上で、あらためて、上記「作品解説」中の、「師の一種の”貴族”的抑制感覚に対する、弟子における”職人”的技巧の露出趣味である」ということは、これをストレートに解すると、「師(抱一)の一種の”貴族”的抑制感覚(「綺麗さび」の感覚)に対する、弟子(其一)における”職人”的技巧の露出趣味(其一の「職人絵師的技巧を凝らした」=抱一の「綺麗さび」の「綺麗=絵画性・造形性)」の「露出気味」の作品である」と解することも、決して飛躍したものではなかろう。

四 として、上記の「作品解説」で触れていないこととして、上記の右隻(第一・二扇)の右(春)から左(夏)へ「金泥の水流(水紋)」、その左隻(第一扇)の「月」に掛かる「雲の文様」と化し、その第一扇から第二扇にかけての地上の「水紋」が、「寒雀」と組み合わさって「雲の文様」と化しているところに、抱一流の「綺麗さび」の「さび」(「文芸性・俳諧性=趣向)の一端が窺えるように思われる。



花鳥図巻冬三拡大.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(下=秋冬)』「冬(三)・拡大図」東京国立博物館蔵

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11  

これは、先に紹介した「四季花鳥図巻」の「雪を被った白梅と鶯」図の拡大したものである。これと、今回の冒頭の右隻(第一扇)の「白梅と鶯」図を比較すると、上記の「作品解説」中の「やや硬い」ということ、即ち、抱一の「綺麗さび」の「綺麗」(絵画性・造形性)のみが目立っている印象は拭えない。



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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(下=秋冬)』「秋(五)・拡大図」東京国立博物館蔵

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-04

 これも、先に紹介した「四季花鳥図巻」の、「女郎花(枯)の茎に止まっている塵のような小さな『蟻』」の図である。こ「の「女郎花」は、冒頭の左隻の左の中央に描かれているが、その茎には、この「蟻」は描かれていない。この見えないような小さい蟻を描くというのは、いわゆる「師の一種の”貴族”的抑制感覚の『遊び』の世界」のもので、「抱一画房」に於いては、抱一だけが許される特権のようなものであろう。この種の抱一の「さび」(洒落・粋に通ずる)遊びの世界が、今回の「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵)には見られない。

七 この「四季花鳥図屏風」の左隻(第二扇)の白い一羽の白鷺は、その下部に描かれている藪柑子を覆っている土坡の白い雪に対応する「綺麗」(絵画性・造形性)を強調するもので、例えば、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)の白い二羽の白鷺(地上の白鷺と空中の白鷺)に比すると、ここにも抱一流の「さび」(俳諧性・自在性・対話性)などが希薄という印象が拭えないのである。

八 しかし、この「四季花鳥図」(二曲一双)は、全体として、「綺麗さび」(狩野派のような「重々しい」ものではなく、また、尾形光琳風の「デフォルメの度合いの強い破格風」のものではなく、「美しい・汚れがない・品のよさ(品格・気品・清浄)・粋(洗練・都市性)・艶(上品な艶やかさ)・バランスのよさ(調和性)」などの「綺麗さび」)、いわゆる抱一流の「綺麗さび」の世界であることは、繰り返すことになるが、その典型的な作品の一つと解したい。
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(五) [酒井抱一]

その五 「四季花鳥図屏風」の左隻(冬)

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「左隻(四~六扇・冬)部分拡大図」

「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」の「冬」(左隻・四~六扇)の絵図である。
 この右側(四扇)の上部は、前(三扇)の続きの「秋」の草花で、「紅葉した漆・葛と葛の花・篠竹」などが描かれ、その下部には、前(三扇)の続きの「水流・土坡」、その土坡の左方には「冬」の雪が積もり、その上に「水仙」が咲いている。その上部(五~六扇)に二層の雪を被った土坡、その雪間に赤い実をつけた「藪柑子」、そして、その雪を被った土坡の上部に、「白梅と鶯」と枯木の「榛(はん)の木」が描かれている。
 落款は「文化丙子晩冬 抱一写於鶯邨画房」、印章は「雨華道人」朱文二重郭方印・「文詮」朱文瓢印である。この「文化丙子」は文化十三年(一八一六)で、その翌年の両年の年譜は、次のとおりである。

【文政十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作                 】

文政十四 一八一七 丁丑 五十七歳
元日 百花園にて観梅。
▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。
五月、建部巣兆の句集『曽波可理』に序文を記す。
六月十七日、小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る。(御一代)
■六月二十五日、鈴木蠣潭没(二十六歳)。(君山君積宛書簡・御一代は七月没とする)浅草松葉町正法寺(現中野区沼袋)に葬られる。抱一、辞世の句を墓の墓石に記す。(増補略印譜・大観)
鈴木其一(二十二歳)、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む。(増補略印譜・大観)
十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表(松尾知子編)」)

 この二か年の年譜記事から、次のようなことが判明してくる。

一 「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)は、抱一のパトロンの流山(常陸に隣接した下総=千葉県流山市)の富商・「君山君積」のために制作した作品である。この「君山君積」は、享和元年(一八〇一)の年譜にも、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する。(君山君積宛書簡)」に登場する。
これらのことに関連し、上記の二か年の年譜に出てくる「鵬斎・抱一・文晁」との交友などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-20

二 上記一の「君山君積宛書簡」関連では、文化十二年(一八一五)の年譜にも、「六月二
日、光琳百回忌、大塚村の庵居で法会を修し、付近の寺院で二日にわたり光琳遺墨展を開催。(君山君積宛書簡・雨華庵文庫・年譜考)」とあり、この「君山君積宛書簡」は、図68で紹介されている。その図録解説を下記に掲げておきたい。

【図68 酒井抱一 君山君積宛書簡 一巻 個人蔵
流山の富商、君山君積に宛てた五月十日の手紙で、文化十二年六月二日の光琳百回忌の展観の世話役を頼む内容である。自分が借り主となって故人の掛け物を百幅集めて展観したいので、是非是非世話人に就任して欲しい、そのため江戸へ一日も早く、遅くとも十五、六日までには来て欲しいと懇願している。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)

 なお、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)によると、この光琳百回忌の「光琳遺墨展」(「出品目録」、抱一自筆の手控えもので一部焼失して不明箇所あり)に、「一(?)・・・竪物紙本 君山」とあり、光琳の遺墨作品を、その目録のトップに記載され、出品しているようである。また、「十八 大黒小幅 当日返却 文晁」は谷文晁蔵のものであろう。「二十 竹 南瓜」と「二十九 福禄寿 南瓜」の「南瓜」は、抱一のパトロンの吉原京町大文字屋二代市兵衛(狂名加保茶元成)であろう。この「加保茶元成」などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

三 「大沢永之のために『法華経普門品』を書写。永之これを刊行する」については、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)に、「此年抱一大沢永之の為めに、妙法連華経観音菩薩普門一部を書す、永之之を印行して施本となす。永平寺愚禅和尚の序文、亀田鵬斎の跋文がある。ここで抱一と特殊の関係にあった大沢永之を紹介せねばならない。(以下、要約、尾形乾山の『紫翠』を号にしている。武州忍町行田の呉服商。江戸浅草茅町に別業に住し、その荘を『百花潭』と称す。その『百花潭』の額は抱一の書である。永之と抱一との交情は頗る厚く、抱一の事業を援けるところ多く、抱一もまた永之の為に製する作品が多い。又、抱一の鑑定に依って蒐集した光琳・乾山の作品を少なからず併蔵している。そして、それらを散せざるなど、稀有の名家である。天保十五年十月没、行年七十五。)
 さらに、此年の作品として、次の二点が記されている。

● 蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵
 文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房
● 四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵
   文化丙子晩冬      抱一写 於鶯邨画房

 上記の「蓬莱図」の所蔵者・大沢久三氏は、抱一のパトロンの大沢永之に連なる子孫の方
であろう。「四季花鳥図屏風」の所蔵者の神田鐳蔵氏は、昭和二年(一九二七)の抱一百年忌の展観当時の所蔵者であることについては、下記のアドレスで触れている。この作品の原所蔵者は、上記の文政十三年(一八一六)の年譜で、君山君積で、現在の所蔵者は陽明文庫であることも先に触れている。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

四 ここで、これらの作品を制作した「槃礴(はんはく)画房」の「槃礴」は、『荘子』田子方篇の「槃礴解衣(はんはくかいい)」(真にその道を得たものは外を粧はぬの意)に由来する「抱一の画房(アトリエ)」と「抱一と門弟の工房(協同・共同制作所)」との両意があるものと解したい。そして、「鶯邨画房」は、「槃礴画房」と同じく、文化六年(一八〇九)に転居してきた「下谷根岸大塚村(後の「雨華庵」の住居)の「鶯の里の画房(アトリエ)」で、「抱一の(個人的)画房(アトリエ)」というよりも、「抱一と門弟の工房(協同・共同制作所)」の意が強いものであると解したい。

五 これらのことに関して、これまでに触れてきた、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)と「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)、そして、「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間と出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間などとを重ね合わせると次のとおりとなる。

●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

六 ここで重要なことは、これらの「槃礴画房」「鶯邨工房」、そして、そこでの作品というのは、「抱一と門弟(抱一の酒井家の用人=付け人・鈴木蠣潭他の門人)」との位置からすると、「酒井家の禄を育んでいる殿様絵師・抱一(「千石五十人扶持」=大名の縁戚に連なる地位を維持する石高=年収「千万円」単位より「億円」単位に近い?)と、その抱一をサポートする、本家の酒井家が遣わしている抱一専用の用人(お抱え絵師)鈴木蠣潭(「(等覚院殿)御一代」は、その有力な助手と解して差し支えなかろう。蠣潭は「十三人扶持」(十三人を賄える米代相当?)で、蠣潭の夭逝(二十六歳)の跡を継いだ鈴木其一(二十二歳)は「九人扶持」だが、後に、酒井忠学(ただのり)に嫁いだ第十一代将軍・家斉の息女・喜代姫から医師格に昇進を許され、別途「三十人扶持」を賜っており、抱一没後も其一は酒井家のお抱え絵師の地位を有していたのであろう。
 蠣潭の別号に「必庵」があり、この号は蠣潭没後、其一が継いでいる。

【 百図之事今日奴にてとかけ合候処 光琳忌に間合ひ候つもり出来候まゝ 板下の処明日よりおこたりなく板下御認可被下候 是非とも光琳忌に間に合申度候 其思召にて板下奉頼候 此段申入度早々 以上 十五日 明日のけたいなく奉頼候
 必庵主人  鶯  】
(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』所収「必庵宛 酒井抱一書簡」)

 これは、文化十二年(一八一五)六月に開催した「光琳百回忌光琳遺墨展」に配付する予定で刊行を進めていた『光琳百図』(記念光琳縮図集=約百点)の板下制作の督促を、必庵宛(蠣潭存命中であり、この書簡は蠣潭宛てのものであろう)に送った「鶯(邨)」(抱一)の書簡である。実際には、開催中には間に合わず、この年の秋頃に完成して、主だった方々に配ったのであろう(この年、蠣潭は二十四歳で、其一は二十歳、其一が抱一の内弟子になったのは十八歳の時で、この『光琳百図』の縮図制作には其一も戦力になっているのであろう)。『光琳百図』は、文政九年(一八二六、抱一・六十六歳、其一・三十一歳、鶯蒲・十九歳)に後編が刊行され、その時に前編も改めて刊行されたようで、これらが、今日に現存し、その全容を、下記のアドレスなどで閲覧することが出来る。

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%89%E7%90%B3%E7%99%BE%E5%9B%B3&enter=portal

 なお、鈴木蠣潭については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24

七 鈴木蠣潭が亡くなった文化十四年六月二十五日の十二日前の、六月十七日に、「小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る(御一代)」と、蠣潭は、抱一と小鸞女史が同じ屋根の下で暮らすのを見届けるかのように夭逝する(二十六歳)。そして、小鸞女史もまた、酒井家側からすると、抱一用人(酒井家付人)の蠣潭と同じく、抱一御付女中(酒井家御付女中)で、その名も「春篠」なのである。即ち、酒井家にとって、抱一は一代限りであって、抱一没後は、例えば、この翌年(文政元年=一八一八)に「妙華尼(小鸞女史)」の養子になった「酒井抱一(画人)の二代目・酒井鶯蒲」は、大名家の「酒井家」とは、何らのかかわりもないということになる。これらの周辺については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%B0%8F%E9%B8%9E%E5%A5%B3%E5%8F%B2

八 この「文化十四年(一八一七)」には、「十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する」と、これまでの、「槃礴画房」・「鶯邨画房」から「雨華画房(工房)」への変遷を告げるスタートの年なのであろう。この「雨華庵」の額の揮毫者は、抱一の甥に当たる、当時の酒井家当主・酒井忠実のものである。この額の裏面に次の文字が刻まれている。

【 文化十四年丁丑十一月十一日乙巳書之 従四位下行雅樂頭源朝臣忠実 】(「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)

この「雨華庵」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15

九 「雨華庵」の号は、この文化十四年(一八一七)以降からのもので、「此年以前に雨華庵と書いたものは見当たらない」(「相見・前掲書)ということで、すると、この号は抱一が亡くなる文政十一年(一八二八)までの、晩年の十一年間のものということになる。この雨華庵の抱一の門下には、雨華庵二世となる酒井鶯蒲、抱一の実質的な後継者・鈴木其一、其一と並ぶ抱一の高弟・池田孤邨、抱一の最晩年の弟子・田中抱二等々の俊秀が集うことになる。この「雨華庵画房(工房)」での、必庵(其一)等の、抱一の代筆などに関しては、次のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27

(再掲)

【(前略)此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 】
(『日本絵画の見方(榊原悟著)』所収「酒井抱一書状巻(ミシガン大学蔵)」)


これらのことに関して、「抱一筆十二か月花鳥図考」(『琳派 響き合う美(河野元昭著)』所収)で、この「酒井抱一書状巻(ミシガン大学蔵)」をより詳しく紹介し、次のような見解を示されている。

【 この書簡集には、ほかにもあい似た内容の書状が含まれている。現在まで、これらは単に手伝い、下絵制作、代筆の存在を示すもの、あるいは芸術的良心の問題として考えられてきた。そして、関心はもっぱら宛名の必庵が、弟子鈴木其一を指すものか、あるいはその養父蠣潭かとい点に向けられてきた。しかし、これはもう立派に工房制作と呼んで差し支えないのではなかろうか。これらの書簡は、抱一が弟子を統括し、その様式のもとに制作を指揮していたことを示している。これらに抱一の落款が加えられ、あくまでも抱一の作品として発表され、依頼主に売却されたことは、改めていうまでもないであろう。そもそも、ヨーロッパ美術における工房とは、芸術家や職人などが制作する部屋や仕事場を意味し、転じて、何らかの共通の基盤あるいは方針のもとに制作する芸術家や職人の集団を指す語である。わが近世絵画史において、宗達工房とか又兵衛工房とかいうのは、ヨーロッパ美術史の工房概念を適用したものにほかならない。抱一の場合も、抱一様式に収斂する共通の基盤や方針があったことは明らかであり、必庵が抱一のもとに出かけて一緒に制作していることは、工房の源義である仕事場のもつ語感とも、よく通い合っているといえよう。(以下略)  】
((『琳派 響き合う美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図考」)



飛鴨図.jpg

尾形光琳筆「飛鴨図」一幅 山口蓬春記念館蔵
【 光琳水墨画の代表的作例で、抱一と交流があり抱一画のほか光琳・乾山の作品を多く伝えた大沢家旧蔵になる。『光琳百図』(後編上)にも収載されたこの図には、抱一による箱書や折紙が「副書」として自筆包紙とともに備わっている。書体や状況から文政五年のものと思われ、光琳画に係る抱一の活動が明快に知られる一例である。日本画家の山口蓬春(一八九三~一九七一)が入手し、その作品にも生かされた。(「図版解説・松尾知子稿)

抱一は、「飛鴨図 尾形光琳筆」と箱書し、極書には「光琳筆一/隻鳬図 但紙本/各審定作/處真蹟疑論/無之者也/午十月十五日/抱一暉真」とした。
「武州行田百花潭大沢家目録」には、本図のほかにも、抱一の箱書があるという作品が多く掲載されている。光琳・乾山に限らず雪舟の山水から、探幽、松花堂、一蝶の絵、西行の和歌や、遊女高尾の短冊など幅広い。抱一の箱書を逐一求めたのであろう大沢永之との関係にとどまらず、絵師の中でも抱一がする箱書、共箱などの多さ、その意識的な行為には注目したいところである。(作品解説・松尾知子稿)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収)』)

 この光琳筆「飛鴨図」の抱一の鑑定書(極書=きわめがき)が、文政五年(一八〇八)作とすると、文化十二年(一八一五)に開催された「光琳百回忌光琳遺墨展」にも、この光琳の水墨画は出品されたものと解して置きたい。そして、抱一は、光琳などの作品の鑑定を依頼される場合が多く、この遺墨展に配付した『光琳百図』(光琳画縮図集)なども、それらの鑑定用の意図もあることであろう。
 そして、光琳百回忌関連の「法会・遺墨展・『光琳百図』『尾形流略印譜』の刊行・『光琳百回忌百幅』関連の制作」において、抱一の有力な助手が「鈴木蠣潭・其一」で、さらに、抱一の有力な支援者(パトロン)が、武州行田の「松沢永之」(江戸浅草茅町の「百花潭」住)と常州流山の「君山君積」の二人ということになろう。
 ここで、この「まとめ(一~十)」のスタートに記した、光琳百回忌の諸行事が終わった翌年の、文化十三年(一八一六)の年譜の記事を再掲して置きたい。

(再掲)

【文政十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作 】

 この年譜の「正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)」関連については、下記アドレスの(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」の関連メモで触れている。また、その翌年の「文政十四 一八一七 丁丑 五十七歳 元日 百花園にて観梅。▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。」に関連しての「佐原鞠塢」についても、「(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)」の関連メモで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-10  

ここで再掲した、年譜記事の「大沢永之のために『法華経普門品』を書写。永之これを刊行する」と「君山君積のために『四季花鳥図屏風』(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載」の、この「大沢永之のために『法華経普門品』を書写」と「君山君積のために『四季花鳥図屏風』(六曲一双)を描く」とは、抱一の、「大沢永之と君山君積」への、「光琳百回忌の記念行事」が終わって、両者に対するお世話になったことの返礼のものと解したい。

十一

柿図屏風.jpg

酒井抱一筆「柿図屏風」二曲一双 紙本着色 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
一四五・一×一四六・〇cm 落款「丙子暮秋 抱一暉真」 印章「文詮」朱方印
文化十三年(一八一六)作
【 (前略) 324図(注・上記の「柿図屏風)は、そうした抱一の柿図を代表する一点。左下から右上へ対角線に沿って枝を伸ばした柿の木を描く。葉もすでに落ち、赤い実も五つばかりになった、秋の暮れのもの寂びた景であるが、どこか俳味が感じられるのは、抱一ならではの画趣といえよう。落款より文化十三年(一八一六)、彼の五十六歳の作と知れる。(後略)    】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(榊原悟稿)」)

 これが、上記の十で再掲した年譜の「▼秋、『柿図屏風』(メトロポリタン美術館蔵)制作」の「柿図屏風」である。この原所蔵者は、例えば、抱一の無二の地方の支援者(パトロン)の「大沢永之と君山君積」とのお二人に限定するならば、「尾形乾山五世(?)」を名乗っている「大沢永之」の旧蔵品としても何らの違和感を無いような雰囲気を有している。
 として、もう一つの、「▼冬、『四季花鳥図屏風』(陽明文庫蔵)制作」の、旧(原)所蔵者が「君山君積」であることは、これまた、何らの違和感も覚えないような雰囲気を有しているのである。そして、この「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)は、極めて、装飾的な琳派の立役者の、乾山の実兄の「尾形光琳」的世界のものということになろう。
 ここで、上記の五の次の模式図を再掲して置きたい。

(再掲)

●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

 そして、この模式図に、「尾形乾山流の『艶(やさ)隠者的世界』」と「尾形光琳流の『豪奢華麗・耽美的世界』とを追加(再々掲)して置めきたい(追加項目は▼印である)。

(再々掲)


●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

▼『柿図屏風』(メトロポリタン美術館蔵

「尾形乾山流の『艶(やさ)隠者的世界』」


●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)

「尾形光琳流の『豪奢華麗・耽美的世界』
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