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雨華庵の四季(その十二) [酒井抱一]

その十二「秋(三)」

花鳥巻秋三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035823

花鳥巻秋三拡大.jpg

同上:部分拡大図
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035823.jpg

 右の「葡萄」は前図に続いている。その葡萄の蔓は左下がりの対角線状に描かれ、それが次の図柄の「水引草」の右上がり対角線状の蔓と対比する空間に、二羽の小さな鳥(「菊戴」)が飛翔している。その菊戴は、あたかも、細い水引草の小さい粒状の花を啄むようで、この微小な水引の花に、微小な小鳥の菊戴がよく似合っている。その菊戴の侵入を阻止するかのように、左端の上空に「蟷螂(とうろう・かまきり)」が、鎌のような肢を折り曲げている。
 その蟷螂(かまきり)の下には、ピンク色の酔芙蓉が咲いている。蟷螂(かまきり)は、その酔芙蓉の先にとまっているのか、それとも、この左図から伸びている菊の葉の上にとまっているのかは定かではない。この蟷螂(かまきり)は、明らかに、中央を飛翔している菊戴よりも大きい感じで、これはメルヘンの世界という雰囲気である。
 「 夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
   水引草に風が立ち
   草ひばりのうたひやまない
   しづまりかへつた午(ひる)さがりの林道を 」
 (立原道造『萱草に寄す』所収「のちのおもひに」) 

葡萄(仲秋・「黒葡萄・葡萄園・葡萄棚・葡萄狩」)「蔓性でどんどん伸びる。葉は心臓形でぎざぎざしている。緑色の粒状の花をつける。八月から十月にかけて実が熟す。」
 枯れなんとせしをぶだうの盛りかな    蕪村 「夜半叟句集」
 後の月葡萄に核の曇り哉         成美 「成美家集」
 黒葡萄天の甘露をうらやまず       一茶 「九番日記」
 黒きまで紫深き葡萄かな         子規 「子規句集」
 亀甲の粒ぎつしりと黒葡萄        茅舎 「川端茅舎句集」

水引の花(仲秋・「水引草・水引・金線草・銀水引・御所水引・金糸草・毛蓼」)「八月頃花軸をのばし、赤い小花を無数につける。花の下側が白く、紅白の水引のように見えることからこの名がついた。」
 かひなしや水引草の花ざかり      子規 「季語別子規俳句集」
 木もれ日は移りやすけれ水引草     水巴 「水巴句集」

芙蓉(初秋・「木(もく)芙蓉・白芙蓉・紅芙蓉・花芙蓉・酔芙蓉」)「八月から十月にかけて白、あるいは淡紅色の五弁の花を咲かせるが、夕方にはしぼんでしまう。咲き終わると薄緑色の莟のような実ができる。」
 枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな    芭蕉 「後れ馳」
 霧雨の空を芙蓉の天気哉        芭蕉 「韻塞」
 日を帯びて芙蓉かたぶく恨みかな    蕪村 「遺草」
 芙蓉さく今朝一天に雲もなし      紫暁 「鴈風呂」
 松が根になまめきたてる芙蓉かな    子規 「子規句集」

菊戴(晩秋・「きくいただき・まつむしり」)「体長は十センチくらいで、日本で最小の鳥といわれる。冬場は里に移動する。頭の黄色い冠羽が菊の花を思わせるためこの名がある。」
 群来るや菊戴のかつき染        柳居 「類題発句集」 

かまきり(三秋・「蟷螂=たうらう・鎌切・斧虫・いぼむしり・いぼじり・祈り虫」)「頭は三角形、前肢は鎌状の捕獲肢となり、他の虫を捕えて食す。緑色または褐色。」
 蟷螂や露引きこぼす萩の枝       北枝 「北枝発句集」
 蟷螂が片手かけたりつり鐘に      一茶 「七番日記」
 蟷螂は馬車に逃げられし馭者のさま   草田男 「来し方行方」

カマキリ・冬葵.jpg

伊藤若冲筆『玄圃瑤華』所収「冬葵」(紙本拓版各28.2×17.8㎝)
https://intojapanwaraku.com/jpart/1252/

カマキリ・鶏頭.jpg

伊藤若冲筆・桂州道倫賛「鶏頭に蟷螂図(部分図)」(紙本着色103.1×55.5cm)
https://i.pinimg.com/originals/9b/49/16/9b4916ddda5417adda39ad2efb98d80f.jpg

カマキリ・糸瓜.jpg

伊藤若冲筆「糸瓜群虫図(部分図)」(紙本着色111.5×48.2cm)細見美術館蔵
http://takannex.fc2web.com/11insect2.html  

上記の『玄圃瑤華』所収のものは、抱一の『手鑑帖』の何点(十一点?)かで、それを改変して創作していることが明瞭になっている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人・酒井抱一』所収「手鑑帖 抱一が見せた技の多彩さ(仲町啓子稿)」)。

『玄圃瑤華』所収「芭蕉」 → 『手鑑帖』所収「芭蕉の花に蟻図」
(若冲の「破れたり虫に食われている葉や不気味なハサミ虫」を、抱一は「墨の濃淡のみで破れや虫食いなどの痕跡を取り除き穏やかなもの」に修正し、「ハサミムシは蟻」に変えている。)

『玄圃瑤華』所収「大豆」 → 『手鑑帖』所収「葛に蜥蜴と蚊図」
(若冲の「大豆」は抱一が得意とした「葛」に変えられている。取り入れたのは「蜥蜴」の形状だが、それを着色して見事に転換している。)

 この若冲の『玄圃瑤華』(四十二図)の「玄圃」は仙人の居どころ、「瑤華」は玉のように美しい花という意のようで、それらは「拓版画」の、さながら若冲の「モノクロ・ミクロ動植画」の世界とすると、抱一の『手鑑帖』(七十二図)は、抱一の一門への「手鑑」(名家の筆跡等を集めて筆跡鑑定等の見本としたもの)とすべき、広いレパートリーの、さながら抱一の「ミクロ・マニュアル動植彩画」の世界のものということになる。
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雨華庵の四季(その十一) [酒井抱一]

その十一「秋(二)」

花鳥巻秋二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035822

花鳥巻秋二拡大.jpg

同上:部分拡大図

 右から、前図に続く「朝顔」と、その上の黄色い花は、尾形光琳の「夏草図屏風」に連なる「岩菲の花」はそのままにして置きたい。そして、朝顔の下の白い蕾のようなものは、白い「綿の実」(「部分拡大図」の右脇)と解したい。そして、それに連なる黄色い一輪の花は「綿の花」と解したい。そして、それに続く、「白い大輪(蕊はピンク)・蕾二つ」は「木槿」であろう。その脇の大きな朱の花は「鶏頭」で下部に小花を咲かせている。木槿や鶏頭の背後に描かれているピンクの粒状の花は「蓼の花」であろう。

朝顔(初秋・「牽牛花・西洋朝顔」)「朝顔は、秋の訪れを告げる花。夜明けに開いて昼にはしぼむ。旧暦七月(新暦では八月下旬)の七夕のころ咲くので牽牛花ともよばれる。花の色は、白、紫、紅、藍などさまざま。日本で鑑賞用に改良され、大輪や変わり咲き、斑入りなど多くの園芸種がある。山上憶良の「萩の花尾花葛花撫子の花女郎花また藤袴朝顔の花」『万葉集』の「朝顔」は桔梗または木槿の花であるとされる。」
 高円の野辺の容花おもかげに見えつつ妹は忘れかねつも   大伴家持「万葉集」
 うちつけにこしとや花の色を見むおく白露の染むるばかりを 矢田部名実「古今集」 
 朝貌や昼は錠おろす門の垣          芭蕉 「炭俵」
 あさがほに我は飯くふおとこ哉        芭蕉 「虚栗」
 あさがほの花に鳴行蚊のよわり        芭蕉 「句選拾遺」
 朝顔は酒盛知らぬさかりかな         芭蕉 「笈日記」
 蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也     芭蕉 「続虚栗」
 蕣や是も又我が友ならず           芭蕉 「今日の昔」
 三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん        芭蕉 「虚栗」
 わらふべし泣くべし我朝顔の凋(しぼむ)時 芭蕉 「真蹟懐紙」
 僧朝顔幾死かへる法の松 芭蕉 「甲子吟行」
 朝がほや一輪深き淵のいろ         蕪村 「蕪村句集」
 あさがほや夜は葎のばくち宿        去来 「菊の香」
 蚊屋ごしに蕣見ゆる旅寝哉         士朗 「枇杷園句集」
 朝顔の垣や上野の山かつら         子規 「子規句集」
 朝貎や咲いた許りの命哉          漱石 「漱石全集」
 朝がほや濁り初めたる市の空        久女 「杉田久女句集」

木槿(初秋・「きはちす・はなむくげ」)「紅紫色を中心に、白やしぼりの五弁の花を咲かせる。朝咲いて夕暮れには凋む。はかないものの例えにもなる。」
 道のべの木槿は馬に食はれけり       芭蕉 「野ざらし紀行」
 花むくげはだか童のかざし哉        芭蕉 「東日記」
 手をかけて折らで過ぎ行く木槿哉      杉風 「炭俵」
 川音や木槿咲く戸はまだ起きず       北枝 「卯辰集」
 修理寮の雨にくれゆく木槿かな       蕪村 「落日庵句集」
 蜘(くも)の網かけて夜に入る木槿哉     希因 「暮柳発句集」
 かまくらやむくげのうえの大仏       大江丸「はいかい袋」

鶏頭(三秋・「鶏頭花・鶏冠・からあゐ」)「一メートル弱の茎先にニワトリのとさかのような真っ赤な細かい花をつける。黄や白の花もある。庭先などに植えられ、花が少なくなる晩秋までその姿を楽しませてくれる。江戸期までは若葉を食用にしていた。」
 鶏頭や雁の来る時尚あかし         芭蕉 「初蝉」
 鶏頭や松にならひの清閑寺         其角 「五元集」
 味噌で煮て喰ふとは知らじ鶏頭花      嵐雪 「玄峰集」
 鶏頭の昼をうつすやぬり枕         丈草 「東華集」
 錦木は吹倒されてけいとう花        蕪村 「夜半叟句集」
 鶏頭や一つはそだつこぼれ種        太祇 「太祇句選」
 ぼつぼつと痩せけいとうも月夜なり     一茶 「文化句帖」
 鶏頭の十四五本もありぬべし        子規 「俳句稿」

蓼の花(初秋・「蓼の穂・穂蓼・蓼紅葉」)「花は赤と白がある。ままごとの赤飯として使わ
れ、アカノママという種類もある。田の畦や道端など人の暮らしの近くに自生するが観賞用としても栽培される。粒状の小さな花をつけた花穂が可愛いらしい。」
 草の戸を知れや穂蓼に唐辛子        芭蕉 「笈日記」
 醤油くむ小屋の境や蓼の花         其角 「末若葉」
 三径の十歩に尽て蓼の花          蕪村 「蕪村句集」
 浅水に浅黄の茎や蓼の花          太祇 「俳諧新選」
 溝川を埋めて蓼のさかりかな        子規 「子規句集」

綿の花(晩夏)「盛夏の頃、葉のわきに白、淡黄色の大きな美しい五弁花を開く。花のあと球形の果実となり、熟すと綿毛を持つ種をとばす。」
 丹波路や綿の花のみけふもみつ       蘭更 「半化坊発句集」
 大坂の城見えそめてわたの花        几薫 「晋明集四稿」

綿取(三秋・「綿取る・綿の桃・綿摘む・綿摘・綿干す・綿繰・綿打・綿打弓・綿弓・綿初穂)「綿の実から綿の繊維をとること。棉は、その実が熟すと裂けて綿の繊維を吹き出す。これをとって綿と種とに分け、さらに不純物を取り除き、綿糸の原料にする。」
 国富むや薬師の前の綿初尾         鬼貫 「犬居士」
 綿弓や琵琶に慰む竹の奥          芭蕉 「野ざらし紀行」
 生綿取る雨雲たちぬ生駒山         其角 「陸奥鵆」
 山の端の日の嬉しさや木綿とり       浪化 「草苅笛」
 綿取りや犬を家路に追ひ帰し        蕪村 「落日庵句集」
 綿とりのうたうて出たる日和かな      蝶夢 「草根発句集」
 門畑や下駄はきながら木わた取       樗良 「几董日記」
 洪水のあとに取るべき綿もなし       子規 「新俳句」

子犬一.jpg

円山応挙筆「子犬に綿図」(岡田美術館蔵)
https://www.museum.or.jp/modules/im/index.php?content_id=1058

 円山応挙の「子犬・狗子(くし)」図は何種類もあって、「応挙の狗(いぬ)」として夙に知られている。これは「子犬」と「黄色い綿の花・白い綿の実」の取り合わせのものであって、冒頭の抱一の絵図の「白い綿の実と黄色い花」を鑑賞する一つの足掛かりになる。

子犬二.jpg

円山応挙筆「秋・「朝顔狗子図杉戸」(東京国立博物館蔵)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/234084/0/1

 こちらは「応挙の狗(いぬ)」の「子犬」と「地を這う朝顔」のものである。この朝顔も、冒頭の抱一の絵図の「朝顔」を鑑賞する一つの足掛かりになる。
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雨華庵の四季(その十) [酒井抱一]

その十「秋(一)」

花鳥巻秋一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035821  

 ここから『四季花鳥図巻』の下巻(秋冬)がスタートする。中央のやや左寄りの上空に、満月の半円(下部)が描かれている。四季の景物を代表するものが、「花(晩春の季語)と月(三秋の季語)」で、連歌・俳諧(連句)では,懐紙各折の表裏(用紙を半折にし、その裏・表)にもれなく配するための規定である。
 懐紙四折を用いる百韻(百句形式の連歌・連句)では,各折に花、各折の表裏に月、但し最後の折の裏の月は省略して「四花七月」とする制(決まり)が定まっている。懐紙二折を用いる歌仙(三十六形式の連歌・連句)では,これに準じて「二花三月」との制(決まり)が定まっている。
 その上空の銀色の月から右下がりの対角線状に紅色の萩、そして左下がりの対角線状に白の萩が垂れ下がっている。その白萩の下に一羽の「あおじ(蒿雀・青鵐)」が描かれている。
 その「あおじ」の左脇には、紺色の朝顔と黄色の花(岩菲=がんび?)が咲いている。

花鳥巻秋一拡大.jpg

同上:部分拡大図

 この「あおじ(蒿雀・青鵐)」の右側に描かれているのは「鈴虫」(初秋の季語)、そして、この(「拡大図」)の右端の赤萩にとまっているのは「松虫」(初秋の季語)と区別しているのかも知れない((『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)では「松虫」の記述はない)。

月(三秋・「四日月、五日月、八日月、十日月、月更くる、月上る、遅月、月傾く、月落つ、月の秋、月の桂、桂男、月の兎玉兎、月の蛙、嫦娥、孀娥、月の鼠、月の都、月宮殿、月の鏡、月の顔、胸の月、心の月、真如の月、袖の月、朝月日、夕月日、月の出潮、月待ち、昼の月、薄月、月の蝕、月の暈、月の輪、月の出、月の入、月渡る、秋の月、月夜、月光、月明、月影、月下、上弦、下弦、弓張月、半月、有明月」)「秋の月である。春の花、冬の雪とともに日本の四季を代表する。ただ月といえば秋の月をさすのは、秋から冬にかけて空が澄み、月が明るく大きく照りわたるからである。新月が朔日(一日)で満月がだいたい十五日となる。したがってどの月も、満月は十五日ころになる。月の形は新月から三日月、上弦の月、満月、下弦の月(弓張月)、新月と変化する。」
 こぞ見てし秋の月夜は照らせども相見し妹はいや年さかる 柿本人麻呂「万葉集」
 あまの原ふりさけ見れば春日なるみかさの山に出でし月かも 安倍仲麿「古今集」
 鎖(ぢやう)あけて月さし入れよ浮御堂      芭蕉 「笈日記」
 月さびよ明智が妻の話せん            芭蕉 「勧進牒」
 われをつれて我影帰る月夜かな          素堂 「其袋」
 声かれて猿の歯白し峰の月            其角 「句兄弟」
 家買ひて今年見初むる月夜かな          荷兮 「炭俵」
 月に来よと只さりげなき書き送る         子規 「新俳句」

名月(仲秋・「明月、満月、望月、望の月、今日の月、月今宵、今宵の月、三五の月、三五夜、十五夜、芋名月、中秋節」)「旧暦八月十五日の月のこと。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。」
 水の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のも中なりける 源順「拾遺集」
 名月や池をめぐりて夜もすがら     芭蕉 「孤松」
 名月や北国日和定めなき        芭蕉 「奥の細道」
 命こそ芋種よ又今日の月        芭蕉 「千宜理記」
 たんだすめ住めば都ぞけふの月     芭蕉 「続山の井」
 木をきりて本口みるやけふの月     芭蕉 「江戸通り町」
 蒼海の浪酒臭しけふの月        芭蕉 「坂東太郎」
 盃にみつの名をのむこよひ哉      芭蕉 「真蹟集覧」
 名月の見所問ん旅寝せん        芭蕉 「荊口句帳」
 三井寺の門たゝかばやけふの月     芭蕉 「酉の雲」
 名月はふたつ過ても瀬田の月      芭蕉 「酉の雲」
 名月や海にむかかへば七小町      芭蕉 「初蝉」
 明月や座にうつくしき顔もなし     芭蕉 「初蝉」
 名月や兒(ちご)立ち並ぶ堂の縁    芭蕉 「初蝉」
 名月に麓の霧や田のくもり       芭蕉 「続猿蓑」
 明月の出るや五十一ヶ条        芭蕉 「庭竈集」
 名月の花かと見えて棉畠        芭蕉 「続猿蓑」
 名月や門に指しくる潮頭        芭蕉 「三日月日記」
 名月の夜やおもおもと茶臼山      芭蕉 「射水川」
 名月や海もおもはず山も見ず      去来 「あら野」
 名月や畳の上に松の影         其角 「雑談集」
 むら雲や今宵の月を乗せていく     凡兆 「荒小田」
 名月や柳の枝を空へふく        嵐雪 「俳諧古選」
 名月やうさぎのわたる諏訪の海     蕪村 「蕪村句集」
 山里は汁の中迄名月ぞ         一茶 「七番日記」
 名月をとつてくれろと泣く子かな    一茶 「成美評句稿」
 名月や故郷遠き影法師         漱石 「漱石全集」

萩(初秋・「鹿鳴草・鹿妻草・初見草・古枝草/・見草・月見草・萩原・萩むら・萩の下風・萩散る・こぼれ萩・乱れ萩・括り萩・萩の戸・萩の宿・萩見」)「紫色の花が咲くと秋と言われるように、山萩は八月中旬から赤紫の花を咲かせる。古来、萩は花の揺れる姿、散りこぼれるさまが愛され、文具、調度類の意匠としても親しまれてきた。花の色は他に白、黄。葉脈も美しい。」
 白露もこぼさぬ萩のうねりかな     芭蕉 「栞集」
 一家に遊女もねたり萩と月       芭蕉 「奥の細道」
 行々てたふれ伏すとも萩の原      曽良 「奥の細道」
 小狐の何にむせけむ小萩はら      蕪村 「落日庵句集」
 萩散りぬ祭も過ぬ立仏         一茶 「享和句集」
 白萩のしきりに露をこぼしけり     子規 「寒山落木」

鈴虫(初秋・「金鐘児(すずむし)・月鈴子(すずむし)」)「かつては鈴虫を松虫、松虫を鈴虫と逆に呼んでいた。鈴を振る、経る、古る、降るなど掛詞として和歌の世界でも愛されてきた。」
 鈴虫や松明先へ荷はせて        其角 「いつを昔」
 更るほど鈴虫の音や鈴の音       之道 「あめ子」
 よい世とや虫が鈴ふり鳶が舞ふ     一茶 「七番日記」
 飼ひ置きし鈴虫死で庵淋し       子規 「子規全集」

松虫(初秋・「金琵琶・青松虫・ちんちろ・ちんちろりん」)「実際(現実)の松虫は、やや赤みをおびた黒色(飴色)で、鳴き声は「チンチロリン」。鈴虫は蟋蟀(コオロギ)に似た黒色で、鳴き声は「りーんりーん」。これが、江戸時代(『甲子夜話』)は、「松むしといへるは色くろく、鈴むしはあかきをいへり」と、松虫=黒、鈴虫=飴色で、現在と逆に理解されていたようである。上記の抱一のものは(部分拡大図)、地面で鳴いているのが「鈴虫=飴色」で、萩にとまって鳴いているのが「松虫=黒色」と、鈴虫と松虫とを峻別して描いているように思われる。
 まくり手に松虫さがす浅茅かな     其角 「句兄弟」
 松虫のりんとも言はず黒茶碗      嵐雪 「風俗文選」 
 松虫のなくや夜食の茶碗五器      許六 「鯰橋」
 松虫も馴れて歌ふや手杵臼       卓袋 「続有磯海」

あおじ(三夏・「蒿雀・青鵐」)「背は緑褐色であるが、喉から腹は黄色で黒い小斑点がとび、地面に降り立つ時などはその黄色が目につく。」
 青鵐鳴き新樹の霧の濃く淡く      秋櫻子「古鏡」
 青鵐鳴き野あやめ霧にしづくせり    秋櫻子「蘆雁」
 林ゆき青鵐が鳴けり初日さす      秋櫻子「雪蘆抄」

岩菲(初夏・「がんぴ・岩菲仙翁=がんぴせんのう」)「葉は長卵形で厚く、黄赤色の五弁花を開く。白い花のものもある。」
 から絵もやうつすがんぴの花の色    季吟「山の井」
 蜘蛛の糸がんぴの花をしぼりたる    虚子「虚子全集」
 たまに来るがんぴの花のしじみ蝶    立子「ホトトギス」

歌麿・松虫・蛍.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 松虫  土師掻安
  蚊帳つりて人まつ虫はなくばかりなにおもしろきねどころじやない
  (「人まつ虫」=「人待つ」と「松虫」の掛け。「ねどころじやない」=「音(ね)」と「寝    どころ」を掛けている用例。)
 蛍   洒楽斎瀧麿
  佐保川の水も汲まず身は蛍中よしのはのくされゑんとて
(「中よし」=「仲良し」と「なか葦の葉」の掛け。「くされゑん」=「腐れ」と「腐れ縁
  を掛けている用例。)

歌麿・松虫拡大.jpg

同上:部分拡大図

 上図の歌麿の『画本虫撰』の「松虫と蛍」の絵図は、夜の風景で、全体を「雲英(きら)摺り」(雲母の粉を絵具に応用して摺ったり刷毛でひいたりして余白をつぶす浮世絵版画の技法)で仕上げている。左側の飛んでいる蛍と草に停まって蛍の尻が白く光っている。また、右の花に停まっている「松虫」(部分拡大図)は、現在の「鈴虫」(黒色)で、冒頭の抱一の「松虫」と向き恰好は違うが、形状は同じものと思われる。そして、抱一の地面上の虫は「松虫」(飴色)で、現在の「鈴虫(黒色)・松虫(飴色)」と逆に理解すべきなのであろう。
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雨華庵の四季(その九) [酒井抱一]

その九「夏(四)」

花鳥巻夏四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035820

 この『四季花鳥図巻(上=春夏)』の巻末の図柄は、抱一が畏敬して止まない尾形光琳の「燕子花と流水」を念頭に置いたものであろう。

燕子花・紅白梅.jpg

「尾形光琳300年忌記念特別展燕子花と紅白梅光琳デザインの秘密」(出光美術館)
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/past2015_n03.html

花鳥巻夏四拡大.jpg

(『四季花鳥図巻(上=春夏)』「夏(四)」同上:部分拡大図)

 この左端の燕子花の上に咲いている白い花は「沢瀉(おもだか)」であろう。

沢瀉(仲夏・「面高・花慈姑=はなくわい・生藺=なまい」)「沼、池等の水中に自生する。根から矢じり形の特徴のある葉が出て葉の間から花茎をのばし三片の白い涼しげな花を咲かせる。」

 破れ壺におもだか細く咲きにけり   鬼貫 「大丸」
沢瀉や花の数添ふ魚の泡       太祇 「太祇句選」
 沢瀉は水のうらかく矢尻かな     蕪村 「落日庵句集」

夏草図屏風.jpg

尾形光琳筆「夏草図屏風」二曲一双 紙本金地着色 根津美術館蔵 
署名「法橋光琳」 印章「方祝」朱文円印 各一六九・七×一七八・二cm

 この右上から左下への大胆な対角線構図は、「紅白梅図屏風」の流水を草花に置き換えたものとして夙に知られている。この左下に、燕子花と沢瀉が描かれている。この右上から左下に流れるように描かれている草花は、上から「※菫・石蕗(つわぶき)・※土筆・※蒲公英・※薺・都忘(みやこわすれ)・※桜草・穂反萱(ほかえりかや)・二輪草・薊・牡丹・春菊・※芥子・海老根・撫子・※母子草・八重葎・立葵・石竹・※鉄砲百合・銭葵・檜扇・※風車・黄蜀葵(とろろあおい)・岩菲(がんぴ)・擬宝珠・※燕子花・※沢瀉・水葵」などのようである(『特別展 光琳と乾山 芸術家兄弟・響き合う美意識(根津美術館)』)。
 ここであらためて抱一の『四季花鳥図巻(上=春夏)』と比較すると、上記の※印のものは、その中で書かれているものである。そして、この『四季花鳥図巻(上=春夏)』では描かれていないものも、抱一の他の「四季花鳥図屏風」や「十二か月花鳥図」などで描かれているものばかりなのである。
 しかし、光琳には、「草・花と鳥・虫」などの相互の関係を密にしたものは見当たらない。そして、光琳の実弟の尾形乾山が、「色絵定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」で「木・花・草と鳥」(狩野探幽の「定家詠十二ケ月和歌花鳥図画帖(出光美術館蔵)」の図様を参考にしている)とを見事に結実させ、京都の乾(北西)の鳴滝泉谷に開いた「鳴滝窯」のヒット商品として世に出している。そして、乾山はこの画題を終世愛好し、晩年の江戸に出て来てからも、この画題での掛幅ものを今に遺している。
 抱一の、この光琳・乾山へのオマージュとその顕彰の軌跡は次のとおりである。

【 文化3年(1806年)2月29日、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像を百幅を描き、そこに其角の句を付け、人々に贈った。これがまもなく迎える光琳の百回忌を意識するきっかけになったと思われ、以後光琳の事績の研究や顕彰に更に努める。
其角百回忌の翌年、光琳の子の養家小西家から尾形家の系図を照会し、文化10年(1813年)これに既存の画伝や印譜を合わせ『緒方流略印譜』を刊行。落款や略歴などの基本情報を押さえ、宗達から始まる流派を「緒方流(尾形流)」として捉えるという後世決定的に重要な方向性を打ち出した。
 光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
 光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。
 文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している。 】

https://ja.wikipedia.org/wiki/酒井抱一
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華庵の四季(その八) [酒井抱一]

その八「夏(三)」

花鳥巻夏三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035819

 この絵図の右側は、前回の続きの「芍薬と黒揚羽」の図柄である。前回までの白と赤の芍薬の花の、その赤い花の頭上の揚羽蝶に見合うように、二つの蕾を左上がりの対角線上に描き、それが左端の流水の曲線と結びつくような空間処理を構成している。
 その中央の下部に、「黄色い河骨の花と大きな特徴のある二枚の葉、その二枚の緑葉の中央に、その葉と同じ位の大きさの黒褐色の鷭(ばん)」が描かれている。そして、その左側には、「琳派」の象徴的な花の「燕子花(かきつばた)」が描かれ、その上部には、これまた「琳派」の象徴的な「流水(水紋)」の一部が描かれている。

花鳥巻夏三拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

河骨(仲夏・「こうほね・かうほね・かはほね」)「水のきれいな沼、池、川などの浅い所に自生する。太く白い根が白骨のように見える。六~七月頃水中から花茎をのばし、水面上に黄色い花をつける。葉はさといもの葉に似ている。」
 河骨の終にひらかぬ花盛り    素堂 「いつを昔」
 河骨の二もとさくや雨の中    蕪村 「蕪村句集」
 河骨の金鈴ふるふ流れかな    茅舎 「華厳」

鷭(三夏・「大鷭・小鷭・誰首鶏=ばんしゅけい)「草深い水辺に繁殖する夏鳥。全体が黒褐色で額から嘴にかけて赤い。嘴の先端は黄色で脚が長い。大鷭は嘴と額板が白い。小鷭は額板と嘴の基部が赤い。上図は小鷭のようである。」
 雨催ひ鷭の翅に猶暗し        嘯山 「葎亭句集」
 舟ゆけば蒲(かば)綾なすや鷭のこゑ 波郷 「鶴」

燕子花(仲夏・)「尾形光琳の『燕子花図屏風』に描かれている水辺の花。剣のような葉と紫の花で一目でこの花と分かる。『燕子花』字は花の姿が燕の姿を思わせるところからきている。」
 杜若語るも旅のひとつ哉       芭蕉 「笈の小文」
 杜若われに発句の思ひあり      芭蕉 「千鳥掛」
 有難きすがた拝まんかきつばた    芭蕉 「泊船集」
 杜若にたりやにたり水の影      芭蕉 「続山の井」
 朝々の葉の働きや燕子花       去来 「俳諧古選」
 宵々の雨に音なし杜若        蕪村 「蕪村句集」

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『十二か月花鳥図(抱一筆)』五月「燕子花に鷭図」(「宮内庁三の丸尚蔵館蔵=宮内庁本」)

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『十二か月花鳥図(抱一筆)』五月「燕子花・河骨・鴨図」(「出光美術館蔵=出光本」)

 抱一の画業の最期を飾るものは、十二ケ月に因む花と鳥を組み合わせた「十二か月花鳥図」の連作である。それらは、「宮内庁三の丸尚蔵館蔵=宮内庁本、出光美術館蔵=出光本、畠山記念館本、香雪美術館本、ブライス・コレクション本・ファインバーグ・コレクション本」などを目にすることが出来る。それらの根底を為すものが、この「四季花鳥図巻」のように解せられる。
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雨華庵の四季(その七) [酒井抱一]

その七「夏(二)」

花鳥図巻夏二.gif

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035818

花鳥巻夏二拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 右端は、紫陽花(仲夏・「あじさい・あぢさゐ・かたしろぐさ、四葩の花、七変化、刺繍花、瓊花」)「花びらのような四枚の萼の中心に粒状の花をつけ、これが集まって毬を形づくる。ピンク、白、青紫と花種も多く、また色が変わるので「七変化」ともよばれる。」(再掲「夏一」)。
 左端は、黒揚羽。先の「春三」関連の、揚羽蝶(三夏・「黒揚羽・烏揚羽・烏蝶」)「春はやや小さめだが夏になると一回り大きくなる。」(再掲)。
 この「紫陽花」と「黒揚羽」との間の草花は、右から、「草紫陽花(ピンク)・鉄線花(紫に白)・芍薬(白と赤)」であろう。この鉄線花(花弁六片)は「鉄線蓮(轉子蓮・風車の花)」(花弁八片)なのかどうかは判然としない(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

芍薬(初夏・「夷草・貎佳草=かおよぐさ」)「牡丹に似ているが、牡丹は木、芍薬は草である。花色も純白から深紅まで、変化に富む。」
 芍薬の蕊の湧き立つ日南(ひなた)かな   太祇 「誹諧新選」
 芍薬に紙魚(しみ)うち払ふ窓の前     蕪村 「新花摘」
 芍薬やおくに蔵ある浄土寺         大江丸「俳懺悔」
 芍薬や四十八夜に切りつくす        白雄 「白雄句集」
 芍薬のつんとさきけり禅宗寺        一茶 「八番日記」

鉄線花(初夏・「てつせんかづら・鉄線・クレマチス」)「初夏、紫または白の六弁の花を咲かせる。花びらが八枚のものは日本原産でクレマチス。蔓が細くて針金のようであることから鉄線と名づけられた。」
 てつせんは花火の花のたぐひかな      季吟 「山の井」
 御所拝観の時鉄線の咲けりしか       子規 「寒山落木」
 鉄線の花さき入るや窓の穴         龍之介「澄江堂句集」

梅園・風車花.jpg

『梅園草木花譜夏之部. 1』(毛氏江元寿梅園直脚<毛利梅園>//書画并撰著)
「風車の花」(鉄線蓮・轉子蓮) 国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286769/34

【『梅園百花画譜』毛利梅園・画 文政八年(一八二五)
毛利梅園は江戸築地に旗本の子として生まれ、二十歳代から博物学に関心を抱き、動植物の精緻で美しいスケッチを数多く残した。他人の絵の模写が多い江戸時代の博物図譜のなかにあって、その大半が実写であることが特色で、動植物を知る良い資料として後世に伝えられている。】(『江戸の動植物図譜(狩野博幸監修・河出書房新社)』) 

 毛利梅園は、寛政十年(一七九八)の生まれ、年代的には歌麿や抱一の次の年代になるが、没したのは嘉永四年(一八五一)で、歌麿はともかくとして、抱一、そして、抱一一門の花鳥画への影響というのは、その程度の差はあれ、何らかの接点はあるような雰囲気を有している。
 例えば、冒頭の抱一の『四季花鳥図巻』の「鉄線花(あるいは「鉄線蓮」)」は、この梅園の描く「風車花」(鉄線蓮)に極めて近い印象を有している。
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雨華庵の四季(その六) [酒井抱一]

その六「夏(一)」

花鳥巻夏一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

花鳥巻夏一拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 これまでの「春」(一~五)から「夏」への「季移り」(「連歌・俳諧=連句で、ある季から他の季に雑(ぞう)の句(季語のない句)を挟まずに付けること)の絵図である。右側は前の白い辛夷の花と蕾に続いて、その下側に、朱色の「姫百合」(仲夏の季語)が描かれている。
 その左脇に黄塾した穂麦(初夏の季語)が二本屹立し、その大きな葉を左右に垂らしている。その黄塾した左の葉に交叉して、白い一輪の「罌粟の花」(初夏の季語)の蕾が、右端上部の白い辛夷の花と蕾、そして、左端上部の白い斑点が浮き彫りになっている紫陽花の花(仲夏の季語)と、逆三角形の空間を構成している。
 その逆三角形の空間の、紫陽花の花よりに、真っ赤な大輪の罌粟の花が一輪咲き誇り、その蕊は薄緑と黄で丁寧に描いている。その右脇にひょろりと細く背の高い一輪の罌粟坊主が紫褐色に描かれ、これがまた、その右側の二本の黄褐色の穂麦(その穂麦の無数の毛)と恰も会話しているように描かれている。

百合の花(仲夏・「姫百合・鬼百合・鉄砲百合・笹百合・車百合・山百合・鹿の子百合・透百合・白百合」)「白に紅の斑がある山百合、黄赤に紫の斑がある鬼百合、花が大砲の筒のような鉄砲百合など、原種だけでも百種以上を数える。『ゆり』の語源は『揺り』で、『百合』の字を当てるのは、ゆり根の鱗茎の重なりあうさまからきている。姫百合は山地に自生し、広漏斗形の花を二、三個上向きにつける。花色は黄赤色、濃赤色まれに黄色で、斑点がある。」
 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 坂上郎女「万葉集」
 百合の花折られぬ先にうつむきぬ    其角 「其角発句集」
 飴売の箱にさいたや百合の花      嵐雪 「玄峰集」
 ひだるさをうなづきあひぬ百合の花   支考 「喪の名残」
 かりそめに早百合生けたり谷の房    蕪村 「蕪村句集」

麦(初夏・「大麦・小麦・黒麦・麦の穂・麦畑、・麦生・麦の波・穂麦・熟れ麦」)「晩秋から初冬に蒔かれ、冬を越して晩春には青々とした穂が出る。これが穂麦で、初夏に黄熟し刈り取られる。」
 山賤(しづ)のはたに刈り干す麦の穂のくだけてものを思ふころかな 曾根好忠「曾丹集」
 行駒の麦に慰むやどり哉    芭蕉 「甲子吟行」
 麦の穂を便につかむ別かな   芭蕉 「有磯海」
 いざともに穂麦喰はん草枕   芭蕉 「野ざらし紀行」

罌粟の花(初夏・「芥子の花・花罌粟、薊罌粟、白罌粟」)「五月頃、茎の頂に大輪の花を一つつける。花の色は鮮やかで真紅や純白などがある。「罌粟」として詠まれるのは、ヒナゲシが多い。花径は十センチくらいの一日花である。罌粟その坊主といわれる未熟の果実に傷をつけ、そこから採れる樹脂が阿片の原料となる。
 白芥子や時雨の花の咲きつらん   芭蕉 「鵲尾冠」
 海士の顔先づ見らるゝやけしの花  芭蕉 「笈の小文」
 白げしに羽もぐ蝶の形見哉     芭蕉 「甲子吟行」
 散るときの心やすさよ芥子の花   越人 「猿蓑」
 けしの花見てゐるうちは散らざりし 白雄 「白雄句集」
 僧になる子の美しや芥子の花    一茶 「九番日記」

紫陽花(仲夏・「あじさい・あぢさゐ・かたしろぐさ、四葩の花、七変化、刺繍花、瓊花」)「花びらのような四枚の萼の中心に粒状の花をつけ、これが集まって毬を形づくる。ピンク、白、青紫と花種も多く、また色が変わるので「七変化」ともよばれる。」
 飛ぶ蛍ひかり見え行く夕暮にまほ色残る庭にあぢさゐ 衣笠内大臣「夫木和歌抄」
 紫陽花や藪を小庭の別座敷     芭蕉 「別座鋪」
 紫陽花や帷子時の薄浅黄      芭蕉 「陸奥鵆」
 あぢさゐを五器に盛らばや草枕   嵐雪 「杜撰集」
 あぢさゐに喪屋の灯うつるなり   暁台 「暁台句集」
 あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒   乙二 「乙二発句集」
 紫陽花やはなだにかはるきのふけふ 子規 「子規全集」

歌麿・蜻蛉・蝶.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 『画本虫撰』中の「蝶と蜻蛉(あきつむし)」の狂歌合わせのものである。

蝶 稀年成
  夢の間は蝶とも化して吸(すひ)みむ恋しき人の花のくちびる
(『荘子』斉物論の「胡蝶の夢」を踏まえている。)
蜻蛉(あきつむし) 一冨士二鷹
  人ごゝろあきつむしともならばなれはなちはやらじとりもちの竿
(「あきつむし」は「蜻蛉」の異名。「飽きる」と掛けての用例である。)

 蜻蛉の尾に触れているのは、「罌粟坊主」(罌粟の実)で、晩夏の季語となる。その罌粟坊主の下に赤と白の斑色の罌粟の花、そして、蝶のとまっているのは白罌粟であろう。この蜻蛉と蝶もさることながら、この罌粟の緻密な描写(木版画・多色摺り)も見事で、これらは冒頭の抱一の『四季花鳥図』・「夏(一)」の罌粟の図(肉筆画)と比較して、例えば、抱一の黄褐色の大麦の穂の色の感じを、この『画本虫撰』・「蝶と蜻蛉」の罌粟図の葉に塗り染めている印象すら抱かせるほど、これが木版画なのかという思いがしてくる。
 この歌麿の『画本虫撰』が刊行されたのは、天明八年(一七八八)、続く、『百千鳥狂歌合』(寛政二年=一七九〇頃刊)と『潮干のつと』(寛政元年=一七八九頃か)、この歌麿の「花鳥図(狂歌歌合)三部作」は、歌麿の無名時代の最期を飾るもので、この後に続く、歌麿の名を不動にする「美人大首絵」時代以降、この種のものは、歌麿は手掛けていない。
 そして、抱一は、この歌麿とは正反対に、その出発点は、歌麿が最終地点に到達した美人画(一枚摺りの錦絵と肉筆画)、その浮世絵美人画(抱一=肉筆画)から画道に目覚め、その最終地点は、歌麿が放棄した、上記の「花鳥図」(「花鳥図三部作」の『画本虫撰』・『百千鳥狂歌合』・『潮干のつと』)の世界であったと、そういう理解も可能であろう。
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雨華庵の四季(その五) [酒井抱一]

その五「春(五)」

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酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035816

花鳥図巻春五拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 上図の右側は、「春(三)」に続く黄色の連翹の花、そこに、白い辛夷の花を対比させている。この白い辛夷の花の周囲には、白い点々の藤の花を添えている。そして、中央に紫の藤の花を三房バランスよく描いている。その紫の藤房の空間に、飛んでいる小さな足長蜂を一匹丁寧に描いて、思わず、この一点に視線が集中するような巧みな構成となっている。この小さな蜂に目を奪われていると、この図の左上の端に、蜂の巣があり、そこに留まっている一匹の足長蜂と対比になっていることに気付いてくる。そして、その蜂の巣の下に白い辛夷の花が添えられている。

蜂(三春・「足長蜂・熊蜂・地蜂・土蜂・穴蜂・似我蜂・山蜂・花蜂・蜜蜂・姫蜂・雀蜂・女王蜂・雄蜂など」)「く見られるミツバチは、女王蜂を中心に生活が営まれる。スズメバチやアシナガバチなどは、巣を守るためひとを襲うこともある。」
 腹立てて水呑む蜂や手水鉢     太祇 「太祇句選」
 土舟や蜂うち払ふみなれ棹     蕪村 「遺稿」
 木ばさみのしら刃に蜂のいかりかな 白雄 「白雄句集」
 一畠まんまと蜂に住まれけり    一茶 「七番日記」
 指輪ぬいて蜂の毒吸ふ朱唇かな   久女 「杉田久女句集」
 蜂の尻ふわふわと針をさめけり   茅舎 「川端茅舎句集」

辛夷(仲春・「木筆・山木蘭・幣辛夷・田打桜」)「早春、葉が出る前に、六弁の白い花を枝先につける。莟の形が赤子のこぶしを連想させるのでこぶしと名づけられた。」
 咲く枝を折る手もにぎりこぶしかな   重頼 「犬子集」
 雉一羽起ちてこぶしの夜明けかな    白雄 「白雄句集」
 花籠に皆蕾なる辛夷かな        子規 「子規全集」

藤(晩春・「ふじ・ふぢ・山藤・野藤・白藤・八重藤・赤花藤・藤の花・南蛮藤・ 藤波・藤棚・藤房」)「藤は晩春、房状の薄紫の花を咲かせる。芳香があり、風にゆれる姿は優雅。木から木へ蔓を掛けて咲くかかり藤は滝のようである。」
 恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり  山部赤人「万葉集」
 よそに見てかへらむ人に藤の花はひまつはれよ枝は折るとも 僧正遍照「古今集」
 くたびれて宿借るころや藤の花   芭蕉 「笈の小文」
 水影やむささびわたる藤の棚    其角 「皮籠摺」
 蓑虫のさがりはじめつ藤の花    去来 「北の山」
 しなへよく畳へ置くや藤の花    太祇 「太祇句選」
 月に遠くおぼゆる藤の色香かな   蕪村 「連句会草稿」
 しら藤や奈良は久しき宮造り    召波 「春泥発句集」
 藤の花長うして雨ふらんとす    子規 「子規全集」

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喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345
【『画本虫撰』宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 二冊 天明八年(一七八八) 千葉市美術館
精細きわまる植物と虫の絵は、若き喜多川歌麿によるもの。虫の羽の透けの表現に雲母摺りを施すなど美麗な本で、虫の歌合の趣向で三十名の狂歌と競演する。蜂と毛虫の歌合に、尻焼猿人こと抱一が登場。「こハごハに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあち(ぢ)ハひ」とある。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(三三)(松尾知子稿)」)

 この『画本虫撰』が刊行された天明八年(一七八八)時は、抱一、二十八歳、歌麿、三十六歳の頃で、当時の狂歌名は、抱一が「尻焼猿人(しりやけのさるんど)、歌麿は「筆綾丸(ふでのあやまろ)」である。
 この二人とも、この『画本虫撰』の出版元の「蔦重」こと、蔦屋重三郎の所属する「吉原連」と深い関係にあると解して差し支えなかろう。ちなみに、蔦屋重三郎の狂歌名は「蔦唐丸(つたのからまる)」である。

【 江戸の都市の繁栄は、狂歌、黄表紙、浮世絵(錦絵)といった新しい文化を育んだが、世に天明狂歌運動とも呼ばれるムーブの担い手の多くは、下級の幕臣の大田南畝をはじめとする二、三十代の青年たちであった。才気渙発な抱一が、酒井家の屋敷の外側で繰り広げられる同世代の若者による自由闊達な活動に敏感でないはずがない。蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明六(一七八六)年刊)、続編の『古今狂歌袋(宿屋飯盛撰、山東京伝画、天明七(一七八七)年刊)、『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画、天明八(一七八九)年刊)などに、抱一は立て続けに、「 尻焼猿人」の狂歌名を名乗って登場する。大田南畝は大手門前の酒井家上屋敷で部屋住みの生活を送る抱一の下を訪ねており、天明八年正月十五日の上元の宴では、抱一の才を七言絶句の漢詩を詠んでいる。その書き出しには「金馬門(きんばもん)前白日開」とあり、中国漢代の末央宮の門を気取って、江戸城の大手門をペンダントリーに「金馬門」と呼んでいる。この謂いは、抱一と南畝らの間で交わされた暗号のようなものだったらしく、現存しないが、抱一も最初に編んだ句集の名を「金馬門」の和語から「こがねのこま」としていたようだ。
 好奇心旺盛な若き抱一が、最初期の画業として取り組んだのは浮世絵美人画で、画風の一致から、その師匠は記録のとおり歌川派の開祖のと歌川豊春であると考えられる。南畝はたびたび抱一筆の美人画に漢詩や狂歌を書き付けているが、天明五(一七八五)年初冬作の「調布の玉川図」はのちに、当時の抱一の絵が少しも古びていないことを称え、古歌をもじった賛を執筆したものである。賛の狂歌と本歌を挙げておこう。
 玉川にさらす調布(たつくり)さらさらにむかしの筆とさらに思はず
  → 玉川にさらす調布さらさらにむかしの人のこひしきやなそ
                (『拾遺和歌集』巻第十㈣恋四 よみ人しらず)  
二人の交流は晩年まで長く続き、南畝は抱一にとって最古参の友人の一人であった。 】

 太田南畝(狂歌名=四方赤良)は、寛延二年(一七四九)の生まれ、抱一よりも十二歳年長で、抱一の狂歌の師匠格に当たるというよりも、当時の天明狂歌運動の中心的な人物であった。
上記の『画本虫撰』の撰者は、宿屋飯盛(家業=宿屋、国学者=石川雅望)であるが、飯盛は南畝門であり、この『画本虫撰』の背後に南畝が控えていることは、この画本のトップに、上記の「抱一(猿人)の蜂」の狂歌に「南畝(赤良)の毛虫」の狂歌の「歌合(うたあわせ)」を持ってきていることからも明瞭であろう。この南畝(赤良)の狂歌は、次のものである。

 毛をふいてきずやもとめんさしつけて 
  きみがあたりにはひかかりなば (四方赤良)

 これらのことについては、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

 ここで特記して置きたいことは、抱一と抱一一門では、数多くの「四季花鳥図」あるいは「十二か月花鳥図」を、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれているが、こと、「蜂と蜂の巣」が取り上げられているのは、この冒頭の、文化十五年(一八一八)、抱一、五十八歳時の作「四季花鳥図巻」のものの他、殆ど見掛けないということなのである。
 そして、この抱一五十八歳時の、抱一代表作の一つの、この「四季花鳥図巻」の「蜂と蜂の巣」は、紛れもなく、抱一二十八歳時の狂歌名・尻焼猿人の名で登場する『画本虫撰』の、上記の歌麿の描いた「蜂と蜂の巣」を、直接・間接とかを問わずモデルとしているように思えるのである。
 抱一の花鳥図の、殊に、その鳥や虫の描写には、やや年代が遡る京都画壇の写生派の元祖・円山応挙や奇想派の巨匠・伊藤若冲などの影響については夙に指摘されているところであるが、同世代且つ同土俵上の先輩絵師にして狂歌師の歌麿の影響というのも大きかったということを特記して置きたい。
 これらのことに関し、『画本虫撰』との観点は、上記アドレス(国立国会図書館蔵)で相互に検討することが出来るが、その『絵本百千鳥』などの挿絵などに関しては、次のアドレス(国立国会図書館蔵)のものとの相互検討が必要となって来る。
 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943229

 上記のアドレスで紹介されているもののうち、今回の抱一の『四季花鳥図巻』で前回までに取り上げている「雉(きじ)」と「燕(つばめ)」のものを掲載して置きたい。
歌麿・雉と燕(正).jpg

赤松金鶏撰・喜多川歌麿画『絵本百千鳥(上)』の「雉子と燕」(国立国会図書館蔵)
http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_momochidori.html

 上記掲載中の「燕子と雉」に関する狂歌は次のとおりである。

燕  酒月米人 つばめにも身をかへてまし下紐を ときはにながくねんとおもへば
雉子 桐一葉  あふときハけんもほろゞな返事して いひ出ん事のはねもすぼめり
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雨華庵の四季(その四) [酒井抱一]

その四「春(四)」

花鳥巻春四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035815

花鳥巻四拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 上図の中央は、枝垂れ桜の樹間の枝の合間を二羽の燕が行き交わしている図柄である。右側には「春(三)」の続きの地上に咲く黄色の菜の花、左側には、これまた、右側の菜の花に対応して、黄色の連翹の枝が、地上と空中から枝を指し伸ばしている。
この行き交う二羽の燕が、これまでの地面・地上から空中へと視点を移動させる。さらに、枝垂れ桜のピンクの蕾とその蕾が開いた白い花、それらを右下の黄色の菜の花と、左上下の黄色の連翹、さながら色の協奏を奏でている雰囲気である。その色の協奏とともに、この二羽の燕の協奏とが重奏し、見事な春の謳歌の表現している。


燕(仲春・「乙鳥(おつどり)・つばくら・つばつくめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・群燕・夕燕・初燕」)「燕は春半ば、南方から渡ってきて、人家の軒などに巣を作り雛を育てる。初燕をみれば春たけなわも近い。」
 燕来る時になりぬと雁がねは国思ひつつ雲隠り鳴く 大伴家持「万葉集」
 盃に泥な落しそむら燕      芭蕉 「笈日記」
 海づらの虹をけしたる燕かな   其角 「続虚栗」
 蔵並ぶ裏は燕の通ひ道      凡兆 「猿蓑」
 大和路の宮もわら屋もつばめかな 蕪村 「蕪村句集」
 夕燕我にはあすのあてはなき   一茶 「文化句帖」
 滝に乙鳥突き当らんとしては返る 漱石 「夏目漱石全集」
夏燕(三夏)「夏に飛ぶ燕である。燕は、春、南方から渡ってきて繁殖活動に入る。四月下旬から七月にかけて二回産卵する。雛を育てる頃の燕は、子燕に餌を与えるため、野や町中を忙しく飛び回る。」
 山塊を雲の間にして夏つばめ   蛇笏 「家郷の霧」
 夏つばめ遠き没り日を見つつゐる 誓子 「炎昼」

連翹(仲春・「いたちぐさ・いたちはぜ」)「半つる性植物。枝が柳のように撓み、地につくとそこから根を出す。葉に先立って鮮やかな黄色の花を枝先まで付ける。その様子が鳥の長い尾に似ているのでこの名がついた。」
 連翹や黄母衣の衆の屋敷町    太祇 「新五子稿」
 連翹に一閑張の机かな      子規 「子規句集」

【 抱一は、文化十四年(一八一七)の秋、住み慣れた庵居に「雨華庵」の額を掲げた。以来、「雨華」の号を署名に印章にと多く用いるようになった。四の「雨華時代Ⅰ」の始まりである。この「雨華」の語の出典は、同じ年の六月に剃髪した小鸞女史の法名「妙華尼」と合わせて、「天雨妙華」という語句から採られたとつとにいわれている。これは「大無量寿経」上の「讃仏偈(さんぶつげ)の最後に現れる語句で、次に『浄土三部経 上』(岩波文庫)をテキストとして上段に魏(ぎ)訳、下段に梵文(ぼんぶん)和訳を上げることにする。

 応時普地、六種震動、天雨妙華  大地は震動し、花は雨と降り、
 以散其上、自然音楽、空中讃言  数百の楽器は空中に奏でられた。
             (天の甘美な栴檀の抹香は撒かれた)
 決定必成無上正悟    (声あっていう)『(かれは)来世に仏となるであろう』と。

 すべての願いが成就したときに、この大地が震動し、雨のように降り注ぐ花の歓喜のイメージこそが「雨華」なのである。「大無量寿経」は、日本人に極楽浄土の姿を伝える経典として、平安時代より重要な役割を担ってきた。極楽浄土には種々の河が流れ、宝石でかざられた花束を流し、種々の甘美な声や響きがあり、七宝でかざられた樹や花や池や砂があること。いろいろな鳥が妙なる鳴き声をあげ、四季の区別もなく、暑からず寒からず、常に和らぎ調い適すること。そうした絢爛豪華な極楽浄土の様相は、いつしか中国的な四季の揃った庭園のイメージと重なり、浄土の表象としての四季折々の自然美が日本では定着していくことになる。室町時代以降、さかんに描かれた四季花鳥図の金屏風が、きらびやかな浄土に重ね合わされた四季の景物画であることは、最近の美術史研究ではほとんど認められている。「日本の伝統的な絵画で、四季のモティーフを含まないものは少ない。私たちは、今や数少なくなった床の間に、四季の移り変わりに合わせて掛け換える。季節がそれによって部屋に持ち込まれる。日本人が心に描く浄土には四季がある」(辻惟雄氏、千葉市美術館『祝福された四季展』カタログ)のである。そして、抱一の画房でも多くの四季の花鳥、花木、草花の絵が描かれた。それは、典型的といえるほど固定した素材によって描かれている。

春は、土筆・蒲公英・蓮華草・蕨・桜草・紅梅・白梅・山桜
夏は、芍薬・白百合・紫陽花・仙翁花・撫子・沢瀉・河骨・燕子花・立葵・昼顔
秋は、龍胆・桔梗・薄・女郎花・葛・朝顔・紅菊・白菊・芙蓉・柿・藤袴・蔦・漆
冬は、雪の被った芦・檜・藪柑子・水仙

 自生植物と園芸植物の混ざった多様の花や木や草は、屏風・図巻・画帖・掛物とあらゆる画面形式に描き継がれ、優美な曲線に誘われ、鮮烈な色彩に覆い尽くされ、愛らしい宝石のような形象がちりばめられた。このような多種多様な花園を生み出す自分のアトリエに、抱一は「雨華」と名付けたのである。抱一の花鳥図・草花図が極楽浄土のイメージと無関係であるはずがないであろう。抱一にとって次々と工房で画を創り出すことは、すべての世界が歓喜して、花びらが空中に舞う姿にも重なっていたのである。(以下略)  】
(『新潮日本美術文庫18酒井抱一(玉蟲敏子著)』所収「抱一 ―江戸の精華譜(つれづれにしき)」中「雨華 ―見立ての浄土」)

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雨華庵の四季(その三) [酒井抱一]

その三「春(三)」

花鳥巻春三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035814

花鳥巻春三拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 上図は、右から「春(二)」に続く「薺・杉菜」の次に、「菜の花」(晩春)・「大根の花」(晩春)、そして「蚕豆(そらまめ)の花」(晩春)・「蚕豆」(初夏)、さらに、その大根の花の上に「蜆蝶」(三春の「蝶」の子季語)、菜の花には「紋白蝶」(三春の「蝶」の子季語)が停まっている。
 「蝶」は「三春」(初春・仲春・晩春))の季語だが、「初蝶」(初春)、「揚羽蝶・夏の蝶」(三夏)、「秋の蝶」(三秋)、「冬の蝶」(三冬)、「凍蝶」(晩冬)と、四季にわたって詠まれている。
 上図の左端の「枝垂れ桜」は、「仲春」の季語で、全体としては「春の景」であるが、この「蝶」(蜆蝶と紋白蝶)が、これまでの「春の景」を「夏の景」へと誘っている雰囲気を有している。
 また、これまでの「春(一)」と「春(二)」が、地面上の「地の景」とすると、ここから、蝶が舞い飛ぶ「天の景」へと視点を転回させている。

蝶(三春・「蝶々・胡蝶・春の蝶・小灰蝶・蜆蝶・白蝶・緋蝶・だんだら蝶」)「蝶は彩りあざやかな大きな翅をもつ昆虫。花の蜜を求めてひらひらと舞ふ。」
 散りぬれば後はあくたになる花を思ひ知らずもまどふ蝶かな 僧正遍照「古今集」
 蝶の飛ぶばかり野中の日影かな   芭蕉 「笈日記」
 うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉  蕪村 「蕪村句集」
 夕風や野川を蝶の越しより     白雄 「白雄句集」
 ひらひらと蝶々黄なり水の上    子規 「子規全集」
初蝶(初春・「はつちょう・はつてふ」)「春になって初めて目にする蝶のこと。」
 たちいでて初蝶見たり朱雀門    大江丸「俳懺悔」
 初蝶来何色と問ふ黄と答ふ     虚子 「六百五十句」
揚羽蝶(三夏・「黒揚羽・烏揚羽・烏蝶」)「春はやや小さめだが夏になると一回り大きくなる。」
 黒揚羽花魁草にかけり来る     虚子「虚子全集」
 我が来たる道の終りに揚羽蝶    耕衣「驢鳴集」
夏の蝶(三夏・「夏蝶・梅雨の蝶」)「夏に見かける蝶のこと。単に蝶では春の季語となる。」
 まことちさき花の草にも夏の蝶   石鼎 「原石鼎全句集」
秋の蝶(三秋・「秋蝶・老蝶」)「立秋を過ぎてから見かける蝶のこと。春や夏の蝶にから比べるといくらか弱々しい印象を受ける。」
 薬園の花にかりねや秋の蝶     支考 「梟日記」
 山中や何をたのみに秋の蝶     蝶夢 「三夜の月の記」
 あきの蝶日の有るうちに消えうせる 暁台 「暁台日記」
 しらじらと羽に日のさすや秋の蝶  青蘿 「青蘿発句集」
 秋のてふかがしの袖にすがりけり  一茶 「七番日記」
冬の蝶(三冬・「冬蝶・越年蝶」)「冬に見かける蝶のこと。その蝶も寒さが強まるにしたがい飛ぶ力もなくなり、じっと動かなくなってしまう。」
 落つる葉に撲(う)たるる冬の胡蝶かな  几董 「晋明集二稿」
凍蝶(晩冬・蝶凍つ))「寒さのため凍てついたようになる蝶のこと。哀れさという点では「冬の蝶」より差し迫った感じがある。」
 石に蝶もぬけもやらで凍てしかな     白雄 「白雄句集」

大根の花(晩春・「菜大根の花、種大根」)「大根の種を採るために畑に残した株に薹が立ち、白い十字型の花を咲かせる。紫がかったものもある。」
 まかり出て花の三月大根かな   一茶 「題叢」  
 花大根黒猫鈴をもてあそぶ    茅舍 「川端茅舍句集」

蚕豆(そらまめ)(初夏・「空豆、はじき豆」)「お多福の形をした薄緑の大きな豆。莢(さや)が空に向かってつくためこの名がある。また、莢の形が蚕に似ていることから蚕豆という字をあてることもある。」
 そら豆やただ一色に麦のはら   白雄 「題葉集」
 假名かきうみし子にそらまめをむかせけり 久女 「杉田久女句集」
蚕豆(そらまめ)の花(晩春)「春の盛りの頃葉腋に白色又は薄紫色の蝶形花を数個ずつつける。」
 そら豆の花の黒き目数知れず   草田男 「長子」
 蚕豆の花の吹き降り母来て居り  波郷  「惜命」 

菜の花(晩春・「花菜・菜種の花・油菜」)「菜種の黄色い花。一面に広がる黄色の菜の花畑は晩春の代表的な景色。近世、菜種油が灯明として用いられるようになってから、関西を中心に栽培されるようになった。」
 菜畠に花見顔なる雀哉      芭蕉 「泊船集」
 菜の花や月は東に日は西に    蕪村 「続明烏」
 なの花の中に城あり郡山     許六 「韻塞」
 菜の花やかすみの裾に少しづつ  一茶 「七番日記」
 菜の花や淀も桂も忘れ水     言水 「珠洲之海」
 菜の花の中に小川のうねりかな  漱石 「夏目漱石全集」
 
枝垂桜(仲春・「糸桜・しだり桜・紅枝垂」)「薄紅色の花を、細くて垂れ下った枝につける。樹齢は長い。」
 目の星や花をねがひの糸桜   芭蕉 「千宣理記」
 糸桜則ち是か華の雨      淡々 「華の日」
 影は滝空は花なり糸桜     千代女 「千代尼句集」
 いとざくら枝も散るかと思ひけり 嘯山 「葎亭句集」
 ゆき暮れて雨もる宿やいとざくら 蕪村 「蕪村句集」

【 抱一は寛政九年(一七九七)、三十七歳で江戸下向中の西本願寺十八世文如(もんにょ)上人より得度を受け、権大僧都として僧となった。その後十二年ほどの間に転居を繰り返したが、文化六年(一八〇九)の年末、吉原にほど近い下谷金杉大塚村(台東区根岸五丁目辺り)に小鸞女史とともに庵を結ぶ。後に雨華庵と呼ばれるこの小さな庵は、その後抱一の絵画活動の拠点となるとともに、僧としての務めを果たす場所でもあった。
 弟子の田中抱二(一八一四~八四)が明治十六年(一八八三)に描いた「雨華庵図」は、七十二歳になった抱二が往年の師宅を思い出して描いたもの。それによれば雨華庵は、玄関、台所のほかは座敷、仏間、茶間、画所の四室ばかりであった。抱二のメモによれば、ここで六月二日の光琳忌には扇合(おおぎあわせ)が、十一月五日には御花講が営まれたという。
 また抱一には「二尊庵」という号があり、六十歳前後から使用されていたようだが、これは雨華庵の本尊が阿弥陀如来像二尊であったことによる。朝夕に読経も行われ、抱一は案外真面目に仏事にも励んでいたらしい。浄土真宗西本願寺派の末弟、等覚院文詮暉真(とうかくいんもんせんきしん)こと抱一上人の勤行の場であった。
 さらに、雨華庵二世を継いだ鶯蒲は大田南畝ゆかりの市ヶ谷浄栄寺の出身だが、その過去帳の抱一の項には唯信寺開祖とあり、雨華庵をして唯信寺を寺号としていた形跡が認められる。雨華庵三世の鶯一もまた浄栄寺の血縁に連なる者であった。つまり抱一は、江戸琳派の画風の継承と、仏事を営み抱一を供養する立場とを別次元で考えていたひとが明らかである。
 このように、抱一が後半生を市井の僧として暮らしたことで、画業にも新たな展開が生まれた。さまざまな仏画を積極的に手掛けるようになったのである。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「画僧抱一の仏画(岡野智子稿)」中「勤行の場でもあった画房『雨華庵』」)

雨華庵.jpg

【 田中抱二「雨華庵図」 1883(明治16)年 紙本着色 26.5×37.8
 抱一が大塚村(現在の台東区根岸五丁目辺り)に構えた画房は、1817(文化14)年に「雨華庵」の号を掲げるようになった。抱一没後も弟子が集まり一門を呈したが、1865(慶應元)年8月21日夜、火災で焼失してしまう。これは抱一の弟子の田中抱二(1814~84)が記憶を頼りに描いた雨華庵の見取り図で、画塾としての様子をうかがう貴重な資料である。(松尾知子稿) 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収「<風>をつかまえた絵師(仲町啓子稿)」)

 この「雨華庵図」の右上に、次のような記載が書かれている。

【植木 大樹 赤松・かしは(柏)・ぬるて(白膠木)・にしき(錦木)・あちさい(紫陽花)
    艸(草)はき(萩)・すゝき(薄)・女郎花・なてしこ(撫子)・かるかや(刈萱)
    大樹 梅・ひのき(檜)・さゝさんか(山茶花)    】

 これは、抱一の晩年の弟子の田中抱二(抱一の六十四歳時に十三歳で入門)が、晩年(七
十二歳時)に往時を回顧しての覚書きのようなものなのであろう。
 この植木関係では、「艸(草)」が、秋の七草の「萩・薄・女郎花・撫子」(「葛・藤袴・桔梗又は朝顔」は書いてない)と「刈萱」が書かれており、これは、春には、春の七草の「芹・薺・御形(ごぎょう・母子草)・繁縷(はこべら)・仏の座(タビラコ)・菘(すずな・蕪)・蘿蔔(すずしろ・大根)」なども植えられていたようにも思えてくる。
 そして、それらは、この両巻合わせて十四メートル余の長大な「四季花鳥図巻」の「植物
(六十種)」の大部分が、「樹木」ではなく「草花」であることと何処かしら結びついているように思えるのである。
 それらのことは、この後に続く、「夏・秋・冬」の草花が、どのように描かれているのか
を見ていくことによって、より鮮明になってくるであろう
 ここで、「雨華庵」屋内の間取りを見ていくと、その母屋は左側から「画所(えどころ)・
茶間(居間)・仏間・座敷」の四部屋(「画所」の上部に「前室」)と、その「画所」の離
れ屋風に「茶室」がある。この「茶室」に面した庭に「赤松斗(バカ)リ」と書かれ、「座敷」
の庭に面した所に「ヒサシ(庇)アリ」と書かれている。また、庭の池には、「魚・ヒ
鯉(緋鯉)・金魚」と書かれている。
 これらを、先の「勤行の場であった画房『雨華庵』」(岡野智子稿)と重ね合わせると、
「画所と茶室」スペースが「雨華庵画房」、「仏間・座敷」スペースが「二尊庵(後に寺号の「唯信寺」)、その両者の共通スペースが「茶間(二か所の「間仕切り」あり)」と考えることも出来るであろう。
 そして、この画房「雨庵庵」と僧房「二尊庵」との、この両者を結びつけるものが、「雨華庵・二尊庵」の自然(四季の「景物=花・鳥」)ととらえることも可能であろう。
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雨華庵の四季(その二) [酒井抱一]

その二「春(二)」

花鳥巻春二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035813

花鳥巻春二拡大.jpg

(同上:部分拡大図)

 上図は、「春(一)」に続いて、その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。
 この中央の雉が、小さな母子草を見ているのは、芭蕉の「父母のしきりに恋ひし雉子の声」などを想起させるような雰囲気を有している。

虎杖(仲春・「いたどり・みやまいたどり・さいたづま」)「春先、赤味を帯びた新芽が出
て節のある太い茎が一メートル程に直立し目立つ。茎は成長するにつれ木質化する。夏に白い小さな花を沢山つける。」
 春日野にまだうら若きさいたづま妻籠(ごも)るともいふ人やなき 藤原実氏「玉葉集」
 虎杖や到来過ぎて餅につく   一茶 「九番日記」
 山陰に虎杖森の如くなり    子規 「子規句集」

雉(三春・「雉子・きぎす・きぎし、雉子の声、焼野の雉子」)「雄は全体的に緑色をおびており、目の周りに赤い肉腫がある。雌は全体的に茶褐色。雌雄ともニワトリ似て尾は長い。繁殖期の雄は赤い肉腫が肥大し、なわばり争いのため攻撃的になり、ケンケンと鳴いて翼を体に打ちつける『雉のほろろ』と呼ばれる行為をする。」
 春の野にあさる雉(きぎし)の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ 大友家持「万葉集」
 春の野のしげき草葉の妻恋ひに飛び立つ雉のほろろとぞ鳴く 平貞文「夫木和歌抄」
 父母のしきりに恋ひし雉子の声      芭蕉 「笈の小文」
 うつくしき顔かく雉の距(けづめ)かな  其角 「其袋」
 遅キ日や雉子の下りゐる橋の上    蕪村 「蕪村句集」
 雉啼くや暮を限りの舟渡し     几菫 「晋明集二稿」
 雉子の尾の飛さにみたる野風かな    白雄 「白雄句集」

母子草(晩春・「御形蓬(おぎょうよもぎ)・鼠麹草(ほうこぐさ)」)「ヘラ形の葉の間からのびた花茎に、小さなつぶつぶの黄色い頭頂花を球状につける。春の七草のオギョウは母子草のロゼット(根出葉)である。」
  すりこぎや父はおそろし母子草  路通 「雷盆木」
  跡訪はん塚も母子の草の時    沾峨 「吐屑庵句集」
  老いて尚なつかしき名の母子草  虚子 「虚子句集」

【 落款は上巻巻頭に署名「抱一暉真」「抱弌」(朱文重郭方印)、下巻巻末に「文化戌寅晩春 抱一暉真寫之」の隷書による署名と「雨華」(朱文内鼎外方印)「文詮」(朱文瓢印)がある。文政に改元直前の文化十五年(一八一八)三月に描かれたことが知られる。抱一の共箱で、蓋表に「四季花鳥巻物 二軸」蓋裏に「抱一暉真筆」「文詮」(朱文瓢印)がある。巻子及び箱の体裁は極めて上質で、四季が廻るという吉祥画題とともに、高位の家の吉事を祝う制作とうかがわれる。
 同時に、本図は抱一が光琳の模倣にとどまらず、新たな表現を志した記念碑的作品でもある。植物の描写は、琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みており、同一作品ながら異なる表現が混在して変化に富む。横に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細い枝は画面に対角線上に配して、視線が自然と画面の先、つまり次の季節に及ぶように誘っている。
 また本図には上下巻合わせて植物六十種、禽鳥八種、昆虫九種が描かれる。宗達や光琳は鳥や虫を草花に取り合わせることはなかったが、抱一は本図で鳥や虫を積極的に起用している。例えば枝垂桜の枝を飛び交う燕や、菊の上によじ登る蟷螂、青木の葉裏の蝉の抜け殻など、こまやかな季節の移ろいを告げるキーパーソンを彼らが務めている。
 草花図に華麗な鳥やさまざまな虫を描くことは、中国では伝統的に行われており、特に清の沈南蘋の弟子たちには鮮やかな花鳥草花図巻が多く見出される。本図の上巻「藤に蜂の巣」の部分などにはそうした清の画巻の影響が顕著である。
 一方、下巻冒頭の「萩に鈴虫、松虫」では虫を描くことによってその音色までも想起させようという、極めて日本的な導入を用意する。このように抱一は、中国の花鳥草虫図巻に構想を借りながら、日本の四季の情趣をさまざまに描いている。宗達・光琳が抑制してきた自然の趣を抱一は新たに琳派様式に取り入れ、江戸琳派がここに確立された。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説(一五六)(岡野智子稿)」)

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雨華庵の四季(その一) [酒井抱一]

その一「春(一)」

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812
【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)

上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

福寿草(新年・「元日草」)「福寿草は、花のこがね色とその名がめでたいことから新年の花とされる。元日草ともいわれるように、古くから元日に咲くように栽培されてきた。」
 小書院のこの夕ぐれや福寿草   太祗 「太祗句選」
 朝日さす弓師が見せや福寿草   蕪村 「蕪村遺稿」
 ふく寿草蓬にさまをかくしけり  大江丸 「はいかい袋」
 帳箱の上に咲きけり福寿草    一茶 「九番日記」
 ※福寿草硯にあまる水かけん   晩得 「哲阿弥句藻」
 暖炉たく部屋暖かに福寿草    子規 「子規句集」
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。

つくし(仲春・「土筆・つくづくし・つくしんぼ・筆の花」)「杉菜の胞子茎をいう。三月ごろから日のあたる土手や畦道に生える。」
 佐保姫の筆かとぞみるつくづくし雪かきわくる春のけしきは 藤原為家「夫木和歌抄」
 真福田が袴よそふかつくづくし    芭蕉 「花声」
 見送りの先に立ちけりつくづくし  丈草 「射水川」
 つくづくしここらに寺の趾もあり  千代女「松の声」
 つくつくしほうけては日の影ぼうし 召波 「春泥発句集」

すぎな(晩春・「杉菜・接ぎ松・犬杉葉」)「春に胞子茎をだす。これが土筆である。胞子茎が枯れると、栄養茎が杉の葉のように伸びるが、これは茎であって、葉は退化している。」
 今まではしらで杉菜の喰ひ覚え  惟然 「鳥の道」
 杉苗に杉菜生そふあら野かな   白雄 「白雄句集」
 すさまじや杉菜ばかりの丘一つ  子規 「寒山落木」

薺(新年・「なずな・なづな・ぺんぺんくさ・三味線草」)「七種粥に入れる春の七草の一つ。」
 六日八日中に七日の齊かな    鬼貫 「鬼貫句選」
 一とせに一度摘まるゝ齊かな   芭蕉 「芭蕉句選」   
 濡縁や齊こぼるる土ながら    嵐雪 「続猿蓑」
 沢蟹の鋏もうごくなづなかな   蓼太 「蓼太句集」

桜草(晩春・「プリムラ・常盤桜・乙女桜・雛桜・一花桜・楼桜」)「江戸時代にも武士階級で流行。花は淡紅色、紅紫色。花びらは筒状の先が五つに大きく裂け、さらにそれぞれの先が二つに割れてサクラに似ている。」
 我国は草もさくらを咲きにけり  一茶 「文政版句集」
 わがまへにわが日記且桜草    万太郎「流寓抄」

蕨(仲春・「岩根草・山根草・早蕨・干蕨・蕨飯」)「山肌の日当たりの良いところにみられる春を代表する山菜。」
 石(いは)ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子「万葉集」
 いはそそぐ清水も春の声たてて打ちてや出づる谷の早蕨 藤原定家「拾遺愚草」
 蕨採りて筧に洗ふひとりかな   太祗 「太祗句選後篇」
 わらび野やいざ物焚ん枯つゝじ  蕪村 「蕪村句集」
 めぐる日や指の染むまでわらび折る 白雄 「白雄句集」
 折りもちて蕨煮させん晩の宿   蝶夢 「草根発句集」
 そゞろ出て蕨とるなり老夫婦   茅舎 「川端茅舍句集」 

菫(三春・「菫草・花菫・相撲花・一夜草・ふたば草・壺すみれ・姫すみれ」)「菫は春、濃い紫色の花をさかせる。花の形が、大工道具の『墨入れ』に似ていることから「すみれ」
の名がついたという。」
 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野をなつかしみ一夜寝にける 山部赤人「万葉集」
 山路来て何やらゆかしすみれ草   芭蕉 「のざらし紀行」
 骨拾ふ人にしたしき菫かな     蕪村 「蕪村句集」
 地車におつぴしがれし菫哉     一茶 「文化句帳」
 菫ほどな小さき人に生まれたし   漱石 「夏目漱石全集」

蒲公英(仲春・「たんぽ・たんぽぽ・鼓草・蒲公英の絮」)「蒲公英は黄色い太陽形の花。花が終わると、絮が風に飛ばされる。」
 たんぽぽや折ゝさます蝶の夢   千代女 「千代尼発句集」
 たんぽぽに東近江の日和かな   白雄  「白雄句集」
 馬借りて蒲公英多き野を過る   子規  「子規句集」

木瓜(晩春・「木瓜の花・緋木瓜・白ぼけ・花木瓜」)「開花期は十一月から四月にかけて。
十一月頃咲くものは寒木瓜と呼ばれる。瓜のような実がなることから木瓜と呼ばれる。枝には棘があり、春、葉に先立って五弁の花を咲かせる。」
 紬着る人見送るや木瓜の花    許六 「住吉物語」
 順礼の子や煩ひて木瓜の花    樗堂 「萍窓集」
 木瓜咲くや漱石拙を守るべく   漱石 「夏目漱石全集」
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二十二)  [酒井抱一]

その二十二 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十二月・狐舞」

花街柳巷十ニ.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十二月「狐舞」)
【十二月(狐舞)
「此としもきつね舞せてこへにけり」の句と、かしこまった狐舞の図で、十二か月月次の書画をしめくくっている。最終図として「抱一書畫一筆」の署名も加えられている。】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

 この抱一の描く「狐舞い図」は、白狐の面をかぶり、赤熊(しゃぐま)という真っ赤な毛の鬘をつけ、錦の衣装で幣(ぬさ)を肩にし、右手で鈴を振って厄払いの舞いをしている、妓楼の座敷などで演じている「かしこまった狐舞の図」というイメージであろう。

 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 抱一(「吉原月次風俗図・十二月「狐舞」)

この抱一の句に関して、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)やコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)などの詮索は無用である。

 酉の市はやくも霜の下りしかな   久保田万太郎
 くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
 三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
 此(この)としもきつね舞せてこへにけり 酒井抱一

(追記一)「吉原・狐舞い」関連メモ

北斎・狐舞い.jpg

葛飾北斎画『隅田川両岸一覧』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533332

刊本(木版色刷)全三冊上・中・下  享和元年刊行  葛飾北斎画 上中下各8丁の美麗彩色画に狂歌(狂歌絵本) 上に壷十楼成安、序に北斎 此頃隅田川両岸の勝地を模写し、これに仙鶴堂の勧めにより歌をそえている。 本書は、隅田川両岸の風景や賑いを色刷りの版画で描いたもので、遊女から職人まで描かれており、江戸の諸相を知ることができる。

「其以前は知らず。新吉原に限り、年越大晦日に獅子舞は壱組もなく、狐の面をかぶり、幣と鈴を振り、笛太鼓の囃子にて舞こむ。是を吉原の狐舞とて、杵屋の長唄の中にも狐舞の文句をものせしあり。抱一上人が吉原十二ヶ月の画中又此の狐舞を十二月に画かれたり。狐は白面にして、赤熊の毛をかむり錦の衣類をつけたるまま、いとも美事なり。世間の不粋は、当所大晦日の狐舞を見しものなしとなり」(『絵本風俗往来』)

『絵本風俗往来』等によると、吉原という町には獅子舞では無く「狐舞ひ」が現れ、笛や太鼓の囃子を引き連れ、遊女たちを囃し立て、追いかけまわしたとされている。遊女たちの間では、この狐に抱きつかれてしまうと子を身ごもるとの噂があり、身ごもっては商売ができない遊女たちは、おひねり(「御捻り」の意味は神社や寺に供えたり他人に与えたりするために、小銭を紙にくるんでひねったもののこと。)を撒いて抱きつかれるのを防いだという、一種の鬼ごっこのようなものが「狐舞ひ」のルーツとなっている。


山東京伝・狐舞い.jpg

Fox Dance in the Yoshiwara, from the album Spring in the Four Directions (Yomo no haru) 四方の巴流 吉原の狐舞
Japanese Edo period 1796 (Kansei 8)
Artist Kitao Masanobu (Santô Kyôden) (Japanese, 1761–1816)
(ボストン美術館蔵)
https://www.mfa.org/search?search_api_views_fulltext=11.14987%2C+11.14989&=Search

狂歌集『四方の巴流』(作者 鹿都(津)部真顔〔編〕、山東京伝〔ほか画〕)

『四方の巴流(よものはる)』(狂歌堂真顔撰)
狂歌堂真顔による狂歌春興帖(寛政七年に大田南畝の四方赤良から四方姓を継ぐ)。題簽「四方の巴流」。「五明楼花扇」(吉原江戸町一丁目扇屋抱え花扇)による扉書、「路考」(三代目瀬川菊之丞)、「市川団十郎」(五代目市川団十郎)の挿絵とともに、京伝による挿絵と狂歌一首が載る。


歌麿・花扇.jpg

喜多川歌麿筆「高名美人六家撰_扇屋花扇」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0028221

花扇(はなおうぎ)は、吉原遊廓の遊女屋、扇屋の高級遊女の源氏名です。この名は代々襲名されていますが、この絵をはじめ、歌麿の描く花扇は、大部分が四代目です。四代目の花扇は、書をよくし、酒を好んだと伝えられていますが、寛政6年に客と駆け落ちしてしまいました。すぐに連れ戻されますが、駆け落ち直後に出されたと思われるこの絵の後摺りでは、名を出すことを避けてか、花扇の名が「花」とされています。喜多川歌麿は、天明・寛政期(1781〜1801)の浮世絵の黄金時代を代表する絵師で、美人画のシリーズものの名作が多数あります。

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/collection/other/ukiyoe/u3/index.html

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)
 
(追記三)「抱一と吉原そして駐春亭(宇右衛門)・八百善(八百屋善四郎)・向島百花園(佐原鞠塢)」関連メモ

(抱一と吉原)

【けれども薄暮のころになると、筆を置き、あんぽつ駕籠に揺られて吉原へ行くのが例であった。一年中一夕でもひと廻り廓中を廻ることをやめたことはなかった。廓中いたるところ、花魁、楼主、幇間、歌妓、遣手、禿にいたるまで、抱一の知人でない者はいなかった。そのうえ傾城の女弟子さえ数多あるので、抱一にとってはこの別天地はわが家のごとき思いがあったのであろう。遊女の年季がすんで身を寄せるところがない者が、雨華庵へ来て、居候していることがたびたびあった。それを抱一自ら媒介して知己や門弟にめあわせた者も十余人におよんだくらいであった。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

(抱一と駐春亭宇右衛門)

【毎日夕景になると散歩に出掛ける廓の道筋、下谷龍泉寺町の料亭、駐春亭の主人田川屋のことである。糸屋源七の次男として芝で生れ、本名源七郎。伯母の家を継いで深川新地に茶屋を営む。俳名は煎蘿、剃髪して願乗という。龍泉寺に地所を求めて別荘にしようとしたところ、井戸に近辺にないような清水が湧き出して、名主や抱一上人にも相談して料亭を開業した。座敷は一間一間に釜をかけ、茶の出来るようにしてはじめは三間。風呂場は方丈、四角にして、丸竹の四方天井。湯の滝、水の滝を落として奇をてらう。(中略)上人が毎日せっせと通っていたわけがこれで分かる。開業前からの肩入れであったのである。「料理屋にて風呂に入る」営業を思いつき、「湯滝、水滝」「浴室の内外額は名家を網羅し」「道具やてぬぐいのデザインはすべて抱一」】「鉢・茶器類は皆渡り物で日本物はない」当時としては凝った造り、もてなしで評判であったろう。これもすべて主人田川屋の風流才覚、文人たちの応援があったればこそである。 】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

 ◯田川屋(料理屋)
 △「田川屋料理  金杉大恩寺
    風炉場は浄め庭に在り  酔後浴し来れば酒乍ち醒む
    会席薄(ウス)茶料理好し  駐春亭は是れ駐人の亭
 □「下谷大恩寺前 会席御料理 駐春亭宇右衛門」

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

☆ 上人が毎日せっせと「吉原」へ歩を向けたのは、この駐春亭で、夕食をとり、風呂に入
るのが、主たる目的であったのかも知れない。(yaha memo)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/

「抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。」   

『閑談数刻』(東京大学総合図書館)は、駐春亭宇右衛門の聞き書きによるものなのである。

(抱一と八百屋善四郎)

【福田屋といい、新鳥越二丁目に住み、俳諧を好み、三味線も巧みであった。なかなかの文学趣味もあって端唄を作詞し、「江戸鳶」には自身で三味線の手も付けたという。またつくる発句は何れも都会人好みの洒落た句で、才人ぶりを発揮していた。一代で築いた料理屋としての名は江戸中に轟いていて、「料理見世、深川二軒茶屋、洲崎ますや、ふきや町河岸打や、向じま太郎けの類なり。近頃にいたり、追々名高き料理見世所々に多く出来る。八百善など、一箇年の商ひ二千両づゝありと云う。新鳥越名主の物語なり」などと、青山白峰の『明和誌』に載る八百善は宝暦の頃の開業といわれる。いわば、江戸料理屋のはしりである。吉原の道筋でもあり、風流人や富商などの客筋が絶えず、いきおい高級料理の名を高めた。(以下略 )  】(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)

◯八百善(料理屋)
△「八百善仕出  新鳥越 
    八百善の名は海東に響く        年中の仕出し太平の風
    此の家の塩梅の妙なるを識らんと欲せば 請ふ見よ数編の料理通」
□「新鳥越二丁目 御婚礼向仕出し仕候 御料理 八百屋膳四郎」
◎「八百善の家に余慶の佳肴あり」(一〇三6)
 〔蜀山人狂歌〕「詩は五山役者は杜若傾はかの藝者はおかつ料理八百善」(『大田南畝全集』⑲279(書簡225)
〈当代の人気者、菊池五山・岩井半四郎・遊女かの・芸者お勝。『料理通』(文政五年刊)の序文は南畝が蜀山人名で書いている〉

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/e-yougo/yougo-edomeibutu-tenpou7.html

八百屋善四郎著『料理通(初編)』 文政五年(一八二二)刊 

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-28

(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)

佐原鞠塢.jpg

佐原鞠塢肖像、「園のいしぶみ」より

http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/tenzi/h16/kikakuten_hyakkaen.html

【百花園の開園者、佐原鞠塢(きくう)
百花園を開いた佐原鞠塢は、奥州仙台の農民の出で、俗称を平八といった。明和元年(1764年)生まれという説があるが不詳。天明年間(1781年から1789年)に江戸に出てきて、中村座の芝居茶屋・和泉屋勘十郎のもとで奉公した。その後、財を蓄え、それを元手に寛政8年(1796年)頃、日本橋住吉町に骨董屋の店を開き、名を北野屋平兵衛(北平とも)と改めた。芝居茶屋での奉公、骨董商時代の幅広いつき合いがもとで、当代の文人たちとの人脈を形成し、その過程で自らも書画・和歌・漢詩などを修得した。鞠塢は、商才のある人であったらしく、文人たちを集めて古道具市をしばしば開催したが、値をあげるためのオークション的な商法が幕府の咎めを受けたという。
 しばらくの間、本所中の郷(現向島1丁目付近)にいたが、文化元年(1804年)頃に剃髪して、「鞠塢菩薩」の号を名乗った。この頃、向島にあった旗本・多賀氏の屋敷跡を購入し、ここに展示で紹介する著名な文人達より梅樹の寄付や造園に協力を仰ぎ、風雅な草庭を造ったのが百花園の起こりである。園は梅の季節だけでなく、和漢の古典の知識を生かして「春の七草」「秋の七草」や「万葉集」に見える草花を植えたため、四季を通じて草花が見られるようになり、いつしか梅屋敷・秋芳園・百花園などと呼ばれるようになった。園の経営者としても鞠塢の才能はいかんなく発揮され、園内の茶店では、隅田川焼という焼き物や「寿星梅」という梅干しなどを名物として販売。また、園内で向島の名所を描きこんだ地図を刷り人々に頒布して、来園者の誘致を図り、次第にその評判が高まっていった。天保2年(1931年)8月29日に死没。編著書に漢詩集「盛音集」、句集「墨多川集」「花袋」のほか、「秋野七草考」「春野七草考」「梅屋花品」「墨水遊覧誌」「都鳥考」などがある。  】

(追記三)「抱一と河東節」 

【抱一は声曲の中では当時の通人の多くがそうであったように河東節(かとうでし)を好み、しばしば仲間と会を催した。河東の新曲を幾つか作り、「青すだれ」「江戸うぐいす」「夜の編笠」「火とり虫」等、抱一作として後代にのこっている曲も幾つかある。 】(『本朝画人伝巻一・村松梢風』所収「酒井抱一」)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-07

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 
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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二十一)  [酒井抱一]

その二十一 江戸の粋人・抱一の描く「その十一 吉原月次風俗図(十一月・酉の日)」

花街柳巷十一.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十一月「酉の日」)
【 十一月(酉の日)
「酉の日や数の寶と鷲つかみ」の句に、酉の市で買った縁起物の熊手を描く。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

酉の市.jpg

歌川広重画「名所江戸百景 浅草田甫酉の町詣」(絵師:広重 出版者:魚栄 刊行年:
安政四=一八五七):国立国会図書館蔵(「錦絵でたのしむ江戸の名所)  
https://www.ndl.go.jp/landmarks/details/detail267.html

 広重の「名所江戸百景」は、安政三年(一八五六)から同五年(一八五八)にかけて制作された連作浮世絵名所絵(全一一九枚)で、上記の「浅草田圃酉の町詣」は「冬の部(一〇二)」の「吉原妓楼より見た風景:背後の森は正燈寺」である。
 この図は、吉原妓楼の人気の無い部屋から猫が、浅草長国寺境内社の鷲(おおとり)神社に、十一月の酉の日に参詣する行列を見ているものである。十一月最初の酉の日は「一の酉」、次は「二の酉」、さらに、「三の酉」がある年は火災が多いとか、吉原遊郭に異変があるなどの俗信が言い伝えられている。
 以前は「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれていたものが、その「祭」に「市」が立って、「酉の市(まち・いち)」が一般的な呼称となっている。広重は、この「名所江戸百景」の他にも、江戸のガイドブックとも言える『絵本江戸土産』(第六編)の中でも「浅草酉の町」と題して、下記のような隅田川方面からの鷲大明神に参詣する群衆を描いている。
 そこに、次の文章が書かれている。

「浅草大音寺前に在り日蓮宗長國寺に安置したまふ鷲大明神と世にはいへど、実は破軍星を祀りしなりとぞ、十一月の酉の日には参詣の諸人群衆なし、熊手と唐の芋をひさぐを当社の例いとす。」

酉の市二.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本江戸土産』
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8369311?tocOpened=1  

 縁起物の熊手も色々の種類があり、時代とともに形も飾り物も変わってきている。江戸中期より天保初年頃までは柄の長い実用品の熊手におかめの面と四手をつけたもので、上記の広重の『絵本江戸土産』での左の熊手のものは、その種のものであろう。
 冒頭の抱一の図柄は、その長い柄の熊手(商売繁盛を掻っ込む)と唐(頭)の芋(八頭を篠で輪にしたもの=子孫繁栄)を、人物を一切排除し、また、熊手などもお多福などの飾り物をオフリミットして、句(発句)と画(図柄)とを、「付かず離れず」の、連歌・俳諧の付合(付け合い)の要領に意を用いている。

  酉の日や数の寶と鷲つかみ   抱一

 季語は「酉の日」(酉の市・酉の町詣・一の酉・二の酉・三の酉・熊手市など)、「数の宝」は、「数多の宝」の意、そして、この「鷲つかみ」は、「鷲(おおとり)神社」と「鷲掴み=手のひらを大きく開いて荒々しくつかむこと」を掛けての用例であろう。
 句意は、「十一月の酉の市、熊手やお福面やら数多の縁起物を、鷲(おおとり)大明神に因んで、鷲(わし)掴みしよう」というようなことであろう。
 この「酉の市」関連の句としては、「抱一の画、濃艶愛すべしといえども、俳句に至っては拙劣見るに堪えず」と酷評した正岡子規の作句例が極めて多い。また、浅草生まれの、江戸情緒豊かに、芥川龍之介をして「東京の生んだ<嘆かひ>の発句」と評された、久保田万太郎に佳句が多い。

  お宮迄行かで歸りぬ酉の市   正岡子規
  お酉樣の熊手飾るや招き猫     同上
  世の中も淋しくなりぬ三の酉   同上
  傾城に約束のあり酉の市      同上
  傾城の顏見て過ぬ酉の市      同上
  吉原てはくれし人や酉の市    同上
  吉原を始めて見るや酉の市     同上  
  夕餉すみて根岸を出るや酉の市  同上
  女つれし書生も出たり酉の市    同上
  子をつれし裏店者や酉の市     同上
  時雨にもあはず三度の酉の市    同上
  畦道や月も上りて大熊手      同上
  縁喜取る早出の人や酉の市     同上
  遙かに望めば熊手押あふ酉の市 同上
  酉の市小き熊手をねぎりけり    同上
  雜鬧や熊手押あふ酉の市     同上
  めッきりとことしの冬や酉の市  久保田万太郎
  外套の仕立下しや酉の市      同上
  提灯のちやうちんや文字酉の市   同上
  松葉屋の女房の円髷や酉の市    同上
  酉の市はやくも霜の下りしかな   同上
  龍泉寺町のそろばん塾や酉の市   同上
  くもり来て二の酉の夜のあたゝかに 同上
  たかだかとあはれは三の酉の月   同上
  三の酉しばらく風の落ちにけり   同上
  三の酉つぶるゝ雨となりにけり   同上
  二階よりたまたま落ちて三の酉   同上


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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その二十)  [酒井抱一]

その二十 江戸の粋人・抱一の描く「その十 吉原月次風俗図(十月・時雨)」

抱一・吉原・十月.jpg

酒井抱一筆「吉原月次風俗図」(十月「時雨」)
【 十月(時雨)
時雨にまじって紅葉の楓の葉が二、三飛ぶ図に、「飛ふ駕やしくれくる夜の膝かしら」と「来ぬ夜なく千鳥や虎か裾もよふ」の二句が添えられる。】
(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

  飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 抱一(「吉原月次風俗図(十月・時雨)」)
  来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ       抱一( 同上 ) 

 この両句は、書画の「対幅(ついふく)」(一対に仕立てられた書画の掛け物)形式になっていて、一句目が上に、二句目が下に書かれている。図柄は、「小夜時雨に紅葉の楓の葉が二三枚飛び散っている」ものとなっている。
 時雨は、「朝時雨・夕時雨・小夜時雨・村時雨・北時雨・横時雨」などの時分や態様によるものの他、比喩的な時雨(偽物の時雨)の「川音の時雨・松風の時雨・木の葉の時雨・涙の時雨・袖の時雨・袂の時雨」も、連歌や俳諧の世界では季語として認知されている。
 一句目の時雨(「しぐれくる夜の」・初冬)は、「夜の時雨・小夜時雨」で、二句目は「千鳥」(「小夜千鳥」・三冬)の句だが、下五の「虎が裾もよふ」が「虎が雨」(「虎が涙雨」=曽兄弟の仇討の虎御前の涙雨=仲夏)を言外に匂わせている。
 そして、一句目は、本歌取り(和歌などを念頭に置いての句作り)の句というよりも、本句取り(俳諧の句などを念頭においての句作り)の句という雰囲気である。

  山城へ井手の駕籠かるしぐれ哉  芭蕉(『蕉尾琴』) 
  あれ聞けと時雨来る夜の鐘の声  其角(『猿蓑』)

 この一句目が、本句取りの句の雰囲気を有しているのに比して、二句目の句は、本歌取りの句の雰囲気である。

  千鳥鳴く佐保の河瀨のさざれ浪
    やむ時もなしわが恋ふらくは(大伴坂上郎女『万葉集・巻六』)
  思ひがね妹がり行けば冬の夜の
       川風さむみ千鳥鳴くなり  (紀貫之『拾遺集・巻四』)

 その上で、この一句目と二句目とを併せ鑑賞して行くと、京都島原の遊郭内に不夜庵(俳諧)を主宰し、与謝蕪村と交流の深かった炭太祇の、次の句などが想起されて来る。

   行く秋や抱けば身に添ふ膝頭   (『太祇句選』秋)
   傘焼し其の日も来けり虎が雨   (『同上』夏)
   行く女袷着なすや憎きまで    (『同上』夏) 
   しぐるゝや筏の棹のさし急ぎ   (『同上』冬)
   うぐひすのしのび歩行や夕時雨  (『同上』冬)
   ちどり啼く暁もどる女かな    (『同上』冬) 
   年とるもわかきはおかし妹が許  (『同上』冬) 

 ここで、この一句目と二句目との、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的な句意は、次のとおりとなる。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら 

「時雨の夜に、(待ち人に逢うために)駕籠を飛ばして、その駕籠の中で丸くなって膝頭を抱えている。」

   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ 

「(待ち人が)来ない夜に鳴く千鳥は、『曽我兄弟の仇討』で、愛する人を失った虎御前の涙で裾までも濡らしたように悲しげに聞こえる。」

 そして、この両句を、一対の句と解すると、それは、和歌における「贈答歌」(贈句と答歌=反歌)の構成になろう。連歌・俳諧では「対句付け・相対付け」という「長句(五七五)と短句(七七)」の付合いのルールがあるが、発句(長句)と発句(長句)との場合は、「贈答歌」に倣い「贈答句」(あるいは「二句唱和」)の世界のものなのと解して置きたい。
そして、これらのルールは、「贈歌(贈句=前句)」の「言葉などをうまく織り込み、さらに、新味を加えて切り返す」のが「答歌(答句=付句)」のポイントということになろう。

   飛ぶ駕(かご)やしぐれくる夜の膝がしら (贈句=前句)
   来ぬ夜なく千鳥や虎が裾もよふ      (答句=付句) 

 この「贈句」は男性の句の感じで、この男の「くる夜」に対して、「答句」の方は男を待っている女性の感じで、「来ぬ夜」で受けている。そして、「贈句」の「しぐれ」(初冬)に対して「千鳥」(三冬)で応じ、「贈句」の「膝がしら」に対して、「答句」は、何とも、造語的な「虎が裾もよふ」(「虎が雨(?)」+「裾時雨(?)+「雨模様(?)+「虎模様(?)」)と、切り返している雰囲気なのである。
 として、この一対のデノテーション的句意は、次のとおりとなる。

【(贈句=男)時雨の夜、恋人に逢いたいと、駕籠を飛ばしています。その駕籠が余りにも揺れますので、必死に背を丸くして膝頭を抱えています。
(答句=女)待てども待てども貴方は来ない。外の闇夜で千鳥が鳴いています。その千鳥の鳴き声は、『虎が雨』とも『涙の裾時雨』とも聞こえてきます。 】

 そして、これらのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的句意は、この一対のデノテーション的句意の、その男を「抱一自身」、そして、その女を「抱一の相方(小鶯女史)」とすると、実に、臨場感溢れる、抱一の自作自演の「贈答句」となって来る。
 その句意は、上記の句意に、下記のアドレスで紹介した、次の「墨梅図」(抱一画、小鶯女史賛)関連(再掲)のものを加味することになろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-01

(再掲)

紅梅図.jpg

酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
 小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
 本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
 「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
 梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
 「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。

(賛)

「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ →  野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

(追記)上記の小鶯女史の漢詩(賛)について、『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』では、次のとおりの和訳されている。

 野逕(やけい)を行き過ぎ   渓橋(けいきょう)を渡る
 雪を踏み 相求(もとむ)るに 労を憚(はばか)らず 
 何処(いずこ)か春を蔵さん  春見へず
 惟(た)だ聞く 風裡(ふうり)暗香(あんこう)の瓢(ひょう)

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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その十九)  [酒井抱一]

その十九 江戸の粋人・抱一の描く「その九 吉原月次風俗図(九月・干稲)」

干稲二.jpg

抱一筆「花街柳巷図巻」のうち「九月(干稲)」
【九月(干稲)
吉原遊郭は江戸の北郊に位置し、周囲は田で囲まれていた。収穫の時期には稲を架けて干す寂びた田園の風情も、二階座敷から望み見ることができたのである。賛は「京町あたりの奥座敷からさしのそけは 鷹も田に居馴染むころや十三夜」。 】(『琳派第五巻(監修:村島寧・小林忠、紫紅社)』所収「作品解説(小林忠稿)」

     京町あたりの奥座敷からさしのぞけば
   鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」

 この句の前書きの「京町(一丁目)」には、下記のアドレスなどで度々紹介している加保茶元成(大文字屋市兵衛)の妓楼「大文字屋」が見世を構えている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

 『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』では、「楼主と
加保茶元成(初代・大文字屋市兵衛)」などについて、下記のとおり紹介している。

【 楼主は妓楼の経営のトップで、忘八(ぼうはち)と呼ばれる。『吉原大全』によると、その由来は、仁・義・礼・智・忠・信・考・悌といった八つの徳目を忘れさせるほど面白い場所を提供する人ということにな っているが、実際には遊女たちをこき使い、遊客から金をむしり取る、八つの徳目を忘れた人非人という、さげすみの意味も含まれていたらしい。大文字屋の初代楼主・市兵衛は伊勢から江戸へ出て、吉原で一旗上げようとやってきた人で、初めはお歯黒溝(どぶ)沿いに河岸見世を開くも、なんとか五丁町に進出したいと遊女の食事をすべて安いカボチャにして、経費を節減。ヒドイ! しかし、これが功を奏して、見事京町一丁目に店を構えたため、「カボチャ」とあだ名された。当時子供たちの間で流行っていた歌に「ここ京町大文字屋のカボチャとて、その名を市兵衛と申します。せいが低くて、ほんまに猿まなこ、かわいいな、かわいいな♪」とあるように、ユニークな外見だったよう。名物社長といったところか。ちなみに、彼は園芸を愛する文化人でもあり、跡を継いだ二代目も加保茶元成のペンネームで天明狂歌壇の一翼を担う教養人だった。花魁を中心に見世をいかにプランディングしてゆくか手腕を問われる妓楼の経営には、情緒的価値を理解するセンスが求められたのだ。 】(『吉原はスゴイ 江戸文化を育んだ魅惑の遊郭(堀口茉純著・PHP新書)』)

 ここに出て来る大文字屋の初代楼主・(村田)市兵衛は、安永九年(一七八〇)、抱一が二十歳の時に亡くなっている。抱一と親交の深かったのは、跡を継いだ二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)で、大田南畝(狂歌名・四方赤良)、そして、吉原出身の版元・蔦屋重三郎(狂歌名・蔦唐丸)と昵懇の間柄で、吉原の狂歌連(グループ)の中心的な人物であった。
 そして、その二代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<一世>)の跡を継いだのが三代目・村田市兵衛(狂歌名・加保茶元成<二世>、画号に加保茶宗園)で、この三代目は抱一の門人
で、江戸節にも優れ、嵯峨様の書もよくし、野呂松人形にも秀でているという多芸多才の人物であった。
 抱一が、狂歌名・尻焼猿人で、蔦屋重三郎版の狂歌絵本『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画)に登場するのは、天明六年(一七八六)、二十六歳の酒井家部屋住みの頃である。
その酒井家部屋住みの抱一が、自前でこれらの吉原の狂歌連に出入りし、そして、自前で吉原遊郭内での遊蕩三昧の日々を送るなどということは土台有り得ないことであろう。その背後には、吉原の三代にわたる妓楼・大文字屋(楼主・村田市兵衛、狂歌名・加保茶元成)、特に、二代目加保茶元成(狂歌人としては一世)が、そのパトロン(支援者)として控えていたということであろう。
そして、その加保茶元成の背後に控えている大立者が、蔦唐丸(蔦屋重三郎)と四方赤良(大田南畝)の御両人ということになる。

吉原大通会二.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

(『吉原大通会』関連)
https://blog.goo.ne.jp/edomanga/e/1e80b15744cccdfbf5696358b123f7d2

(メモ)

※恋川春町=延享元~寛政元年(一七四四‐八九)、 狂名:酒上不埒(さけのうえのふらち)。
江戸中期の黄表紙作者、狂歌師。駿河小島藩士。寛政の改革を風刺した「鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)」に関わる召喚に出頭せず、その年死んだことから、自殺説も伝えられる。上記の図には登場しない(上記の図は大文字屋(一次会)から菊場屋(二次会:松葉屋の仮名か?)に会場を移しての場面で、その菊場屋の別室で『吉原大通会』を書いているか?)。この『吉原大通会』では、「天狗が化けた通人=天通」として登場している。

蔦唐丸(狂名:つたのからまる)=寛延三~寛政九年(一七五〇‐九七)、蔦屋重三郎、江戸中期の地本問屋、蔦屋の主人。通称蔦重(つたじゅう)。上記の図は「狂歌より、どうか一幕の狂言をお書きください」と硯と紙を差し出している。他の登場人物は全員仮装しているのだが、後から駆けつけて来て普通の格好をしている(普通の格好は「手柄岡持」との二人のようである)。

△加保茶元成(狂名:かぼちゃのもとなり)=宝暦四~文政十一年(一七五四-一八二八)、江戸新吉原の妓楼大文字屋の初代村田市兵衛の養子となる。天明狂歌壇の一翼として活躍し、吉原連を主宰した。上記の図は「人さまに見せない『加保茶元成』振りは、先代が歌って踊ったとおりです」と、顔を覆面で覆っている。この集まりは、当初、加保茶元成の大文字屋での各人が扮装しての狂歌会だったのだが、菊場屋(松葉屋の仮名?)に居た恋川春町と手柄岡持が、二次会にと大文字屋から菊場屋へと場所を移させたようである。

※四方赤良(狂名:よものあから)=寛延二~文政六年(一七四九‐一八二三)、江戸後期の狂歌師。洒落本、滑稽本作者。別号に大田南畝(おおたなんぽ)、蜀山人(しょくさんじん)、寝惚(ねぼけ)先生など。江戸幕府に仕える下級武士。上記の図は、漏斗(ろうと・じょうご)を頭に載せているようである(脳から狂歌を注ぎたい洒落か?)唐丸が「春さんが」と赤良に問い掛けると「春とは誰だ。恋川春町か」と唐丸に問い質している。

※手柄岡持(狂名:てがらのおかもち)=享保二〇~文化一〇年(一七三五‐一八一三)。江戸後期の戯作者。狂歌師。秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)。別号に朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)。寛政の改革の時、君侯の命で筆を絶っている。この『吉原大通会』の主役(「すき成」)として登場し、上記の図の場面は、天通(恋川春町)の神通力で、大文字屋で狂歌会をやっていたメンバーを、「天通とすき成」が居た菊場屋(松葉屋か?)に引き連れて来て、「それがし、つりが『すき成』なれば、「手がらの岡もち」(手柄岡持)と名をつきましょう」との科白を吐いている。普通の格好をしているのは、唐丸と岡持の二人だけで、この二人は、春町(天通)と一緒に、菊場屋(松葉屋?)に居たような感じである。

※大屋裏住(狂名:おおやのうらずみ)=享保十九~文化七年(一七三四‐一八一〇)。江戸中期の狂歌師。号は萩廼屋(はぎのや)。江戸で更紗染屋から貸家を業とした。手柄岡持(朋誠堂喜三二)や酒上不埒(恋川春町)らの属している本町連を主宰している。上記の図は「土の車の吾らまで、かかる時節に大屋裏住」と能「土車」の科白を吐いている。

△腹唐秋人(狂名:はらからのあきんど)=宝暦八~文政四年(一七五八~一八二一)、狂歌を大屋裏住に学び本町連に入り、中井董堂(なかいとうどう)の号で書家としても知られている。上記の図は「俺の着ているのは、竜紋という上等の絹物だ」と嘯いている。

△元木綱(狂名:もとのもくあみ)=享保九~文化八年(一七二四‐一八一一)。江戸後期の狂歌師。湯屋を業とした。狂歌最古参の一人。その門下を落栗連と称した。上記の図は「(赤良の格好を見て)さすがに趣向の人だね。当方は名前のとおり普段のままだ」と頭に手をやっている。

※朱楽菅江(狂名:あけらかんこう)=元文三~寛政一〇年(一七三八‐一七九八)、江戸後期の狂歌師、洒落本作者。江戸生まれた幕臣。上記の図は天神様の格好のようで、清盛風の酒盛入道常閑に向かって、上記の図は「襟巻は良いが、掻巻は似合わないね」とケチをつけている。

※紀定丸(狂名:きのさだまる)=宝暦十~天保十二年(一七六〇-一八四一)、四方赤良の甥。幕臣で精励な能吏で旗本となった。上記の図は「何時も気が定まらず、思案に暮れている」と自嘲している。

※平原屋東作(狂名:へいげんやとうさく)=享保十一~寛政元年(一七二六‐八九)。「平秩東作(へずつとうさく)の名で知られている。内藤新宿で家業の馬宿、たばこ商を営んだ。幕府の事業にも手をそめるが、寛政の改革により、幕府の咎めを受ける。上記の図は「(煎餅袋を逆さに被って)へいげん屋東作にあらず、べいせん屋頓作の座興だ」とソッポを向いている。

大腹久知為(狂名:おおはらくちい)=『徳和歌後満載集(一巻)』(四方赤良編著)に「大原久知位」で一首、『同(九巻)』に「大原久知為」で一首、『同(巻十)』に「大原久ちゐ」で一首、計三首の狂歌が収載されている。上記の図は「おお原くちいから、お茶でいこう。眠い。眠い」とぼやいている。

酒盛入道常閑(狂名:さかもりにゅうどうじょうかん)=未詳。上記の図は「(菅江が常閑の襟巻は褒め、掻巻にはケチを付けたので)菅江の袖頭巾の梅は良いが、水仙はお粗末だ」とお返しをしているようである。

 この恋川春町の自画・自作の黄表紙(絵入りの草双紙)『吉原大通会』は、天明四年(一七八四)、抱一が二十四歳の時に刊行された。その二年後の天明六年(一七八六)に刊行された『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰、山東京伝画、蔦屋重三郎版元)の、その天明狂歌壇の名手五十人中の、その冒頭に、抱一は、狂歌名・尻焼猿人の名で、その狂歌と肖像画が掲載されたことなどについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03

 その『吾妻曲狂歌文庫』中の、その天明狂歌壇を代表する五十人の中に、上記の『吉原大通会』の、その十三名の中で、※印を付している方(七名)は収載されている。また、△印を付している方(三名)も、『徳和歌後万歳集』(天明五年=一七八五)には十首以上の狂歌が収載されている。
 残りの三名の方は、一人は蔦唐丸(蔦屋重三郎)で、もうお二人の「大原久知為・酒盛入道常閑」も、いわゆる、天明狂歌の三大家「四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘州」を中心とする「天明狂歌壇」の中で、別号などでよく知られている方のように思われる。
 そして、この十三人の中で、いわゆる、松平定信が断行した「寛政の改革」により弾圧された方が、「酒上不埒(恋川春町)・蔦唐丸(蔦屋重三郎)・四方赤良(大田南畝)・手柄岡持(朋誠堂喜三二)・平原屋東作(平秩東作)」と多く、その他の方々も、何らかの余波は受けていることであろう。
 さらに、この『吉原大通絵』の主人公として登場する「すき也」こと、「手柄岡持(朋誠堂喜三二)」は、秋田(久保田)佐竹藩士(佐竹藩江戸留守居役)で、その前任者(天明三年=一七八二・五月交代)が、「佐藤晩得(さとうばんとく)=享保十六~寛政四年(一七三一~九二)、俳号=哲阿弥など、別号に朝四・堪露・北斎など。俳諧は右江渭北門のち馬場存義門」なのである。
 この佐藤晩得が、抱一の後見人のような大和郡山藩主を勤め、俳号・米翁として名高い「柳沢信鴻(やなぎざわのぶとき)=柳沢吉里の次男」と親交が深く、当時、酒井家部屋住みの抱一の後ろ盾のような関係にあり、この晩得が亡くなった追善句集『哲阿弥句藻』に、抱一は跋文を寄せるほど深い絆で結ばれていたのである。
 そして、その佐藤晩得は、吉原で、その俳号を捩っての「朝四大尽(ちょうしだいじん)」と呼ばれ、この『吉原大通会』では、次のクライマックスの場面で、登場しているようである。

吉原大通会・荻江節.jpg

恋川春町画・作『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9892509

 この場面は、天通(恋川春町)の神通力で、当時の名のある大通(吉原通いの大通人=お大尽)を一同に集めて、「荻江節」(吉原の遊郭で座敷歌風に三味線に合わせて唄う長唄=めりやす=長唄の短い独吟物)が、その創始者・荻江露友(「おうぎ江西林」の名で登場)によって、その「九月がや」(作詞家・佐藤晩得=朝四=朝四大尽、ここでは「蝶四といふ大通」の名で登場)が披露されている場面のようである。
 上記の図の花魁の右脇の立膝をしている方が、初代荻江露友のようで、その右脇の三味線を弾いているのは芸者衆であろう。そして、その芸者衆から左周りに花魁まで大通(お大尽)衆が並び、中央の荻江露友と正面向きになっている武士風の大通は、蝶四(朝四大尽=佐藤晩得)のように思われる。この場面は、荻江節の初代荻江露友より、自分の作詞した「九月がや」の節付けなどの指導を受けているように解して置きたい。
 そして、この初代荻江露友(作曲家)と佐藤朝四(作詞家)を囲んでの大通(お大尽)衆は、「吝株(しわかかぶ)の貧通(ひんつう)は大費とぞ惜しみける」などの、この『吉原大通会』の作者・恋川春町の文章を見ると、そもそも、この戯作の『吉原大通会』の「大通」は、「大通人」(吉原に精通している大通人)を意味していて、ここでは、「荻江節愛好大通
人」と解した方が、上記の図を理解するのには良いのかも知れない。
 これらのことに関連し初代荻江露友について、下記のアドレスで次のように記述している。

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

【初代露友はめりやすの作曲もやっていて、佐竹藩留守居役の佐藤朝四の作詞「九月がや」、山東京伝作詞の「素顔」、大和郡山藩の隠居、柳澤信鴻作詞の「賓頭盧」(びんずる)の節付けをしたことが知られている。】

鷹も田に居馴染むころや十三夜    抱一「花街柳巷図巻・九月(干稲)」
   稲懸けて里しづかなり後の月     蓼太「蓼太句集」

 季語の「十三夜」は「後の月」(晩秋の季語)、子季語として「名残の月、月の名残、二夜の月、豆名月、栗名月、女名月、後の今宵」など。語意は「旧暦九月十三夜の月。八月十五夜は望月を愛でるが、秋もいよいよ深まったこの夜は、満月の二夜前の欠けた月を愛でる。この秋最後の月であることから名残の月、また豆や栗を供物とすることから豆名月、栗名月ともいう。」
 抱一の句と同じ視点(「田・干稲と十三夜」と「干稲・里と後の月」)の句として、蓼太の句(「稲懸けて里しづかなり後の月」)などが上げられよう。
 抱一の句の句意は、デノテーション(裏の意味ではなく、文字通りの直接的な意味)的には、「十三夜の頃になると、鷹も山よりも稲懸けの田が点在する里の方が居馴染んでいるようで、よく見掛けるようになる」というようなことであろう。
 しかし、前書きの「京町あたりの奥座敷からさしのぞけば」や、この賛のある画の「干稲」などからのコノテーション(言外の意味・暗示的意味など)的な句意は、下記のように大きな広がりを有してくるであろう。
そして、この「鷹」には、部屋住み時代の抱一が、吉原という「士農工商の身分的差別もなく、俗界から隔離された聖なる場所(アジール)=公界での交遊・交友の場、そして、そのネットワークの広がり、さらに、新興都市『江戸』の新しい文化の息吹き(浮世絵・文人画・黄表紙・滑稽本・狂歌・俳諧・川柳・歌舞伎・音曲等々)の発信地」での、その切磋琢磨した「遊客」(粋人・通人)の、それらのイメージが隠されているものと解したい。
具体的には、上記で縷々触れてきた『吉川大通会』の、「狂歌通人」(恋川春町・蔦唐丸・加保茶元成・四方赤良・手柄岡持・大屋裏住・腹唐秋人・元木綱・朱楽菅江・紀定丸・平秩東作・大腹久知為・酒盛入道常閑)、そして、「荻江節通人」(荻江露友・佐藤朝四・柳澤信鴻・山東京伝)などのメンバーである。
とすると、この抱一の句のコノテーション的な句意は次のとおりとなる。

「この懐かしい吉原京町・大文字屋の二階の奥座敷から、十三夜の後の月と、その月光の下に広がる干稲などを見ていると、ここで過ごした懐かしい面々の面影が過って来る。既に他界している方が多いが、思い起こせば、寛政の改革などで命を絶った方、筆を断った方、財産を没収された方、手鎖の刑に処せられた方、左遷された方等々、それぞれが、この里の鷹のように、それぞれの土地で、思い思いに、今頃は、居馴染んで過ごしていることであろう。」

(追記一) 抱一をめぐる女性たち (『もっと知りたい 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)

 抱一は部屋住みの身分の後、出家遁世したので正式な結婚をしたことはない。下谷大塚村の庵では、元大文字屋の遊女香川とも伝えられている小鶯女史(出家後の法名は妙華尼)と同居し、文政初めに酒井鶯蒲(おうほ)がその養子となったという。鶯蒲が抱一を「御父(トゝ)様」と呼んだので酒井家から窘められたというエピソードを朝岡興禎編著の『古画備考』巻三十五の鶯蒲の条は伝えている。鶯蒲は抱一没後、雨華菴を継承する。
 抱一の吉原通いは終生続き、山谷の料亭、駐春亭主人の田川氏の聞き書きに多く基づく『閑談数刻』(東京大学総合図書館)という資料は、抱一が吉原で贔屓にした遊女として、大文字屋の一もと、松葉屋半蔵抱えの粧(よそおい)、弥八玉屋の白玉、鶴屋の大淀などの名前を挙げている。このうち、粧は音曲を好まず、唐様の書家の中井董堂から書、広井宗微から茶、抱一から和歌・発句を学んだという才色兼備の遊女で、蕊雲(ずいうん)、文鴛(ぶんおう)という雅号を持っていた。抱一は彼女のために年中の着物の下絵を描いたという。   
 鏑木清方筆「抱一上人」(永青文庫)には、そんな女性に囲まれて遊里に耽溺する抱一のイメージが視覚化されている。左右の足のポーズにやや無理があるが、朱壁にもたれて三味線を弾く抱一の眼差しには、一抹の寂寥感が漂っている。
 
抱一上人.jpg

(鏑木清方筆 三幅対の中幅 縦四〇・五㎝ 横三五・〇㎝ 明治四十二年<一九〇九>
  永青文庫蔵 )


(追記二)抱一作「朝顔」(荻江節)

https://www.kyosendo.co.jp/essay/125_tamaya_1/

見しをりのつゆわすられぬ、
あさがほのはなの盛は、
ももとせもかはらぬ今のかたみとて、
むかしかたりにあらばこそ、
見れば、
うつつに水くきのあとは尽せぬ玉菊の、
ひとよふた代ををなしなの、
あいよりいでてなをあをきるりのせかいや、
花のおもか」

「玉菊が描き置し香包ありて、朝顔の花を描きて最しほらかりしを、不図雨花庵(抱一)の大人に見せければ、元来好事といひ常々廓中に入ひたりて画に用ひられて取はやさるる身は人々のすすめも黙止(もだし)がたく、彼香包の色絵より朝顔といふめりやすの唄を作り、名ある画客会合し衆評の上節を付、伊能永鯉もたびたび引出されて、一節伐(ひとよぎり)を合せ、その外鼓弓筝笛尺八つづみ太鼓にいたるまで、名だたる人々一同に合奏して、夜な夜な遊君ひともとの座敷に錬磨しけるが、その後はなばなしく追善の式ありし沙汰を聞ず、伝え聞に、それぞれの配(くばり)もの四季着(しきせ)付届振舞以下弐百両余の失墜あればなり、依て玉菊が墓所を修理して苔提所に於て読経作善いと念頃なりしとかや」


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