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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その七) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その七 桜町中納言(抱一の「桜町中納言図」周辺)

桜町中納言・鶯邨画譜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「桜町中納言図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 「桜町中納言」については、下記のアドレスで、下記(参考その三)のとおり引用紹介した。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-29

(参考その三) 藤原成範(ふじわらのしげのり) → (再掲)
没年:文治3.3.17(1187.4.27)
生年:保延1(1135)
平安末期の公卿。本名は成憲。世に桜町中納言といわれた。藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る。また後白河院政開始以来の院司で、治承4(1180)年には執事院司となり激動の内乱期を乗りきった。一方和歌に優れ、『唐物語』の作者に擬せられている。桜を好み,風雅を愛した文化人でもあった。娘に『平家物語』で名高い小督局がいる。<参考文献>角田文衛『平家後抄』 (木村真美子) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

 また、次のアドレスで、酒井抱一筆の「宇津山図・桜町中納言・東下り」(三幅対)について触れた。そこでの要点も再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-01

(再掲)

ここで、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言」(藤原成範)について触れて置きたい。
『伊勢物語』第九段「東下り」(下記「参考」)の「むかし、男ありけり」の、この「男」(主人公)は、「在原業平」というのが通説で、異説として、『伊勢物語』第十六段(「紀有常」)の「紀有常(きのありつね)」という説がある。  
 その主たる理由は、その第九段の前の第八段(「浅間の嶽」・下記「参考」)が、業平では不自然で、「下野権守・信濃権守と東国の地方官を務めた紀有常」の方が、第八段(「浅間の嶽」)と第九段(「東下り」)との続き具合からして相応しいというようなことであろう。
 それに対して、冒頭の「宇津山図・桜町中納言・東下り」の「桜町中納言(藤原成範)」こそ、「藤原通憲(信西)と後白河天皇乳母紀二位の子。久寿1(1154)年叙爵。平治の乱(1159)でいったん解官,配流されるが許され,平清盛の娘婿であったことも手伝い、のちには正二位中納言兼民部卿に至る」の、「配流の地(「下野」)などからして、「桜町中納言(藤原成範)」こそ、最も相応しいというようなことなのであろう。

 さらに、下記のアドレスで、鈴木其一筆「桜町中納言図」(一幅)について触れた。その画像と解説(久保佐知恵稿)のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-09

(再掲)

其一・桜町中納言.jpg

鈴木其一筆「桜町中納言図」 一幅 絹本著色 一一六・八×四九・八㎝
千葉市美術館蔵
【 桜町中納言は、平安時代後期の歌人藤原成範の通称で、桜を殊のほか愛した成範は、自らの邸宅にたくさんの山桜を植え、春になると桜の下にばかりいたと伝わる。能「泰山府君」の登場人物でもあり、短い花の盛りを惜しんだ成範が、その命を延ばしてもらおうと泰山府君に祈ったところ、成範の風流な心に感じた泰山府君が現れ、願いを叶えってやったと云う。本作は、満開の山桜の下でくつろぐ桜町中納言と従者を描いたもので、構図自体は『光琳百図』所載の光琳画をほぼ忠実に踏襲している。「桜町中納言図」は師の酒井抱一にもいくつかの遺品があり、江戸琳派において継承された画題のひとつといえる。(久保佐知恵稿) 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手 図録』所収「作品解説56 桜町中納言図」)

 ここで、冒頭の抱一画集『鶯邨画譜』所収の「桜町中納言図」(に戻り、これは、まさしく、「抱一筆」とか「其一筆」とかではなく、『鶯邨(抱一の「雨華庵(工房)」の別称)』の「画譜(マニュアル・手本)」の「一コマ」のものという思いを深くする。
 さらに、付け加えるならば、上記の其一筆「桜町中納言図」(千葉市美術館蔵)には、次のような箱書きがある(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

(箱表) 桜町中納言  竪幅
(箱裏) 先師其一翁真蹟 晴々其玉誌 印

 この「晴々其玉」は、其一の高弟・中野其明(きめい)の子息・中野其玉(きぎょく)であり、この其玉にあっては、その「先師」とは、酒井抱一ではなく、鈴木其一その人ということになる。
そして、この其玉に、『鶯邨画譜』を継受したような『其玉画譜』(小林文七編)があり、次のアドレスで、その全図を見ることが出来る。ここに、まぎれもなく、「其一→其明→其玉」の「其一派」の流れを垣間見ることが出来る。

一 ARC古典籍ポータルデータベース (カラー版)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%B6%E7%8E%89%E7%94%BB%E8%AD%9C&enter=portal

二 国立国会図書館デジタルコレクション (モノクロ版)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850329

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その六) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その六 白椿に楽茶碗(抱一の「白椿に楽茶碗」と「白椿・楽茶碗之句」関連)

白椿・楽茶碗一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「白椿に楽茶碗図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 抱一句集『屠龍之技』には、「白椿」の句は目にしないが、次の「黒楽焼茶碗」の句が収載されている。

 黒楽の茶碗の欵(かん)やいなびかり

 中七の「茶碗の欵(かん)や」の「欵(かん)」は、「親しみ・よしみ」の意なのであろうか。下五の「いなびかり」は、季語の「稲光」で、「雷」が夏の季語とすると秋の季語ということになる。蕪村にも「稲妻」(稲光)の句が多い。

  稲づまや浪もてゆへる秋津島 (蕪村 明和五年=一七六八 五十三歳)
  いな妻の一網うつや伊勢の海 (同上)
  いな妻や秋津島根のかゝり舟 (同上)
  稲妻や海ありがほの隣国   (同上)

 「稲妻」と大景の「秋津島(日本の古称)・伊勢の海・秋津島根(日本の古称)・隣国(中国・朝鮮)」との取り合わせの句であろう。

  稲妻にこぼるゝ音や竹の音  (蕪村 年次未詳)

 視覚的な「稲妻」と聴覚的な「竹の音」との取り合わせの句、何とも感覚的な句作りである。
 抱一の句も、「黒楽焼茶碗」の「黒」と「稲光」の「一閃・閃光」との取り合わせの句と解したい。句意は、「常時慣れ親しんでいる黒楽焼茶碗、一閃の稲光で、その黒さが見事である」というようなことであろう。

  古庭に茶筌花咲く椿哉  (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この蕪村の句の句意は、「茶室の古庭に茶筌のような椿が咲いている」というようなことであろう。抱一の、上記の「白椿に楽茶碗図」は、「茶室の黒焼茶碗の脇に茶筌のような白椿が活けられている」というような光景であろう。

蠣潭・楽茶碗.jpg

鈴木蠣潭筆「白椿に楽茶碗図扇面」一幅 紙本著色 一六・〇×四五・六㎝ 個人蔵

 抱一の附人で、抱一の助手として傍に仕えた鈴木蠣潭の「白椿に楽茶碗図」である。この蠣潭は二十六歳の若さで狂犬病により急死した。その跡を継いだのが、当時、二十二歳の鈴木其一である。その其一にも、同じ画題のものがある。

其一・楽茶碗.jpg

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗図」(「諸家寄合書画帖」のうち)一枚(一帖のうち)絹本著色
二五・七×二九・三㎝ 個人蔵
【 黒楽茶碗に白椿の折り枝を取り合わせた小品で、江戸時代後期に活躍した日本各地の漢詩人、書家、画家らの作品計八十三葉を貼り込んだ画帖の一葉である。其一に関係の深い人物としては、師の酒井抱一、谷文晁・文一父子、松本交山、大田南畝などがいる。本作は黒楽茶碗の表現が秀逸で、光を含んだ胴のぬらりとした肌合いを、墨の滲みを効かせたうるおいある筆で表している。また、口造りや腰の部分に見える粗く擦れた筆致は、艶のないかせた肌合いを表現したものと思われ、細部に脂ののった其一の画技が冴える。黒楽茶碗の右端に、隠し落款のように「噲々其一」と金泥で記すところなど心憎い仕掛けである。署名の下に「元長」(朱文壺印)が捺される。  】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(岡野智子他執筆)』所収「作品解説65(久保佐知恵稿)」)

其一には、掛幅ものの「白椿に楽茶椀花鋏図」もある。また、「鈴木其一書状」の中に、「小絹茶碗椿出来仕り候間御使へ差上申候」と記したものものあり、「茶道や華道に嗜みのある江戸の文化人に好まれた画題であった」のであろう(『岡野他・前掲書』所収「作品解説87」)。

其一・楽茶碗 掛幅.jpg

鈴木其一筆「白椿に楽茶碗花鋏図」 一幅 絹本著色 九㈣・六×三二・四㎝ 細見美術館蔵

 こういう、蠣潭や其一の「白椿に楽茶碗図」を見てくると、冒頭の『鶯邨画譜』の「白椿に楽茶碗」の画題というのは、抱一よりも、蠣潭や其一が好んで手掛けたもののように思われる。

 「酒井抱一書状巻」(ミシガン大学本)の中に、次のようなものがある。

「此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 」

 この「必庵」は、鈴木蠣潭の号の一つであり、蠣潭宛てのものと解されているが、其一は、蠣潭から、この号を継受されており、同書状に出てくる「為三郎」(鈴木其一)の号の一つの鈴木其一宛とも解されている(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)。

 酒井抱一の画業の背後には、抱一を取り巻く、蠣潭・其一等々の、「雨華庵」工房の優れた絵師たちが、その手足になっていたことは、この書状などから明瞭になって来よう。この『鶯邨画譜』などは、とりわけ、鈴木其一の「雑画巻(一巻)」(出光美術館蔵)などと極めて親近感の強いものであることは付記して置く必要があろう。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その五) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その四 月に梅(抱一の「月に梅図」と「月に梅之句」関連)

月に梅図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「月に梅図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 この「月に梅図」の「月」は、左側の薄い「三ケ月」のようなものなのであろうか。ほとんど、この版本では識別ができない無月のような感じである。抱一句集『屠龍之技』に、次のような前書きのある一句がある。

   葛城とゆふ謡曲
   一聲一調をうけ
   たまわりて
  聞け春の夜の月なし梅白し

 どことなく、この句が、上記の「月に梅図」の情景を醸し出している印象を受けるのである。「月に梅図」というのは、夜の情景なのであろう。謡曲「葛城」というのは、「一面雪の葛城山を舞台とする夢幻能(前シテ=葛城山の女、後シテ=葛城明神)」で、この「月の梅図」の背後には、その夢幻能の「葛城」の旋律が流れている。その「一聲一調」を耳にしながら、「春の夜の白梅」を目にしていると、その夢幻能「葛城」の一面の雪のような「白梅」が浮かび上がってくる。その「白梅」の白さで、上空の月さえ、まるで「夜の月なし」の光景のように、その白さのみが浮かび上がってくる。
 
 しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり (蕪村 天明三年=一七八三 六十八歳)

 蕪村の絶吟である。「白梅の清浄馥郁たる香りの中に、初春を迎える夜が白じらと明けようとしている。もはや私の前にはこうした芳香の中に明ける夜ばかりとなったことよ。薄明の浄土の到来を賛嘆し、心穏やかに新たな旅に立つ思いを託した。臨終三吟の絶吟」(『蕪村全集一 発句(尾形仂・森田蘭校注)』)。

 しら梅に明(あく)る夜(よ)ばかりとなりにけり (蕪村)
 聞け春の夜(よる)の月なし梅白し        (抱一) 

 この蕪村と抱一の「白(しら)梅」の、この両句が、ここに確かに相互に響き合っていることを実感する。そして、その背景に、謡曲「葛城」と、この抱一の「月と梅図」をもってくることに、いささかの躊躇も感じない。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その四) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その四 菜の花(抱一の「菜の花図」と「菜の花之句」関連)

菜の花図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「奈の花図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』の「菜の花」の句に次のような句がある。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 

 この句の情景は、どのようなものなのであろうか。とにかく、抱一の句は、其角流の「比喩・洒落・見立て・奇抜・奇計・難解」等々、現代俳句(「写生・写実」を基調とする)の物差しでは計れないような句が多い。
 しかし、江戸時代の俳句(発句)であろうが、現代俳句であろうが、「季題(季語)・定形。切字・リズム・存問(挨拶)・比喩・本句(歌・詩・詞)取り」等々の、基本的な定石というのは、程度の差はあるが、その根っ子は、同根であることは、いささかの変わりはない。
 ここで、同時代(江戸時代中期=「蕪村」、江戸時代後期=「抱一」)の、同一系統(其角流「江戸座」俳諧の流れの「蕪村・抱一」)の、蕪村の同一季題(季語)の句などを、一つの物差しにして、この抱一の句の情景などの背景を探ることとする。

  菜の花や和泉河内へ小商ひ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この「和泉河内」は、現大阪の南部で、当時の「菜種油」の産地である。一面の菜の花畑が、この句の眼目である。抱一の「菜の花や」の「上五『や』切り」でも、「菜種油=一面の菜の花畑」は背後にあることだろう。

  菜の花や壬生の隠れ家誰だれぞ (蕪村 明和六年=一七六九 五十四歳)

 この句の「壬生」は、現京都市中京句で、「壬生忠岑の旧知」である。抱一の句の「道の幅」の「道」も、抱一旧知の「「誰だれ」が棲んでいたのかも知れない。

  菜の花や油乏しき小家がち  (蕪村 安永二年=一七七三 五十八歳)   

 「一面の菜の花畑」は「満地金のごとし」と形容される。その一面の菜の花畑とその菜の花から菜種を取る農家の家は貧しい小家を対比させている。ここには「諷刺」(皮肉・穿ち)がある。抱一の句の「落(おとし)たる」「道の幅」などに、この「穿ち」の視線が注がれている。

  菜の花や月は東に日は西に   (蕪村 安永三年=一七七四 五十九歳) 

 蕪村の傑作句の一つとされているこの句は、「東の野にかぎろひの立つ見えて顧りみすれば月傾きぬ(柿本人麿『万葉集』)の本歌取りの句とされている。しかし、洒落風俳諧に片足を入れている蕪村は、その背後に、「月は東に昴(すばる)は西にいとし殿御(とのご)は真中に」(「山家鳥虫歌・丹後」)の丹後地方の俗謡を利かせていることも。夙に知られている。この句は、蕪村の後を引き継いで夜半亭三世となる高井几董の『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』にも採られており、俳諧撰集『江戸続八百韻』(寛政八年=一七九六、三十六歳時編集・発刊)を擁する抱一も、おそらく、目にしていると解しても、それほど違和感はないであろう。
 ここでは、その『附合(つけあい)てびき蔓(づる)』(几董編著)ではなく、『続明烏』(几董編著)の「菜の花や」(歌仙)の「表(おもて)」の六句を掲げて置きたい。

  菜の花や月は東に日は西に    (蕪村、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく) (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し  (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの     (几董、季語「雪」=冬)

 この「俳諧」(「歌仙」=三十六句からなる「連句」)の一番目の句(発句)を、抱一の句(俳句=発句)で置き換えてみたい。

  菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅 (抱一、季語「菜の花」=春)
   山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)      (樗良、季語「かすみ」=春)
  渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて(几董、「季語「春」=春)
   御国(おくに)がへとはあらぬそらごと  (蕪村、雑=季語なし)
  脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し   (樗良、雑=季語なし)
   蓑着て出(いづ)る雪の明ぼの      (几董、季語「雪」=冬)

 これは、蕪村の発句が、生まれ故郷の「浪華」(「和泉河内」を含む)や現在住んでいる京都(「島原」)辺りの句とするならば、抱一の句は「武蔵」、そして、『軽挙館句藻』に出てくる「千束村(浅草寺北の千束村)に庵むすびて」の「吉原」辺りの句と解したい。
 その上で、当時の抱一に焦点を当てて、これら六句の解説を施して置きたい。

(発句)菜の花や簇(むら)落(おとし)たる道の幅  抱一

 簇(むら)」は、「菜の花の叢(むら・群生)の意に解したい。「道の幅」の「幅」は、「ふち・へり」の方が句意を取りやすい。句意は、「(千束村から吉原に行く)道すがら、その道の両側には、菜の花が、まるで、取り残されたように、群れ咲いている」。

(脇)山もと遠く鷺かすみ行(ゆく)   樗良

 「雪ながら山もと霞む夕べかな(宗祇)/行く水遠く梅匂ふ里(肖白)」(『水無瀬三吟』)を踏まえている。抱一に「菜の花に雲雀図」(「十二ケ月花鳥図・二月」)がある。

(第三)渉(わた)し舟酒債(さかて)貧しく春暮れて  几董

 「詩商人(あきんど)年を貧(むさぼ)る酒債かな」(其角『虚栗』)を踏まえてのものであろう。抱一は、文化三年(一八〇六、四十六歳)の、其角百回忌に際し、「其角肖像百幅」を制作するとの落款(印章)があるほど、其角に私淑していた。

(四)御国(おくに)がへとはあらぬそらごと      蕪村

 抱一は、天明元年(一七八一、二十一歳)に。兄の姫路藩主・忠以に従い上洛し(光格天皇即位の奉賀)、その折り姫路城まで足を伸ばしている。大名家にとっては、「御国替え」というのは、一大事のことであった。

(五)脇差をこしらへたればはや倦(うみ)し     樗良

  寛政九年(一七九七、三十七歳)に出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗る前は、酒井雅楽頭家の藩主に次ぐ、次男の「忠因(ただなお)」がその本名であり、脇差は必携のものであったろう。

 もとより、上記のものはバーチャル(仮想の「そらごと」)のものであるが、町絵師風情の蕪村よりも、風流大名家の一員の抱一の世界に、より多く馴染むような、そんな内容の運びであるということを付記して置きたい。

花鳥図一.jpg

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「一月 梅図に鶯図」「二月 菜花に雲雀図」「三月 桜に雉子図」「四月 牡丹に蝶図」「五月 燕子花に水鶏図」「六月 立葵紫陽花に蜻蛉図」

花鳥図二.jpg

酒井抱一筆「十二ヵ月花鳥図」 絹本著色 十二幅の六幅 各一四〇・〇×五〇・〇
(「宮内庁三の丸尚蔵館」蔵) 右より 「七月 玉蜀黍朝顔に青蛙図」「八月 秋草に螽斯(しゅうし=いなご)図」「九月 菊に小禽図」「十月 柿に小禽図」「十一月 芦に白鷺図」「十二月 檜に啄木鳥図」

【 十二の月に因む植物と鳥や昆虫を組み合わせ、余白ある対角線構図ですっきりかつ隙のない構成で描き出す。いかにも自然だと共感できる姿が選び抜かれ、モチーフ相互の関係も絶妙に作られている。多くの十二ヵ月花鳥図の中で、唯一、終幅に「文政癸未年」(文政六年=一八二三)と年紀があり、抱一六十三歳の作とわかる基準作。抱一が晩年に洗練を究めた花鳥画の到達点であり、伏流となって近現代まで生き続ける江戸琳派様式の金字塔である。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説162(松野知子稿)」)

 この「十二ヵ月花鳥図」は、十二の月に因む花と鳥(虫)とを組み合わせた連作もので、上記の「宮内庁三の丸尚蔵館本」の他に、「畠山記念館本」「出光美術館本」「香雪美術館本」「ブライス・コレクション本」「ファインバーグ・コレクション本」などが現存している。  
これらは、その制作当初はいずれも六曲一双の屏風に貼られていたと推察されている(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。そして、「『十二ヵ月花鳥図』は好評を得たらしく、いくつもの作例があるが、なかには構図に締まりのないものや、緊張感の緩んだ筆致も見られる。雨華庵には多くの弟子を抱えた工房を形成しており、『十二ヵ月花鳥図』のような手のかかる作品の注文に、複数の弟子が分担して関与していた可能性は低くない」と指摘している(岡野「前掲稿」)。
抱一の作品には、最初の弟子(抱一の付き人)の鈴木蠣潭や蠣潭の後継者の鈴木其一などの代筆などか多いことは、夙に知られているところで(『日本絵画の見方(榊原悟著)』)、
この抱一の晩年の頃の『十二ヵ月花鳥図』の連作については、抱一の後継者となる酒井鶯蒲などが深く関わっているのであろう。
 鶯蒲が、抱一、妙華尼の養子になるのは文政元年(一八一八)、抱一、五十八歳、鶯蒲が十二歳の時であった。文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、二十一歳)の抱一の年譜に「鶯蒲とともに扇子を水戸候に献上」とあり、抱一の晩年の頃には、其一以上に、この鶯蒲などの出番が多かったことであろう。
 ここで、抱一の時代(江戸時代)の絵画というのは、チーム(工房など)の共同(協同)
制作などをベースにしており、作者に代わって制作するなどの、いわゆる代筆などにおいても、今よりも寛容の度合いは緩やかなものであったということは理解して置く必要があろう。
 これは、当時の俳諧(俳句・連句)の世界においては、絵画の世界より以上に、チーム(座)をリードする主宰者(宗匠=捌き、助手=執筆)の「選別・推敲・一直(手直し)」などが基本になっており、その作者のオリジナル(独創性など)なものは、逆に排除され、最終的な作品は、個々の作品というよりも、そのチーム(座)の、そのメンバー(連衆)の「総意」のようなものが、それこそ「創意」と同一視されるような世界と言っても、決して、過ちでもなかろう。
 そして、このような、「美術(絵画)と俳諧(俳句・連句)」との接点の上で、とりわけ、抱一の、この『鶯邨画譜』を見ていくと、抱一の世界の底流に流れているもの基本的なものが浮かび上がってくるような思いを深くする。
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その三) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その三 糸桜(抱一の「糸桜と短冊図」と「糸桜之句」関連)

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 この『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」の「短冊」に書かれている句は、抱一句集『屠龍之技』に、次のように前書きを付して収載されている。

   墨子悲絲
 そめやすき人の心やいとざくら

 これは、抱一(俳号・屠龍)が師筋に仰いでいる其角流の「謎句」的な句作りである。そして、抱一に負けず劣らずの其角好きの蕪村にも、次の一句がある。

  恋さまざま願ひの糸も白きより (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 この蕪村の句の季語は「願ひの糸」(七夕の、願いを祈る五色の糸)である。句意は、「七夕の宵に、女子たちが、さまざまな願い事を五色の糸に託しているが、今は無垢の白い糸も、やがて様々な恋模様を経て、一つのいる色に染め上げて行くことだろう。そのことを中国の墨子さんは嘆じているが、恋も人生も、その定めにあがなうことはできないであろう」というようなことであろう。

 蕪村には、もう一句ある。

  梅遠近(おちこち)南(みんなみ)すべく北(きた)すべく
                  (蕪村 安永六年、一七㈦七、六十二歳)

 「梅遠近(おちこち)」の「チ音」、「南(みんなみ)すべく北(きた)すべく」の「ク音」と、リズムの良い句である。句意は、「梅の花が近くにも遠くにも咲いている。さい、南の道を行こうか、それとも、北の道を行こうか、ほとほと困ってしまう。そのことを中国の揚子さんは嘆じているが、そういう逡巡もまた、人間の定めのようなもので、それにあがなうことはできないであろう」というようなことになろう。

 この蕪村の二句は、中国の古典の『蒙求(もうぎゅう)』に出て来る、「墨子悲絲(ぼくしひし)」、「楊朱泣岐(ようしゅきゅうき)」という故事に由来があるものである。
 
 淮南子曰 (えなんじにいわく)
 楊子見逵路而哭之(ようしきろをみてこれをこくす)
 為其可以南可以北(そのもってみなみにすべく、もってきたにすべきがなり)
 墨子見練絲而泣之(ぼくしれんしをみてこれをなく)
 為其可以黄可以黒(そのもってきにすべく、もってくろにすべきがなり)
 高誘曰(こういういわく)
 憫其本同而末異(きほんおなじくして、すえことなるをあわれむなり)

 蕪村は、享保元年(一七一六)の生まれ、抱一は、宝暦十一年(一七六一)の生まれ、蕪村が四十五歳年長である。抱一の俳諧の師の馬場存義は、元禄十六年(一七〇三)生まれ、
蕪村の俳諧の師の早野巴人は、延宝四年(一六七六)生まれで、巴人が亡くなった後の、実質的な巴人俳諧(夜半亭俳諧)の継承者は存義であった。
こと座を同じくする、いわば、兄弟子というような関係にある。
 すなわち、江戸時代中期の「画・俳」二道を究めた蕪村と、江戸時代後期の、これまた「画・俳」二道を究めた抱一とは、「其角・巴人・存義」を介して、こと「俳諧」の世界においては、身内のような関係にあったということになろう。

 ここまで来ると、冒頭の『鶯邨画譜』の「糸桜と短冊図」と、『屠龍之技』の「糸桜之句」については、もはや、付け加えるものもなかろう。
それよりも、抱一関連のもので「蕪村」に関するものは、まず目にすることは出来ないが、「画・俳」二道を究めた同門ともいうべき、「中興俳諧」と「日本南画」の旗手ともいうべき蕪村への、「中興俳諧(芭蕉復古俳諧)と其角俳諧(洒落・粋俳諧)との二道」と「江戸琳派(その創始者)」を目指している抱一の、一つのメッセージと解することも出来るのかも知れない。

(再掲) 「其角・巴人・存義・蕪村・抱一」の世界

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

抱一・其角肖像二.jpg

酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。

(歌仙) 柳ちり (底本『反古ぶすま』 寛延三年以前の作と推定)
 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ     蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月      李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに        百万(旨原)
(以下 略)

(歌仙) 思ふこと (底本『東風流』 宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人       宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫      春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(ねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん  雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)
 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
 そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(『寛保四年宇都宮歳旦帖(蕪村編著)』)

 寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯

(「歳旦三つ物」)
  いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
  かも川の水音にやや春を告げたり
 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱   宰鳥(蕪村の前号)
   神馬(じんめ)しづかに春の白たへ     露鳩
 谷水の泡だつかたは根芹にて          素玉
  (中略)
 名月の根分の芋も雑煮かな           嶺月
  大黒舞の気にも子(ね)の味         宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
  宝引綱(ほうびきづな)もみる喰(くひ)の紅 露長
 のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて   宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
(「歳末」)
  (前略)
 水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり  宰鳥(蕪村の前号)
(「春興」)
 梅が香や能(よき)瓶持(もち)て酒一斗    雁宕(結城)
   (中略)
 逃水(にげみづ)に羽をこく雉子の光哉     大済(下館)
   (中略)
 梅が香や画具(ゑのぐ)のはげる御所車     阿誰(関宿さか井)
   (中略)
 梅が香や隣の娘嫁(か)せし後         潭北(佐久山)
   (後略)
(軸)
 古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら        蕪村(「蕪村」の改号)
(追加) (後略)
(追附) (前略)
  四十のはるを迎(むかへ)て
 七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 存義

 寛保四年(一七四四)、蕪村、二十九歳の時、結城の砂岡雁宕の娘婿である佐藤露鳩の後援を得て宇都宮で歳旦帖を出した。歳旦帖を出したということは俳諧宗匠として一人立ちをしたということである。
 『寛保四年宇都宮歳旦帖』は、紙数九枚(十七頁)の片々たる小冊子であるが、蕪村が編集した最初の俳書であり、また、「蕪村」の号が初めて見える文献として重要な意味を持つ。
 その表紙に記された、「寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯」の「渓霜蕪村」の「渓霜(けいそう)」は、「芭蕉桃青(とうせい)のように、号を二つ重ねたものなのかも知れない。また、「谷(口)蕪村」の「渓」の意味もあるのかも知れない。また、この「霜」は、寛延三年(一七五〇)の「月夜行旅図」の落款に「霜蕪村」とあり、その関連もあるのかも知れない。
 この歳旦帖には、蕪村の句(付句を含む)は五句あるが、それは、上記のとおり、蕪村の前号の「宰鳥」の名で、「歳旦三つ物」の「発句」(「鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱」)・「脇句」(「大黒舞の気にも子(ね)の味」)・「第三」(「のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて」)、「歳末」の句(発句=俳句)「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」の四句、そして、「春興」の軸句(発句=俳句、巻軸句として一番重要な句)の、「蕪村」の号による「古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら」の句である。
 そして、さらに重要なことは、この蕪村のこの「軸」句の後に、「追加」として、「東都(江戸)」俳人、さらに続けて、「追附」として、同じく、「東都(江戸)」の俳人の句を続けて、その「巻末」の句に、存義の「四十のはるを迎(むかへ)て」の前書きのある七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 」の句を以て、この歳旦帖を締め括っているのである。
 すなわち、「蕪村」の改号披露を兼ねての、俳諧宗匠として一人立ちを意味する「(宗匠)立机」披露の初「歳旦帖」を刊行するにあたり、その最高後援者の、お墨付けを与える役として、実質上、亡き夜半亭一世宋阿こと早野巴人の『夜半亭俳諧』を引き継いだ、江戸座の総宗匠格の馬場存義が、この句を蕪村に下賜して、江戸座の俳諧宗匠としての蕪村を認知したということを意味しよう。
 そして、その存義を頂点とする蕪村を巡る先輩格の江戸座の宗匠の面々が、雁宕(結城)・
大済(下館)・ 阿誰(関宿さか井)・潭北(佐久山)・露鳩(宇都宮)等々ということになろう。
 その俳諧宗匠として一人立ちをした、当時、二十九歳の蕪村が、六十二歳と老齢を重ねた安永六年(一七四四)に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」と、当時、十七歳の酒井抱一が、蕪村と関係の深かった、その馬場存義の江戸座俳諧に入門して来るのである。

 これは、「画・俳」の二道を極めた、日本南画の大成者の一人でもある与謝蕪村と、ともすると、「江戸琳派の創始者」として、その「画」道の人としのみに見られがちの酒井抱一が、実は、蕪村と同じ宝井其角に通ずる、江戸座の俳諧宗匠の大立者の馬場存義を介して、「俳」(俳諧=連句・俳句)の世界の人でもあったということと、それに併せ、「浮世絵・狂歌・漢詩・茶道・能」等々に通じた、蕪村以上のディレッタント(多種多用な芸術や学問を趣味として愛好する好事家などを意味する)であることを、思い知るのである。

 ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その二) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その二 尺八(抱一の「尺八図」と「尺八之句」関連)

尺八一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「尺八図」(「早稲田大学図書館」蔵)

 抱一句集『屠龍之技』には、「尺八」の句は見当たらない。酒井抱一俳画集『柳花帖』に、次の一句がある。

14 浴衣図  紫陽花や田の字つくしの濡衣 

 この句は、『屠龍之技』では、「江戸節一曲をきゝて」の前書きが付して収載されている(句形は「紫陽花や田の字盡しの濡ゆかた」)。
 この「江戸節」とは、「江戸浄瑠璃のうち、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)の肥前節、江戸半太夫の半太夫節、十寸見河東(ますみかとう)の河東節の三流」をさしてのもののようであるが、抱一の時代ですると、「河東節」ということになろう。
 それは吉原文化と深い関わりをもつもので、豊後節や常磐津節が人気を博するようになると、河東節は吉原などのお座敷での素浄瑠璃として、江戸通人や富裕層に愛好されるように様変わりしてくる。
 抱一は、酒井雅楽頭家の次男坊で、長兄(忠以)が二代目姫路藩主になり、参勤交代の折りには、忠以の仮養子となり江戸の留守居を仰せつかっている。しかし、抱一、十七歳時に、忠以に、長男忠道が誕生し、抱一の仮養子願いが取り下げられると、酒井家における抱一の立場は微妙となってくる。
 その酒井家における、いわば身の置き所が無いような抱一の二十歳代に、抱一は吉原(台東区千束)を舞台にして、俳諧(馬場存義門)、狂歌(大田南畝・四方側狂歌連)、浮世絵(歌川豊春系)、洒落本(北尾政演=山東京伝画「手拭合」「吾妻曲狂歌文庫」など)等の世界で、「絵に文学に才覚ある酒井家の御曹司」として、それらの世界のスターダムの一角を占めるようになってくる。

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。

三味線と尺八.jpg

葛飾北斎画「三味線と尺八」(「立命館大学」蔵)
https://ja.ukiyo-e.org/source/ritsumei

 これは、抱一と同時代の葛飾北斎の「三味線と尺八」と題する作品の一つである。北斎は、宝暦十年(一七六〇)、武蔵国葛飾(現・東京都墨田区の一角)の百姓の出で、宝暦十一年(一七六一)、神田小川町の酒井雅楽頭家別邸生まれの抱一とは一歳違いだが、両者の境遇は月とスッポンである。
 抱一が、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」(「等覚院殿御一代」)と、美人画を得意とする歌川派とすると、北斎は役者絵を得意とする勝川春章門であるが、寛政六年(一七九四)、三十五歳の頃、その勝川派から破門されている。
 上記の『吾妻曲狂歌文庫』に抱一が登場するのは、天明六年(一七八六)、抱一、二十六歳の頃で、その頃の北斎は、「群馬亭」の号で黄表紙の挿絵などを描いている。
抱一が、上記の北斎が描く「三味線と尺八」の図ですると、この右端の「御大尽」、そして、北斎は、左端の尺八を吹いている「幇間芸人」ということになろう。そして、この御大尽の風貌が、『吾妻曲狂歌文庫』のトップを飾る「尻焼猿人」(抱一)と瓜二つという風情なのである。
 この『吾妻曲狂歌文庫』で「尻焼猿人」を描いたのは、戯作者の雄・山東京伝(狂歌名=身軽折輔)こと浮世絵師・北尾政演(北尾派)その人であり、版元の蔦屋重三郎と手を組んで、黄表紙・洒落本などの世界のスーバースターだったのである。
 しかし、この蔦屋重三郎も山東京伝も、寛政二年(一七九〇)の「寛政の改革」(異学の禁・出版統制強化)により、「手鎖・身上半減の刑」を受け、寛政九年(一七九七)には蔦屋重三郎が亡くなり、山東京伝も厳しい出版統制下の中で、文化十三年(一八一六)に、その五十五年の生涯を閉じている。
 抱一もまた、この「寛政の改革」の余波に晒されることになるが、蔦屋重三郎が亡くなった年に、三十七歳の若さで出家し、西本願寺第十八世文如の弟子となり「等覚院文詮暉真」の法名を名乗ることになる。すなわち、「抱一上人」に様変わりするのである。

抱一上人.jpg

鏑木清方筆「抱一上人」絹本著色/三幅のうち中幅/四〇・五×三五・〇㎝/「永清文庫」蔵/明治四十二年(一九〇九)作
【 鏑木清方(一八㈦八~一九二七)は、随筆中でもよく抱一に触れ、その画風や生き方に共感を示した。三味線をつま弾く抱一を中央に、作画の支度をする遊女と禿を左右に配した三面構成の本図は、まさに清方の思い描いた抱一像。連日吉原に通った抱一の粋人ぶりをよく捉えている。清方はほかに「雨華庵風流」「雨華庵風流下絵」で抱一の肖像を手掛けており、度々抱一像に取り組んだ。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「描かれた抱一像(岡野智子稿)」)

 江戸琳派の創始者・酒井抱一の世界は、まさしく、北尾政演(山東京伝)が描く「尻焼猿人」の有髪の伊達男・抱一と、後代の鏑木清方の描く「等覚院文詮暉真」こと「抱一上人」との、この狭間の世界であるということを思い知る。

(追記) 酒井抱一作詞『江戸鶯』(一冊 文政七年=一八二四 「東京都立中央図書館加賀文庫」蔵)
【 抱一は河東節を好み、その名手でもあったという。自ら新作もし、この「江戸鶯」「青簾春の曙」の作詞のほか、「七草」「秋のぬるで」などの数曲が知られている。平生愛用の河東節三味線で「箱」に「盂東野」と題し、自身の下絵、羊遊斎の蒔絵がある一棹なども有名であった。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説一〇一」(松尾知子稿)」) 
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抱一画集『鶯邨画譜』と抱一句集『屠龍之技』(その一) [『鶯邨画譜』と『屠龍之技』]

その一 冨士(抱一の「冨士之図」と「冨士之句」)

冨士.jpg

 抱一画集の『鶯邨画譜』は、文化十四年(一八一七)、酒井抱一、五十七歳のとき刊行されたもので、生前に刊行された抱一の唯一の作品集である。「序文」は賀茂季鷹、「跋」は中井菫堂、「題詞」は佐原鞠場が草し、「煙霞供養」との自題が付されている。
 収載されている画譜は全二十五図で、次のアドレス(早稲田大学図書館蔵)で、その全容を知ることができる。上記の「冨士」図は、自題の「煙霞供養」の次に出てくる、全二十五図のトップのものである。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi04/chi04_00954/index.html

 抱一句集『屠龍之技(とりょうのぎ)』は、文化九年(一八一二)、抱一、五十二歳のときに自撰した句集で、「序文」は亀田鵬斎、「跋」は、酒井忠実・大田南畝(蜀山人)のものである。刊行は翌年と思われる。
 この系列のものは、今に、下記のアドレスの「日本俳書体系本第14巻」で、その翻刻されたものが収載されているが、それをネット上で閲覧することは出来ないようである。

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001669668-00


 唯一、現時点で、抱一句集としてネット上で閲覧できるものは、下記のアドレスの、『西鶴抱一句集』(国立国会図書館デジタルコレクション)が基本となるものであろう。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

 その『西鶴抱一句集』(国立国会図書館デジタルコレクション)に、次の抱一の「不二(冨士)」の句がある。この句は『屠龍之技』にも収載されている。

名月や筆法居士が霧の不二  抱一

 この「筆法居士」は誰なのか(?)→ これは、ずばり、狩野探幽その人のようである。

冨士二.jpg

https://books.google.co.jp/books?id=3MErFjL-jUMC&pg=PA69&lpg=PA69&dq=%E7%AD%86%E6%B3%95%E5%B1%85%E5%A3%AB&source=bl&ots=Eo_Osu53zH&sig=9wImzRTi7Crz0nhpk65XoqOm_1I&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiXmvbuuJ7dAhVOM94KHYiiDEkQ6AEwAHoECAAQAQ#v=onepage&q=%E7%AD%86%E6%B3%95%E5%B1%85%E5%A3%AB&f=false

 上記は、『日本の絵画の見方』(榊原悟著・角川選書)の、ネット上閲覧の出来るものの一つであるが、まさしく、江戸琳派の創始者・酒井抱一の、この『鶯邨画集』のトップを飾る「冨士」の図は、宗達・光琳の「冨士」図というよりも、狩野派の中枢に君臨し続けていた狩野探幽の、その「不二(冨士)」図を念頭に置いているのかも知れない。
 抱一の「不二(冨士)」図は何点かあるが、次の「富士山に昇龍図」を掲げて置きたい(これは、北斎の絶筆ともいわれている「冨士越龍図」の先行的な作品と解したい)。

https://heritager.com/?p=54251

冨士三.jpg

酒井抱一筆「富士山に昇龍図」一幅 絹本墨画 五三・八×一一一・八㎝ 東京都江戸東京博物館蔵(市ヶ谷浄栄寺伝来)

(追記)
酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図    是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図   さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図     門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図     月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図  紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図     名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図      石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図 はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図    湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図      温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図    長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図      茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図     先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」
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琳派とその周辺(その十二)池田孤邨「隅田川遠望図(酒井抱一賛)」 [琳派とその周辺]

(その十二)池田孤邨筆「隅田川遠望図」(酒井抱一賛)

孤邨・隅田川遠望図.jpg

池田孤邨筆「隅田川遠望図」(酒井抱一賛)一幅 絹本淡彩色 文政九年(一八二六)
五五・五×一〇七・六㎝ 江戸東京博物館蔵
【 抱一は、夕暮れ時の舟中で酒肴を愉しんだ孤邨らの隅田川周遊を、中国北宋の文人・蘇東坡が詠んだ「赤壁賦」に見立てた。自らは参加できなかったものの、気持ちの赴くまま、末尾に「くれぬ間に 月は懸れり 冬木立」の一句を詠じている。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保田佐知恵稿)」)

 池田孤邨が、この隅田川遠望図」を描いた文政九年(一八二六)は、孤邨、二十四歳のときで、抱一は六十六歳になっている。その抱一の賛には、「冨士有り、筑波あり、観音精舎のかねの声は漣波に響き、今戸の瓦やく烟、水鳥の魚鱗鶴翼に飛廻るは、筆頭にも尽かたきを、門人孤邨が一紙のうちに写して」と、隅田川近郊の見どころを一つ一つ丁寧に取り上げて、その趣を巧みに表現した孤邨の画技を褒め称えているようである(「久保田・前掲稿」)。
 そして、その最後に、「くれぬ間に 月は懸れり 冬木立」の一句で、この賛を結んでいる。この二年後に、抱一は亡くなっており、孤邨にとっては、老師・抱一の、この情の細やかな賛は、終生の忘れ得ざるものとなったことであろう。

  くれぬ間に 月は懸かれり 冬木立  抱一

 この抱一の一句は、上記の「隅田川遠望図」上の、右側の孤邨の落款が記載してある、「冬木立と人影」、そして、遠くに「筑波」が見えるあたりを一句にしたのであろう。

広重・筑波.jpg

安藤広重 「名所江戸百景 隅田川水神の森真崎」(満開となった桜の花。遠方に隅田川、筑波山を望む。) (「太田記念美術館」蔵)

(追記一) 抱一の「賛」の全文は次のとおりである。

 是歳丙戌冬十一月桐生の竹渓
 貞助周二の二子をともなひ墨水
 舟を泛夕日の斜ならんとするに
 猶綾瀬に逆のほり舟中使者
 有美酒有網を挙れハ巨□
 細鱗の魚を得陸を招けは
 □□葡萄の酒傍らに奉る
 嗚呼吾都会の楽ミ何そ蘇子か
 赤壁の遊ひに異ならんや
 冨士有筑波有観音精舎の
 かねの聲は漣波に響き 今戸
 の瓦やく烟水鳥の魚鱗鶴翼に
 飛廻るは草頭にも盡
 かたきを門人孤邨か
 一紙のうちに冩して予に
 此遊ひを記せよといふ予
 その日の逍遥に
 もれたるも名残なく
 其意にまかせて
 俳諧の一句を吃く
  くれぬ間に
   月は懸れり
    冬木立
 抱一漫題「雨華菴」(朱文扇印)「文詮」(朱文瓢印) 

 孤邨の落款は、「蓮葊孤邨筆」の署名と「穐信」(朱文重郭印)である。なお、抱一の「賛」中の、「竹渓」は、桐生の「書上(かきあげ)竹渓」(絹の買次商・書上家の次男)で、市川米庵にも学ぶ文化人という。桐生は佐羽淡斎を通じて抱一とは関わりの深いところで、抱一を慕う者が多かったようである。
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説115(岡野智子稿)」)

(追記二) 抱一にも、隅田川と今戸の瓦焼の窯、そして、筑波遠望を描いた屏風絵がある。

酒井抱一筆「隅田川窯場図屏風」(六曲一双) DIC川村美術館蔵

http://houitu.com/houitu1.htm

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琳派とその周辺(その十一)池田孤邨「弁財天・波濤図」 [琳派とその周辺]

(その九)池田孤邨筆「弁財天・波濤図」(三幅対)

孤邨・弁財天二.jpg

池田孤邨筆「弁財天・波濤図」三幅 絹本著色 各九五・七×三二・二㎝ 個人蔵
【 抱一の「妙音天像」を模した弁財天像を中幅に、左右に波濤を配した三幅対。孤邨は慶應二年(一八六六)には没しており、「戌辰春正月」の年紀(戌辰=慶應四年)は後入れの可能性が高い。しかし最晩年の孤邨の卓越した筆致は、波濤図を含め存分に発揮されている。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説271(岡野智子稿)」)

 池田孤邨については、下記のアドレスなどで触れているが、この孤邨「弁財天・波濤図(三幅対)」は、孤邨の最晩年の傑作画の一つであろう。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-15

 文政十一年(一八二はち)に六十八歳で亡くなったときに、其一は三十三歳、孤邨は二十八歳、鶯蒲は二十一歳、そして、田中抱二は十七歳であった。孤邨は、其一に次ぐ抱一門の高弟ということになる。
 孤邨が雨華庵に出入りしていることが確認できるのは、文政六年(一八二三)の、孤邨、二十一歳の頃である。その孤邨は、元治元年(一八六四)、六十二歳のときに、『光琳新撰百図』、その翌年の慶應元年(一八六五)に『抱一上人真蹟鏡』を刊行し、その翌年の慶應二年(一八六六)に、六十六年の生涯を閉じている。

孤邨・抱一上人像.jpg

池田孤邨画「等覚院殿御尊影」(「抱一上人肖像図」・『抱一上人真蹟鏡(上)所収・早稲田大学図書館蔵』)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01266/bunko06_01266_0001/bunko06_01266_0001_p0007.jpg

 上記は孤邨が描く「抱一上人肖像図」である。冒頭の「弁財天・波濤図(三幅対)」は、この肖像図を制作していた頃のものと解したい。

(再掲) http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-14

【  池田孤邨(孤村)   没年:慶応2.2.13(1866.3.29) 生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』 (仲町啓子稿) 】『朝日日本歴史人物事典』

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琳派とその周辺(その十)酒井抱一「紅梅図」 [琳派とその周辺]

(その九)酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 

    難波津の習ひ始やうめの花(第七 かみきぬた)
    うぐひすの遅音笑ふや垣の梅(第七 かみきぬた)

 この一句目の句は、『古今和歌集』仮名序の「おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた」(仁徳天皇を諷した歌)として出てくる「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」(王仁)を踏まえたものであろう。
 この歌は、万葉巻十六の「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」とともに「和歌の父母」とされ、初めて書を習う人の手本とされており、それを踏まえて、この中七の「習ひ始めや」が、抱一の趣向ということになろう。
 この句の「難波津」は、その歌の「難波の港、難波は大阪市及びその付近の古称」の意味ではなく、その歌のを踏まえての「和歌の道・和歌」ということになる。
さらに、この句の下五の「うめの花」も、仮名序の古注の「おほさざきのみかどの、難波津にてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、位につきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし」の、「梅のはな」を踏まえてのものということになろう。 
二句目の句の「うぐひす」は、抱一が、文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えて、その「下谷金杉大塚村」を「鶯邨(村)」と名付け、それを号の一つとしている、その「鶯邨(村)」の「鶯」を指しているのであろう。
この「雨華庵」は、抱一が身請けした小鶯女史(遊女・香川、出家して妙華)と共に過ごした、その抱一と妙華との、終の棲家でもある。この抱一と小鶯女史の、「難波津」(和歌)
の師匠は、抱一と同じく武家出身(江戸町奉行与力)の「国学者・歌人・書家」の加藤千蔭(橘千蔭)ということになろう。
 この加藤千蔭は、享保二十年(一七三五)の生まれ、宝暦十一年(一七六一)の生まれの抱一よりも、二十六歳も年長であるが、抱一の多くの画に賛をしており、抱一の師匠格として大きな影響を与えた一人であろう。この千蔭は、文化五年(一八〇八)に七十三歳で没するが、この千蔭への抱一の追悼句が、『屠龍之技』の「第七 かみきぬた」に、次のとおり収載されている。

    橘千蔭身まかりける。断琴の友
    なりければ
  から錦やまとにも見ぬ鳥の影 (第七 かみきぬた)

 上五の「から錦」(唐錦)が晩秋から初冬にかけての季語である。中七の「やまとにも見ぬ」の「やまと」は「倭・大和」で、「唐錦」を受けての「倭」(日本国)の意と「江戸」に対する「大和」(「奈良・京都」)の意を兼ねてのもので、「大和」の「公家文化」にも匹敵する「和歌・書」の第一人者という意味合いも込められているであろう。
 京都出身で、主に大阪を活躍の場とした、抱一と同時代の画家・中村芳中が、享和二年(一八〇二)に江戸で刊行した『光琳画譜』の「序」を、加藤千蔭が書いており、抱一と芳中とは、加藤千蔭などを介して、何らかの接点はあったことであろう。
 そして、この中村芳中などの接点からして、抱一の、京都の尾形光琳や与謝蕪村(大阪出身)との接点も見え隠れしている雰囲気を漂わせている。




紅梅図.jpg

酒井抱一筆「紅梅図」(小鸞女史賛) 一幅 文化七年(一八一〇)作 細見美術館蔵
絹本墨画淡彩 九五・九×三五・九㎝
【 抱一と小鸞女史は、抱一の絵や版本に小鸞が題字を寄せるなど(『花濺涙帖』「妙音天像」)、いくつかの競演の場を楽しんでいた。小鸞は漢詩や俳句、書を得意としたらしく、その教養の高さが抱一の厚い信頼を得ていたのである。
小鸞女史は吉原大文字楼の香川と伝え、身請けの時期は明らかでないが、遅くとも文化前期には抱一と暮らしをともにしていた。酒井家では表向き御付女中の春條(はるえ)として処遇した。文化十四年(一八一七)には出家して、妙華(みょうげ)と称した。妙華とは「天雨妙華」に由来し、『大無量寿経』に基づく抱一の「雨華」と同じ出典である。翌年には彼女の願いで養子鶯蒲を迎える。小鸞は知性で抱一の期待によく応えるとともに、天保八年(一八三七)に没するまで、抱一亡きあとの雨華庵を鶯蒲を見守りながら保持し、雨華庵の存続にも尽力した。
本図は文化六年(一八〇九)末に下谷金杉大塚村に庵(後に雨華庵と称す)を構えてから初の、記念すべき新年に描かれた二人の書き初め。抱一が紅梅を、小鸞が漢詩を記している。抱一の「庚午新春写 黄鶯邨中 暉真」の署名と印章「軽擧道人」(朱文重郭方印)は文化中期に特徴的な踊るような書体である。
「黄鶯」は高麗鶯の異名。また、「黄鶯睨睆(おうこうけいかん)」では二十四節気の立春の次候で、早い春の訪れを鶯が告げる意を示す。抱一は大塚に転居し辺りに鶯が多いことから「鶯邨(村)」と号し、文化十四年(一八一七)末に「雨華庵」の扁額を甥の忠実に掲げてもらう頃までこの号を愛用した。
梅の古木は途中で折れているが、その根元近くからは新たな若い枝が晴れ晴れと伸びている。紅梅はほんのりと赤く、蕊は金で先端には緑を点じる。老いた木の洞は墨を滲ませてまた擦筆を用いて表わし、その洞越しに見える若い枝は、小さな枝先のひとつひとつまで新たな生命力に溢れている。抱一五十歳の新春にして味わう穏やかな喜びに満ちており、老いゆく姿と新たな芽吹きの組み合わせは晩年の「白蓮図」に繋がるだろう。
「御寶器明細簿」の「村雨松風」に続く「抱一君 梅花画賛 小堅」が本図にあたると思われ、酒井家でプライベートな作として秘蔵されてきたと思われる。
(賛)
「竹斎」(朱文楕円印)
行過野逕渡渓橋
踏雪相求不憚労
何處蔵春々不見惟 
聞風裡暗香瓢
 小鸞女史謹題「粟氏小鸞」(白文方印)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説96(岡野智子稿)」)

 この小鸞女史の漢詩の意などは、次のようなものであろう。

 行過野逕渡渓橋(野逕ヲ過ギ行キ渓橋ヲ渡リ → 野ヲ過ギ橋ヲ渡リ)
踏雪相求不憚労(相イ求メ雪踏ムモ労ヲ憚ラズ → 雪ノ径二人ナラ労ハ厭ワズ) 
何處蔵春々不見惟(何處ニ春々蔵スモ惟イ見ラレズ → 春ガ何処カソハ知ラズ) 
聞風裡暗香瓢(暗裡ノ風ニ聞ク瓢ノ香リ → 暗闇ノ梅ノ香ヲ風ガ知ラスヤ)

妙音天像一.jpg

酒井抱一筆「妙音天像」一幅 文化十一年(一八一四) 個人蔵
絹本著色 一三三・〇×六一・五㎝
【 抱一は巳年生まれで江ノ島詣でを頻繁にするなど、技芸の女神、妙音天(弁財天)への信仰は厚かった。本図は、鎌倉の鶴ケ丘八幡宮の什物で光明皇后筆と伝える妙音天像の模写を元に、極彩色で特に入念に描いた堂々たる大幅である。周囲に波濤文様を描くが、金泥と墨の線は均質としないところに味もある。上部の題「海印発光」は小鸞女史の書で、文字や額の意匠は全て金の厚い盛り上げで仕上げられている。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説142(松尾知子稿)」)

 先の「紅梅図」(小鸞女史賛)を描いたのが、文化七年(一八一〇)、抱一、五十歳のとき、そして、この「妙音天像」(小鸞女史題字)を描いたのは、文化十一年(一八一四)、五十四歳のときである。 
 この前年の文化十年(一八一三)に、十八歳になった鈴木其一が抱一の内弟子となる。そして、小鸞女史(御付女中・春條)が剃髪して妙華尼と名乗り、また、庵居を「雨華庵」と称したのが、文化十四年(一八一七)、抱一、五十八歳のときである。
この年に、鈴木蠣潭が、二十六歳の若さで急逝し、同時に、其一が、抱一の媒介で、蠣潭の姉(りょう)と結婚し、鈴木家を継ぐとともに、蠣潭に代わり、其一が抱一の付人となっている。
 こうして見て来ると、小鸞女史(妙華尼)と其一とは、五十歳代の抱一の、文字通り、最側近であったことが了知されてくる。これに、まだ、健在であった、蠣潭を加え、抱一の画業の背後には、小鸞女史(妙華尼)・蠣潭・其一の、この三人が最大の支援者であったということになる。
 この抱一の「妙音天像」の、その猫表層装に描かれた「波濤図(文様)」は、おそらく、蠣潭と其一とが担当し、そして、金襴の中の朱を背景としての金文字の題字「海印発行」の四字は、この「妙音天像」の化身のような、小鸞女史(遊女・香川、妙華尼)が揮毫し、ここに「無類一品」の抱一仏画が誕生したことになる。
 この「無類一品」は、其一の後継者・守一の、次の箱書きに因って命名されたものである。

【 守一の次のような箱書がある。
「此妙音天之図者光明皇后之御筆
鶴ケ岡八幡宮什物上人為臨模処
之無類一品之真蹟也
庭栢子守一誌」
なお、焼けた痕のある本図の原寸下絵、小鸞女史の題字下書も伝わっていることも報告しておく。雨華庵に伝わり火災で焼け残った文書であろうか。谷文晁にも同図があることは知られるが(八百善伝来)、波濤文様は描かれていない。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「作品解説142(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」に出てくる「庭栢子守一」は、鈴木其一の後継者、鈴木守一である。抱一の実質的な後継者は、其一であるが、抱一在世中から雨華庵の近傍に住み、「雨華庵」は、小鸞女史(妙華尼)の養子となって、十一歳の頃に雨華庵に入り、抱一と生活を共にしている鶯蒲が継承することとなる。
 「雨華庵」というのは、抱一工房(画室)であるとともに、仏事を営む場(「唯心寺」)でもあり、大名家の一員という高位の身分を離れ、出家して市井の絵師として、その後半生を歩んでいる抱一にとっては、仏画制作というのは、大きなウェートを占めているものであった。
 そして、其一自身、抱一没後の翌年、文政十二年(一八二九)に三十四歳にして剃髪して、抱一の内妻であった小鸞女史(妙華尼)とともに、雨華庵(唯心寺)二世鶯蒲をサポートし、其一もまた、多くの仏画制作に携わっている。
 そして、その其一の継承者の守一が、この「妙音天像」を、「之無類一品之真蹟也心」と箱書きをしている。まさに、これは、「雨華庵(唯心寺)」の秘宝のような位置を示すものなのであろう。
 この「妙音天像」の上部に、小鸞女史(妙華尼)が揮毫した「海印発光」の四字は、今に燦然と輝いている。

(参考一)酒井鶯蒲(さかいほう)
文化5年(1808年) - 天保12年7月23日(1841年9月8日)
江戸時代後期の江戸琳派の絵師。酒井抱一の弟子で、後に養子となり雨華庵2世を継いだ。通称八十丸。名は詮真、号は伴清、獅現、雨華庵、獅子丸など。
 築地本願寺の末寺である市ヶ谷浄栄寺住職、香阪壽徴(雪仙)の次男として生まれる。抱一が吉原で身請し、事実上の妻となっていた小鶯(妙華尼)の願いで、文政元年(1818年)11歳で雨華庵に入る。『古画備考』には文政10年(1827年)国学者檜山坦斎からの聞き書きとして、鶯蒲が抱一のことを「御父様」と呼ぶことを姫路酒井家から咎められたこと、しかし抱一も鶯蒲をよく愛したこと、水戸公に会った折抱一と共に席画などをした事、書を良くし、茶道を好んだことなどが記されている。鶯蒲が描いた「浄土曼荼羅図」(個人蔵)には、抱一の箱書きや手紙が付属し、鶯蒲に世話をやく抱一の様子がわかる。
鶯蒲は早世しており遺作は少ないとされたが、近年その印象を覆す質・量の作品が発見されており、雨華庵を託されるだけの力量を持った絵師だったことが確認された。作風は基本的に抱一に倣ったもので、父子合作も多いが、天井画や絵馬、扇・団扇や極小の絵巻といった工芸的作品、版本下絵や俳諧摺物など多方面で絵筆を揮っている。雨華庵は絵画工房ではあるものの、基本的には仏事を行う場所であるためか、早くから仏画の修練を積んでいる。しかし、天保12年(1841年)34歳で早世。戒名は依心院詮真法師 唯信寺鶯蒲。墓所は築地本願寺。鶯蒲に子はなく、築地善林寺の長子を養子とし雨華庵3世酒井鶯一として継がせた。他の弟子に、斎藤一蒲など。(wiki)

(参考二)鈴木守一(すずきしゅういつ)
 文政六年(一八二三)~明治二十二年(一八八九)
幕末・明治の画家。江戸生。画家鈴木其一の長子。名は元重、字は子英、通称は重五郎、別号に庭柏子、露青、静々。父其一に学んで光淋派の画を能くする。雨華庵が二世鶯蒲、三世鶯一、四世道一、五世唯一と継承されていく一方で、鈴木家では其一の代に多くの弟子を抱え、其一派ともいうべき一派となった。守一は、その継承者である。明治22年(1889)歿、67才。
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