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蕪村の絵文字(その七) [蕪村書簡]

(その七)

田福・月渓・百池.jpg

蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)・『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』

 「時雨三老翁図」の左端の後ろ向きの人物が百池で、その上の百池の句(百池直筆)は「西山の棚曇よりしぐれ哉」、真ん中の人物が月渓で、その上の月渓の句(月渓直筆)は「其夢のかれ野も匂ふ小春かな」、そして、右端の人物は田福で、その上の田福の句(田福直筆)は「薄月夜山は霽(しぐれ)の影法師」である。

 田福(川田氏)は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、蕪村門の長老格である。田福の川田家と百池の寺村家とは姻戚関係にあり、京都五条室町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。俳諧のほか、謡曲・蹴鞠・絵画をよくし、「識度超越・百事を解し・器物の鑑賞に長じていた」(川田祐作居士遺愛碣)と、超一流の教養人であったのであろう。
 月渓(松村氏)は、宝暦二年(一七五二)に京都堺町通四条下ルで生まれ、松村家は代々金座の重役で、月渓も若くして金座の平役を勤めている。後に、明和末年(一七七一)より画・俳共に蕪村に師事した。金座の廃止、妻と父の不慮の死などに遭遇し、天明元年(一七八一)より摂津池田に移り、田福の庇護を受けた。蕪村の信頼は厚く、「篤実の君子」「画には天授の才有之」などの蕪村が月渓を評した書簡が残されている。この上記の剃髪前の大たぶさを結った眉の太い月渓の風姿は、摂津池田に移り、田福の庇護を受けていた頃の雰囲気で無くもない(剃髪前の月渓像は唯一、この「時雨三老翁像」のみである)。
 百池(寺村氏)は、寛延元年(一七四八)に、京都河原町四条上ルの糸物問屋「堺屋」に生まれ、父は巴人門の酒白窓三貫、二代にわたり与謝蕪村に師事した。蕪村の百池に対する信頼はあつく、多くの百池宛書簡が伝わっている。他方、加藤暁台一派とも親しく、蕪村と暁台交友の接点ともなっている。俳諧のほかに、画を円山応挙に、茶を藪内比老斎に学んだ。
 
 この「時雨三老翁図」の左に「右 夜半亭蕪村翁戯画 門生百池證 印」の端書が書せられている。この蕪村戯画は、蕪村から百池に与えられ、百池が、自分の句を自書し、田福と月渓に、それぞれ句を自書して頂いたものなのであろう。
 蕪村は、田福と月渓の二人には、その横顔を描いて、百池だけは頭巾を被っての後ろ姿だけを描いたのは、これも蕪村の「抜け」(省略)的な俳諧化的な趣向なのであろう。しかし、この百池の後ろ姿だけを見ても、百池が家業にも俳諧にも、若くして棟梁的な雰囲気を漂わせているのは、やはり、蕪村の手練の為せる技なのであろう。

 さて、この百池の句が、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡に関連する、百池宛士朗書簡(安永七年十一月八日付)に記載するところの、次の発句であることが面白い。
 すなわち、この百池の発句の「哉」を推敲するように指示した暁台とのやり取りで治定した「西山のたな曇りより夕しぐれ」ではなく、蕪村が、この「哉」で良しとする、その句形のままに、蕪村の戯画に、百池が自薦句として自書しているところに興味が惹かれる。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

蕪村の絵文字(その六) [蕪村書簡]

(その六)

暁台警戒1.jpg
『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一六 あらやかましのはいかいせんぎやな」

 『蕪村の手紙(村松友次著)』では、安永七年(一七七八)十一月十六日付け百池宛ての書簡としているが(上記の西暦=一七五一は誤記)、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「暁台・士朗の冬期上洛の年と考え、安永七年と推定」としている。

 また、この書簡は、暁台(百池宛二通)と士朗(百池宛一通)の書簡、定雅の由来書、そして、蕪村筆の「時雨三老翁図」(田福・月渓・百池が時雨の中に立つ像を描き、各人が自筆で句を賛したもの)と共に一軸に合装してある(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では「九七百池宛書簡」「参考資料一定雅由来書」「参考資料二百池宛暁台書簡」「参考資料三百池宛士朗書簡」「参考資料四百池宛暁台書簡」とその全容が収載されている)。

 さて、冒頭の百池宛蕪村書簡は、十一月十六日付け書簡の一部分なのであるが、その書簡中の「所詮、尾(び=尾張の意)と愚老(蕪村)とハ俳風少々相違有之」の「尾(び=尾張の意)」とは「尾張の加藤暁台」を指している。

 さらに、その書簡の中ほどに、「あらやかましのはいかいせんぎやな」(ああやかましい俳諧詮議やな)と、暁台は小うるさく理屈をこねくり回しているとの文言が出て来る。

 この書簡関連の経過は概略次のようなものである。

一 百池と士朗とが文音(手紙のやり取り)で連句を巻くことになり、発句・脇・第三が次のようなものであった。

発句 西山の棚曇りより時雨哉    百池
脇   火棚持出る活草の上     士朗
第三 雀百干飯の中をわたり来て   士朗

二 士朗より、この流れの書簡が来て、そこに、この発句の「哉」留めが、暁台師匠より「まずい」ということで、別途連絡があるということであった。

三 追っ付け、暁台から書簡があって、この発句では「棚曇り・より(方向のより)」の「から」の意に取れず、「棚曇り・より(比較の「より」)・時雨哉(時雨の方が良い)」ということになり、この「哉」を推敲するように指示があった。

四 それで、百池が蕪村の意見を求めたものの、蕪村の返信が上記の書簡なのである。そこで、蕪村は、百池に、次のようなことを伝えるのである。

1 蕪村俳諧と暁台俳諧とは、そもそも俳風が相違する。

2 暁台俳諧は、理屈の俳諧で、そういう指導があったら、「料簡次第に御直し」して置きなさい。

3 「西山の棚曇りより時雨来ぬ」などと直したら、これは「くそ(糞)のごとくニ候」で、「哉」の方が「留まり候事也」だが、「所詮とやかくと理屈をこるねほどの句ニても無之候」と突き放している。

4 しかし、理屈屋の暁台に、こんなことを伝えたら、「とんでもない」ことになるから、他言は「決して御無用」と念を押している。

五 最終的には、暁台と百池とのやり取りがあって、「西山のたな曇りより夕しぐれ」で、暁台の「夕字千金ニ御座候」と、決着するが、蕪村は、武家出身の体面を重んずる業俳(俳諧を業としている)の暁台の本質を見抜いていて、「面従腹背」の姿勢を貫いているのである。

 この蕪村と暁台とが、「芭蕉に帰れ」を旗印とした安永・天明時代の「中興俳諧再興」の数多き諸家の中でも二大支柱とされるのが常であるが、「暁台は遊女の風なり。人に思はるゝの姿をつくしたれと(ど)も、人の思ふ実情薄し」(『無孔笛・鈴木道彦編』)という評価は、蕪村の上記の書簡の評価と重なるものがあろう。

田福・月渓・百池.jpg
蕪村筆「時雨三老翁図」(左より「百池・月渓・田福」)=書簡と合装して一軸となっている。 

蕪村の絵文字(その五) [蕪村書簡]

(その五)
暁台宛て書簡.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「安永七年十月十一日 暁台・士朗宛書簡」(名古屋市博物館蔵)

  この書簡の内容は、以下のようなことである。

一 名古屋俳諧の巨匠・暁台が、士朗・閭毛(りょうもう)を伴って、安永七年(一七七八)十月に上洛するが、慌ただしく帰国する。その早々の帰国は何か気に障るようなことがあったのかと一抹の懸念を伝えている。
二 蕪村門の「道立・我則・月居・維駒」が亭主役になって歌仙を巻く準備していたが、それが出来なくて心残りである。
三 士朗注文の絵を揮毫したこと。また、暁台の庵名の「龍門」の額字が出来たこと。
三 暁台が仲介役になっている名古屋の富商達の依頼品も近日中に揮毫すること。「おくのほそ道」画巻を完成させて近々送付すること。
四 此の書簡は、暁台と士朗のお二人宛てになっているが、閭毛にも御伝声をお願いしたい。
五 日付は、「十月十一日」(安永七年は推定)。
六 宛名は、「暮雨(暁台の別号)主盟(同盟の主宰者)・士朗国手(医者の尊称)」。
七 蕪村は、次の二句を文末に記して、暁台と士朗の意見を徴している。
    茶の花や石をめぐりて道を取(とる)
    道を取(とり)て石をめぐればつゝじ(躑躅)かな
八 その後に、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画が描かれている。

 この戯画中の、「朱樹台」は士朗の別号で、真ん中の人物が士朗であろう。その左の女性と肩を組んでいるのは暁台で、「ヨウ こちのこちの カウモ有(アロ)ウ 尾張名古家(屋)は 士朗(城)でもつ」は、士朗と「口合」(洒落・語呂合わせ)をしていて、「名古屋の暁台俳諧は『士朗』で持っている」というような意であろう。
 真ん中の人物の士朗が、「朱樹台(士朗の別号)を已来(以来)やくたい(「益体も無い遊びに熱中する」の「益体」)と改メマショウ」と、駄洒落を連発して、酒宴を盛り上げている。
 この「久村(暁台の別姓)キヤウトイ キヤウトイ」は、その士朗を見て、「キヤウトイ(気疎し=きやうとし=きやうとい=「えらい・けなげだ」)・キヤウトイ」と名古屋弁で暁台が囃しているのであろう。
 さて、右端の人物は、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」の文言から、「書簡一九〇に蕪村が歯の痛みに悩んだ記事がある。この戯画の人物は蕪村か」(頭注)と、蕪村としているのだが(『蕪村全集五(三〇四頁)』、これは蕪村ではなく、この時の暁台・士朗と一緒に上洛した閭毛であろう。

 安永七年(一七七八)当時の蕪村は、六十三歳、京都俳壇の大宗匠且つ文人画の大家(この年に最晩年の栄光の画号「謝寅」を使い始める)で名を轟かせている、「画・俳」両道の世界では、最右翼に位置していたと言っても過言でなかろう。
 そして、名古屋俳諧を牛耳っている加藤暁台は、京都俳壇・画壇で名を馳せている与謝蕪村とでは、年齢にして、十六歳も、蕪村が年長ということになる。また、江戸俳壇と京都俳壇の狭間に位置する名古屋俳壇は、まだまだ、新興勢力ということになろう。
 ただ、暁台は尾張藩の武家出身で、諸国を遊歴して、江戸の蓼太(大島氏)と共に門人の数などからすると、蕪村門よりも大きな集団を成していたようである。
 その尾張の暁台門の筆頭が、士朗(井上氏)で、年齢的には、暁台より十歳程度年下である。閭毛については詳細不明だが、士朗に次ぐ暁台門人ということになろう。
 この、上記の「蕪村写於雪楼中」の落款のある蕪村の戯画は、京都俳壇の蕪村と蕪村門の面々(この書簡中にその名がある「道立・我則・月居・維駒」、後に、暁台と親しくなる百池などの面々)の前で、名古屋俳壇の盟主暁台とその高弟の士朗・閭毛が踊りを披露しているのであろう。
 そして、この三人の主役は暁台で、士朗と閭毛は、その師匠の太鼓持ちのような引き立て役を演じている。この酒席の最長老の蕪村が、この踊りの列に加わり、年下の暁台の太鼓持ちのようになって、暁台に媚びているような踊りを披露することは有り得ないことであろう。
 問題は、この右端の閭毛と思われる人物の上の「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」であるが、これは、閭毛の発言と取るのが自然であろう。また、蕪村の発言と取って、この時の閭毛の踊りの恰好や仕草が、「歯の痛(いたみ)も とんと忘れた」ほど面白かったとする解もあろう。
 ちなみに、この暁台と肩を組んでいる女性は、「雪楼」こと祇園「富永楼」の女将「お雪」さんの風姿なのかも知れない。


蕪村の絵文字(その四) [蕪村書簡]

(その四)

ふくえん.jpg
『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「二三三 ふくえん宛(十月十五日付)

 この図柄の女性は、表書きに、「十月五日 ふくえんさま ぶそん」とあり、蕪村一門の行き付けの「ふくえん(伏渕)」の女将宛てのものなのであろう。この「日付け」が面白く、この書状は、「十月五日」に書かれたものであるが、この画は、「廿七日夜」に書かれているのである。
 すなわち、十月五日、この文面にあるとおり、「百池・佳棠」と「伏渕」で書状のとおりの「飲み会」となり、その折、その飲み会のお知らせの十五日付けの書状に、宴の半ばにて、その伏渕の女将は、蕪村に画を描くように懇請したのであろう。
 その宴席(十五日)では、蕪村は即座に描かずに、その書状を持ち帰り、「廿七日夜」に、この画を描いて、女将に差し上げたというのが、この「絵」付きの「書簡」の背景ということになる。
 この「廿七日夜」に描いた絵の脇に、「ふくえん/おはぐろつぼへてつきうのおれを入(いれ)るところ」と添書きがしてある。
 この「おはぐろつぼ」は「お歯黒壺」、「てつきう」は「鉄灸」、「おれ」は「折れ」を平仮名で書いている。「ふくえん(伏渕)」の女将は「お歯黒」の美人だったのであろう。

蕪村の手紙1.jpg

原書簡の蕪村の筆跡(部分)=『蕪村の手紙(村松友次著)』(表紙画より)=柿衛文庫蔵


蕪村の絵文字(その三) [蕪村書簡]

(その三)

絵文字.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「四一明和九年一月四日 無宛名」

 書簡の冒頭に、この謎めいた絵文字が出て来る。この右上に書いてある文言は「わたしはお前の兄さんのむすめでござんす」で、左下の文言は、「これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな」と書いてある。
 そして、書簡の出だしに、「『一(わたしはお前の兄さんのむすめでござんす)』の『二(これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな)』の御慶、めでたく申納候。御家内様御揃御平安被成御越年、奉賀候」と続くのである。
 その書簡の末尾には、次の「歳暮」の句が出て来る。

   歳暮
  張子房と云(いへ)る題を探りて
 石公(せきこう)へ五百目戻すとし(年)のくれ(くれ) 蕪村

 この句は、『蕪村全集一 発句(八三六)』に「題 沓(くつ)」で収載されている。句意は、「年末の借銭を返すのに、張良が石公に沓の片方を拾って戻したのに倣い、半分を返して済ますことにしよう。故事の俳諧化」とある。
 この句意を得て、この書簡は、「歳暮(年末)・歳旦(新年)」の挨拶の書簡ということと、やはり、「歳暮の借銭返し」に関連するものという背景が浮かび上がっている。
 『蕪村全集五 書簡』では、「冒頭の絵文字は解読できない」(頭注)とあるのだが、この書簡は、いわゆる、「判じ物」(当時流行していた「絵」を見て「答」を探る「謎々遊び」)のようである。
 そのヒントは、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」にあるようである。

絵文字2.jpg
『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」

 すなわち、この書簡の冒頭の「絵文字」(謎々は?=『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』)の、その答えは、この書簡の末尾の「絵文字」(『六右書簡添句挿絵(答)』)ということになる。

蕪村の絵文字(その二) [蕪村書簡]

(その二)

節季.jpg
『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「一八九 佳棠宛(十二月二十七日)・年代不詳」

 この図柄(絵文字というより素描)は、浄瑠璃「ひらがな盛衰記」第四段、傾城梅ケ枝が、「ア、金がほしいなアー」と手水鉢を無間の鐘に見立てて、柄杓で打てば、「其の金ここに」と、小判三百両が二階の障子の内から、ぱらりと投げ出される。その梅ケ枝の身振りとか(脚注一)。
 書簡の内容は、「此の節季」の「節季」(十二月の年末)に関してのものである。その年末に、「けふはあまりのことに手水鉢にむかい、かゝる身ぶりをいたし候得共、『其の金ここに』、といふ人なきを恨み候」と、新しい年を迎える金がないということと思いしや、「されども此の雪、只も見過ごしがたく候」と、年末の忙しい時に、折りからの雪を見て、「雪見酒」の宴会をやりたいという文面のようである。
 場所は、「二軒茶や中村やへと出かけ可申候」というのである。嵐山は三軒茶屋だが、こちらは、祇園南楼門前の二軒茶屋、東を中村屋、西を藤屋というとか(脚注二)、その中村屋(祇園豆腐が名高いとか)を、御指名している。
 この蕪村書簡の宛名は、「佳棠福人」とある。この「佳棠」は、先(その一)に触れた、書肆田中汲古堂のこと「佳棠」大檀那であり、「福人」という敬称は、「雪見酒の金主を頼む故」のものとか(脚注三)。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、その書簡にある図柄(素描)は、「蕪村」その人の風姿なのであるが、当時の蕪村は、明和八年(一七七一)の歳旦帖『明和辛卯春』に、「浪花の鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子」らの俳優連が、それぞれの句を寄せているほどの、その俳優連の熱烈なファンの最たるものだったのである。
 その芝居好きの蕪村の最も良き相方が、この書簡の宛名にある「佳棠」その人である。

 ちなみに、「ひらがな盛衰記」第四段の傾城梅ケ枝の「あらすじ」は次のとおりである。

「勘当された源太と千鳥のその後の運命を綴ったのが四段目の「辻法印」「神崎揚屋」である。源太を養うため千鳥は神崎の廓に身を沈め、梅ヶ枝と名乗る遊女になった。折しも一の谷で合戦が起こり、源太は梅ヶ枝に預けていた産衣の鎧を取りにくる。しかし梅ヶ枝は、源太の揚代を作るため、鎧を質に入れてしまっていた。百計尽きた梅ヶ枝は、小夜の中山の無間の鐘の言い伝えを思い出し、庭の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打とうとした。その時二階から質受けに必要な三百両の金が降ってきた。客に化けていた母延寿の、思いがけない情の金であった。」

傾城梅ケ枝.jpg
[左から]傾城梅ヶ枝(中村福助)、梶原源太景季(中村信二郎) 平成15年9月歌舞伎座


蕪村の絵文字(その一) [蕪村書簡]

(その一)

八半.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。
  
  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。

 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。

 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。

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蕪村の花押(その七の二) [蕪村と呉春]

蕪村の花押(その七の二)

蕪村像.jpg
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg
「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)


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蕪村の花押(その七の一) [蕪村と呉春]

蕪村の花押(その七の一)

「老なりし」合作画賛.jpg
『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「『老なりし』月渓合作賛=D-2」

 ここに出て来る蕪村の賛は次の通りである(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」に因る)。

  老なりし鵜飼ことしは見えぬかな  紫狐庵(花押)

 すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也。右の句に此(この)画はとり合(あは)ず候。此画にて右の句のあはれ(哀れ)を失ひ、むげ(無下)のことにて候。か様(やう)句には、只(ただ)篝(かがり)などをたき(焼き)すてたる光景、しかる(然る)べく候。

  これは門人月渓に申(まうし)たることを、直ニ其(その)席にて書(かき)つけま  
  い(ゐ)らせ候。かゝる心得は万事にわたることにて候。
 乙ふさ(総)子                    蕪村

(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」)

 上記の「月渓画・蕪村賛(乙総宛て書簡)」は、冒頭の『蕪村全集六 絵画・遺墨』(『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「参考図二『老なりし』月渓合作賛=D-1」)の通りに収録されていて、そこでは「『老なりし』月渓合作賛=D-2」(一幅、一〇六・三×二八・二cm、 款、「紫狐庵」(花押)、印、なし 賛=上記と同じ)の、月渓と蕪村の合作画賛となっている。

 しかし、これは、単純な「月渓・蕪村合作画賛」なのではない。これは、蕪村の、夜半亭社中(ここでは、月渓と乙総の二人)への、賛にある「絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也」の、その「画者の心得」を具体的に示したものなのである。

 すなわち、この蕪村・月渓合作の、この画賛は、まず、蕪村が紫狐庵の署名で、「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」という句を書き、それに、蕪村常用の花押を書いて、この句に相応しい「絵をかく」ように、門人の月渓に命じたのである。
 何故、紫狐庵の署名にしたかというと、この句は、安永三年(一七七四)四月十七日の紫狐庵での句会のもので、その紫狐庵の庵号で署名したのであろう。
 その蕪村の指示を受け、月渓は大きな魚籠と数匹の鮎を描いて、師の蕪村に差し出したところ、「此の句に此の画はとり合はず(釣り合わない)、此の画にては此の句の哀れ(情趣)を失ふ、無下(甚だ拙い)也」と酷評され、「か様(やう=よう)の句には、只(あっさりと)鵜飼をする篝火などの光景が、然るべし(相応しい)」と諭され、画者の心得としてメモを取っておくように指導されたのである。
 後日、蕪村は、この蕪村・月渓合作の画賛の左上に、月渓に指導したことを書面に認め、その書簡付きの合作画賛を、但馬(兵庫県)出石の門人、乙総宛てに、送ったというのが、この合作画賛の背景ということになる。
 この乙総は、蕪村門の但馬の代表的な俳人、霞夫(芦田氏)の弟で、霞夫は、醸造業を営み、別号に馬圃・如々庵などと称した。この霞夫と乙総は、蕪村書簡にしばしば出て来る、蕪村と親しい俳人で且つ蕪村の支援者でもあった。

 この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」の賛中の「画者のこゝろえ(心得)」というのは、主として「俳画の心得」であって、この「俳画」は、蕪村の言葉ですると、「はいかい(俳諧)物の草画」ということになる。

 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。

 さて、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」で、蕪村が月渓や乙総に伝えようとしたのは、俳諧(連句)用語ですると、「余情付(よじょうづけ)」(前句《賛》の余韻・余情が付句《絵》)のそれと匂い合って、情感の交流が感じられるような付け方《賛に対する絵の描き方》)のような「賛と絵との有り様」を目指すべきであるということなのであろう。
 蕪村が俳諧の道に入ったのは、元文二年(一七賛七)、二十二歳の頃で、爾来、俳諧師としての修業は、画業に専念してからも、これを怠りにはせず、明和七年(一七七〇)、五十五歳の時に、夜半亭二世(夜半亭俳諧=江戸座の其角門の早野巴人を祖とする俳諧)を継承して、芭蕉の次の時代の中興俳諧の一方の雄なのである。
 まさに、「はいかい(俳諧)物之草画(大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画)」においては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)という蕪村の自負は、決して独り善がりのものではなく、いや、俳画というのは蕪村から始まると極言しても差し支えなかろう。
 この俳画第一人者の蕪村が、これはという門人の月渓や乙総に、その「俳画の心得」を伝授しようとしているのが、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」なのである。
 中でも、蕪村の月渓への期待というのは、「此(この)月渓と申(まうす)者は至て篤実之君子にて、(略) 画は当時無双の妙手」(天明三年九月十四日付け士川宛て書簡)と、まさに、月渓は、蕪村の秘蔵子と言っても差し支えなかろう。
 蕪村だけではなく、蕪村没後に同胞として迎え入れた応挙も、「近畿の画家為すあるに足るものなし、只恐るべきは月渓といふ若者なり」と、月渓を高く評価しているのである(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』)。

 ここで、冒頭の「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」に戻り、この月渓の「画(絵)」は、紫狐庵(蕪村)の賛の「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」の「句(発句)」に対して、大きな魚籠と数匹の鮎を描いて(俳諧の付け合いでは「物付(ものづけ)=言葉尻を捉える付け方」)、この「老なりし・鵜飼」の「老なりし」の、この句の主題に対する、何らの「余情」も感じられないというのが、蕪村の酷評した、その主たるものなのであろう。

 こういう蕪村の特訓を受けて、月渓の俳画というのは、見事に開花して行く。
次に掲げる蕪村の書簡(芭蕉の時雨の句に関する書簡)に付した呉春(月渓)の「窓辺の蕪村(像)」ほど、「憂愁なる詩人・嚢道人蕪村」その人の風姿を伝えるものを知らない。

蕪村像.jpg
 「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨の句などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

蕪村の花押(六の三) [蕪村と呉春]

蕪村の花押(六の三)

筏師画賛.jpg
月渓(呉春)筆「筏師画賛=C」逸翁美術館蔵  34×31.5cm

 この画中の筏師の右側に書いてある賛は次のとおりである。

[ 筏しのみのやあらしの花衣 / これは先師夜半翁三軒 / 茶やにての句也又 /渡月橋にて / 月光西に / わたれば花影 / 東に歩むかな / 日くれて家に / 帰るとて / 石高な都は / 花のもどり足   ]
 筏師の左側の賛は次のとおりである。
[ 花をふみし / 草履も見へて / 朝ねかな / 身をはふらかし / よろづにおこたり / がち成ひとを / あはれみたると / はし書あり / 月渓写 ]
(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」)

 呉春(松村月渓)は宝暦二年(一七五二)、京都の堺町四条下ル町で生まれた。本姓松村、名は豊昌、通称嘉左衛門、別号に可転など、軒号に蕉雨亭・百昌堂など、のち蕪村から「三菓軒」の号を譲られている。
 蕪村に入門をしたのは、明和八年(一七七一)十九歳の頃で、この年に、蕪村門の最右翼の高弟黒柳召波が亡くなっている。
 池大雅が亡くなった安永五年(一七七六)の二十五歳の頃は、蕪村社中の『初懐紙』『写経社集』などに続々入集し、画道共に俳諧活動も活発であった。
 上記の「筏師画賛=C」の制作年次は明らかではないが、その画賛中の「筏しのみのやあらしの花衣」の蕪村の句から類推すると、安永九年(一七八〇)二十九歳の頃から剃髪して呉春と改号した天明二年(一七八二)三十一歳前後の間のものであろう。
 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。

 上記の「筏師画賛=C」賛中の、蕪村の句関連は、次のような構成を取っている。

 筏士のみのやあらしの花衣
  これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也 (後書き)
   (又)
  渡月橋にて (前書き)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな
  日くれて家に帰るとて (前書き)
 石高な都は花のもどり足

 花をふみし草履も見へて朝ねかな
  花鳥のために身をは(ほ)ふらかし
  よろづにおこたりがち成(なる)ひとを
  あはれみたりとはし書(がき)あり  (後書き) 月渓写

 ここに出て来る四句は、月渓(呉春)に取っては、忘れ得ざる先師夜半翁(蕪村)の句ということになる。
 
 筏士のみのやあらしの花衣(天明三年=一七八三作とされているが、安永九年=一七八〇作)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな(安永六年=一七七七作)
 石高(いしだか)な都は花のもどり足(安永九年=一七八〇作、石高=石高道のこと)
 花をふみし草履も見へて朝ねかな(安永五年=一七七六作)

 これらの四句に見える安永五年(一七七六)~安永九年(一七八〇)は、蕪村が最も輝いた時代で、同時に、蕪村と月渓(呉春)との師弟関係が最も張り詰めた年代であった。
 ここで繰り返すことになるが、この安永五年(一七七六)、蕪村六十一歳、そして、呉春二十五歳の時に、大雅(享年=五十二)が没した年で、この年に、蕪村の夜半亭門の総力を挙げての、金福寺境内の「芭蕉庵」が再建された年なのである。
 そして、この安永九年(一七八〇)、その翌年の四月、天明元年(一七八一)となり、この端境期の三月晦日に、月渓(呉春)は、最愛の妻・雛路を瀬戸内の海難事故失い、それに加えて、その年の八月に、これまた、最大の理解者であり支援者であった父が江戸で客死するという、二重の悲劇に見舞われる。
その時に、蕪村は月渓(呉春)に、蕪村門長老の川田田福(京都五条の呉服商、百池家と縁戚)の別舗のある摂津池田に転地療養させる。この池田の地は別名「呉服(くれは)の里」と言い、その「呉」と亡き愛妻の「春」そして師蕪村の雅号「春星」の「春」を取って、月渓は三十一歳の若さで剃髪して「呉春」と改号する。
 しかし、呉春と改号後も、蕪村の夜半亭を継承した几董在世中は、月渓の号も併称していた。几董の夜半亭継承は、天明六年(一七八六)で、上記の「筏師画賛=C」賛中の「これは先師夜半翁三軒茶やにての句也」からすると、几董が夜半亭三世を継承した以後に制作されたものなのかも知れない。
 そして、この「三軒茶や」は、嵐山三軒茶屋ということについては先に触れた。ここで、画人・松村月渓(呉春)の生涯を大きく分けると、安永・天明年間(一七七二~一七八八)の「月渓時代」と寛政・文化八年年間(一七八九~一八一一)の「呉春時代」と二大別することも一つの見方であろう。
 そして、この「月渓時代」は、蕪村との師弟関係にあった時代で、「呉春時代」は応挙門と深い関係にあった時代ということになろう。この「月渓時代」を「学習模索期・完成期前半」の時代とすると「呉春時代」は「完成期後半・大成期」という時代区分になるであろう。
 また、この「月渓時代」は、蕪村風の「漢画」と「俳画」が中心で、「呉春時代」は応挙風を加味しての「四条派画」(「円山派の平明で写実的な作風に俳諧的な洒脱みを加えた画風」)と明確に区別されることになる。
 上記の「筏師画賛=C」は、蕪村風の「俳画」そのもので、その賛の書蹟も全く蕪村の書蹟と瓜二つで、殆ど両者を区別することが出来ないと言って良かろう。その俳画の描写筆法も、これまた蕪村風そのもので、こういう師風そのものに成りきるという才能は、月渓(呉春)の天性的なものなのであろう。
 ここで、この月渓(呉春)の「筏師画賛=C」の元になっている、蕪村の「筏士自画賛=A(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)」を、『蕪村 その二つの旅』」図録
所収「81『いかだしの』の自画賛=A-2」のものを再掲して置きたい。

いかだし自画賛.jpg
蕪村筆「『いかだしの』自画賛=A-2」個人蔵 絹本墨画 掛幅装一軸四五・七×六一・二
(『蕪村 その二つの旅』図録=監修、佐々木丞平・佐々木正子、編集発行、朝日新聞社)

 なお、「都名所図会」(長谷川貞信・浮世絵)中の「嵐山三軒茶屋より眺望」を下記に掲載して置きたい。

三軒茶屋.jpg








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蕪村の花押(六の二) [蕪村]

蕪村の花押(六の二)

蕪村・筏師・出光美術館.jpg
 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。

 『蕪村句集(几董編)』の収載の順序に、成立年時を付した『蕪村俳句集(尾形仂校注・岩波文庫)』では、次のようになっている。

     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し ※安永九年(※は推定)
一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時   安永六年
     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          天明三年

 この「一八六 筏士の蓑やあらしの花衣」は、「筏士自画賛」の百池「箱書き」の内容に照らして、天明三年(一七八三)の作ではなく、「一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」と同時の、安永九年(一七八〇)作なのではなかろうかということについては、先に触れた。ここで、この両句を、その前書きから、「一八六 → 一八四」の順にすると次のとおりとなる。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣 
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し

 この順序ですると、「雨日嵐山にあそぶ」、そして、「筏士」の句などを作り、「日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る」、その帰途中で、知人と出会い、「嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」の句を作ったということになる。
 さらに、『蕪村句集』を見て行くと、「嵯峨の雅因亭」での、次の句が収載されている。

     嵯峨の雅因が閑を訪(とひ)て
三一一 うは風に音なき麦を枕もと       ※(安永三年四月)

 この「嵯峨の雅因」は、京都島原の妓楼吉文字屋の主人で、嵐山の宛在楼に閑居し、蕪村らと親しく交遊関係を結んでいる、山口蘿人門の俳人である。しかし、この雅因は、安永六年(一七七七)十一月二十六日に没しているので、ここで、上記の「一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時」(安永六年作)が、雅因への追悼句の雰囲気を伝えて来る。 いずれにしろ、上記の『蕪村句集』に収載されている、「一八四・一八五・一八六」は、相互に響き合った、何かしらの因果関係にある句と解したい。

 さらに、ここに付け加えることとして、大雅が、安永五年(一七七六)四月十三日に没していることである。
 蕪村と大雅とは、京都の近い所に住んでいながら、ほとんど没交渉のような、この二人の生前の交渉の足跡はどうにも未知数の謎のままである。
大雅が没したときの、蕪村の書簡は、「大雅堂も一作(昨)十三日古人(故人)と相成候。平安(京都)の一奇物、をしき事に候」(安永五年四月十五日付け霞夫宛て書簡)と、関心は持っていて、その才能は高く評価していたのであろうが、生粋の京都(平安)人である大雅を、潜在的に余所者意識(大阪近郊の田舎生まれ且つ江戸育ちの放浪者意識)の強い蕪村が敬遠していたという印象を拭えない。

これは、蕪村と若冲との関係にも言えることであって、丹波(京都郊外)の田舎出身の応挙とは気が合うのも、そういった蕪村の潜在的な意識と大きく関係しているのかも知れない。
ともあれ、「諸家寄合膳」の大雅筆の「梅図=二」は、安永五年(一七七六)以前のものであろうということと、蕪村筆の「翁自画賛=三」は、安永九年(一七八〇)以降のものということで、この両者は、大雅と蕪村との唯一の交叉を象徴する「十便十宣図」(二十枚)のような関係にはないということは間違いなかろう。 また、寛政十二年(一八〇〇)の若冲筆・四方真顔賛の「雀鳴子図=八」とは、全く制作年次を異にするということも、これまた指摘して置く必要があろう。

 唯一、蕪村との関連ですると、当時(安永=一七七二~天明=一七八一に掛けて)、蕪村と応挙との親密な交遊は散見され、例えば、蕪村と応挙との合筆の「『ちいもはゝも』画賛」(「広島・海の見える杜美術館」蔵)などからして、「諸家寄合膳」の蕪村筆の「翁自画賛=三」と応挙筆の「折枝図=一」とは、同時の頃の作と解しても、それほど違和感が無いのである。

 それよりも、蕪村・応挙合筆の「『ちいもはゝも』画賛」に、「猫は応挙子か(が)戯墨也/しやくし(杓子)ハ蕪村か(が)戯画也」と、画面の右に墨書し、中央の下に、「蕪村賛」と署名し、その下に、花押が書かれている。
 この花押が、何と「諸家寄合膳」の蕪村筆「「翁自画賛=三」の花押と同じものと思われるのである(下記の蕪村筆「「翁自画賛=三」)。
 ここで、蕪村の花押について、一つの仮説のようなもの提示して置きたい(詳細は、折りに触れて関連する所で後述することとしたい)。

一 蕪村の花押は、常用の花押(上記の「筏師画賛=B」などに見られる花押)と諸家(例えば、応挙など)との合筆画(それに類するもの)などに見られる花押(下記の「翁自画賛=三」)との二種類のものがある。
二 その常用の花押も、また、合筆画用の花押も、その由来となっているものは、蕪村が関東歴行時代に見切りをつけ、宝暦初年(一七五一)に上洛して間もない頃に草した「木の葉経句文」に因っているものと解したい。
三 すなわち、その「木の葉経句文」中の、末尾の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に草した署名、「洛東間人(かんじん)嚢道人釈蕪村」の、この「嚢道人(釈)蕪村」の、その姓号と思われる「嚢道人」を象徴する「嚢」(雲水僧が携帯している経巻用の「嚢=袋」)の図案化と解したい。

諸家寄合膳(四枚).jpg
「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」(四枚)
上段(左)=蕪村筆「翁自画賛=三」 上段(右)若冲筆・四方真顔賛「雀鳴子図=八」
下段(左)=大雅筆「梅図=二」 下段(右)=応挙筆「折枝図=一」


補記一

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集)

 この二句について、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「二四〇 無宛名(二月二十一日付)」の中に、「愚老(蕪村)生涯嵐山の句也とつぶやくことに候」と認められており、蕪村の自信作でもあり、また、蕪村の夜半亭社中でも、話題になっていた句のようである。なお、嵐山を流れる大堰川(桂川・保津川)は、当時の蕪村は、「大井(ゐ)川」と表記しているようである。

補記二 

 同じく、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「一一五 几董宛(安永九年三月七日付)」の中に、「筏士が蓑もあらしの花衣」の句形で、この句が出て来て、「帰路は杉月楼(さんげつろう)」に寄ったとの文言が見られる。先に紹介した、「三本樹(木)」の、「井筒楼」・「富永楼(雪楼)」の他に、この「杉月楼」も、蕪村行きつけの茶屋なのであろう。

補記三

 先に、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」(『蕪村全集一 発句』所収「2377=P515)に関連して、「『三本樹(木)』」の『井筒楼』」や『富永楼』ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい」と記したが、この『月渓筆画賛=C』を、『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」で確認することが出来た。それに因ると、「これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也」と、祇園 の二軒茶屋ではなく、嵐山の三軒茶屋での作句というのが正解のようである。
 そして、その図柄は、先の蕪村筆の「筏士自画賛=A」に近いもので、冒頭の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)のものではないことも確認出来た(これらのことは、また別稿といたしたい)。

補記四

 さらに、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「95『筏士の』の付言(天明三年)」(真蹟=月渓筆の蕪村画像に貼付。『蕪村名画譜』<昭和八年一月刊>所収)で、この句に関連しての、「『袋草紙』に伝える公任の歌よりも勝っていると、(蕪村が)俳諧自在を自負したもの」というものも確認出来た(これも、また、別稿で出来れば取り上げたい)。

補記五

「筏士自画賛=A」については、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「110『いかだしの』自画賛」で確認できた。しかし、肝心の、この画賛に付随する、百池の「箱書き」などには、当然のことながら(編集方針・スペースなど)、一言も触れられてはいない。

補記六

 しかし、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「『風蘿念仏』序(天明元年十月)」で、その「筏士自画賛=A」に関連する、「『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、『金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座』」の、この「風蘿念仏」に関する、蕪村の「序」が全文収載されている(中興俳諧の二巨頭の京都の蕪村と名古屋の暁台との交遊などを背景にしたもの)。
 これらのことを背景とすると、次の二句とそれに関する「画賛」などは、兄弟句(姉妹編)と解して差し支えなかろう。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集』)


蕪村の花押(六の一) [蕪村]

蕪村の花押(六の一)

蕪村花衣.jpg
蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A

 寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。

[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都市上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)

 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。
 これらの、「筏士自画賛=A」と「筏師画賛=B」との比較鑑賞(考察)は、後述・別稿ですることにして、この他に、「月渓筆画賛=C」(「資料と考証六」=未見)もあるようで、そこに、
「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」と付記してあるという(『蕪村全集一 発句』)。
 これは、恐らく「筏師画賛=B」に近いもので、この「筏師画賛=B」に近いものが、他に何点か、その真偽はともかくとして出回っているようである。
 ここでは、冒頭の「筏士自画賛=A」の百池「箱書き」中の、「三本樹の井筒楼」と「月渓筆画賛=C」中の「二軒茶や」と、蕪村の傑作画として名高い「夜色楼台雪万家図」と関連しての、「晩年の蕪村が足繁く通った『雪楼』」」(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)などについて触れて置きたい。
 この「雪楼」は、百池宛て蕪村書簡(天明二年・一七八二、七月十一日付け)で、「祇園 富永楼のこと。蕪村行き付けの茶屋」(『蕪村書簡集《大谷篤蔵・藤田真一校注》』)なのである。すなわち、晩年の蕪村が足繁く通った、蕪村自身の「拙(雪)老」の捩りの「雪楼」のようである。

蕪村 夜色楼台図.jpg

 (図1 蕪村筆 「 夜色楼台図」)

 この蕪村の「夜色楼台図」の左の画面外に、百池「箱書き」の「四明山(比叡山・四明岳)下金福寺」がある。そこで、天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」と、句会を開いている。その「帰路三本樹なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く」と、宴会があった。
 当時の「三本樹」の花街の様子が、次の『拾遺都名所図会』で紹介されている。ここに、「井筒楼」や「富永楼(雪楼)」の茶屋があった。

三本樹.png
 (図2 「 三本樹(木)」『拾遺都名所図会』 ) 

 この『拾遺都名所図会』に描かれている川は「かも川(鴨川)」である。この「かも川」付近の「井筒楼」で、冒頭の「筏士自画賛=A」が「席画」され、その主題は、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」と「嵐山」であり、その「嵐山」の「桂川(保津川)」の「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」と、「筏士」ということになる。
 すなわち、この「筏士自画賛=A」は、「嵐山」の「桂川(保津川)」の「筏士」を、「鴨川」の近くの「三本樹(木)の井筒屋」で、かつて画賛にしたもの(「筏師画賛=B」)を思い出しながら、「酔蕪村」(酔っている蕪村)が、即興的に、「桃睡、百池一座」の見ている前で描いたということになろう。

 その前に描いた画賛(「筏師画賛=B」)は、次のものであろう。

蕪村・筏師・出光美術館.jpg
 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

 この「筏師画賛=B」に簡単に触れて置くと、「筏士自画賛=A」の左に記載されている
「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」のような記述はない。そして、その下にあった「花押」(「蕪村」の署名はない)は、「筏師画賛=B」では、右端に「蕪村・花押」とあり、
それに続く、前書きの文言も発句の句形も、微妙に異なっている。
 そして、「筏士自画賛=A」は、棹の位置からして、右の方向に進むのだが、この「筏師画賛=B」では、左の方向に進む図柄なのである。それ以上に、種々、大きな相違点などについては、別稿で詳しく見て行くことにしたい。
 ここで、付記して置きたいことは、この「筏師画賛=B」は、「諸家寄合膳」の「蕪村筆・翁自画賛」に書かれている「嵯峨へ帰る人はいずこの花にくれし」(安永九年・一七八〇作)と同時の頃の作と思われるのである。
 さらに、この「筏師画賛=B」も「席画」で、それは、恐らく、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」の、「三本樹(木)」の「井筒楼」や「富永楼」ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい。

補記 

『蕪村全集一 発句』の「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」の、「脚注」に「自画賛<潁原ノート>」とあり、その「左注」に「自画賛に2377(筏士のみのやあらしの花筏)と併記」とある。この「脚注」と「左注」とからすると、「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」と「筏士のみのやあらしの花筏」を併記している、蕪村筆「自画賛」(未見)もあるのかも知れない。

蕪村の花押(その五) [蕪村]

蕪村の花押(その五)

膳.jpg
「諸家寄合膳」(二十枚)のうちの「蕪村筆・翁自画賛」=A

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(3)」では、「画面左に杖を持った二人の人物を簡単な筆づかいで描く。右上に三行で『嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし』という発句を書く。『蕪村』という署名花押を書く」とある。

 この花押は、蕪村が、宝暦六年(一七五六)の丹後時代から常用している花押と明らかに相違している。
 蕪村の常用の花押については、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「嘯山宛の手紙に、蕪村常用の、独特の形をした花押が書かれている(挿図の『花鳥篇』序参照)。かつてこの花押は、矢を半分にしたもので矢半(夜半)の洒落だといわれていたが、岡田利兵衛氏のように、夜半亭を継承する以前にこの花押が用いられているから、従来の説は誤りである(『俳画の美』)。岡田氏は『村』から作った花押だというが、私には槌の形に見える。花押の作り方としては異例だが、これは槌を図案化したものではなかろうか」と記されている。
 同書では、『花鳥篇』序(天理大学付属天理図書館蔵)のものの花押を例示し、別の「蕪村の大黒天図」に関連して、俵の上に乗り木槌を持った「大黒天図(中村家像)」を挿図として掲載している。

 この蕪村常用の花押について、これまでに掲載したものを、ここに併載して置きたい。

書簡A.png
蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))=B

絵図A.png
蕪村挿絵図(『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)=C

蕪村静御前.jpg
蕪村筆 静御前図自画賛(「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」作品21) =D

 上記(B・C・D)の花押は、拡大すると、凡そ次のようなものである。

蕪村花押 .jpg
「蕪村の署名・花押」=E

冒頭の「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、この「蕪村の署名・花押」=Eとを比較すると、署名はともかくとして、花押は似ても非なるものの印象が拭えないのである。
ここで、いわゆる「真贋」とかを話題にするというよりは、この二様の違う、蕪村の花押を、鑑識や鑑定の世界での、「これならとおる」(「見解は分かれるが、多くの人を納得させられる」)のようなものが見いだせないかという、そんな難問題への、無謀な謎解きをしたいというのが、その真相なのである。
 しかし、この謎解きに入る前に、「蕪村筆・翁自画賛」=Aに、「三行で書かれている発句」の「嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし」(安永九年・一七八〇作)に併記して、「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」があり、そこに、「酔蕪村 三本樹井筒屋楼上において写」と落款して、そこに花押(Eと同種の花押)が押されている。
 すなわち、「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、極めて関連の深い「自画賛」が別に現存し、そこに花押(Eと同種)があり、さらに、この謎解きは複雑な形相を呈して来るのである。
そして、あろうことか、こちらの「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」には、寺村百池の詳細な箱書きがあり、それに加えて、月渓(呉春)筆の「自画賛」もあるようで、どうにも整理の仕様がないような複雑な問題が内在しているのである。
 今回は、百池の箱書きのある「自画賛」を、『蕪村全集一 発句』の、その頭注より拡大して掲載をして置きたい。

蕪村花衣.jpg
 蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり、花押=Eと同種)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三) [諸家寄合膳・椀]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

諸家寄合椀.jpg
「諸家寄合椀」(十一合)のうちの「若冲筆・梅図」

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(4)」では、「朱塗りの椀の外側に墨で絵付けをした作品。十一合」とあり、その「三、伊藤若冲筆『梅図』」で、「署名は身部分に『米斗翁八十五戯画』とあり、左下に花押と思われる墨書がある。署名より、寛政十ニ年(一八〇〇)亡くなる年の絵付けである」としている。
 この「米斗翁八十五戯画」の署名は、「諸家寄合膳」の「伊藤若冲筆、四方真顔賛『雀鳴子図』にもあり、この両者は同時の作のようである。 
 そして、「若冲と蕪村関連年表」(上記書所収)の若冲の項に、「寛政十ニ年(一八〇〇)
八五 『諸家寄合膳』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)※、『霊亀図』
(作品223) 四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」とあり、若冲が亡くなった年の作とされている。
 この年表の注意事項に、「年齢は数え年で、制作年に関しては若冲、蕪村ともに落款にある年齢や年代の表記にしたがった。※は、款記と賛の年が異なることを示す」とあり、その※のある「松尾芭蕉図」(伊藤若冲筆 三宅嘯山賛)の「作品解説102」は、次のとおりである。
 
[ 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられる。
なお、嘯山の賛は八十ニ歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五戯画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文方印)     芭蕉
  春もやゝけしき調ふ月と峰
  初時雨猿も小蓑をほしけなり
            八十二叟
             嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印)「之元」(白文円印)       ]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(102)・石田佳也稿」)

ここに出て来る「改元一歳加算説」というのは、「若冲還暦以後改元年齢加算説」(『若冲《伊藤若冲画、狩野博幸 監修・執筆、紫紅社》』)のことで、狩野博幸氏の主唱しているものである。
 確かに、若冲が亡くなる寛政十二年(一八〇〇)の、「四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」の短い期間に、「諸家寄合膳」のうちの「梅図」(作品4)、「松尾芭蕉図」(作品102)、「霊亀図」(作品223)などを手掛けるということは至難のことだという思いがして来る。また、画と賛との関係からしても、「若冲還暦以後改元年齢加算説」が、自然のように思われる。
 しかし、その説が極めて自然で、正鵠を得たものとしても、現に存在する落款の署名に明記しているものを基礎に据えることは、これまた基本的なことなのであろう。

 それにしても、蕪村が初めて『平安人物史』に登場する明和五年(一七六八)版の「画家」の部で登載されている順序は、「円山応挙・伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村」の順であり、その若冲が、先の「諸家寄合膳」では八番目、この「諸家寄合椀」では三番目で、何故、若冲のみ「応挙・大雅・蕪村」に並列しないで別扱いにしているのだろうか。また、何故、若冲のみ、「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の両方にあるのだろうか、次から次と疑問が湧いて来る。
 とすると、全くの類推以外の何物でもないのだが、これらは、例えば、明和八年(一七七一)の大雅と蕪村との合作の「十便十宣帖」のように、明確なテーマのもとに作者・賛者を人選しての綿密な企画を立ててスタートしたものではなく、結果的に、今日のような、「諸家寄合膳」(二十枚)、そして、「諸家寄合椀」(十一合)のみのものが、現にセットになって伝えられているもののような思いを抱くのである。
 すなわち、例えば、若冲が、京都の「青物問屋」の「枡屋」(家名と併せて通称『枡源』)」の大旦那であった画人とすると、それらに類する、京都の「漆問屋」(「画具・紅染・漆商」等の問屋)などが介在しての、極端に言うと、今でいう特定の文人・趣味人向けの、言わば「陳列品・グッズ商品」の逸品のようなもので、それらが、たまたま「旧蔵者」として箱書きにある日本画家の江戸時代末期から明治期に掛けての「雨森白水」の手に渡ったようなものなのかも知れない。
 そして、この種のものは、完全にオリジナル(他の手を煩わせていない作者・賛者の真筆)なものなのかどうかという一抹の疑問すら拭えないのである。
 すなわち、またまた、類推以外の何物でもないのだが、例えば、晩年の若冲の、石峰寺の五百羅漢のように、若冲が「下絵」を描き、石工が仕上げるというように、この種の「朱塗膳・朱塗椀」の作製の絵付けなどにおいては、塗師(塗り師)の何らかの支援が必須なのではないのかという、そんな素朴な思いを抱くのである。
 なお、この「諸家寄合椀」の絵師(十二人)については、別記二のとおりである。これらの絵師は、「諸家寄合膳」に比すると、狩野派(英派・鶴沢派)や土佐派の旧派系の者が多く、新派(南画・写生派・奇想派)の絵師も、比較的狩野派に近い者が多い感じである。

(補記一)

「関西大学創立120周年記念講演会 大坂画壇の絵画」(中谷伸生氏の講演記録―「関西大学学術リポトリジ」)の中で、「一 大坂画壇の評価について 二 木村蒹葭堂の画業と生涯 三 蒹葭堂と大坂画人による合作 四 蒹葭堂と交際した大坂の画家たち 五 岡田半江とその周辺の文人画 六 大坂の画家たちとその評価」について簡潔に触れられていた。その「三 蒹葭堂と大坂画人による合作」の中で、関西大学図書館所蔵の「大坂文人合作扇面」(紙本墨画淡彩)と共に、個人蔵(海外)の「諸名家合作(松本奉時に依る)」(紙本墨画淡彩・ 111.0×60.0㎝)が紹介されている。ここに登場する何人かの画人は、「諸家寄合膳」「諸家寄合椀」に登場する画人と一致する。ちなみに、「諸名家合作(松本奉時に依る)」の画人は、次のとおりである。

慈雲飲光、日野資技、西依成斉、中井竹山、六如慈周、細合半斉、皆川淇園、墨江武禅、福原五岳、中江杜徴、森周峯、圓山応瑞、奥田元継、森祖仙、木村蒹葭堂、伊藤若冲、伊藤東所、長沢芦雪、月僊、上田耕夫、篠崎三嶋、呉春

(補記二)

上記の『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(102)・石田佳也稿」で紹介されている「三宅嘯山」については、この「俳諧と美術」のサイトをスタートさせた、第一回の「蕪村の花押(その一)」の冒頭で取り上げている。そこで取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)の署名の後の花押(「槌」のような、「経巻」のような、「嚢」のような、謎めいた花押)の周辺を探りたいというのが、そもそもの発端であった。その花押と、現に取り上げている「諸家寄合膳」(三 蕪村筆「翁自画賛」)での蕪村花押がどうにも一致しないのである(これは、後日取り上げていくことになる)。ここで、第一回の「蕪村の花押(その一)」で取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)を再掲して置きたい。

書簡A.png
  蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))

(別記二)「諸家寄合椀」作者一覧

一 呉春(ごしゅん、宝暦二年・一七五二~文化八年・一八一一) 江戸時代中期・後期の絵師。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌。通称を文蔵、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転、蕉雨亭など。初期の号の松村月渓も広く知られる。京都堺町の生まれ。安永二年(一七七三年)の頃に、与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。天明元年(一七八一)の頃、身内の不幸に遭い、蕪村門下の俳人・川田田福を頼り、現在の大阪府池田市に転地療養し、この地の古名である「呉服(くれは)の里」に因み、呉春を名乗るようになる。蕪村没後、蕪村と交流があった応挙が、呉春の画才を高く評価し、「共に学び、共に励む」の客分待遇で、応挙門となり、応挙没後は、京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。
二 高嵩谷(こう すうこく、享保十五年・一七三〇~文化元年・一八〇四) 江戸時代中期の絵師。佐脇嵩之の門人。江戸の人。高久氏。名は一雄。明和頃から主に英一蝶風の洒脱な肉筆画や役者絵などを描いている。高嵩月は門人。
三 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、正徳・一七一六~寛政十二年・一八〇〇)
(別記一)「諸家寄合膳」作者一覧に記載。
四 英一峰(はなぶさ いっぽう、元禄四年・一六九一~宝暦十年・一七六〇) 江戸時代中期の絵師。英一蝶の高弟。
五 黄(横山)崋山(よこやま かざん、天明元年・一七八一~天保八年・一八三七) 江戸時代後期の絵師。名は暉三、または一章。京都出身(越後出身説あり)。福井藩松平家の藩医の家に生まれる。西陣織業を営む横山家の分家横山惟聲の養子となり、本家が支援した曾我蕭白に私淑。長じて岸駒に師事、のちに円山応挙や四条派の呉春の影響を受けた。
六 土佐光貞(とさ みつさだ、元文三年・一七三八~文化三年・一八〇六) 江戸時代中期の絵師。宝暦四年(一七五四)に分家して、土佐宗家の兄とともに絵所預(えどころあずかり)となる。寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際,宗家の土佐光時(みつとき)をたすけ,障壁画の制作にあたった。号は廷蘭。
七 村上東洲(むらかみ とうしゅう、?~文化三年・一八二〇) 江戸中期・後期の絵師。京都の生まれ。名は成章、字は秀斐。僧鼇山(一説には大西酔月)に学び、人物・山水を能くした。
八 鶴沢探泉(?~文化十三年・一八〇九) 江戸時代中期・後期の画家。父は鶴沢探索。狩野派鶴沢家四代。法眼。名は守之。
九 森周峯(もり しゅうほう、元文三年・一七三八~文化六年・一八二三) 江戸時代中期・後期の大坂画壇で活躍した森派の絵師の一人。姓は森、名は貴信。俗称は林蔵。周峰(峯)、杜文泰、鐘秀斎と号す。森如閑斎の次男であり、森陽信の弟、森狙仙の兄であった。
十 宋紫山(そう しざん、享保十八年・一七三三~文化二年・一八〇五) 江戸中期・後期の画家。江戸の生まれ。父は宋紫石、子は紫岡。姓は楠本。名は白圭、別号に雪渓(二世)・雪湖(二世)など。画を父に学び、山水花鳥を能くする。
十一 森狙仙(もり そせん、寛延元年・一七四七~文化四年・一八二一) 江戸時代中期・後期の絵師。通称は八兵衛、名を守象、号としては祖仙、如寒斎、霊明庵、屋号の花屋も用いた。狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。主として動物画を描き、とりわけ得意とした猿画の代表作として『秋山遊猿図』がある。



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蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二) [蕪村・若冲・大雅・応挙]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

諸家寄合膳(二十枚).jpg
諸家寄合膳(二十枚) 上から「一段目~五段目」
一段目(右~左)「一円山応挙」・「二池大雅」・「三与謝蕪村」・「四池玉瀾」
二段目(右~左)「五鼎春嶽・皆川淇園賛」・「六曽我蕭白」・「七東東洋・八木巽処賛」
・「八伊藤若冲・四方真顔賛」
三段目(右~左)「九福原五岳・三宅嘯山賛」・「十狩野惟信・鴨祐為賛」・「十一岸駒・森川竹窓賛」・「十二長沢芦雪・柴野栗山賛」
四段目(右~左)「十三月僊・慈周(六如)賛」・「十四吉村蘭洲・浜田杏堂賛」・「十五土方稲嶺・木村蒹葭堂賛」・「十六玉潾・慈延賛」
五段目(右から左)「十七紀楳亭・加茂季鷹賛」・「十八観嵩月」・「十九島田元直・谷口鶏口」
・「二十堀索道・大島完来賛」

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、「諸家寄合膳」の絵の作者、それに賛を草した者(別記一)は、主として、十八世紀の、そして、ほぼ京都で活躍した人達であると解して差し支えなかろう。
 これらの人達を、「十八世紀の京都ルネッサンス」(「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展のスタートの第一章のネーミング)のもとに、「諸家寄合膳」そして「諸家寄合椀」の作者・賛者として、その「膳」(二十枚)・「椀」(十一合)を展示したのは圧巻であった。

 ここで、「十八世紀の京都ルネッサンス」とは、いかなるものなのか。絵付けをした、「応挙・大雅・若冲・蕪村・玉瀾・春嶽・蕭白・東洋・五岳・惟信・岸駒・芦雪・月僊・蘭州・稲嶺・玉潾・楳亭・嵩月・元直・索道」のニ十人、賛を草した「淇園・巽処・真顔・嘯山・祐為・竹窓・栗山・慈周・杏堂・蒹葭堂・慈延・季鷹・鶏口・完来」の十四人の、この錚々たる顔ぶれの画人・文人達が活躍した、十八世紀の京都というのは、どのようなものであったのかと、実に、これは興味をかきたてるものがある。

 もちろん、この三十四人は、十八世よりもより十九世紀に掛けて活躍した人も、また、京都よりも浪華(大阪)や江戸や仙台で活躍した人も居られる。それ以上に、これらの人達は、当時の画人・文人達の、ほんの一部であって、例えば、明和五年(一七六八)版『平安人物史』に登載されている者は、六部門で延べ百五十三名、最も多い文政十三年(一八三〇)版では、部門も三十部門以上に激増し、八百名近くの文化人が登載されている。

 すなわち、十八世紀(そして十九世紀)は、江戸(東京)の徳川幕藩体制のもと、文化の東漸運動が著しく進展した時代であったが、依然として文化の中心地は遠く平安時代からの京都がその一翼を担っているということを意味している。
 そして、象徴的なことは、十七世紀から十八世紀に掛けての「元禄文化」の中心的な京都の画人・尾形光琳が、徳川吉宗が将軍となった享保元年(一七一六)に、その五十九年の生涯を閉じ、その同じ年に、若冲(正徳六年=一七一六)と蕪村(享保元年=一七一六)とが誕生していることである。
 すなわち、光琳の後の、若冲・蕪村の時代は、享保の時代であり、それは幕藩体制の強化の時代でもあった。しかし、それは、その反動として、武士階級や公家階級の文化ではなく、新しく勃興しつつあった商人階級を基盤にしての、「旧きものを破壊し、新しいものを生み出す」転換期の時代でもあった。
 これらのことが、「十八世紀の京都ルネッサンス」の正体であり、その背景でもある。すなわち、上記の「諸家寄合膳」に登場する三十四人は、その強弱はあれ、いずれも、「十八世紀(そして十九世紀)の京都の新しい文化の夜明け(ルネッサンス)」を告げる「明烏(あけがらす)」(蕪村七部集の一つ『明烏』《几董編》の書名)が、その正体なのである。

 さらに、これらに付け加えるならば、上記の三十四人の一人の、六如庵慈周(「別記一」の十三のニ、「六如」・「慈周」)の、その賛を、ここに掲げて置きたい。

[ 盧山東南五老峰、中有真人寄玄踪、玄踪茫々不可覓、青天仰望金芙蓉  六如
(読み下し)
 盧山ノ東南五老峰、中ニ真人有リテ玄踪ニ寄ス、玄踪茫々ニシテ覓(もと)ムベカラズ、青天ヲ仰ギ望ム 金芙蓉
(訳)
盧山の東南に五老峰が見える。山中には真人がいて、奥深く足跡を残す。その奥深い足跡はかすかで、求めても求められない。ただ、青天に、金芙蓉と言われる山容を仰ぎ見るだけである。]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』
所収「作品解説(3)鈴木洋保(訳読)・「読み下し」は平仮名表記を片仮名表記にしてある」)

 この十八世紀の日本の京都の六如(慈周)の賛の意味するところのものは、十九世紀のドイツの詩人「カール・ブッセ」の次の詩と同じ意のものと解したい(「カール・ブッセ」の詩の「幸(さいわひ)」を「六如」の賛の「金芙蓉=新しい時代の創造・文化」と置き換えたい)。

Ueber den Bergen Carl Busse     山のあなた(カール・ブッセ《以下「上田敏訳」》))

Ueber den Bergen, weit zu wandern   山のあなたの空遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.   幸(さいはひ)住むと人のいふ
Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 噫(あゝ) われひとと尋(と)めゆきて
kam mit verweinten Augen zurueck.    涙さしぐみ かへりきぬ
Ueber den Bergen, weit weit drueben    山のあなたになほ遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.   幸(さいはひ)住むと人のいふ

 この十八世紀の京都で、その名が知られている六如は、売茶翁が若冲に呈した「丹青活手妙通神(丹青ノ活手ノ妙神ニ通ズ)」を捩って、当時の新進気鋭の応挙に、「丹青天下無双手(丹青ノ天下ノ無双ノ手ナリ)」と高く評価した、天台宗の学僧で、伴蒿蹊の『近世畸人伝』の「序」を草した、その人である。
 そして、この六如(慈周)は、蕪村の追悼句文集『から檜葉』(上・下)の、その巻末の、蕪村への「哭文・哭詩」を草した、雨森章迪と同じ文化圏にあったことを伝えている文献(『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」)がある。

(別記一)「諸家寄合膳」作者・賛者一覧

一 円山応挙(まるやま おうきょ) 享保十八年(一七三三)~ 寛政七年(一七九五)。江戸時代中期の絵師。姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。丹波穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)出身。明和三年(一七六六年)の頃から「応挙」を名乗り始め、この頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。「写生」を重視した平明な画風で、三井家を始めとする富裕な町人層に好まれた。著名な弟子には呉春・長沢蘆雪・森徹山・源琦などがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派」と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流となっている。
二 池大雅(いけの たいが) 享保八年(一七二三)~ 安永五年(一七七六)。江戸時代中期の絵師(文人画家)・書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱(いみな)は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。妻の玉瀾も画家。弟子に、福原五岳・木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
三 与謝蕪村(よさ ぶそん) 享保元年(一七一六)~ 天明三年(一七八四)。江戸時代中期の絵師(文人画家)で且つ俳人(中興俳諧の巨匠)。本姓は谷口、のちに「与謝」。「蕪村」は号で、名は信章。画号は「春星」・「謝寅(しゃいん)」など多数ある。俳号も多く、蕪村以外では「宰鳥」、紫狐庵」「夜半亭(二世)」など。画家の弟子に、呉春(蕪村没後応挙門)・紀楳亭など。俳人の弟子に、高井几董・黒柳召波・江森月居など。池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)生まれ。江戸で俳諧などを学んだ後、京都を拠点に活動し、丹後や讃岐も訪れた。
四 池玉瀾(いけの ぎょくらん) 享保十二年(一七二七)~天明四年(一七八四)。江戸時代中期の女流絵師。文人画家池大雅の妻。柳沢淇園,のち大雅に学ぶ。山水の扇面画に優れる。母百合(ゆり)、祖母梶(かじ)は共に歌人。本姓は徳山。名は町。
五の一 鼎春嶽(かなえ しゅんがく) 明和三年(一七六六)~ 文化八年(一八一一)。江戸時代中期の日本の南画・篆刻家。池大雅の門人・福原五岳に師事。浪華の人。
五の二 皆川淇園(みながわ きえん) 享保十九年(一七三五)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。京都の人。絵画の腕も卓越しており、山水画の師は円山応挙。
六 曽我蕭白(そが しょうはく) 享保十五年(一七三〇年)~ 天明元年(一七八一)。江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。京都の人。蕭白は高田敬輔や望月玉蟾に師事したとの説が古くからある。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。蕭白の逸話として、「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」などが知られている。
七の一 東東洋(あずま とうよう) 宝暦五年(一七五五年)~ 天保十年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。仙台の人。二十歳の頃、京都の上り、池大雅を訪ねる。後に、長崎に赴き、中国人画家に学んだとされる。各地を遊歴の後帰洛し、妙法院真仁法親王の支援を受け、絵師の応挙や呉春、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らと親交を結ぶ。文政八年(一八二五)七十一歳で仙台に帰郷。享年八十五。墓は仙台と京都にある。
七の二 八木巽処(やぎ せんしょ) 明和八年(一七七一)~天保七年(一八三六)。 江戸時代中期から後期の儒者、書画家。木村蒹葭堂と親しく、浪華の人か。
八の一 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう) 正徳六年(一七一六)~ 寛政十二年(一八〇〇)。江戸時代中期の絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。別号に、斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)など。京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。四十歳代の約十年を費やして完成させた「釈迦三尊像(三幅)」と共に相国寺に寄進した「動植綵絵(三十幅)」(一八八九年に皇室に献納)が代表作である。,売茶翁や梅荘顕常など黄檗僧たちとも交わり、信仰の念は生涯厚かった。独身を通し、晩年は深草の石峰寺に隠棲した。
八の二 四方真顔(よもの まがお) 宝暦三年(一七五三)~ 文政十二年(一八二九)。江戸時代中期から後期の狂歌師・戯作者。姓は鹿津部で、鹿津部真顔(しかつべ まがお)。通称は北川嘉兵衛。別号に狂歌堂などがある。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業としていた。江戸の人。全国的に門人が多く、晩年には、京都から宗匠号を授けられている。
九の一 福原五岳(ふくわら ごがく) 享保十五年(一七三〇)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の文人画家。池大雅の高弟。号は五岳のほかに玉峰・楽聖堂など。通称・大助。備後尾道の人。
九の二 三宅嘯山(みやけ しょうざん) 享保三年(一七一八)~享和元年(一八〇一)。 江戸時代中期の儒者・俳人。三宅観瀾の一族で、京都の質商。夜半亭巴人(早野巴人)門の望月宋屋に俳諧を学ぶ。宝暦元年(一七五一)の頃から蕪村と親交を結ぶ。「俳諧古選」などの評論で元禄期への復帰をとなえる。漢詩にも優れ、中国白話小説にも通じた。別号に葎亭・,滄浪居など。
十の一 狩野惟信(かのう これのぶ) 宝暦三年(一七五三)~ 文化五年(一八〇八)。江戸時代中期から後期の木挽町家狩野派七代目の絵師である。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。 
十の二 鴨祐為(かもの すけため) 元文五年(一七四〇)から享和元年〈一八〇一)。江戸時代中期から後期の京都の神官、歌人。代々上賀茂神社の神官を務める賀茂氏の流を汲む梨木)家に生れる。幼少の頃より和歌を好み冷泉為村に師事し、その生涯を通して十万首を超える和歌を詠んだといわれる。
十一の一 岸駒(がんく) 宝暦六年(一七五六)または寛延二年(一七四九)~ 天保九年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。姓は佐伯。名は昌明。初期の号は岸矩。岸派の祖である。出身地は越中高岡と加賀金沢との二説がある。安永七年(一七七八)の頃から上洛し、天明四年(一七八四)に有栖川宮家の近習となり、有栖川宮の庇護のもと、京都を代表する絵師の一人となる。
十一の二 森川竹窓(もりかわ ちくそう) 宝暦十三年(一七六三)~ 文政十三年(一八三〇)。江戸時代中期・後期の書家・画家・篆刻家である。 号は竹窓の他に良翁・墨兵・天遊など。大和の人。浪華に移住し、京都で没する。上田秋成と親交が深い。
十二の一 長沢芦雪(ながさわ ろせつ) 宝暦四年(一七五四)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の絵師。円山応挙の高弟。別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。丹波篠山に生まれ、安永七年(一七七八)、二十五歳の頃、応挙門に入る。「後年応挙に破門された」とかの流説があるが、事実は不明。
十二の二 柴野栗山(しばの りつざん) 元文元年(一七三六)~ 文化四年(一八〇七)。
江戸時代中期・後期の儒学者・文人。讃岐の生まれ、寛政の三博士(寛政期に昌平黌の教官を務めた朱子学者三人、古賀精里・尾藤二洲・柴野栗山)の一人として知られる。
十三の一 月僊(げっせん) 元文六年(一七四一)~ 文化六年(一八〇九)。江戸時代中期から後期にかけての画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。尾張名古屋の生まれ。江戸へ出て増上寺に入り月僊の号を与えられる。応挙・蕪村に私淑。画料を貪るなど「乞食月僊」との呼称もあるが、晩年その財を投じ伊勢山田の寂照寺を再興。著書『月僊画譜』など。
十三の二 慈周(じしゅう・六如=りくにょ) 享保十九年(一七三四)~ 享和元年(一八〇一)・江戸中期の天台宗の僧・漢詩人。近江の生まれ。医者・苗村介洞の子。白楼・無着菴と号する。初め天台宗武蔵明静院の学僧であったが、野村東皐に詩文を学び、のち江戸に出て宮瀬龍門に師事した。また儒者・皆川淇園らと親交があった。内外の書に精通し、仏儒に兼通するが、殊に詩学で知られる。晩年には京都に落ち着いて、嵯峨の長床坊に隠棲したという。
十四の一 吉村蘭洲(よしざわ らんしゅう) 元文四年(一七三九)から文化十三年(一八一三)。江戸時代中期-後期の画家。京都の人。石田幽汀のち円山応挙に学び,西本願寺絵師となる。円山応挙晩年の弟子で、応門十哲の一人に数えられる。
十四の二 浜田杏堂(はまだ きょくどう) 明和三年(一七六六)~ 文化十一年(一八一五)。江戸時代中期後期の画家・漢方医。本姓は名和氏。号は杏堂・痴仙。浪華の人。
十五の一 土方稲嶺(ひじかた とうれい) 享保二十年(一七三五)または寛保元年(一七四一)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだという。
十五の二 木村蒹葭堂(きむら けんかどう) 元文元年(一七三六)~ 享和二年(一
八〇二は、江戸時代中期の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。呉は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)など。通称は 坪井屋吉右衛門。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には多数の来訪者の記録があり、当時の漢詩人・作家・学者・医者・本草学者・絵師・大名等など幅広い交友が生まれ、一大文化サロンを形成している。この「諸家寄合膳」・「諸家寄合椀」に出てくる作者のほとんどが、蒹葭堂と何らかの関係を有している。
十六の一 玉潾(ぎくりん) 宝暦元年(一七五一)~文化十一年(一八一四)。江戸時代中期・後期の画僧。近江の人。京都永観堂の画僧玉翁の法弟で洛東山科に住した。画を師に学び、墨竹を得意とした。公卿や名門の人々と交わって画名をあげ、茶道・華道・蹴鞠の道も究めたという。俗姓は馬場。法号は曇空。別号に墨君堂・淵々斎。
十六の二 慈延(じえん) 寛延元年(一七四八)~ 文化二(一八〇五)。江戸時代中期・後期天台宗の僧・歌人。父は儒医兼漢学者塚田旭嶺。尾張藩明倫堂の督学を務めた儒学者塚田大峯の弟。字は大愚。号は吐屑庵。小沢蘆庵・澄月・伴蒿蹊とともに平安和歌四天王の一人に数えられている。信濃の生まれ、比叡山で出家して天台教学を学び、円教院に住した。
十七の一 紀楳亭(きの ばいてい) 享保十九年(一七三四)~ 文化七(一八一〇)。江戸時代中期・後期の絵師。与謝蕪村の高弟で師の画風を忠実に継承し、晩年大津に住んだため、近江蕪村と呼ばれた。山城鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。
十七の二 加茂季鷹(かもの すえたか) 宝暦四年(一七五四)~天保十二年(一八四一)。江戸後期の国学者。京都の生まれ。姓は山本、号を生山・雲錦。和歌を有栖川宮職仁親王に学ぶ。江戸では加藤千蔭・村田春海ら歌人・文人と交わり、京に帰って上賀茂の祠官となる。狂歌を得意とし、居を雲錦亭と名づけ歌仙堂を設け、また文庫に数千巻の書を蔵した。
十八 観嵩月(かん すうげつ) 宝暦五年(一七五五)~ 文政十三年(一八三一)。江戸時代後期に活躍した英派の絵師。高嵩谷の門人。高氏、名は常雄。別号に蓑虫庵・景訥など。江戸深川六軒堀の生まれ。
十九の一 島田元直(しまだ もとなお) 元文元年(一七三六)~文政2年(一八一九)。江戸中・後期の絵師。京都の生まれ。姓は紀、字は子方・子玄、別号に鸞洞(らんどう)など。円山応挙に師事。
十九の二 谷口鶏口(たにぐち けいこう) 享保三年(一七一八)~享和二年(一八〇二)。谷口楼川・谷口田女の養子。江戸神田の人。養父母とともに馬場存義側の点者をつとめる。楼川の跡をついで木樨庵2世となった。別号に獅子眠(ししみん)。
二十の一 堀索道(ほり さくどう) 生年未詳~享和二年(一八〇二)。江戸時代中期・後期の絵師。狩野)派の鶴沢)探山に学ぶ。寛政の内裏造営に際し,障壁画制作に加わった。法橋。名は守保。
二十の二 大島完来(おおしま かんらい) 寛延元年(一七四八)~文化十四年(一八一七)。 江戸時代中期・後期の俳人。伊勢津藩士。大島蓼太に学び、のち養子となって、雪中庵四世を継いだ。本姓は富増。通称は吉太郎。別号に震柳舎,野狐窟など。

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