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蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一) [諸家寄合膳・椀]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)


2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が 開催された。
その冒頭(第一章「十八世紀の京都ルネッサンス」)を飾ったのが、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)とであった。
 その図録(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)の紹介と若干の考察を付して置きたい。
 なお、その図録中、この「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の「作品解説」は、岡田秀之氏(MIHO MUSEUM学芸員)が担当し、その「諸家寄合膳」の「釈読」は鈴木洋保氏(書画家・書画史家)が担当している。
 また、図録中、「蕪村絵画における賛の書画をめぐって」は鈴木氏、「若冲と蕪村―その共通点と相違点」は岡田氏が執筆している。

諸家寄合膳(四枚).jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」の四枚
上左・蕪村筆「翁自画賛」 上右・若冲筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
下左・大雅筆「梅図」   下右・応挙筆「折枝図」 

諸家寄合椀.png

「諸家寄合椀」(十一合) 前方の中央の椀(若冲筆「梅図」)

 これらの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の所蔵者は、その「出品目録」を見ると、空白になっており、個人蔵のようである。
 なお、その「作品解説(4「諸家寄合椀」)の末尾に、「『諸家寄合膳(作品3)と同じように『酔墨斎持』とあり、もと雨森白水(一七九三~一八八一)が所蔵していた」とある。
 この旧蔵者の雨森白水は、幕末・明治に掛けての日本画家の雨森白水であろう。
 この酔墨斎こと雨森白水は、寛政五年(一七九三)の生まれで、「若冲と蕪村 関連年表」(上記『図録』所収)」によると、その生まれた年に、若冲(七十八歳)は、「この年までに、石峰寺に隠棲」とあり、そして、没する寛政十二年(一八〇〇、八十五歳)に、「『諸家寄合椀』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)、『霊亀図』(作品223)、四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席、九月十日没」とある 
 すなわち、若冲の「諸家寄合椀」(「梅図」)は、若冲が亡くなった最晩年の遺作ともいうべきものということと、江戸中期の「若冲・蕪村・大雅・応挙」らと江戸後期から明治に掛けての「白水」とは、そもそも活躍した時代が違うということになろう。
 若冲との関連で見ていくと、若冲が晩年に隠棲し、若冲の五百羅漢で知られている石峰寺(若冲が埋葬された墓があり、その遺髪は菩提寺宝蔵寺と相国寺にも埋納されている)に、白水の墓地もあり、白水と若冲とは何らかの縁もあるような雰囲気ではある。
 しかし、この雨森白水は、金福寺の蕪村墓碑を揮毫した書家で知られている、蕪村と三十年の交友関係にあった雨森章迪の一族と解し、その雨森家が二代、三代にわたって蕪村、そして、百池や呉春、さらには木村蒹葭堂などの縁により蒐集していたものと考える方が自然であろう。

 ここで、「諸家寄合膳」(二十枚)と「諸家寄合椀」(十一合)の作者と画題などを下記に掲載して置きたい。
 これによると、一番早い年代のものは、「諸家寄合椀」の「四英一峰(一六九一~一七六〇)」で、宝暦十年(一七六〇)前の絵付けということになろう。続いて、「諸家寄合膳」の「二池大雅(一七二三~七六)」の安永五年(一七七六)前のものということになる。
 一番遅いものは、「諸家寄合膳」の「十八観嵩月(一七五九~一八三〇)」の天保元年(一八三〇)前のものということになろう。
 いずれにしろ、下記のものが全部出来上がるまでには、少なくとも、半世紀(五十年)以上の年数がかかっているものと解したい。

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

呉春筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」 [蕪村・呉春・雨森章迪]

呉春(月経)筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」


奉哭(雨森章迪).jpg

雨森章迪賛 紙本墨書一枚 二五・六×三七・三
署名「盟弟雨森章迪慟泣拝書」 印章「章」「迪」(白文連印) 

蕪村像・呉春.jpg

呉春筆 紙本墨画淡彩 一幅 二五・七×一四・三
署名「辛酉十二月廿五日 呉春拝写」 印章「呉」「春」(白文連印)  

 平成二十年(二〇〇八)三月十五日から六月八日(日)にかけてMIHO MUSEUMで開催された春季特別展「与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)」に出品されたものである。
 その図録の「作品解説」(岡田秀之)は次のとおりである。

[ 呉春(松村月渓)が宗匠頭巾をかぶる蕪村の右側からみた姿を描いた作品。落款から没後十八年の享和元年(一八〇一)に、蕪村の命日十二月二十五日に描かれたことがわかる。この図の上部には本来雨森章迪の賛があり、蕪村追善集『から檜葉』天明四年(一七八四)に載る追悼文とほぼ同じで、現在は、絵と賛が別になっている。この作品の外箱には、鉄斎の筆で「謝蕪村翁肖像 呉月渓/雨森章迪画賛 鉄斎外史題」とあり、鉄斎はこの図をもとに蕪村の肖像画を数点描いている。
賛 (略)  ]
(『与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」)

 上記の「作品解説(169)」に掲載されている「賛」(漢文)を、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)のもので、読みと簡単な注を付し(括弧書き)掲載して置きたい。

(雨森章迪「賛」)

[ 哭(「画賛」では「奉哭」)
謝蕪村先生(画賛」では「蕪村謝先生」)
先生ノ文(俳諧)墨(画)ノ伎ニ於ケル、只独リ描事ニコレ力(つと)メ、晩ニシテ事業愈(いよいよ)長ズ。
刻画(細かく輪郭づけて描く北宗画)似不似ノ論ニ唾シ、終(つひ)ニ模写倣傚(ほうこう=真似)、牽率(一派を率いる)シテ成ル者トハ大イニ異ル。
而シテ自ラ謝氏一家ノ墨(画)ト称シ、倣然(ごうぜん)トシテ世ト乖張(かいちょう=反旗を張る)ス。
宛(さなが)ラ婆蘿林(釈迦の入滅した娑羅の林)中ノ最後ノ説法ノ如シ。
六師(六師外道=異端の徒)幺魔(幼魔=心無い輩)、聴ク者益(ますます)懼(おそ)ル。
今年﨟月(臘月=陰暦十二月)念(一瞬=急に)五病ニ罹(かか)リテ卒(しゅつ=死)ス。
嗚呼(ああ)天斯(こ)ノ人ニ殃(わざわい=神の咎め)シ、斯の道に殃ス。
迪(てき=雨森章迪)ヤ三十年ノ旧盟(旧い同志)ニシテ、楚惜(耐え難い惜別)の念、噬臍(ぜいせい=臍を噛む)尽キズ。
哭詩二章ヲ奠(てん=供え祀る)シ、聊(いささ)カ悲痛牢騒(ろうそう=牢固たる騒ぎ)ノ万一ヲ舒(の)ブルト云ウ。

江山一墨生痕ヲ溌シ、画禅ニ晤入(ごにゅう)シテ独尊ト称ス。
元是レ天然ノ大才子、周行七歩謝蕪村。

倏(たちま)チ三冬臥病ノ身ト作(な)リ、硯墨(けんぼく)ニ親マズ薬ニ惟(こ)レ親ム。
没却(もっきゃく)ス江山筆々ノ春

                          盟弟 雨森章迪拝書  ] 

 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二十五日、六十八歳で没したが、その没後七々日(四十九日)を限りとして、諸家から寄せられた句文・詞章を集めた追善集『から檜葉(上下)』が、その翌年の一月、後に、夜半亭蕪村の後を継ぎ、夜半亭三世となる高井几董によって編まれた。書名は、蕪村の死の翌日に夜半亭で興行した一順追善俳諧の発句「から檜葉の西に折るゝや霜の声(几董)」から取られている。
 上巻には、主として夜半亭・春夜社(几董の社)中の悼句を収め、その跋文は、蕪村が葬られる金福寺の、その金福寺に蕪村が在世中に再興した芭蕉庵の、その再興の要となった樋口道立(漢詩人・江村北海の次男、川越藩京都留守居役の要職にあった儒者にして俳人)が起草している。
 下巻には、暁台の悼句を立句とする几董以下一門の歌仙、さらに杜口・蝶夢・闌更・旧国(大江丸)・無腸(上田秋成)・蓼太らの句文を収め、その跋文は、蕪村が葬られた後に、金福寺境内に蕪村句碑を建立した、蕪村門最大の後援者であった糸物問屋「堺屋」の惣領にして俳人の寺村百池である。蕪村百回忌には、その孫の百遷によって「蕪村翁碑」が、その境内に建立されている。
 この百地の跋文に続いて、上記の、雨森章迪の「哭文・哭詩」が、すなわち、蕪村追悼集『から檜葉』の「上・下」巻の総まとめのスタイルで起草されているのである。
 そして、その「哭文・哭詩」のまえに、その「序文」のようなものが認められている。その章迪の序文(漢文)は次のとおりである。
 上記の「賛」(「哭文・哭詩」)と同じく、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)に因り、その漢文書下し文のものを掲載して置きたい。

(雨森章迪「哭文・哭詩」の「序文」)

[ 夜半謝先生没スルヤ、門生高几董諸子ノ哭歌(こくか)ヲ鳩(あつ)メ、檜葉集ヲ撰ス。句々咸(みな)先生誹諧ノ奇ヲ以テ称嗟ス。呉月渓・梅嵒(ばいがん)亭余ニ謂ヒテ曰ク、先生描画ニ鳴リ、誹諧ニ波余ス。而(しか)モ一言ノ画ニ及ブ橆(な)シ。遺恨是レ之ヲ何如ト謂ハン。僕等(ら)画業ヲ先生ニ授カリシ者、世ノ識ル所ナリ。今ヤ筆ヲ立テ以テ其ノ妙ヲ言ハント欲スルモ、悲涙洋々トシテ、紙上海ノ如シ。幸イナルカナ君ノ哭詩、都(すべ)テ絵事ニ渉(わた)ル。冀(こいねが)ハクハ之ヲ巻末ニ置キ、僕等ノ筆に代ヘンコトヲ。余謝スルニ疣贅(ゆうぜい)ヲ以テス。可(き)カズ。併(あわ)セテ同社ノ二三子懇求シ、竟(つい)ニ写シテ呉・嵒二生(にせい)ニ与フルノミ。   ]

 この「序文」に出て来る「呉月渓」は、「呉春」(松村月渓)その人であり、「梅嵒(ばいがん)亭」は、呉春と共に、画業における蕪村門の二大双璧の「紀楳亭(きのばいてい)」(俳号・梅亭)である。
 呉春は、蕪村没後、蕪村と交流のあった円山応挙に迎えられ、後に「四条派」を形成し、応挙と共に、「円山・四条派」は、近・現代の京都日本画壇の主流を占めるに至る。また、
楳亭は、天明の大火で近江(大津)に移住し、後に、「近江の蕪村」と称せられるに至る。
 呉春も楳亭も、与謝蕪村門の画人として、当時の京都画壇の一角を占めていたが、同時に、俳人としても、蕪村の夜半亭社中の一角を占めている。そして、何よりも、この両者は、蕪村の臨終の最期を看取ったことが、『から檜葉』(上)に、次の前書きのある句で物語っている。

  師翁、白梅の一章を吟じ終て両眼を閉(とじ)、今ぞ世を辞す
  べき時也。夜はまだ寒きや、とあるに、万行の涙を払ふて
明(あけ)六ツと吼(ほえ)て氷るや鐘の声            月渓
夜や昼や涙にわかぬ雪ぐもり                梅亭

 これに続いて、「奉哭」と題して、夜半亭一門の句が収載されている。この登載の順序は、恐らく、年齢や俳歴などに因っての、序列などを意味していると解せられる。

雪はいさ師走の葉(はて)のねはん哉              田福
折(おれ)て悲し請(こふ)看(みよ)けさの霜ばしら         鉄僧
師は去りぬ白雲寒きにしの空                 自笑
かなしさや猶(なお)消(け)ぬ雪の筆の跡             維駒
雪にふして栢(かや)の根ぬらす涙かな             百池
(以下略)

田福は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、一門の最長老格なのであろう。京都五条町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。百池の寺村家とは姻戚関係にあり、宝暦末年までは貞門系の練石門に属し、練石没後蕪村門に投じている。三菓社句会には、明和五年(一七六八)七月より、その名が見える。
 鉄僧は、詳細不明だが、雨森章迪の俳号との説がある(『人物叢書 与謝蕪村《田中善信著》』・「国文白百合27号」所収「蕪村と鉄僧《田中善信稿》」)。それによると、「章迪は医を業としたが、書にも巧みで、京都の金福寺に現存する蕪村の墓碑の文字を書いた人物として知られている。後に蕪村のパトロンとなる百池は彼に書を学んだという。章迪は天明二年の『平安人物史』に毛惟亮の名で医者として登載されている(但し、『平安人物史』には医者の項目はなく、「学者」の部に登載されている)。住所は、「白川橋三条下ル町」である。
 章迪は、天明六年(一七八六)に、享年五十五で没しており、逆算して、享保十六年(一七三一)の頃の生まれとすると、田福に次ぐ、蕪村門の長老ということになる。蕪村門の俳歴からすると、鉄僧が章迪の俳号とすると、明和三年(一七六六)の第一回参加者句会から参加しており、次に出てくる「自笑」と共に最古参ということになる。
 とすると、この鉄僧こと雨森章迪が、この蕪村追悼集『から檜葉』の巻末の「哭文・哭詩」を草することと併せ、金福寺の蕪村墓碑の揮毫をする、その理由が明らかとなって来る。即ち、当時の蕪村の最大の支援者であり理解者であったのが、鉄僧こと雨森章迪ということになる。
 次の自笑(初号は百墨)は京都の人で、浮世草子の出版で有名な八文字屋の三代目である。三菓社句会の初回から加わり、蕪村門での俳歴は長い。後に、寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住している。
 続く、維駒は、蕪村門の最高弟であった黒柳召波の遺児で、安永六年(一七七七)に父の遺句を集めて『春泥句集』、蕪村が没する天明十三年(一七八三)、父の十三回忌に追善集『五車反古』を刊行し、この二書は同門中における維駒の名を重からしめた。この『五車反古』の「序」に、「病(びょう)夜半題(題ス)」と署名し、この『五車反句』の「序」が、蕪村の絶筆となった。
 次の百池は、姓は寺村、名は雅晁、通称は堺屋三右衛門、のち助右衛門と改めた。別号に大来堂など。祖父の代に京に上り、繡匠をもって業とした。河原四条に居を定め、大いに家業を興し、巨万の富を積んだ。父三貫が、蕪村の師の早野巴人門で、三貫自身、蕪村門に投じている。百池は、明和七年(一七七〇)の頃に蕪村門に初号の百稚の名で入門している。蕪村の有力な経済的支援者であると共に、穏健静雅な句風によって同門中に重きをなしている。また、百池没後の多くの遺構類は、「寺村家伝来与謝蕪村関係資料」として、今に遺されている。

 さて、冒頭の「呉春筆・雨森章迪賛の『蕪村画像』」に戻って、呉春が、この「蕪村画像」を描いたのは、蕪村没後十八年の享和元年(一八〇一)で、この時には、賛を書いた雨森章迪(鉄僧)は、天明六年(一七八六)に没している。
 従って、この賛は、呉春が、章迪(鉄僧)の遺構類のものをもって、この「蕪村画像」の上に合作して一幅としたものなのであろう(『与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」では「現在は、絵と賛が別になっている」との記述があるが、その一幅となっていた前の形態は、「絵と賛が別々」であったのであろう)。
 最後に、雨森章迪の筆による、蕪村墓碑」(金福寺)を掲載して置きたい。

(補記)

 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その折出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)は、旧蔵者の「雨森白水」との関連で、最初に、これらを企画し、蒐集したのは、蕪村、そして、呉春と親交の深い、鉄僧こと、雨森章迪ということも、十分に有り得ることであろう。
 なお、『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」に、「処士雨森章迪誌銘」(皆川淇園に因る墓誌銘)が紹介されており、その中に、「無子(子無シ)」とあり、章迪は継嗣を失っており、その継嗣を失った時の賛(「般若心経」)が月渓(呉春)の「羅漢図」にあるようである。また、章迪の「号は多数」で、その中に、寺村百池の別号の「大来堂」もあり、章迪の別号の「大来堂」を百池が譲り受けたのかも知れない。とすると、第一回の「三菓社」句会は、鉄僧(章迪)の「大来堂」で行われたということなのかも知れない(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「鉄僧の居宅大来堂で行われた」としている)。

蕪村墓.png

(雨森章迪筆 「与謝蕪村墓碑」)


『平安人物史』上の蕪村と若冲 [蕪村と若冲]

 『平安人物史』上の蕪村と若冲(「補記」を含む)

 蕪村が明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』に載ったのは、宝暦七年(一七五七)三年間に及ぶ丹後・宮津逗留に終止符を打って、それ以前に寓居していた京都に再帰して十年余りが過ぎた、五十三歳の時であった。
 この宝暦七年(一七五七)から明和五年(一七六八)にかけての蕪村の歩みを振り返ると、讃岐逗留(明和三年=一七六六~明和五年=一七六八)を含む「三菓社時代(宝暦九年=一七五九~明和七年=一七七〇)」ということになろう。
 「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(一七七六)頃までの長期にわたり断続的に用いられている。その前身は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られる、その種の「三果樹」などに由来があるのであろう。
 「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろう。その第一回目の句会は、明和三年(一七六六)六月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の八人である。

(補記
「鉄僧」を「雨森章迪」の俳号としているのは、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』に因っている。同書の「三菓社句会」の章で、『夏より 三菓社句集』(百池の後裔の寺村家伝来)に基づき当時の三菓社句会の様子の記述が成されている。そこで、「第一回の句会が六月二日鉄僧の居宅大来堂で行われた」と、「大来堂」を鉄僧の居宅としているのだが、後に、「百雉」の名で、この句会のメンバーになる「寺村百池」の別号が「大来堂」で、この「大来堂」は、寺村家と解したい。百池の父「三貫」が、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)門で、「河原町四条に居を定め、繡匠をもって、大いに家業を興し」(「国文学 解釈と鑑賞《1978・3》」所収「蕪村とその弟子たち《丸山一彦稿》」、その「三貫」の関係で「寺村家」で開催されたものと解したい。
 なお、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展で出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合)の旧蔵者の「雨森白水」は、「雨森章迪」(医者・書家・漢詩人、別号に白山・白隠斎など)と深い関係にある者と解したい。

 この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦九年(一七五九)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦九年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」と、その署名は「東成趙居」である。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れない。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろう。
 この「趙居」は、宝暦七年(一七五七)に丹後宮津を去って京都に再帰してからの蕪村の画号で、宝暦十年(一七六〇)の「謝長庚」が登場して、以後見られなくなる(但し、「趙」という一字の印章は晩年まで用いられている)。
 大雑把な「三果社時代」の画業の中心をなすのは、宝暦十三年(一七六三)から明和三年(一七六〇)にかけての「屏風講(蕪村の屏風など大作を購入する同好会)時代」で、そのメンバーは、三果社のメンバーが基礎になっていたのであろう。
 この屏風講時代に創作された絖本(こうほん・ぬめ張り)・絹本の屏風絵は次の通りである。

○山水図屏風(絖本、出光美術館蔵) 宝暦十三年四月碧雲洞での作。(落款)謝長庚。東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚・春星氏・謝長庚印・春星・東成。
○野馬図屏風(絖本、京都国立博物館蔵) 宝暦十三年八月三果軒および碧雲洞での作。(落款)東成謝春星・東成謝長庚。(印章)春星・謝長庚印。
○山水図屏風(絖本、文化庁蔵) 明和元年夏三果亭での作。(落款)謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・溌墨生痕・三果居士。
○山水図屏風(絖本、個人蔵) 明和九年・十月三果亭での作。(落款)東成謝長庚・謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・謝長庚・謝春星。
○柳塘晩霽図屏風(絖本、フリーア美術館蔵) 明和元年十一月三果亭での作。(落款)謝
長庚・東成謝春星。(印章)謝長庚・謝春星・謝長庚印・春星・溌墨生痕。「柳塘晩霽図 陳霞狂筆ニ擬ス」と記す。
○青楼清遊図屏風(絹本、個人蔵) 明和二年六月作。(落款)春星。
○蘭亭曲水図屏風(絖本、東京国立博物館蔵) 明和二年作。(落款)謝長庚・溌墨生痕・山水自清言。
○草廬三顧・蕭何追韓信図屏風(絖本、野村文華財団蔵) 製作年次不明。(落款)謝長庚。(印章)謝春星・謝長庚。
○龍山勝会・春夜桃李園図屏風(絖本、MOA美術館蔵) 製作年次不明。三果堂での作。(落款)謝長庚、東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚印・謝長庚・謝春星。
                (『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著・吉川弘文館)』)

 そもそも、宝暦七年(一七五七)、蕪村が四十二歳の時に、丹後宮津から京に再帰する以前の前半生というのは、大阪・江戸・北関東・東北・京都・丹後各地を、一所不在の放浪の日々で、それは同時に、画(画人)・俳(俳人)の二道を極めんとしての修業・修練の日々でもあった。
 そして、その前半生の放浪・修練の日々は、「釈蕪村」と僧籍にある「釈」氏を名乗り、浄土宗の遊行僧として雲水行脚の日々であったとしても差し支えなかろう。
 その放浪の雲水行脚の日々に終止符を打って、還俗して俗姓の「与謝」氏を名乗り、結婚して京都での定住の生活に入ったのは、宝暦十年(一七六〇)の四十五歳の頃で、この時期を境にして、蕪村の絵の落款は「謝長庚」「謝春星」と「謝」氏となり、この「謝」は「与謝」という姓の中国風に一字のものにしたものと解して差し支えなかろう。
 上記の、蕪村の一時代を画することになる屏風講時代の大作は、いずれも、「謝長庚・謝春星」の落款を用いての、京都に定住して創作されたものということになる。そして、蕪村が、名実共に京都の画人として世に認められた証しが、冒頭に掲げた明和七年(一七六八)刊行の『平安人物史』の「画家」の部に、「大西酔月・円山応挙・伊藤若冲・池大雅・蕪村」の順で、全部で十六人中、五番目に搭載されたことが、何よりの証左ということになろう。
 ここで、蕪村と同年(正徳六・寛保元年=一七一六)に誕生した若冲との関連を、「蕪村と若冲関連年表」(『生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』所収)でビックアップすると次のとおりである。

宝暦七年(一七五七)四二歳 (若冲)高遊外、「売茶翁像」(作品一五二)に賛する。(蕪村)九月、鷺十の閑雲山真照寺にて「天橋立図」(作品二七)を描く。丹後与謝から京に戻る。帰洛後、氏を与謝と改める。
宝暦八年(一七五八)四三歳 (若冲)「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館)の制作をはじめる(前年からか)。春、「梅花小禽図」(動植綵絵)。
宝暦十年(一七六〇)四五歳 (若冲)梅荘顕常や池大雅らと京郊外の梅を見る(翌年か)。八月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」(作品一五一)。十一月、「四季花鳥押絵貼屏風」(作品六四)。十二月冬至、「動植綵絵」を見た高遊外から「丹青活手妙通神」の一行書を与えられる。
「髑髏図」(作品七四)に高遊外の賛。(蕪村)六月、「維摩・龍・虎図」(作品五〇)。十二月、「倣王叔明山水図屏風」(作品一四二)。冬、「双馬図」(作品一二六)。この頃、結婚するか。 
宝暦十三年(一七六三)四八歳 (若冲)『売茶翁偈語』に高遊外の肖像を描く。(蕪村)この頃、屏風講をはじめ、屏風を多数制作。
明和二年(一七六五)五〇歳 (若冲)九月十九日、末弟宗寂没(享年不明)。九月二十九日、「釈迦三尊像」三幅(宮内庁三の丸尚蔵館)、「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進。十一月十一日、宝蔵寺に宗寂の墓建立。十二月二十八日、相国寺と死後永代供養の契約を結ぶ。
明和五年(一七六八)五三歳 (若冲)五月、『玄圃遙華』(作品七九)。十一月一日、東本願寺光遍上人、「動植綵絵」の一覧を相国寺に願い、貸与を許可される。三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「高倉錦小路上ル町」。『素絢帖』(作品七八)跋。
(蕪村)三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「四条烏丸東ヘ入町」。
四月、讃岐を去り、帰京する。五月六日、三果社中句会を再開する。

 上記の「関連年表」で、まずもって注目したいことは、宝暦七年(一七五七)に蕪村が京都に再帰した、その年に、若冲の畢生の傑作シリーズの「動植綵絵」の製作がスタートを切ったということである。この若冲の「動植綵絵」(三十幅)と「釈迦三尊図(三幅対)との全貌は別記の通りである。

 そして、この「動植綵絵」は、明和二年(一七六五)九月に、妻子のいない若冲の跡取りとして期待をかけていた末弟宗寂が亡くなったのを機に、いまだ未完成のままに、「釈迦三尊」(三幅)と「動植綵絵」(二十四幅)を臨済宗相国寺派大本山相国寺に寄進し、生家の伊藤家の菩提寺宝蔵寺(浄土宗)の宗寂の墓を建立している(父母の墓も若冲が建立している)。
 何故、生家の菩提寺宝蔵寺ではなく相国寺に寄進したのかは、若冲より三歳年下の、生涯にわたって精神的支柱と仰いでいた、後の、相国寺百十三世住持となる大典顕常和尚(梅荘顕常)と、その相国寺の塔頭の林光院を住居としていた売茶翁(漢詩人・高遊外、臨済・曹洞の二禅を極め、さらに律学をも修した当代一流の黄檗僧・月海元昭、その僧籍を捨てて、「通仙亭」で煎茶を売る「売茶翁」の名で知られている)との二人の縁に因るものなのであろう。
 この若冲の精神的二大支柱の梅荘顕常と高遊外の二人が、宝暦十年(一七六〇)に、若冲のアトリエ(「独楽窩」でなく「心遠館」か)を訪れて、「将ニ花鳥三十幅ヲ作リ、以テ世ニ遺サントス。而シテ十有五幅既ニ成レリ」((大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」))と、その時に完成していた十五幅を見たとの記事を残している。
 それだけではなく、この時に梅荘顕常に同行していた高遊外は、「宝暦庚辰(十年)冬極月/丹青活手妙通神/八十六翁高遊外書付/若冲隠士」という一行書(書A)を認め、若冲に与えたのである。
この高遊外が「八十六翁」の八十六歳とすると、若冲、四十五歳、梅荘顕常、四十二歳の時となる。即ち、高遊外と若冲・梅荘顕常とは、四十歳以上の歳の開きがあったということになる。
若冲は、この一行書の「丹青活手妙通神(丹青活手の妙神に通ず)」の七文字を二行にわかって印刻し、生涯にわたってそれを使用し続けた。「動植綵絵」においても、別記の「17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」「22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)」「23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)に、その印影を見ることが出来る。
 さらに続けると、梅荘顕常の「藤景和画記」には、この「而シテ十有五幅既ニ成レリ」の、その十五幅について、漢字四字の題名をつけて、それぞれに、その図様の解説を漢文で記している。それと、現存する「動植綵絵」(三十幅)を照合すると、別記の「1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)」から「12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)」の十二幅は一致し、三幅(「秋扇涼影」「寒華凝凍」「群囲攻昧」)は該当するものがなく、その三幅は「墨画」と明記されている。
 すなわち、若冲の当初のプランでは、着色画(カラー)十五幅と水墨画(モノクロ)十五幅とを対にするものであったが、製作途中で、全てを着色画として、明確に「動植綵絵」の全体にかかわる題名を付して、宝暦十三年(一七六三)に、その二十四幅と「釈迦三尊像」(三幅対)を相国寺に寄進したということになる(『若冲 広がり続ける宇宙(狩野博幸著・角川文庫)』)。
 そして、明和七年(一七七〇)十月、父親の三十三回忌の折りに、自分と父母の戒名と、「動植綵絵」(六幅)を追加し三十幅として、その寄進を完了させ、併せて、永代供養の宿願を刻した位牌を相国寺に寄進したというのが、現存する「釈迦三尊像」「動植綵絵」との顛末ということになる。
 ここで、この「釈迦三尊像」「動植綵絵」の三十三幅は、観音菩薩が「三十三応身」として衆生を救うという教えが意識されているということと、これらの「動植綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという「草木国土悉皆成仏」の思想を具現化しているという指摘(『生誕三百年記念 若冲百図(小林忠監修)』所収「伊藤若冲の生涯(小林忠稿)」)は、誰しもが実感するものであろう。
 この「動植綵絵」の「綵絵」という語は、単なる彩色を施した絵という意味ではなく、「
仏教的なニュアンスを持っていた(元の仏画で発願者がそれらを綵絵させたと記す用例がある)」という指摘もある(『もっと知りたい伊藤若冲 生涯と作品(佐藤康宏著)』)。
 と同時に、これらの「「釈迦三尊像」「動植綵絵」にかかわる一部始終を見て行くと、若冲の作画の意図というのは、この「動植綵絵」(三十幅)の途次(二十四幅)で寄進した、明和二年(一七六五)九月晦日付け相国寺宛て寄進状(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の、次の大意(原文は漢文)に、全て網羅されていることを実感する。

「私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽根の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、以て一家をなしました。また嘗て張思恭(ちょうしきょう)画くところの釈迦文殊普賢像が巧妙無比なのを見て、何とか摹倣(もほう)したいと思い立ち、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具(しょうごんぐ)として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も百年の形骸を終(つい)に斯の地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。」
 (『若冲(辻惟雄著・講談社学術文庫)』) 

 図9-3.png 
(印章A 蕪村愛用の遊印「潑墨生痕」)

若冲一行書.jpg
 (書A「一行書 丹青活手妙通神
  売茶翁作 )

 さて、若冲と蕪村とが、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に、当時勃興しつつあった、新しい写生画的「花鳥画」の旗手として、応挙と若冲、そして、日本の文人画の旗手として、大雅と蕪村とが、当時の京都画壇のビックファイブとして、登載されるに至ったと解して差し支えなかろう。
 そして、当時の若冲の代表的な作品としては、煎茶中興の祖として仰がれている売茶翁(漢詩人・高遊外、法名・月海)をして、「丹青活手妙通神」とまで激賞された、釈迦三尊図(三幅対)と「動植綵絵」(三十幅のうちの二十四幅)、そして、蕪村の代表的な作品としては、
宝暦十年(一七六〇)、還俗して与謝姓を名乗った頃から晩年に至るまで、蕪村が好んで愛用した印章(遊印)の「潑墨生痕(はつぼくせいこん)」が捺されている、屏風講時代ですれば、先に掲げた「山水図屏風」(絖本、出光美術館蔵)、「山水図屏風」(絖本、文化庁蔵)、「柳塘晩霽図屏風」(絖本、フーリア美術館蔵)などが挙げられよう。
 この「柳塘晩霽図」には、「陳霞狂(ちんかきょう)ニ倣フ」の款記があり、その「陳霞狂
(汝文)の「古木短篷(こぼくたんぽう)」と題(落款)する画中に、「潑墨生痕」(白文方印)が捺されており、蕪村はこれに倣ったのではなかろうかと推測されている(『特別展没後二百年記念 与謝蕪村 名作展(大和文華館編)』所収「蕪村画の魅力(早川聞多稿)」)。
 続けて、この「潑墨生痕」の意味について、「『潑墨』とは一般に墨をそそぐやうにして描く水墨画の描法をさすが、ここではその描法から見て、描く勢ひを象徴するものと私には思はれる。そして『生痕』とは生きた跡、生の証(あかし)といふことであらう。つまり「自らの筆勢の裡に生きてゐる証を描きたい」といふ願ひが、この遊印には籠められててゐると、私は想像するのである」(早川聞多・前掲書)としている。
 ここで、この蕪村の「潑墨生痕」(印章A)に、先の、若冲の「寄進状」や、売茶翁が若冲に呈した一行書(書A)を重ね合わせると、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に登載された、若冲と蕪村との二人が見事にクローズアップされて来る。

(別記)
動植綵絵(三十幅)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)
宝暦七年(一七五七)頃の作(絹本着色)。画面左上に「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」、署名下に「汝鈞」(白文方印)」・「藤氏景和」(朱文方印)。画面右上に「出新意於法度之中」(朱文長方印)。題名「艶霞香風」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
2・梅花小禽図(ばいかしょうきんず)
宝暦八年(一七五八)作(絹本着色)。画面右上に「宝暦戌寅春居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。題名「碧波粉英」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
3・雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲春若冲居士製」、下に「藤女鈞字景和」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「寒渚聚奇」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
4・秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲秋若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「野田楽生」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
5・向日葵雄鶏図(ひまわりゆうけいず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左下に「宝暦己卯仲秋若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「初陽映発」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
6・紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左中央に「宝暦己卯秋平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「堆雲畳霞」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
7・大鶏雌雄図(たいけいしゆうず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯年平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「聯歩祝々」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
8・梅花皓月図(ばいかこうげつず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「羅雲寒色」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
9・老松孔雀図(ろうしょうくじゃくず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「芳時媚景」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
10・芙蓉双鶏図(ふようそうけいず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右下に「心遠館若冲居士造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「芳園翔歩」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
11・老松白鶏図(ろうしょうはっけいず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「晴旭三唱」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面左に「心遠館主人若冲写」、画面左に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「隴客来集」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
13・芦鵞図(ろがず)
宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。署名はなく、画面右に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
14・南天雄鶏図(なんてんゆうけいず )
明和二年(一七六五)作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。
15・梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青不知老将至」。
16・棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左に「斗米
葊主若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。
18・桃花小禽図(とうかしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「若冲居士」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
19・雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左下に「錦街若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
20・群鶏図  (ぐんけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
21・薔薇小禽図(ばらしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「心遠館若冲画」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年頃(一七六五)の作(絹本着色)。画面右下に「若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)。右中央に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。
23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面右下に「斗米
葊若冲」、下に「藤汝鈞」(白文方印)若冲居士」(朱文円印)。左上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。
24・貝甲図(ばいこうず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「汝鈞」(白文円印)・「若冲居士」(朱文円印)。
25・老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
26・芦雁図  (ろがんず)
宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。画面右下に「宝暦辛巳春居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。
27・群魚図・蛸(ぐんぎょず・たこ)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右中央に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
28・群魚図・鯛(ぐんぎょず・たい)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
29・菊花流水図(きっかりゅうすいず )
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
30・紅葉小禽図(こうようしょうきんず)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞印」(白文方印)・「若冲居士」(白文方印)。
釈迦三尊図(三幅対)京都・相国寺蔵
31・釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。
32・普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。
33・文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面左下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。
(『若冲百図 生誕三百年記念(小林忠監修・別冊太陽)』・『若冲 名宝プライスコレクションと花鳥風月(狩野博幸監修・別冊宝島)』)

蕪村の花押(その四) [蕪村]

蕪村の花押(その四)

蕪村 天橋立図.png
(絵図H=蕪村筆「天橋立図」)

 『若冲と蕪村展図録』のの「天橋立図」の「作品解説(27)」は、次のとおりである。

[ 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 宝暦七年(一七五七) 八五・八×二七・八

画面上部に記された長文の賛によって、蕪村が宝暦四年(一七五四)に訪れ滞在していた丹後を、宝暦七年(一七五七)九月にいよいよ離れるにあたり、宮津の閑雲山真照寺で制作したことが判明する。真照寺には丹後滞在中に蕪村と親しく交流していた鷺十(一七一五~九〇)がおり、俳友でもあった彼のために揮毫されたのであろう。絵は、砂洲の上に松林が並ぶ簡略なもので、幅の広い刷毛を用いて一気に描かれた淡墨の砂洲の上に、淡墨で松林の幹を並べ、淡墨でリズミカルに松の葉叢を描いている。あたかも天橋立の一部を切り取って拡大したかのような風情である。
 上記の賛では、文人画家として俳諧師としても蕪村の先達であり、丹後にも滞在したことのある彭城百川と自らを対比させている。とくに百川の画風を「明風を慕ふ」と評するのに対し、自らの画風を「漢流に擬す」と位置づけている点が注目されよう。

  八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮ニに出て蓮ニによらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧(けり)。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、
はしだてを先にふらせて行秋ぞ
 わが今留別の句に、
せきれいの尾やはしだてをあと荷物
 かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中 印章「馬孛(バハイ)」(白文方印)、「四明山人」(白文方印)]

 長文の賛の簡単な訳と語注を付して置きたい。

(訳)八僊観こと彭城百川は彩色画を好んで、明代の中国画を模範としている。嚢道人こと与謝蕪村は、特定の流派にこだわらず広く絵画を愛して中国画全般から学んでいる。また、共に俳諧を嗜み、芭蕉門に連なるが、百川は支考門から出て美濃派に止まっていない。
同様に、私こと蕪村も其角門であるが其角に全面的に加担はしていない。だから、二人ともさらに前向きに向上工夫を重ねること旨とし、その結末がどうなろうとかの頓着はしていない。また、その俳諧の世界で名を上げようとも思ってはいないことも、二人は全く同じ趣なのである。
 ということで、百川がだいぶ前のことだが、この丹後の地に遊歴して帰京する時に、次の一句を残している。
 はしだてを先にふられて行秋ぞ(海中に長く突き出ている天の橋立を先触れとして、秋闌ける丹後を後にして京に帰っていくことよ)
 この百川の句を踏まえて私の留別の句は次のとおりである。
 せきれいの尾やはしだてをあと荷物(天の橋立名物の鶺鴒が長い尾を振って別れを惜しんでいる。この地を今去るに当たって、振り分けた荷物のように天の橋立の鶺鴒を名残り惜しみつつ、京に帰って行くことよ)
 これらの句のように、百川は、天の橋立を先駆けとして、その六里の松に肩を並べ馬で
京の西へと向かうが、蕪村は、その天の橋立を後にしながら、京の東へと向かう。共に、
これからの中国画、即ち、文人画の先頭に立ちたく、さながら、百川と蕪村との華やかな
の道行き道中ということではなかろうか。
 丁丑(宝暦七年)九月 嚢道人蕪村書ス於閑雲洞中
  
(語注) ○「蓮二」は支考、「晋子」は其角の別号。
○「丹青」は赤と青で彩色画。「画図」は図柄。
○「漢流」は和画に対しての中国画。
○「竿頭に一歩」は禅語でさらに向上工夫して前進すること。
○「まゝの川」は儘の川で自然の流れ。
○「留別」は旅立つ人が残る人に告げる別れ。
○「前駈」は前に駈けること。
○「殿騎」は殿(しんがり)を駆けること。
○「此道の酋長」は未開地扱いの文人画の首領の意。

 この長文の賛は、蕪村が百川について記した文献的にも貴重なもので、蕪村が深く百川に傾倒していたことが如実に示されている。また、この落款の年月日から、蕪村が丹後を去ったのが、宝暦七年(一七五二)、四十二歳の時であったことが明らかとなって来る。
 蕪村が、江戸から京都に上洛したのは宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは翌年の宝暦二年(一七五二)八月十五日のことで、両者の出会いがあったのかどうかは、その一年間という短い期間に於いてである。
 そして、その百川が亡くなると、嘗て百川が遊歴した丹後の宮津へと赴くのが、宝暦四年(一七五四)のことで、蕪村の丹後時代というのは、足掛け四年ということになる。
 ここで、この賛文中の、百川が「平安の西にふりこみ」は、百川が、京の「賀茂川以西に住んでいた晩年の八僊観の住居」を指し、蕪村の「洛城の東」は、京の「東山の僧房住まいであったと覚しい」住居を指し、蕪村は百川の住所を知っていて、生前の百川と蕪村とは面識があったという見解がある(『蕪村の遠近法(清水孝之著)所収「百川から蕪村へ」)。
 確かに、蕪村が関東での十五年余に及ぶ歴行の生活に終止符を打って上洛した大きな理由の一つに、蕪村が理想としていた画と俳との二道に於いて、その頂点に位置しているとも思われる百川への思慕があったことは厳然たる事実であろう。
 そして、蕪村の親しき交遊関係にある、亡き師の夜半亭宋阿(早野巴人)に連なる、京都俳壇の一角を担っている、宋屋・几圭等との関係に於いて、さらに、百川(前号=松角・昇角)と支考門を同じくする渡辺雲裡坊(前号=杉夫、蕪村が上洛する前年に義仲寺に無名庵の五世となり、芭蕉の幻住庵を再興している)との関係からして、蕪村と百川との出会いというのは、それが、直接的な裏付けるものがないとしても、それを否定的に解する見解よりも、上記の「生前に百川と蕪村との面識があった」という見解(清水・前掲書)を是といたしたい。
 しかし、この賛における「平安の西」そて「洛城の東」というのは、単に、平安・洛城(京都)の「西と東」とを意味するのではなく、この百川の「平安の西にふりこみ」というのは、「「平安(京都)に『西せり』(「西方浄土」に赴く)」の意と、そして、この蕪村の「洛城の東にかへる」の「洛城」は、蕪村が私淑して止まない唐詩人の李白「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、次の七言絶句が背景にあると解したい。

 誰家玉笛暗飛声 (誰ガ家ノ玉笛ゾ 暗ニ声ヲ飛バス)
 散入春風満洛城 (散ジテ春風ニ入リテ 洛城ニ満ツ)
 此夜曲中聞折柳 (此ノ夜曲中 折柳ヲ聞ク)
 何人不起故園情 (何人カ 故園ノ情ヲ起コサザラン)

 この四句目の「折柳」とは、別離の曲であり、この五句目の「故園」とは生まれ故郷を指す。この一句目の「誰家」は、落款にある「於閑雲洞中」を指し、そして、その二句目の「洛城」は、李白の詩では「洛陽の街」を指すが、ここでは「京都の街」を指すのであろう。そして、その背後には、五句目の「故園」(生まれ故郷)を利かしているように解したい。
 その上で、この「天橋立」の落款の下に押印されている印章(款印)、「馬孛(バハイ」(白文方印)、「四明山人(シメイサンジン)」(白文方印)に注目したい。この「四明山人」の「四明」は、「四明朝滄」とか、しばしば用いられるもので、比叡山の二峰の一つ四明岳に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その「比叡山(四明山)」ということになろう。
 とすると、「馬孛(バハイ)」の「馬」は、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」に由来するものなのではなかろうか。事実、先に紹介した、宝暦八年(一七五八)の几圭薙髪記念集『はなしあいて』に、挿絵一葉、発句二句、三吟百韻(鈳丈・几圭・蕪村)が収録されている頃(その前年)、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来がある(『田中・前掲書』)。
なお、この「馬孛(バハイ)」の款印を「馬秊(バネン)」としているものがあるが(『田中・前掲書』)、下記の「印譜2」(『特別展没後二百年記念与謝蕪村名作展(大和文華館編集)などからして、「馬孛(バハイ)」と解すべきであろう。
 そして、この「馬孛(バハイ)」の「孛」は、「孛星(ハイセイ)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。
 とすると、「馬孛(バハイ)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。しかし、この号(款印)は、この「天橋立図」以外に、その例を見ない。
 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(チョウコウ・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。
 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、春の「長庚(金星)」を含め、春の「孛星(ほうき星)」「子漢(蕪村の号=子の刻の天漢・長漢・銀漢=天の川)等の、季題の「星月夜」の「秋星(シュンセイ)=秋の星」ならず「春星(シュンセイ)=春の星」のもじりとも解せられる。
 と同時に、この「春星」は、上記の李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城に笛を聞く)」の「春夜」に輝いている「星」(太白星=長庚=金星)と響き合っているようにも思えるのである。
というのは、この七言絶句(四行詩)の作者・李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、その字名(通称)は「太白=金星」で、蕪村の号(款印名)の「長庚=金星」と同じなのである。そして、その「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。

 ここで、「謝長庚」「謝春星」、その「長庚・春星」に次いで、安永七年(一七七八)、蕪村、六十三歳の最晩年に近い頃から用いられる「謝寅」の「謝」は、「与謝」という姓の一字を省略したものとみて間違いあるまい(『田中・前掲書)。
 すなわち、上掲の「天橋立」を創作して丹後を後にした宝暦七年(一七五七)、その翌年(宝暦八年=一七五八、几圭薙髪賀集『はなしあいて』を刊行)の、その翌々年(宝暦十年=一七三〇、雲裡坊に筑紫行きを誘われるが、同行せず、この頃結婚し還俗したと思われる)の頃までに、蕪村は、出家していた「釈蕪村」から、以後の姓名となる「与謝蕪村」を称したということになろう。
その上で、この「与謝」の一字の姓の中国風の「謝」は、中国の文人(詩人・画人等)に多く見られる「謝」の姓だが、これまた、蕪村の脳裏には、李白の、「秋登宣城謝脁北楼(秋宣城ノ謝脁北楼ニ登ル)」や「宣州謝脁楼餞別校書叔雲(宣州ノ謝脁楼ニテ校書叔雲ニ餞別ス)」の詩に出て来る六朝時代の山水詩人として名高い「謝脁(元暉))や謝脁と共に「三謝」と称せられている「謝霊雲・謝恵連」などが当然にあったことであろう。
 続けて、蕪村の最晩年の傑作絵画中に必ず見られる落款の署名、「謝寅」の「寅」は、明時代の画家「唐寅(号=伯虎)」に由来していることは定説となっている(『田中・前掲書』)。  
この唐寅は「江南第一風流子」と署した人物で、書画文章は何れも当時高名であったという(『仁枝・前掲書』)。
 ここで、上掲李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」中の「春風」(二句中)、「折柳」(三句中)、「故園」(四句中)と、この唐寅の「江南第一風流子」の「江南」の語句は、これまた、関東遊歴・丹後時代に用いられた比叡山の別称の「四明」が、蕪村の俳詩「春風馬堤曲」と関係していると解せられるように、これらの李白・唐寅の語句は、その「春風馬堤曲」(十八首)を読み解く重要なキーワードでもある。

○ 春風や堤長うして家遠し     (二首目の「春風」)
○ 店中二客有リ。能ク解ス江南ノ語 (七首目の「江南」)
○ 揚柳長堤漸くくだれり      (十六首目の「揚柳」=楽府の「折揚柳」=「折柳」)
○ 矯首はじめて見る故園の家    (十七首目の「故園」) 

この発句体(六句、『夜半楽』の表記の「十八首」の表記では六首)、擬漢詩体(四首)そして漢文訓読調の自由詩(八首)の、日本文学史上他に例を見ない独特のスタイルの「春風馬堤曲」に関して、蕪村自身が「馬堤は毛馬塘なり。即ち余が故園なり」と記し、この作品(「春風馬堤曲」)は「愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出でたる実情」と認めている書簡が今に残されている(安永六年=一七七六、柳女・賀瑞宛書簡)。
 蕪村が自分の故郷を明記したのは、この書簡のみであり、望郷の思いを表出したのも、この時だけである。しかし、その萌芽の一端は、蕪村が丹後を後にして再帰洛する宝暦七年(一七五七)の、上掲の「天橋立図」の長文の賛の背景となっていると思量される、李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、「何人不起故園情(何人カ故園ノ情ヲ起コサザラン)」の中に、明瞭にその痕跡を残しているように思えるのである。
 ここで、下記印譜中、「四明・馬孛・長庚・春星・謝」については触れたので、触れていないものについて若干の付記をして置きたい。
 「朝滄」については、先に、「蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものであろう」と記したが、別に、「漢滄溟」という号も使用しており、『唐詩選』の著者の李
于鱗の『滄溟集』などの関連もあるのかも知れない(『仁枝・前掲書』)。
 「囊道(人)」についても、先に間接的に触れているが、「囊=袋」の意であることは、字義的に間違いなかろう。「道・道人」は、「儒教・道教・神仙を修めた人」というよりも、「俗事を捨てた人」のような用例なのかも知れない(『仁枝・前掲書)。しかし、「仏道の修業する人」の意もあり、当時、蕪村は「嚢道人釈蕪村」と俗性を捨てて「釈」姓を名乗っていたことに関連するものなのかも知れない。とすると、この「嚢」は「頭陀袋」の意なのかも知れない(『与謝蕪村集(清水孝之校注)』)。
 そして、『春泥句集(維駒編)』の「序」(安永六年=一七七六)の、「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」の「一嚢」などと深く関わるものなのかも知れない。

(蕪村印譜)

蕪村印譜.jpg

一段目  左  1 四明山人
   中  2  馬孛 
右 3 朝滄
二段目  左 4 朝滄
   中 5 朝滄
右 6 嚢道
三段目  左 7 趙   
  中 8  東成 
  右 9  謝長庚印 
四段目 左 10 春星
  中 11  春星氏 
  右 12  謝長庚

 「趙」は、宝暦七年(一七五七)に京都に戻り、その翌年の「戌寅(宝暦八年)秋、平安城南朱瓜楼中ニ於イテ写ス 馬塘趙居」の落款のある「山水図」(東京国立博物館蔵)などから見られるものである。この時期から、「馬塘」の他に「淀南」(淀川南)、「河南」(淀南と同意)と蕪村の生まれ故郷(淀川河口の毛馬)と関係ある文字が用いられる。「趙居」とは、「趙李」(実を結ばないの意)の「居」で、「蕪村の居常借家住まい」に由来するとか、山水画を善くした南宋から元の時代の書画詩文で名高い「趙孟頫」に因っているとかとされている(『仁枝・前掲書』)。
 この「趙孟頫」は、「秋耕飲馬図」「浴馬図」「調良図」など、馬を描いた屈指の画家としても知られているが、蕪村もまた「近世南画家にあって彼程多くの馬を描いてゐる画家は他に例を見ない」(『蕪村の芸術(清水孝之著)』)ほどの馬の傑作画を残している。しかし、その馬の絵でも、蕪村は「馬ハ南蘋ニ擬シ人ハ自家ヲ用ユ」(牧馬図))など、清時代の画家で長崎に滞在したこともある、円山応挙や伊藤若冲などに多大な影響を及ぼした「沈南蘋」の、いわゆる、長崎派の写実画の影響を匂わせている。
 しかし、中国の宮廷画家の院体画に対して、士大夫層出身の儒教の学問と文学の教養を備えた文人(知識人)の、「詩・書・画」が一体としての「文人画」を復興した中心人物の「趙孟頫」の蕪村に与えた影響は、専門画家としての「沈南蘋」の影響よりも、より全般的且つ深いものがあったことであろう。
 この「趙孟頫」の別号は「甲寅人」で、蕪村の晩年の号「謝寅」は、先にふれた「唐寅」だけではなく、この「趙孟頫」の「甲寅人」の「寅」なども含まれているような雰囲気でなくもない。
 「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意と、晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款からして、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意をも包含してのものなのであろう。

 その他に、上記の款印の以外の蕪村の、未だ触れていない号(号・印)などについて簡単に触れて置きたい。

「蕪村」は、陶淵明の「帰去来兮辞」の「田園將ニ蕪レナントス/胡ゾ帰ら去ル」に基づくものであろう。
「宰町」は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が江戸に戻って、日本橋本石町に夜半亭と庵を号した、その「町を主宰する」の意で、その巴人の「夜半亭」は、時の鐘を衝く鐘楼があり、張継の「楓橋夜泊」の「夜半ノ鐘声客船ニ到ル」に由来している。

「宰鳥」は、「宰町」の次の号だが、この「鳥」は、若き日の李白が、峨眉山に棲む隠者(巴人の見立て)の下で鳥を飼育しながら修業し、その鳥が李白になついだとの逸話などに関係するものか、また、巴人が没した時、「遺稿を探りて一羽烏といふ文作らん」とした「烏」(其角の「それよりして夜明け烏や不如帰」の「烏」に通ずる)などに関係するものなのかも知れない。そして、これらの号が、師の巴人が命名したものであるならば、この「宰(町)・宰(鳥)」の「宰(主宰する)」から、若き蕪村に期待するものが大きかったような印象を深くする。

「三果軒(三果園・三果居士)」は、その前身の「朱瓜楼又は朱果楼」からして、蕪村の画室の庵号なのであろう。後に、蕪村を中心として俳諧愛好家のグループが出来て、蕪村夜半亭俳諧を継承後の中心メンバーになっていく。「朱瓜」は烏瓜(唐朱瓜)の別なであるが、やはり、其角・巴人に連なる「三果樹」などに由来するものなのであろうか。
「紫狐庵」の「紫狐」は、野狐のこと(『仁枝・前掲書』)。やはり、俗世間より遁れての隠者的姿勢に由来するものであろう。

 さて、冒頭の「天橋立図」((絵図H)に戻って、この蕪村の百川と自らを対比させている、この長文の賛のある貴重な作品は、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と構図的に類似志向にあるように思われる。

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(絵図I=百川筆「石橋白鷺図)

(絵図H=蕪村「天橋立図」、紙本墨画、八五・八×二七・八)に対し、(絵図I=百川「石橋白鷺図、紙本墨画、一〇四・五×二八・四)と、百川の「石橋白鷺図」の方が、縦の長さが大きいが、同一趣向の作品である。蕪村の作品は、丹後の天橋立での作で、その松原が下段に、実に簡略に描かれている。そして、百川の作品は、能登の島山(越中万葉の故地)での作で、その石橋が下段に、上記の蕪村が見本にしたように簡略に描かれている。
 この百川の石橋の下に書かれている賛・款印などは次のとおりである。

「 一とせ能登の島山に雪を/詠んと松間の橋に船を繋ぐ/雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり/しら鷺のまよひ子もあり雪のくれ 八僊法橋/八僊逸人(白文方印)/「字余日百川(朱文方印)/得意一千画(関防印・朱文長方印) 」

 この「得意一千画」は、遊印(好みの文句を印文したもの)だが、賛の冒頭の右側に押印する「関防印」(引首印)に当り、落款の後など押印する「遊印」(押脚印・圧角印)と区別される場合がある。
 この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)で注目される点は、この賛にある「雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり」の、明の文人(明代の作詩用の辞書『円機活法』の校正者として知られる)王世貞の「雪片は鷺のごとく大きい」の詩句(文)の一節で、画面の三分の二近い上部のスペースを使い、それを象徴する「白鷺」(画)を描き、「文を画に反転」している点である。
 そして、蕪村の「天橋立図」(絵図H)は、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)の「文(明の王世貞の詩句)を画(能登の白鷺)に反転」しているのを、さらに、「百川の画(能登の白鷺)を文(蕪村の丹後・天橋立への留別吟と百川との交遊関係)に反転」させているのである。
 すなわち、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、蕪村の師筋に当たる其角の「句兄弟」との視点で見るならば、「画兄弟」ということになる。
ここで特記して置きたいことは、百川の賛に出てくる王世貞は、蕪村が常時活用していたとされている詩作等の辞書『円機活法』の校訂者として知られ、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、この王世貞を介在しても、両者の間には深い絆で結ばれていることが察知されるということである。

 すなわち、蕪村の「天橋立図」の長文の賛の、「俳諧に名あらむことをもとめざる」とは、単に、「画道が主で、俳諧で名を立てようとは思っていない」というだけではなく、「こと俳諧においても、狭い俳人意識よりも、広く、中国の漢詩に通ずる文人意識を優先している」という、百川と蕪村との共通意識を強調しているように思われる。

 なお、この蕪村「天橋立図」(絵図H)には、「馬孛(バハイ)」(白文方印)と「四明山人」(白文方印)の款印が押印されていて、花押はないが、当時蕪村は、「嚢道人釈蕪村」と出家しての僧体で、俗姓を捨てていたことと関連し、蕪村の特異な、槌を図案化したような花押は、「嚢道人」の「嚢」(頭陀袋の「嚢」と詩嚢・画嚢)の「嚢」)の図案化のようにも思える。

蕪村の花押(その三) [蕪村]

蕪村の花押(その三)

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       (絵図G=蕪村筆「静御前図自画賛」)

 2015年3月18日~5月10日までサントリー美術館で開催された「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(以下『若冲と蕪村展図録』)で出品されたものの一つである。その「作品解説(21)」は次のとおりである。

「 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 十八世紀 三二・一×四一・一
 立烏帽子を被って、からだの前にもつ女性を簡単な筆づかいで描く。この女性は、兄頼朝と対立した源義経とともに雪の舞う吉野を旅した静御前の旅姿でる。画面上の空白に三行にわたって大きな字で「雪の日やしづかといへる白拍子」と書かれている。静御前を暗示する「しづか」を発句のなかに詠むことで、この女性が静御前であることを暗示しているところは、蕪村の俳画としては説明的である。しかし、「白拍子」と体言止めにすることで、この後義経と別れたあと捕えられ、頼朝の前で踊ることになる静の運命を暗示させる点は、晩年の俳画の名品に通底している。画面左に花押があり、印章は押されていない。丹後地方の旧家に伝わっており、確認できる蕪村の俳画ではもっとも早い肉筆の作品。 」

 蕪村の丹後滞在は、宝暦四年(一七五四)の三十九歳から宝暦七年(一七五七)の四十一歳の、凡そ三年間ということになる。この丹後時代は、蕪村は多くの絵を残しているが、特に注目すべきは屏風絵で、六曲一双・六曲半双などの大作が十点以上も今に遺っている。
このうち、和画系統のものは、「静舞図」(六曲半双、落款「洛東閑人朝滄子描)、「田楽茶屋図」(六曲半双、落款「囊道人蕪村」)などで、漢画系統のものが圧倒的に多い。
 この「静舞図」は、画面の右に、静と侍者、左に、鼓を打つ工藤祐経、笛を吹く僧形の男、大拍子を扇子で打つ畠山重忠の、五人の人物が向かい合う構図である。小川破笠など大和絵に接近した江戸狩野派の影響を色濃く宿しているという(『蕪村 その二つ旅図録(朝日新聞社)』)。この静の緋袴など、関東歴行時代(結城時代)に下館で描いた「追羽根図」(杉戸絵四面、無落款)と同一傾向の作品であろう。
 冒頭に掲げた「静御前自画賛」(絵図G)は、立烏帽子を被っての旅姿の静御前で、同じ丹後時代の作でも、「静舞図」とは異質の世界のものである。どちらかというと、蕪村最初期(宰町時代)の、刊本の挿絵「宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物」(絵図G)の女性像(目・鼻・口等)と驚くほど類似している。
 この「静御前自画賛」(絵図G)は、淡彩による丁寧の描写など、「静舞図」よりも、英一蝶の影響が指摘されている、次の「田楽茶屋図屏風」(絵図F)などと同一系統のものと思われる。

田楽茶屋図屏風A.jpg
        (絵図F=蕪村筆「田楽茶屋図屏風」)

 『若冲と蕪村展図録』の「田楽茶屋図屏風」・「作品解説(23)」は、次のとおりである。

「与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 六曲一双 江戸時代 十八世紀 一二八・〇×二八八・六
蕪村の丹後時代を代表する作品。茶屋の店先と、その前を往来する人々を描く。本図の人物描写については、元禄時代を中心に活躍した絵師・英一蝶(一六五二~一七二四)や大津絵からの影響が指摘されてきたが、具体的には、英一蝶筆「故事人物図巻」のうち「田楽を買い食いする奴たち」(リンデン民族博物館)のなかに、本図の田楽を焼く女、および床几に座り田楽を頬張る男と同じポーズをとる人物が認められる。「故事人物図巻」は一蝶が弟子の教育のために制作した絵手本であり、蕪村がこのような絵手本のひとつか、あるいは英派の弟子が描いた模本などを目にし、図様に取り入れたと考えられる。また、画面右端で扇を振る男については、一蝶筆「田園風俗図屏風」(フリーア美術館)に似た人物が描かれており、この一蝶の屏風を参考にした彭城百川の「田植図」(東京国立博物館)が残っている。蕪村は「天橋立図」(作品27)の賛において、自らを「嚢道人蕪村」と称し、絵画・俳諧の先達である百川について言及しており、同じ「嚢道人蕪村」の署名を記す本屏風の制作過程においても「田植図」のような百川画を意識された可能性がある。一方、本図の図様については、大岡春卜(1680~1763)『和漢名画苑』(寛延三年=一七五〇刊)の「土佐光純筆 ぎおん会」図を参照としたとする分析があり(尾形仂『蕪村の世界』岩波書店、一九九三年)、烏帽子や鎧など、仮装的な扮装の人物が見られることから、祭礼後の場面を描いたとも推測されている。樹木や人物を描く線はまだ初々しいが、淡彩による丁寧な施彩や、人々の豊かな表情など、蕪村が作品と真摯に向き合っている様子が見て取れる。なお、「蕪村」の署名は主に俳画に用いられたもので、本図に蕪村の俳画の萌芽を見る見解がある。印章は「朝滄」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)。」

 この「作品解説(23)」で注目すべきことは、蕪村のみならず百川もまた、英一蝶の影響を色濃く受けているということである。ここで紹介されている、百川の「田植図」(東京国立博物館)は、次のとおりである。

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          (絵図G=百川筆「田植図(部分図)」)

 この百川の「田植図」は、蕪村に大きな影響を与えた作品のように思われる。それは、先に紹介した、高井几圭(前号=宋是)の文台開きと薙髪を兼ねて祝した記念集『はなしあいて』(宋是=几圭編集)に、蕪村は挿絵一葉(絵図A)と発句を二句寄せている。
その挿絵(絵図A)は、百川の省筆画(草画)の影響を大きく受けていることについては、先に触れた。ここで、その発句の二句について触れて置きたい。

 離(さ)別(られ)れたる身を踏(ふん)込(ごん)で田植哉    蕪村(『はなしあいて(下)』)
 とかくして一(いち)把(は)に折(おり)ぬ女郎花        ゝ (同) 

 この蕪村の発句二句の前に「夏秋」とあり、一句目夏の句、二句目は秋の句ということになろう。しかし、この二句とも、嘱目の叙景句ではなく、挨拶性と虚構性の強い人事句ということになろう。
 挨拶性と虚構性の強い人事句というのは、生涯に亘って蕪村が最も得意とした領域でもあった。挨拶性というのは、他(人・所・物等)に対する問い掛けであり、虚構性というのは、現実の体験でないものを、あたかも自分の実体験の如くに表現するということを意味する。
上記の二句ですると、一句目の「田植」の句は、当時の蕪村の最も多くの関心事であった、画・俳二道の先達者、百川とその傑作画「田植図」に寄せる蕪村の思い入れの表明である。そして、その思い入れ(挨拶性)が、「田植」(季題)・「田植え女」・「離(さ)別(られ)れたる身」(夫に離縁された身)・それをさらに「踏(ふん)込(ごん)で」という口語的な表現で具象化して、全体として一篇のドラマ(物語=虚構性の創作)として結実することになる。
 二句目の「女郎花」の句は、能楽の太鼓方几圭と能楽の演目「女郎花」に対する挨拶(問い掛け)と、几圭・蕪村の共通の俳諧の師である夜半亭宋阿(巴人)の「女郎花折や観世が駕のうち」(『夜半亭発句帖』)の延長線上のドラマ(物語=虚構性の創作)化ということになろう。
 ここでは、百川の「田植図」が、その背景となっているような一句目に注目をしたいのである。
この百川の「田植図」に触発されたような、この一句は、その「実」と「虚」との「虚構性」の彼方に、蕪村の「実」たる原風景の一端(丹後の生まれとの口碑のある薄幸な亡母のイメージなど)を物語っているような、そんな雰囲気が、後の、蕪村六十二歳の時の回想録『新花つみ』(安永六年=一七七六刊)の、異常なまでの、次の「田植」の句に関連させると、浮かび上がって来る・

 さみだれの田ごとの闇に成(なり)にけり         (『新花つみ』発句一〇五)
 水深き深田に苗(なえ)のみどりかな           (『同』同一二六)
 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉        (『同』同一二七)
 泊りがけの伯母(おば)もむれつゝ田うゑ哉        (『同』同一二八)
 をそ(獺)の住む水も田に引ク早苗(さなえ)哉      (『同』同一二九)
 参(み)河(かわ)(三河)なる八橋(やばし)もちかき田植かな(『同』同一三〇)
 午(うま)の貝田うた音なく成(なり)にけり        (『同』同一三二)
 をそ(獺)を打(うち)し翁(おきな)を誘ふ田うゑかな   (『同』同一三三)
 鯰(なまず)得てもどる田植の男哉            (『同』同一三五)
葉ざくらの下陰(したかげ)たどる田草取(とり)     (『同』同一三六)
早乙女やつげのをぐしはさゝで来(こ)し       (『同』同一三七)

 もとより、これらの、安永六年(一七七六)、蕪村六十二歳時の『新花つみ』所収の句は、其角の亡母追善集『花摘』を念頭においての、蕪村の亡母五十回忌追善のために発起されたものとされている(『大磯・前掲書』)。
 そもそも、蕪村の母の丹後出身説は、次の二つの説に由来されている。その一は、京都金福寺に建立されている「蕪村翁碑」の「幼養於母氏生家(幼クシテ母氏の生家ニ養ワル)、生家在丹後国与謝邨(生家ハ丹後国与謝邨ニ在リ)、因更謝(因ッテ謝と更タム)」の記述に因るものである。
 その二は、現在の京都府与謝郡加悦町地方の口碑に因るもので、その口碑は、「蕪村の母は丹後国与謝郡加悦の人で、名はげんといい、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に奉公に出たが、主人の子を孕んで帰郷し蕪村を出産。その後蕪村を連れて宮津で再婚したが、蕪村は養父と衝突し、与謝村の真言宗の古刹、施薬寺の小僧となった。その母の墓が加悦町に現存している」というものである(『蕪村の丹後時代(谷口謙著)』)。
 この二つの説ともこれを裏付ける確証に乏しく、蕪村自身固く口を閉ざしているので、
どうにも謎のままであるというのが実状であろう。
しかし、上記の『新花つみ』に収載されている、蕪村の吐息のような、「田植」「早乙女」に関する句に接すると、その出生地は、蕪村自身が書簡に認めている「馬堤は毛馬塘(づつみ)也。即余が故園也」(安永六年二月二十三日付柳女・賀瑞宛書簡)の、大阪の淀川近郊の毛馬村としても、その母のイメージは丹後の与謝地方の口碑などと深い関わりがあるように思われて来る。
 そして、これらの『新花つみ』に収載されている「田植」「早乙女」の句の、はるか以前の、丹後宮津から帰洛した翌年の宝暦八年(一七五八)に出版された『はなしあいて』所収の上掲の句、「離別れたる身を踏込で田植哉」は、蕪村の心中に、この薄幸な亡母のイメージが深く宿っていたということを、どうしても拭い去ることが出来ないのである。
 ここで、改めて、冒頭の「静御前図自画賛」(絵図G)を見てみると、この「静御前」は、『平家物語』・『義経記』などに登場する悲劇のヒロインで、義経の子を宿しつつ、その義経討伐の令を下す兄・頼朝の面前で、鶴岡八幡宮の舞を奉ずるという伝承が、同時の頃に描かれた「静舞図」(紙本着色・六曲屏風一隻)である。
 この「静御前図自画賛」(絵図G)は、立烏帽子の旅姿で、その左端に、署名もなく、蕪村独特の「槌」又は「経巻」のような花押が描かれ、その花押の方に、静御前の視線が注がれているのは、静御前の将来を暗示しているような、そんな趣で無くもない。
 と同時に、この悲劇のヒロインの静御前に関する伝承は、上記の蕪村の母に関する口承と、これまた二重写しになることは、どうにも、避けられないような、そんなことも暗示しているように思えるのである。

蕪村と月渓が描いた陶淵明像 [蕪村]

蕪村と月渓が描いた陶淵明像

 蕪村は、延享元年(一七四二、寛保四年二月二十一日に延享と改元)に、野州(栃木県)宇都宮において、『寛保四年宇都宮歳旦帖』(紙数九枚・十七頁、中村家蔵)という小冊子の歳旦帖を出し、俳諧宗匠として名乗りを上げる。そこに「巻軸」と前書きを付して、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の自句で締めくくり、それまでの「宰鳥」の号に代わり、初めて「蕪村」の号を用いる。すなわち、この初歳旦帖は、蕪村の改号披露を兼ねてのものということになる(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 この「蕪村」の号は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」に由来し、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意ということになろう。すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「帰るに帰れない」、その脳裏にのみ存在するものであった(田中・前掲書)。

 蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人に目せられていた月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖(せい)節(せつ)(淵明)詩集』に挟まれていた、師自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 この「嫁入手」とは、蕪村の遺児の「婚資捻出のために」、蕪村の「自筆句稿・冊子・巻物・色紙・栞」などに、月渓等の直弟子が画賛などを付して、蕪村の落款(サイン)に代えた作品の題名に便宜上付せられているものである。

呉春・陶淵明図1.jpg

 この月渓の賛(括弧書きは注)は次のとおりである。

[ 師翁(蕪村)物故の後、余(月渓)ひさしく夜半亭(京都の蕪村が没した住居=夜半亭)にありて、机上なる陶靖節(陶淵明)の詩集を閲(えっす)るに、半(なかば)過るころ此(この)しほり(栞)を得たり。これ全(すべて)淵明(陶淵明)のひとゝなりをしたひてなせる句なるべし。 
 天明甲辰(三年=一七八三)春二月(蕪村=二月二十五日未明没)写於夜半亭 月渓(松村月渓=呉春) ]

 この月渓(呉春)の描く陶淵明像は、蕪村の数ある陶淵明像の中で、おそらく、蕪村門の直弟子にあっては、一番身近な「陶淵明像」(『安永三年(一七七四)春帖』中の直弟子の一人「馬圃(まほ)」(芦田霞夫(かふ)/醸造業/俳人) →の「我(あ)とヽもに琴(きん)かき撫(なで)る柳かな」に付した蕪村画の「陶淵明像」)を参考にしていると思われる。

陶淵明像.jpg

 そして、この一筆書きのような略画の「草絵」(俳画)の「陶淵明像」は、実に、安永三年(一七七四)の、蕪村、六十三歳時、師の夜半亭二世宋阿こと早野巴人の三十三回忌に当たる年の作である。

 その巴人が没した寛保二年(一七四二)、そして、初歳旦帖を編み「蕪村」の号を使い始めた延享元年(寛保四年=一七四四)の翌年の頃、すなわち、結城・下館在住の頃の、「子漢」と款する「陶淵明山水図」(絹本淡彩三幅対)中の「陶淵明図」がある。これが、まさしく、
無弦琴を奏でている陶淵明図なのである。

 そして、これが文人画家・蕪村のスタートを飾った作品ともいえるものであろう(この「陶淵明山水図・中村美術サロン蔵」が『蕪村全集六絵画・遺墨』の第一番目に登載されている)。

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 この他の蕪村の陶淵明像などを『蕪村全集六』より記しておきたい。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)

48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)

二 絵画・完成期(明和七~安永六)

220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
   書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

その他

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

(追記)

 平成二十八年十月二十九日(土)~十二月二十一日(日)まで、佐野市立吉沢記念美術館で、「特別企画展 東と西の蕪村―伊藤若冲『菜蟲譜』期間限定公開」が開催された。
 そこで、「陶淵明・山水図」(蕪村筆)が公開されていた。その作品解説は次のとおりである。

[ 最初期の彩色作品で、下館に伝来。「子漢」の款記は本作が唯一。印は捺されない。陶淵明は中国・六朝の詩人で、「帰去来辞」「桃花源記」などが知られる。「蕪村」号は「帰去来辞」の「田園将蕪(マサニアレナントス)」に由来することが有力視されるほか、詩画ともに桃源郷を投影した作品が晩年まで頻出するなど、蕪村にとって重要な詩人。
中幅の陶淵明は、酒に酔う毎に「無弦の琴」を撫でたという故事による。左右幅は「帰去来辞」の「舟は遙々として以て軽くあがり、風は飄々として衣を吹く」「雲は無心に以て峰を出で、鳥は飛ぶに倦きて還るを知る」を描く、明るい光を含んでかすむ海、藍と淡墨の葉を重ねて描かれた風に騒ぐ竹林など、後半の蕪村画の要素が見える。]
(『東と西の蕪村(佐野市立吉沢記念美術館遍)』)

(特記事項)

※ この「陶淵明」図中、左下に、花押のように、小さな「鈴」のようなものが描かれていた。これは、陶淵明の「無弦琴」に関連して、「琴の爪」のようなのである。この「琴の爪」と蕪村の花押(「槌」・「経巻」・「頭陀袋(嚢)」のような、蕪村の謎めいた花押)は、この「琴爪」に、その由来があるような、そんな示唆を受けたことを特記して置きたい。

蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」 [蕪村]

 蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」

蕪村 夜色楼台図.jpg    
    (図1 「 夜色楼台図」 蕪村筆)

 蕪村の水墨画の二大傑作画は、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」が、その双璧を為すことであろう。「夜色楼台図」(紙本墨画淡彩、一幅、二八・〇×一二九・五cm)が、蕪村の、その生涯の実生活を背景としている「実」たる「俗」の「京都の東山」をモチーフとしているならば、「峨嵋露頂図」(紙本墨画淡彩、一巻、二八.九×二四〇.三cm)は、蕪村が、その生涯にわたって憧憬して止まなかった中国の詩人中の一人・李白の「峨嵋山月歌」に、その想を得ての、脳裡に去来する「虚」たる「雅」の「中国四川省の峨眉山」をイメージしてのものということになろう。

 この「夜色楼台図」について、「左に登りゆく山稜は比叡山に連なり、右に下る山並みは伏見に至るものであり、麓の家並みは祇園から岡崎にかけての町並みと見ればいい。(略)
 三本樹の水楼にのぼりて斜景に対す
   雲の端に大津の凧や東山
   大文字の谿間のつつじ燃えんとす
 よすがらの三本樹の水楼に宴して
   明けやすき夜をかくしてや東山
 詞書にある三本樹とは、賀茂川西岸の丸太町と荒神口の間の地名で、『烏丸仏光寺西入ル町』の蕪村の家から歩いて三十分という所である。当時、この界隈に多くの料亭が立ちならび、晩年の蕪村が足繁く通った「雪楼」もこの地にあった」と『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)では記されている。

 続けて、それは「見えるがままに描いた実景」ではなく、絵画的にデフォルメした世界で、「本図が一見水墨画のように見えて、実はその原則を密かに破っている」とし、「画法における『雅俗』の混在」(胡粉や代赭による即物的描写や、胡粉の下塗り、墨のたらし込みといった技法は、『水墨画』の本来かにすると邪道)と「都会の雪景色」(「一見山水画のように見せながら、『俗気』の象徴である都会を主題としての『山水画』の原則からの逸脱)との二点を挙げている。

三本樹.png    
       (図2 「 三本樹(木)」 『拾遺都名所図会』 )

 ここで取り上げられている「雅・俗」というのは、絵画表現上の「雅・俗」ということで、その根底には、永遠性に連なる「雅」(「完成」の「既に存在する表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「不易」に近い理念)と日常性に連なる「俗」(「無限」の「未開拓の未知の表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「流行」に近い理念)との二元論的な把握を基調としている(『日本文学史・小西甚一著・講談社学術文庫』『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)。

 蕪村の俳諧・絵画の基本的姿勢を述べたものとして、門人、黒柳召波の『春泥句集』の「序」に寄せた、いわゆる「離俗論」が夙に知られている。

[ 俳諧は、俗語を用ひて俗を離るヽを尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。
(略)  却ッテ問フ、「叟(注・蕪村)が示すところの離俗の説、その旨玄なりといへども、なほ是工案をこらして、我よりして求むるものにあらずや。しかじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。答ヘテ曰ク、「あり、詩を語るべし。子(注・召波)もとより詩を能す、他に求むべからず」。彼(注・召波)疑ヒ敢ヘテ問フ。「夫、詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。
夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云ふ。迂遠なるにあらずや」。答ヘテ曰ク、「画家に去俗論あり、曰ク、『画去俗無他法子(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法ナシ)、多読書則書巻之気上升(多クノ書ヲ読メバ即チ書巻ノ気上昇シ)市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其慎旃哉(学者其レ旃(これ)オ慎シマンカナ)』。それ、画の俗を去るだも、筆を投じて書を読ましむ、況んや、詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや」。波(召波)、すなはち悟す。]
 (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この蕪村の「離俗論」について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、次のように解説している。

[ 蕪村が有名な離俗論を提唱したのも、この頃(注:明和五年(一七六八)・五十三歳)だったらしい。蕪村によると、俳諧は、俗語によって表現しながら、しかも俗を離れるところが大切なのである。この離俗論は、画道から啓発されたもので、当時著名だった『芥子園畫傳』初集の去俗説を承け、俳諧を修行することは、結局、その人の心位を高めることによって完成されるのだと主張する。その実際的方法としては、古典をたくさんよむことが第一である。古典のなかにこもる精神の高さを自分のなかに生かすこと、それが俳諧修行の基礎でなくてはならない。古典といっても、何も俳諧表現に関係のあるものだけに限らない。むしろ表現とは関係がなくても、人格をみがき識見をふかめるための「心の糧」こそ俳諧にとっていちばん大切なのである―。(略) この離俗の立場からは、単なる俗っぽさは、手ぎびしく排斥されなくてはならない。俗なるものを詠んでも、その俗をぬけ出たおもむきがなくてはならない。]
  (『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)

 蕪村の「離俗論」については、一般的には、上記のようなことなのであるが、蕪村の「離俗論」の大事な要諦は、その『春泥集』(序)の、先の引用文に続く、次のところにあるように思われる。

[ 俳諧に門戸なし。只是れ俳諧門といふを以テ門とす。(略) 諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ、みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す。唯自己ノ胸中いかんと顧みるの外、他の方なし。 ] 
   (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この「みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す」という蕪村の姿勢は、若き日の蕪村を育んだ、蕪村の俳諧の師、夜半亭一世早野巴人(宋阿)の、その三十三回忌に編んだ『むかしを今』の「序」の、「『夫、俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとし』とぞ。予(注・蕪村)、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかい(注・俳諧)の自在を知れり」の、この「俳諧自在」(自由自在の心)と、その「俳諧自在」の因って立つ地盤は、「唯自己の胸中」(己が心)に在るという、
これが、蕪村の「離俗の法」の本態なのであろう。

 また、この「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」に関連して、蕪村自身が、画や画人を題材にして詠んだ句は、次のようなものが挙げられる(『蕪村全集六 絵画・遺墨』「栞「女雪信と蕪村(滝沢栗郎稿)」)。

1 時鳥絵に啼け東四郎次郎  宝暦二(一七五二・三十七歳)  狩野光信
2 手すさびの団(うちは)画ん草の汁 明和五(一七六八・五十三歳) 草画、絵具
3 新右衛門蛇足を誘ふ冬至かな   同上 曽我蛇足 
4 守信と瓢に書けよ鉢たゝき    同上 狩野探幽
5 雪信が蠅打払ふ硯かな      明和六(一七六九・五十四歳) 清原雪信
6 呂記が目の届かぬ枝に閑古鳥   明和八(一七七一・五十六歳) 明人、花鳥画
7 絵団扇のそれも清十郎にお夏哉  同上 浮世絵
8 雪舟の不二雪信が佐野いずれ歟(か)寒き 同上 漢画と大和絵
9 御勝手に春正が妻か梅の月  明和年間  蒔絵師
10 不動画く宅摩が庭の牡丹かな  安永六(一七七七 六十二歳) 古画、仏画
11 南蘋を牡丹の客や福済寺    同上 清人、長崎派
12 茗長が机のうへのざくろかな  同上 染物師
13 相阿弥の宵寐おこすや大もんじ 同上 室町水墨画
14 鬼灯や清原の女が生写し    同上 写生画
15 大津絵に糞落しゆく燕かな   安永七(一七七八 六十三歳) 大津絵
16 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉     安永九(一七八〇 六十五歳) 円山派
17 又平に逢ふや御室の花ざかり  年不詳  土佐派、俳画

 蕪村は、俳諧の世界においては、江戸と京都で、宝井其角の江戸座の宗匠の一人として名を馳せていた夜半亭宋阿(巴人)の内弟子として仕え、生涯に亘って師と仰いでいたが、画業の世界においては、「われに師なし、古今の名画をもって師とす」(「書画戯之記」)との伝聞があるとおり、生涯にわたって仰ぐべき師を持たなかった。

 ただ、宋阿(巴人)が寛保二年(一七四二)に病死した後、いわゆる「関東・奥羽遊歴時代」(寛保二十年《一七三五・二十歳》から寛延三年《一七五〇・三十五歳》)に見切りをつけて、宝暦元年(一七五一)の初冬に京都に上ってきた、その大きな理由の一つに、当時、京都に在住して画(文人画の先駆者・絵師として法橋に叙せられている)・俳(各務支考門の美濃派後に中川乙由の伊勢派系の宗匠の一人)の二道の世界で最右翼を極めていた彭城百川が念頭にあったことであろう。

 百川は、元禄十年(一六九八)、尾張名古屋の生まれ(支考書簡による入婿説もある)、姓は榊原、名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した(その祖は帰化人と伝えられ、『元明画人考』を編しているほどに漢学の素養があった。また、自称の「彭城」の姓は、中国江蘇省彭城の出身と伝えられている)。

 俳諧では蕉門の各務支考に師事し、松角、次いで昇角と号した。後に、師の美濃派の支考との間に亀裂を生じ、反旗を翻して伊勢派の乙由門に転じている。三十二歳の頃から京都を拠点として北陸や長崎に遊び、四十八歳の頃からは「売画自給」と称して絵を職業とする生活に入り、元文年間には法橋位を得るに至っている。

 百川の多芸振りは、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』「序」)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』「序」)と、晩年の支考に重宝がられ格別の厚遇を受けていたことからも推察される。

 この他に、百川は、「俳書のデザイン(扉や題字等)」「挿絵」「俳画(俳趣のある簡略な画《草画》)」「実景図」「地図」など、その多種・多様な多才振りは、画・俳の両道を目途としている蕪村を、魅了して止まないものがあったことは想像に難くない。
 蕪村が江戸から上洛したのは、宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは、その翌年の宝暦二年(一七五二)の八月であった。蕪村と百川との出会いがあったとしたら、宝暦元年から二年にかけての一年足らずの期間に於いてということになる。

これらのことについて、蕪村は何ら記してはいないが、蕪村は、宝暦七年(一七五七)九月に、丹後宮津から京都に再帰する時に、「天の橋立画賛」の残し、その賛文に次のように百川のことについて記している。

[ 八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二に出て蓮二によらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行秋ぞ わが今留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物。かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中  ]

 この百川の「明風に慕ふ」の「明風」は、『元明画人考』の著を有する百川への「明画」風に対して、蕪村は「漢流」(「狩野派」の意とする見解もあるが、中国画全般の「漢流」の意)で、特定の画風にこだわらないというようなことなのであろう。

 また、俳諧の方では、百川は蕉門の「蓮二(支考)」の流れに比して、蕪村は同じ蕉門でも、「晋子(其角)」の流れ(其角門の巴人の系譜)であるが、共に、その流派にこだわらない点が共通しているし、また、俳人として名声を求めない姿勢も共通しているというようなことであろう。
 蕪村と百川との出会いの確たる形跡は見当たらないが、「当時中国画研究の第一人者であり、伊勢風の俳人としても有名であった百川を八僊観に訪問しないとすれば、それこそ不可解である」(『蕪村の遠近法(清水孝之著)』「百川から蕪村へ」)という指摘を拒否する理由も定かではないであろう。

 これらのことに関して、蕪村の江戸時代の知己で、延享四年(一七四七)に近江の義仲寺の無名庵五世となっている渡辺雲裡坊(前号・杉夫)は、名古屋時代の百川(昇角)と共に支考門で、両者は旧知の関係にある。

 そして、その雲裡坊は、宝暦五年(一七五五)に、京都から丹後へ移住している蕪村を訪ね、さらに、宝暦十年(一七六〇)に、京都に再帰した蕪村に筑紫行脚の同行を勧誘するなど、年下の蕪村への配慮は格別なものがあり、京都での蕪村と百川との出会いや、百川亡き後の蕪村の丹後移住などに関して、何らかの関係があるように思われることも特記して置く必要があろう。

 さらに、蕪村の晩年の絵画に署名される栄光の雅号「謝寅」は、中国明代の画家唐寅に倣ったものとされているが(『俳画の美(岡田利兵衛著)』)、百川の「春秋江山図屏風」の左隻に、この唐寅(伯虎)に倣ったことが書かれており(『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」)、これらのことを加味すると、百川の画・俳その他全般に亘る生涯は、蕪村の生涯を先取りした趣すらして来る。

 この百川について、『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」では、「自己の創造に必要なものを何でも画嚢に取り入れてしまう性質」を「雑食性」と名付け、この「雑食性」のほかに、「町人出身の専門画家」であったこと、「俳画と真景図に新生面を開いた」ことを、百川の特質ととらえて、それらが、次の時代の大雅と蕪村の日本南画(文人画)の大成に大きく寄与しているとしている。

 百川が文人画家の先駆者として、その文人画を大成したとされる大雅と蕪村への与えた影響ということの他に、「売画自給」を標榜した百川の、その姿勢は、異色の花鳥画家とされている伊藤若冲の精神的支柱であった「売茶翁」(黄檗宗の僧、法名は月海、還俗後は高遊外)に連なるものなのであろう。

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、売茶翁は、延宝五年(一六七五)の生まれ、蕪村の師巴人(延宝四年=一六七六)と同年齢時代の、前期に生を享けたことになる。

 若冲(正徳六年=一七一六)・蕪村(享保元年=一七一六)・大雅(享保八年=一七二三)は、中期、そして、百川は元禄十年(一六九七)の生まれで、十七世紀の後半に生を享けたが、その活躍したのは十八世紀の中期ということになろう。

 この百川は、延享二年(一七四五)、四十九歳のときに、「売茶翁煎茶図・売茶翁題偈」という作品を残しており、売茶翁に連なる京都文化人の一人と数えて差し支えなかろう。この売茶翁に連なる京都文化人の面々は、売茶翁と共に若冲の支援者であり続けた、相国寺第百十三世の詩僧・大典顕常、数多くの儒学者を育てた大儒・宇野明霞、書家の亀田窮楽、画壇では、池大雅、伊藤若冲、そして、蕪村もまた、「小鼎煎茶画賛」を残しており、直接的な繋がりはないが、やはり売茶翁に共鳴した一人と解して、これまた差し支えなかろう。

 宝暦十三年(一七六三)、売茶翁は、その八十八年の生涯を閉じるが、その年に刊行された『売茶翁偈語』の伝記は、大典顕常、その売茶翁の自題は大雅、口絵の売茶翁の半身像は若冲と、売茶翁と親しかった、三人の名が肩を並べている。

 若冲の別号の「米斗翁」(「絵代は米一斗」に由来する)は、売茶翁の「茶銭は黄金百鎰(注・小判二千両)より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」に由来があるものなのであろう。そして、「大雅」の別号の「待賈」は「賈(価)を待つ=商人」の、これまた、売茶翁が「茶を売る翁」に因んでの「絵を売る」、百川の「売画自給」と同じ意なのであろう。
 この売茶翁の、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なる」(大典顕常の「売茶翁伝」の遺語)に由来するところの、その売茶翁の「売茶」という、その実践に由来するもの、それが、百川の「売画自給」の意味するものなのであろう。

 そして、その百川に続く、京都の画人達(大雅・若冲・蕪村等々)は、「雅」の「非日常性・不易なもの・虚なるもの」と「俗」の「日常性・刻々変化するもの・実なるもの」との、その「雅と俗」との、その葛藤こそ、それぞれの「売画自給」の日々の実践の証しということになろう。

 ここまで来ると、蕪村の「夜色楼台図」の全てが見えて来る。この「夜色楼台図」の根底には、上半分の「雅」たる「夜空と山並み(東山)」、そして、下半分の「俗」たる「積雪の楼台と家並み(京の街並み)」との、その「二極対比」と、その「雅俗混交」の「鬩(せめ)ぎあい」での末の、安らぎにも似た「雅俗融合」の極致の世界が、見事に浮き彫りにされている。

 さらに、細かく見ていけば、「黒(闇)と白(明かり)」、「代赭(華やぎと温もりの灯影)と胡粉(寂として消えて行く雪片)」、全体の「横長の広大なパノラマの『水平視(平遠法)』的視点」、下半分の人家の景を「見下ろす『俯瞰視(深遠法)』的視点」、そして上半分の山並みと空とを「仰ぎ見る『仰角視(高遠法)』的視点」、それらは、「画(「無声の詩」=「画中に詩有り」)」と「詩(「有声の画」=「詩中に画有り」)」との、見事な「画・俳」、そして、「画・俳・書」の、その合致の到達点を物語っている。

 この横長の絵巻風の「夜色楼台図」の、その冒頭の「夜色楼/臺(台)雪萬(万)/家」の、この「夜色楼台雪万家」の画題なるものは、『水墨画の巨匠(第十二巻)蕪村』の「図版解説(早川聞多稿)」では、若き日の蕪村が私淑した服部南郭に連なる詩僧の万庵原資の、「遊東山詠落花(東山ニ遊ビテ落花ヲ詠ズ)」の「湖上楼台雪万家」と「中秋含虚亭ノ作」での「夜色楼台諸仏座」の一節に由来があることなどが紹介されている(さらに、『生誕三百年同いの天才画家 若冲と蕪村』では、『皇明七才詩集註解』の明代の李攀龍による「宗子を懐う」に「夜色楼台雪万家」の一節があることも新説として挙げられている)。

 何れにしろ、この「夜色楼台雪万家」の主題は、「夜・楼台・雪・万家」の「夜(闇)・楼台(「華やぎ=灯影」)・雪(「無常=雪の切片)・万家(「「人家」の「無数の『生』の営み」)、その中でも、上半分の「雅」たる「山と空」と下半分の「俗」たる「人家」とを融合させている「雪」こそ、この「夜色楼台図」の主要なテーマなのではなかろうか。

 蕪村には、目白押しの「雪」の句の中から「二極対比」の句を抽出して見たい。

1 宿かさぬ灯影や雪の家つゞき  明和五年(一七六八・五十三歳) 灯影と雪
2 雪国や粮(かて)たのもしき小家がち  同上          小家と雪
3 宿かせと刀投出す吹雪哉       同上         武士と吹雪
4 初雪や上京は人のよかりけり  明和六年(一七六九・五十四歳) 上京(洛)と初雪
5 物書(かい)て鴨に換けり夜の雪    同上        王義之(前書き)と雪
6 祐成をいなすや雪のかくれ蓑  明和七年(一七七〇・五十五歳) 曽我十郎祐成と雪
7 繋馬雪一双の鐙(あぶみ)かな     同上          馬の鐙と雪
8 雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす 明和八年(一七七一・五十六歳) 河豚と雪
9 雪の松折るるや琴の裂る音      同上          松と雪
10 としひとつ積るや雪の小町寺  安永三年(一七七四・五十九歳) 小町寺(洛北)と雪
11 雪の旦母屋のけぶりのめでたさよ   同上          母屋の煙と雪
12 鍋さげて淀の小橋を雪の人      同上          淀の小橋と雪
13 愚に耐(たへ)よと窓暗(くらう)す雪の竹  同上     貧窮老懶の自画像と雪
14 初雪や草の戸を訪(と)ふわら草履  安永六年(一七七七・六十ニ歳) 風狂の友と雪
15 木屋町の旅人訪ん雪の朝       同上    木屋町(旅館・料亭が多い)と雪
16 住吉の雪にぬかづく遊女哉    同上  住吉大社(浪花・遊女の信仰が厚い)と雪
17 雪白し加茂の氏人馬でうて 安永七年(一七七八・六十三歳)  加茂神社の社人と雪
18 雪折やよしのゝゆめのさむる時  同上          吉野(奈良吉野山)と雪
19 雪折も聞えてくらき夜なる哉   同上          闇夜と雪(白居易の詩)
20 登蓮が雪に蓑たく竈(かま)の下 天明二年(一七八二・六十七歳)  登蓮(歌僧)と雪
21 雪を踏で熊野詣の乳母かな    同上              熊野詣と雪
22 風呂入に谷へ下るや雪の笠   年次未詳             湯治場と雪
23 水と鳥のむかし語りや雪の友   同上         「酒」(水偏の鳥)と雪
24 雪の暮鴫はもどつて居るような  同上           鴫(西行の鴫)と雪
25 雪消ていよいよ高し雪の亭    同上            雪亭(庵号)と雪

 蕪村の二大水墨画の、もう一つの「峨嵋露頂図巻」(二八・九×二四〇・三cm、紙本墨画淡彩一巻)は、「夜色楼台図」(二七・三×一二九・三cm、紙本墨画淡彩一幅)の、横長に倍の長さ(条幅紙一枚分)で、こちらは図巻(一巻)で、それを横長の掛幅とするならば、これは、一大のパノラマ仕立てになる。

 「夜色楼台図」が、日本の詩僧・万庵原資の詩と『唐詩選』を編纂したとも言われている明代の詩人・李攀龍の詩に由来があるとすれば、「峨嵋露頂図巻」は、李白の七言絶句の「峨嵋山月歌」とこれまた李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に由来があるとされている(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「図版解説(早川聞多稿)」) 。

 ここまで来ると、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」とは、同時期に書かれた、「雪」を主題とする蕪村の連作であったということを実感する。

 そして、この二大傑作水墨画は、蕪村が六十八年の生涯を閉じた、天明三年(一七八三)の作とされており、「蕪村絵画年譜」(『日本の美術六 与謝蕪村(佐々木丞平編)』)では、その順序は、「夜色楼台図」が先で、その年の「謝寅落款のあるもの」の最後に、「峨嵋露図」が掲載されている。

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   (図3-1 「峨嵋露頂図」(右半分) 蕪村筆「落款・謝寅」)

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  (図3-2 「峨嵋露頂図」(左半分) 蕪村筆)


 ここに、冒頭の「夜色楼台図」(図1)を掲載して置きたい。

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 (図1・再掲 「夜色楼台図」 蕪村筆「落款・謝寅書」 )

 これらの「夜色楼台図」と「峨嵋露頂巻」との落款は、主に、蕪村の漢画系統のものの落款「謝寅」で、「夜色楼台図」は「謝寅書」、そして、「峨嵋露頂図」は「謝寅」と署名されている。

 それに対して、蕪村の和画系統のものの落款「蕪村」の署名で、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と共に、横長の三大水墨画の一つに数えられている「富岳列松図」(二九・六×一三八・〇cm、紙本墨画多彩一幅)が、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と同年(蕪村が没する天明三年=一七八三)に制作されている。

 そして、この「富岳列松図」もまた、「雪」が主題のもので、真っ白な「富士」が赤松並木の上に浮かび上がっている。そして、墨の濃度の違いによって、その墨色で、あたかも、松の緑と空の青とを描いているかのようなのである。

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  ( 図4 富岳列松図  蕪村筆「落款・蕪村」 )

 ここで、「峨嵋露頂図」で紹介した、李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に関連して、徂徠の『蘐園随筆』「序(安藤東野)」に触れながら、蕪村の、「峨嵋露頂図」「富岳列松図」、そして、「夜色楼台図」を三部作として、次のように、その関連を考察したものを紹介して置きたい。

[「峨嵋を天半の雪中に看る」とは、王世貞(注・明時代の学者・政治家、号は弇州山人《えんしゅうさんじん》)が李攀龍(注・明時代の詩人・文人、号は滄溟)の詩風を、峨嵋山の雪にたとえてたたえる句である。(略) あわれむべし彼等は、峨嵋山を知るだけで、わが富士山を知らない。先生(注・荻生徂徠)は実に富士の白雪である。(吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』より)

 この一節は徂徠の愛弟子、安藤東野(注・徂徠門の儒学者)が、師(注・徂徠)の学問のすばらしさを讃えたものである。ここで注目すべきことは、「天半の峨嵋山」と李攀龍(注・蕪村が生涯に亘って愛した詩人)、「白雪の富士山」を荻生徂徠(注・蕪村の漢詩理解の源となっている服部南郭の師、「夜色楼台図」の由来となっている詩を作った万庵原資も徂徠門)というイメージの提示である。(略)
 両図(注・「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」)とも本図(注・「夜色楼台図」)と同様、横長の画面形式をとっており、その熟練した筆致から制作時期も本図と同時期のものと推定される。また、これら三図はいずれも山と雪を主要なモチーフとしている。

 このようにその共通性に注目するならば、これら三図は三部作として描かれた可能性があるといえる。もし、「峨嵋露頂図巻」の「天半の峨嵋」が李攀龍を、「富岳列松図」の「白雪富士」が荻生徂徠(注・徂徠と徂徠の古文辞学派=蘐園学派の服部南郭《儒者・詩人・画家》等の一門)を象徴としているならば、では一体、「夜色楼台図」の東山は誰を象徴しているのであろうか。(略)
 画(注・「夜色楼台図」)左の山稜をたどれば、そこは法然・親鸞が修行した比叡山であり、その山下の一乗寺村には親鸞が六角堂に通った百日別行の旧跡がある。そして、正面の山麓には法然ゆかりの法然院、金戒光明寺、知恩院が建ち並び、画面右端には親鸞の遺骨を納めた大谷の廟所がある。(略)
 さらに付け加えるならば、親鸞百日別行跡の隣の金福寺には、蕪村がその再興に関与した芭蕉庵があり、その記念碑が立っており、蕪村は、
   我も死して碑にほとりせん枯尾花
の一句を手向けたのである。そしてその願い通り、天明三年(一七八三)の暮に亡くなった蕪村の遺骨は、翌四年一月には、まさしく「祖翁之碑」の隣に納められ、同十月には「与謝蕪村墓」と刻まれた墓碑が、門人たちによって建てられたのであった。  
 このように見てくると、晩年の蕪村が眺める東山連峰は、まことに複雑なイメージを帯びていたといえよう。
 そこは自らが四季折おりを楽しむところである同時に、雪が降れば徂徠の学恩を、山麓の楼閣を見れば法然の法恩を思い、その山陰は己が人生を決定づけた親鸞と芭蕉の俤を宿す場所であった。
 そして、そこはまた、蕪村自らが「終(つい)の住処(すみか)」と思い定めた場所であった。すなわち、この一枚の画(注・「夜色楼台図」)によって、「聖」と「俗」の狭間に生きた蕪村の人生そのものが象徴されているといえよう。 ]
 (『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「《この一枚》夜色楼台図《早川聞多稿》)」) 。


 蕪村の、横長のパノラマ的眺望を描出している、「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」「夜色楼台図」を、同時期に制作された三部作として、「峨嵋露頂図巻」と李攀龍(号・滄溟)、「富岳列松図」と荻生徂徠(徂徠門服部南郭等)とを、南郭の『『唐詩選国字解』等を通して探り当てた点は卓見であろう。

 それに続けて、「夜色楼台図」は、別稿「「水墨画の俳諧化―雅俗融合の生涯《早川聞多稿》」に於いて、「僧に非ず俗にゐて俗にも非ず」(親鸞の『教行信証』)等を引用し、併せ、上掲の蕪村自身の「我も死して碑にほとりせん枯尾花」(「枯尾花」は其角の芭蕉追善集の名)句をも引きながら、「芭蕉・親鸞・法然上人」の俤を重ねたのは、やはり、この評者(早川聞多)の、この「夜色楼台図」に寄せる思い入れの深さの証左であろう。

 この親鸞の「僧に非ず俗にゐて俗に非ず」は、「俗中に生きてこそ、『聖俗』を超える契機を見出し得る」とし、そして、この親鸞の「聖俗」論は、即、蕪村の「俗を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる」(離俗論)と表裏一体を為すものなのであろう。

 即ち、親鸞は「聖俗」の人であり、蕪村は「雅俗」の人であり、親鸞の生涯が「聖俗融合」の生涯であったとするならば、蕪村の生涯は、市井に生きた「雅俗融合」の生涯だったということになろう。

 そして、この「夜色楼台図」は、まさしく、その蕪村の「雅俗融合」の生涯を、象徴的に物語っている「この一枚」ということになろう。


若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」 [蕪村と若冲]

若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」

 若冲は「名遂(と)げぬ。事畢(おわ)りぬ」(「碣銘」)の、「釈迦三尊像」(三幅)そして「動植綵絵」(三十幅)完成以後の五十代、六十代の作品は多く残らない。

 明和七年(一七七〇)十月、父の三十三回忌に当たり、その三尊(三幅)および綵絵(三十幅)の寄進の全てが終わる(「位牌銘」)前年(明和六年=一七六九)六月十七日の相国寺の「閣懺(かくせん)」(相国寺三門で行われる儀式)に合わせ、これらの全てが方丈に掛けられ、一般の人々も、その全貌を知るに至ったのである。

 この年(明和六年=一七六九)に、これが若冲の作なのかと疑うほどに、何とも奇妙奇天烈な、ユーモアに溢れた水墨画の「蝦蟇・鉄拐図」(双幅)を制作している。

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(若冲「蝦蟇・鉄拐図」)           

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(光琳「蹴鞠布袋図」)

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」は、光琳の「蹴鞠布袋図」に想を得たのではないかとされている(「日本の美術9(NO.256)伊藤若冲(佐藤康宏稿)」)。

 この「蝦蟇図」の月遷浄潭の賛は、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」、「鉄拐図」の寂照の賛は、「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙。泉南叟書」。

 月遷浄潭(じょうだん)は、海雲山法蔵寺住持(黄檗僧)で、この明和六年(一七六九)に没している。また、泉南(せんなん)叟は、「平安人物志」(明和五年版)に出て来る「学者・書家」の「釈寂照(号)・泉南(字)」で、若冲と親交があったのであろう。

 「蝦蟇図」の蝦蟇仙人(劉海蟾=りゅうかいせん)、そして、「鉄拐図」の鉄拐仙人(李鉄拐=りてっかい)は、中国の仙人で、不老不死の術を修めた、超人的な能力を持つ人々である。
蝦蟇仙人は、三本足の白いカエルと共に描かれ、このカエルは「青蛙神(せいあじん)」との別名で、この青蛙神が訪れると幸運・金運に恵まれるなどの伝承がある。

 一方、鉄拐仙人は、物乞いの体を借りて蘇ったことから、破れた衣を着て、鉄の杖を持ち、その口元をすぼめて、自分の分身を吹き出しているポーズなどで描かれている。

 さて、若冲が描く右双の「鉄拐仙人」は、実に奇妙奇天烈なポーズで、「杖を両手で握りしめ、顔らしき『顎と目玉二つと鼻ならず口と顎髯』とが、天を仰いで、その天に何やら、その分身の杖を持っている河童らしきものが描かれている」。これに賛する「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」。

 この「泉南叟書」とは、「泉南叟=釈寂照」の「書(賛)」で、この「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、「この何とも表現できないような図画の、この気を吐いている仙人は、『獨楽窩(どくらくか)』と自称しているアトリエで、『丹青不知老将至(たんせいまさにおいのいたるをしらず)』なるものを遊印として使用している『若冲居士(仙人)』さんさながらですね」というような意が込められているのかも知れない。

 そして、若冲が描く左双の「蝦蟇仙人」は、三本足の「青蛙神」を河童の頭のような禿げ頭に乗せて、その「青蛙神」が天を仰いでいる。その仰いでいる方向に、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」が書かれている。

 この「失魄無依附餓莩尸。元非其質」は、鉄拐仙人にかかわる故事の、「魂を失うて依るべき所なし、一餓莩(ウヒ)の尸(シカバネ)を起し之に附す。元(以前の)其の質(カタチ=肉体)に非ず」(「鉄拐一日老君と約して華山に赴かんとす、即ち其徒に約して曰く我が魂此に在り、若し游魂七日にして返らずんば汝吾が魂と化すべしと、徒母疾あるを以く迅く帰り、六日にして之に化す、鉄拐七日に至りて帰るも已に魂を失うて依るべき所なし、一餓莩の尸を起し之に附して起つという、形跛悪なる是れがためなり)に因っているのであろう。

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」の「鉄拐図」(右双)の基になっているという、尾形光琳の「蹴鞠布袋図」の「布袋」は、日本の「七福神」(恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・寿老人・布袋)の一柱で、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれるのが通例である。それを光琳は、その大きな袋を放り投げて、蹴鞠に夢中になっている布袋で、その布袋が、頭上高く舞い上がっている蹴鞠を仰いで構図である。

 その日本の「七福神」の一柱の「布袋」を、中国の「八仙人」(呂洞寶=ろどうひん、李鉄拐=りてっかい、鐘離権=しょうりけん、張果老=ちょうかろう、藍菜和=らんさいか、曹国舅=そうこくきゅう、何仙姑=かせんこ)の一柱の「(李)鉄拐」に転回しているのである

 その「鉄拐図」(右双)の「鉄拐(仙人)」が吐き出す霊気の中の「分身」が、光琳の「蹴鞠布袋図」の宙に浮いている「蹴鞠」の見立てで、今度は、その「蹴鞠」の如き「鉄拐(仙人)」の「分身」は、「蝦蟇図」(左双)の「蝦蟇仙人」(河童頭のみ表示されている)と転回し、その「蝦蟇(仙人)」が連れ歩く「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が、「蝦蟇仙人」の頭上で、天を仰いで、光琳の「蹴鞠」ならず、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」を仰いているのである。

 これは、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との見事な連携プレーで、蕪村の俳諧の世界でするならば、見事な「付け合い」ということになる。

 さらに、この若冲の「鉄拐図」(右双)の、若冲の「図」とそれに賛する寂照の賛「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、俳諧(連句)の世界でするならば、発句(若冲「図」)に対する、脇句(その発句を受けての挨拶句の趣)の「賛」という雰囲気である。

 そして、この若冲の「蝦蟇図」(左双)は、右双の「若冲図・寂照賛の『鉄拐図賛』」に対して、その「鉄拐図賛(若冲図と寂照賛)」に比しての、「蝦蟇図賛(若冲図と月遷浄潭の賛)」の、この「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が見上げている、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質」(魂ヲ失イテ依ルトコロ無シ、餓死シタル屍ニ附ク、元、其ノ質ニ非ズ)という、この月遷浄潭の賛こそ、これら一連の図と賛との「結句」のように思われる。

 それは、「肉体は無になっても、魂は無にならない」というようなことを暗示していて、これらのことを、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との関連に当て嵌めて見ると、「光琳の『蹴鞠布袋図』の魂は、若冲の『蝦蟇・鉄拐図』において、その形状は消えていても、その魂は生き続けている」ということになる。

 事実、若冲は、天明九年、改元して、寛政二年(一七九〇)の、七十五歳の晩年に於いて、光琳が得意とする金壁障屛画の如き「仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)」(襖六面・紙本金地着色・各一七七.二×九二.二cm)として結実して来る。

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(若冲「仙人掌群鶏図」)

 さて、蕪村には「蝦蟇・鉄拐図」と題する作品はない。ただ、蕪村の丹後時代(宝暦四年=一七五四~同七年=一七五五)の作「十二神仙図」(六曲一双)の一扇(面)に、「蝦蟇(仙人)・鉄拐(仙人)」を描いたらしきものが残っている。

 これらの各扇(面)の「押絵貼(おしえばり)」で描かれた人物の特定は難しいが、その右隻の第三扇(面)は、「右側は足が悪いながら魂を自在に離脱させた李鉄拐(りてっかい=鉄拐仙人)、その隣は左手に桃を持ち右手に銭差しらしき紐を握ることから劉海蟾(りゅうかいせん=蝦蟇仙人)」と鑑賞しているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収「作品解説」)。

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(蕪村「十二神仙図屏風」、右隻=六扇、その第三扇=「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」)

 この「十二神仙図」の右隻の第三扇(右から三番目)、これが蕪村の「「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」である。鉄誘仙人の口から吐き出される霊気の中には、その分身は描かれていない。それは、おそらく、その分身が戻るべき肉体が焼かれて、飢え死にした肉体に宿って再生したということを暗示しているのであろう。

 また、蝦蟇仙人には、三本足の「青蛙神」は居らず、代わりに、不老不死や邪気を払う蟠桃(ばんとう)と金運を象徴する銭差しを持っている。これらも中国または日本の版本(絵手本など)から示唆を受けたものなのであろうが、蕪村の趣向というのが窺える。

 ちなみに、この「十二神仙図」は、享保五年(一七二〇)に刊行それた大岡春卜の『画本手鑑』に掲載されている図と類似するものがあるとの指摘がある(『南画鑑賞(八―十、一九三九年)所収「蕪村の画系を訪ねて(人見少華稿)」)。

 この大岡春卜は、若冲の最初の師とされ、若冲も、この大岡春卜の版本などから多くのものを学んでのであろう。若冲自身は、「狩野氏ノ技ヲ為ス者ニ従ヒテ」と、春卜その人の名を明らかにはしていないが、続いて、若冲は、「不如舎(舎=捨テルニ如カズ)」と、全てを断ち切り、「周(アマネ)ク草木ノ英(エイ)、羽毛虫魚ノ品(ヒン)、ニ及ンデゾ貌(カタチ)ヲ悉(ツク)シ、ソノ「神」ニ会シ、心得テ手応ズ」と「物」を「写実」することを基本に据える。

 一方、蕪村は、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と、画道において終生師として仰ぐものを持たなかった。ただ、目標としていた画と俳(俳諧)との二道の面において、当時、京都在住の、その先駆的な一方の雄であった彭城百川を慕って、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、十年余に及ぶ関東遊歴時代に終止符を打って上洛して来たという事実は紛れもないことであろう。しかし、その百川は、蕪村が上洛した翌年(宝暦二年=一七五二)八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じてしまうのである。

 この百川の逝去が一つの動機となっているのだろうか、その逝去の二年後、宝暦四年(一七五四)の春か夏の頃、百川も嘗て足を止めていた丹後の宮津へ移住し、百川が標榜していた「売画自給」(画業で自立する)の実践の途を決行することになる。この時、蕪村、不惑の齢の一年前、三十九歳であった。

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。