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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(一) [酒井抱一]

その一 「四季花鳥図屏風」の右隻と左隻

四季屏風春・夏.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

四季屏風秋・冬.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)

【 右隻の右から平坦な土坡に、春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である。
モチーフはそれぞれ明確に輪郭をとり厚く平たく塗り分け、ここで完璧な型づくりが為されたといっていいだろう。光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される。
本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿))

 上記の「作品解説」中の、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する。続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている。左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」は、次回以降、四季の「春」「夏」「秋」「冬」に分けて、じっくりと鑑賞していきたい。

 続く、「光琳百回忌から一年、濃彩で豪華な大作としては絵馬や仏画などを除いて早い一例となる。淡い彩色や墨を多用してきた抱一としては大変な飛躍であり、後の作画に内外に大きな影響を及ぼしたことが想像される」については、先に見てきた『四季花鳥図巻』(文化十五年=一八一八)作)の先行的な作品として、これも随時、その折々で、じっくりと比較鑑賞をしていきたい。ここで、両者を比較しての鑑賞の一端を特記して置きたい。

「四季花鳥図屏風」(六曲一双)→「晴(ハレ)」の「装飾・展示的空間」の「四季花鳥図」
「四季花鳥図巻」(二巻) → 「褻(ケ)」の「座右・書斎的空間」の「四季花鳥図」

 続く、「本図は、昭和二年の抱一百年忌の展観に出品され、当時は、金融界の風雲児といわれた実業家で、浮世絵風俗画の収集でも知られる神田鐳蔵の所蔵であった。その前後、大正から昭和初めにかけて、さまざまな所蔵家のもとを変転したことが入札目録よりわかるが、それ以前の情報として、新出の田中抱二資料の嘉永元年(一八四八)の「写真」に、本図の縮図が見出されたことを報告しておく」に関連しては、次のアドレスの、「華麗なる宮廷文化 近衛家の国宝 京都・陽明文庫展」(九州国立博物館)の「近衛家凞」(光琳・乾山と親交の深い渡辺始興は、家凞の家士として仕え、家凞自身「花木真写図巻」を有している)関連など、抱一の花鳥画を理解する上で必須であると共に、この抱一の「四季花鳥図屏風」が、近衛家の「陽明文庫」所蔵になっているのは興味深い。

https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s35.html (再掲)

近衞家と陽明文庫
近衞家は摂政・関白等の重職を担い、宮廷の中心として政治や儀式を執り行ってきた。その遂行のためには日々の行事の記録や文書類を守り伝えることが重要であった。また歴代当主が各時代を代表する教養人であったためもあり、近衞家には奈良・平安時代から近代にいたるまでの書跡・典籍・古文書および美術工芸品約20万点が伝来した。これらの伝世品を永く保存し、公共の利用に供するため、昭和13年(1938)、時の首相であった近衞家29代文麿(1891〜1945)は、財団法人(現在は公益財団法人)陽明文庫を発足させた。近衞家は、藤原忠通の嫡子基実が平安京の近衞大路室町にあった近衞殿を居所とし、その子孫が代々この邸宅を伝領したことから、近衞を家名とした。近衞大路は平安宮の陽明門から東に発する大路であったことから陽明大路とも呼ばれ、近衞家は陽明家とも称した。陽明文庫の名はこれに由来し、発足以来70年以上にわたり、貴重資料の整理、調査、閲覧、展示公開などの公益活動を地道に続けている。現在所蔵する国宝は8件、重要文化財は60件、重要美術品は31件にのぼる。

近衞家凞像 (このえいえひろぞう)
九峰自端賛・寛深画 江戸時代 18世紀  近衞家凞の晩年の出家した姿を描く肖像画で、多才な文化人の繊細な人柄を偲ばせる。本像は、家凞没後の四十九日法要の際に描かれた肖像画を、十数年後に家凞の八男で大覚寺門跡・大僧正の寛深が写したもの。

四季花鳥図屏風 (しきかちょうずびょうぶ)
酒井抱一筆 江戸時代 文化13年(1816)  筆者の酒井抱一は尾形光琳に私淑し、江戸琳派とよばれる画風を確立したことで知られる。本作は抱一56歳の作品で、光琳にならって大画面制作に着手してまもない時期のもの。華やかな金地濃彩の画面のなかに、移ろいゆく四季の花鳥を気品高く描きあげる。

(参考)

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/10017/1/KU-1100-20151101-04.pdf


「円山応挙と清朝花鳥画 : 近衛家煕の唐物趣味をふまえて(村上敬稿)」

(抜粋・「再掲」)

1、 近衛家煕と円山応挙の関係  

家煕の愛好した中国絵画を応挙と結びつけるために、まず家煕と応挙の人的な繋がりを明確 にしておかなければならない。もっとも、年齢差からして、家煕と応挙に直接の交際があった わけではない。両者の間に介在するのは、応挙のパトロン・祐常(1723~1773)である。家煕は、藤原五摂家の筆頭、近衛家に生まれ、摂政、関白、太政大臣を歴任した人物である。そして、応挙との関係でいえば、家煕は、祐常の姉・桜町天皇女御の義祖父にあたる。また、 応挙の墓碑銘を刻むほど親交の篤かった妙法院真仁法親王(1767~1805)の高祖父にあたる9)。 なお、祐常は、五摂津家のうち二条家の生まれであり、応挙が一時〈藤原姓〉を名乗ったのも、 このパトロンの俗姓と関係があったという説がある10)。さらに、祐常について、古筆了仲編『扶 桑画人伝』(1888)に興味深い一文があるので、以下に引用する。
○祐常 幼年ヨリ近衛家煕公ニ画ヲ學ンテ墨竹ヲ能クス又雑画モアリ
すなわち、家煕と祐常の間には、氏族関係だけではなく、画技における師弟関係のようなものも あったと考えられる。なお、両人の主要な作品は、それぞれ陽明文庫と円満院に伝世している。さらに、家煕と祐常の関係において看過できないのは、家煕のお抱え絵師であった渡辺始興 (1683~1755)の存在である。始興は、祐常の生家である二条家邸に出入りしていたとされる11)。 そして、祐常の祖父・二条綱平(1672~1732)は、かの尾形光琳(1658~1716)と深い親交が あり、始興が一般に琳派の絵師と認知されていることを踏まえると、近衛家と二条家の間には 旧来より絵画を通じた交流があったと考えられる。
さて、始興筆《鳥類真写図巻》(1718~1742、個人蔵)【図1】の忠実な模本として、応挙筆 《写生帖》(東京国立博物館蔵)【図2】の存在が知られている。なお、応挙の《写生帖》は、応 挙が祐常の知遇を得た明和4年(1767)から安永期にかけて制作されたと推定されている12)。も っとも、応挙がどのような経緯で、始興の《鳥類真写図巻》を模写したのかは不明であるが、 近衛家にあった本作品を、祐常が応挙に模写させたと判断するのが妥当であろう。そもそも応 挙が写生を行うようになった契機も、祐常から「昆蟲草木写真一百幀」の制作を命じられたか らとされる13)。では、なぜ応挙は、始興の《鳥類真写図巻》を模写し、また「昆蟲草木写真一百 幀」の制作を命じられたのか。

2、 写生画の先駆者、近衛家煕について  

近衛家は、藤原五摂家のなかでも筆頭の名門とされ、代々その家系は、文化的素質に秀でた 人物を輩出した14)。家煕も、学問を好み、書道、茶道、華道のいずれにも精通した文化人であり、絵画にも並々ならぬ関心をもっていた。なお、家煕の博学多才ぶりについては、侍医であった山科道安(1677~1746)により家煕の言行が筆録された『槐記』(1724~1735、陽明文庫 蔵)から知ることができる15)。  
さて、家煕は、日本美術史において、《花木真写図巻》(1725頃、陽明文庫蔵)【図3】の作者 として有名である。この《花木真写図巻》は、「日本において最も早期に作られた本格的な〈博 物図譜〉」16)と評価されるように、同時代に流行した椿図鑑や産物帳と比較しても、異色の写実 性を放っている。この点について、前述の『槐記』を確認すると、花鳥画に関して、まず実際に花や鳥を観察し、その特色を理解することの重要性を繰り返し説いている17)。もっとも、この《花木真写図巻》は、単に科学的な関心から描かれたのではなく、各々の草 花を美しく見せるために、色調、構図への趣向が凝らされている。それは、本図巻の模本が、 家煕自身により、《花木真写貼交屏風》(18世紀、陽明文庫蔵)に仕立てられ、鑑賞に供された ことからも明らかである。このような美的感覚は、家煕が華道に造詣が深かったことに由来している。この点について、『槐記』によると、家煕は、本草会を主催する松岡玄達(1668~1746) に、植物に関する様々な質問をしており、また華道(立花)に関して、それぞれの花に相応しい枝を用いねばならないと述べ、自然そのままでは作品にならないという持論を展開している18)。おそらく、家煕は、草花を写生するにあたっても、同様の考えをもっていたといえる。な お、今橋理子氏は、家煕の写生を支える華道の精神について、以下のように述べている。
 彼の「写生」の行為が、本草学者のそれと大きく異なっていたのは、自然物を捉える心 の発露が、「科学」である前に、まず「華道」の原点である、対象の「自然界でのなり」そ して、「その花を最も美しく見せる面」ということに置かれていた点である19)。
このように、ある特定の個体を写生しながらも、それを典型美に昇華させるという絵画理念は、 のちに応挙が大成させた写生画の本質といえよう。さて、始興の《鳥類真写図巻》に結実された写生への開眼は、家煕の影響が大きかったとされる20)。そして、応挙が始興の写生図を模写し、写生を行うよう命じられた背景にも、家煕から 始興、祐常へと受け継がれた写生画の伝統があったといえる。  
なお、朝岡興禎著『古画備考』(1850起筆)によると、応挙は、呉春(1752~1811)に対し、「文人画もよいが、勅命などによって描く場合、文人画では撰に入りにくい」21)と述べたとされる。この忠告の意味は、判然としないものの、御用達のために狩野派や土佐派の絵画を描いた 方がよい、というのではなく、写生画への転向を薦めたものと解釈できる。この応挙からの助 言は、のちに呉春が御物用に描いた《秋草図衝立》(18世紀、宮内庁三の丸尚蔵館)などに反映 されているといえよう。

3、 家煕の愛好した日本絵画と円山応挙  

家煕の写生画の精神が応挙へと受け継がれていることを指摘したが、それだけでは家煕から 応挙への流れが、いささか抽象的である。そこで、家煕のお抱え絵師であった、始興と応挙の 本制作における相似点を指摘しておきたい。  
応挙の絵画に始興からの影響が認められることについては、すでに一部の研究者により言及されている。たとえば、応挙の好んだ子犬図という画題は、始興の《芭蕉竹に子犬図》(個人 蔵)【図4】が先行する作品として挙げられており、始興作品にみられる子犬や芭蕉、竹の描写 は、応挙の技法、図様【図5】ときわめて近いとされる22)。さらに、始興筆《金地山水図屏風》 (個人蔵)の左隻における渓流沿いの描写は、応挙筆《雨中山水図屏風》(1769、円満院蔵)の それと酷似しているとされる23)。また、白井華陽筆『画乗要略』(1831)によると、応挙は、常 に始興を「能手」だと賞賛していたとされ、『真仁法親日記』にも、応挙が始興の作品を見て、 「見事也」と感心している様子が確認できる。  
また、この『真仁法親日記』によると、応挙は席画を行い、家煕の玄孫・真仁法親王を楽しませていたという24)。そして、現存する応挙の席画として、《滝図》25)が知られている。本作品 は、正面観の滝を画面全体に大きく描いた、応挙唯一の指頭画である。
このような画面構成の 滝図は、応挙が好んだものであり、代表作として《大瀑布図》(1772、円満院蔵、縦362.8×横 143.8cm)【図6】がある。そして、佐々木丞平氏の解説によれば、「円満院の池に滝のないことを惜しんだ祐常は、応挙の迫真の描写力をもって実物大の滝を生み出そうと考える。この途 方もない発想に応えて応挙が描いたのが本図である」という26)。  
しかし、《大瀑布図》と同様に、近接視による実物大の滝のみを描き、滝口を大胆に省略して いる作品として、始興の《瀑布図》(個人蔵、194.3×49.5)【図7】が先行している。さらに、 やや中画面ではあるものの、狩野尚信(1607~1650)の《滝図》(MIHOMUSEUM蔵、147.8 ×64.4)がある。なお、家煕は、尚信を「古今に超絶する」画家として非常に高く評価してお り、『槐記』にも、尚信への賛辞が存分に述べられている27)。
家煕が尚信の《滝図》を知っていて、似た絵画を始興に描かせたか否かは定かではない。た だ、少なくとも、始興の作に《瀑布図》がある以上、この種の滝図を応挙の独創とはいえまい28)。もっとも、応挙の始興画学習について、画風の相似点を挙げてたどるまでもなく、はっきりと落款にその意志を記した作品もある。応挙筆《春野図》(1771年)がそれで、「摹渡辺始興」 と記されている。以上のように、家煕亡き後、家煕の愛好した日本絵画が応挙の作画に影響を 与えていたことがわかる。

(参考)

『花 美への行動と日本文化(西山松之助著・NHKブックス)』所収「日本における花の文化史」に次の記述がある。

【 近衛予楽院の『槐記』の茶会記によると、
紅椿十六、椿・白玉椿・白椿六、妙蓮寺椿・飛入椿・本阿弥椿・絞り椿一、計椿が三十九、梅二十三、菊十四、水仙八、(中略)これらの茶花の実用例から考えられることは、一つは椿・梅・水仙・菊など、秋から冬・早春の花が多く、茶会が主としてこの時季に多かったから、自然こうなのだが、やはり茶花の美学たる、自然の季節の花を一色だけいけるという原則から。こういう主として白系統の花が、椿の場合は侘助以外必ず蕾の花が用いられた。(後略) 】

 「雪中花」の異称を有する「水仙花」が登場するのは、近世の俳諧(連句・発句=俳句)時代以降という、極めて新しい詠題なのだが、それは、上記の「茶華道」の発展過程と軌を一にするものなのかも知れない。

四季屏風水仙.jpg

近衛家煕筆「水仙」(『植物画の至宝:花木真寫・淡交社』)



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