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江戸の粋人・酒井抱一の世界(その四) [酒井抱一]

その四 根岸の「抱一・蠣潭・其一」と千住の「建部巣兆」

根岸略図.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション「根岸略図」(文政三年刻)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9369588

 これは、文政三年(一八二〇)版の「根岸略図である。時に、抱一は六十歳であった、抱一が、この根岸の里に引っ越して来たのは、文化六年(一八〇九)、四十九歳の時で、『本朝画人伝巻一(村松削風著)』では、次のように記述されている。

「文化六年抱一は根岸大塚(一名鶯塚)へ移った。現今の下根岸である。居宅を新築したわけではなく、従来あった農家を購ってこれに茶席を建て増したのみであった。これぞ名高き『雨華庵』である。また、これより地名になぞられて『鶯邨(村)』とも号した。誰袖(たがそで)を入れて采箒の任をとらしめたのもこのころのことであろう。誰袖は本名おちか、号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。彼女も抱一の画弟子であった。抱一は同時に新造禿(かむろ)まで引取って依然として廓(さと)言葉を使わせていたのである。」

 上記の地図の「抱一」の下に「其一」とある。この其一は、抱一門の筆頭格の高弟・鈴木其一(宅)であろう。其一が抱一の内弟子となったのは、文化十年(一八一三)、十八歳の時で(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収「年譜」)、この家は、当初、其一が養子となり跡継ぎとなる鈴木蠣潭(当時十八歳)が、「(酒井家)十三人扶持・中小姓」として抱一の「御用人(付人)」となっているので(同上「年譜)、抱一の最古参弟子の鈴木蠣潭が、移り住んでいた家なのかも知れない。
 この蠣潭は、文化十四年(一八一七)、二十六歳の若さで急逝し、その年の「年譜」に、「鈴木其一、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む」と記載されている。
 蠣潭の急逝について、「亀田鵬斎年譜」(『亀田鵬斎(杉村英治著)』)に、「六月二十五日、鈴木蠣潭没す。年二十六、抱一に侍して執事を勤め、絵画を学ぶ。墓に、鵬斎の碑文、抱一書の辞世の句を刻む。なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね 蠣潭」と記載されている。
 この辞世の句からして、蠣潭は俳諧も抱一から薫陶を受けていたことが了知される。蠣潭は、抱一の書簡などから、抱一の代作などをしばしば依頼されており、単なる付人というよりも、抱一の代理人(「亀田鵬斎年譜」の「執事」)のような役割を担い、抱一が文化十二年(一八一五)に主宰した光琳百回忌事業などにおいても、実質的な作業の中心になっていたことであろう。
 また、この「鵬斎年譜」から、蠣潭の墓石に、鵬斎が碑文を書き、蠣潭の辞世の句(「なみ風もなくきへ行(ゆく)や雲のみね」)を書していることからすると、鵬斎と「抱一・蠣潭」とは、親しい家族ぐるみの交遊関係にあったことが了知される。
 その「鵬斎(宅)」が、冒頭の「根岸略図」の中央(抱一・其一宅の右下方向)に出ている。その左隣の「北尾」は、浮世絵や黄表紙の挿絵で活躍した北尾重政(宅)で、重政の俳号は「花覧(からん)」といい、俳諧グループに片足を入れていたのであろう(『日本史リブレット人054酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
  この同書(玉蟲著)の別の「下谷根岸時代関係地図」を見ていくと、冒頭の「根岸略図」
(部分図)の上部の道路は「金杉通り」で、下部の蛇行した川は「音無(おとなし)川」のようである。この「金杉通り」の中央の上部に、「吉原トオリ」というのが「〇囲みの東」の方に伸びている。この路を上っていくと「新吉原」に至るのであろう。
 また、この地図の上部の左端に「日本ツツミ」とあり、これは「新吉原」そして、隅田川に通ずる「日本堤」なのであろう。その隅田川に架橋する千住大橋を渡ると、建部巣兆らの「千住連」(俳諧グループ)の本拠地たる宿場町・千住に至るということになる。

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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「鵬斎・叙」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665.html
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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序一」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0004.jpg


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『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序二」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0005.jpg

『江戸文芸之部第27巻日本名著全集俳文俳句集』所収「曽波可理(そばかり)」から、上記の抱一の「巣兆句集序」の翻刻文を掲載して置きたい。

【 巣兆句集序
秋香庵巣兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作して我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及ぶ。兆身まかりて後、国村師を重ずるの志厚し。一冊の草紙となし梓にのぼす。其はし書きせよと言ふ。いなむべきにあらず。頓(とみ)に筆を採て、只兆に譏られざる事をなげくのみなり
文化丁丑五日上澣日        抱一道人屠龍記 (文詮印)   】

 ついでに、上記の「巣兆発句集 自撰全集」の冒頭の句も掲載して置きたい。

【 巣兆発句集 自撰全集
   歳旦
 大あたま御慶と来けり初日影
  俊成卿
   玉箒はつ子の松にとりそへて
      君をそ祝う賤か小家まで
 けふとてぞ猫のひたひに玉はゝき
 竈獅子が頤(あご)ではらひぬ門の松          】

 建部巣兆は、加舎白雄に俳諧を学び、その八大弟子の一人とされ、夏目成美・鈴木道彦と共に江戸の三大家に数えられ、俳人としては、名実共に、抱一を上回るとして差し支えなかろう。
 抱一は、姫路城十五万石の上流武家の生まれ、巣兆の父は、書家として知られている山本龍斎(山本家江戸本石町の名主)、その生まれた環境は違うが、その生家や俗世間から身を退き(隠者)、共に、傑出した「画・俳」両道の「艶(優艶)」の世界に生きた「艶(さや)隠者」という面では、その生き方は、驚くほど共通するものがある。
 鵬斎は、上記の巣兆句集『曽波可理』の「叙」の中で、巣兆を「厭世之煩囂」(世の煩囂(はんきょう)を厭ひて)「隠干関屋之里」(関谷の里に隠る)と叙している。抱一は、三十七際の若さで「非僧非俗」の本願寺僧の身分を取得し、以後、「艶隠者」としての生涯を全うする。
 この同じ年齢の、共に、この艶隠者としての、この二人は、上記の抱一の「序」のとおり、その俳諧の世界にあって、共に、「花晨月夕に句作して我(抱一)に問ふ。我も又句作して彼(巣兆)に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ」と、相互に肝胆相照らし、そして、相互に切磋琢磨する、真の同朋の世界を手に入れたのであろう。
 これは、相互の絵画の世界においても、巣兆が江戸の「蕪村」を標榜すれば、抱一は江戸の「光琳」を標榜することとなる。巣兆は谷文晁に画技を学び、文晁系画人の一人ともされているが、そんな狭い世界のものではない。また、抱一は、光琳・乾山へ思慕が厚く、「江戸琳派」の創始者という面で見られがちであるが、それは、上方の「蕪村・応挙」などの多方面の世界を摂取して、いわば、独自の世界を樹立したと解しても差し支えなかろう。
 ここで、特記して置きたいことは、享和二年(一八〇二)に、上方の中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』(加藤千蔭「序」、川上不白「跋」)を出版出来た背後には、上方の木村蒹葭堂を始めとする俳諧グループと巣兆を始めとする江戸の俳諧グループとの、そのネットワークの結実に因るところが多かったであろうということである。
 そして、巣兆と中村芳中との接点は、寛政十二年(一八〇〇)に出版された斬新な編纂による撰集『徳萬歳(巣兆編)』の挿絵は芳中の「徳萬歳」なのである。
この撰集の斬新さは、巣兆の序(「名寄せの大例」)で、「句作と作者を引(ひき)わかちて」その句作のみを「心しづかにことごとの句意を感味すべく」それによって「初心と手だれの趣向を知る事」もまた「よき修行ならずや」と考えて、こうした奇抜な編纂を思いついたと述べている。
 「目次」に当たるところに「作者」のみの記載があり、「本文)」のところには無名の「句作」が羅列されていて、その「句作」を観賞しながら、その「作者」が誰かを推量させると、どうにも、洒落っ気も度が過ぎているような感じでなくもない。
 その「目次」(俳人名)を見て行くと、「作者倣句順」(八十七名)中に、「千影(加藤千蔭?)・大江丸(大伴大江丸)・芳中(中村芳中)・文兆(谷文晁?)・道彦(鈴木道彦)」、「都八十余人」中に、「成美(夏目成美)・完来(大島完来)・長翠(常世田長翠)・士朗(井上士朗)」など、当時の名立たる俳人の中に、芳中(中村芳中)の名も出て来る。
 こういう撰集を、当時、四十歳の巣兆が刊行しているということは、単に、江戸の俳人というよりも、全国に名の知れ渡っている、当時の代表的な俳人の一角を占めていたと解することも出来よう。

  白梅の梅の香に我ならぬ袂かな (「笠やどり・二十三句目)・冥々(酒井抱一?)

 『徳萬歳(巣兆編)』の「目次」(「都八十余人」)の中に、「冥々」(二十三番目)の名が出て来る。この「冥々」は、当時の抱一の庵号の「溟(冥)々居」の「冥々」のように思われる。抱一の俳号は「白鳧(はくふ)・濤花後に杜陵(綾)・屠龍(とりょう)」など。画号は「軽挙道人・庭柏子・溟(冥)々居・楓窓・鶯村(邨)・雨華庵・抱一」など。狂句名は「尻焼猿人」(「浮世絵美人画も同じ)などが使われている。
 この『徳万歳』の抱一「序」の「彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ」と、この二人が、俳諧の世界で真に切磋琢磨し合ったのは、この『徳万歳』が刊行された寛政十二年(一八〇〇)、共に、四十歳の不惑の年の頃を指しているのではなかろうか。
 この翌年の享和元年(一八〇一)に、この当時の傑作画「燕子花図屏風」(出光美術館蔵)を完成させている。この「燕子花図屏風」は、下記のアドレスで紹介している。この時の落款は、「庭柏子『抱一(朱文円印)』『冥々居(白文方印)』で、「冥々居」の印が用いられている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-27  

 ここで、改めて実感することは、「鵬斎・抱一・文晁・南畝」のネットワークは、この「巣兆」のネットワークなどと重層しながら、一大ネットワークを形成していたであろうということである。
 この文晁の「俳諧ネットワーク」などと関連して、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』の「鈴木其一」の中に、「鶯巣(おうそう)は彼の俳号である」との記述が見られるが、この「鶯巣」の「鶯」は抱一の「鶯村(邨)」の「鶯」、そして、その「巣」は建部巣兆の「巣」なのではなかろうか。
 巣兆が亡くなった宝暦十一年(一八一四)、この時に、鈴木蠣潭は二十三歳、其一は十九歳で、其一はその前年に抱一の内弟子になっている。蠣潭も其一も、抱一の薫陶を受けて俳諧も嗜むが、そこに、巣兆が一枚加わっているような、そんな思いを深くする。

  我庵はよし原霞む師走哉 (巣兆『曽波加里』)

 巣兆没後に刊行された巣兆句集『曽波加里』の最後を飾る一句である。この句は、「よし原」の「よし」が、「良し」「葦(よし)・原」「吉(よし)・原」の掛詞となっている。句意は、「我が関屋の里の秋香園は良いところで、隅田川の葦原が続き、その先は吉原で、今日は、霞が掛かっているようにぼんやりと見える。もう一年を締めくくる師走なのだ」というようなことであろう。
 そして、さらに付け加えるならば、「その吉原の先は、根岸の里で、そこには、雨華庵(抱一・蠣潭・其一)、義兄の鵬斎宅、そして、写山楼(文晁・文一)と、懐かしい面々が薄ぼんやりと脳裏を駆け巡る」などを加えても良かろう。
 これは、巣兆の最晩年の作であろう。この巣兆句集『曽波加里』の前半(春・夏)の部は巣兆の自撰であるが、その中途で巣兆は没し、後半(秋・冬)の部は巣兆高弟の加茂国村が撰し、そして、国村が出版したのである。
 巣兆俳諧の後継者・国村が師の巣兆句集『曽波加里』の、その軸句に、この句を据えたということは、巣兆の絶句に近いものという意識があったように思われる。巣兆は、文化十一年(一八一四)十一月十四日、その五十四年の生涯を閉じた。

(追記)『徳萬歳(巣兆著)』・『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』の挿絵「徳萬歳」(中村芳中画)

徳萬歳.jpg

『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』中「徳萬歳(中村芳中画)」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06709/he05_06709.html

一 『徳萬歳(巣兆著)』と『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』とは、書名は異なるが、内容は全く同じものである。上記のアドレスの書名の『俳諧万花』は「旧蔵者(阿部氏)による墨書」で為されたものである。

二 『徳萬歳(巣兆著)』は、『日本俳書大系(第13巻)』に収載されているが、その解題でも、この『品さだめ』との関連などは触れられていない。

三 燕市(燕士・えんし)は、「享保六年(一七二一)~寛政八年(一七九六)、七十六歳。
石井氏。俗称、塩屋平右衛門。別号に、燕士、二月庵。豊後国竹田村の商人。美濃派五竹坊・以哉(いさい)坊門。編著『みくま川』『雪の跡』」とある(『俳文学大辞典』)。

四 「艶隠者」については、下記のアドレスでも触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-07-04-1

(再掲)

『扶桑近代艶(やさ)縁者(第三巻)』(西鷺軒橋泉 [作] ; 西鶴 [序・画])所収「嵯峨の風流男(やさおとこ)」

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_03265/he13_03265_0003/he13_03265_0003.html

上記の西鶴の「嵯峨の風流男(やさおとこ)」は、乾山をモデルにしていて、若くして隠遁者(隠者)として、俗世間との縁を断ち切る生活に入るが、それは、一見、「ストイック」(禁欲的に自己を律する姿勢)的に見られるが、その本質は、それに甘んじている、一種の「エピキュリアン」(享楽主義者)的な面が濃厚であるというのである。
 それを図解した挿絵が、上記のもので、左側の女性に囲まれて遊興三昧の男が、光琳をモデルした男、それを見ていて、その中には足を踏み入れない右側の人物が乾山をモデルにしている「嵯峨の風流男(やさおとこ)」、すなわち、「艶(やさ)隠者」乾山、その人という見方である。

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middrinn

この「鶯巣」についての御推理、興味深いですねぇ(〃'∇'〃)
by middrinn (2019-03-16 21:40) 

yahantei

『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国康著)』に出会えたのも「鵬斎」関連で、ここに、『亀田鵬斎(杉村英治著)』が加わると、「鵬斎」がやや姿を出してくる感じ?
「鵬斎」ファンも多いが、アンチ「鵬斎」も、ズート尾を引いている感じ。アンチ「鵬斎」は、『江戸詩人伝(徳田武著)」など。判官びいきかも知れないが、「鵬斎」ファンの方が気分がいいね。

by yahantei (2019-03-17 10:31) 

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