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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十七) [酒井抱一]

その十七「彼岸桜図(十二ヶ月図扇・二月)」(其一筆)

彼岸桜.jpg

鈴木其一筆「彼岸桜図」(十二ヶ月図扇・二月)」各一九・二×五一・五㎝ 
太田記念美術館蔵 → A図
【 彼岸桜(二月)
彼岸桜は少し寒さがやわらいでくる三月中旬、春の彼岸の頃から他の桜の品種に先がけて咲く、上部から垂れ下がる幾本もの枝には、蕾から開花したものまで無数の花が付く。(赤木美智稿) 】
【 十二ヶ月図扇 十二本
「十二ヶ月図扇」は、季節の草花や年中行事を描いた十二本で一揃の作品、骨の材料が同じですべてに署名「噲々其一」、印章「元長」(朱文方印)がある。「噲々其一」とする名乗りから、制作は天保四~十四年(一八三三~四三)頃と推定される。いずれも扇形の絵の周辺に若干の余白があるが、この余白がデザイン的な効果を考えてのものなのか、下書きから扇へ仕立てる際に生じた祖語であるのかは判然としない。なお、各月の画題は箱に附された付箋に依拠するが、付箋がいつ頃のものかは不明。箱書表には、「鈴木其一筆/□□十二ヶ月扇子 十二本入」、「箱書裏には「此扇子東京朝吹氏嘗什/大正九年四月大村梅軒氏/紹介を以て譲受之」とする墨書がある。蓋裏の墨書から、大正九年(一九二〇)四月に実業家の大村梅軒(白木屋呉服商十代目大村彦太郎)の紹介で、鴻池家が東京の朝吹氏から譲り受けたと推測される。朝吹氏とあることから、三井財閥系の実業家で古美術の蒐集家でもあった朝吹英二の旧蔵品であった可能性が考えられる。なお、英二氏はこの扇の移動に先立つ同七年に他界している。大正期の古美術を介した上流階級の人々の交流、其一作品の受容の一端をうかがうことができ興味深い。 】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』)

 ちなみに、この「十二ヶ月図扇」(其一筆)の、十二本の画題は次のとおりである。

【一月 若松福寿草 二月 彼岸桜 三月 曲水 四月 難波薔薇 五月 鍾馗 六月 凌霄顆(のうぜんか) 七月 花扇 八月 月宮殿 九月 菊慈童 十月 桜花帰り咲 十一月 雪中鴉 十二月 追儺式   】(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』)

 上記の「彼岸桜図」(其一筆)は、その解説にあるとおり「蕾から開花したものまで無数の花が付く」、なかなかに見応えのあるものである。この「彼岸桜」は、「枝垂れ桜・糸桜」の別称でもある。抱一の絵手本の『鶯邨画譜』に「糸桜と短冊図」が収載されている。

糸桜.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「糸桜と短冊図」(「早稲田大学図書館」蔵) → B図

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-10

 抱一の「糸桜と短冊図」は、その短冊に書かれている「墨子悲絲 そめやすき人の心やいとざくら」の句にウェートがあるようにも思える。

【墨子は白い糸を見て泣いたという。黄にも黒にもどんな色にも染められるが、一旦染まってしまえばずっとその色になってしまう。このことを高誘は、「楊子・墨子はともに、その根本は一つでありながら、後に姿かたちが変わってしまうことを哀れんでいる」という。 】

 抱一の「糸桜」は、まだ「蕾」のままの糸桜である。それに比して、其一の「彼岸桜」は、「蕾から開花したものまでの無数の彼岸桜」である。

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵  → C図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

 これも、前回に続いての、「桜・楓図屏風」(デンバー美術館蔵)の右隻(「桜図屏風」)の桜である。この桜は、「彼岸桜・糸桜・枝垂れ桜」ではない。これは、緑色の新芽とともに、薄紅色で大形の一重(又は二重)の花が開く「大島桜」か「江戸彼岸桜」(「大島桜」と「彼岸桜」の雑種)のようである。
 これを「江戸彼岸桜」(C図)とすると、其一筆「彼岸桜」(A図)と抱一筆「糸桜」(B図)は、抱一・其一の「江戸琳派」に敬意を表して、「江戸彼岸糸桜」との名称を施しても違和感はなかろう。
 その上で、この「江戸彼岸桜」(C図)を見ていくと、その背後の芽吹いている「糸柳(枝垂れ柳)」の若緑が絶妙である。ここにも、春(二月)の、江戸彼岸桜(薄紅色と白色)と江戸糸柳(新芽の若緑色)との「二極構造」(『対』の取り合わせ)の対比が感知される。
 それだけではなく、冒頭の其一筆の「彼岸桜図」(江戸彼岸糸桜図)は、この抱一の「江戸彼岸桜」と「江戸糸柳」を背景(媒介)にしての、抱一の継承者・其一の趣向を凝らした「江戸彼岸糸桜図」と解することも出来よう。
 抱一が憧憬して止まなかった宝井其角の継承者の一人である菊后亭秋色(きくごていしゅうしき)に、「江戸彼岸糸桜(枝垂れ桜)」を詠んだ一句がある。

 井戸ばたの桜あぶなし酒の酔   秋色 

 講談「秋色桜」については、次のアドレスに詳しい。

http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-04_shuushiki.htm

 抱一の無二の知友・大田南畝に、「詠秋色桜(秋色桜を詠む)」の詩(漢詩)がある。

  詠秋色桜(秋色桜ヲ詠ム)
曾識芳名黄四娘  曾テ芳名ヲ識ル黄四娘(コウシジョ)
猶餘千朶媚斜陽  猶千朶(センダ)ヲ餘シテ斜陽ニ媚ブ
至今春色如秋色  今ニ至ルモ春色秋色ノ如シ
佳句長傳錦繍章  佳句長ク伝フ錦繍(キンシュウ)ノ章

 さらに、東叡山寛永寺で詠んだ南畝の「東叡山看楓(東叡山に楓を看る)」の詩もある。

  東叡山看楓(東叡山ニ楓ヲ看ル)
松外霜楓玉殿陲  松外ノ霜楓玉殿ノ陲(ホトリ)
赤霞城映碧瑠璃  赤霞(セキカ)城は碧瑠璃ニ映ズ
紺園舊属梁園地  紺園舊(モト)梁園ノ地ニ屬ス
不便行人折一枝  行人ヲシテ一枝ヲ折(オラ)不(シメズ)

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → D図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

この「楓図」もまた、抱一・其一らの住んでいた雨華庵の近くの、東叡山寛永寺近辺の楓なのかも知れない。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十六) [酒井抱一]

その十六 「紅葉図扇面」(抱一筆)

(再掲)
 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-05

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一面 三六・五×五三・五㎝ →A図

桜楓図屏風・左.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の左隻(「楓図屏風」)デンバー美術館蔵 → B図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(左隻)「抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

桜楓図屏風・右.jpg

酒井抱一筆「桜・楓図屏風」の右隻(「桜図屏風」)デンバー美術館蔵 → C図
六曲一双 紙本金地著色 (各隻)一七五・三×三四・〇㎝
落款(右隻)「雨庵抱一筆」 印章(各隻)「文詮」朱文円印 「抱弌」朱文方印

【 抱一画には珍しい六曲一双の大画面に、桜と柳(右隻)、および紅葉(左隻)を中心とする、春秋の花卉草木を描いた作品。屏風の下辺に沿って土坡が連なり、その上をそれぞれ春草、秋草が覆って、木々の根元を彩っている。
 桜、柳、紅葉の幹は、濃い墨に緑青をまじえた、強い調子のたらし込みの技法を以て表される。いっぽう、桜の花や蕾、柳の細い葉、土筆、菫、竜胆といった、細部の描写においては、隅々まで神経の行きとどかせた、丁寧な筆づかいをみせる。金箔地を背景に、濃彩で明快な草花を描く琳派の伝統を強く意識しながら、余白を広くとる構図や、草花を描く細やかな筆づかいにも、抱一独特の構成力、描写力が発揮されている。
 「松藤図」屏風(アジア・ソサエティ・ロックフェラー・コレクション)や「四季花鳥図」屏風(陽明文庫・文化十三年)にも見出されるこのような表現を、本図は受け継ぐとみられ、落款の形式や特徴からも、文化年間末から文政前期の作と思われる。
 なお、本図は『酒井抱一画集』(国書刊行会)に載るほか、ブルックリン美術館で一九七五年に開かれた、Japaneese Paintings from the C.D.Center Collection 展カタログの表紙ともなっている。  】
(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(大野智子稿)」)

 上記の「紅葉図扇面」(A図)については、下記のアドレスで二回に亘って触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-05
 ↓  ↑
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-02

 それは、偏に、抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)の、「十一月十一日、水戸候徳川斉修の茶席に招かれる。掛物は前年に納めた抱一の《菊紅葉双幅》。その返礼のため。(句藻)」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表)の、下記の「掛物※=菊紅葉」が、どんな図柄のものかを想定してのものであった。

【 御道具御会席附 
初坐
一 掛物   ゆらのと 定家卿筆
一 窯    広口天明 蓋漢鏡紋あり
一 香合   回也 庸軒作 画土佐光起
一 三ツ羽  大鳥
一 炭斗   人形台
一 水次   方口
後坐
一 掛物※   菊紅葉 等覚院抱一筆 讃清人藩世恩石韞玉
一 花入  船 砂張(船形の見取図あり) 船大サ二尺五寸斗水一盃入紅葉      絵の影をうつさんとの思召也
(後略)        】

 この、抱一が水戸候徳川斉修に納めた「菊紅葉」はひとまずとして、上記の「紅葉図扇面」(A図)は、流出して以来本邦未公開と思われる(?)、抱一の大作中の大作、「桜・楓図屏風(デンバー美術館蔵)」(B図・C図)の、その左隻(「楓図屏風」)と、非常に親近感のある雰囲気を有している。そして、同時に、水戸候徳川斉修に納めた「菊紅葉」(双幅)も、この左隻(「楓図屏風」)と関係の深いものなのではなかろうかという、そんな予感を誘う雰囲気を醸し出している。
 この抱一の大作(六曲一双)「桜・楓図屏風(デンバー美術館蔵)」(B図・C図)が、本邦未公開(?)ということについては、下記のアドレスの「抱一の屏風絵・襖絵」に因っている。そして、抱一の大作(六曲一双)で、相互に関連しているものと思われるものは、次の三点なのである。

http://houitu.com/houitu1.htm

三部作・四季花鳥図.jpg

「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵) → D図

三部作・青朱楓.jpg

「青楓・朱楓図屏風」(個人蔵) → E図

三部作・桜楓.jpg

「桜・楓図屏風」(デンバー美術館・フレミングコレクション) → B図とC図


 この「四季花鳥図屏風」(D図)ついては、下記のアドレスで、十四回にわたり、その周辺を見てきた。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-21
  ↓  ↑
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-06

 次の「青楓・朱楓図屏風」(E図)については、「大琳派展 継承と変奏」(尾形光琳生誕三五〇周年記念、二〇〇八年一〇七日~一一月一六日・東京国立博物館)で、「四季花鳥図屏風」(E図)と同時に展示されていたことなど間接的に触れてきたが、正面からは取り上げてはいない。
 その時の図録(読売新聞社刊)によると、「この屏風の図柄は『光琳百図』に掲載された図と同じで、風神雷神図などと同様に抱一が光琳作品を目にして模写した作品ということになる。全体の色調が其一の『四季花木図屏風』とも通じ、楓の樹幹にはりつく苔のはなはだしさや形態は『夏秋渓流図屏風』でも目にすることができる」(松嶋雅人)と解説されている。
 そして、次の「桜・楓図屏風」(B図とC図)については、『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』で、今までに見落としていたもので、今回、これまでに何回か触れて来た「紅葉図扇面」(A図)の背後にある、抱一の大作中の大作、この「桜・楓図屏風」(B図とC図)に再会したのである。
 そして、この抱一の大作中の大作、そして、これは、抱一の晩年の作とも思われるのだが、この作品は、デンバー美術館所蔵になって以来、里帰り公開はしていないようなのである。
 と同時に、「四季花鳥図屏風」(D図)が、「四季(春・夏・秋・冬)」の花鳥(草花)図とすると、「青楓・朱楓図屏風」(E図)の「青楓(夏)」と「朱楓(秋)」と同じく「『対』の取り合わせ」(対照的な素材をひと組にとりあわせる)の花鳥(草花)図ということになる。
 もとより、この「『対』の取り合わせ」の趣向というのは、抱一の創見的なものではないが、抱一は内在的に、この「『対』の取り合わせ」の趣向というものを、己自身の中に顕著に有していたということが窺える。
 そして「綺麗さび」という世界も、「綺麗」(粋・造形性・「晴=ハレ」)と「さび」(閑寂・文芸性・「褻=ケ」)との、「『対』の取り合わせ」の世界と換言することも出来るのかもしれない。
 こうして見てくると、「四季花鳥図屏風」(D図)と「青楓・朱楓図屏風」(E図)そして「桜・楓図屏風」(B図とC図)とは、抱一の六曲一双の屏風物の三部作として位置づけすることも可能なのかもしれない。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十五) [酒井抱一]

その十五「扇面雑画(三十九)・稲穂に雀図」(抱一筆)

稲穂に雀図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(三十九稲穂に雀図)」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵 → A図

https://image.tnm.jp/image/1024/C0036832.jpg

白梅雪松小禽図.jpg

酒井抱一筆「白梅雪松小禽図」絹本着色 双幅(各)一一七・二cm×四七・五cm、
板橋区立美術館蔵 → B図

http://www.itabashiartmuseum.jp/art-2013/collection/ntb001.html

【左幅では、二羽の雀が何やら楽しそうにおしゃべりをしているようです。その上を粉雪がキラキラと輝くように舞っています。俳諧に慣れ親しんだ抱一ならではの表現です。抱一の作品が文学的であるとされるゆえんでもあり、作者の自然に対する温かなまなざしが感じられます。
 一方、右幅の天高くどこまでも伸びていきそうな梅の枝は、鋭い線で描かれ、左幅の穏やかな情景とは対照的です。
 酒井抱一は、江戸淋派を大成した画家として知られていますが、意外にも尾形光琳の画風との出会いは遅く、抱一が四十歳前後のころであったといわれています。抱一の代表的な作品は、これ以降に集中しています。
 この作品に見られる梅の枝や壺(つぼ)の表現は、「たらし込み」(墨や絵具のにじみの効果をいかす技法のこと)で描かれており、光琳の影響がうかがえます。抱一の描く四季折々の情景は抒情性にあふれ、独特の静寂の世界へと、いざなうかのようです。 】

竹雀図.jpg

酒井抱一筆「竹雀図」(『絵手鑑帖・七十二図・静嘉堂文庫美術館蔵』の五十四図)
紙本墨画淡彩 「抱一筆」(墨書) 「文詮」(朱文内瓢外方印) → C図
【 このような様々な主題・技法の作品を寄せ集めた作品形式のひとつのアイディアとして、『光琳百図(後編)』所載の雑画セット全二十四図をあげておきたい。このセットの形状は画帖であったかは不明ながら、そのなかに「富士山図」「竹雀図」「寒山拾得図」「大黒天図」「梅図」「芙蓉図」などが含まれ、様式は抱一の『絵手鑑』と異なるものの、主題など共通点も多い。もちろん『絵手鑑』は江戸時代の画帖の大きな流れのなかに位置する作品であるが、光琳のこのような作品からも形式や編集の方法を学んでいるのではないかと思われる。 】
(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「静嘉堂文庫美術館蔵 酒井抱一筆『絵手鑑』について(玉蟲敏子稿)」)

 この解説は、抱一の『絵手鑑』(静嘉堂文庫美術館蔵)の「形式や編集方法」に関してのもので、その一図の「竹雀図」に関するものではない。そして、確かに、『光琳百図(後編・下)』には、下記アドレスのとおり、光琳の「竹雀図」の縮図も収載されている。しかし、上記の「雀」図(A図・B図・C図)は、光琳よりも、応挙・芦雪らの「円山四条派」に近いものであろう。
 なお、上記の論考(玉蟲敏子稿)では、この『絵手鑑』の全図について、次の六点から考察されている。

一 伊藤若冲から学んだもの
二 大和絵から学んだもの
三 谷文晁および中国画から学んだもの
四 宗達・光琳から学んだもの
五 円山四条派から学んだもの
六 俳趣味のものなど

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850495


国立国会図書館デジタルコレクション 『光琳百図 後編 (下)』

光琳「竹雀図」(縮図)

下 三十二、左頁の「左・中段」
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十四) [酒井抱一]

その十四「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(抱一筆)

烏瓜図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十三)・烏瓜図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095260

抱儀・葛花に烏瓜図.jpg

守村抱儀筆「葛花に烏瓜図」 絹本著色 一幅 九五・五×三二・四㎝
東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0027576

【 抱一、其一にもうたがわれるほど似たような構図である。琳派の画家たちが好んで描いた画題であるようだ。しかし烏瓜をからませている図は少ない。しかも蔦と烏瓜の蔓の描線の美はすばらしく、この図に生彩を添える原因でもある。葉の色には明らかな対照を示し、金彩の葉脈に簡略と複雑の表現を用い、花と実も紅白色分けしているのも心憎い。かなり抱一の性格に似た筆者だったようである。守村抱儀の伝は余りはっきりしていないし、抱の一字を用いているところから、かなり近い弟子の存在であったと考えられる。落款に「鷗嶼閑人筆」とあり、「抱儀」朱文角丸方印がある。 】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

【 守村抱儀(もりむらほうぎ)
1805-1862 江戸時代後期の豪商、俳人。
文化2年生まれ。鶯卿(おうけい)の兄。江戸浅草蔵前の札差。俳諧(はいかい)を成田蒼虬(そうきゅう)、絵を酒井抱一(ほういつ)、詩文を中村仏庵にまなび、天保二十四詩家のひとりにかぞえられる。小沢何丸の後援者だったが、豪華な生活で家産をかたむけた。文久二年一月十六日死去。五十八歳。名は約。通称は次郎兵衛。別号に鴎嶼など。著作に「うみみぬ旅」など。】  (デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

抱儀・紅梅図.jpg

守村抱儀筆「紅梅図」 一六・五×四三・五㎝(原「扇面画」・個人蔵)→扇子仕立て(上記「日本航空・記念品」、以下の解説は「原『扇面画(個人蔵)」のもの)
【 抱儀
江戸時代琳派の最後の人とも言うべき画家に、守村抱儀がいる。抱儀は、名は約、号を経解・鴎嶼・松篁・交翠山房・真実庵などと称した幕末の画家で、文久二年(一八六二、)に没した。書画詩俳諧をよくし、文人画的な気質で光琳風を学んだと思われる。紅梅図は、数少ない抱儀の出色の遺品である。画面中央から左右に枝を張る梅を、濃墨と淡墨で描き分け、こぼれんばかりの大きな紅い花をつけている。梅花は清々しい大気を吸い、みずみずしく輝いている。筆勢に力があり、墨も紅も美しい。このような扇絵を見ていると、形式化し衰弱して行った琳派の江戸末期にも、なお扇絵には美の余光が残っていたことを認め得る。  】
(『扇絵名品集(水尾比呂志著)』別冊「解説(水尾比呂志稿)」)

 抱儀は、抱一在世中の末弟に位置する抱一門の一人であろう。『墨林奇勝』「普陀落山房詩集」ほか多数の著作があり、明治四年(一七八一)に遺族より『抱儀句集』も刊行されている。また、先代より引き継いだ蔵書家としても知られているが、晩年は斜陽となり、火災などもあり、駒形堂のほとりささやかな「真実庵」を結んでいたという。
 抱一の「綺麗さび」の世界は、この抱儀や、同世代の、酒井鶯蒲・鶯一、鈴木守一そして田中抱二らに引き継がれていることを、抱一の扇面画などを介すると一段とはっきりとしてくる。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十三) [酒井抱一]

その十三 「吹寄せ図」(抱一筆)

吹寄せ図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十五)・吹寄せ図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0052872

 「吹寄せ」というのは、「秋風で吹き寄せられた落ち葉」を意味する。そこから派生して、茶の湯などで使われる紅葉の葉や木の実などの愛らしい型で抜いた和菓子などの名称にもなっている。
 
 西吹けば東にたまる落葉哉  蕪村『自筆句帖』
 北吹けば南あはれむ落葉哉  蕪村『落日庵句集』

紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図」一幅 紙本着色 四六・四×二八・七㎝
【 まことにいとも簡単につけ立て風に描いた紅葉した蔦の葉が四、五葉、真っ白い絵紙の上にかたまって散っている。その図上斜めに、「めぐる日にててらしかへける蔦もみぢ」と自作の俳句が書かれている。こうなると三行にわたった書もまさに絵になっている。これは抱一の俳画であるが、朱赤の葉だけで、しかも軽い筆致で描き上げている。わずかに葉脈に金泥を施しているあたりは、憎たらしいばかりではなかろうか。遊びのように思えるが、この彩りの強弱などは一筋縄でない画技の優れたものを感じる。まことに軽妙という字がぴったりするもので、非の打ちどころのない出来栄えである。この感覚こそ江戸風ということができようし、瀟洒だけでなく色気があって、散った葉への感情が溢れている。絵というものの偉大な力というものにも打たれるし、筆者抱一の素晴らしい感覚に驚きもする。これは宗達・光琳になかった一面である。款記は「抱一画に題す」とあり、朱文小瓢印が捺され、晩年の研ぎ澄まされた境地のようである。   】
(『抱一派花鳥画譜五(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 めぐる日にててらしかへける蔦もみぢ    抱一

 解説中で紹介されている抱一の句である。この句が上記の画中の右上に三行にわたって書かれている。この句の「めぐる日にて」の字余りの「上五」の「めぐる」は、「紅葉が駆け巡る」と「亡き人の面影が駆け巡る」を兼ねての用例で、この「にて」の「字余り」は、その亡き人の面影を強調してのものと解せよう。そして、「てらしかへける」は「照らし返へける」の「ける」も断定・強調の下五の「蔦紅葉」に係る用例であろう。抱一の句というのは、一見無造作に見えて、その実はかなり趣向を凝らした其角風の洒落風俳諧の世界ということになる。
 それにしても、上記解説中の「遊びのように思えるが、この彩りの強弱などは一筋縄でない画技の優れたものを感じる。まことに軽妙という字がぴったりするもので、非の打ちどころのない出来栄えである。この感覚こそ江戸風ということができようし、瀟洒だけでなく色気があって、散った葉への感情が溢れている。絵というものの偉大な力というものにも打たれるし、筆者抱一の素晴らしい感覚に驚きもする」の、この鑑賞視点は、抱一の「綺麗さび」の世界の一端を物語っている。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十二) [酒井抱一]

その十二 「紅葉図」(池田孤邨筆)

紅葉図・表.jpg

池田孤邨筆「紅葉図(表)」一本 一七・九×五〇・五 太田記念美術館蔵

孤邨・紅葉図・裏.jpg

池田孤邨筆「紅葉図(裏)」一本 一七・九×五〇・五 太田記念美術館蔵
【 画面を埋め尽くす赤く染まった紅葉が鮮烈な印象を与える。対する裏面は数枚を散らすのみで、表裏で対比的な構成をとる。多くが異なる形で、多様な品種が描かれていることがわかる。なお、楓は染井の植木屋・伊藤伊兵衛の五代目政武が『古歌僊楓』(宝永七年=一七一〇に稿成る、三十六種記載)をはじめ、和歌とあわせて品種を解説する書を発行し、格調高い植物として江戸の人々に紹介された。孤邨が様々な種の楓を描き得たのは、江戸時代の園芸文化のなかで紅葉が注目されていた背景が考えられる。裏面に署名「孤村三信繪」、印章「(印文不明)」(墨文重郭方印) 】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 これは一本の扇子の「表」と「裏」の孤邨の「紅葉図」である。この「表」と「裏」との画面形式の代表的なものに「屏風画」があるが、大小の差はあるが、「扇子」と「屏風」は極めて類似の画面形式ということになる。
 しかし、「屏風」が建物の室内の可動性のある障壁(間仕切り)としての用途に比すると、「扇子」は「団扇」と同じく「人力で風を起こす日常用具」として、「屏風」よりも、随時、手元に置いて使用する身近なものということになろう。
 そして、「団扇」と「扇子」との違いは、「屏風」と同じく、「折り畳む」(開く・閉じる)という機能を備えている。この扇子の種類は、以下のアドレスのものを掲載して置きたい。

http://www.j-nis.com/kanaya/sensu/sen-shu.html

【 扇子には大別して、薄板を綴ったもの、紙を貼ったもの、絹等布地を貼ったものに分けられます。
 薄板を綴ったものは白檀扇(びゃくだんせん(涼を取る・装飾用))と桧扇(ひおうぎ(儀式・装飾用))。
 紙を貼ったものは、夏扇(なつせん(涼を取る・装飾用))、茶扇(ちゃせん(茶道用))、舞扇(まいおうぎ(舞踊用))、祝儀扇(しゅうぎせん(婚礼用))、豆扇(まめせん(人形・装飾用))、能扇(のうおうぎ(能・狂言用))、有職扇(ゆうそくせん(儀式用))、香扇(こうおうぎ(香道用))など。
 絹等布地を貼ったものは、絹扇(きぬせん(涼を取る・装飾用))となります。 】

 絵扇は、一般的には、夏扇の装飾用の「飾り扇子」(扇子立てに立て掛ける)で、用途的には「贈答用」に使われる場合が多いものであろう。
 上記の孤邨の「紅葉図」扇子を、この「飾り扇子」として、「屏風」のように、その「表」と「裏」とを区別して飾るという使い分けは扇子の場合は一般的にしないであろう。これは、やはり、手に取って、「裏」面の絵図と「裏」面の絵図を見比べるという、扇子の特性を十分に考慮して描かれたものなのであろう。
 上記解説中の『古歌僊楓』については、下記アドレスで閲覧することが出来る。

http://opac.ll.chiba-u.jp/da/engeisho/2622/?lang=0&mode=&opkey=&idx=

【 池田孤村(孤邨)(いけだこそん)  
没年:慶応2.2.13(1866.3.29)
生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』
(仲町啓子)   】
( 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について )

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-09-02

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一幅 三六・五×五三・五㎝
【 団扇図と同様、画面を斜めに幹が横切り、左右から色づいた楓の葉が垂れる。朱、黄口の朱、橙とその色の変化は友禅文様のようである。バックに厚く金砂子を蒔き、その装飾効果を高めている。幹には楓の樹肌の斑模様をたらし込みにして描き、そこに白線で縁取った苔をつけてアクセントをつける。この際立った明快な彩色と黒ずんた幹や枝できりっと締めるあたり、色彩画家抱一の面目躍如としたあとがうかがわれる。この図は他にやはりこのように濃彩で綴られた幾つかの扇面画組物があったであろう。その中から一枚別れたものと考えられ、しかも未使用の扇面であり、同組物中他の扇面の華麗さも想像されて惜しまれる。
落款は「抱一筆」、朱文瓢印「文詮」がある。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)に、水戸候徳川斉修の茶席に招かれた時の、抱一の「(後坐) 掛物(菊紅葉・等覚院抱一筆・讃清人藩世恩石韞玉)」がどういうものかは定かではないが、上記の「紅葉図扇面」の楓の紅葉の下に菊(白・黄など)が描かれたものと思われ、そして、抱一の、これらの「紅葉」図の多くも、やはり、『古歌僊楓』などの、当時の園芸文化の流行が、その背景にあるのかも知れない。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十一) [酒井抱一]

その十一 「扇面雑画(五十三)・ごまめと水引図」(抱一筆)

ごまめと水引.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(五十三)・ごまめと水引図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://image.tnm.jp/image/1024/C0004068.jpg

 これは「赤と白」の「水引」で、祝い事全般に用いられるもの。そして「ごまめ(田作り)」は、「片口いわしの甘露煮」(お節料理の一つ)で、「子孫繁栄・健康・豊作」の縁起ものとされている。ここに、鏡餅を添えると正月の飾り物となる。
 ずばり、抱一の一番弟子の鈴木其一筆「鏡餅と鼠」の豪勢な扇面画がある。其一もまた抱一に劣らず扇面画の名手であった。この「鼠」は、「子」の年の意味が込められていて、落款の「菁々」と合わせ、嘉永五年(一八五二)の制作のものではないかとする見方もあるが、その年、其一、五十七歳の時である。
 この時には、雨華庵一世・抱一も同二世・鶯蒲も亡くなっていて、雨華庵は三世・鶯一が継承している。

鏡餅と鼠.jpg

鈴木其一筆「鏡餅と鼠図」一面 一八・二×四九・八㎝ 鴻池合資会社資料室蔵
【 鏡餅によじ登る鼠。鏡餅は正月にふさわしいモチーフだが、鼠が描かれることから、菁々落款が用いられた時期の子年、嘉永五年(一八五二)が制作年の可能性も考えられる。 】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

孤邨・熨斗と水引.jpg

池田孤邨筆「熨斗と水引図」一面 一九・三×五〇・八㎝ 鴻池合資会社資料室蔵
【 熨斗は、もともとアワビの肉を薄くはいで引き伸ばし乾燥した「のしあわび」のことで、紙にはさみ祝儀の進物に添えられた。延寿を象徴する吉祥文様として好まれる。扇の孤に添うように描かれる赤白の水引は、祝い事に用いられるもの。二つの祝賀のモチーフを淡彩で描き、落ち着いた画面としている。署名「孤邨写」、印章「蓮□」(朱文方印)・「参信」(朱文長方印)  】
(『鴻池コレクション扇絵名品展(図録)』所収「作品解説(赤木美智稿)」)

 池田孤邨もまた其一に次ぐ抱一門の俊秀ということになる。琳派の継承者を自任する孤邨は、晩年に、抱一、光琳の縮図を集めた『抱一上人真蹟鏡』(上下、慶応元年/一八六五刊)、『光琳新撰百図』(上下、慶応二年/一八六六刊)を刊行する。この「熨斗と水引図」は、抱一の「ごまめと水引図」を念頭に置いていることは一目瞭然である。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(十) [酒井抱一]

その十 「扇面雑画(五十八)・五徳と羽箒図」(抱一筆)

扇面雑画・五徳・羽箒図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(五十八)・五徳と羽箒図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0004069

 前回に続いて、「文化十五年(改元して文政元年=一八一八、抱一、五十八歳、其一、二十三歳、鶯蒲、十一歳)春の『四季花鳥図巻』」(東京国立博物館蔵)」、その、文政元年(一八一八)四月に、「松平不昧没(六十八歳)、天徳寺の墓前に筆塚建立、塙保己一作の碑文を抱一が書す」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表)」とある。
 抱一の兄、宗雅の茶道の師は出雲松江城主松平不昧(ふまい)で、「一徳庵宗雅」を号する石州流不昧派の大茶人の一人である。
宗雅と不昧との出会いは、ともに日光山諸社堂修理に従事した安永八年(一七七九、不昧=二十九歳、宗雅=二十五歳、抱一=十九歳)のことで、以来、江戸在府の折には屋敷を往来するなどして交遊を深め、天明六年(一七八六)、江戸大手上屋敷に新たな茶室「逾好(ゆこう)庵」を設け、その茶会記録「逾好日記」を今に遺している。
 抱一は、茶道では不昧門というよりは、兄の宗雅門で、この宗雅に連なる人脈(柳沢信鴻=米翁、柳沢保光=米翁の世子、松平雪川=不昧の弟)の俳諧にウエートを置いている「米翁・雪川」らの俳諧派ということになろう。 
 しかし、不昧と抱一との関係も、不昧の松平家(不昧の世子=月潭)と宗雅の酒井家(宗雅の世子・忠道の娘)とは姻族になるなど親しい関係が続いていたのであろう。
 上記の「五徳と羽箒図」は、茶道関係の画題で、抱一の没する一年前(文政十年=一八二七、抱一、六十七歳)と没年(文政十一年=一八二八、抱一、六十八歳)時に、水戸候徳川斉修の茶席に招かれたことが年表などに記されている。その文政十年(一八二七)の「御道具御会席附」を抱一の「軽挙館句藻」から抜粋して置こう。

【 御道具御会席附 
※=羽箒 ※※=「菊紅葉」=下記(参考) ※※※=宗雅・抱一の母方の松平家
初坐
一 掛物   ゆらのと 定家卿筆
一 窯    広口天明 蓋漢鏡紋あり
一 香合   回也 庸軒作 画土佐光起
一 三ツ羽※ 大鳥
一 炭斗   人形台
一 水次   方口
後坐
一 掛物   菊紅葉※※ 等覚院抱一筆 讃清人藩世恩石韞玉
一 花入  船 砂張(船形の見取図あり) 船大サ二尺五寸斗水一盃入紅葉
      絵の影をうつさんとの思召也
一 水指  九牛(カ) 古染付
一 茶入  菊桐大棗 利休在判 袋利休漢唐
一 茶   銘花の白 上林三入詰
一 茶碗  県井戸 書付松平左近将監※※※よし
一 茶杓  氏郷作  
一 蓋置  引切
一 酒   曲物
一 合図銅鑼 銘谷の戸
一 薄茶器 島物
一 茶杓  春冬銘 探幽斎共印あり
一 茶碗  平戸
以上
会席
向     きんこ 鰹ふしあへ
汁     白みそ しのむき大根 鴨

平     なゝもくみうは 生姜汁おとし
引もの   みそ漬鯛
口取    川しりたゝき
吸物   かふらほね
とり肴  ゆりね しそのみ むきゑひ

香せん
香もの  なつけ
菓子   大徳寺きんとん
後くはし 瓢箪せんべい 紅落雁 早わらひ
以上               】
(『相見香雨集一(日本書誌学大系四十五)』所収「抱一上人年譜稿」)

羽箒については、下記のアドレスなどが詳しい。

http://www.chazumi-club.com/03/index03.html

 五徳については、下記のアドレスなどが詳しい。

https://eishodo.net/chadogu/gotokubasis/

(参考)

抱一・扇面紅葉図.jpg

酒井抱一筆「紅葉図扇面」紙本金砂子地著色 一幅 三六・五×五三・五㎝
【 団扇図と同様、画面を斜めに幹が横切り、左右から色づいた楓の葉が垂れる。朱、黄口の朱、橙とその色の変化は友禅文様のようである。バックに厚く金砂子を蒔き、その装飾効果を高めている。幹には楓の樹肌の斑模様をたらし込みにして描き、そこに白線で縁取った苔をつけてアクセントをつける。この際立った明快な彩色と黒ずんた幹や枝できりっと締めるあたり、色彩画家抱一の面目躍如としたあとがうかがわれる。この図は他にやはりこのように濃彩で綴られた幾つかの扇面画組物があったであろう。その中から一枚別れたものと考えられ、しかも未使用の扇面であり、同組物中他の扇面の華麗さも想像されて惜しまれる。
落款は「抱一筆」、朱文瓢印「文詮」がある。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(九) [酒井抱一]

その九 「扇面雑画(六)・蕨と蒲公英図」(抱一筆)

扇面雑画・蕨蒲公英.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(六)・蕨と蒲公英図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0093917

 文化十三年(一八一六)、光琳百回忌を修した翌年(抱一、五十六歳)の秋に制作した「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵・二曲一隻)に続き、その冬に「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵・六曲一双)が制作される。
 その右隻(第一扇~第三扇)に、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華層などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する」が描かれ、そこに、上記の「蕨と蒲公英」が登場する。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

 そして、それは、文化十五年(改元して文政元年=一八一八、抱一、五十八歳、其一、二十三歳、鶯蒲、十一歳)春の「四季花鳥図巻」(東京国立博物館蔵)の冒頭にも登場して来る。しかし、その前年(文化十四年)六月に、抱一の片腕であった鈴木蠣潭が没している。
 この蠣潭が没し、庵居に「雨華庵」の額を掲げた年が、抱一の大きな節目の年で、その前年に制作された「四季花鳥図屏風」(東京国立博物館蔵)は、「抱一・蠣潭時代」の最後の年で、蠣潭が没して一年後の「四季花鳥図巻」(陽明文庫蔵)は、「抱一・其一時代」の幕開けの年ということになる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-12

(再掲)

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812
【酒井抱一 四季花鳥図巻 二巻 文化十五年(一八一八) 東京国立博物館
「春夏の花鳥」「あきふゆのはなとり」の題箋に記され、二巻にわたり、四季の花鳥に描き連ねた華麗な図巻。琳派風の平面的な草花から極めて写実的に描かれる植物まで多様な表現を試みる。横長に巻き広げる巻物の特性を利用して、季節の移ろいを流れるように展開し、蔓や細かい枝を効果的に配す。燕や蝶、鈴虫など鳥や虫も描き込まれ、以前の琳派にはない新しい画風への取り組みが顕著に示されている。
絹本著色:二巻:上巻三一・二×七一二・五:下巻三一・二×七〇九・三: 文化十五年(一八一八): 東京国立博物館 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「図版解説(一五六)(岡野智子稿)」)
上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

 ここに、次の「作品解説」(中村渓男稿)も併記して置きたい。

【 現存する抱一の画巻中、最も精彩があり、最も長尺の美しい四季の花木、草花を春夏秋冬の順を追って横長に描いた図巻はまず他にないと断言できる。
よく琳派のこの種の草花図巻には草花のみであるのが普通であるが、この二巻は鳥類や虫類までが描きこまれていて、はなはだ画巻としての体裁が整えられているといえよう。それに各草花との連なりが、まことに自然に展開されて、何の不自然さも感じさせないのがその特色で、抱一作品中でも屈指の傑作の一つと数えられる。
 また各草花は実に写生的に描かれていて、その実体をよく知るに充分なほどである。さらに色彩的に濃厚であるのは、この琳派の特徴とはいえ、その流れの中にあって、実に要所要所に欲しい色彩が配されていて、少しも騒がしさを感じさせない。しかも大変装飾効果をあげている技能は、まさにこの画巻のために練に練った抱一の才覚のあらわれという以外何物があろうか。
 また軽妙な筆捌きによる抑揚のある描線、枝や蔓の先、葉先きの鋭いばかりに尖った筆のきかしどころ、或いは花弁にみる特徴、葉脈や花蕚にみせた小気味よいほどの筆の冴え、これらは抱一ならではの筆触の見事さを遺憾なく発揮されていて、まことに心憎い出来栄えではなかろうか。この画巻は他の抱一画のすべてを網羅した観があり、抱一画の缶詰のようである。
 しかも全巻を通じて、緩急のリズムを持たせる流れやきかしどころに、目のさめるような鮮やかな配色には、その根底に抱一の文学的素養がにじみ出ている。それは彼が俳諧の中でも其角派の俳人であった感覚が生かされているからであろう。それに彼自身が育った酒井家という家柄から来る品格の高さによるものと思われる。
 また下巻々末に年紀を伴った落款が書かれている。つまり「文化戌寅晩春、抱一暉真写之」とあって、文化十五年(一八一八)は四月二十二日に改元されて、文化元年となるが、江戸の膝元でまだ文化十五年の改元以前の年号を書しているから、恐らくその年の二月末頃描いたものと考えられる。彼の五十八歳の作ということになり、よほど抱一芸術を理解してくれた人からの依頼であろう。またその依頼主が絵手本として練習するための豪華な抱一画の典型を求めたものに違いない。晩年ながらその精髄を示した画境を物語る作品ということができよう。

(図中動植物名)
(上巻)福寿草 すぎな(土筆) なずな 紅白桜草 蕨 菫 蒲公英 木瓜 いたどり 母子草 雉(きじ) そら豆の花 蜆蝶(しじみちょう) 大根の花 あぶらな(菜の花) 紋白蝶(もんしろちょう) 枝垂桜 燕(つばめ) 連翹 白紫藤 足長蜂(あしながばち)
蜂の巣 こぶし 姫百合 大麦 罌粟 紫陽花 草紫陽花 河原松葉 鉄線蓮 芍薬 黒揚羽(くろうげは) 河骨 鷭(ばん) 燕子花 沢瀉 流水
(下巻)紅白萩 鈴虫(すずむし) 青鵐(あおじ) 満月 がんぴ 朝顔 綿とその花 蓼 木槿 鶏頭 槍鶏頭 葡萄 水引草 紅芙蓉 菊戴(きくいただき) かまきり 白菊 苅萱 公孫樹の葉 楓 嫁菜(野菊) 赤啄木鳥(あかげら) いしみかわ 櫨の葉 枯女郎花 蟻(あり) 榛 青木 蝉の抜け殻 あすなろ 蔦 かしわ きびたき 雪に枯尾花(芒) 雪に山帰来 雪中白梅 鶯(うぐいす) 菰被り水仙 

(落款・印章)
(上巻) 「抱一暉真」 「抱一」朱文重廓角丸方印
(下巻) 「文化戌寅晩春 抱一暉真写之」
     「雨華」朱文内鼎外方印 「文詮」朱文瓢印      】
(『抱一派花鳥画譜一(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(八) [酒井抱一]

その八 「扇面雑画(二十四)・柿図」(抱一筆)

扇面・柿図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(二十四)・柿図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0052871

【(前略)六十面の扇面画中、特に優れているのは柿図と白梅図であるが、扇面という空間の実に巧みなとらえ方と、彩色の配り方はまことに抱一の鋭利な感覚の卓越したことを知る。しかもこれらの扇面画はほとんどが簡略な図柄で占められ、複雑なものはない。いかにも江戸人好みの図柄に徹していることだ。ただ妙に粋振ることはなく、淡々としていてさらりと描き上げている。重苦しさとか、けばけばしさが微塵もない。「山椒は小つぶでもびりっと辛い」といった諺が抱一の扇面画に符合した品評ではなかろうか。 】
(『抱一派花鳥画譜四(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 上記解説中の「白梅図」については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-15

 そして、この「柿図」については、下記のアドレスの「柿図」に連なっている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-27

酒井抱一筆「扇面貼交屏風」 扇面紙本着色 六曲一双(上=左隻 下=右隻)
同上部分拡大図(上=左隻の第五扇)上から「梔子図」「柿図」「水墨山水図」「双亀図」 

 さらに、文化十三年(一八一六)、光琳百回忌を修した翌年(抱一、五十六歳)の秋に制作した「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)に連なっている。下記アドレスのものを再掲して置きたい。

(再掲)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-07-03

柿図屏風.jpg

酒井抱一筆「柿図屏風」二曲一隻 紙本着色 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
一四五・一×一四六・〇cm 落款「丙子暮秋 抱一暉真」 印章「文詮」朱方印
文化十三年(一八一六)作
【 (前略) 324図(注・上記の「柿図屏風)は、そうした抱一の柿図を代表する一点。左下から右上へ対角線に沿って枝を伸ばした柿の木を描く。葉もすでに落ち、赤い実も五つばかりになった、秋の暮れのもの寂びた景であるが、どこか俳味が感じられるのは、抱一ならではの画趣といえよう。落款より文化十三年(一八一六)、彼の五十六歳の作と知れる。(後略)    】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(榊原悟稿)」)

 さらに、次の「作品解説」(中村渓男稿)も掲載して置きたい。

【 秋も深まり葉を落した柿の樹が左側から立ち、枝には五個の真赤に熟した実をつけている。左下には僅かに土坡を斜めにのぞかせ、そこに穂先も乱れ、風に葉を鳴らせる枯芒とおおばこの葉と小さな花が淋しく描かれている。
この図は抱一には珍しく、金箔や銀箔地でもなく、ただ無地の紙に楚々として、幾分うす墨を僅かにはいているようである。これは淋しげ、また荒涼とした冬枯れの感じをあらわすために、故意に冷たさをあらわすための考えから出たものであろう。いつもの抱一らしからぬ静寂で、寂寥感を感じさせるように作為したものである。
しかし柿の葉、柿の実には目のさめるような彩色を用い、この一点に視るものの眼を向けさせようとしたことは、やはり色彩画家抱一の鋭い感覚のあらわれである。すべての他の部分は打ちひしがれたような表現をとっていることが、一段とその効果をあげていることに成功している。
晩秋の清浄な気分と静寂さが漂い、季節に鋭敏な抱一の感情と軽妙な筆技があいまってこのような一画境を生んだ。これこそ抱一が見せた明らかに江戸琳派の特色であり、この方向へ進む一つの指針としてこの作品を解釈することができる。しかもこの作品の落款の前に「丙子暮秋」という制作年紀があり、これは文化十三年(一八一六)、彼五十六歳の作であることも貴重である。つまり彼の作風の変遷上、この境にまで進展していたことを物語り、光琳百回忌を行った以後一年足らずで、すでにその域にまで達していたことがわかる。落款は「抱一暉真」、印は「文詮」朱文円印である。  】
(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(七) [酒井抱一]

その七 「扇面貼交屏風」(抱一筆)

扇面貼交屏風.jpg

酒井抱一筆「扇面貼交屏風」 扇面紙本着色 六曲一双(上=左隻 下=右隻)
各一五九・五×三三二・〇㎝ → A図

抱一・扇面屏風拡大.jpg

同上部分拡大図(上=左隻の第五扇)
上から「梔子図」「柿図」「水墨山水図」「双亀図」 → B図

【 金地左右両双屏風に扇面三十五面(右隻十八面、左隻十七面)を対照的に貼りつけてあるが、恐らく後代になって左右に散らして貼交ぜにしたものであろう。本来から屏風仕立てであったならば、左右双の片隅に落款と印章を捺すのが普通であるが、扇面各画面にだけ落款印章がそれぞれ捺してあるので、はじめから屏風仕立てなかったか、後に改装されたものであるという解釈が成立つ。
 またこの扇面画は一度も扇子として用いなかったと見えて、扇骨の入ったあとが認められず、注文によって多くを描き、注文主が好みによって散らしたもので、抱一自身はこの散らし方に参加していないようである。
 ここでは、右隻右上部からの扇面画から題名を記せば、桜に木戸図(勿来関図?)、紅葉に小禽図、鯰図、白梅図、竹林に田舎屋図、黒揚羽・紋白蝶図、紅立葵図、水仙図、石蕗図、菜の花図、富士図、月夜に砧図、紫式部(?)図、石燈籠に鹿図、野薔薇図、枇杷図、曲水に酒盃図、白兎図。左隻右上から蕨に蒲公英・菫図、水流に鷭図、雄鹿立つ図、白椿図、烏瓜図、小松図、夕顔図、未央(ビヨウ)柳図、陶淵明観菊図、菖蒲に蛤図、河骨に莞(フトイ)図、梔子図、柿図、水墨山水図、双亀図、雪中富士図、譲葉(ユズリハ)に羽根図である。
 四季の草花から行事、風習など純日本的な文学ものや陶淵明のような漢人物などにまで至り、画題は多岐にわたっている。抱一は扇面画をよく描いたらしく、東京国立博物館に六十面、大本教本部蔵に三十面、個人蔵俳画扇面貼交屏風に三十六面(これらは使用した扇面を貼付けたもの)等、まだまだ多く見ているので、その膨大な数に驚くほどである。とにかく各種の画題をこなし、そのレパートリーの広さを物語るものである。
 本屏風絵の全図や拡大した図を見てもわかるように洒脱した構図法とその色彩感にあふれ、いかにも江戸人の粋な気分がここに繰りひろげられている。
 各種には落款と印章をほどこしているが、落款はすべて「抱一筆」とある。但し印章は五種にのぼる。以下表にすれば
「文詮」 朱文瓢印 (右隻)十 (左隻)四 (合計)十四
「文詮」 朱文円印 (同) 四 (同) 三 (同)  七
「鶯村」 朱文壺印 (同) 三 (同) 二 (同)  五
「抱一」朱文重郭円印(同) 〇 (同) 二 (同)  二
「抱一」 朱文円印 (同) 一 (同) 六 (同)  七
となるが、この屏風に貼られた扇面画はほとんど同時期に一気に描かれたであろうと思われるし、また石蕗図、白椿図、未央(ビヨウ)柳図に捺されている朱文壺印「鶯村」の自号は「雨華庵」と同様、下根岸大塚の新築の家に名付けたとき、つまり文化十四年(一八一七)十二月以降であるから、文化中期以後の作となる。はっきりした制作年代は不明であるが、最も油の乗った折の作であろう。 】
『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の文化六年(一八〇九)の十二月の項に、「下根岸大塚村に転居(句藻/御一代)、以後定住し、鶯の里にちなみ『鶯邨(村)』を用いるようになる」とあり、上記の解説中の「文化十四年(一八一七)十二月以降」は、「文化六年(一八〇九)十二月以降」の方が妥当であろう。
 しかし、『鶯邨画譜』を刊行したのは、文化十四年(一八一七)二月、そして、その庵居(下根岸大塚村)に「雨華庵」の額を掲げ、以来「雨華」の号を多用するようになったのは、「文化十四年(一八一七)十月十一日以降」のことで、上記の解説中の、「朱文壺印『鶯村』の自号は『雨華庵』と同様、下根岸大塚の新築の家に名付けたとき、つまり文化十四年(一八一七)十二月以降であるから、文化中期以後の作となる。はっきりした制作年代は不明であるが、最も油の乗った折の作であろう」は、『鶯邨画譜』の刊行に関連して、その指摘は首肯されるものであろう。
 その首肯する理由の一つとして、上記の「双亀図」が、『鶯邨画譜』の最後を飾る「双亀図」そのものということなのである。そして、この『鶯邨画譜』が刊行されたのは、その年の二月、その六月(十七日)に、「小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る(御一代)」と共に、その二十五日に、抱一の愛弟子(酒井家付人)鈴木蠣潭が二十六歳の若さで急逝し、その後継者が其一(二十二歳、蠣潭の姉と結婚)なのである。
 この「双亀図」は、その年の様々なことを暗示しているように思われる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306169671-1

(再掲)

亀図.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「亀図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(六) [酒井抱一]

その六 「波に鷺図扇」(鶯蒲筆)

鶯蒲・扇面白鷺 .jpg

酒井鶯蒲筆「波に鷺図扇」一柄 紙本着色 一六・四×四五・〇㎝ 太田記念美術館蔵
【 扇という小画面で、鶯蒲の伸びやかな筆致が引き出された逸品であろう。「獅子現鶯蒲筆」と署名し大きな「伴青」朱文円印を捺す。白鷺の姿は十二ヶ月花鳥図の十一月の図など様々なポーズが描かれたが、本図では、波の上を越える躍動感が生まれている。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 鶯蒲の作品は、抱一・其一らに比して遺された作品数は多くはないが、その作画領域は下記のとおり多方面にわたっている(以下の「図」とあるのは『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図録番号、「図※」は同図録番号=上記の作品)。

一 琳派図様を写したもの
 琴高仙人図、本阿弥光甫写しの三幅対(図二五五)

二 抱一図様・琳派図様の展開したもの
 牡丹蝶図(東京国立博物館)、楓図(フリア美術館)、銀杏図(ギッターコレクション)など。

三 節句画
 (図三〇四)など。

四 仏画など
 (図二六〇)(図二六一)など。

五 肖像画
 抱一上人像(現シアトル美術館蔵本)など。

六 吉祥画題、復古的な物語絵等
 旭日に波濤鶺鴒図(図二五四)、寿老図(図二五六)など

七 俳画・風俗画等
 雀踊り図(図二五九)など

八 工芸的作品
 扇(図※二五三ほか多数) 団扇(ギッターコレクション) 極小の絵巻(図二八八)など。

九 扇面散図屏風等

 扇面散図屏風(東京国立博物館)
 ↓
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-08-22

十 天井画
 草加市三覚院

十一 絵馬
 抱一と一門での合作の絵馬(縮図あり)など。

十二 版下絵
 版本挿絵(図二五二)、俳諧摺物など

 屏風絵などの大構図の作品は見られないが、天保七年(一八三六)の『広益諸家人名録』に「其一、鶯蒲、孤邨、素堂、抱儀、交山」の順に登載され、其一(四十一歳、鶯蒲、二十九歳)に次ぐ、雨華庵二世の地位にあったのであろう。
 当時、其一は酒井家家臣(九人扶持の一代絵師、抱一の「庭柏子」の号を継受)として、鶯蒲を補佐していたが、天保十二年(一八四一)に、鶯蒲が夭逝すると、その翌年に守一に家督を譲り、「菁々」の号でより自由な立場で筆を奮うことになる。

抱一・扇面白鷺.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(四十)・枯蓮に白鷺図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://image.tnm.jp/image/1024/C0093913.jpg

 これは、抱一の「扇面白鷺図」(東京国立博物館蔵)である。この白鷺図と鶯蒲の白鷺図を比べると、両者とも白鷺の躍動感が見事である。しかし、抱一の白鷺が両脚を揃えて、顔を左向きに地上の枯蓮を見下ろしているのに比して、鶯蒲のそれは、顔を右向けにし、片脚を長く伸ばし、海上の波濤を見下ろしているもので、さながら、師(抱一)弟(鶯蒲)の競演のような雰囲気を有している。
 そして、鶯蒲のそれが、金泥の霞引きを扇形に施して完成的な「晴(ハレ)の扇面画」とすると、抱一のそれは、いかにも老練な妙手の冴えを簡略な筆遣いに託した、扇骨もない、即興的な「褻(ケ)の扇面画」ということになろう。
 さらに、鶯蒲の「波に鷺図扇」の「波」は、次のアドレスの、「光琳→抱一→其一」の、それぞれの「波」(「波濤図」)などが念頭にあることはいうまでもない。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-10-15

(再掲)

尾形光琳筆「波濤図屏風」(二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵)
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

(再掲)

酒井抱一筆「波図屏風」(二曲一隻・MIHO MUSEUM)
【 光琳の「波図屏風」を見て感銘を受けた抱一だが、本図で絹地に深い色あいが闇の海を切り取ったかのようで、光琳画の趣を彷彿とさせる。しぶきなどの簡単な描写にも、巧みな筆致が表れ、落款からは、文政後期、晩年の作とみられる。表の緑と裏面は銀地とし、抱一の弟子池田孤邨が千鳥の群れなす図を描いて華やかな風炉先屏風とした。八百善伝来。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

(再掲)

鈴木其一筆「松に波濤図屏風」(二曲一隻 紙本墨画 一六八・〇×一九・五㎝ 個人蔵)
【 近年関西で発見された其一には珍しい水墨画の大作である。紙は焼けが強く全面に淡褐色に変色しているものの、墨は当初の潤いを保つかのようであり、光が当たると鈍い輝きを放つ。画面の左右のそれぞれの端に丸い引き手跡が残っているため、もとは襖であったと思われる。向かって右側の画面右上、松の生える岩礁に隠れるように、「噲々其一」の署名と「祝琳斎」(朱文大円印)が捺される。書体は「三十六歌仙・檜図屏風」(作品41)に近しく、「噲」のうち第六画以降が崩れて「専」の草書のように、「其」が「サ」と「人」を足したように見える。天保六年(一八三五)という作品41の箱書に従うなら、本作もまた同時期の制作と考えられる。
画面右上から緩やかな対角線上に、松の生える岩礁、海中に横たわる巨岩と小岩が、滲みを効かせた濃墨によって描かれる。もっとも本作の主題は、これらのモチーフの間を縫うように流れるダイナミックな波の動きそれ自体にあるだろう。複雑かつ明晰な水流表現は、其一より一世代前に京都で活躍した円山応挙によって創始された大画面の波濤図に近しい。「噲々」落款時代の壮年における積極的な応挙学習の一端を物語る貴重な作例である。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説45(久保佐知恵稿)」)

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(五) [酒井抱一]

その五 「扇面散図屏風」(鶯蒲筆)

鶯蒲・扇面散図屏風.jpg

酒井鶯蒲筆「扇面散図屏風」(二曲一隻 紙本金地著色 一五〇・五×一六三・〇cm 東京国立博物館蔵 )

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0032501

【 二曲一隻のこの屏風絵には琳派独自の気分が横溢している。つまり背景が金色であること、それに扇面散らしの形式を踏んでいること、また全面開きでなく半開きのもを散らし、さらに横向き、ほとんど逆に近い図柄を平気で描いているからである。扇面散らしの伝統がここにまで生きている証拠は本屏風でもよくわかる。
図柄は右側上部から白牡丹、紫陽花、水墨仕立ての松に月、水上飛翔の白鷺、伊勢物語東下り、白梅図(ほとんど逆の図)、白菊黄菊、芒に白萩、富士、大山蓮華(半開き)、蒲公英・土筆・菫(半開き)、裏を見せた野毛金砂子(半開き)の十二面である。草花を描いたもの七面、鳥を描いた二面、山水と物語は各一面ずつ、といった具合で、やはり草花・鳥の類が大部分を占めている。
これを以てしても琳派は花鳥中心の画派であったと思われる。ただこの屏風扇面絵にも伊勢物語とくに業平東下り図が入っている。これは宗達、光琳、乾山以来、この派のパテントといってもよいもので、琳派を名乗る以上は伊勢物語とは切っても切れぬ関係のもので、琳派の看板とでも言えるものである。
ここに散らされた扇面画には濃彩画がほとんどで、その各々は琳派特有の図構成がなされている。とくに紫陽花、菊花、芒、白萩、蒲公英、土筆、菫の描写は琳派ならではのもので、他派の及ぶところではない。
またこの屏風絵の扇面散らし方も右脇下に「獅現鶯蒲筆」の落款があるように、自らこの散らし方を決定したことは明らかで、その伝統が確実に生きていることを物語っている。鶯蒲は文政元年(一八一八)、下根岸の抱一邸に引取られ、養子として迎えられただけあって、抱一から、また小鸞女史から殊の外可愛がられたことから察し、抱一もこの作画にかなり後から救助していたであろう。また彼は抱一なきあと、雨華庵二世として襲名しているほどである。
印章は二顆あり上の印文は「伴伊」朱文円印、下が「獅現」朱文方印である。  】
『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)

 「酒井抱一と江戸琳派関係年表」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂)』所収)の文政八年(一八二五、抱一、六十五歳、鶯蒲、十八歳)の項に、「一月十七日、水戸藩主徳川斉修に扇子十本を進上する。(五本は鶯蒲が担当。)」とある。
 晩年の抱一は、雨華庵をこの鶯蒲に引き継ぐべき、この水戸候など抱一の支援者に引き合わせ、その推挽の労を執っていたことが了知される。この鶯蒲は、築地本願寺中の浄栄寺に二男として出生し、上記の解説文にあるとおり、抱一の養子というよりも、小鸞女史(妙華尼)の養子となり、雨華庵(抱一邸)に引き取られる(これらのことは「等覚院殿御一代記」の酒井家の記録として遺されている)。
 『古画備考』(朝岡興禎著)に「鶯蒲が抱一のことを御父様と呼ぶことを酒井家より咎められた」との聞き書きが記録されており、「酒井家→抱一・小鸞女史→鶯蒲・浄栄寺」との三者関係には微妙な謎(鶯蒲の抱一実子説など)が秘められているような雰囲気を有している。
 この聞き書きによると、水戸候に出た折、抱一とともに席画などもしたこと、書をよくし、茶事も好んだことなども伝えられている。鶯蒲は、天保十二年(一八四一)、三十四歳の若さで夭逝して居り、遺された作品は其一などに比べると極めて少ないが、作画領域は多方面にわたり、晩年の抱一の期待に十分に応え得る力量を示していた。
 この年に、抱一は、「富士山に昇龍図」(掛幅)を制作しているが、下記のアドレスで、北斎の絶筆の「冨士越龍図」の先行的な作品として、紹介したが、上記の年表と重ね合わせると、雨華庵二世を託すべき鶯蒲が、晩年の雨華庵一世・抱一の期待に十分応え得ることを暗示する「昇龍図」(「富士」は「抱一・其一らの江戸琳派」の見立て、そして「昇龍」は鶯蒲の見立て)と解することも可能であろう。
 そして、抱一の「昇龍図」に比して、北斎の「越龍図」というのが、当時の抱一と北斎との関係を暗示するようで面白い。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-05


冨士三.jpg

酒井抱一筆「富士山に昇龍図」一幅 絹本墨画 五三・八×一一一・八㎝ 東京都江戸東京博物館蔵(市ヶ谷浄栄寺伝来)

https://heritager.com/?p=54251


冨士越龍図.jpg

葛飾北斎筆「富士越龍図」一幅 紙本着色 九五・八×三六・二㎝ 
九十老人卍筆 印=百 すみだ北斎美術館蔵


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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(四) [酒井抱一]

その四  「扇面散図屏風」(抱一筆)

抱一・扇面散図屏風.jpg

酒井抱一筆「扇面散図屏風」(二曲一隻? 北野美術館蔵) → A図

http://kitano-museum.or.jp/collection/arts/429/

 『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「作品解説(三十四)」に、下記の二曲一双の「扇面散図屏風」(酒井抱一筆)が紹介されている。

抱一・扇面散図屏風二.jpg

酒井抱一筆「扇面散図屏風」(二曲一双 絹本著色 各隻一七〇・一×一七九・〇cm 落款「抱一筆(左隻)」 印「文詮」朱方印(左隻) 個人蔵 )→ B図

 この両図(A図とB図)を見比べていくと、二曲一隻(A図)と二曲一双(B図)とは、同じような構図で、同じような図柄なのだが、その仕上げの形式から必然的に相違しているのが明瞭となってくる。
 まず、流水(A図一・二扇)は、(B図=右隻一・二扇と左隻一扇)と右隻と左隻との繋がっている。同様に、(B図=右隻二扇と左隻一扇)とが繋がっているように、両隻に跨っての扇面画の描写になっている。
 そして、これらは、屏風に扇子(扇面画)そのものを貼付したものではなく、これらの扇子(全開・半開・全閉・正面・逆さ・横向き・斜め向き等々)は全て手描きのものなのであろう。
 この種のものには、「扇面散貼付」屏風と「扇面散図」屏風とがあり、前者は扇面画を貼付して仕上げたもの、後者は画中画のように扇面画を手描きして仕上げたものとがある。上記の二図(A図・B図)は、「扇面散貼付屏風」ではなく、「扇面散図屏風」で、扇面画を貼付して仕上げたものではなかろう。
 これらの「扇面屏風」というのは、俵屋宗達(宗達派の「伊年」印)以来、「宗達→光琳→抱一」の、琳派の主要なレパートリー(得意とする分野)の一つで、多種多様なものを目にするが、例えば、扇面画を貼付して、その「扇骨」などは手描きしたものなど、その制作時には、どのような仕上げのものであったかは、判然としないものが多い。
 ここで、改めて両図(A図とB図)を見ていくと、次のようなことが見えてくる。

一 この両図(A図とB図)とも、全体的(流水図・扇面画等)に、光琳風で、例えば、前回紹介した「扇面雑画(一)・白梅図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)などとは、異質の世界という印象を深くする。
二 この両図(A図とB図)の「流水図」とその「(各)扇面画」の描写だけを見ても、抱一の光琳画の縮図帖ともいうべき『光琳百図』などを念頭に置いてのものというのは一目瞭然であろう。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491


抱一・光琳百図・扇面画.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『光琳百図』(23/89)

三 抱一が、光琳百回忌の法会を修し、『光琳百図』を刊行と合わせ「光琳遺墨展」を開催したのは、文化十二年(一八一五)、五十五歳のときであった。この「光琳遺墨展」には、抱一が各所蔵者から借り受けたものなど、光琳の作品が四十二点陳列されている。その中に、「扇面十枚」が、その出品目録に収載されている(『抱一派花鳥画譜三(紫紅社)』所収「本文・図版解説(中村渓男稿)」)。上記の『光琳百図』の扇面画の幾つかは、その「光琳遺墨展」も陳列されたのであろう。

四 この光琳百回忌のイベントが開催された文化十二年(一八一五)当時、抱一の付人で門弟の鈴木蠣潭(二十四歳)、そして、蠣潭没後、抱一の付人となる鈴木其一(二十歳、十八歳のとき内弟子となる)は、抱一の傍らにあって、抱一の画業を陰に陽に支えたのであろう。

五 抱一の「扇面屏風」は、この種の「扇面散図屏風」よりも「扇面散貼付屏風」(各扇面画に落款が施されている)の方が点数は多いと思われるが、抱一(雨華庵一世)没後、雨華庵二世を継受する酒井鶯蒲(抱一没年時、二十一歳)に、「扇面散図屏風」(二曲一隻・東京国立博物館蔵)があり、抱一から鶯蒲へ、この種のものが継受されていることの一端が知られてくる。

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(三) [酒井抱一]

その三 「白梅図」(抱一筆)

扇面雑画一・白梅図.jpg

酒井抱一筆「扇面雑画(一)・白梅図」(「扇面雑画(六十面)の一面」)
紙本着色・墨画 三六・五×六三・八㎝(各面) 東京国立博物館蔵

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0095262

【 各種の画題を描いたこの六十面に及ぶ抱一の扇面画は、現在ガラス挟みの形式で保存されているが、それ以前の保管状態が好ましくなかったためか、画面がかなり傷んで画趣を殺いでいるものが少なくない。六十面の内訳は着色による草花・花木を描くものが約半数を占め、他は鳥類、動物、魚類、昆虫、また蔬菜、器物、盆栽、景物、さらに水墨の竹や山水、布袋など、題材、手法が多岐に及んでいる。花鳥画を最も得意としながら、画題の対象を新たに開拓、拡大していった抱一画業の特色がよく表われており、その縮図を見るようである。
 落款は六十面とも「抱一筆」であるが、印章は「鶯邨」朱文(上下)印(二十)、「文詮」朱文円印(十九)、「抱一」朱文重郭方印(十四)、「抱一」朱文方印(六)、「文詮」朱文瓢印(一)と五種が用いられている。 】(『琳派五・総合(紫紅社刊)』所収「作品解説(村重寧稿)」)

 上記のアドレスの抱一筆「扇面雑画」(六十面・東京国立博物館蔵)の中に、抱一の「綺麗さび」の世界の一つひとつが集約されているような思いが湧いてくる。
上記のアドレスでは、この「扇面雑画」(六十面)の全ては掲載されていないようであるが、その画題名(六十面)を記すと、次のとおりである。

(草花・花木など)
一 白梅 二 桜 三 桃 四 柳 五 早蕨 六 蕨と蒲公英 七 菜の花に蝶 八 桜草 九 藤 十 鉄線 十一 水草にあめんぼう 十二 沢瀉 十三 河骨と太蘭 十四 布袋葵 十五 枇杷 十六 蘭 十七 酸漿 十八 露草 十九 撫子 二十 山帰来 二十一 芒と嫁菜 二十二 萩 二十三 烏瓜 二十四 柿 二十五 吹寄 二十六 
雪中藪柑子 二十七 若松と藪柑子 二十八 譲葉 二十九 水仙 三十 墨竹

(蔬菜・虫類・魚類・鳥類・動物など)
三十一 瓜に飛蝗 三十二 生姜 三十三 茄子に蟋蟀 三十㈣ 結び椎茸 三十五 豆と藁苞 三十六 大根に河豚 三十七 瓜草に雲雀 三十八 鷭 三十九 稲穂に雀 四十 枯蓮に白鷺 四十一 蝶と猫 四十二 鹿 四十三 目高 四十四 蝸牛 

(山水・景物など) 
四十五 藁屋根に夕顔 四十六 浜松 四十七 蓬莱山 四十八 秋景山水 四十九 田園風景 五十 雨中山水 五十一 破墨山水 五十二 社頭風景   

(風物・器具・吉祥など)
五十三 ごまめと水引 五十四 鶯笛と若菜 五十五 盆栽 五十六 稗蒔 五十七 玩具 五十八 五徳と羽根箒 五十九 籠に雪紅葉 六十 布袋

 (上記の「画題名・分類」などは、『琳派五 総合(紫紅社)』所収「作品解説」などを参考にしている。)

 抱一には、画帖として、『絵手鑑』(七十二図・各二五・一×一九・九㎝・静嘉堂文庫美術館蔵)がある。その『絵手鑑』の画題名と、この「扇面雑画」の画題名と比較して見ると、例えば、前者の、「一 白梅 二 椎を喰む鼠 三 向日葵に百足 四 寒山拾得 五 羽子板に羽根 六 虎 七 龍 八 南瓜 九 釣人 十 南瓜 ----- 」と、随分と様変わりをしている。このトップの「白梅図」は、同じ画題名であるが、前者が、、「晴(ハレ)」の晴れ着的な作品とすると、後者の「扇面雑画」の方は、「褻(ケ)」の普段着の即興的な作品のような印象を受ける。
 もう一つ、抱一には、「晴(ハレ)と褻(ケ)」の中間のような、俳画集(俳画帖)ともいうべき『柳花帖』(五十六丁・五十二図)がある。これは抱一の親しい吉原の楼主加保茶元成(二世)の依頼により、雨華庵などの画室ではなく吉原の一室で描いたとの抱一の跋文が付いている。
この『柳花帖』については、下記のアドレスで触れている。その画題名と俳句などについて、再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

(再掲)

酒井抱一俳画集『柳花帖』(一帖 文政二年=一八一九 姫路市立美術館蔵=池田成彬旧蔵)の俳句(発句一覧)
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(松尾知子・岡野智子編)』所収「酒井抱一筆「柳花帖」俳句一覧(岡野智子稿)」) ※=「鶯邨画譜」・その他関連図(未完、逐次、修正補完など) ※※=『屠龍之技』に収載されている句(「前書き」など)

  (画題)      (漢詩・発句=俳句)
1 月に白梅図   暗香浮動月黄昏(巻頭のみ一行詩) 抱一寫併題  ※四「月に梅」
2 白椿図     沽(うる)めやも花屋の室かたまつはき
3 桜図      是やこの花も美人も遠くより ※「八重桜・糸桜に短冊図屏風」
4 白酒図     夜さくらに弥生の雪や雛の柵
5 団子に蓮華図  一刻のあたひ千金はなのミち
6 柳図      さけ鰒(ふぐ)のやなきも春のけしきかな※「河豚に烏賊図」(『手鑑帖』)
7 ほととぎす図  寶(ほ)とゝきすたゝ有明のかゝみたて
8 蝙蝠図     かはほりの名に蚊をりうや持扇  ※「蝙蝠図」(『手鑑帖』)
9 朝顔図     朝かほや手をかしてやるもつれ糸  ※「月次図」(六月)
10 氷室図    長なかと出して氷室の返事かな
11 梨図     園にはや蜂を追ふなり梨子畠   ※二十一「梨」
12 水鶏図    門と扣く一□筥とくゐなかな   
13 露草図    月前のはなも田毎のさかりかな
14 浴衣図    紫陽花や田の字つくしの濡衣 (『屠龍之技』)の「江戸節一曲をきゝて」
15 名月図    名月やハ聲の鶏の咽のうち
16 素麺図      素麺にわたせる箸や天のかは
17 紫式部図    名月やすゝりの海も外ならす   ※※十一「紫式部」
18 菊図      いとのなき三味線ゆかし菊の宿  ※二十三「流水に菊」 
19 山中の鹿図   なく山のすかたもみへす夜の鹿  ※二十「紅葉に鹿」
20 田踊り図     稲の波返て四海のしつかなり
21 葵図       祭見や桟敷をおもひかけあふひ  ※「立葵図」
22 芥子図      (維摩経を読て) 解脱して魔界崩るゝ芥子の花
23 女郎花図     (青倭艸市)   市分てものいふはなや女郎花
24 初茸に茄子図    初茸や莟はかりの小紫
25 紅葉図       山紅葉照るや二王の口の中
26 雪山図       つもるほと雪にはつかし軒の煤
27 松図        晴れてまたしくるゝ春や軒の松  「州浜に松・鶴亀図」   
28 雪竹図       雪折れのすゝめ有りけり園の竹  
29 ハ頭図      西の日や数の寶を鷲つかみ   「波図屏風」など
30 今戸の瓦焼図    古かねのこまの雙うし讃戯画   
            瓦焼く松の匂ひやはるの雨 ※※抱一筆「隅田川窯場図屏風」 
31 山の桜図      花ひらの山を動かすさくらかな  「桜図屏風」
  蝶図        飛ふ蝶を喰わんとしたる牡丹かな      
32 扇図        居眠りを立派にさせる扇かな
  達磨図       石菖(せきしょう)や尻も腐らす石のうへ
33 花火図       星ひとり残して落ちる花火かな
  夏雲図       翌(あす)もまた越る暑さや雲の峯
34 房楊枝図    はつ秋や漱(うがい)茶碗にかねの音 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
  落雁図       いまおりる雁は小梅か柳しま
35 月に女郎花図    野路や空月の中なる女郎花 
36 雪中水仙図     湯豆腐のあわたゝしさよ今朝の雪  ※※「後朝」は
37 虫籠に露草図    もれ出る籠のほたるや夜這星
38 燕子花にほととぎす図  ほとときすなくやうす雲濃むらさき 「八橋図屏風」
39 雪中鷺図      片足はちろり下ケたろ雪の鷺 
40 山中鹿図      鳴く山の姿もミヘつ夜の鹿
41 雨中鶯図      タ立の今降るかたや鷺一羽 
42 白梅に羽図     鳥さしの手際見せけり梅はやし 
43 萩図        笠脱て皆持たせけり萩もどり
44 初雁図       初雁や一筆かしくまいらせ候
45 菊図        千世とゆふ酒の銘有きくの宿  ※十五「百合」の
46 鹿図        しかの飛あしたの原や廿日月  ※「秋郊双鹿図」
47 瓦灯図       啼鹿の姿も見へつ夜半の聲
48 蛙に桜図      宵闇や水なき池になくかわつ
49 団扇図       温泉(ゆ)に立ちし人の噂や涼台 ※二十二「団扇」
50 合歓木図     長房の楊枝涼しや合歓花 ※其一筆「文読む遊女図」(抱一賛)
51 渡守図       茶の水に花の影くめわたし守  ※抱一筆「隅田川窯場図屏風」
52 落葉図      先(まず)ひと葉秋に捨てたる団扇かな ※二十二「団扇」

 この『柳花帖』(画帖・俳画集)は、「花街柳巷図巻」(一巻・十二図)、そして、「吉原月次図(十二幅)」(旧六曲一双押絵貼屏風)と連動しており、抱一は、この種の、相互に連動している「画帖」形式、「絵巻」形式、「掛幅」形式など、同種の画題で、種々の形式のものを制作している。
 そして、一つひとつは小画面の、この種の「画帖」形式や「絵巻」形式のものは、抱一自筆の、門弟・其一など他の人の手が入ってないものが多く、冒頭に掲げた「扇面雑画」(「白梅図」など六十図)なども、これまてに見てきた『絵手鑑』や『柳花帖』、そして、「四季花鳥図絵巻」などと均しく、抱一の細やかな息吹きのする自筆そのものの「綺麗さび」の世界のものという印象を深くする。
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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二) [酒井抱一]

その二 「風神雷神図扇(二)」(抱一筆)

抱一・扇一.jpg

抱一筆「風神雷神図扇」の「風神図扇」(三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵)

抱一・扇二.jpg

抱一筆「風神雷神図扇」の「雷神図扇」(三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-22

(再掲)
【 光琳画をもとにして扇に風神と雷神を描き分けた。『光琳百図後編』に掲載された縮図そのものに、二曲屏風の作例より小画面でかえって似ているところがある。また雲の表現や天衣の翻りなど鈴木其一による『風神雷神図襖』にも近い。すでに大作を仕上げていた身に付いた感じがあり、淡い色調が好ましくもある。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「作品解説(松尾知子稿)」)

【 冒頭の「風神雷神図扇」は、『光琳百図後編』に掲載されている縮図を踏襲しており、それが刊行された文政九年(一八二六、六十六歳)前後の、晩年の作であろうか。こういう小画面のものになると、抱一の瀟洒な画技が実に見応えあるものとなって来る。 】

【 北斎にしても抱一にしても、屏風絵や大画面の肉筆画に目が奪われがちであるが、こうした、絵扇や扇面画の小画面のものや細密画の世界に、大画面ものに匹敵する凄さというものを実感する。 】

 「綺麗(きれい)さび」と同意義のような言葉に、「姫(ひめ)さび」という言葉があり、こちらは、『日本国語大辞典』(小学館)に、「はなやかで上品な中にさびの趣のあることをいう。茶器を鑑賞する時などにいう」と解説されている。
 この「姫(ひめ)さび」について、『茶道辞典(桑田忠親編)』(東京堂)は、「茶器を観賞する上での用語。華やかで上品の中にどこかさびの趣のあること。例えば、仁清の作品などをいう。茶匠の好みでいうと、宗和好み、遠州好みなどがこれに相当する。一名、綺麗さびとも称す」とあり、「綺麗さび」の別称のように解説されている。
 これらからすると、「綺麗さび」(小堀遠州好み)というのは、焼物の茶碗などの「茶器」の鑑賞上の用語から派生したものなのかも知れない。
そして、日本画の画面形式からすると、「扇面画」というのは、焼物の「茶碗」のように、手に取って実用的に使う、特殊な「小さな世界」のもので、「茶器」の鑑賞用語の「綺麗さび」などが好都合のような世界なのかも知れない。

 この「扇面画」について、「扇面構図論---宗達画構図研究への序論---(水尾比呂志稿)」(『琳派(水尾比呂志著)』所収)があり、そこで、「写経用扇面画(A類型)・漢画系扇面画(B類型)・宗達派扇面画(C類型)」の三類型に分け、「扇面画」の特性を「放射性・湾曲性・進行性」と指摘している。
 この「扇面画」の特性は、扇面が本来円の一部分であり、「上弦・下弦(その比率が上記の三類型で異なっている)」と、その中心(円の中心)は、「扇面」外の「扇の要」になるという、この特性からの「放射性・湾曲性」ということになる。そして、その「進行性」というのは、「扇」を「開く・閉じる」から、「絵巻」の「進行性」の特性も挙げられるというようなことである。
 これらのことは、言葉ですると難しいのだが、上記の二図を見て、「扇面画」の「逆三角形」の構図と、円の中心点が「扇の要」ということ、扇子を「開く・閉じる」との、これらのことから、「扇面画」の「放射性・湾曲性・進行性」の三特性は明瞭となって来よう。

 この「扇面画」の三特性を「扇面性」と名付け、「宗達屏風画構図論(水尾比呂志稿)」(『琳派(水尾比呂志著)』所収)で、「静嘉堂蔵源氏物語屏風」(六曲一双)、「醍醐寺蔵舞楽図屏風」(二曲一双)、「建仁寺蔵風神雷神図屏風」(二曲一双)を詳細に検討しながら、「宗達の屏風画を構成する基本的な原理が扇面性であることを確かめ得た」と、その「まとめ」を結んでいる。
 この論稿は、昭和三十七年(一九六二)一月「国華」(八一四号)が初出であるが、下記のアドレスで、「俵屋宗達『風神雷神図屏風』」(西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」)
と題し、その論稿の直接的な紹介ではないが、宗達の「風神雷神図屏風」について、図解をしながら、「扇面形式の構図」と「余白の美」について、分かり易い解説をしている。

https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28-4  

 これらからすると、「綺麗さび」という遠州好みの美的鑑賞視点は、「茶器」とか「扇面画」とかという小物の「小さい世界」にのみ適用されるものではなく、例えば、この宗達の「風神雷神図屏風」(二曲一双)の大画面と同じように、下記アドレスの、遠州が作庭したといわれている庭園などにも均しく適用されるものと解したい。

https://garden-guide.jp/tag.php?s=100_1579

https://kyotomag.com/features/garden-authors/koborienshu/

https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12370588022.html

https://oniwa.garden/tag/小堀遠州/

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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一) [酒井抱一]

その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231



【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十四) [酒井抱一]

その十四三  酒井抱一筆「八橋図屏風」と鈴木其一筆「朝顔図屏風」周辺

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酒井抱一筆「八橋図屏風」六曲一双 絹本金地著色 各一六三・〇×三七二・〇cm
出光美術館蔵 → 図一

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同上部分拡大図(左隻第五・第六扇) → 図二

其一・朝顔図屏風一.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・二×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵 → 図三

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同上部分拡大図(左隻第五・第六扇) 図四
【 鈴木其一筆「朝顔図屏風」 図三・図四
 「菁々其一」墨書・「為三堂」朱文円印がある。菁の字は癖がなく丸みを帯び、第二画を左回りに入ることから、菁々落款の中頃の書体と考えられる。五十歳代前半の作であろう。
通常の屏風よりも一回り大きい大画面を、あくまでも一色の朝顔だけで埋め尽くす。花や葉は現在、沈んだ色調のものが多いが、左隻中央などに残る明るい色が当初の色である。制作当初は、澄み切った青一色の花と明るい緑の葉が、金箔地に照り映えていたのである。
本作品は、師抱一の「八橋図屏風」とその本歌である光琳の「八橋図屏風」や「燕子花図屏風」に対する、其一の見事な返歌である。金地に燕子花だけ描く光琳の「燕子花図屏風」は『伊勢物語』八橋に見立てられるが、金地に朝顔だけ描く本作品は、『源氏物語』の朝顔に見立てることができる。光琳の夏の燕子花に対し、其一は秋の朝顔を選ぶ。さらに、秋草の中から朝顔だけを取り出す点で、「藤袴図屏風」のような宗達周辺作が参考にされた可能性も高い。
ただし、宗達周辺の「芥子図屏風」や光琳の「燕子花図屏風」・「八橋図屏風」などが、地面や空の区別のない金地におおらかに画材を配するのに対し、本作品は、金箔の継ぎ目を垣根に見立て、その架空の垣根に朝顔を這わせている。宗達・光琳が横方向の画材の反復により画面を律するのに対し、本作品は屏風の両端に画材を寄せて画面構成を基本とする。前者では画材の反復がその生命の謳歌に通じていたのに、ここでは、他者を廃してまで繁茂する異様なまでの形態感覚に変じている。宗達以来の単一画材への最終的な挑戦が、本作品といえよう。  】
(『特別展 琳派 美の継承 宗達・光琳・抱一・其一(名古屋市博物館)』所収「作品解説(竹内美砂子稿)」)

 この作品解説中の、「本作品は、師抱一の「八橋図屏風」とその本歌である光琳の「八橋図屏風」や「燕子花図屏風」に対する、其一の見事な返歌である」との「本歌と返歌」との視点で、「八橋図屏風」(抱一筆)と「朝顔図屏風」(其一筆)、そして、「四季花鳥図屏風」(抱一筆)と「四季花鳥図屏風」(其一筆)とを総括的な鑑賞の、その一端について記して置きたい。

一 「八橋図屏風」(抱一筆)と「朝顔図屏風」(其一筆)とは、本歌と返歌の関係にあり、本歌の「八橋図屏風」(抱一筆)は、「八つ橋(橋桁)と燕子花」との二点ものの構図に比し、その返歌の「朝顔図屏風」(其一筆)は、「朝顔」だけの単一ものの構図で応酬している。
これは、「八橋図屏風」(抱一筆)が、その「八つ橋(橋桁)」を渡りながら「燕子花」を見るという、「画・俳」二道を信条とする抱一特有の「視線誘導型」の画面構成に比して、其一は、「金箔の継ぎ目を垣根に見立て、その架空の垣根に朝顔を這わせている」という新趣向をもって応酬しているということになる。
 ここに、師(抱一)と弟(抱一)の、その師弟間の弛まざる切磋琢磨の一端が見えてくる。

二 「八橋図屏風」(抱一筆)が、具象的な絵画空間(図一)とすると、「朝顔図屏風」(其一筆)は、抽象的な絵画空間(図三)ということになる。しかし、個々に見ていくと(図二と図四)、「八橋図屏風」(抱一筆)の「燕子花(緑の葉と藍の花)」(図二)が、「朝顔(緑の葉と藍の花)」(図四)へと、その「燕子花」(俳諧上の「夏の花」)から「朝顔」(俳諧上「秋の花」)への変奏という、その本歌(燕子花)と返歌(朝顔)との関係が、見事にクローズアップされてくる。

三 この、「八橋図屏風」(抱一筆)の「燕子花」から、「朝顔図屏風」(其一筆)への変奏は、同時に、前者の「燕子花=伊勢物語」から「朝顔=源氏物語」への転回をも意味している。前者の「燕子花=伊勢物語」は、その第九段の「東下り」の地上の景とすると、後者の「朝顔=源氏物語(第二十帖)」は、「見しおりのつゆわすられぬ朝顔の花のさかりは過ぎやしぬらん」の、時空を超えての回想の、謂わば、天空の景である。この天空の景から、宗達の
「雲龍図屏風」の、右隻の「降り龍」と左隻の「降り龍」とが、それぞれ姿勢を反転させて、相互に睨み合っている図柄が想起されてくる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-07-23

四 さて、抱一の「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)と其一の「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)もまた、本歌と返歌の関係にある。前者は、文化十三年(一八一六)、抱一、五十六歳、蠣潭、二十五歳、其一、二十一歳のときの作品である。蠣潭は、この翌年の六月に、二十六歳の若さで急死する。この作品は、「鶯邨畫房」時代の最高傑作の一つであろう(「雨華庵(畫房)」の額は、この翌年に掲げられる)。そして、この作品には、当時の抱一の付人の蠣潭と、十八歳のときに抱一門となった其一の筆も入っていることであろう。
 それに対して、後者の作品は、嘉永七年(一八五四)、其一、五十九歳時の作品である。この年は、「等覚院二十七忌」(抱一二十七回忌)が営まれた年なのである。とすれば、六十歳の耳順の歳を目の前にして、志学(十五歳)して間もない頃の、父親代わりの「抱一・蠣潭」との切磋琢磨した総決算の「四季花鳥図屏風」(抱一筆・陽明文庫蔵)を本歌として、それに返歌したものが、「四季花鳥図屏風」(其一筆・東京黎明アートルーム蔵)と解することができよう。

五 抱一の「四季花鳥図」(陽明文庫蔵)の最大の特徴は、右隻(第四・五・六扇)に描かれた純白の二羽の「白鷺」と、左隻(第四・五・六扇)に描かれた純白の「雪・白梅・白水仙」、そして、各所に散りばめられた純白の「花」(白牡丹・白燕子花・白立葵・白撫子など)の、眩しいほどの白色の美しさにある。それを本歌とする其一の「四季花鳥図」(東京黎明アートルーム蔵)は、右隻(第一・二・扇)に純白の「辛夷」の花で始まり、左隻(第四・五・六扇)の純白の「白山茶花・白梅」を、そのゴールとしている。そして、抱一の右隻に見られた「白立葵・白燕子花」を同じく右隻に配置し、抱一の左隻の白水仙は、其一は白菊をもって応酬している。見事な、抱一の本歌に対する、其一の返歌である。

六 ここで、余興的に、この両者の「四季花鳥図」に描かれた「鳥」を、「琳派」の画人等に見立てて記して置きたい。

抱一筆「四季花鳥図」(陽明文庫蔵) → 「二羽の白鷺」→光悦・宗達 「鷭」→宗雪 「雉」→光琳 「鴫」→乾山 「鶯」→抱一 「二羽の雲雀」→蠣潭・其一 

其一筆「四季花鳥図」(東京黎明アートルーム蔵) →「二羽の花鳥(鵯?))→光悦・宗達 「二羽の時鳥(?)」→光琳・乾山 「二羽の鶯(枝上)」→抱一・小鶯女史 「鶯(?・地上)」→其一 「鶯(?・葉陰に隠れている)」→蠣潭

(再掲)
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(陽明文庫蔵)」(右隻)

四季屏風春・夏.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(陽明文庫蔵)」(左隻)


四季屏風秋・冬.jpg

(再掲)
https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-07-21

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風(東京黎明アートルーム蔵)」(右隻)

其一・四季花鳥図右.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風(東京黎明アートルーム蔵)」(左隻)

其一・四季花鳥図左.jpg
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十三) [酒井抱一]

その十三  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺

俳仙群会図・拡大.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-08-10
 上記の「俳仙群会図」(部分図)は、「画俳二道の達人」の名をほしいままにしている与謝蕪村(一七一六~一七八三)の「元文年間」(二十代前半)の若書きの作品とされている。中央の人物が、抱一(一七六一~一八二九)が私淑して止まない宝井其角(一六六一~一七〇七)、その右側の人物が其角の師の松尾芭蕉(一六四四~一六九四)である。其角の左側の頭巾を被っている人物が、蕪村の師の早野巴人(一六七六~一七四二)である。
 抱一の俳諧の師は、馬場存義(一七〇三~一七八二)と柳澤米翁(一七四二~一七九二)の二人が主で、存義は江戸座の専門俳人、米翁は江戸座の大名俳人、そして、存義は其角系の二代前田青峨(一六九八~一七五九)門、米翁は、大名俳人・内藤露沾(一六五五~一七三三)門の水間沾徳(一六六二~一七二六)と岡田米仲(一七〇七~一七六六)に連なる俳人である。
 これらのやや入り込んだ俳諧系譜図を整理すると、抱一は、「芭蕉→其角→存義」の専門俳人(俳諧を業とする「業俳」)と「露沾(業俳の沾徳・米仲に連なる)→米翁」の大名・武家俳人(俳諧を趣味・趣向とする「遊俳」)との「業俳と遊俳」との二足の草鞋を履き、そして、その上に、光琳を私淑しての「画道」をも究めようとしている。
 それに対して、蕪村は、「芭蕉→其角→巴人」の専門俳人(「業俳」)の世界にあって、「画(画道)・俳(俳道)」の二道で、「画(画道)」を主とし、「俳(俳道)」を従とし、その「画(画道)」も、「文人画」(俳人などの文人が描く世界)を究めようとしている。
 これらのことを前提として、両者の関係を整理すると、概略、次のようなことが、両者の関係として浮かび上がってくる。

一 蕪村と抱一とは、「俳人・画人・宗教人(抱一=出家僧、蕪村=出家後に還俗して在家僧?)」との共通項を有する。

二 俳人としての蕪村と抱一とは、「芭蕉→其角」に連なる「江戸座の俳人」として、「存義=抱一、巴人=蕪村」との関係から、同門の「年齢的に『蕪村=兄、抱一=弟』」のような関係にある。しかし、蕪村は抱一より四十五歳年長で、二人の直接的な接点というのはない。

三 抱一の師筋に当たる存義は、蕪村の師の宋阿(蕪村は内弟子)とは、同じ其角系門として深い関係にあり、巴人亡き後は、江戸の巴人系の俳人は、存義門に吸収合併されたような形で、蕪村は、その江戸から京都(巴人の京都門の俳人)へと移住することになる。
四 謂わば、抱一は、「其角→巴人→存義(江戸)」系の俳人とすると、蕪村は、「其角→巴人→宋屋(京都)」系の俳人ということになる。

五 蕪村と抱一との決定的な違いは、抱一は、徳川将軍家に仕えた最古参の譜代大名の酒井家の出身で、出家しても、大名の子息として権大僧都の僧位を賜っている。それに対し、蕪村の出自等は不明で、「蕪村は父祖の家産を破敗し、(略)名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(田宮仲宣『鳴呼矣草』)などの記録が遺されているように、雲水僧(画僧)という風体である。

六 抱一は、俳人として、追慕する「宝井其角百回忌」(其角肖像を百幅制作)を営み、画人として、「光琳百回忌」(「光琳百図」「緒方(尾形)流略印譜」出版など)を法要し、さらに、光琳の実弟乾山の「乾山遺墨」を刊行し、その顕彰に努めている。一方、蕪村は、其角の亡母追善句日記「花摘」に倣い、「新花摘」を刊行し、師宋阿(早野巴人)三十三回忌の追善集『むかしを今』に、「阿叟(巴人)の磊落なる語勢(其角系の磊落な作風)にならはず、もはら蕉翁(芭蕉)のさびしをり(『左比志遠理』中の「寂び=閑寂」「しをり=哀憐」)をしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ」と、蕉風中興運動の先陣を切り、自分の墓地となる金福寺に芭蕉庵を再建する。抱一が終始、其角系の俳人とする、蕪村は其角系の俳人から、さらに、芭蕉俳諧の中枢の芭蕉その人へと歩を進めることになる。

七 蕪村は、「画・俳二道」にあって、画業の町絵師として生計をたてており、業としての俳諧師活動は従たるものであった。その画道においては、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と、終生師として仰ぐ人を持たなかった。ただ、十年余に及ぶ関東遊歴時代に終止符を打って京都に移住してきた切っ掛けは、「売画自給」(画業で自立する)を標榜していた文人画の先駆者の一人・彭城百川(一六九七~一七五二)であったことは間違いない。しかし、百川は学ぶべき画人の一人であって、画人・蕪村は全くの独学で、「良かれ」というものは貪欲に吸収していった、その「雑食性」(雑駁な絵画学習)こそ、画人・蕪村の正体ということになろう。
 そして、抱一もまた、「『純粋な<光琳への>憧れと雑駁な絵画学習』ととらえ、その雑駁さにこそかえってクリエイティブなものがあるのではないか」(『琳派五 総合(紫紅社)』所収「静嘉堂文庫美術館蔵 酒井抱一等の『絵手鑑』について(玉蟲敏子稿)」)という、「雑食性」こそ、画人・抱一の一面なのであろう。

芭蕉・朝顔自画賛.jpg

芭蕉句自画賛「朝顔に我は飯くふ男哉」(柿衞文庫)
(「毎日新聞」2016年6月2日)
https://mainichi.jp/graphs/20160602/hpj/00m/040/005000g/4

一 芭蕉の「朝顔」の句(蕉門俳諧撰集の七句)

 芭蕉の「朝顔」の句は、蕉門の俳諧撰集に収録されているものは、次の七句程度であるが、いずれも、芭蕉とその一門を見ていく上でのキィワードとなる句である。

(一) 朝顔に我は飯食ふ男哉              芭蕉 「虚栗」
(二) 三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん         芭蕉 「虚栗」
(三) 蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀也      芭蕉 「続虚栗」
(四) 僧朝顔幾死(いくしに)かへる法(のり)の松 芭蕉 「野ざらし紀行」
(五) 朝顔は酒盛知らぬ盛りかな            芭蕉 「笈日記」
(六) 朝顔や昼は錠おろす門の垣           芭蕉 「炭俵」
(七) 蕣や是も又我が友ならず            芭蕉 「今日の昔」

二 芭蕉の「朝顔」の句周辺

(一) 朝顔に我は飯食ふ男哉       芭蕉 「虚栗」

草の戸に我は蓼くふほたる哉     其角

 句意は「粗末な草庵で放縦な生活に明け暮れしている自分は、『蓼食う虫』の蛍のように昼は活動せず夜に徘徊している」との意であろう。この句に返答した句が、掲出句なのである。この句には、「和ス角ガ蓼蛍ノ句」の前書きが付してある。

 朝顔に我は飯くふ男哉        芭蕉

 句意は、「其角さんは『蓼食う蛍』と吟じているが、私は夜早く寝て朝は早朝の朝顔を眺めながら『蓼』などではなく「飯」を喰っている普通一般の人間です」と、愛弟子の其角に自省を促しているということになる。

(二) 三ケ月や朝顔の夕べつぼむらん         芭蕉 「虚栗」

 句意は、「夕べの三ケ月がやがて満月になるように、この夕べの朝顔の蕾も朝には見事な花を咲かせるであろう」の意であろう。『虚栗』は、天和三年(一六八三)に其角の編んだ俳諧撰集で、蕉門の発句・歌仙などを四季別に収める。漢詩漢文調の作風は虚栗調・天和調と呼ばれている。この時、芭蕉、四十歳、其角は弱冠二十三歳である。

(三) 蕣(あさがほ)は下手の書くさへ哀(あはれ)也  芭蕉 「続虚栗」

 この句には、「嵐雪が描きしに、賛望みければ」の前書きがある。句意は、「嵐雪さんの、この朝顔は上手くはないが、されど風情がありますよ」というようなことであろう。この『続虚栗』も、貞享四年(一六八七)に其角の編纂した俳諧撰集で、芭蕉、四十四歳、其角、二十七歳、嵐雪、三十四歳である。

(四) 僧朝顔幾死(いくしに)かへる法(のり)の松 芭蕉 「野ざらし紀行」

 天和四年(貞享元年)(一六八四)、芭蕉、四十一歳時(其角、二十四歳)の作。貞享二年(一六八五)に成った『野ざらし紀行』の奈良県当麻町・二上山當麻寺での句で、その紀行文(長文の前書き)と一緒に味わうと句意が鮮明になる。その句意は「この寺の僧は、この老松にまつわる朝顔のように生死を繰り返すが、この老千年の松は代々の僧が守り続けて、その信仰の証しを今に伝えている」のような意である。

(五) 朝顔は酒盛知らぬさかりかな           芭蕉 「笈日記」

 貞享五年(元禄元年)(一六八八)、芭蕉、四十五歳時(其角、二十八歳)の作。『更科紀行』の出発に際しての留別吟で、句意は、「旅の出発に際して、仲間が相集い酒盛をしているが、朝顔はそんな俗事によそに、この早い朝を今が盛りと咲いている」のような意である。この句が収録されている『笈日記』は、元禄八年(一六九四)、芭蕉没(享年五十一)後の翌年に、各務支考(三十一歳)が編んだ俳諧撰集である。

(六) 朝顔や昼は錠おろす門の垣           芭蕉 「炭俵」
(七) 蕣や是も又我が友ならず            芭蕉 「今日の昔」

 この(六)の句は、 元禄六年(一六九三)、芭蕉、亡くなる一年前の五十歳時(其角、三十三歳)の作。この年、七月中旬から八月中旬にかけて草庵の門を閉ざす。この折、『閉関之説』が成る。(六)の句意は、「垣根には朝顔が咲いている。その朝顔を見ながら、昼にはその門を閉ざして、門人などの出入りを止め、世間から隔絶した草庵生活に専念する」という、壮絶な「隠者宣言」の句であろう。この句には、「閉関之比(ころ)」との前書きがある。この句が収載されている『炭俵』は、蕪村の晩年の「軽み」を志向した頃の門弟(志太野坡=三十三歳等)が、芭蕉没年(元禄七年=一六九四)に編纂したものである。
 そして、この(七)の句は、(六)と同時の頃の作で、この句には、「深川閉関の比(ころ)」との前書きが付してある。この句の句意は、「「朝顔は我が生涯の愛でている唯一一の花だが、しかし、今回の、この深い孤愁・老愁・憂愁を癒してはくれず、決して我が友と呼ぶことはできない」という、これまた壮絶な、逆説的な「朝顔嫌悪」の句である。この句が収載されている俳諧撰集『今日の昔』(朱拙編)は、元禄十二年(一六九九)のことで、芭蕉没の五年後のことである。
ここで、芭蕉の「閉関之説」の全文を掲げて置きたい。

【 「閉関之説(全文)」 史邦編『芭蕉庵小文集』(元禄九年=一六九六)等所収

 色は君子のにくむところにして、仏も五戒のはじめに置けりといへども、さすがに捨てがたき情のあやにくに、哀れなるかたがたも多かるべし。人知れぬくらぶ山の梅の下臥しに、思ひの外の匂ひにしみて、忍ぶの岡の人目の関も守る人なくては、いかなる過ちをか仕出でむ。
 海人の子の浪の枕に袖しをれて、家を売り身を失ふためしも多かれど、老いの身の行く末をむさぼり、米銭の中に魂を苦しめて、物の情けをわきまへざるには、はるかに増して罪ゆるしぬべく、人生七十を稀なりとして、身を盛りなることは、わづかに二十余年也。はじめの老いの来たれること、一夜の夢のごとし。
 五十年、六十年の齢ひ傾ぶくより、あさましうくづほれて、宵寝がちに朝起きしたる寝ざめの分別、何事をかむさぼる。おろかなる者は思ふこと多し。煩悩増長して一芸すぐるる者は、是非のすぐるる者なり。是をもて世の営みに当てて、貪欲の魔界に心を怒らし、溝洫(こうきょく)に溺れて生かすことあたはずと、南華老仙のただ利害を破却し、老若を忘れて閑にならむこそ、老いの楽しみとは言ふべけれ。
 人来れば無用の弁あり。出でては他の家業をさまたぐるも憂し。孫敬が戸を閉ぢて、杜五郎が門を鎖(とざ)さむには。友なきを友とし、貧しきを富めりとして、五十年の頑夫自ら書し、みづから禁戒となす。

  朝顔や昼は錠おろす門の垣    はせを    】

芭蕉・閉関・朝顔.jpg

芭蕉句自画賛「朝顔や昼は鎖おろす門の垣」紙本墨画 三〇・四×四二・〇cm
出光美術館蔵
【   元禄発酉(みずのとり)の秋人に倦(う)みて閉関す
   朝顔や昼は鎖(ぢやう)おろす門(もん)の垣  芭蕉庵桃青
 芭蕉は五十歳の元禄六年盆過ぎから約一か月、門を閉じて訪客を謝絶して過ごした。句は『藤の実』に「閉関之比(へいかんのころ)」と題して載せ、白雪宛元禄六年八月二十日付芭蕉書簡に「盆後閉関致候。その折の句」として掲げる。別に史邦編『小文庫』に「閉関之説」と称する芭蕉の俳文があり、その文末にもこの句を掲げる。画は結った竹垣に朝顔が生えかかって花を咲かせている図で、蔓をあしらって朝顔の感じを出そうとしている。染筆は元禄七年に入ってからであろう。  】
(『俳人の書画美術第二巻 芭蕉(集英社刊)』所収「作品解説(井本農一稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十二) [酒井抱一]

その十二  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と『源氏物語第二十帖・朝顔』周辺

国周・朝顔.jpg

豊原国周画「現時五十四情」(第一号から五十四号)の「第二十号」
(早稲田図書館蔵) → 図一
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_b0228/index.html

 幕末から明治期の浮世絵師として名高い豊原国周(くにちか)は、天保六年(一八三五)、鈴木其一の四十歳時に生まれ、安政二年(一八五五)の頃より、豊原国周の名を署名するようになる。
 其一の「四季花鳥図屏風」は、その前年に制作されたもので、それと同時期の頃に制作された「朝顔図屏風」は、浮世絵師として自立する頃の国周は何らかの形で接する機会があったという推測も許されることであろう。
 上記の、国周の「現時五十四情(第二十号)」は、明治十七年(一八八四)に制作されたもので、其一とは何らの接点があるものではないが、この「現時五十四情」は「源氏五十四帖」の「第二十帖・朝顔」を捩ってのもので、上記に書かれているのが、その「第二十帖・朝顔」の、「見し折りのつゆ忘られぬ朝顔の花の盛りは過ぎやしぬらん」の一首である。
 この「第二十帖・朝顔」の前は、「第十九帖・薄雲」で、文政八年(一八二五)、其一、三十歳(抱一=六十五歳)の頃の「薄雲」(新吉原三浦屋の名妓)の美人画(三幅のうちの一幅)がある。

其一・三美人図(薄雲).jpg

鈴木其一筆「雪月花三美人図」(三幅)のうち「雪美人・薄雲図」(一幅)
静嘉堂文庫美術館 → 図二
【 雪月花に、新吉原三浦屋お抱えの薄雲、高尾、長門の三名妓を見立て、寛文美人図の様式で描くという、趣向を凝らした作品である。上部の色紙型や短冊には抱一の手で俳句が記されている。高尾と薄雲の姿には、文政八年刊の『花街漫録』の挿絵に其一が写した花明国蔵の『高尾図』『薄雲図』という菱川印のある古画を参照している。背後に企画者関係者など多くの意向が感じられ、同じ頃の作とすると、其一としてかなり早い時期の大変な力作である。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子)」)

この短冊の抱一の句「(薄雲の句か?)(抱一書)」は、次のものである。

  初雪や 誰か誠も ひとつよき  薄雲

其一・花街漫録(薄雲).jpg

西村藐庵著『花街漫録』(二冊・文化八年=一八二五)所収「薄雲之図」(鈴木其一写)
木版墨絵 各二㈦・五×一八・五㎝  (早稲田大学図書館蔵) → 図三
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563734?tocOpened=1

【 吉原江戸町一丁目の名主西村藐庵(みょうあん)が、吉原の故事・古物研究の成果をまとめた書で、抱一が賛辞の序文を寄せ、其一が指図をてがけでいる。江戸市井の富裕層に広がる古物趣味を伝えるもの。中には抱一所蔵品の縮図を掲げ解説がある。このとき其一は三十歳。三浦屋の遊女高尾と薄雲の美人画が、其一の『雪月花三美人図』に生かされていることはよく知られるが、各代の浮世絵をよく写している。】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子)」) 

 図二の「薄雲」と図三の「薄雲」は、姿勢は異なるが、新吉原三浦屋の名妓「薄雲」を其一が「各代の浮世絵をよく写している」、その成果の一つなのであろう。
 其一の師の抱一の出発点は、新吉原の「吉原文化」を背景とする「狂歌と浮世絵」との世界であった。狂歌は四方赤良(大田南畝)、浮世絵は歌川豊春(歌川派の始祖)の流れで、狂歌の号は「尻焼猿人」、浮世絵などの画号は「杜綾・杜陵・屠龍」などを用いた。

抱一・松風村雨図.jpg

酒井抱一筆「松風村雨図」一幅 天明五年(一七八五)細見美術館蔵 → 図四
【 現在知られる抱一作品の中で、数え年二十五歳の最も若い作例である。謡曲「松風」に因み、須磨の松風・村雨姉妹を描く。『松風村雨図』は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれらに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予期させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」) 

 この抱一の「松風村雨図」は、謡曲「松風」に由来するもので、『源氏物語』とは直接関係がないのかも知れないが、この「松風」の題名は、『源氏物語』第十八帖の「松風」に由来があると解しても、それは許されることであろう。
 ここで、上記の浮世絵(図一~図四)と『源氏物語』の各帖名との関係を整理すると次のとおりとなる。

● 「源氏物語・第十八帖『松風』」 → 酒井抱一筆「松風村雨図」(図四)
● 「源氏物語・第十九帖『薄雲』」 → 鈴木其一筆「雪月花三美人図」(三幅)のうち「薄雲図」(図二)と鈴木其一写「薄雲図」(西村藐庵著『花街漫録』所収)(図三)
● 「源氏物語・第二十帖『朝顔』」 → 豊原国周画「現時五十四情」所収「第二十号『朝顔』(図一)

 抱一の「松風村雨図」(図四)は、天明五年(一七八五)の作、そして、国周の「現時五十四情・第二十号(朝顔)」(図一)は、明治十七年(一八八四)刊行時のものとして、凡そ、一世紀(百年)弱の歳月の経過がある。
 歌川豊春系の「抱一」と歌川豊国系の「国周」とを結びつける接点は、抱一の継承者である「其一」ということになろう。
 弘化二年(一八四五)、其一、五十歳時の「新撰花柳百人一首募集摺物」(吉原楼主が遊女の和歌募集摺物)に美人画見本(「玉楼名妓・薄雲)の挿絵を、其一は描いている。この種のものの延長線上に、国周の「現時五十四情(源氏五十四帖)」が誕生する。
 それは取りも直さず、抱一から其一へと継承された、当時の江戸(東京)の「浮世絵と狂歌とを舞台とする吉原文化」が、その背景をなしているということになろう。

其一・百人一首(浮雲).jpg

鈴木其一画「新撰花柳百人一首募集摺物」二枚のうちの一枚(石水博物館蔵)
【 吉原の楼主、玉屋山三郎こと花柳園が企画した、吉原遊女による「新撰花柳百人一首」の募集要項。(略) 其一が『花街漫録』に遊女の挿絵を描いたのはちょうど二十年前になるが、この年五十を迎えた其一は藐庵との交流も続いており、このような企画にも参加していた。「新撰花柳百人一首」が実際に刊行されたかはわからないが、企画段階では其一はともすれば百人の遊女の姿を描く可能性もあったのである。(略)見本に書かれた藐庵の和歌も「君たちのこと葉の花をさくら木にゑりてまた見ぬ人に見せはや」と彼女たちの才知を誘っている。(略)其一の知名度や藐庵ゆかりの人脈が知られるとともに、素顔の其一像は意外とこうした資料から垣間見えるように思う。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十一) [酒井抱一]

その十一 鈴木其一筆「朝顔図屏風」と光琳筆「朝顔図香包」周辺

光琳・朝顔香包一.jpg

尾形光琳筆「朝顔図香包」一幅 絹本金地著色 二六・一×二一・一㎝
サンフランシスコ・アジア美術館蔵 → (図一)

光琳・朝顔香包二.jpg

尾形光琳筆「朝顔図香包」一幅 絹本金地著色 三三・三×二四・五㎝ 
シカゴ美術館蔵 → (図二)
【 両図とも組香で香木を入れるための香包としてデザインされたもので、「シカゴ美術館蔵」の方は、ほぼ同寸のものがこれ以外六点現存しており、セットとして制作されたものと思われる。いずれの場合も香包の機能性を充分考慮に入れて、最終的に下側になる中央部より、表となる側面に重点が置かれて描かれている。金箔地を背景に、草木や鳥が極彩色で描かれた香包は、贅を尽くした蒔絵の道具にも対抗し得る豪華な姿を呈したことであろう。
両図とも葉を墨と緑青で彩色し、葉脈を金泥で描き込んでいる。花の方は、「シカゴ美術館蔵」の方は、やや濃目の群青で花弁を彩色し、花蕊を金泥で描き込んでいるのに対し、「アジア美術館蔵」の花は淡目の群青を使い、胡粉で白い筋を入れ、中心部を暈しており、品種の異なる朝顔を描いていることがわかる。また偶然ではあるが、折目に生じた格子が竹垣のような印象を画面に与えている。 】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(別役恭子稿)」)

 「香包」(香包み)とは、中に香を入れて香席で使うもの(料紙)で、四つ折りにして使うため、表となる位置は画面の左中央の部分となる。光琳は、この彩色した装飾的な香包みを数多く制作しており、その図柄も、上記の「朝顔」だけではなく、「千羽鶴・白梅・紅梅・燕子花」など、いわゆる、「光琳紋様」(光琳の意匠化された図柄など)が目白押しである。
 今に、「琳派」の名の由来ともなっている尾形光琳は「燕子花図屏風」(六曲一双、根津美術館蔵、国宝)や「紅白梅図』(二曲一双、MOA美術館蔵、国宝)などの大画面の画家というイメージが強いが、それ以上に、この「香包」や「扇面画・団扇画・絵皿・蒔絵・小袖画」などの小品物や工芸物の名手なのである。
 そして、この「香包」などは、「扇面画・団扇画・絵皿(絵付け)」などと同じく、下絵を描くような手慣れた即興的な作品と解して差し支えなかろう。

其一・朝顔図拡大.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」のうち左隻「五・六扇」の部分拡大図 → (図三)

 これは、前々回から触れている其一の「朝顔図屏風」(六曲一双)の、左隻の最終部分の一部を切り取って拡大したものである。
 これを、上記の光琳の「朝顔図香包」(図一・図二)とを対比させるための、其一の「朝顔図香包」と紹介しても、よほどの目利きでないと、このトリック(詐術)を暴けないであろう。
それ以上に、実際に、これに香木を包み、その「折り目に生じた格子が竹垣」(図一・図二)のような状況になることを想像すると、これらの作業を媒体としての、新しい「美的空間」の展開すら見えてくる予感をも抱くのである。
 ここで、少なくとも、光琳の「朝顔図香包」(図一・図二)の小品は、其一の「朝顔図屏風」(六曲一双)の大画面の作品(「図三」の母体の「六曲一双」の屏風空間)に反転させることは、「宗達・光琳・抱一・其一」等の琳派の絵師達には容易なことであろう。
 と同時に、其一の「『朝顔図屏風』のうち左隻『五・六扇』の部分拡大図」(図三)の小品から、「宗達・光琳・抱一・其一」等の琳派の絵師達は、その詐術前以上の「朝顔図屏風・襖」などの大画面の大作を創造することは、これまた、極めて容易なことではなかろうかという思いがする。
 いずれにしろ、其一の師の抱一にしても、その「十二か月花鳥図」の基準的作品(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の一つに「朝顔」(「玉蜀黍朝顔に青蛙図(七月)」は取り上げられており、
「光琳・乾山→抱一・其一」の、この流れにおいては、「朝顔」が好みの画題であったことは付記しておく必要があろう。
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(十) [酒井抱一]

その十 鈴木其一筆「朝顔図屏風」と宗達筆「雲龍図屏風」・「風神雷神図屏風」周辺

其一・朝顔図屏風一.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵(再掲)→ (其一・金地・「綺麗さび」の「綺麗」)→ (図一)

宗達・雲龍図屏風一.jpg

俵屋宗達筆「雲龍図屏風」六曲一双 紙本墨画淡彩 各一五〇・六×三五三・六㎝
フリア美術館蔵 (宗達・墨画・「綺麗さび」の「さび」)→(図二)

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地淡彩 各一五四・五×一六九・八㎝
建仁寺蔵 → (図三)

其一・風神雷神図襖一.jpg

鈴木其一筆「風神雷神図襖」四面裏表 絹本著色 各一六九・〇×一一六・〇cm
東京冨士美術館蔵→ (図四)

 上記の、其一筆「朝顔図屏風」(図一)と宗達筆「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)とについて、前回、次のように指摘されていることを紹介した。

【 宗達の「雲龍図屏風」(フリア美術館)に通じる構図であり、「風神雷神図屏風」(建仁寺)を源泉として、これに触発され、影響を受け、翻案された一連の琳派における一双形式の屏風の構成に沿うものである。屏風における左右の対比は、流派を問わず珍しいことではない。其一が、朝顔という単一の植物を取り上げて屏風を制作するに当たり、琳派の伝統である「燕子花図屏風」におけるモチーフを反復させる構図色彩がおそらく意識されたのだろう。さらに六曲一双という大画面の構図を思案する際に、抱一が光琳を顕彰しつつ翻案した屏風の制作に寄り添うような、左右が拮抗しあう構成の「朝顔図屏風」であった。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 この宗達の「雲龍図屏風」(図二)の右隻の龍は「降り龍」(「下化衆生」の龍)、左隻の龍は「昇り龍」(「上求菩提」の龍)で、その「降り龍」と「昇り龍」とが、それぞれ姿勢を反転させて、相互に睨み合っている図柄なのである。
 そして、其一の「朝顔図屏風」(図一)の右隻の朝顔図が、宗達の「降り龍」、その左隻の朝顔図が、宗達の「昇り龍」の格好で、その両者が見事に絡み合い、絶妙なコントラスト(対比)的な空間を生じさせている。
 宗達の「雲龍図屏風」(図二)が、「龍図」の具象的、「雲・波図」の半具象的な描法に比して、其一の「朝顔図屏風」(図一)は、「朝顔図」そのものは具象的なのだが、「あたかも空中に浮遊させるがごとく」、全体として、極めて抽象的な描法の一端も見てとれる。
 と同時に、宗達の「雲龍図屏風」(図二)が、「黒と白」との「水墨画」の極致とするならば、其一の「朝顔図屏風」は、「金地に群青と緑青」との「装飾画」の極致という見事な対比となっている。
 其一は、師の抱一から多くのものを学んでいるが、その抱一が多くのものを学んだ光琳、そして、宗達の、いわゆる、「琳派」の、その根元を正しく継承していることを、この両者を対比させて鑑賞していくと、そのことを実感する。

 次に、上記の「風神雷神像図(図三・図四)」関連については、下記のアドレスの「風神雷神図幻想」などで触れているので、ここでは、主として、「朝顔図屏風」(図一)との関連についてのみ記すことにする。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-18

 其一の「朝顔図屏風」(図一)、宗達の「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)は、いわゆる、移動性の「屏風絵(画)」に比して、其一の「風神雷神図襖」は、建物に付属している「襖絵」という違いがある。
 本来は、これらの障壁画(襖絵、杉戸絵、壁貼付絵、天井画、屏風絵、衝立絵などの総称)は、建物の空間と密接不可分のもので、それらを抜きにして鑑賞することは十全ではないのかも知れないが、逆に、それらの本来の空間がどういうものであったかを想像しながら、これの大画面の絵画を観賞する面白さもあるように思われる。
 例えば、この宗達の「雲龍図屏風」(図二)は、「落款が両隻を並べた場合内側となる部分にあることから、並置するのではなく、向かい合わせに置くことを意図していたと推測される」(『琳派四 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)と、そもそもは、其一の「風神雷神図襖」(図四)と同じような意図で制作されたものなのかも知れない。
 さらに、この其一の「風神雷神図襖」(図四)も、襖四面の「裏と表」に描かれていると、上記のように、並置しての、右隻の「風神図」と左隻の「雷神図」との対比が希薄化される恐れがあるように思われる。

 ここで、改めて、上記の四図を見ていくと、この其一の「朝顔図屏風」(図一)は、宗達の「雲龍図屏風」(図二)、そして、其一の「風神雷神図襖」(図四)は、宗達の「風神雷神図」(図三)を、それぞれ念頭に置いて制作したのではないかという思いを深くする。
 と同時に、其一は、宗達の「黒と白」との「水墨画」の極致の「雲龍図屏風」(図二)を、「金地に群青と緑青等の装飾画」の極致の「朝顔図屏風」(図一)に反転させ、そして、宗達の「金地に緑青等の装飾画」の極致の「風神雷神図屏風」(図三)を、「黒と白と淡彩の水墨画」の極致の「風神雷神図襖」(図四)に、これまた、反転させているということを実感する。
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(九) [酒井抱一]

その九 鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(東京黎明アートルーム蔵)

其一・四季花鳥図右.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(右隻)

其一・四季花鳥図左.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(左隻)
【鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一五四・七×三四一・二㎝
嘉永七年(一八五四) 東京黎明アートルーム蔵
 六曲一双の総金地に四季の花卉草木と小禽を描いた屏風である。右隻には「菁々其一」の署名に「為三堂」(朱文瓢印)、左隻には「嘉永甲寅初秋」の年紀に続けて、同じ「菁々其一」の署名に、「為三堂」(朱文瓢印)と、さらに「其弌」(朱文楕円印)が捺される。したがって嘉永七年(安政元年/一八五四)の制作と判明する貴重な作例であるが、晩年の其一が「朝顔図屏風」のように単一の植物を大画面に描く一方で、琳派の伝統に即したこのような屏風を描いていたことが判明する。
 右隻は白い花を咲かせた辛夷にはじまり、蕨や蒲公英、菫から、中央に立葵、燕子花、罌粟など、春から夏にかけての植物が題材に選ばれる。これに続く左隻は、朝顔や女郎花、などの秋草から、葉鶏頭に鞠、藪柑子に水仙、梅や山茶花などの秋から冬にかけての植物が余白を生かしながら描かれる。立葵、燕子花、秋の七草など、俵屋宗雪や「伊年」印を捺す作例、さらに光琳から抱一へと受け継がれてきた琳派作品に頻出する植物が顔を見せているかと思えば、捩摺、華鬘層、竹似草、小数珠菅など、一般には特定がむずかしい種類も数多く加えられている。そこには渡辺始興(一六八三~一七五五)や抱一と軌を一にして、博物学的な写生に基づく新知見や、園芸植物への関心の高さもうかがえる。一年の季節の巡りの中で、さまざまな植物が身を寄せ合いながら群生し、鳥が心地よさげに飛び交う平和なイメージであり、其一が率いていた時期の江戸琳派を代表するにふさわしい四季花鳥図屏風であるといえよう。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 この「四季花鳥図屏風」を其一が制作した嘉永七年(安政元年/一八五四)は、其一、晩年の五十九歳のときで、その前年にペリーが浦賀に来航し、その翌年の日米和親条約を調印した年に当たる。
 其一の師の抱一が亡くなったのは、文政十一年(一八二八)十一月二十九日(享年六十八)、其一、三十三歳のときである。この頃の作、其一画・抱一賛の「文読む遊女図」については、下記のアドレスなどで触れている。そこで、「抱一・小鸞女史・其一」の、この三者について触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12

其一・四季花鳥図拡大.jpg

鈴木其一筆「四季花鳥図屏風」(左隻)の「第五扇(部分拡大図)

 この其一の「四季花鳥図屏風画」(左隻)の「第五扇(部分拡大図)の、この白梅上の二羽の鶯は、これは、其一三十代の頃の作、「文読む遊女図」(其一画・抱一賛)の、其一の二人の師である「抱一・小鸞女史」の面影を宿している、その二羽のペアの鶯と解したい・
 そして、ずばり、この地上の鶯(笹子=笹で鳴く鶯=「笹ならず秋草と冬草の狭間で鳴く鶯」)は、その二人の雨華庵で画人として育っていた「其一その人の自画像」の鶯と解したい。
 其一は、四十代後半には家督を長男の守一に譲り(天保十三年=一八四二、四十七歳の「広益諸家人名簿」守一のみが掲載されており、この頃までに家督を守一に譲っているとされている)、この頃から抱一色というよりも其一色の濃い多様な作風が顕著となってくる。
 其一が、晩年の栄光の号「菁々(せいせい)」を落款するのは、弘化元年(一八四四、四十九歳)頃からで、以降、安政五年(一八五八)、その六十三年の生涯の幕を閉じるまで、抱一に近い大名家や豪商の支援の下に、「光悦・宗達→光琳・乾山」の次の時代の「抱一・其一」時代を樹立していくことになる。
 その「抱一・其一時代」の「綺麗さび」の世界の集大成が、冒頭に掲げた、其一、五十九歳時の「四季花鳥図屏風」(六曲一双)と位置付けてもいささかの違和感もなかろう。

其一・朝顔図屏風.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵
【 夏から秋にかけて咲く朝顔のみを取り上げて、六曲一双の大画面に描いた屏風。うねるような朝顔の緑色の蔦や葉と、胡粉を巧みに用いて光を発するかのように描かれた青い朝顔の花を眺めていると時が経つのを忘れてしまうかのようだ。各隻には「菁々其一」の署名に「為三堂」(朱文印)が捺される。一九五四年にアメリカ・メトロポリタン美術館の所蔵となった其一の代表作のひとつである。
 金地を背景に、群青による朝顔の花と緑青による葉を全面に描いたこの屏風は、光琳が描いた「燕子花図屏風」(根岸美術館)や「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館)の題材と色彩の取り合わせを明らかに意識したものと推測されている。抱一もまた『光琳百図』に載る「八橋図屏風」に基づいて、さまざまな画面形式の燕子花を描いたが、その背景には『伊勢物語』第九段の東下りという文学的イメージが暗黙の了解として脈々と受け継がれていた。
 しかるにこの其一が選んだ朝顔という植物には文学的な背景は希薄であり、むしろ江戸後期における園芸熱がこの画題を選ばせた動機ではないかと推測されている。其一がここで取り上げた朝顔の種類は、当時もてはやされた変化朝顔の類ではなく、曜と呼ばれる花弁の筋や、葉の形も普通と代わり映えしない種類である。ただし描かれた花はきわめて大輪で、向きは正面や側面など変化に富み、さらに葉の影に隠れたものを含めれば百五十を超える数が描かれている。よく見ると各所に蕾や膨らみかけた種も描かれ、其一が栽培を通してのことか、朝顔をよく熟知していることは疑いない。
 一方で、本来、朝顔という蔓性の植物は、棹や垣根にからませて栽培し鑑賞するものである。しかし、其一は朝顔の根元を一切明らかにせず、あたかも空中に浮遊させるがごとく、それぞれの蔓を融通無偈に四方に伸びるに任せ、大輪の朝顔をたわわに咲かせた。そこには食物のもつ自然の生命力を感じさせもするが、右隻、左隻を一望に収め、六曲一双の屏風として見たときには、それぞれの花房の示す勢いや方向が、左右で拮抗しあうように慎重に制御されている様子がうかがわれる。
 これはあえて例を挙げれば宗達の「雲龍図屏風」(フリア美術館)に通じる構図であり、「風神雷神図屏風」(建仁寺)を源泉として、これに触発され、影響を受け、翻案された一連の琳派における一双形式の屏風の構成に沿うものである。屏風における左右の対比は、流派を問わず珍しいことではない。其一が、朝顔という単一の植物を取り上げて屏風を制作するに当たり、琳派の伝統である「燕子花図屏風」におけるモチーフを反復させる構図色彩がおそらく意識されたのだろう。さらに六曲一双という大画面の構図を思案する際に、抱一が光琳を顕彰しつつ翻案した屏風の制作に寄り添うような、左右が拮抗しあう構成の「朝顔図屏風」であった。
 それは自らの絵師としての根幹をなす琳派という流派の様式を、たえず新たに問い直す作画活動の中で生まれた琳派ならではの屏風であったと思われる。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社刊)』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 其一筆「朝顔図屏風」の「作品解説」(鑑賞文)のスタンダードのものとして全文を掲載したが、その周辺の下記のことなどについて、次回以降で触れていきたい。

一 其一筆「朝顔図屏風」と宗達筆「雲龍図屏風」・「風神雷神図屏風」周辺
二 其一筆「朝顔図屏風」と光琳筆「朝顔図香包」周辺
三 其一筆「朝顔図屏風」と『源氏物語第二十帖・朝顔』周辺
四 其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(八) [酒井抱一]

その八 鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」(細見美術館蔵)

其一・雪中竹梅図.jpg

鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」双幅・絹本着色 細見美術館蔵 一一一・九×五二・〇cm
【 雪竹に雀を右幅、雪の紅白に雀を左幅に描いた双幅。いずれも枝葉、花にこんもりと雪が積もり、なお画面には雪が舞っている。降り積もった雪を薄い水墨の外隈で表し、降る雪、舞う雪はさらに胡粉を吹き付けて雪らしい感じに仕上げている。雪深い中にも早春の気配を感じさせる図である。
 右幅では雪の重みでしなる二本の竹の枝が大きく弧を描き、雀が当たって勢いよく落ちる雪のさまが雪塊とともに長く滝のように表される。墨を交えた緑の竹と、それを覆うかのような雪が鮮やかなコントラストを見せている。同様な表現は、竹に替わり檜ではあるが、其一「檜図」や「四季図」(四幅対)にも見出され、其一が得意とした画題であった。
 これに対し左幅は、一羽の雀が寒さに耐えて羽を休め、静寂な画面である。ほころび始めた紅梅の花にも蕾にも雪が積もり、複雑な余白の表出を其一は楽しんでいるかのようである。
 雪と雀を左右共通のモチーフとしながら、静と動、緑と紅などを対比させ、雪のさまざまな形の面白さをも追及した意欲的な作品である。師の抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

 この「作品解説」の末尾の「抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った」ということを、「綺麗さび」という観点から見ていくと、抱一の「綺麗さび」は、「さび」(情趣)の表現を重視するのに比して、其一の「綺麗さび」は「綺麗」(造形的な効果)の表現を重視する傾向にあると換言することも出来よう。
 この「綺麗さび」とは、そもそも茶道の用語で、千利休(「わび・さび茶」の利休)と古田織部(「伊達風流」の織部流」)とを止揚する小堀遠州(「綺麗さび」の遠州流)との、この三者(茶人)の茶道観に由来するものと解したい。
 として、この三者(茶人)を俳諧師(俳人)に見立てると、「利休=芭蕉」、「織部=其角」、そして「遠州=屠龍(抱一)」ということになる。
 さらに、ここに抱一ゆかりの画人(絵師)を加味すると、「利休・芭蕉=尾形乾山=『(艶)隠者』」、「織部・其角=尾形光琳=『(伊達風流)歌舞伎者』、そして「遠州・屠龍(抱一)=酒井抱一=『江戸琳派=抱一・其一他『綺麗さび』」ということになる。
 このような観点に立って、改めて、冒頭の「造形的な効果にも多く関心を払った」其一筆「雪中竹梅小禽図」を観賞すると、やはり、其一の師の抱一が樹立した「綺麗さび」の世界であることを痛感する。
 と同時に、其一の師の抱一が、私淑し、目標とし、顕彰し続けた「尾形光琳・乾山」兄弟の、「光琳風(綺麗=造形性)」と「乾山風(さび=情趣性)」の「綺麗さび」の世界であることの印象を深くする。
 これらを証しする、「尾形光琳・乾山」兄弟の作品の一例を掲げて置きたい。

雪芦図団扇.jpg

尾形光琳筆「雪芦図団扇」一幅 紙本金地著色 二〇・九×二四・二㎝
落款「法橋光琳」 印章「潤声」白文方印 ファインバーグ・コレクション
【 団扇形の上辺と下辺を金地として、中央の素地を水辺に見立てる。雪をかむった枯芦が左方向へ倒れかかり、それを落款が受けとめている。商品ながら画面構成の密度は高い。】
(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(小林忠稿)」)

乾山・雪竹図.jpg

尾形乾山筆「雪竹図」一幅 紙本墨画 九八・〇×三四・二㎝
落款「七十九紫翠深省画」 印章「霊海」朱文方印
賛「竹の葉は/うす雪ながら/色かへて/しぐれふりにし/つれなさも/なし」
寛保元年(一七四二)作
【(前略)「雪竹図」は『国華』一三一号にも紹介され、早くから乾山水墨画の秀作として名高い。自賛「竹の葉はうす雪ながら色かへてしぐれふりにしつれなさもなし」に、七十九翁の年紀がある。とつとつとした筆致のうちに、能にも通じあう幽玄な趣きが秘められている。(後略) 】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(河野元昭稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(七) [酒井抱一]

その七 「流水四季草花屏風」(東京国立博物館蔵)

流水四季花鳥図屏風・右隻.jpg

酒井抱一筆「流水四季草花図屏風」(二曲一双)「右隻」(東京国立博物館蔵)

流水四季花鳥図屏風・左隻.jpg

酒井抱一筆「流水四季草花図屏風」(二曲一双)「左隻」(東京国立博物館蔵)
【「流水四季草花図屏風」酒井抱一筆 二曲一双 紙本金地著色 
一六二・〇×一七二・〇(各隻) 落款「抱一筆」(右隻)「雨華抱一筆」(左隻)
印章「文詮」(朱文円印)(各隻)
 抱一が文化・文政期につくり出した草花図・花鳥図は、おりからの花卉園芸ブームと相俟って非常に好評だったようで、よく似た様式の様々なバリエーションの屏風、掛幅画が制作されている。これら大量の草花図をすべて抱一が自ら描いたとは考えられず、いわゆる工房制作の問題が浮上してくるのである。本図は、抱一の作品として、しばしば図録や展覧会などで紹介されるものであるが、先に掲げてきた「四季花鳥図」(陽明文庫)などの基準作例と比較してみた場合、色彩感覚と空間構成に大きな相違が見出されるようだ。たとえば、煩雑な草花の配置と野太い水流の動き、あくが強く洗練性に欠ける濃彩。抱一は鮮度の高い刺激的な色彩をピリッときかせるのに巧みであり、未整理のモチーフをきらうことが多い。裏面に鈴木守一(其一の長男、一八二三~八九)筆の「竹梅図」が描かれており、それと表の本図との筆者の関係は、今後の探求すべき課題のひとつであろう。】(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(玉蟲敏子稿)」)

 この「流水花鳥図」は、上記の「作品解説」がなされた頃(一九八九年=平成元年初版)は、個人蔵であったが、現在は東京国立博物館蔵で、下記のアドレスなどで、その全容を閲覧することが出来る。

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0033271

 上記の「作品解説」では、「これら大量の草花図をすべて抱一が自ら描いたとは考えられず、いわゆる工房制作の問題が浮上してくる」に関連して、「裏面に鈴木守一(其一の長男、一八二三~八九)筆の「竹梅図」が描かれており、それと表の本図との筆者の関係は、今後の探求すべき課題のひとつであろう」と、この「流水四季草花図屏風」は、落款は「抱一筆」「雨華抱一」であるが、「雨華庵工(画)房(抱一と其一を中心とする)」の、「其一色」の強い作品であるということを、言外に匂わせている感じでなくもない。
 そして、其一の後継者である守一が、その其一色の濃い抱一筆「流水四季草花図屏風」の裏面に、下記の「竹梅図」(二曲一双)を描いたということは、丁度、光琳の「風神雷神図屏風」(重要文化財・東京国立博物館蔵)の裏面に、抱一が「夏草秋草図屏風」を描いたと
同じように、守一にとっては大きな出来事であったろう。
 この守一の「竹梅図」は、光琳の代表作「紅白梅図屏風」(国宝・二曲一双・MOA美術館蔵)・「竹梅図屏風」(重要文化財・二曲一隻・東京国立博物館蔵)や抱一の「紅白梅図屏風」(六曲一双・出光美術館蔵)、そして、父であり師である其一の「雪中竹梅小禽図」(双幅・細見美術館蔵)や「梅椿図屏風」(六曲一双・ホノルル美術館蔵)などが、その背景になっているのかも知れない。

守一・竹梅一.jpg

鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「右隻第一扇」

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「右隻第二扇」

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「左隻第一扇」

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鈴木守一筆「竹梅図屏風」(二曲一双)の「左隻第二扇」
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(六) [酒井抱一]

その六 「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵)

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」(二曲一双)「右隻」(春・夏)京都国立博物館蔵 

四季花鳥図・京都・右隻.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」(二曲一双)「左隻」(秋・冬)京都国立博物館蔵 

四季花鳥図・京都・左隻.jpg


http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/387145

【 四季花鳥図屏風(酒井抱一筆)二曲一双 紙本着色 一五六・〇×一六一・八(各隻)
落款「抱一暉真筆」(各隻)印章「文詮」(朱文円印)(各隻)「文詮」朱文瓢印(各隻) 
 「江戸琳派」の推進者であった酒井抱一と弟子其一との関係は、ちょうど蕪村と呉春、応挙と芦雪、春章と北斎のそれとよく似ているように思われる。師の一種の”貴族”的抑制感覚に対する、弟子における”職人”的技巧の露出趣味である。
 そのなかでも抱一の場合は、その出自からいっても文字どおり”上流”階級の出自であった。抱一の絵画に対する興味の深さにもかかわらず、彼の作品を貫いているのは、彼の意識するとしないとにかかわらず、「殿様芸」であることに外ならない。東京国立博物館蔵「夏秋草図」屏風や旭光学蔵「秋草図」屏風などの水準が、常に維持されたとはいい難い。
 四季の花鳥を二曲一双の画面に描き分けた本屏風の表現は、見ても分かるようにやや硬いというべきであろう。にもかかわらず、その構図感覚は十九世紀前半の江戸画壇にあって出色というが妥当で、琳派の再生とはいいながら四条派の表現感覚を潜かに取り入れた抱一画の標準作と考えてよい。  】(『琳派一・花鳥一(紫紅社刊)』所収「作品解説(狩野博幸稿)」)

 上記の「作品解説」中の、「抱一の絵画に対する興味の深さにもかかわらず、彼の作品を貫いているのは、彼の意識するとしないとにかかわらず、『殿様芸』であることに外ならない」という指摘は、抱一絵画の核心をついている感じでなくもない。
 抱一は、姫路十五万石の譜代大名、酒井雅樂頭家の出自で、その武家の身分を捨て出家して僧籍のまま一介の市井の絵師に身を置いても、酒井家の禄を育んでいる殿様絵師(「千石五十人扶持」=大名の縁戚に連なる地位を維持する石高=年収「千万円」単位より「億円」単位に近い?)で、そのものずばり「殿様芸」(閑と金にゆとりがある殿様の身分の人が描いている絵画)という面では、見事に核心をついている。
 しかし、抱一のその「殿様芸」は、一般的な「殿様芸」(素人芸・慰みにする芸・旦那芸)などの絵画ではなく、「『玄人芸(超一流の専門絵師)』・『琳派・俳画・仏画・中国画・文人画・大和絵・風俗画・浮世絵・節句画・花鳥画・円山四条派・土佐派などあらゆるジャンルに精通している稀有の絵師』・『旦那芸などではなく門人を育て<抱一工房>として注文主の意向に適格に対処する絵所(工房)の主宰者としての統率力』など、それら面では、どうにも「殿様芸」という言葉を当てはめることは、やや無理筋ということになろう。

 上記の「作品解説」の中で、「四季の花鳥を二曲一双の画面に描き分けた本屏風の表現は、見ても分かるようにやや硬いというべきであろう」という指摘については、これは、上記の
「旦那芸などではなく門人を育て<抱一工房>として注文主の意向に適格に対処する統率者としての絵師の力量」に関連して、「抱一風(様式)の先鞭的な抱一作品(抱一個人色の強い作品)」か「その先鞭的抱一作品の亜流的作品(抱一工房色の強い作品)」との、その「抱一風(様式)のオリジナル性」との度合いによる「やや硬い」という、その「濃さの度合い」の問題と解したい。

 その上で、この「作品解説」の冒頭の「『江戸琳派』の推進者であった酒井抱一と弟子其一との関係は、ちょうど蕪村と呉春、応挙と芦雪、春章と北斎のそれとよく似ているように思われる。師の一種の”貴族”的抑制感覚に対する、弟子における”職人”的技巧の露出趣味である」ということは、抱一のこの種の作品については、「抱一の用人(付人)でもある弟子(助手)其一の手が加わっており、その両者の関係は、抱一の『”貴族”的抑制感覚』と其一の『”職人”的技巧の露出趣味』との絶妙な融合(コンビネーション)に因るというようなことを意味しているのかも知れない。

 ここで、この「”貴族”的抑制感覚」というのは、京都(平安時代)の「”公家貴族的抑制感覚」というよりも、江戸(徳川時代)の「”武家”貴族的抑制感覚」ということで、こと抱一の「”公家貴族的抑制感覚」というのは、抱一と極めて近い大名茶人の「松平不昧(公)」(越前松平家宗家七代目藩主)師筋に当たる大名茶人の元祖「小堀遠州(公)」(備中松山藩第二代藩主のち近江小室藩初代藩主)の、その茶道(遠州流茶道)の中核を為す「綺麗(きれい)さび」こそ、その抱一の「”武家”貴族的抑制感覚」の正体と解したい。

 この「綺麗さび」については、『原色茶道大辞典』(淡交社刊)や『建築大辞典』(彰国社刊)などの、主として「茶道の世界」や「建築・造園の世界」で使われる特殊用語扱いで、『日本国語大辞典』(小学館刊)にも、その項目はなく、まだ一般的には通用しない用語なのかも知れないが、次のアドレスの「ジャッパンナレッジ」のものが詳しい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

(上記の解説)

【「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。
 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。
 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。
 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

 「綺麗」という用語は漢語で、その「綺」とは「綾・綾絹」の「上品・品格」のあるものを表している。そして、「麗」とは「形がととのって美しい」ものを表す用語である。一方、「さび」という用語は和語で、「日本の美意識の一つの『わび・さび(侘・寂)』の「さび」で、一般的に質素で静かなものを表す」が、「連歌・俳諧、特に、蕉風俳諧で重んじられた理念で、中世の幽玄・わびの美意識にたち、もの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情が、洗練されて自然と外ににおい出たもの。閑寂さが芸術化された句の情調」などの意に用いられる。
 
 これらのことを、抱一の絵画の世界に当てはめると、この「綺麗さび」の「綺麗」は、抱一絵画が有する「絵画性・造形性」、そして、この「さび」は、抱一絵画が有する「文芸性・俳諧性」と捉えることが出来ないであろうか。
 具体的に、今回取り上げている「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵)を、「綺麗さび」の「綺麗」(絵画性・造形性)という視点と「さび」(文芸性・俳諧性)という視点で鑑賞していくと、次のようなことが浮き彫りになってくる。

一 四季(春・夏・秋・冬)の花鳥を、二曲一双の両隻(右隻=春・夏、左隻=秋・冬)に配置するということは、抱一特有の「綺麗さび」が、この構成配置から顕著に表れているとは思えない。これらのことは、上記「作品解説」中の「琳派の再生とはいいながら四条派の表現感覚を潜に取り入れていた抱一画の標準作と考えてよい」との指摘のとおり、抱一が樹立した画風(琳派=装飾性+四条派=写実性など)の標準的な世界(既に抱一画房に於いて様式化された世界)ということになろう。

二 これらを個々に見ていくと、右隻第一扇の「白梅と鶯」、右隻第二扇の「燕子花と水鶏」、
左隻第一扇の「尾花他秋草と月」、左隻第二扇の「雪・藪柑子と寒雀」などの取り合わせは、これまでに見て来た、抱一の「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)や「四季花鳥図巻」(東京国立博物館蔵)などで、既に様式化(意匠化・マニュアル化)されたものと解したい。

三 その上で、あらためて、上記「作品解説」中の、「師の一種の”貴族”的抑制感覚に対する、弟子における”職人”的技巧の露出趣味である」ということは、これをストレートに解すると、「師(抱一)の一種の”貴族”的抑制感覚(「綺麗さび」の感覚)に対する、弟子(其一)における”職人”的技巧の露出趣味(其一の「職人絵師的技巧を凝らした」=抱一の「綺麗さび」の「綺麗=絵画性・造形性)」の「露出気味」の作品である」と解することも、決して飛躍したものではなかろう。

四 として、上記の「作品解説」で触れていないこととして、上記の右隻(第一・二扇)の右(春)から左(夏)へ「金泥の水流(水紋)」、その左隻(第一扇)の「月」に掛かる「雲の文様」と化し、その第一扇から第二扇にかけての地上の「水紋」が、「寒雀」と組み合わさって「雲の文様」と化しているところに、抱一流の「綺麗さび」の「さび」(「文芸性・俳諧性=趣向)の一端が窺えるように思われる。



花鳥図巻冬三拡大.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(下=秋冬)』「冬(三)・拡大図」東京国立博物館蔵

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11  

これは、先に紹介した「四季花鳥図巻」の「雪を被った白梅と鶯」図の拡大したものである。これと、今回の冒頭の右隻(第一扇)の「白梅と鶯」図を比較すると、上記の「作品解説」中の「やや硬い」ということ、即ち、抱一の「綺麗さび」の「綺麗」(絵画性・造形性)のみが目立っている印象は拭えない。



四季花鳥図巻・蟻.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(下=秋冬)』「秋(五)・拡大図」東京国立博物館蔵

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-04

 これも、先に紹介した「四季花鳥図巻」の、「女郎花(枯)の茎に止まっている塵のような小さな『蟻』」の図である。こ「の「女郎花」は、冒頭の左隻の左の中央に描かれているが、その茎には、この「蟻」は描かれていない。この見えないような小さい蟻を描くというのは、いわゆる「師の一種の”貴族”的抑制感覚の『遊び』の世界」のもので、「抱一画房」に於いては、抱一だけが許される特権のようなものであろう。この種の抱一の「さび」(洒落・粋に通ずる)遊びの世界が、今回の「四季花鳥図屏風」(京都国立博物館蔵)には見られない。

七 この「四季花鳥図屏風」の左隻(第二扇)の白い一羽の白鷺は、その下部に描かれている藪柑子を覆っている土坡の白い雪に対応する「綺麗」(絵画性・造形性)を強調するもので、例えば、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)の白い二羽の白鷺(地上の白鷺と空中の白鷺)に比すると、ここにも抱一流の「さび」(俳諧性・自在性・対話性)などが希薄という印象が拭えないのである。

八 しかし、この「四季花鳥図」(二曲一双)は、全体として、「綺麗さび」(狩野派のような「重々しい」ものではなく、また、尾形光琳風の「デフォルメの度合いの強い破格風」のものではなく、「美しい・汚れがない・品のよさ(品格・気品・清浄)・粋(洗練・都市性)・艶(上品な艶やかさ)・バランスのよさ(調和性)」などの「綺麗さび」)、いわゆる抱一流の「綺麗さび」の世界であることは、繰り返すことになるが、その典型的な作品の一つと解したい。
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(五) [酒井抱一]

その五 「四季花鳥図屏風」の左隻(冬)

四季花鳥図屏風冬拡大二.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「左隻(四~六扇・冬)部分拡大図」

「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」の「冬」(左隻・四~六扇)の絵図である。
 この右側(四扇)の上部は、前(三扇)の続きの「秋」の草花で、「紅葉した漆・葛と葛の花・篠竹」などが描かれ、その下部には、前(三扇)の続きの「水流・土坡」、その土坡の左方には「冬」の雪が積もり、その上に「水仙」が咲いている。その上部(五~六扇)に二層の雪を被った土坡、その雪間に赤い実をつけた「藪柑子」、そして、その雪を被った土坡の上部に、「白梅と鶯」と枯木の「榛(はん)の木」が描かれている。
 落款は「文化丙子晩冬 抱一写於鶯邨画房」、印章は「雨華道人」朱文二重郭方印・「文詮」朱文瓢印である。この「文化丙子」は文化十三年(一八一六)で、その翌年の両年の年譜は、次のとおりである。

【文政十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作                 】

文政十四 一八一七 丁丑 五十七歳
元日 百花園にて観梅。
▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。
五月、建部巣兆の句集『曽波可理』に序文を記す。
六月十七日、小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る。(御一代)
■六月二十五日、鈴木蠣潭没(二十六歳)。(君山君積宛書簡・御一代は七月没とする)浅草松葉町正法寺(現中野区沼袋)に葬られる。抱一、辞世の句を墓の墓石に記す。(増補略印譜・大観)
鈴木其一(二十二歳)、抱一の媒介で、蠣潭の姉りよと結婚し、鈴木家を継ぐ。抱一の付人となり、下谷金杉石川屋敷に住む。(増補略印譜・大観)
十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する。  】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「酒井抱一と江戸琳派関係年表(松尾知子編)」)

 この二か年の年譜記事から、次のようなことが判明してくる。

一 「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)は、抱一のパトロンの流山(常陸に隣接した下総=千葉県流山市)の富商・「君山君積」のために制作した作品である。この「君山君積」は、享和元年(一八〇一)の年譜にも、「五月、君山君積の案内で、谷文晁、亀田鵬斎らと常州若芝の金龍寺に旅し、江月洞文筆『蘇東坡像』を閲覧する。(君山君積宛書簡)」に登場する。
これらのことに関連し、上記の二か年の年譜に出てくる「鵬斎・抱一・文晁」との交友などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-20

二 上記一の「君山君積宛書簡」関連では、文化十二年(一八一五)の年譜にも、「六月二
日、光琳百回忌、大塚村の庵居で法会を修し、付近の寺院で二日にわたり光琳遺墨展を開催。(君山君積宛書簡・雨華庵文庫・年譜考)」とあり、この「君山君積宛書簡」は、図68で紹介されている。その図録解説を下記に掲げておきたい。

【図68 酒井抱一 君山君積宛書簡 一巻 個人蔵
流山の富商、君山君積に宛てた五月十日の手紙で、文化十二年六月二日の光琳百回忌の展観の世話役を頼む内容である。自分が借り主となって故人の掛け物を百幅集めて展観したいので、是非是非世話人に就任して欲しい、そのため江戸へ一日も早く、遅くとも十五、六日までには来て欲しいと懇願している。 】(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)

 なお、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)によると、この光琳百回忌の「光琳遺墨展」(「出品目録」、抱一自筆の手控えもので一部焼失して不明箇所あり)に、「一(?)・・・竪物紙本 君山」とあり、光琳の遺墨作品を、その目録のトップに記載され、出品しているようである。また、「十八 大黒小幅 当日返却 文晁」は谷文晁蔵のものであろう。「二十 竹 南瓜」と「二十九 福禄寿 南瓜」の「南瓜」は、抱一のパトロンの吉原京町大文字屋二代市兵衛(狂名加保茶元成)であろう。この「加保茶元成」などについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-03

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23

三 「大沢永之のために『法華経普門品』を書写。永之これを刊行する」については、「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)に、「此年抱一大沢永之の為めに、妙法連華経観音菩薩普門一部を書す、永之之を印行して施本となす。永平寺愚禅和尚の序文、亀田鵬斎の跋文がある。ここで抱一と特殊の関係にあった大沢永之を紹介せねばならない。(以下、要約、尾形乾山の『紫翠』を号にしている。武州忍町行田の呉服商。江戸浅草茅町に別業に住し、その荘を『百花潭』と称す。その『百花潭』の額は抱一の書である。永之と抱一との交情は頗る厚く、抱一の事業を援けるところ多く、抱一もまた永之の為に製する作品が多い。又、抱一の鑑定に依って蒐集した光琳・乾山の作品を少なからず併蔵している。そして、それらを散せざるなど、稀有の名家である。天保十五年十月没、行年七十五。)
 さらに、此年の作品として、次の二点が記されている。

● 蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵
 文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房
● 四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵
   文化丙子晩冬      抱一写 於鶯邨画房

 上記の「蓬莱図」の所蔵者・大沢久三氏は、抱一のパトロンの大沢永之に連なる子孫の方
であろう。「四季花鳥図屏風」の所蔵者の神田鐳蔵氏は、昭和二年(一九二七)の抱一百年忌の展観当時の所蔵者であることについては、下記のアドレスで触れている。この作品の原所蔵者は、上記の文政十三年(一八一六)の年譜で、君山君積で、現在の所蔵者は陽明文庫であることも先に触れている。

 https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-06-18

四 ここで、これらの作品を制作した「槃礴(はんはく)画房」の「槃礴」は、『荘子』田子方篇の「槃礴解衣(はんはくかいい)」(真にその道を得たものは外を粧はぬの意)に由来する「抱一の画房(アトリエ)」と「抱一と門弟の工房(協同・共同制作所)」との両意があるものと解したい。そして、「鶯邨画房」は、「槃礴画房」と同じく、文化六年(一八〇九)に転居してきた「下谷根岸大塚村(後の「雨華庵」の住居)の「鶯の里の画房(アトリエ)」で、「抱一の(個人的)画房(アトリエ)」というよりも、「抱一と門弟の工房(協同・共同制作所)」の意が強いものであると解したい。

五 これらのことに関して、これまでに触れてきた、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)と「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)、そして、「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間と出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間などとを重ね合わせると次のとおりとなる。

●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

六 ここで重要なことは、これらの「槃礴画房」「鶯邨工房」、そして、そこでの作品というのは、「抱一と門弟(抱一の酒井家の用人=付け人・鈴木蠣潭他の門人)」との位置からすると、「酒井家の禄を育んでいる殿様絵師・抱一(「千石五十人扶持」=大名の縁戚に連なる地位を維持する石高=年収「千万円」単位より「億円」単位に近い?)と、その抱一をサポートする、本家の酒井家が遣わしている抱一専用の用人(お抱え絵師)鈴木蠣潭(「(等覚院殿)御一代」は、その有力な助手と解して差し支えなかろう。蠣潭は「十三人扶持」(十三人を賄える米代相当?)で、蠣潭の夭逝(二十六歳)の跡を継いだ鈴木其一(二十二歳)は「九人扶持」だが、後に、酒井忠学(ただのり)に嫁いだ第十一代将軍・家斉の息女・喜代姫から医師格に昇進を許され、別途「三十人扶持」を賜っており、抱一没後も其一は酒井家のお抱え絵師の地位を有していたのであろう。
 蠣潭の別号に「必庵」があり、この号は蠣潭没後、其一が継いでいる。

【 百図之事今日奴にてとかけ合候処 光琳忌に間合ひ候つもり出来候まゝ 板下の処明日よりおこたりなく板下御認可被下候 是非とも光琳忌に間に合申度候 其思召にて板下奉頼候 此段申入度早々 以上 十五日 明日のけたいなく奉頼候
 必庵主人  鶯  】
(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』所収「必庵宛 酒井抱一書簡」)

 これは、文化十二年(一八一五)六月に開催した「光琳百回忌光琳遺墨展」に配付する予定で刊行を進めていた『光琳百図』(記念光琳縮図集=約百点)の板下制作の督促を、必庵宛(蠣潭存命中であり、この書簡は蠣潭宛てのものであろう)に送った「鶯(邨)」(抱一)の書簡である。実際には、開催中には間に合わず、この年の秋頃に完成して、主だった方々に配ったのであろう(この年、蠣潭は二十四歳で、其一は二十歳、其一が抱一の内弟子になったのは十八歳の時で、この『光琳百図』の縮図制作には其一も戦力になっているのであろう)。『光琳百図』は、文政九年(一八二六、抱一・六十六歳、其一・三十一歳、鶯蒲・十九歳)に後編が刊行され、その時に前編も改めて刊行されたようで、これらが、今日に現存し、その全容を、下記のアドレスなどで閲覧することが出来る。

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f3=%E5%85%89%E7%90%B3%E7%99%BE%E5%9B%B3&enter=portal

 なお、鈴木蠣潭については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-24

七 鈴木蠣潭が亡くなった文化十四年六月二十五日の十二日前の、六月十七日に、「小鸞女史(御付女中・春篠)剃髪し、妙華尼と名乗る(御一代)」と、蠣潭は、抱一と小鸞女史が同じ屋根の下で暮らすのを見届けるかのように夭逝する(二十六歳)。そして、小鸞女史もまた、酒井家側からすると、抱一用人(酒井家付人)の蠣潭と同じく、抱一御付女中(酒井家御付女中)で、その名も「春篠」なのである。即ち、酒井家にとって、抱一は一代限りであって、抱一没後は、例えば、この翌年(文政元年=一八一八)に「妙華尼(小鸞女史)」の養子になった「酒井抱一(画人)の二代目・酒井鶯蒲」は、大名家の「酒井家」とは、何らのかかわりもないということになる。これらの周辺については、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%B0%8F%E9%B8%9E%E5%A5%B3%E5%8F%B2

八 この「文化十四年(一八一七)」には、「十月十一日、庵居に「雨華庵」の額を掲げる、以来、「雨華」の号を多用する」と、これまでの、「槃礴画房」・「鶯邨画房」から「雨華画房(工房)」への変遷を告げるスタートの年なのであろう。この「雨華庵」の額の揮毫者は、抱一の甥に当たる、当時の酒井家当主・酒井忠実のものである。この額の裏面に次の文字が刻まれている。

【 文化十四年丁丑十一月十一日乙巳書之 従四位下行雅樂頭源朝臣忠実 】(「抱一上人年譜稿(考)」(『相見香雨集一』所収)

この「雨華庵」関連については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15

九 「雨華庵」の号は、この文化十四年(一八一七)以降からのもので、「此年以前に雨華庵と書いたものは見当たらない」(「相見・前掲書)ということで、すると、この号は抱一が亡くなる文政十一年(一八二八)までの、晩年の十一年間のものということになる。この雨華庵の抱一の門下には、雨華庵二世となる酒井鶯蒲、抱一の実質的な後継者・鈴木其一、其一と並ぶ抱一の高弟・池田孤邨、抱一の最晩年の弟子・田中抱二等々の俊秀が集うことになる。この「雨華庵画房(工房)」での、必庵(其一)等の、抱一の代筆などに関しては、次のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27

(再掲)

【(前略)此四枚、秋草、何かくもさつと代筆、御したため可被下候、尤いそぎ御座候間、その思召にて、明日までに奉頼入候  十二日  抱(注・抱一)  必庵 几下 】
(『日本絵画の見方(榊原悟著)』所収「酒井抱一書状巻(ミシガン大学蔵)」)


これらのことに関して、「抱一筆十二か月花鳥図考」(『琳派 響き合う美(河野元昭著)』所収)で、この「酒井抱一書状巻(ミシガン大学蔵)」をより詳しく紹介し、次のような見解を示されている。

【 この書簡集には、ほかにもあい似た内容の書状が含まれている。現在まで、これらは単に手伝い、下絵制作、代筆の存在を示すもの、あるいは芸術的良心の問題として考えられてきた。そして、関心はもっぱら宛名の必庵が、弟子鈴木其一を指すものか、あるいはその養父蠣潭かとい点に向けられてきた。しかし、これはもう立派に工房制作と呼んで差し支えないのではなかろうか。これらの書簡は、抱一が弟子を統括し、その様式のもとに制作を指揮していたことを示している。これらに抱一の落款が加えられ、あくまでも抱一の作品として発表され、依頼主に売却されたことは、改めていうまでもないであろう。そもそも、ヨーロッパ美術における工房とは、芸術家や職人などが制作する部屋や仕事場を意味し、転じて、何らかの共通の基盤あるいは方針のもとに制作する芸術家や職人の集団を指す語である。わが近世絵画史において、宗達工房とか又兵衛工房とかいうのは、ヨーロッパ美術史の工房概念を適用したものにほかならない。抱一の場合も、抱一様式に収斂する共通の基盤や方針があったことは明らかであり、必庵が抱一のもとに出かけて一緒に制作していることは、工房の源義である仕事場のもつ語感とも、よく通い合っているといえよう。(以下略)  】
((『琳派 響き合う美(河野元昭著)』所収)「抱一筆十二か月花鳥図考」)



飛鴨図.jpg

尾形光琳筆「飛鴨図」一幅 山口蓬春記念館蔵
【 光琳水墨画の代表的作例で、抱一と交流があり抱一画のほか光琳・乾山の作品を多く伝えた大沢家旧蔵になる。『光琳百図』(後編上)にも収載されたこの図には、抱一による箱書や折紙が「副書」として自筆包紙とともに備わっている。書体や状況から文政五年のものと思われ、光琳画に係る抱一の活動が明快に知られる一例である。日本画家の山口蓬春(一八九三~一九七一)が入手し、その作品にも生かされた。(「図版解説・松尾知子稿)

抱一は、「飛鴨図 尾形光琳筆」と箱書し、極書には「光琳筆一/隻鳬図 但紙本/各審定作/處真蹟疑論/無之者也/午十月十五日/抱一暉真」とした。
「武州行田百花潭大沢家目録」には、本図のほかにも、抱一の箱書があるという作品が多く掲載されている。光琳・乾山に限らず雪舟の山水から、探幽、松花堂、一蝶の絵、西行の和歌や、遊女高尾の短冊など幅広い。抱一の箱書を逐一求めたのであろう大沢永之との関係にとどまらず、絵師の中でも抱一がする箱書、共箱などの多さ、その意識的な行為には注目したいところである。(作品解説・松尾知子稿)    】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収)』)

 この光琳筆「飛鴨図」の抱一の鑑定書(極書=きわめがき)が、文政五年(一八〇八)作とすると、文化十二年(一八一五)に開催された「光琳百回忌光琳遺墨展」にも、この光琳の水墨画は出品されたものと解して置きたい。そして、抱一は、光琳などの作品の鑑定を依頼される場合が多く、この遺墨展に配付した『光琳百図』(光琳画縮図集)なども、それらの鑑定用の意図もあることであろう。
 そして、光琳百回忌関連の「法会・遺墨展・『光琳百図』『尾形流略印譜』の刊行・『光琳百回忌百幅』関連の制作」において、抱一の有力な助手が「鈴木蠣潭・其一」で、さらに、抱一の有力な支援者(パトロン)が、武州行田の「松沢永之」(江戸浅草茅町の「百花潭」住)と常州流山の「君山君積」の二人ということになろう。
 ここで、この「まとめ(一~十)」のスタートに記した、光琳百回忌の諸行事が終わった翌年の、文化十三年(一八一六)の年譜の記事を再掲して置きたい。

(再掲)

【文政十三 一八一六 丙子 五十六歳
正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)
大沢永之のために「法華経普門品」を書写。永之これを刊行する。
君山君積のために「四季花鳥図屏風」(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載。 
▼秋、「柿図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)制作。
▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)制作 】

 この年譜の「正月、七世市川団十郎、亀田鵬斎、谷文晁らあつまり、扇の書画して遊ぶ。(句藻「遷鶯)」関連については、下記アドレスの(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」の関連メモで触れている。また、その翌年の「文政十四 一八一七 丁丑 五十七歳 元日 百花園にて観梅。▼二月、『鶯邨画譜』を刊行。加茂季鷹序(前年)、鞠塢題詩。」に関連しての「佐原鞠塢」についても、「(抱一と佐原鞠塢=きくう・「向島百花園」)」の関連メモで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-10  

ここで再掲した、年譜記事の「大沢永之のために『法華経普門品』を書写。永之これを刊行する」と「君山君積のために『四季花鳥図屏風』(六曲一双)を描く。『抱一上人真蹟鏡』に掲載」の、この「大沢永之のために『法華経普門品』を書写」と「君山君積のために『四季花鳥図屏風』(六曲一双)を描く」とは、抱一の、「大沢永之と君山君積」への、「光琳百回忌の記念行事」が終わって、両者に対するお世話になったことの返礼のものと解したい。

十一

柿図屏風.jpg

酒井抱一筆「柿図屏風」二曲一双 紙本着色 ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
一四五・一×一四六・〇cm 落款「丙子暮秋 抱一暉真」 印章「文詮」朱方印
文化十三年(一八一六)作
【 (前略) 324図(注・上記の「柿図屏風)は、そうした抱一の柿図を代表する一点。左下から右上へ対角線に沿って枝を伸ばした柿の木を描く。葉もすでに落ち、赤い実も五つばかりになった、秋の暮れのもの寂びた景であるが、どこか俳味が感じられるのは、抱一ならではの画趣といえよう。落款より文化十三年(一八一六)、彼の五十六歳の作と知れる。(後略)    】(『琳派二・花鳥二(紫紅社刊)』所収「作品解説(榊原悟稿)」)

 これが、上記の十で再掲した年譜の「▼秋、『柿図屏風』(メトロポリタン美術館蔵)制作」の「柿図屏風」である。この原所蔵者は、例えば、抱一の無二の地方の支援者(パトロン)の「大沢永之と君山君積」とのお二人に限定するならば、「尾形乾山五世(?)」を名乗っている「大沢永之」の旧蔵品としても何らの違和感を無いような雰囲気を有している。
 として、もう一つの、「▼冬、『四季花鳥図屏風』(陽明文庫蔵)制作」の、旧(原)所蔵者が「君山君積」であることは、これまた、何らの違和感も覚えないような雰囲気を有しているのである。そして、この「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)は、極めて、装飾的な琳派の立役者の、乾山の実兄の「尾形光琳」的世界のものということになろう。
 ここで、上記の五の次の模式図を再掲して置きたい。

(再掲)

●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

 そして、この模式図に、「尾形乾山流の『艶(やさ)隠者的世界』」と「尾形光琳流の『豪奢華麗・耽美的世界』とを追加(再々掲)して置めきたい(追加項目は▼印である)。

(再々掲)


●蓬莱図 絹本設色大立物  大沢久三氏蔵 → 大沢永久旧蔵
  文化丙子年春清明後一日 抱一写 於槃礴画房

「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)→出家僧などの庵居(隠遁的詫び住い)の白屋的空間 → 「槃礴画房」での作品

▼『柿図屏風』(メトロポリタン美術館蔵

「尾形乾山流の『艶(やさ)隠者的世界』」


●四季花鳥図屏風      神田鐳蔵氏蔵(現・陽明文庫蔵)→君山君積旧蔵
  文化丙子晩冬      抱一写 於槃礴画房

「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)→「大名屋敷(上屋敷・中屋敷)の朱門的空間 → 「鶯邨画房」での作品

▼冬、「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)

「尾形光琳流の『豪奢華麗・耽美的世界』
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(四) [酒井抱一]

その四 「四季花鳥図屏風」の左隻(秋)

四季花鳥図屏風秋拡大.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(左隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「左隻(一~三扇・秋)部分拡大図」

 「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「左隻には、秋の竜胆、桔梗、薄、女郎花、漆、葛、篠竹に、雉と鴫がいる。冬は水仙、白梅に鶯、榛(はん)の木、藪柑子である」の「秋」(左隻・一~三扇)の絵図である。

花鳥巻秋一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035821

花鳥巻秋二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(二)」東京国立博物館蔵
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花鳥巻秋三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(三)」東京国立博物館蔵
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花鳥巻秋四.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「秋(四)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035824

 「四季花鳥図巻」の「秋」(上記の一・二・三・四)の景物は、「紅白萩、鈴虫、あおじ、満月、がんぴ、朝顔、綿とその花、蓼、木槿、鶏頭、水引草、紅芙蓉、菊戴、かまきり、白菊、苅萱、公孫樹(いちょう)の葉、楓、嫁菜(野菊)、赤啄木鳥(あかげら)、いしみかかわ、櫨(はぜ)の葉」などである(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

 ここで、「抱一再評価の直接的契機となったのは、昭和四十七年、東京国立博物館の創立百周年を記念として開催された『琳派』展で、出陳された二十四点の作品は、宗達とも光琳とも異なる抱一の魅力をたっぷりと味わわせてくれた。このころから、抱一によって確立された江戸の琳派をとくに江戸琳派と呼ぶようになったのも、このように抱一に対する関心の高まりと無関係ではありえない」(「抱一筆 十二か月花鳥図考(河野元昭稿)」(『国華』一一七五号<国華社、一九九三年>)→『琳派 響きあう美(河野元昭著・思文閣刊)・(第二十三章)』)との、その「江戸琳派(抱一再評価)」の導火線となった、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)』(図録)の、両者(「四季花鳥図屏風」と「四季花鳥図巻)」の「作品解説」を掲げて置きたい。

【 「207 四季花鳥図屏風 酒井抱一  六曲一双 陽明文庫 
抱一は四季の花鳥を大画面によく描く。この図は向かって右から春夏秋冬の草木を配し、その要所に、雲雀(ひばり)・白鷺・雉子(きじ)を遊ばせている。しかも、図の平明化を避けるために、草花の色彩効果を示し、濃緑の土坡(どは)には春草、雪の土坡には梅や藪柑子を描き、濃群青の流れは図を清らかに締めている。右隻の落款「文化丙子<1816>晩冬」により彼の五十六歳の作である。」

「225 四季花鳥図巻 酒井抱一 二巻 本館(東京国立博物館)
二巻よりなるこの「草花図巻」は写生的なところがある。図のつながりがいかにも巧みに構成されて、見事な四季草花・鳥の図巻としての体裁を保っている。品格の高い画調と色彩感豊かな色面の展開は抱一の画境の高さを示すもので、かれの傑作に数えられる。下巻巻末に、「文化戌寅<1818>晩春、抱一暉真写之」とあり、五十八歳の作。」  】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』)

 この「四季花鳥図屏風」の落款を仔細に見ると、「文化丙子晩冬 抱一写於鶯邨画房」とあり、文化丙子(文化十三年=一八一六)、抱一、五十六歳当時は、庵居に「雨華庵」の額を掲げる一年前のことで、その庵居は「鶯邨画房」であったことが窺える。この落款を加味するならば、この「四季花鳥図屏風」(六曲一双)は、抱一の「鶯邨画房」時代の頂点を示すものと理解することも可能であろう。
 その二年後の、抱一、五十八歳時の、「四季花鳥図巻」(二巻)は、その落款は「「文化戌寅晩春、抱一暉真写之」であるが、その印章には「雨華」(朱文内鼎外方印)が捺印され、それを活かすと、この作品は、抱一の最後に到達した「雨華庵(画房)」時代の、「抱一の画境の高さを示すもので、かれの傑作に数えられる」作品ということになろう。
 この「四季花鳥図巻」制作後の、三年後、文政四年(一八二一)、抱一、六十一歳時に、抱一の最高傑作作品の、「夏秋草図屏風」(東京国立博物館蔵)・「同下絵」(出光美術館蔵)が完成し、それらは制作依頼主の一橋治済(第十一代将軍徳川家斉の実父)に提出されることになる。

夏草図屏風一.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)東京国立博物館蔵 重要文化財
一七五・三×三四〇・四㎝(各隻)
【 「206 夏秋草図屏風 酒井抱一 二曲一双
銀地に風雨にさらされた夏・秋の野の光景を描く。驟雨にぬれた色増す薄・昼顔・百合・女郎花と流水。一方、吹きすさぶ野分の風に、蔦の葉や薄がなびき、それにからまった野葡萄の紫と女郎花の黄がまばゆく、風にとび散った葡萄葉の紅葉が鮮やかである。両双の静と動の対照がまことに巧みで、抱一芸術の頂点を示す傑作である。」  
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』)

「71 夏秋草図屏風 酒井抱一 二曲一双 紙本銀地著色
 どんな画家でも、その画家の評価を決定するマスター・ピースをもっている。抱一にとってこの「夏秋草図」は、やはり畢生の大作の名に値する草花絵の名品である。めぐまれた家庭環境、二十歳代の華々しい時代の最先端をゆく粋人ぶりから、兄との死別、出家と変転する人生。光琳画との出会いは、おそらくかなりの若年に遡ると思われるのだが、絵画のなかにその影響が明瞭に現われてくるのは、三十歳代以降である。とりわけ、文化末~文政初期は、光琳画との対決にファイトを燃やした時期であったようであり、この作品も文政三~六年(一八二〇~二三)ごろが制作時期と推察される。光琳の「風神雷神図」(東京国立博物館第四巻所収)の裏面に俳諧の付合のごとき手法で描き合わせる趣向のおもしろさ。しかも裏面で展開された世界は、奥深い銀地空間のなかでうなだれ、吹き上げられる草花の抒情の美学であり、それは遠く平安時代の情趣豊かな大和絵景物画の伝統につらなってゆく。光琳画の重く緊張した風神、雷神からリリカルな草花のドラマチックな転換をみるにつけ、趣向がそのまま創造を意味していた時代の自由闊達さがしのばれる。」(『琳派一 花鳥一(紫紅社)』所収「作品解説・玉蟲敏子稿」) 】 

 この抱一の最高傑作作品「夏秋草図屏風」については、下記のアドレスなどで取り上げいる。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-28 ]

抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26 ]

酒井抱一(その五)「抱一の代表作を巡るドラマ」

 ここで、視点を変えて、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)と「褻(け)の空間」
(私的な「日常の空間)とを、抱一が十代を過ごした酒井家(酒井雅樂頭家)の「上屋敷」(江戸城大手門の斜向かいの一角、この大手門を「中国漢代の未央宮の門」に擬して「金馬門」と称し、抱一の第一句集「こがねのこま」は、その大手門に由来する)は、さしずめ、
「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)の典型的な空間で、上記の、光琳の金地に描いた「風神雷神図屏風」とその裏面に銀地を施して描いた抱一の「夏秋草図屏風」は、この空間が最も相応しいであろう。
 大名家の「上屋敷」が、江戸城に近く、大名の政務を司る主要な屋敷とすると、「中屋敷」は、隠居した大名や成人した後嗣などの屋敷で、酒井家の中屋敷は、日本橋界隈の蠣殻町にあり、その近くの箱崎川に因んで、抱一は「筥崎舟守(はこざきのふなもり)」と称して、抱一は、その中屋敷の主であることを標榜していた。抱一の第二句集「梶の音」は、その箱崎川や日本橋川を往来する舟の梶音に由来しているようである(『日本史リブレット 酒井抱一(玉蟲敏子著)』)。
 この酒井家の蛎殻町の中屋敷の空間もまた、その上屋敷と同じく「朱門=大名屋敷」の、「晴(ハレ)の空間」(公的な「飾りの空間)で、上記の「四季花鳥図屏風」(陽明文庫蔵)に相応しい空間ということになろう。
 抱一が、この酒井家の中屋敷を出るのは、寛政二年(一七九〇・抱一、三十歳)実兄の酒井家当主・忠以(ただざね)の急逝(三十六歳)後の三年後のことで、それは酒井家の嫡流体制の確立と傍流(抱一)の排除ということと無縁ではなかろう。そして、抱一は、寛政八年(一七九六、三十六歳)、『江戸続八百韻』を刊行し、江戸座俳諧宗匠として独り立ちし、その翌年に出家し、「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせいきしん)」の法号を得て西本願寺の門徒としての生涯を送ることになる。すなわち、「朱門=大名屋敷」から「白屋=詫び住い」へと「艶(やさ)隠者」(武家の身分を捨て「出家僧・俳諧師・画人」としての一市井人として隠遁的姿勢を貫く)の生活を全うすることになる。抱一にとって、この空間こそ「褻(け)の空間」(私的な「日常の空間)であって、ここには、上記の「四季花鳥図巻」が最も相応しいように思われる。
 翻って、これらの「四季花鳥図屏風」から「四季花鳥図巻」、そして、「夏秋草ず屏風」への軌跡は、一口に換言するならば、抱一より百年前の憧憬して止まない尾形光琳、そして、その実弟の乾山へのオマージュ(崇敬の念の表意)ということになるが、同時に、「光悦・宗達・光琳・始興・乾山」等々の京都を中心とする「京都琳派」から、抱一その人を中心としての「江戸琳派」への変遷を告げるものでもあった。
その変遷過程を中心に据えた「琳派展」こそ、先に紹介した、昭和四十七年(一七九二)の、東京国立博物館の創立百周年を記念として開催された『琳派』展ということになる。
その「江戸琳派(抱一再評価)」の導火線となった、『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)』(図録)の、その「序」(千沢梯治稿)の末尾のところを抜粋して置きたい。

【 風流人抱一は俳諧の「季」の絵画化を発想の根底とし、みがかれた鋭敏な感覚により、簡潔でまとまりのある瀟洒な装飾画を高貴なマチエールによって品格高く仕上げいるが、光琳の様式に深く傾倒しながらもその亜流化を厳然と拒否した見識は流石である。
(中略)
 宗達にとって古画は図形の宝庫であって意味内容は二次的な関心しか持っていない。光琳は古典に専ら作画のイメージを求める古典の感覚化の度合は著しい。抱一は感覚的に捉えた自然のイメージを文学的情操によってさらに美化し、琳派の色感を継ぎながら写生の妙技を示した。
 このように琳派は、その世代によって追及と発展の方向はさまざまであるが、かかる具象的な装飾様式の展開をたどることによって、おのずから芸術史上の位置を明らかにしている。 】
(『創立百年記念特別展「琳派」(東京国立博物館)図録』所収「序(千沢梯治稿)」)
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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(三) [酒井抱一]

その三 「四季花鳥図屏風」の右隻(夏)

四季花鳥図屏風夏拡大.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「右隻(四~六扇・夏)部分拡大図」

「作品解説」中の、「続いて夏の花、牡丹、鬼百合、紫陽花、立葵、撫子、下の方には河骨、沢瀉、燕子花に、やはり白鷺が二羽向き合い、水鶏も隠れている」という、右隻の第三扇(左半面)と第三扇~第六扇の絵図である。
 この「作品解説」の草花で、上記の絵図を見ていくと、右端(第三扇の半面)の上部に「牡丹」(初夏の季語)、その左下から順に、「鬼百合(仲夏の季語)・紫陽花(仲夏の季語)・立葵(仲夏の季語)・撫子(初秋の季語)」、この草花群の下に、右から順に、「沢瀉(仲夏)・河骨(仲夏)・燕子花(仲夏)」が描かれている。
 この「沢瀉」と「河骨」の間に、黒っぽい「水鶏」(三夏の季語)、「河骨」と「燕子花」との間に左向きの「白鷺」(第四扇)、第六扇の「撫子」の上に、飛翔している右向きの「白鷺」(三夏の季語)が描かれている。

牡丹(ぼたん)「初夏・(ぼうたん、深見草、富貴草、白牡丹、牡丹園))」
 形見とて見れば嘆きのふかみ草なになかなかのにほひなるらん 藤原重家「新古今集」
 牡丹蘂ふかく分出る蜂の名残哉     芭蕉 「野ざらし紀行」
 いにしへのならの都の牡丹持      其角 「其角発句集」
 牡丹散つてうちかさなりぬ二三片    蕪村 「蕪村句集」
 牡丹切て気の衰へし夕かな       蕪村 「蕪村句集」
 閻王の口や牡丹を吐かんとす      蕪村 「蕪村句集」
 地車のとゞろとひゞく牡丹かな     蕪村 「蕪村句集」
 低く居て富貴をたもつ牡丹かな     太祇 「太祇句選」
 扇にて尺を取りたる牡丹哉       一茶 「八番日記」
 美服して牡丹に媚びる心あり      子規 「子規全集」

百合の花(ゆりのはな)「仲夏・(鬼百合、鉄砲百合、笹百合、姫百合、車百合、山百合、鹿の子百合、透百合、白百合)」
 夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ 坂上郎女「万葉集」
 百合の花折られぬ先にうつむきぬ    其角 「其角発句集」
 飴売の箱にさいたや百合の花      嵐雪 「玄峰集」
 ひだるさをうなづきあひぬ百合の花   支考 「喪の名残」
 かりそめに早百合生けたり谷の房    蕪村 「蕪村句集」

紫陽花(あじさい、あぢさゐ)「仲夏・(かたしろぐさ、四葩の花、七変化、刺繍花、瓊花)」 
 飛ぶ蛍ひかり見え行く夕暮にまほ色残る庭にあぢさゐ 衣笠内大臣「夫木和歌抄」
 紫陽花や藪を小庭の別座敷       芭蕉 「別座鋪」
 紫陽花や帷子時の薄浅黄        芭蕉 「陸奥鵆」
 あぢさゐを五器に盛らばや草枕     嵐雪 「杜撰集」
 あぢさゐに喪屋の灯うつるなり     暁台 「暁台句集」
 あぢさゐや仕舞のつかぬ昼の酒     乙二 「乙二発句集」

葵(あおい、あふひ)「仲夏・(葵の花、花葵、銭葵、蜀葵、立葵、つる葵、白葵、錦葵)」
 葵草照る日は神の心かは影さすかたにまづなびくらん 藤原基俊「千載集」
 酔顔に葵こぼるる匂ひかな       去来 「有磯海」
 抱きおこす葵の花やさ月ばれ      蝶夢 「草根発句集」
 日に動く葵まばゆき寝覚かな      闌更 「半化坊発句集」
 葵草むすびて古きあそびかな      樗良 「樗良発句集」
 明星に影立ちすくむ葵かな       一茶 「享和句帖」
 鶏の塀にのぼりし葵かな        子規 「子規句集」

撫子(なでしこ)「初秋・(大和撫子、川原撫子、常夏)」
 萩の花尾花葛花瞿麦(なでしこ)の花をみなへしまた藤袴朝顔の花 山上億良「万葉集」
 酔うて寝むなでしこ咲ける石の上    芭蕉 「栞集」
 なでし子にかゝる涙や楠の露      芭蕉 「芭蕉庵小文庫」
 かるがると荷も撫子の大井川      惟然 「けふの昔」
 かさねとは八重撫子の名なるべし    曾良 「奥の細道」

沢瀉(おもだか)「仲夏・(面高、花慈姑、生藺)」
 破れ壺におもだか細く咲きにけり    鬼貫 「大丸」
 沢瀉や花の数添ふ魚の泡        太祇 「太祇句選」
 沢瀉は水のうらかく矢尻かな      蕪村 「落日庵句集」

河骨(こうほね・かうほね)「仲夏・(かはほね)」
 河骨の終にひらかぬ花盛り       素堂 「いつを昔」
 河骨の二もとさくや雨の中       蕪村 「蕪村句集」
 河骨の金鈴ふるふ流れかな       茅舎 「華厳」

杜若(かきつばた)「仲夏・(燕子花、かほよ花、白かきつばた)」
 唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ 在原業平「伊勢物語」
 杜若語るも旅のひとつ哉        芭蕉 「笈の小文」
 杜若われに発句の思ひあり       芭蕉 「千鳥掛」
 有難きすがた拝まんかきつばた     芭蕉 「泊船集」
 杜若にたりやにたり水の影       芭蕉 「続山の井」
 朝々の葉の働きや燕子花        去来 「俳諧古選」
 宵々の雨に音なし杜若         蕪村 「蕪村句集」

水鶏(くいな、くひな)「三夏・(緋水鶏、姫水鶏、水鶏笛、水鶏たたく)」
 水鶏だに敲く音せば槙のとを心遣にもあけて見てまし 和泉式部「家集」
 水鶏啼くと人のいへばや佐屋泊まり   芭蕉 「有磯海」
 この宿は水鶏もしらぬ扉かな      芭蕉 「笈日記」
 関守の宿を水鶏にとはうもの      芭蕉 「伊達衣」
 夜あるきを田は寝ざりける水鶏かな   其角 「五元集捨遺稿」
 桃燈を消せと御意ある水鶏かな      蕪村 「落日庵句集」
 水音は水にもどりて水鶏かな    千代女 千代尼発句集」


白鷺(しらさぎ)「三夏・(こぼれ鷺・青鷺)」
 夕風や水青鷺の脛をうつ       蕪村 「幣袋」
 白鷺もこえて上野の杜涼し      子規 「子規全集」

花鳥巻夏一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

花鳥図巻夏二.gif

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035818

花鳥巻夏三.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(三)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035819

 四季花鳥図巻」の草花は、上記の「夏(一)」は、「辛夷(仲春の季語)・姫百合(仲夏の季語)・麦の穂(初夏の季語)・罌粟(初夏の季語・紫陽花(仲夏の季語)」、その「夏(二)」は、「紫陽花・松葉牡丹(晩夏の季語)・鉄線花(初夏の季語)・芍薬(初夏の季語)」、その「夏(三)」では、「沢瀉(仲夏の季語)・河骨(仲夏の季語)・燕子花(仲夏の季語)」が描かれている。この「河骨」の後ろに、冒頭の「四季花鳥屏風」(右隻の第四扇)の「水鶏」が居る。この水鶏は「鷭(ばん)」で、「四季花鳥図」(右隻の第四扇)の水鶏も「鷭」であろう。

芦に白鷺一.jpg

酒井抱一筆「十二ヶ月花鳥図屏風」(六曲一双)の「左隻(第五扇)」(十一月)
「芦に白鷺図」(出光美術館蔵)
http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-660.html

 抱一の「十二ヶ月花鳥図」は、次の六種類のものが挙げられる(「酒井抱一」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

一 宮内庁三の丸尚蔵館蔵 絹本著色 十二幅 1823年(文政6年)
「十二か月花鳥図は、抱一晩年に複数制作された代表作。三の丸尚蔵館本には文政6年(1823年)の年紀があり、基準作として重要。出光や香雪本以外は掛軸12幅のセットだが、製作当初は全て絹本著色の六曲一双屏風に貼られていたと推定され、元は一具だったものが複数の所蔵先に分蔵されている例もある。「十二か月花鳥図」は藤原定家が「詠花鳥倭歌 各十二首」として各月を象徴する植物と鳥を選び和歌に詠んだ趣向(『拾遺愚草』収録)を、後世組み合わせて画題としたもの。江戸初期から狩野派や住吉派で描かれ、尾形乾山の作品にも見られる。抱一もこうした先行作に触発されたと思われるが、新たなモチーフに入れ替えたり対角線や曲線を多用するなどの工夫を凝らし、余白を生かした動きに富む花鳥図を生み出した。中には弟子の代作と見られる構図に纏まりのない作や緊張感のない緩んだ筆致も見られるけれども、伸びやかな描線や的確な写実など、抱一が最後に達した画境を示している。」→ ※十一月(水辺の白鷺・枯れ芦・小菊・山帰来)
二 畠山記念館蔵 絹本著色 十二幅 ※十一月(水辺の白鷺・鴛鴦・枯れ芦)
三 出光美術館蔵 絹本著色 六曲一双押絵貼(屏風)→※※十一月(水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊)
四 香雪美術館蔵 絹本著色 六曲一双押絵貼(屏風)→※十一月(木菟・雀・四十雀=四羽)
五 心遠館蔵  絹本著色 十二幅→※※十一月(水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊)
六 ファインバーグ・コレクション蔵 絹本著色 十二幅→※十一月(水辺の禽) 

 この他に、「亀田綾瀬賛」(亀田綾瀬は鵬斎の一子で江戸末期の儒学者)がある「諸家分蔵」のものがある(十二幅のうち五幅が現存する)。

七 諸家分蔵(亀田綾瀬賛) 絹本著色 → ※※十一月(水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊)

 上記の「芦に白鷺図」は、この「三 出光美術館蔵 絹本著色 六曲一双押絵貼(屏風)」の「左隻(第五扇)」(※※十一月=「水辺の白鷺・飛翔の白鷺・枯れ芦・小菊」)のものである。この図柄と全く同じものが、「五 心遠館蔵」(※※十一月)と「七 諸家分蔵(亀田綾瀬賛)」(※※十一月)で、以下に掲載をして置きたい。

芦に白鷺二.jpg 

酒井抱一筆「十二ヶ月花鳥図」(十二幅)のうちの「十一月(芦・菊・鷺)」
心遠館蔵(プライスコレクション) 各一四〇・〇×五〇・〇cm
【 一幅に一か月ごと、それぞれの季節の花と鳥または虫が組み合わされ描かれています。二幅ずつ対となる空間構成で、植物はのびやかに、鳥や虫は愛らしく配されています。】
(『東日本大震災復興支援 若冲が来てくれました(日本経済新聞社)』)

芦に白鷺三.jpg

酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 「枯芦に白鷺図」 一幅 山種美術館蔵
一四二・〇×五〇・二cm
【 もと図一六四(桜に小禽図)、図一六五(菊に小禽図)と同じく十二ヶ月花鳥図のセットの内の一図で、十一月の図とみられる。枯芦に鷺図は室町以来の水墨画でよく描かれ、江戸狩野や京琳派にも作例は多い。『光琳百図』前編の下には、「紙本六枚折屏風墨画鷺之図」としてさまざまな姿の白鷺図が紹介されており、抱一はそうした先行図様を組み合わせたのだろう。さらに雪の降りかかる枯芦を大きく斜めに配して季節感の表出に工夫を加えた。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」)

【「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図」 
 十二ヶ月花鳥図の中でも最晩年の作。三図はもと同じ十二ヶ月花鳥図屏風を成していた。他に同屏風より「牡丹に蝶図」(フリア美術館蔵)「柿に目白図」(ファインバーグコレクション)が知られる。掛軸に改装する際、画面の一部を裁ち落としている図もあり、本来はもう少し大きい画面であったようだ。
 これらには抱一の親友の亀田鵬斎の子、綾瀬(りょうらん)(一七七八~一八五三)が七言絶句の賛を寄せる。綾は抱一より十七歳年下だが、文政九(一八二六)年に鵬斎は亡くなるので、その前後に抱一が綾瀬と親密に関わった可能性は高いと思われる。
 このセットは細い枝や茎を対角線状に配し、画面の上から下にゆったりとモチーフが下降する構図を特徴とする。最後の数年の抱一作品には花鳥画が少ないが、ここでは余白の中で鳥が要のような役割を果たし、抱一花鳥画の到達点を示している。
 「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図(賛)」
      西風吹冷至漁家片雪
      飛来泊水涯独立斜陽
      如有待擬邀名月伴戸
      花    綾瀬老漁               】 
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

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酒井抱一筆「四季花鳥図屏風」周辺(二)

その二 「四季花鳥図屏風」の右隻(春)

四季花鳥図屏風春拡大.jpg

酒井抱一筆「四季花鳥図屏風(右隻)」六曲一双 陽明文庫蔵 文化十三年(一八一六)
「右隻(一~三扇・春から夏へ)部分拡大図」

「作品解説」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』)中の、「春草のさまざま、蕨や菫や蒲公英、土筆、桜草、蓮華草などをちりばめ、雌雄の雲雀が上下に呼応する」の「右隻一~三扇(面)」の絵図である。

花鳥巻春一.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(一)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035812

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-12

上記の図は、右から「福寿草・すぎな(つくし)・薺・桜草・蕨・菫・蒲公英・木瓜」(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)のようである。

花鳥巻春二.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「春(二)」東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035813

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-05-14

その「春(一)」で描いた「蒲公英・木瓜・菫・すぎな(つくし)・薺・白桜草」などに、新たに「虎杖(いたどり)」と「雉(きじ)と母子草」を描いている(『日本の美術№186酒井抱一(千澤梯治編)』)。

 冒頭の「四季花鳥図屏風」(右隻第一扇~第三扇)は、上記の「四季花鳥図巻」(春一・春二)の草花が、宗達流の三層の丸みを帯びた土坡に描かれている。三扇の上部の「牡丹」は、次に続く夏の花の一部である。
 「四季花鳥図巻」を巻物(横長の紙に書いた絵や書をロール状に仕立てる、丸めて保管する)の横長の「巻子本」とすると、「四季花鳥図屏風」は屏風(複数枚に渡って絵や書を書いたパネルを横方向に連結する、折りたたんで保管する)の縦長の「折本」と見立てることも出来る。
 この「屏風」物は、例えば「六曲一双」物とすると、右隻(第一扇~第六扇)と左隻(第一扇~第六扇)の、十二扇(面)となり、「掛軸」(コンパクトな絵や書を主に床の間にかけて鑑賞できるよう仕立てる、丸めて保管する)物ですると、例えば、「十二ヶ月花鳥図」(十二幅)と同じ形式のものとなってくる。
 この「十二ヶ月花鳥図」(十二幅)の掛軸仕立てになっているものは、そもそもは、六曲一双の屏風物を改装したものが多いようである(また、これとは逆に、独立した図を貼る押絵貼屏風の形式もある)。
 そして、冒頭の「四季花鳥図屏巻」(六曲一双)は、「十二ヶ月花鳥図屏風」(六曲一双)ではなく、その右隻は「春・夏」(第一扇~第三扇=春、第四扇~第六扇=夏)、そして、左隻は「秋・冬」(第一扇~第三扇=秋、第四扇~第六扇=冬)の仕立てになっている。
 今回の右隻の「第一扇~第三扇=春」では、第二扇の「空高く舞い上がる揚げ雲雀」と第三扇の「揚げ雲雀を見ている地の雲雀」との呼応が(その空間)がメインとなって来よう。

雲雀(ひばり)(三春「告天使、初雲雀、揚雲雀、落雲雀、朝雲雀、夕雲雀、雲雀野」)「麦畑などに巣をつくり、春の空高く舞い上がって、一日中のどかに囀る。揚がる雲雀を揚
雲雀、落ちる雲雀を落雲雀という。雀よりやや大きく、褐色で黒褐色の斑があり、下腹は白っぽい。後頭部に冠羽をもつ。」
 うらうらに照れる春日にひばりあがり心かなしもひとりし思へば 大伴家持「万葉集」
 雲雀より空にやすらふ峠かな    芭蕉 「笈の小文」
 永き日も囀たらぬ雲雀かな     芭蕉 「続虚栗」
 原中や物にもつかず鳴雲雀     芭蕉 「続虚栗」
 一日一日麦あからみて啼雲雀    芭蕉 「嵯峨日記」
 草も木も離れ切たるひばりかな   芭蕉 「泊船集書入」
 松風の空や雲雀の舞ひわかれ    丈草 「そこの花」
 あつけりと人は残りて雲雀かな  千代女 「真蹟」 
 川越の肩で空見る雲雀かな     太祇 「石の月」
 夕雲雀鎧のの袖をかざし哉     蕪村 「落日庵句集」
 熊谷も夕日まばゆき雲雀哉     蕪村 「落日庵句集」
 庵室や雲雀見し日のまくらやみ   召波 「春泥発句集」
 声と羽と一度に休む雲雀かな    也有 「蟻づか」
 うつくしや雲雀の鳴きし迹の空   一茶 「七番日記」
 天に雲雀人間海にあそぶ日ぞ    一茶 「寛政句帖」

麦穂菜花図.jpg

酒井抱一筆「麦穂菜花図」双幅 静嘉堂文庫美術館蔵 重要美術品  
【いずれも春の景物。柔和な表現の菜花と、垂直に伸び連続する青麦の鋭い感覚とを対照的に取り合わせ、一羽ずつ配した雲雀の上下の動きが両幅を結びりつけるという、趣向に富んだ双幅である。季節の中の一片の表現や身近にいかにもありそうな風情を絵に描きとめる抱一の世界がここに確立されている。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(松尾知子稿))

 右の掛幅は「菜花と揚げ雲雀」図、左の掛幅は「麦穂と落ち雲雀」図である。「菜花(菜の花)」は晩春の季語、「雲雀」は三春の季語、「麦穂(穂麦)・麦秋(の穂)」は初夏の季語、「青麦(の穂)」は三春の季語、ここは、「麦穂(穂麦)・麦秋(の穂)」の初夏の景物としてとらえたい。この双幅は、冒頭の「四季花鳥図屏風」の右隻の「第二扇と第三扇」と同じく、右幅(第二扇)は晩春の景、そして左幅(第三扇)は初夏の景と解したい。

(参考)

渡辺始興雉.jpg

渡辺始興筆「鳥類真写図巻」(全一巻)中の「キジ(雉)図」
https://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=120

●河野元昭 「渡辺始興筆「真写鳥類図巻」について_(上)・(下)」『美術研究』290、291(1974年3月、4月)

●『創立百年特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「作品解説189」
【 江戸中期の著名な宮廷文化人・近衛家煕(予楽院)<1667~1736>に家士として仕えた始興は、文芸の道に多彩な才能を示した家煕に教示されるところが多かった。『槐記(かいき)』(家煕の身辺を侍医・山科道庵が日記風に筆録したもの)にみえるように、家煕は絵画表現の基本に即物写生を重視している。始興は、この図巻のような遺作のほかに、数多くの写生画を制作していたものと思われる。なお、近世写生画の巨匠・円山応挙<1733~1795>が本図巻を模写しており、現在、当館に所蔵する写生画帖がこれである。】

「鳥類真写図巻」 渡辺始興 一巻 紙本着色 26.8×1758.0cm 「渡辺求馬始興筆意」

「四季花鳥図巻」酒井抱一 二巻 絹本著色 上巻 31.2×712.5cm下巻 31.2×712.5cm

※ 「鳥類真写図巻」(渡辺始興筆)は、「1758.0cm」、「四季花鳥図巻」は「712.5cm+712.5cm」
と、両者共に長大ものである。

上記の『創立百年特別展 琳派(東京国立博物館)』所収「作品解説189」中の「円山応挙<1733~1795>が本図巻を模写しており、現在、当館に所蔵する写生画帖がこれである」については、下記アドレスで、その全容を見ることが出来る。

「東京国立博物館(画像検索)」
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0078283/


雉図.jpg

円山応挙筆「写生帖(雉図)」(4帖の内1帖)42.1×30.6cm

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