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町物(京都・江戸)と浮世絵(その八 酒井抱一・その三) [洛東遺芳館]

(その八) 酒井抱一(その三)「晋子肖像」
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。

(歌仙) 柳ちり (底本『反古ぶすま』 寛延三年以前の作と推定)
 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ     蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月      李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに        百万(旨原)
(以下 略)

(歌仙) 思ふこと (底本『東風流』 宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人       宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫      春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(ねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん  雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)
 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
 そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(『寛保四年宇都宮歳旦帖(蕪村編著)』)

 寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯

(「歳旦三つ物」)
  いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
  かも川の水音にやや春を告げたり
 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱   宰鳥(蕪村の前号)
   神馬(じんめ)しづかに春の白たへ     露鳩
 谷水の泡だつかたは根芹にて          素玉
  (中略)
 名月の根分の芋も雑煮かな           嶺月
  大黒舞の気にも子(ね)の味         宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
  宝引綱(ほうびきづな)もみる喰(くひ)の紅 露長
 のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて   宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
(「歳末」)
  (前略)
 水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり  宰鳥(蕪村の前号)
(「春興」)
 梅が香や能(よき)瓶持(もち)て酒一斗    雁宕(結城)
   (中略)
 逃水(にげみづ)に羽をこく雉子の光哉     大済(下館)
   (中略)
 梅が香や画具(ゑのぐ)のはげる御所車     阿誰(関宿さか井)
   (中略)
 梅が香や隣の娘嫁(か)せし後         潭北(佐久山)
   (後略)
(軸)
 古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら        蕪村(「蕪村」の改号)
(追加) (後略)
(追附) (前略)
  四十のはるを迎(むかへ)て
 七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 存義

 寛保四年(一七四四)、蕪村、二十九歳の時、結城の砂岡雁宕の娘婿である佐藤露鳩の後援を得て宇都宮で歳旦帖を出した。歳旦帖を出したということは俳諧宗匠として一人立ちをしたということである。
 『寛保四年宇都宮歳旦帖』は、紙数九枚(十七頁)の片々たる小冊子であるが、蕪村が編集した最初の俳書であり、また、「蕪村」の号が初めて見える文献として重要な意味を持つ。
 その表紙に記された、「寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯」の「渓霜蕪村」の「渓霜(けいそう)」は、「芭蕉桃青(とうせい)のように、号を二つ重ねたものなのかも知れない。また、「谷(口)蕪村」の「渓」の意味もあるのかも知れない。また、この「霜」は、寛延三年(一七五〇)の「月夜行旅図」の落款に「霜蕪村」とあり、その関連もあるのかも知れない。
 この歳旦帖には、蕪村の句(付句を含む)は五句あるが、それは、上記のとおり、蕪村の前号の「宰鳥」の名で、「歳旦三つ物」の「発句」(「鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱」)・「脇句」(「大黒舞の気にも子(ね)の味」)・「第三」(「のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて」)、「歳末」の句(発句=俳句)「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」の四句、そして、「春興」の軸句(発句=俳句、巻軸句として一番重要な句)の、「蕪村」の号による「古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら」の句である。
 そして、さらに重要なことは、この蕪村のこの「軸」句の後に、「追加」として、「東都(江戸)」俳人、さらに続けて、「追附」として、同じく、「東都(江戸)」の俳人の句を続けて、その「巻末」の句に、存義の「四十のはるを迎(むかへ)て」の前書きのある七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 」の句を以て、この歳旦帖を締め括っているのである。
 すなわち、「蕪村」の改号披露を兼ねての、俳諧宗匠として一人立ちを意味する「(宗匠)立机」披露の初「歳旦帖」を刊行するにあたり、その最高後援者の、お墨付けを与える役として、実質上、亡き夜半亭一世宋阿こと早野巴人の『夜半亭俳諧』を引き継いだ、江戸座の総宗匠格の馬場存義が、この句を蕪村に下賜して、江戸座の俳諧宗匠としての蕪村を認知したということを意味しよう。
 そして、その存義を頂点とする蕪村を巡る先輩格の江戸座の宗匠の面々が、雁宕(結城)・
大済(下館)・ 阿誰(関宿さか井)・潭北(佐久山)・露鳩(宇都宮)等々ということになろう。
 その俳諧宗匠として一人立ちをした、当時、二十九歳の蕪村が、六十二歳と老齢を重ねた安永六年(一七四四)に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」と、当時、十七歳の酒井抱一が、蕪村と関係の深かった、その馬場存義の江戸座俳諧に入門して来るのである。

 これは、「画・俳」の二道を極めた、日本南画の大成者の一人でもある与謝蕪村と、ともすると、「江戸琳派の創始者」として、その「画」道の人としのみに見られがちの酒井抱一が、実は、蕪村と同じ宝井其角に通ずる、江戸座の俳諧宗匠の大立者の馬場存義を介して、「俳」(俳諧=連句・俳句)の世界の人でもあったということと、それに併せ、「浮世絵・狂歌・漢詩・茶道・能」等々に通じた、蕪村以上のディレッタント(多種多用な芸術や学問を趣味として愛好する好事家などを意味する)であることを、思い知るのである。

 ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり

補記三 建部巣兆

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-takebesocho.html

巣兆.jpg
巣兆筆「盆踊り図」

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その七 酒井抱一・その二) [洛東遺芳館]

(その七) 酒井抱一(その二)「文読む美人図」

抱一・文読む美人図.jpg
酒井抱一筆「文読む美人図」一幅 太田記念美術館蔵

「二十代の抱一が多数描いた美人画の中でも最初の段階を示す作らしく、手つき足首など、たどたどしく頼りなさがあるが、側面の顔立ちが柔和で、帯の文様など真摯な取り組みが初々しい。安永期に活躍し影響の大きかった浮世絵師、磯田湖龍斎による美人画の細身なスタイルの反映があることも、制作時期の早さを示す。『楓窓杜綾畫』と署名し、『杜綾』朱文印を捺す。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

 抱一は、酒井家の家老、松下高除の著書『摘古探要』中の「等覚院殿御一代」(抱一の法名「等覚院文詮暉真」)に、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」とあり、浮世絵の最大の流派である歌川派の始祖、「歌川豊春」(一七三五~一八一四)に、浮世絵美人画を学んだと目されている。
 豊春の出生地は、豊後国臼杵(うすき)ともいわれ、また、但馬国豊岡、江戸ともいわれている。京都に出て、江戸狩野派の鶴沢探鯨(たんけい)に学んだ後、江戸に出て烏山石燕(せきえん)に入門したという。
 豊春の門人の双璧は、初代歌川豊国と歌川豊広で、その両門下から秀抜した浮世絵師たちが多数輩出し、その後の浮世絵界をリードする一大勢力を築き上げている。「洛東遺芳館」にも、この豊春や豊国に連なる浮世絵が多数あり、応挙、そして、呉春に連なる「円山四条派」の作品と共に、一つの特色となっている。

豊春.jpg
歌川豊春筆「松風村雨図」絹本著色 一幅 洛東遺芳館蔵

補記一 江戸の琳派芸術 (出光美術館)

http://blog.livedoor.jp/aa3454/archives/72320153.html

「遊女と禿図」(抱一筆)

「天明七丁未初冬尻焼猿人画」の署名と「猿人」の朱文印が捺されている。抱一、二十七歳の作。賛は吉原五明楼の扇屋花扇が、寝惚子こと大田南畝の戯文を書いたもので、絵の花魁のモデルは花扇と見る説もある。

補記二 「生誕250年記念展 酒井抱一と江戸琳派の全貌」(総出品目録)

http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2011/1010/1010_list2.pdf

補記三 酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

www.j-bunka.jp/comment/10suzuki.pdf


抱一 村雨図.jpg
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その六 酒井抱一・その一) [洛東遺芳館]

(その六) 酒井抱一(その一)「冨士図」

抱一・冨士図.jpg
酒井抱一筆「富士図」 絹本墨画金泥 一幅

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

富士の表現には、周囲を薄墨で暗くし、富士山自体は塗り残して白さを際立たせる外隈という技法が使われています。その富士山に墨の濃淡で表わされた雲が重なっています。
このような表現は、抱一に限らず、墨画の富士図に一般的ですが、抱一の特徴は、雲に用いる墨の滲みを、形がなくなるまで最大限に生かして、富士山の単純な形と対照させる点です。さらに、この作品は、稜線を真っ直ぐにして、デザイン性の強い琳派らしい作品となっています。

 酒井抱一(一七六一~一八二八)は、譜代大名酒井雅樂頭(うたのかみ)家の一員として生を享け、三十七歳で出家し(西本願寺第十八世文如光暉のもと「権大僧都等覚院文詮暉真」の称号を賜る)、酒井家を離れる。しかし、姫路十五万石を擁する有力大名家の出自は、生涯にわたり、抱一の基盤であり、その拠り所の中核に居するものであった。
 抱一は、「江戸琳派」の創始者として名高いが、その画業の開始は「浮世絵」であった。
抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、「安永八年(一七七九)十九歳」には、「杜綾(とりょぅ)」の号初めて用いる。古川藩主、土井家からの仮養子の所望を断る」とある。
 この年譜にもあるとおり、抱一の出発点は、画業としては「浮世絵」であったが、その母胎は、「遊びの文芸」としての「俳諧」、そして、それに続く、「狂歌・戯作」の世界であった。

歌麿・抱一.jpg
「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。


補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その五 呉春) [洛東遺芳館]

(その五) 呉春の「手描き友禅」「双六」

手描き友禅.jpg

呉春 手描 白絖地雪中藪柑子図描絵小袖 一領

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 蕪村の、天明初年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛て書簡に、次のような文面のものがある。

「小糸かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合(とりあわせ)甚あしく候。やはり梅亭可然候。梅亭は毎度美人之衣服に書き覚(おぼえ)候故、模様取(どり)、旁(かたがた)甚よろしく候。小糸右之道理をしらずしての物好きと被存候。我等が画きたるを見候はゞ、却(かえつ)て小糸後悔可致ときのどくに候。小糸事に候ゆへ、何をたのみ候てもいなとは申さず候へども、物好きあしく候ては、西施に黥(イレズミ)いたす様成(なる)物にて候。美人之形容見劣り可申といたはしく候。二三日中に右あはせ仕立候て、もたせ遣(つかわし)候よし申遣候。どふぞ小糸に御逢被成候て、とくと御聞かせ可被下候。縷々(るる)筆談に尽しがたく候。何事も御顔御物がたりと申候。以上」

 天明初年(一七八一)というと、蕪村、六十六歳の時である。ここに出て来る「小糸」とは、晩年の蕪村の贔屓の芸妓である。この頃の蕪村の書簡には、「杉月(さんげつ)・雪楼(富永楼)・一菊楼・玉松亭・中村屋・井筒屋」などの茶屋(料亭)の名が、しばしば出て来る。
 この茶屋遊びには芸妓が付き物だが、蕪村の贔屓の芸妓は、「小糸・小雛・石松・琴野」などで、中でも、小糸に対する寵愛ぶりは相当なものがあったらしい。

「青楼(せいろう)の御意見承知いた候。御もつともの一書、御句にて小糸が情も今日限りに候。よしなき風流、老いの面目をうしなひ申し候。禁ずべし。さりながせ、もとめ得たる句、御批判下さるべく候。
 妹(いも)がかきね三味線草の花咲きぬ 」(安永九年四月二十五日付け道立宛て書簡)

 「青楼」とは遊郭のことだが、ここは茶屋(料亭)遊びのこと。上記の書簡は、道立が蕪村の茶屋遊びを諫めているものの返書なのであろう。儒学の名門に生まれ、自らも儒学者であった樋口道立は、夜半亭一門では蕪村に諫言できる唯一の人物であったのであろう。
 蕪村書簡で、道立の名はしばしば出て来るが、蕪村は必ず「様」「子」「君」などの敬称を付けており、道立を呼び捨てにしているものは目にしないない。年齢的に、道立は蕪村よりも二十歳程度も年下なのであるが、蕪村は道立を一目も二目も置いていたのであろう。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)  大阪 うめ
  さそえばぬるむ水のかも河           其答
 盃にさくらの発句をわざくれて          几董
  表うたがふ絵むしろの裏           小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月            夜半(蕪村)
  おりおりかほる南天の花            佳棠

 天明二年(一七八二)、蕪村、六十七歳の折に刊行した、春興帖『花鳥篇』の中の俳諧(連句)の半歌仙(十二句の「連句」)の、表六句である。この表六句の発句は、大阪の梅女からの書簡に見える一句である。この「梅女」こそ、後に、呉春の後妻になる、当時の大阪の名妓なのである。
 この梅女の発句の句意は、「(蕪村さんが上げている)この凧(歌仙)が、(蕪村さんが肩入れしている)小糸(こいと)さんにによるものなら、何とも、憎らしい」というようなことであろう。
 それ続く、脇句の作者「其答(きとう)」とは、歌舞伎役者、初代・沢村国太郎その人である。俳号「其答」、屋号「三笠屋(後に「天満屋)で、京坂の舞台で活躍した大立者である。それに付けての「第三」は、夜半亭二世・蕪村の名跡を継ぐ、夜半亭三世・高井几董である。
 それに続く「四句目」は、蕪村御贔屓の芸妓、小糸の句である。「蕪村さんの御贔屓は表面だけで、その裏の真意は分かりません」というようなことであろうか。それに、蕪村がぬけぬけとと五句目を付けている。「近づきの印に小糸との語らいに、外には夏の月が掛かっている」と、ご満悦の様子である。
 続く、六句目の折端の句は、蕪村のパトロンの一人の、京都の書肆汲古堂の主人、田中庄兵衛こと、俳号・佳棠の句である。この佳棠が、蕪村の茶屋遊びの指南役なのであろう。

「いつもとは申しながら、この節季(せつき)、金ほしやと思ふことに候。今日はあまりのことに、手水鉢(ちようずばち)にむかひ、かかる身振り(手水鉢を叩こうとする人物を描く)いたし候へども、その金ここに、といふ人なきを恨み候。されどもこの雪、ただも見過ごしがたく候。二軒茶屋中村屋へと出かけ申すべく候。いずれ御出馬下さるべく候。是非是非。以上 二十七日 佳棠福人 」

 「かかる身振り」というのは、浄瑠璃の「ひらがな盛衰記」の登場人物、梅が枝(え)のしぐさで、彼女が金が欲しいといいながら手水鉢を叩くと、二階から「その金ここに」と小判三百両が投げ出される。金が無いといいながら、茶屋で雪見酒と洒落ようというのである。金が無いというのは、支払いの方は佳棠さんよろしくということであろう。福人は、その金持ちの敬称で、佳棠も福人と敬称で言われれば、雪見酒の費用は持たない訳にはいかないということであろう。佳棠の汲古堂の店は、寺町五条上ル町にあった。

 さて、司馬遼太郎に、呉春を主人公にした「天明の絵師」という小説がある。登場人物は、「蕪村・呉春・応挙・上田秋成」などである。そこでは、呉春について、「おそろしく器用なのだ。尋常一様の器用ではない。いまからすぐ呉服屋の番頭がつとまるほど如才ないし、手さきの器用さにかけては、それこそ人間ばなれしていた」と、呉春の、マルチの多芸多才ぶりを記している。
 そして、この呉春の師匠の蕪村は、「蕪村の病中、家計がいよいよ窮迫し、呉春は必死にかけまわってね金策した。借りられるところはすべて借りた。蕪村の俳句の弟子である宇治田原の庄屋奥田治兵衛には、正月の粟餅の無心をいったほどだ」と、その窮乏振りを記している。
 そして、蕪村と呉春について、「蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、『勅命』で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい」と、この両者の比較を結語にしている。
 しかし、同じ時代に生きた、「天明の絵師」の、年齢順に、「蕪村・応挙・呉春」の三人のうちで、「茶屋遊び・芝居好き」にかけては、上記の佳棠との交遊などにあるとおり、その筆頭格であったことであろう。
 上記の、「『勅命』で思想を一変した呉春」といのは、「蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門成家の大建築に描くような張りのあるものではない」、「いま勅命があって、御所の杉戸、襖、天井などに絵をかけ、といわれれば、蕪村の絵ではつとまらんよ」という、応挙の画論のことで、呉春が、蕪村亡き後に、応挙の、この画論に従い、応挙門の、御所向きの絵に様変わりしたという指摘なのである。
 それらに続けて、「応挙の死後御所の御用をつとめ、その権威も手つだって画料はいよいよ高騰し、門人は数百人をかぞえるにいたり、呉春が四条通りに住んだところから門人たちはその周辺に居を移し、このため呉春の派は、『四条派』といわれ、繁栄し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇にまで及んでいる」とし、「呉春が、もし蕪村の流れに生涯貞潔であったとすれば、単に無名の月渓でおわったろうし、また天明ノ大火がなかったなら、呉春は貧窮のうちに死んでいたのかもしれない」と、「蕪村好き」の司馬遼太郎らしい、「応挙・呉春」観を披露している。
 しかし、画人、あるいは、画壇の主流というのは、この「応挙・呉春」の流れであって、いわゆる、日本の文人画という「蕪村」の流れというのは、その亜流と化し、今や絶滅品種の類いのものということであろう。

 さて、また、冒頭の、呉春の「手書き友禅」に戻って、こういうものは、その師匠の蕪村も、上記の蕪村書簡にあるとおり、手掛けなかったし、また、司馬遼太郎の「御所向きの大建築の障壁画」を目指している応挙も、いかに、懇望されても、「その任に非ず」と、この種のものは、今に遺されていないようである。
 そして、マルチの、多芸多才の呉春は、この種のものだけでなく、子供向けの「双六」まで手掛けているのである。

双六.jpg

呉春 下絵 すごろく 木版 寛政十年

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 こういう、「天明の絵師」の、マルチの多芸多才の「呉春」に匹敵する人物は、浮世絵師・北尾政演こと戯作者・山東京伝、そして、図案集『小紋新法』、滑稽図案集『絵兄弟』、滑稽本『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』、そして、紙製煙草入れ店を開き、そのデザインした煙草入れを大流行させた、「天明のマルチ・スーパースター」の、呉春より九歳年下の、江戸の「山東京伝」を抜きにしては語れないであろう。

補記一 司馬遼太郎の「天明の絵師」周辺

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補記二 山東京伝の「デザイン」周辺

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その四 北尾政演・山東京伝) [洛東遺芳館]

(その四) 浮世絵(北尾政演・山東京伝作「吉原傾城新美人合自筆鏡」)

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北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

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江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

 この「章台」は、遊里のこと。「折揚柳(セツヨウリュウ)」は、「別離の時に歌う楽曲(楽府題=がふだい)の名」、そして、「春日」は「春の日」、「路傍情」は、「路傍を見ている遊女との心の交流」のようなことであろう。

澱河歌.jpg

 蕪村筆「澱河曲」扇面自画賛(A) 紙本淡彩 一幅 一七・八×五〇・八センチ

款 右澱河歌曲 蕪村
印 東成(白文方印)

賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓→伏見百花楼ニ遊ビテ浪花ニ帰ル人ヲ送ル 妓ニ代ハリテ

  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願並枕長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン

  君は江頭の梅のことし
  花 水に浮て去ること
  すみやか也
  妾は水上の柳のことし
  影 水に沈て
  したかふことあたはす

澱河歌二.jpg

蕪村筆「澱河歌」扇面自画賛(B) 紙本淡彩 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  
款 夜半翁蕪村
印 趙 大居(白文方印)

賛 澱河歌 夏
  若たけや
  はしもとの遊女
  ありやなし
    
澱河歌 春
  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願同寝長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン
  君は江頭の梅のことし
   花 水に浮て去事すみ
   やか也
   妾は岸傍の柳のことし
   影 水に沈てしたかふ
   ことあたはす

 蕪村には、「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)、「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」の、三大俳詩がある。この「春風馬堤曲(十八首)」と「澱河歌(三首)」とは、安永六年(一七七七)、六十二歳の折の春興帖『夜半楽』に収載されているもので、「老鶯児(一首)」と併せ、三部作の連作詩篇として夙に名高い。
 この『夜半楽』収載の三部作のうち、「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、その従属的な作品と解されがちであったが、上記の「扇面自画賛」(AとB)などの紹介などと併せ、逆に、「春風馬堤曲」の先行的な作品として、『澱河歌の周辺』(『与謝蕪村(安藤次男著)』)などで、蕪村のエロティシズムの俳詩として再評価されている。
 『蕪村の世界(尾形仂著)』では、「扇面自画賛」(A)は、「これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される」とし、さらに、「扇面自画賛」(B)に記されている「若竹やはしもとの遊女ありやなし」の句について、「安永四年五月二十一日、几董庵月並句会での兼題『若竹』によるものであろう」とし、その前後の作であることを示唆している。
 何れにしろ、安永六年(一七七七)、春興帖『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲(十八首)、「澱河歌(三首)」、そして「「老鶯児(一首)」は、それぞれに相互に連動している、晩年の蕪村の「華やぎと老懶」の詩境を如実に反映していることは想像する難くない。
 そして、この『澱河歌』の、「澱河」(澱水)は、淀川、「菟水」は、宇治川の中国風の呼び名で、「京都伏見の百花楼で、淀川を舟で浪花へ帰る男を見送る遊女にかわって、蕪村がその惜別の情を詠んだ漢詩(二首)、和詩(一首)より成る、楽府題の一曲」というのが、この俳詩の解題ということになろう。

 ここで、冒頭の北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」とに戻りたい。この楽府題の歌語の「折揚柳」は、蕪村の「澱河歌」の、「君は江頭の梅のことし/妾は水上の柳のことし」と対応している。
 すなわち、上記の冒頭の「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川の背後には、蕪村が「扇面自画賛(A)」で描いている、「男(少年)」との別離が見え隠れしているのである。さらに、「扇面自画賛(B)」で続けるならば、その冒頭に出て来る「若竹やはしもとの遊女ありやなし」と連動している。
 この「はしもと(橋本)」は、現京都府八幡市内、当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多く、蕪村がその竹林の奥に幻視しているのは、『撰集抄』に見える「江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか」と、西行に連なる遊女のそれであろう。
 そして、蕪村は、安永六年(一七七七)の、この春興帖『夜半楽』の刊行に続けて、亡母追善の意を込めての回想集『新花摘』を刊行するが、そこに収載されている、「ころもがへ母なん藤原氏なりけり」「ほととぎす歌よむ遊女聞こゆなる」などの発句は、蕪村の亡母追悼のものとして、これまた、「春風馬堤曲」と併せて、夙に知られているものである。
 
 ここまで来て、扇面自画賛(B)の、「澱河歌 夏」「澱河歌 春」に対応しての、蕪村の、それに続く、「澱河歌 秋」、そして、「澱河歌 冬」は、それらは、どのようなものであったのであろうか(?)
 それらは、永遠の謎ということになろう。そして、その蕪村の、永遠の謎の一つの解明として、安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳の折の、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」、そして、安永七年(一七七八)、六十三歳の折の、「絶えだえの雲しのびずよ初しぐれ」の句が、冒頭の、北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」と、見事に交叉して来るのである。

補記一 「吉原傾城新美人合自筆鏡」(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

補記二 浮世絵 山東京伝・北尾政演

http://heartland.geocities.jp/hamasakaba/44kyoden/

補記三 東洲斎写楽の登場秘話、蔦屋と山東京伝の筆禍

http://www.ten-f.com/kansei3nen.html

補記四 山東京伝・歌川豊国らの「腹筋逢夢石」

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306128158-1

補記五 蕪村の俳詩「澱河歌」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/11/blog-post.html

補記六 蕪村の「夜半楽」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/09/blog-post.html

夜半楽(『蕪村全集七 編著・追善』所収)

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首
(この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。)

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

(「歌仙(一巻)」「春興雑題(四十三首)」略)

   謝 蕪 邨
余一日問耆老於故園。渡澱水
過馬堤。偶逢女歸省郷者。先
後行數里。相顧語。容姿嬋娟。
癡情可憐。因製歌曲十八首。
代女述意。題曰春風馬堤曲。

春風馬堤曲 十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤ヨリ下テ摘芳草  荊與蕀塞路
 荊蕀何妬情    裂裙且傷股
○溪流石點々   踏石撮香芹
 多謝水上石   敎儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
 無恙を賀し且儂が春衣を美ム
○店中有二客   能解江南語
 酒錢擲三緡   迎我讓榻去
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
○呼雛籬外鷄   籬外草滿地
 雛飛欲越籬   籬高墮三四
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得す去年此路よりす
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋邊財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
○郷を辭し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
○故郷春深し行々て又行々
 楊柳長堤道漸くくだれり
○嬌首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
 待春又春
○君不見古人太祇が句
  藪入の寢るやひとりの親の側

澱河歌 三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 舟中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 舟中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

老鶯児 一首

春もやゝあなうぐひすよむかし声 

安永丁酉春 正月
    門人 宰鳥校
平安書肆 橘仙堂板

補記七 蕪村の『新花摘』周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/06/blog-post_114982024055218622.html




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その三・歌麿) [洛東遺芳館]

(その三) 浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

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多川歌麿作「画本虫ゑらみ」

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天明七年(1787)八月十四日の夜、朱楽菅公、大田南畝などが、向島押上あたりの庵崎(いおさき)で虫聞きの狂歌会を開きました。その時の狂歌に歌麿の絵を添えて、翌年、蔦屋重三郎が出版したのが、この『画本虫ゑらみ』です。今回、少し遅れて出版された歌麿の狂歌絵本『潮干のつと』も展示しています。いずれも完成度が高く、独自の画風の美人画で成功する前に、別のジャンルでこれほどの技量を発揮していたのは驚きです。

 歌麿は、宝暦三年(一七五三)の生まれとすると、天明七年(一七八七)は、三十四歳の頃ということになる。この年に、京都の円山応挙は、五十五歳、金刀比羅宮の障壁画や、大乗寺障壁画(前期)に取り組んでいた頃である。
 歌麿というと浮世絵の美人画のジャンルの第一人者ということになるが、この「画本虫撰(ゑらみ)」のような花鳥画のジャンルでも卓抜した技量の持ち主であったことを証明している。
 「画本虫撰(ゑらみ)」は上巻八図、下巻七図の、計十五図からなる木版絵本で、一画面に歌麿の草花と二種類の虫の図、当時の狂歌師三十人の虫を詠題とした狂歌が合わせられている。
 そして、上記の紹介文で重要なことは、この「画本虫撰」の「版元」(出版者)が、浮世絵文化の仕掛人とも言われている「蔦重(つたじゅう)」こと「蔦屋重三郎」というところである。
 この蔦重が世に出した浮世絵師は、六大浮世絵師のうち、美人画の筆頭格の「喜田川歌麿」、役者絵の謎の浮世絵師「東洲斎写楽」、そして浮世絵全般の画狂人こと「葛飾北斎」のデビュー当時の「勝川春章」、そして、もう一人、浮世絵師・北尾政演(まさのぶ)こと、戯作者・山東京伝(さんとうきょうでん)で、この山東京伝は、蔦屋重三郎の弟分というようなことであろう。
 浮世絵というのは、一点物の「肉筆画」(絵画)と何点も刷り上げる「版画」との二種類があるが、一般的には、当時の一般町人が求めやすい、後者の「浮世絵版画」と解して差し支えなかろう。
 そして、この「浮世絵版画」というのは、次のような「版元」(プロデューサー)を主軸としてのチーム制作ということになる。

版元 → プロデューサー兼出版・販売
絵師 → 版元と共に企画立案し、それを絵画化する
彫師 → 絵師の版下絵を彫る
摺師 → 彫師の版木を摺る

 これを「浮世絵肉筆画」ですると、「彫師・摺師」とがカットされて、「絵師・版元」でも「絵師」が、その主役の世界ということになろう。しかし、「浮世絵版画」の中でも、この冒頭の「画本虫撰(ゑらみ)」でするならば、「絵師」は「挿絵画家」というポジションで、その全体の「画本」からすると、「版元」が主要なポジションを得ることになろう。
 「浮世絵」(「浮世絵版画」)というのは、この「版元」の活動(企画・制作・出版・販売)を抜きにして存在しないといっても過言ではなかろう。そして、その「版元」でも、江戸の三大版元として、「蔦重(蔦屋重三郎)・西村屋(西村屋与八)・鶴喜(鶴屋喜右衛門)」が特に有名で、この三大版元の動向が、即、浮世絵の動向といっても、これまた過言ではなかろう。
 例えば、美人画のジャンルで、西村屋が鳥居清長のそれを売り出すと、それに対抗して、蔦重が喜多川歌麿をデビューさせ、さらに、京都から参入した鶴喜が、蔦重と共に歌麿をバックアップするなど、この三者のせめぎ合いというのは、浮世絵の背後に蠢いている。
 さらに、「錦絵」(多色摺り版画)の誕生(「墨摺り」→「墨摺りに手彩色」→「錦絵」)に関連しても、その切っ掛けは、「絵暦」(富裕の商人らの贈答用絵入りカレンダー)で、この絵暦も、版元が「絵師・彫師・摺師」を駆使して考案していったということが、その背景に蠢いている。
 さて、冒頭の、この「画本虫撰」に描かれている、歌麿の「赤蜻蛉」と「いなご」の、この精緻な描写は、応挙の「写生帖」や若冲の「菜蟲譜」などが連想されて来る。この若冲には、通常の木版画とは異質の「拓版画」ともいうべき四種類の版画の世界がある。

一 「乗興舟(じょうきょうしゅう)」(淀川両岸図巻)一巻 → 明和四年(一七六七)春の大典顕常の跋がある。
二 「玄圃瑤華(げんぽようか)」一帖(四十八図) → 明和五年(一七六八)三月の大典顕常及び菅原世長の跋がある。
三 「素絢帖(そけんじょう)」一帖(四十八図) → 明和五年(一七六八)四月の四辻公亨(龍門承猷の兄)の跋がある。
四 「著色花鳥版画」六枚 → うち一図の印文に明和八年(一七七一)の年紀がある。

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若冲作「玄圃瑤華」のうち「冬葵図」

この作品のタイトル「玄圃瑤華」の「玄圃」とは、「崑崙山(こんろんさん)にある仙人の住む理想郷」、そして、「瑤華」とは「玉のように美しい」という意味らしい。そして、「水葵」「糸瓜」「瓢箪」「蕪」などの花卉蔬菜に「昆虫」を配して、さながら、冒頭の、歌麿の「花卉と昆虫図」の前駆的な作品というイメージで無くもないが、前者の、「『虫撰(ゑらみ)』とは、虫合わせであり互いの出した虫に合わせ歌の優劣を競うもの」で、必ず、二種類の昆虫を描くものとは、本質的に狙いを異にしている。
さらに、前者の歌麿の「画本虫撰(ゑらみ)」が、錦絵に近い多色摺り(狂歌摺物で、配りものに使うため贅を尽くした非売品の版画や木版画本)なのに比して、後者の若冲のものは、「拓版画」で、絵柄を凹版に彫り、濡らした紙を押し付けて凹んだ部分以外に墨を塗って仕上げた、若冲独特の技法を駆使したモノトーンの世界で、イメージ的には、この両者の世界は、似ても非なる世界のものと理解すべきなのであろう。
 そして、それは、前者が江戸(東京)の「狂歌人と浮世絵師(歌麿)」との「遊びの世界」とすると、後者は京都の五山(禅林)の「漢詩人と奇想の画家(若冲)」との「詩画合作の世界」とでも換言することが出来るのかも知れない。

花鳥版画.jpg

若冲作「著色花鳥版画」のうち「竹に錦鳥」(リッカー美術館蔵)

 これは「浮世絵=多色摺りの錦絵」ではない。また、上記若冲の「乗興舟・玄圃瑤華・素絢帖」の、モノトーンの「拓版画」でもない。若冲が最後に到達した、「型紙を用いて輪郭を写し、筆で彩色する、上方版画での手法の『合羽摺(かっぱずり)』」で、下絵から彩色まで、何から何まで全て若冲の個人作業による「型紙と筆と刷毛での手作りの錦絵」とでも称する世界のものであろう。
 「浮世絵=多色摺りの錦絵」というのは、明和二年(一七六五)以降に創始された技法とかで、この若冲の「著色花鳥版画」は、明和八年(一七七一)、五十六歳の作とすると、京都以外の土地を知らない若冲も、江戸で流行している「浮世絵=多色摺りの錦絵」を承知し、それと同じような効果を、若冲独自の手法で実現したと理解しても良いのかも知れない。
 この明和八年(一七七一)の頃の歌麿は、未だ十八歳の頃で、浮世絵師としてはデビューしていない。明和七年(一七七〇)の頃、「石要」の名で俳諧歳旦帖などの挿絵画家をしていたとの記録もあるようだが、何れにしろ、歌麿は、京都の孤高の異色の画人、そして、独自の「型紙と筆と刷毛での手作りの錦絵」とでもいうべき作品の「著色花鳥版画」の世界などとは、全くの無縁のことであったことであろう。
 しかし、江戸中期の同じ時代に、その年齢差や、京都と江戸との活躍する場の相違はあれ、二人の天才画人(若冲と歌麿)が、同じような「花卉と昆虫」とを画題とし、さらに、共通の「版画」そして「多色摺りの『錦絵』と合羽摺りの『著色版画』」という共通の土俵を有していたことの不可思議さを、しみじみと実感するのである。

補記一 浮世絵の構造(小林忠稿)

http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/index.html

補記二 北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る- 江戸時代における知的財産戦略

https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200705/jpaapatent200705_041-048.pdf

補記三 喜多川歌麿の狂歌絵本 『画本虫撰』(むしえらみ)驚嘆する歌麿の画力

http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_mushi.html

補記四 円山応挙「写生帖」

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/13964

補記五 伊藤若冲「菜蟲譜」

https://www.city.sano.lg.jp/museum/collection/jakucyu.html

補記六 伊藤若冲≪着色花鳥版画≫考−その制作と受容をめぐって−

http://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/06-1-28-nishi-gotou.pdf

補記七 上方版画と伊藤若冲

https://core.ac.uk/download/pdf/34704303.pdf




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二・清長) [洛東遺芳館]

(その二) 浮世絵(鳥居清長作「浅草金龍山十境 二十軒茶屋」)

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鳥居清長 浅草金龍山十境 二十軒茶屋

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

 柏原家伝来の鳥居清長の作品のなかには、他では見られないものも数点含まれています。『浅草金龍山十境』の「二十軒茶屋」もそのひとつです。この『十境』は天明三年(1783)の作と考えられていますが、前年の作と思われる『浅草金龍山八境』の後を受けていています。この「二十軒茶屋」に対応する『八境』の図は、従来誤って「仲見世」と呼ばれていました。

 この上記の紹介文によると、六大浮世絵師の一人の、鳥居清長には、「浅草金龍山十境」(天明三年作)と「浅草金龍山八境」(天明二年作)とがあり、前者の「二十軒茶屋」は、後者では「仲見世」とされているが、上記のものは、前者の希少価値のある「二十軒茶屋」のものであるというようなことであろう。
 とにもかくにも、これは、現在の東京(江戸)浅草寺境内の「仲見世」付近、そして、その内の「二十軒茶屋」と評判(名所)の「水茶屋」を背景としての、「風俗・美人画」ということになろう。
 ここで、六大浮世絵師を、年齢順にすると、「鈴木春信(一七二四~七〇)、鳥居清長(一七五二~一八一五)、喜多川歌麿(一七五三~一八〇六)、東洲斎写楽(?~一七九五)、葛飾北斎(一七六〇~一八四九)、歌川(安藤)広重(一七九七~一八五八)」となるが、「春信・清長・歌麿・写楽」の四人は、「初期(~一七六四)・中期(一七六五~一八〇〇)・後期(一八〇〇~)の三区分ですると、中期の、浮世絵全盛時代の人ということになる。

 そして、清長の上記の作品は、天明三年(一七八三)の作で、この年の十二月二十五日の未明に、日本南画の大成者の一人の与謝蕪村が京都で六十八年の生涯を閉じ、円山派の創始者・円山応挙は、その前年の五十歳の時に、『平安人物志』の画家の部で、その筆頭に掲載されるなど、その全盛時代の頃と重なる。
 応挙は、享保十八年(一七三三)の生まれ、清長は、宝暦二年(一七五二)の生まれ、その年齢差は、応挙が三十一歳年上で、応挙の名声は、京都の関西圏だけではなく、江戸の関東圏まで行き渡っていた頃である。
一方、清長は、江戸の新しい浮世絵というジャンルにあって、新進気鋭の若手の筆頭格のような位置で、その鳥居派の得意とする「役者絵」は勿論、「美人画」の鈴木春信などの作風へと食指を伸ばし、単に、人物画のみの美人画ではなく、その背景に「風物・風俗」を配しての、いわゆる、「風俗美人画」という世界を切り開いていた。

浮世絵の「美人画」というのは、この「春信→清長→歌麿」、そして、「風物・風俗」の「風景画」というのは、「清長→広重」、そして、「役者絵」というのは、「鳥居派→清長→写楽」という、いずれの「浮世絵」の「美人画・風景画・役者画」の、この三大潮流の、そのキィ―ポイントの浮世絵師が、この冒頭に掲げた「浅草金龍山十境の内『二十軒茶屋』」の作者、鳥居清長ということになろう。
 この清長の、その本拠地の江戸でも希少価値のある、この冒頭の「浅草金龍山十境」の、この「二十軒茶屋」が、江戸から遠く離れた、日本南画の「大雅・蕪村」、そして、今に続く京都画風の「円山・四条派」の、その祖の「応挙・呉春」の、そして、その本拠地の、いわゆる、「京都町物」の一角を今に多く所蔵している「洛東遺芳館」が、今に伝えている、その邂逅ということは、これは、前回の応挙の「虎」と、この清長の「風俗美人画」とが呼応している、そんな邂逅と同じような趣で無くもない。

補記一 天心が行った浮世絵の時代区分

http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/02_tenrankai/03_kinen_tenshin-theme/images/201503_chronology.pdf

補記二 鳥居清長の世界

www.ccma-net.jp/publication_artnews/vol42.pdf

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その一・応挙) [洛東遺芳館]

(その一) 京都町物(応挙「虎図」)

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応挙筆「虎図」(洛東遺芳館)

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虎は龍と対になって勢いある姿に描かれるのが伝統的です。応挙もそのような虎を描いていますが、一方で、応挙独自の虎を展開して行きます。応挙全盛期の天明三年(1783)四月に描かれたこの虎は、龍とは対にならず、草地の上でくつろいでいて、まさに応挙的な虎の傑作と言えます。応挙は実際の虎を見たことはなかったので、全体的な姿はリアルではありませんが、毛描きによる質感表現は絶妙です。

 「浮世絵」に比して、「町物」という言葉は未だ一般には通用しない、特殊な用語の部類なのかも知れない。意味するものは、「公家文化(公家時代の書画など)」=「公家物」、「武家文化(武家時代の書画など)」=「武家物」とすると、「町人文化(浮世絵師・町絵師時代の書画など)」=「町物」というようなことである。
 そして、この「町物」の代表的なものは、江戸時代の江戸(東京)で、今に、世界に通ずる日本文化の一翼を担っている「浮世絵」の世界ということになろう。
この「浮世絵」に携わった絵師などを「浮世絵師」とすると、「浮世絵師」というジャンルではなく、「町絵師」による「公家物」「武家物」(さらに「五山文化」=「僧侶物」)などに携わった世界が、これが、いわゆる、京都の円山応挙を祖とする「円山四条派」の世界と見做して大筋差し支えなかろう。
そして、「浮世絵」が大流行した江戸(東京・関東)においても、京都の応挙に匹敵する、
「酒井抱一・谷文晁・渡辺崋山など」の、狩野派の御用絵師ではなく、当時の一般人(町人など)に支持された、その出身を問うことなく、いわゆる「町絵師」が、「浮世絵師」に匹敵する、いや、それ以上の多種多様な世界を構築していたということなのである。
 これらを、「浮世絵」に伍して、江戸(関東)と京都(関西)に二分して、それぞれ「江戸町物」「京都町物」と二分して、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の三区分で、その上に、京都の、「公家文化=御所」ではなく、その「武家文化=二条城」ではなく、その「僧侶文化=相国寺」ではなく、その「町人文化=洛東遺芳館」という観点で、この「洛東遺芳館」の、これまでの展示などをフォローしていきたいのである。

 その上で、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」での三区分ですると、その「京都町物」のその筆頭格は、この応挙の「虎図」ということになるが、これは、単に、その三区分以上に、その、三区分の「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の全てを象徴するような作品の一つとしてとらえたい(これは、例えば、「二条城」の「武家文化」を象徴する「障壁画」の「虎図」に対するアンチテーゼの、応挙の「京町衆(柏原家)」への、それへのメッセージとしての「虎図」と解したいのである)。

補記一 「武家物」の「虎」(襖絵)→「狩野甚之/竹虎図/二条城二の丸御殿」

http://nico-wisdom.com/newfolder1/fusuma-nijyoujyou.html

補記二 モノを描く : 16世紀における「絵画の変」)

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/53317/jjsd47_051.pdf

補記三  扇面画の美術交渉 ― 日本・中国からフランスへ ―

www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/46/kiyo4604.pdf

補記四 応挙と応挙工房周辺

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306134552-1


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その十 三井家当主の画業など) [洛東遺芳館]

(十)三井高就筆「馬追」(洛東遺芳館蔵)

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三井高就筆・大典和尚賛「 馬追」 紙本墨画(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

作者は北三井家七代目・高就(たかなり)です。落款には「牧山」とありますが、これは高就の号の一つです。賛は、高就と親交のあった大徳寺の大典(だいてん)和尚が書いています。絵も賛も写しで、原作は、絵が松花堂昭乗、賛は沢庵和尚です。その原作は、古くから茶人の間では有名で、現在は根津美術館に所蔵されています。

 ここで、まず、この賛をした「大典和尚」とは、江戸時代中期の禅僧・漢詩人にして、当時の「応挙・若冲・大雅・蕪村」等々の、その背景に必ずや登場する、特に若冲の支援者としても知られる、相国寺第百十三世の「大典顕常(だいてんけんじょう、享保四年(一七一九)~ 享和元年(一八〇一))、その人であろう。
 そして、この画を描いた「三井高就(たかなり)」とは、三井惣領家・北三井家七代目当主その人である。現在国宝に指定されている応挙の代表作『雪松図屏風』は、この高就の誕生百二十日目の宮参りにあわせて、天明六年(一七八六)に制作されたともいわれている。高就は、惣領家に二十七年ぶりに誕生した男子とかで、こうした目出度いお祝いの席に使用する屏風として、三井家と最も友誼関係にある応挙に、その制作を依頼したのが、この屏風制作の背景のようである(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」・安村敏信著』)。

 応挙と最も親密な関係にあった三井家の当主は、四代目高美(たかはる)で、応挙との合作や応挙との逸話も多く残されている。この高美は文雅的体質が強く、経営者として不向きな面もあり、この高美に代わって家業を取り仕切ったのが、弟の新町三井家三代目の高彌(たかひさ)で、応挙の「郭子儀祝賀図」は、高美が高彌の隠居祝いに贈呈したものといわれている。
 この高美、そして、高彌の跡を継いだのが高美の子の五代目高清、続く、六代目祐(たかすけ)の、次が、七代目の高就ということになる。
応挙は、この北家三井家とは、四代目高美、五代目高清、六代目高祐と親交があり、応挙亡き後も、この円山家と三井家との親交関係は続くこととなる。

 応挙と三井家との関係は、単に、惣領家の北家三井家だけでなく、南家三井家四代目高業(たかなり、狂歌号・嘉栗)とも親交があり、その高業(嘉栗)が編んだ『狂歌奈良飛乃岡』には、応挙だけでなく蕪村も、その挿絵を描いているようである(『安村・前掲書』他)。

 さて、冒頭の、この「三井高就筆・大典和尚賛『 馬追』」は、「(その)原作は、絵が松花堂昭乗、賛は沢庵和尚です。その原作は、古くから茶人の間では有名で、現在は根津美術館に所蔵されています」というのである。
 この「松花堂昭乗」は、書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、近衛信尹(のぶただ)、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられている、その人である。
 そして、「沢庵和尚」とは、安土桃山から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、書画・詩文・茶道に通じ、江戸(東京)で没した一大の傑僧、その人である。
 とすると、この「馬追」は、沢庵和尚が江戸に呼ばれて東下りする途中に詠んだ和歌の「何ゆゑに おもに(主に・重荷)おほ津(大津・負ふつ)の うま(生ま・馬)れきて なれ(汝)もうき世(浮世)か 我もうきよに」を踏まえてのものなのであろう。
 そして、この三井家というのは、みな、それぞれに、高美(一成)、高清(宗徹)、高祐(宗節)、そして、高就(宗睦)と、茶人で、その伝統が、その背景に深く根ざしているのである。

 ここで、この三井家と現在の洛東遺芳館を旧邸とする柏原家というのは、洛東遺芳館が所蔵する「北三井家ゆかりの品々」(その紹介文など)を見ると、姻族関係にあり、その輪は、単に、両家だけではなく、当時の京都随一の両替商・那波屋九郎左衛門家などと結びついていたことが、一目瞭然となって来る。
 当時の京都の文化というのは、御所で象徴される公家文化と、二条城で象徴される武家文化と、五山の寺院に代表される僧侶文化の他に、新たに上記の三井家や柏原家を筆頭とする町衆に支えられた町人文化ともいうべきものが勃興し、それらの比重は、これまでの伝統的な格式を重んじる貴族的文化よりも、新興の自由溌剌とした庶民的文化へと軸足を移しつつあったということになる。
 そして、応挙と、応挙を祖とする「円山派」、さらに、蕪村の流れを汲む呉春が合体しての「円山四条派」の絵師たちは、江戸の「浮世絵」の浮世絵師と同じように、その活躍の場を拡大しつつ、京都画壇の主流と化していったということになろう。
 それは、専門的な町絵師(「円山四条派」の絵師たち)を頂点とし、その下に、三井家の当主たちのように、その絵師たちの指導下で趣味的に創作活動に励んでいる愛好者と、鑑賞や蒐集などを趣味とする愛好者と、ピラミッド型のように、その底辺の裾野が拡大していったということと歩調を一にしているということになろう。

 ここで、冒頭の、三井高就筆・大典和尚賛「 馬追」に再度戻って、その原作の賛(沢庵和尚)は、次のとおりのようである。

「何ゆへに 重荷おおつ(負う・大津)の うま(馬・生)れきて なれもうき世に 我もうきよに  と 馬おいのよみしは むへ(べ)もやさしき こころはへ(ばえ)なり」

 この「大津」は、三井家発祥の地の「近江(国)」、そして、「主に(重荷)」は、三井家の家業(主に「越後屋」の家業など)、そして、「大津馬」は、「大津の荷馬のように働く新興商人たち(三井家の当主など)」、そして、この「うき世」は、「うきよ(浮き世・憂き世)」の、「現世(江戸の「浮世絵」、京都の「円山四条派の絵」に象徴される、その現世)と解すると、何処かしら、「江戸中・後期の京師(京都)の画人たち」のイメージが鮮明になってくるのである。

補記一 「北三井家ゆかりの品々展」・「北三井家当主たちの書画」「三井家・柏原家・那波家」など

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記二 応挙の「郭子儀祝賀図」と山口素絢の「郭子儀図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-30

補記三  近世京都商人那波家の江戸店経営とその没落について

http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/17308.pdf

補記四 松花堂照乗年譜考(下)

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/1424/1/bunga_53_yamaguchi.pdf

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その九 塩川文麟) [洛東遺芳館]

(九)塩川文麟筆「兜に菖蒲図」(洛東遺芳館蔵)

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塩川文麟筆「兜に菖蒲図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2015.html

五月五日は端午の節句です。古代中国では、この日、厄除けにヨモギの人形と菖蒲を飾る風習がありました。それが日本に伝わりますが、次第に、武具が飾りに加わるようになります。菖蒲が「尚武(しょうぶ)」を連想させるためとも言われています。さらに旗に鍾馗や鯉が描かれるようになり、江戸時代後期には、鯉のぼりが登場します。上記(5の)作品には、菖蒲とヨモギの前に兜が描かれていて、兜には柏原家の家紋が入っています

 上記の紹介文に出て来る「柏原家の家紋」の「柏原家」とは、この「洛東遺芳館」のホームページの「黒江屋」の、その京都の本拠地で、その旧邸が「洛東遺芳館」である。この「洛東遺芳館」は、「現在の建物も幾多の大小火難を逃れ、数百年来の商家の体裁を保っている京都でも数少ないものであります」のとおり、天明八年(一七八八)正月の、いわゆる「天明の大火」でも罹災しなかった、稀有的な商家の一つである。
 この天明の大火の時、応挙は五条鴨川東の喜雲院に避難し、そこで偶然に呉春と同居するという、「円山四条派」にとっては、エポック的な出来事のあった年でもある。そして、何よりも、この柏原家は、当時の応挙の支援者であった。そして、後に、呉春も応挙を介して、この柏原家に出入りするようになり、応挙没後の呉春の有力な支援者となる。爾来、この柏原家と「円山四条派」との友誼関係は続くことになる。
 さて、その柏原家の端午の節句のお祝いに描いた冒頭の「兜に菖蒲図」を描いた作者・塩川文麟は、江戸中期・後期の画家というよりも、幕末・明治期の画家としても差し支えなかろう。
 享和元年(一八〇一)、京都の生まれ、没したのは明治十年(一八七七)、七十七歳であった。字は士温、号は雲章、別号は可竹斎・竹斎・泉声など。通称は図書。呉春の高弟・岡本豊彦門で山水画を得意とした。明治元年(一八六八)、画家の親睦団体である如雲社を主宰し、京都画壇における中枢的指導者となった。教育者としてもすぐれ、近代京都画壇の育成に貢献し、幸野楳嶺以下多くの俊英を門下から輩出させている。

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塩川文麟筆「花鳥図」襖絵(十二面のうちの一部)(京都御所・北の間)

 文麟は、安政二年(一八五五)の御所造営に参加し、新内裏に襖絵(上記「花鳥図)を制作するが、これは、紛れもなく応挙の世界のものであろう。
 そもそも、応挙は、天明八年(一七八八)の、いわゆる「天明の大火」の内裏御所焼失に際しての御所障壁画に一門上げて参加し、寛政二年(一七九〇)に完成させているが、
その応挙らの壁画は、嘉永七年(一八五四)の火災で焼失し、現存していない。
 その応挙ら壁画が焼失した後、「応挙」(一代)からすると、「応瑞・源琦・芦雪・呉春など」(二代)、「応震・景文・豊彦・義董など」(三代)の次の四代目(応立・文麟・来章など)が、現在の御所の造営に参加しているということになる。
 ちなみに、天明の大火の際の御所造営の、その応挙一門(応瑞・源琦・芦雪など)の中には、文人画(南画)の蕪村の流れを汲む呉春は入っていない。それは、御所との関わりなどの前歴を記載しての「禁中御用絵師任用願」などを提出して、その選考を経るというステップを踏むことと関係しているようである(『別冊太陽 円山応挙』所収「応挙年代記・五十歳から晩年まで・五十嵐公一稿」)。
 応挙と応挙一門の画人たちが参加した、寛政御所造営の障壁画が見ることは出来ないが、この文麟らの、応挙の流れを汲む「円山四条派」の画人たちが参加した、安政の御所造営の障壁画は、時に公開され今に目にすることが出来る。そして、その背後には、焼失してしまった幻の応挙らの、その障壁画の残像を宿していることは間違いない。

補記一 京都御所・北の間(塩川文麟筆「花鳥図」襖十二面)

http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori6.pdf

補記二 塩川文麟の師の岡本豊彦の「春慶墨画草花図 小吸物膳 十膳揃」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306117368-1

補記三 「呉春筆 寿老・鶴・亀 絹本着色」→「三井家」と「柏原家」との関係

「文政七年(1824)二月の江戸の火事で、三井家の江戸駿河町店が類焼しました。その時、柏原家の江戸本町店から多数の者が手伝いに出ました。同じ年の十二月、「則兵衛」から「御挨拶」(お礼)として「呉春三幅対」が贈られてきました。「則兵衛」とは北三井家六代目・高祐(たかすけ)で、彼は呉春のパトロンでした。柏原家に伝来している呉春の作品のうち三幅対はこの一点だけですので、これが則兵衛から贈られたものと思われます。」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その八「柴田義董」) [洛東遺芳館]

(八)柴田義董筆「飲中八仙図」(洛東遺芳館蔵)

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柴田義董筆「飲中八仙図」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

飲中八仙図は、杜甫の詩「飲中八仙詩」を絵画化したもので、唐時代の八人の大酒飲みを描いています。八人の中では、詩人の李白と書家の張旭がよく知られています。絵の作者は柴田義董です。呉春の弟子ですので、四条派の画家ですが、人物画を得意にしました。

 柴田義董(安永九=一七八〇~文政二=一八一九)は、字は威仲、号は琴緒・琴海など。通称喜太郎。備前(岡山県)の人で、京都で活躍した。呉春門下の最大画家と称せられ、人物・花鳥・走獣など幅広い画域を誇ったが、特に人物画を得意とし、「花鳥は(松村)景文、山水は(岡本)豊彦、人物は義董」と評された。四十歳の若さで逝去。下京の長講堂に葬られたとされるが、現在は確認できない。

 十八世紀の江戸中期時代の京都画壇は、応挙・若冲・大雅・蕪村・元直などを第一期とすると(安永六年=一七七七版『平安人物志』)、その応挙の「円山派」(源琦・芦雪・文鳴・徹山・守礼・雪亭・孝敏・応受・応瑞・南岳・規礼・楠亭・素絢・月僊・鶴嶺・東洋など)と蕪村門を経て応挙門で活躍する呉春などが第二期ということになろう。
 そして、その円山派(応挙派)は、初代・応挙、二代・応瑞、そして、三代・応震の頃には、呉春系(四条派)の画人(景文・豊彦・義董・月樵・孔寅・公長・広成など)が多く輩出し、「円山四条派」へと移行し、これらが第三期ということになろう。
 柴田義董は、応挙門というより呉春門で、この「円山四条派」の、応挙・蕪村(第一期)からすると第三期の画人で、応挙が没した寛政七年(一七九五)には僅か十五歳であり、義董は、応挙・蕪村らとの直接的な接触は無い時代の画人と解した方が良かろう。
 その上で、この冒頭の義董の「酒中八仙図」を鑑賞すると、まず、この「酒中八仙図」は、日本南画(文人画)の大成者の一人として知られている蕪村が、画巻や屏風絵などで傑作画を残している漢画の代表的な画題なのである。

飲中八仙図屏風.jpg

蕪村筆「飲中八仙図屏風」 絖本着色 六曲一双
各 一六六・〇×三七〇・〇㎝
「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展展示(「サントリー美術館」)

[ 飲中八仙とは、中国唐代の詩人・杜甫が「飲中八仙歌」(『唐詩選』巻二)で取り上げた、酒を好む八人の文化人のことで、賀知章(がちしょう)、李適手(りてきしゅ)、汝陽王李璡(なんようおうりしん)、崔宗之(さいそうし)、 蘇晋(そしん)、 李白(りはく)、 張旭(ちょうきょく)、 焦遂(しょうすい)をさす。本屏風はその詩に取材したもので、右隻右より、蘇晋、崔宗之、賀知章、汝陽王李璡、左隻右より李白、張旭、憔遂、李適手の順で描かれている。酔って両脇から供に支えられる李白の姿は、独立した主題として好まれたもので、しばしば絵画化された。彩色は緑や茶、淡青などの落ち着いて色を主体としつつも、右隻第一扇の画中画に描かれた布袋らしき人物の衣や、左隻の机および椅子など、朱色を効果的に使うことで、画面を引き締めている。署名は「謝長庚」、印章は「謝長庚」(白文方印)、「謝春星」(白文方印)、絖(ぬめ)に描かれた本作は屏風講時代、四十歳代後半に京都で制作されたとする指摘がある。『旧藤田男爵家別邸燈篭庭石及当市西陣新実家所蔵品入札』(昭和八年)に本屏風が掲載されている。 ](『前掲展示図録・解説(池田芙美稿)』)

 この蕪村の大作「飲中八仙図屏風」は、「山水・人物」画の構成なのだが、冒頭の義董の「飲中八仙図(掛幅)」は、「人物」画本位に仕立て、そして、その人物像は、蕪村風(写意風)よりも応挙風(「写生・写実風」)に描写しているところが、「蕪村・応挙・義董」の三者関連の一つの見所となって来よう。
 そして、これは、まさしく、蕪村と応挙とを、その二人を師とする呉春の、その「円山四条派」の、その流れを顕著にしている作品の一つということになろう。


補記一 蕪村の「鹿」、そして、義董の「鹿」(義董の「蕪村風」の接近)

蕪村の「鹿」図など

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%80%80%E9%B9%BF&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=HRSMN0hFPiTmQM%253A%252CjDrmlGhqkYKSRM%252C_&usg=__2_SUjgzex1lKCn0FfUhkHJo_L5o%3D&sa=X&ved=0ahUKEwjM2u-3r_LXAhUHzbwKHdkpAXIQ9QEINjAC#imgrc=HRSMN0hFPiTmQM:

義董の「鹿」図など

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9F%B4%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%91%A3%E3%80%80%E9%B9%BF%E5%9B%B3&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=8ck62VCQv4olCM%253A%252C-WTjSshMtWdmBM%252C_&usg=__gSD-i0aEnv2Y0jIevyVczMir414%3D&sa=X&ved=0ahUKEwip8MSYrPLXAhUNPrwKHU4nBBIQ9QEIMjAE#imgrc=0ZYXpm8hNYKdkM:

補記二 大雅の書「飲中八仙歌」(「根津美術館蔵)

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=00298

補記三 蕪村の「飲中八仙図襖絵」(銀閣慈照寺障壁画)

http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/g01.html



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その七「源琦」) [洛東遺芳館]

(七)源琦筆「布袋図」(洛東遺芳館蔵)

源琦三.jpg

源琦筆「布袋図一」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

布袋は唐時代の末に実在していた僧侶です。名を契此(かいし)といいますが、いつも布袋を背負っていたので、布袋と呼ばれました。後に禅僧たちにあがめられ、弥勒の化身とされました。民間でも信仰をあつめ、日本では七福神に入っています。この絵の画家は駒井源琦(こまい・げんき)です。円山応挙の弟子で、応挙の弟子の中でもっとも応挙の画風に忠実でした。この絵も全く応挙風です。

源琦は、延享四年(一七四七)京都の生まれ、寛政九年(一七九七)、師の応挙没後、二年の後に没している。一般に姓の源(みなもと)を音読みする。琦はその名。氏は駒井、字は子韞(しおん)、通称幸之助。とくに唐美人図を得意とし,同門山口素絢の描く和美人と併称された。また彩色に長じ,芦雪とともに応挙門の二哲と呼ばれた。応挙没後,応瑞を補佐して円山派を盛り立て,応挙画風を素直に継承した温雅な画趣を特色としている。
 さて、応門二哲の芦雪と源琦もともに布袋図を描いているが、源琦が冒頭の布袋図のように、応挙の「伝統性・理想性」に比重を置いているとすると、芦雪は応挙の「革新性・奔放性」に比重を置いているように思われる。
そして、それは、師の応挙の二面性に多く由来するもので、芦雪は、応挙の「革新性・奔放性」、そして、源琦は、応挙の「伝統性・理想性」に、より多く身を置いていたということが出来よう。

布袋二.jpg

応挙筆「布袋図二」(名古屋市立博物館蔵)

 雪舟の室町時代から布袋図は水墨画の主要な画題一つで、多くの画人が布袋図を残している。この応挙の「布袋図」は、それらの伝統を踏まえつつ、応挙ならではの革新性と奔放性とを重ね有している。そして、芦雪は、こういう応挙の革新性や奔放性を重視し、その視点を置いての多くの作品を残している。

布袋一.jpg

応挙筆「布袋図三」(個人蔵)

 この応挙の「布袋図三」は、先の「布袋図二」(「革新性・奔放性」)に比すると、応挙の作品の多くに見られる「伝統性・理想性」に比重が置かれた作品と理解できよう。そして、源琦は、終始一貫して、師の応挙の、この「伝統性・理想性」の世界により多く身を置いていたということになろう。
この源琦の、ひたすらに応挙一筋、ひたすらに、その「伝統性・理想性」一筋が、冒頭の「布袋図一」のように、師の応挙以上の、「応挙風・応挙らしさ・応挙様式」を具有して来るという、ここに源琦の世界があるように思われる。それは、応門随一といわれる源琦の「唐美人画」の世界に置いて、より顕著に窺い知れるであろう。


補記一 大乗寺(その十二 源琦筆「梅花遊禽図」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-11

補記二 源琦 富士図 

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「源琦は円山応挙の弟子の中でも、最も師の画風に忠実な画家でした。この作品も、応挙が描いた「四季富士図」四幅のうちの「春」によく似ています。近景の山並みには、稚松図から出てきたような若々しい松が描かれていて、春らしい雰囲気を醸しています。筆の線はほとんど残さず、穏やかな濃淡表現でまとめていて、とても新鮮な墨画という感じがします。」
(特記事項) 応挙は、「植松文書」(沼津原宿)によると、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、上記の「四季富士図」の「春」を描いたのであろう。そして、応挙門の側近の源琦も、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、この「富士図」を描いたのであろう。しかし、これは紛れもなく、応挙の「富士山」を踏まえての、未だ、応挙が描いていない「冨士山」の景を水墨画で描いている。

補記三 応挙筆「冨士巻狩図屏風」

https://blogs.yahoo.co.jp/nagoyawalker/62134735.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その六「山口素絢」) [洛東遺芳館]

(六)山口素絢筆「郭子儀図」(洛東遺芳館蔵)

山口素絢.jpg

山口素絢筆「郭子儀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

郭子儀は唐時代の武将です。自身栄達しましたが、子孫もみんな出世しました。ですから郭子儀図には子孫繁栄の願いが込められています。山口素絢は円山応挙の弟子です。この作品は応挙の「郭子儀図」(三井記念美術館)を写したものです。

山口素絢(やまぐちそけん、宝暦九年=一七五九~ 文政元年(一八一八))は、応門十哲の一人に数えられている。通称は武次郎、字は伯後、号は山斎など。京都の人。円山応挙に画技を学び,寛政七年(一七九五)大乗寺障壁画制作(後期)に参加している。文化十年(一八一三))版の『平安人物志』により、そのころ祇園袋町に住していたことがわかる。人物画をよくして時様の和美人を得意とし、兄弟子の源琦の唐美人と併称された。
 さて、冒頭に掲げた「郭子儀図(素絢筆)は、次の「郭子儀祝賀図」(応挙筆)の模写絵である。

郭子儀祝賀図.jpg

「郭子儀祝賀図」(応挙筆)一幅 絹本着色 一七七五(安永四)一一八・〇×五八・五cm
三井記念美術館蔵
「郭子儀は唐時代陜西華州の人で、数々の武功に輝く名将である。八男七女をもうけ孫は数十人、長寿を誇ったという。老夫妻を頂点に人物が環状に配される構図は、この故事を絵画化したものである。本図は三井高美から実弟である高彌へ隠居祝いとして贈られた。商売にあまり熱心でなかった高美に代わり、高彌は三井家の家業をよくまとめたのである。子孫繁栄と長寿を慶ぶ郭子儀の顔は、なんと高彌の肖像で描かれている。」(『もっと知りたい 円山応挙(樋口一貴著)』)

 応挙は、この郭子儀について、大乗寺障壁画の「郭子儀の間」でも、その襖絵を描いているが、これと全く同じ図柄で、その着衣の色だけを異にしたものを描き、さらに、その「郭子儀図粉本」まで、今に残している(「東京国立博物館(植松家旧蔵)」・「郭子儀携小堂図」「郭子儀図粉本」)。
 すなわち、応挙は、「人物画」「花鳥画」「山水画」などの主たる画題(モチーフ)について、この種のマニュアル(粉本・下絵等)を作成しておいて、制作依頼の需に応じて、いわゆる、応挙工房(応挙と側近門人たち)で、門弟たちが応挙の代筆なども可能にしていたように思われる。
 そして、これらのことは、当時の狩野派にしろ琳派にしろ、障壁画などの大作を制作するような場合には、そういうマニュアル・手順書の類いのものは必須であって、今日の芸術品とか美術品とかを鑑賞する視点とはやや異なるという思いを深くする。
 また、当時の応挙にしろ、蕪村にしろ、芸術家と同意義の「画家・画人」という意識よりも、職人的な「絵師・画工」、そして、何人かで制作する場合のリーダー格は、「絵師・画工の棟梁」(「大乗寺文書(応挙書簡)」など)というような意識だったような思いを深くする。
 冒頭の素絢の、師・応挙の「郭子儀祝賀図」の模写絵のような作品も、「子孫繁栄・長寿」の吉祥的な贈答品の類いのものと理解するのが妥当なのかも知れない。
この「郭子儀祝賀図」の郭子儀の顔は、三井家惣領家(北三井家)四代目高美が一族から義絶された後に、暫定的に高美の跡を継いだ高美の実弟高彌(三井新町家三代目当主)の肖像で描かれているとのことで、こと、三井一族に取っては、この高彌肖像の「郭子儀図」というのは、需要が多く、そんなことと関係しているのかも知れない。
 というのは、そもそも、この三井家四代目の高美は、「大乗寺文書(円山派名簿)」(補記一)に、「京都三井八郎右衛門」と、その名が登場する、列記とした「円山派」の画人の一員なのである。そして、その血筋は、面々と、三井家六代目・高祐、七代目・高就、八代目・高福などが、応挙・応瑞・応震と引き継がれていく円山派の画人として、その作品を今に残している(補記四)。
とすれば、「京都三井八郎右衛門」(三井家惣領家)周辺においては、この種のもの(素絢筆「郭子儀図」)の制作依頼も多かったと解することも可能であろう。
 そもそも、絵師になるために画塾のシステムというのは、口伝による秘伝のようなもので、「臨写を以て始め臨写を以て終る」(橋本雅邦「木挽町絵所」)の、模写教育というのが中心であったのだろう。
 しかし、一人前の絵師になるには、この模写の世界から、自らの創意工夫による、いわゆる「新図」的な世界を会得しないと、例えば、後世に「応門十哲」の一人と目せられるようなことはなかろう。
 そして、「応門十哲」の一人と目せられている山口素絢は、まぎれもなく、応挙の「人物画」の世界を超え、素絢ならではの「美人風俗画」的世界を構築していることが(補記五)、その証左の一つになろう。そして、それらのことが、素絢をして「和美人画に関しては円山派随一」との評価を得ている背景なのであろう。

補記一 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-21

補記二 大乗寺障壁画「郭子図襖」(応挙筆)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-22

補記三 東京芸術大学蔵(植松家旧蔵)「郭子儀携小童図」(応挙筆)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007134

補記四 三井家当主(六代目・七代目・八代目)の作品など

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記五 山口素絢筆「百美人図」について―関連作品との比較から―

https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/23180/039000140008.pdf



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その五「東洋」) [洛東遺芳館]

(五)東洋筆「冨士三保松原図」(洛東遺芳館蔵)

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東洋筆「富士三保松原図」(絹本着色)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

東洋の絵には、どこか素朴で懐かしくなるようなところがありますが、この作品では、特に波の表現にそれが感じられます。しかし、空間表現は高度なもので、近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士と、四段階の遠近法が用いられています。
彩色が次第に薄くなる空気遠近法も効果的で、大きくて、しかも遠方にあるという富士山の表現に成功しています。

 東東洋は、宝暦五年(一七五五年)、現在の登米市石越町の生まれ、 天保十年(一八三九)、八十五歳で没。当初狩野梅笑に狩野派を学び、のち、上洛して円山応挙・池大雅等に師事し、法眼に叙せられた。姓・氏は東、名・通称は洋。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。晩年は帰郷して陸奥仙台藩の御用絵師となる。近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。
 十五歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑から本格的に絵を学ぶ、十八歳の頃、江戸に出て、さらに、二十歳の頃、上洛し、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば各地を歴訪しつつも、京都を中心に活動する。
 三十歳代初めにかけて、長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、天明五年(一七八五)の頃京に再帰し、応挙に師事したのは、この頃であろうか。そして、応挙を介してであろうが、妙法院真仁法親王と親交を結ぶようになる。
 法眼に叙せられたのは、応挙が没する寛政七年(一七九五)前後のことで、寛政八年(一七九六)、四十二歳の時に、仙台藩の絵画制作に携わるようになるが、その仙台藩の仕事を携わる一方、活動の拠点は京都であり続けた。京都から仙台へ帰郷したのは、文政八年(一八二五)、七十一歳の頃で、墓は、仙台(若林区荒町にある昌傳庵)と、京都(下京区にある聖光寺)にある。
東洋は、呉春の「四条派」の画人としているものもあるが、応挙の「円山派」の画人の方がより妥当であろう(『別冊太陽 円山応挙』所収「円山四条派系図」)。
 呉春も東洋も、妙法院宮真仁法親王(光格天皇の兄)の知遇を得、いわゆる、妙法院サロンの有力メンバーの一員なのであるが、それは、応挙の推挙によるものであろう(『応挙・呉春・芦雪(山川武著)』)。ちなみに、応挙の「墓石」に見る「源応挙墓」の四字は、妙法院宮真仁法親王の筆である(『山川・前掲書』、現在「悟真寺」は右京区太秦の地に移されている)。
 そのサロンには、文人・歌人・儒者等の、「伴蒿蹊・小沢蘆庵・慈延法師(大愚)・賀茂季鷹・上田秋成・岡本保考・香川景樹・皆川淇園・村瀬栲亭・釈慈周(六如)」等々、そして、画人には、「応挙・呉春・東洋」等が名を連ねている(「補記一」の画人や「賛」をしている文人等とオーバラップしている)。
 また、東洋については、下記(「補記」三)のものが詳しい。ここでは、冒頭の「富士三保松原図」に関連して、「大雅・応挙」などの「遠近法」などについて触れて置きたい。

 「遠近法」(透視遠近法)というのは、「近くものを大きく、遠くのものを小さく一点に収束するように描く」描法で、古来の日本画や東洋画の描法ではなく、新しく西洋画(ルネッサンス期に体系化された)をルーツとしているものである。
 この「遠近法」について、応挙は、そのスタートの時点で、「玩具店尾張屋」に奉公し、「眼鏡絵」という風景画を描くことを通して、この「遠近法」という描法を自分のものにし、そして、その上で、「写生」を基調とする「応挙風様式」という画法を樹立していった。
 この東洋の「富士三保松原図」は、その応挙の「遠近法」を明確に意識し、「近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士」と、四段階の遠近法を駆使している。そして、この「富士三保松原図」の主題は、大雅が繰り返し主題にしているもので、例えば、「冨士十二景」の「寒林柴扃図(かんりんさいけいず)」(東京芸術大学蔵)と、同一趣向のように解せられる。
 しかし、この大雅の「冨士十二景」(「補記」二)においては、応挙のような、西洋画的な「遠近法」ではなく、東洋的な「遠近法」(高遠は山の下から頂を仰ぎ見る形式、深遠は山の前から後をのぞきうかがう形式、平遠は近山から遠山を望み見る形式)が主たるものと解せられる。
 そして、この東洋の「富士三保松原図」は、大雅と応挙とに学んだ成果を活かして、大雅が試みていた「高遠・深遠・平遠」の東洋的な「三遠法」を、応挙風の「透視的遠近法」に置き換えている点に、東洋の、この絵に託しての狙いがあるように解せられる。


補記一 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲、「(その一)」などは掲載メモ)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」    (「その五」で「冨士十二景図など) 
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛       (その五)
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

補記二 大雅筆「冨士十二景図」(東京芸術大学蔵)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/239493

補記三 東東洋《花鳥押絵貼屏風》──ほのぼのと味わい深い風情「樋口智之」

http://artscape.jp/study/art-achive/10139894_1982.html

補記四 東洋筆「東方朔(とうほうさく)」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

補記五 二条派から古学派へ―堂上歌学の変容と地方への伝播

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_snippet&page_id=13&block_id=21&index_id=126&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese

補記六 東洋と芦雪など

 『書画聞見集(澹斎著)』に、仙台の画人東東洋が京都で見聞したこととして、「芦雪は傲慢な性格で、応挙の死後自分が一番と慢心したため、画はいよいよ悪くなり貧窮して、ついに大阪へ行って自ら首を吊った」ということが記されている。(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」安村敏信著)

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その四「呉春」) [洛東遺芳館]

(四)呉春筆「孔雀図」(洛東遺芳館蔵)

孔雀図.jpg
呉春筆「孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

 呉春は京都の生まれですが、一時、摂津の池田に住んでいました。池田で呉春の作品を対象にした「掛物講」が開かれ、その記録が『池田人物誌』に記録されています。披露される掛物の体裁は決まっていて、縦四尺余、絖の唐表具、撥軸の一幅でした。第二回目の掛物講は天明六年(1786)六月四日で、「松樹に孔雀」が披露され、その表具は「柳茶の絖で明朝仕立て、大一文字は茶の竹屋町」でした。この特徴は全て本作品と一致します。

 『呉春(逸翁美術館編)』の「年譜」によると、呉春の池田寓居は、天明元年(一七八一)、三十歳の時から、寛政元年(一七八九)、三十八歳の頃までの八カ年ということになる。
 その「天明元年(一七八一)」には、「三月晦日妻雛路事故死 八月二十八日父匡程江戸で客死 秋摂津池田に移る」とあり、「寛政元年(一七八九)」には、「五月、池田を引払い、京都四条に住 十月二十三日、几董伊丹で急逝 追悼集『鐘筑波』に付句一、発句一」とある。
 この呉春の八年にわたる池田時代の大きな出来事として、天明三年(一七八三)十二月の蕪村の逝去と、天明八年(一七八八)正月二十九日の天明の大火があげられる。
そして、蕪村没後の天明七年(一七八七)の、応挙一門の「大乗寺障壁画」(前期)に参加し、その「郡山露頂図」(襖絵)を描き、それに関する「大乗寺文書」では、「応挙門人」ではなく「蕪村高弟」と記述されている。
 さらに、天明大火後の、応挙が没する寛政七年(一七九五)の「大乗寺障壁画」(後期)にも参加し、応挙の「松孔雀図」(襖絵)の完成に併せて、呉春は「四季耕作図」(襖絵)を完成させている。
 この前期の「郡山露頂図」は、蕪村晩年の「峨嵋露頂図」や「衡岳露頂図」の連作のような、蕪村風の山水画の趣なのであるが、後期の「四季耕作図」は、それまでの蕪村風から写生を基調としての応挙風への接近が如実に顕われているものであった。
 ここで、冒頭に掲げた天明六年(一七八六)の「孔雀図」と、その翌年の天明七年(一七八七)の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」を併せて鑑賞すると、「蕪村・応挙・呉春」の三者の画風について、次のようなことを指摘して置きたい。

一 呉春の「孔雀図」は、蕪村晩年の漢画を基調にしての「山中採薬図」(下記図)と同じ頃の作品であろう。そして、「山中採薬図」の、この「松樹」の描法は、そのままそっくり、「孔雀図」の「松樹」と重なってくる。そして、この「孔雀」は、蕪村の孔雀というよりも、応挙の孔雀に近いものであろう。そして、呉春にとって、蕪村と応挙というのは、蕪村在世中から、やはり、目標とすべき画人であったと解したい。

山中採薬図.jpg
呉春筆「山中採薬図」(逸翁美術館蔵)

二 この「山中採薬図」(呉春筆)を介在して、蕪村の「漢画」(「俳画」などを除く)は、応挙の「漢画」(「狩野派・土佐派」に対しての「漢画」)と、「写意(蕪村風)・写生(応挙)」の根本的なものは別にして、やはり、共に、「中国山水画・花鳥画」(「銭舜挙・沈南蘋」等)から多くのものを摂取しようとしていたことが了知され、その点においては、この「蕪村・応挙・呉春」の、それぞれの「漢画」の世界は、同一趣向のものであったと解したい。

三 その上で、呉春の、「蕪村(風)から応挙(風)」の転換というのは、一つの自然の流れで、例えば、天明七年(一七八七)作の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」の、この劇的な変化も、それは、主題(モチーフ)に対する、作者・呉春の姿勢に因るものであって、そして、その自然の流れというのは、その後の、「円山派」(応挙風)と「四条派」(呉春風)との流れにいえることで、その峻別に、ことさら視点を当てる必要がないと解したい。

補記一 呉春筆「郡山露頂図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-06

補記二 呉春筆「四季耕作図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-08

補記三 呉春筆 「山水(襖絵)」「竹に亀・寿老人・松に鶴(掛軸三幅対)」等

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その三「蕪村」) [洛東遺芳館]

(三)蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」(洛東遺芳館蔵)

遺芳館一.jpg
蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」

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真ん中の人物が呂恭です。薬草を採りに大行山に出かけた呂恭は、山中で仙人に会います。二日、仙人たちと過ごして、家に帰ってみると、二百年が経っていたという話です。
 この話は『列仙全伝』という本に出ていますが、それには挿絵があって、そこに描かれている呂恭と二人の従者の姿は、この絵での彼らの姿に似ていて、蕪村は『列仙全伝』の話だけでなく、挿絵も参考にしていたことが分かります。

『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』では、「絵画・完成期(明和七~安永六年)」中に、次のように紹介されている。
[207 呂恭大行山中採芝図 絹本着色 一幅 一三〇・三×六七・六cm 款「呂恭大行山中採芝図 謝春星」 印「謝長庚」(白文方印) 「謝春星」(白文方印)  洛東遺芳館蔵 ]

 先に(その一)、安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の「五柳先生」について紹介し、
蕪村自身、「五柳先生」と題する作品があることについて触れたが、この「呂恭大行山中採芝図」も、その「五柳先生図」と同時の頃の作品であろう。
 『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の、配列(通し番号)は、「207 呂恭大行山中採芝図」「220 五柳先生図(写於夜半亭謝春星)」「221 五柳先生図(謝春星写於三菓堂中)」の順で、この時期は、この種の『列仙全伝』に関わる漢画系統の作品が多い。
 蕪村と応挙との交遊関係が何時頃から始まったのかは定かではないが、蕪村の「絵画・完成期(明和七~安永六年)」の、明和七年(一七七〇、蕪村・五十五歳、応挙・三十八歳)から安永六年(一七七七、蕪村・六十二歳、応挙・四十五歳)の頃が、一応の目安として差し支えなかろう。
 時期は定かではないが、蕪村が応挙を主題とした次の句がある。

  筆灌(そそ)ぐ応挙が鉢に氷哉 (『蕪村全集一』では「安永九年」作で収載)

句意は、「応挙が絵筆を灌ぐ筆洗い鉢に氷が張っている。その氷は、この寒気の中で画作に専心している作者の鮮烈さを象徴しているかのようである」というようなことであろう。

応挙合作一.jpg
「狗子図画賛」応挙筆・蕪村賛 一幅 紙本墨画 一九・六×二六・八cm 個人蔵

 応挙の画に、蕪村が句を賛した「応挙・蕪村」の合作の小品として夙に知られている作品である。この蕪村の句、「己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋」は、
『蕪村句集(几董編)』では、「丸山氏が黒き犬を画(えがき)たるに、賛せよと望みければ」との前書きが付してある。
 この前書きと句を一緒にして、鑑賞すると、「円山氏(応挙)が黒き犬を描いて、それに賛せよと懇望されたので、『己が身の闇より吼て夜半の秋』と吟じて賛をした。句意は、『黒い犬は、己の心の闇(黒=煩悩)に慄いて吼え立てるのであろうか』というようなことです」と、応挙と蕪村とが一緒の席で、制作されたものと解せられるであろう。
 しかし、「蕪村叟消息・詠草」には、「くろき犬を画(えがき)たるに賛せよと、百池よりたのまれて」との前書きで、この応挙の黒き犬の画に「賛をせよ」と蕪村に懇望したのは、蕪村の若き門弟の寺村百池(寛延元年=一七四八~天保六年=一八三六)、その人というこになる。
 そして、この百池は、夜半亭門で俳諧を蕪村に、絵は応挙に、茶は六代藪内紹智に師事している。百池の寺村家は、京都河原町四条上ルに住している糸物問屋で、父三右衛門(俳号=三貫など)は、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)門で、蕪村にも師事している。すなわち、三貫・百池の寺村家は、親子二代にわたり、夜半亭門で、共に蕪村に師事し、そして、蕪村と夜半亭門の有力後援者なのである。
 おそらく、画人蕪村と応挙との交遊関係の背後には、この百池などが介在してのであろう。

 己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋 (『蕪村句集』他)

 この蕪村の句も、そして、この句の背景にある応挙の画も、小宴(酒宴など)の後の、席画的な「戯画・戯句」の類いのものではない。もとより、応挙の「狗子画」は、応挙の得意中の得意のレパートリーのもので、それは、「思わず抱き上げたくなる可愛い狗子たち」で、人気も高く、応挙の、この種の作画は多い。
 その中にあって、上記の「狗子図画賛」の、応挙の、この「一匹の黒き狗子」は、蕪村にとって、「煩悩の犬」「煩悩の犬は打てども去らず」を思い起こさせたのであろう。この「一匹の黒き狗子」は、蕪村自身であり(この句の「夜半の秋」の「夜半」は、それを暗示している)、同時に、この「一匹の黒き狗子」を描いた応挙の心の中にも、この「黒き闇、そして、煩悩の犬」が巣食っていることを、瞬時にして、見抜いたのであろう。
 蕪村にとって、「黒き闇、そして、煩悩の犬」とは、「夜半亭俳諧と謝寅南画の飽くなき追及」であり、そして、応挙にとって、それは、「応挙画風の樹立と革新的『写生・写実画』の飽くなき追及」というようなニュアンスに近いものであろう。

 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉      (「詠草・蕪村遺墨集」) 
 己が身の闇より吼て夜半の秋   (「詠草・蕪村叟消息」)

 この蕪村の応挙に対する「筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉」は、同時に、応挙の蕪村への返句とすると、次の「応挙を蕪村」に変えての本句通りのものが浮かんで来る。
 
 筆灌ぐ応蕪村が鉢に氷哉  

補記一 「蕪村筆 呂恭大行山中採芝図」「応挙筆 虎図」「呉春筆 孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

補記二 応挙の「狗子図」など

http://ommki.com/news/archives/4146

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その二「円満院祐常」) [洛東遺芳館]

(二)円満院祐常筆「冨士」

円満院祐常.jpg

円満院祐常筆「冨士」((洛東遺芳館蔵))

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

祐常(ゆうじょう)は二条家(にじょうけ)の出身で、大津(おおつ)の円満院(えんまんいん)の門主を務めました。円満院の祐常のもとには、円山応挙(まるやまおうきょ)が出入りしていたこと知られていますが、 祐常も瀟洒な作品を残しています。展示した作品は、輪郭線は使わず、薄墨だけで富士を表わしています。賛の和歌「たちのぼる、雲も およばぬ、ふじのねに、けぶりをこめて、かすむ春かな」は九条尚実(くじょうひさざね)の書ですが、絵とピッタリと意気が合っています。

 応挙の前半生に影響を与えた人物の筆頭格は、円満院祐常であろう。祐常は五摂家の一つの二条家の生まれ、実父は右大臣の吉忠である。十二歳で得度して門跡寺院である円満院に入り、後に大僧正に任じられている。
 祐常は、一七六一年から一七七三年まで日常の諸事万端を『萬誌(ばんし)』という書物に残している。そこに、応挙の名が出てくるのは、六五年(明和二年)、三十三歳の時からである。祐常自身、絵の心得があったが、応挙のパトロンであると同時に、応挙門で応挙に絵の指導を仰いでいたのであろう。
 この二人の関係から生まれた代表的な作品が、「七難七福図巻」(「天災巻」「人災巻」「福寿巻」相国寺蔵)で、「天災巻」は、三二・二×一五九〇・八(約一六m)、「人災巻」は、三二・〇×一〇六一・八(約一一m)、「福寿巻」は、三二・二×一二〇八・〇(訳一二m)と、空前絶後の長大横長の図巻である。
 祐常は、応挙に、祐常自身が描いた下絵を示しながら、「何年かかっても良いから応挙自身が見聞き、体験し、そして、目のあたりにしたものをリアルに描いて欲しい」と懇請し、それに応えた応挙は、明和二年(一七六五)から明和五年(一七六八)の、足掛け四年の歳月をかけて、この作品を完成したという。
 この明和二年(一七六五)、応挙、三十三歳から、明和五年(一七六八)の、応挙、三十六歳に掛けての、この「七難七福図巻」に関わる、応挙の真摯な「見聞・体験・実写・模写」等々の、その「創意(計画)・実践(試行)・確認(相互評価)」の繰り返しが、その後の、「応挙・円山派・円山四条派」の礎になったことは、応挙の、その作品の、その前半生と後半生とを分けて、つぶさに鑑賞するならば、自ずから了知されるものであろう。

補記一 洛東遺芳館について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

補記二 萬野美術館と相国寺承天閣美術館など

http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10715.html

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など

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諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京都の画人たち」(その一「応挙」) [洛東遺芳館]

(一) 応挙筆「五柳先生」

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応挙筆「五柳先生」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の作品です。五柳先生とは陶淵明のことです。
陶淵明の自伝と言われる「五柳先生伝」の中に、「宅辺に 五柳樹あり」とあります。この作品では、その柳と頭巾が陶淵明である ことを示しています。籬の下に菊が描かれているのは、陶淵明の有名な詩の一節「菊を採る東籬のもと」に基いています。いかにも応挙らしい円満な表情が特徴です。」

 この安永五年(一七七六)四月十三日、大雅が五十四歳の生涯を閉じた。当時、六十一歳の蕪村は、「大雅堂も一昨十三日故人と相成り候。平安の一奇物、をしき事に候」との書簡(安永五年四月十五日付け霞夫宛書簡)を今に残している。
 その前年の『平安人物志』(安永四年版)の画家の部には、「応挙(四条麩屋町西エ入町)・若冲(高倉錦小路上ル町)・大雅(祗園下河原)・蕪村(仏光寺烏丸西エ入町)」の順で、今に時めく四人の名が登載されている。
 この四人は、謂わば「応挙工房・画塾サロン」「若冲錦小路サロン」「大雅書画サロン」「蕪村画俳サロン」というような、一部、共通するメンバーを抱え、近接な場に居を構えていながら、それぞれ活動の場を異にしていて、相互の交流関係というのは、それほど密ではない。
 同年齢の「蕪村・若冲」とは、若冲が生粋の京都人とすると、蕪村は浪華の在の生まれで江戸放浪などを経て帰洛した他所人で、蕪村、若冲のどちらの側からも、この二人の直接的な交遊関係の接点というのは見えてこない。
 「蕪村・大雅」とは、共に日本南画の大成者として、画人としては、同じ文人画・南画というフィ―ルドで活躍しながら、今に「十便十宣図画冊」(「十便図=大雅筆」「十宣図=蕪村筆)の合作(鳴海の下郷学海の斡旋)を残すくらいでで、この二人の親密な関係というのも、これまた見えて来ない。
 この四人の中で、「蕪村・応挙」との関係は、この二人が茶屋などで小宴を催し、応挙が猫の戯画、蕪村が杓子の戯画と「ぢいもばばも猫もしゃくしもおどりかな」の戯句を賛しての、「猫も杓子も図画賛」(蕪村・応挙合作)などが今に残されており、比較的親密であったことが了知される。

 ここで、冒頭の「五柳先生」(応挙筆)に関連して、「蕪村」の号の由来は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」とし、続けて、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意であり、すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「『帰るに帰れない』、その脳裏にのみ存在するものであった」(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)というのが、大方の「蕪村の号」の由来の、その根拠というようなことになろう。
 さらに、続けるならば、蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人で、且つ、応挙に、亡き蕪村の高弟として遇せられる月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖節(淵明)詩集』に挟まれていた、師(蕪村)自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 翻って、その文人画家・蕪村のスタートを飾った作品も、「陶淵明山水図(中村美術サロン蔵)」で、『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の第一番目に登載されているのを始め、次のようなものが紹介されている。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)
48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)
二 絵画・完成期(明和七~安永六)
220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

 上記のとおり、蕪村の「五柳先生図」と題するものも、二点ほどあり、これらの、蕪村の「陶淵明(五柳先生)」にあやかり、応挙風の「「陶淵明(五柳先生)」の、応挙にしては、
その、蕪村(「五柳先生」のイメージの強い)への、俳諧(連句)の、挨拶句的な意味合いの強いものという雰囲気で無くもない。

 いずれにしろ、この応挙筆の「五柳先生」(陶淵明)は、陶淵明(五柳先生)」と深い縁のある蕪村との、「応挙と蕪村」との、知られざる何かを語っているイメージを受けるのである。

補記一 蕪村と月渓が描いた陶淵明像

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-13

補記二 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

補記三 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-01

補記四 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-03


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