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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十五)  [芭蕉翁像]

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」

俳仙群会図.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」図録の「作品解説1」は、次のとおりである

【絹本着色 三五・〇×三七・〇
款記   朝滄写
印章   丹青不知老至(白文方印)
柿衛文庫蔵

後賛詞(上部)
 此俳仙群会の図は元文の
 むかし余若干の時写したる
 ものにしてこゝに四十有余年
 に及へりされは其拙筆
 今更恥へしなんそ烏有と
 ならすや今又是に
 讃詞を加へよといいふ固辞
 すれともゆるさすすなはち
 筆を洛下の夜半亭にとる
 花散月落て
  文こゝに
   あらあり
    かたや
 天明壬寅春三月
 六十七翁蕪村書
 印章 謝長庚印(白文方印) 溌墨生痕
賛(下部)
 元日や神代のこともおもはるゝ(守武)
 鳳凰も出よのとけきとりのとし(長頭丸・貞徳)
 これはこれはとはかり花のよしのやま(貞室)
 手をついて哥申上る蛙かな(宗鑑)
 ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け(梅翁・宗因)
 古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 桂男懐にも入や閨の月(やちよ)
 古暦ほしき人にはまいらせむ(嵐雪)
いなつまやきのふはひかしけふは西(其角)
 はつれはつれあはにも似たるすゝき哉(園女)
 かれたかとおもふたにさてうめの花(支考)
 こよひしも黒きもの有けふの月(宋阿)
 任口上人の句はわすれたり
  平安蕪邨書
 印章 謝長庚(白文方印) 謝春星(白文方印)

 後賛詞「元文のむかし余若干の時写したるものにして」によれば、元文年間、蕪村二十代前半の作で、現存する原本作品中最も古いものということになる。芭蕉を初めとする俳仙に、師・宋阿を加えた計十四人の俳人が描かれている。後賛詞に誤りがなければ、宋阿像は生存中の宋阿を描いたことになる。一方では、この作品の制作時期を、丹後時代とする説もある。描いた年代の記憶は、時と共に曖昧になるのが常だが、自身の師の像を生存中に描いたか否かの記憶は、早々薄れるものではない。したがって、蕪村の後賛詞は信ずるに足るものであると考えられる。人物の表現に関しては、「狩野・土佐折衷様式を持つ江戸狩野の特色が強い」との指摘がなされている。 】

 この「作品解説(北畠健稿)」の基本的な考え方は、「柿衛文庫」の創設者・岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』所収「俳仙群会図」の解説を踏襲している。その解説は次のとおりである。

【右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

 (「賛」の句・落款を省略)

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

 (「後賛詞」の句文・落款を省略)

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 以下、略 】

 ここで、蕪村の画号の「朝滄」は、蕪村の関東歴行時代(元文元年・一七三六~寛延三年・一七五〇)には見られない(画号は「子漢・四明・蕪村」の三種類だけである)。そして、印章は、「四明山人・朝滄・渓漢仲」で、「朝滄」(二種類)が用いられている。
 問題は、「丹青不知老到(タンセイオイノイタルヲシラズ)」の遊印で、いみじくも、この遊印は、同年齢の蕪村と若冲とが、同じ頃、それぞれが、それぞれの自己の遊印として使用しているという曰くありげな印章なのである。
 即ち、この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
 この宝暦九年(一七五九)・宝暦十年(一七六〇)というのは、若冲・蕪村が、四十四歳・四十五歳の時で、杜甫の詩に由来のある「丹青(絵画)老イノ至ルヲ知ラズ」は、「不惑ノ年=四十歳=初老」と深く関わっているように思われる(これらのことについては「補記」を参照)。
 蕪村が、不惑の四十歳を迎えるのは、宝暦五年(一七五五)で、その前年に丹後宮津に赴き、以後、この宮津滞在中に「朝滄」の号で多くの画作を残している。こういう観点から、二十歳代の蕪村(「宰町・宰鳥」時代)が、「朝滄」という画号はともかく、「丹青不知老到」という印章を使用するとは、まずもって不自然ということになろう。
 とすると、この「後賛詞」の「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」とは、
この「俳仙群会図」の下絵など(「控え帳」などの「縮図」など)を指し、それに基づいて、丹後時代に本絵を仕上げたという意味にも取れなくも無い。
 そして、この「後賛詞」を書いた、亡くなる一年前の天明二年(一七八三)に、蕪村は二枚の表情の異なる「芭蕉翁像」(座像)を描いている(その十三を参照)。それらの「芭蕉翁像」と、この「俳仙群会図」の、この「後賛詞」とは、やはり、何かしら縁があるように思われる。
 いずれにしろ、この「俳仙群会図」中の、無帽の座像の「芭蕉像」は、それが、元文年間の駆け出しの二十歳代のものにしろ、宝暦年間の不惑の年の四十歳代のものにしろ、蕪村の「芭蕉像」の、そのスタート地点のものであることには、いささかも変わりはない。
 そして、蕪村が亡くなる一年前の、六十七歳時の、この「俳仙群会図」の「後賛詞」の末尾に記した、「花散り月落ちて文こゝにありあらありがたや」の、この字余りの破調の句は、「花が散る、月が落ちるように、芭蕉翁、師の宋阿翁をはじめ、皆、俳仙の方々は鬼籍の人となったが、その句文は今に存して、道しるべとなっている。何とありがたいことであることか」というのは、「六十七歳・蕪村翁」の、万感の意を込めてのものであろう。
 この「俳仙群会図」は、蕪村の生涯、そして、蕪村の芭蕉観を知る上での、極めて、重要且つ示唆深い作品の一つということになろう。

俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(補記)「若冲と蕪村の『蝦蟇・鉄拐図』」より「朝滄」と「「丹青不知老(将)至」関連(抜粋)

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十四)  [芭蕉翁像]

その十四 眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点について、
これまでに、「④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)を除いて、全て、概括してきた。今回、この最後の一枚を見て行きたい。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年作=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その十四)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

蕪村遺芳.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「89『芭蕉像』画賛」

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「89『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅 
一〇〇・一×三〇・七cm
款 「夜半亭蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  後掲
『蕪村遺芳』
(賛)
蓬莱に聞はやいせの初便
先たのむ椎の木も有夏木立
名月や池をめくりて終宵
海くれて鴨の声ほのかにしろし

 この「芭蕉像」は白帽子である。「安永八年作=一七七九作」の「① 座像」「② 半身像」「③ 座像」も、白帽子であった。その特徴からする、その「安永八年(一七七九)」の、金福寺に奉納した「③ 座像」と、同一時頃の作品なのかも知れない。
 ここで、「国文学 解釈と鑑賞(特集与謝蕪村)837 2001/2」所収「蕪村の描いた芭蕉(早川聞多稿)」で紹介されている「芭蕉像に賛された発句一覧(句の上の数字は引用回数、句の下に、詠句年齢・出所出典)」を、以下に掲げて置きたい。
 ※は、この賛にある句である。

⑥ 芭蕉野分して盥に雨をきく夜かな (三八歳・茅舎の感)
⑤ 花にうき世我我酒白く飯黒し   (四〇際・虚栗)
⑤ 夏衣もいまだ虱を取り尽さず   (四二歳・野ざらし紀行)
④ 名月や池をめぐりて夜もすがら  (四三歳・あつめ句)   ※
③ わが衣に伏見の桃の雫せよ    (四二歳・野ざらし紀行)
③ 海暮れて鴨の声ほのかに白し   (四二歳・野ざらし紀行) ※
③ 世にふるもさらに宗祇のやどりかな(四三歳・笠の記)
③ おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな (四五歳・鵜舟)
③ 朝夜さに誰がのつしまぞ片心   (四五歳・桃舐集)
③ 行く春や鳥啼魚の目は泪     (四六歳・奥の細道)
③ 物いへば唇寒し秋の風      (四八歳頃・芭蕉庵小文庫)

③ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便    (五一歳・真蹟自画賛)  ※
② 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  (四二歳・野ざらし紀行)
② あけぼのや白魚白きこと一寸   (四二歳・野ざらし紀行)
② 年暮れぬ笠着て草鞋はきなから  (四二歳・野ざらし紀行)
② 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  (四二歳・野ざらし紀行)
② 古池や蛙飛こむ水の音      (四三歳・蛙合)
② いてや我よき衣着たり蝉衣    (四四歳・あつめ句)
② 五月雨に鳰のうき巣を見にゆかん (四四歳・泊船集)
② 寒菊や粉糠のかゝる臼の端    (五〇歳・炭俵)
② この道を行く人なしに秋の暮   (五一歳・書簡)

① 櫓の声(せい)波を打つて腸凍る夜や涙 (三八歳・寒夜の辞)
① 年の市線香買ひに出でばやな   (四三歳・続虚栗)
① おもしろし雪にやならん冬の雨  (四四歳・俳諧千鳥掛)
① 夕顔や秋はいろいろ瓢哉     (四五歳・真蹟懐紙考)
① このあたり目に見ゆるものは皆涼し(四五歳・十八楼の記)
① 粟稗にまづしくもあらず草の庵  (四五歳・笈日記)
① あかあかと日はつれなくも秋の風 (四六歳・奥の細道)
① 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   (四六歳・猿蓑)
① 蛍の笠落したる椿かな      (四七歳・真蹟色紙)
① 菰を着て誰人います花の春    (四七歳・真蹟草稿)

① 先たのむ椎の木も有り夏木立   (四七歳・幻住庵の記) ※
① ほととぎす大竹藪を漏る月夜   (四八歳・嵯峨日記)
① 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん   (五〇歳・藤の実)
① 稲妻や闇の方ゆく五位の声    (五一歳・有磯海)


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十三)  [芭蕉翁像]

その十三 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

天明二年1.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「101『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「101『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「天明歳次壬寅晩冬初十日 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(白文連印)
賛  後掲
天明二年(一七八二)
『俳人真蹟全集 蕪村』
(賛)
花にうき世我酒しろく飯くろし
夏ころもいまた虱をとりつくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
あけぼのや白魚しろきこと一寸
あさよさにたれまつしまそ片こゝろ

 落款の「天明歳次壬寅晩冬初十日」から、「天明二年(一七八二)十ニ月十日」の作ということになる。蕪村が亡くなるのは、翌年の天明三年(一七八三)十ニ月二十五日、丁度、亡くなる一年前の作品ということになる。
 この賛中の芭蕉の五句は、蕪村が精選を重ねての五句ということになろう。晩年の芭蕉が到達した「軽み」の世界というのは、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する」と要約すれば、これらの作品は、決して晩年の作品ではないが、どの句も「日常卑近の題材」であり、そして、どの句も「真率・平淡な表現」のものということになろう。
 これらの賛の五句が、芭蕉の「軽み」の世界のものとするならば、この蕪村の「芭蕉像」を、顔の表情は実にユーモラスで、先に紹介した「倣暒々翁墨意」の落款のある「芭蕉像」(『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」)に近いという印象を深くする。

天明二年2.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「蕪村拝写」
印 一顆(印文不明)
賛  後掲
『上方俳星遺芳』
(賛)
花にうき世我酒白く飯黒し
夏衣いまた虱を取つくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
おもしろし雪にやならむふゆの雨
あさよさにたれまつしまそ片心

 冒頭に掲げた「芭蕉像」の賛中の五句と同じものではなく、この四句目のみが相違している。また、他の四句も、漢字と平仮名などの句形を異なにしている。しかし、この両者は、この賛などからして、同一時期の作品と解したい。即ち、両者とも、天明二年(一七八二)作と解したい。
 その上で、両者の画像を比較鑑賞すると、前者が、速筆体の「戯画」「酔画」の、「真・行・草」の「草画」的な印象に比して、後者の方は、丁寧な筆遣いで、「真(本)画」的な印象を強く受ける。

 先に、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛ての蕪村書簡の一部について触れたが、ここで、より詳しく、その書簡について触れて置きたい。

[ (前略)
〇 杉風が画の肖像も少々俗気有之候故、いさゝか添削を加候。都(スベ)て肖像之画法は、年を寄せ候が能(よく)候。
〇 杉風原本にはしとね(褥)を敷(しき)候へども、是はよろしからず候。仏家之祖師などの像には褥(しとね)をよく候へ共、翁などのごとき風流洒落(しゃらく)にて脱俗塵たる像は、只寒相にて寂しき方を貴(たっと)び申事に候。
〇 愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画(えがき)たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候。庶幾(こいねがわくば)其真にせまらん事を。(以下、略)  ]
(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)

 蕪村が描く座像の「芭蕉像」は、多く、杉風の芭蕉像(例えば、義仲寺の芭蕉像)を参考にしているのだろうが、この書簡にあるごとく、ことごとく「添削を加え」(手を入れて修正している)、蕪村の内たる芭蕉像を描出している。
 また、この書簡の、杉風作は「褥を敷(しき)候へ共、是はよろしからず候」と、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている七点の座像ものは、全てが、「褥(しとね=座る時の四角い敷物)は敷いていない。
 さらに、この書簡の、「肖像之画法は、年を寄せ候(年相応に描く)が能(よく)候」と、その顔の表情などは、一枚足りとも同じ表情のものはない。壮年の芭蕉は壮年らしく、老齢の芭蕉は老齢のままに描いている。

 上記の同一時の頃の作と思われる(その賛などからして)二例にしても、前者が「動的・ユーモラス」な芭蕉像とすると、後者は「静的・謹厳実直」な芭蕉像という趣である。そして、画人・蕪村の忠実な後継者である「月渓」の描く芭蕉像などは、蕪村の外面的なものの把握だけで、その内面的なものに迫ろうとする気配は感じられない。
 そして、これまで見てきた「百川・若冲・月渓」の芭蕉像と、蕪村のそれとを比較すると、質・量共に、蕪村に匹敵する画人は見当たらないということを実感する。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十二)  [芭蕉翁像]

その十二 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)

逸翁・座像.jpg
『蕪村・逸翁美術館蔵品目録』所収「18芭蕉翁像」(白黒写真)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一一七・〇×三八・二cm
款 「倣暒々翁墨意 謝寅」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  真率其性風 雅斯宗偉哉 此翁厥声無窮 従三位具選題
逸翁美術館蔵

 上記の落款にある「倣暒々翁墨意 謝寅」の「暒々翁」とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い「山東京伝」(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう。
 蕪村が享保元年(一七一六)の生まれとすると、山東京伝は宝暦十一年(一七六一)の生まれ、両者の年の開きは四十五歳程度と、この落款の「倣暒々翁墨意」というのは、老翁の「俳諧師・挿絵画家・蕪村」が、新進気鋭の「黄表紙戯作者・挿絵画家・山東京伝(暒々翁)」の、「倣暒々翁墨意」との「新しい感覚」を期待してのものなのかも知れない。
 蕪村の、この落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」(山東京伝)には驚かされるが、この賛をした人物の「従三位具選」(岩倉具選)にも驚かされる。
 岩倉具選(ともかず)は、宝暦七年(一七五七)の生まれ、岩倉家七世の祖。公卿としては主に後桜町上皇に仕え、その院別当などを務めた。剃髪号可汲。詩文・書画を能くし、篆刻を、池大雅の朋友、高芙蓉に学んでいる。
 蕪村との年齢差は、四十一歳の開きがあり、具選は山東京伝と同時代の、共に、江戸中期・後期の日本史の一角にその名を占めている人物である。
 この一幅に関係している群像の、「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」と、実に豪華な顔ぶれなのである。どうしてこういうものが生まれたのか、興味深々たるものがある。
 さて、この岩倉具選は、蕪村没後の天明八年(一七七八)に従三位に達して公卿に列し、寛政八年(一七九六)には蟄居となっている。とすると、この蕪村画に具選が賛をしたのは、天明八年(一七七八)から寛政八年(一七九六)の間ということになる。
 とすると、堂上人・具選と、一介の町絵師兼俳諧師・蕪村とは、同じ京都に住んでいても、活躍する時代も違うことなどからして、面識はなかったと解するのが妥当であろう。
 とすると、この一幅に関係している「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」の四人は、生前に何らかの面識なり交友関係はなかった解すべきなのであろう。

 では、次に、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは何を意味し、そして、具選は、蕪村の、この落款をどのように解したかという謎なのである。
 これは、江戸期に流行した絵入り娯楽本の「赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻」を背景にしているように思われる。
 「赤本」は、芭蕉の時代(元禄期)に盛んであって、「昔話・絵解き」などの子供向けが多かった。続く「黒本」は。蕪村の時代(延享・宝暦期)に流行し、「軍記物・浄瑠璃・歌舞伎」などで、蕪村は、この「黒本」と次の「青本」とに深く関わっている。
 「青本」(明和・安永期に盛んであった)は、「遊郭・滑稽・諧謔」物が増えてくる。この「青本」は、安永末期から天明期以降、知識層向け文芸作品を主とした「青本」とは別に、「洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴る」ところの「黄表紙」の時代となって来る。
 この「黄表紙」時代のチャンピオンが「山東京伝」に他ならない。続く、「合本」というのは、蕪村は知らない文化元年(一八〇四)の頃から登場する、「黄表紙」の長編化したもので、その代表選手達が、「山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・曲亭馬琴、柳亭種彦」等々である。
 さて、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは、「倣暒々翁之『黄表紙』之墨意」と置き換えても良いのではなかろうかという仮説なのである。
 山東京伝の「黄表紙」の挿絵というのは、「狂歌・狂句(川柳)」の言葉尻ですると「狂画(黄表紙)」と名付けても差し支えなかろう。この「狂歌・狂句・狂画」の「狂」とは、「正当」(雅)に対する「異端」(俗)を意味しよう。
 蕪村は、しばしば、落款などに、「戯画・酔画」などの用語を用いているが、それを一歩進めて、「倣暒々翁墨意」とは、微温的な上方の「戯画・酔画」のそれではなく、俗に徹した江戸生まれの山東京伝らの「狂画」の世界をも摂取しようとしている、その心意気を示したものと理解をしたいのである。

 具体的には、冒頭の黒白写真では、それらを判然と指摘することはできないのだが、その顔の表情などを見ると、目は二つの小さな点、それに比して、特徴の鼻など、全体として、ユーモラスの「芭蕉翁像」という印象を受けるのである。
 それに比して、このユーモラスな俗調の「芭蕉翁像」に対する、篆刻の大家である具選の書は、何とも隷書体の高雅の世界のもので、その違和感を醸し出していると共に、また、そのアンバランスが、その画と書との余白と共に、独特の世界を形作っているように思われる。
 ここで、具選は、蕪村の、この「芭蕉翁像」と落款・署名の「倣暒々翁墨意 謝寅」を、どのように解したかということについて触れて置きたい。
 その前に、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点中、署名が「謝寅」になっているのは、この「⑩ 座像(左向き、褥なし、款『倣睲々翁墨意 謝寅』。逸翁美術館蔵)」だけなのである。
 他の十点の署名は、「夜半亭蕪村」か「蕪村」かである。凡そ、これらの「俳画」(「俳諧物之草画」)の人物画に属する作品の署名は、「蕪村」と署名するのが通例であって、安永七年(一七七八)から没する天明三年(一七八三)の足掛け六年間の蕪村の晩年の栄光の画号である「謝寅」は、所謂、「謝寅書き」と称せられる、蕪村の傑作画に署名されるものというのが、一般的な理解であろう。

 とにもかくにも、蕪村が、この片々たる一幅に、「謝寅」の署名をしたということは、少なくても、下記の十一点の「芭蕉像」の中では、蕪村が最終的に到達した傑作画に該当するものとして理解すべきものなのかも知れない。
 そして、それは、晩年の芭蕉が到達した「軽み」(日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する俳諧理念)の世界と軌を一にするものであって、その意味で、この「芭蕉翁像」は、蕪村の新境地の「軽み」の世界のものと鑑賞することも可能であろう。
 そして、具選の賛の芭蕉をして「真率其性風」を、蕪村の、この「芭蕉翁像」の中に、蕪村の「真率其性風」を見て取ったのかも知れない。そして、具選は、この蕪村の署名の「謝寅」に万感の意を感じ取って、己の「真率其性風」の書体を以て賛をしたと解したいのである。
 さらに、具選は、蕪村の落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」から、江戸で一世を風靡している「黄表紙」の世界を連想し、その「黄表紙」「青本」の特徴である、挿絵(狂画・戯画)と文(戯作)とが半分半分の体裁を取って、大きな余白を取り、江戸の「黄表紙」ならず、上方の「黄表紙」スタイルを意識してのもののようにも思われる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑫ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)
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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十一)  [芭蕉翁像]

(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

西岸寺芭蕉立像.jpg
『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「90『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九六・二×三二・二cm
款 「蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  
 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ
ほとゝきす大竹原をもる月夜
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
海くれて鴨の声ほのかに白し
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ
個人蔵

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」の「作品解説」(石田佳也稿)は次のとおりである。

[ 蕪村が描いた芭蕉像は十点以上が知られるが、図様から座像と立像に大別される。このうち、立像はさらに足元までを描いた全身像と、腰あたりまでを描いた半身像に分けられる。ここでは道服に頭巾を被り、手は袂の中に入れる半身像で、頭陀袋を杖に結んで左肩に担いでおり、旅姿であることが強調されている。芭蕉を追慕する風潮から、俳諧師による旅や行脚が流行したこともあって、旅姿の芭蕉像への需要が高まったと推定されるが、本図の賛として選ばれた芭蕉の句の大半が、旅の途上で詠まれた句であることも注目される。「蕪村拝写と署名があり、「長庚」「春星」(朱白文連印)を捺す。  ]

 上記の賛の一句目の前書き「西岸寺任口上人を訪ひて」は、『野ざらし紀行』では「伏見西岸寺任口上人に逢て」である。この任口上人は、東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人で、松江重頼門の俳人で、俳号は任口である。
 芭蕉が門人千里(ちり)を伴って、『野ざらし紀行』の旅に江戸を出立したのは、貞享元年(一六八四)八月中旬、東海道を下り、伊勢を経て、九月八日に郷里上野に帰る。数日逗留して、大和・吉野・山城を美濃の大垣に谷木因を訪ねる。初冬、熱田に入り、名古屋で『冬の日(尾張五歌仙)』を巻き上げる。十二月二十五日に、再び上野に帰り、郷里で越年する。
 明けて貞享二年(一六八五)二月に故郷を出て、奈良のお水取りの行事を見たのち、京都・大津に滞在する。二月下旬から三月上旬にかけて、京都(伏見)の任口上人を訪れたのであろう。
 三月中旬過ぎに大津を立ち、熱田・鳴海で俳席を重ね、四月十日に鳴海を立ち、名古屋・木曽路・甲州路を経て月末に江戸に帰着する。この貞享元年から二年の九カ月に及ぶ旅の紀行が『野ざらし紀行』(別名『甲子吟行』)である。

 上記の五句に創作年次などを付記すると次のとおりである。

 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ(貞享二年・一六八五、四十二歳、伏見、『野ざらし紀行』)
ほとゝぎす大竹原(藪)をもる月夜(元禄四年・一六九一、四十八歳、嵯峨、『嵯峨日記』)
はせを野分して盥に雨をきく夜哉(延宝九年・一六八一、三十八歳、深川、『武蔵曲』)
海くれて鴨の声ほのかに白し(貞享元年・一六九四、四十一歳、尾張、『野ざらし紀行』)
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ(元禄二年・四十六歳、松島を想う、『桃舐集』)

 これらの五句を賛した蕪村の芭蕉像のイメージというのは、ずばり、芭蕉の「四十代」をイメージしてのものなのであろう。そして、それは、芭蕉七部集の第一撰集『冬の日』の時代をイメージしてのものなのであろう。そして、上記の五句目での、次の旅の「奥の細道」の「松島」の句を据えて、「漂泊の詩人・芭蕉」をイメージしているのであろう。

 ここで、あらためて、この賛の冒頭の前書きの「西岸寺任口上人を訪ひて」の、この「任口上人」に焦点を当てたい。
 
 この「任口上人」についての画像を、蕪村は、元文年間(二十年代前半)の作としている後賛詞(「元文のむかし余若干の時写したるものにして」)のある「俳仙群会図(一幅)」を今に遺している(この作品の制作時期については、丹後時代(四十代前半)とする説もあり、署名が「朝滄」、印が「丹青不知老死」で、丹後時代の作と解するのが妥当であろう)。
 いずれにしろ、蕪村の「元文年間(二十年代前半)又は丹後時代(四十代前半)」に描いた芭蕉像(「俳仙群会図」中の芭蕉座像)と、この、蕪村の金福寺の芭蕉庵再興の頃(六十歳代)に描いたと思われる、この「芭蕉立像(半身像)」とは、「任口上人」を介しての、謂わば、姉妹編と解すべきことも可能であろう。
 蕪村の「俳仙群会図」の俳人群像は、「守武・長頭丸(貞徳)・貞室・宗鑑・梅翁(宗因)・芭蕉・やちよ・嵐雪・其角・園女・おにつら(鬼貫)・支考・宋阿・任口」の十四人で、これらの俳人は、俳諧の祖の「守武・宗鑑」、そして、江戸前期の「貞門(貞徳・貞室)、貞徳(任口)、談林(宗因)、伊丹派(鬼貫)、蕉門(芭蕉。其角・嵐雪)、蕉門・江戸座(宋阿)、蕉門・美濃派(支考)、女流(園女・やちよ)」と、江戸中期の天明俳壇に位置する蕪村が、生前に面識のある俳人は、内弟子として仕えた蕉門・江戸座の其角系の俳人、宋阿(夜半亭一世・早野巴人)一人ということになろう。
 そして、それ以外の面識のない十三人の俳人に関しては、すべからく、師の宋阿などを介しての情報・資料に基づいて、この「俳仙群会図」を描いたのであろう。この任口上人については、宋阿の師・其角の『雑談集』などに因るもののように思われる。
 また、宋阿が興した夜半亭俳諧を蕪村が継承した明和七年(一七七〇)当時、京都の伏見には、「鶴英・柳女(鶴英の妻)・賀瑞(鶴英の娘)」などが中心になって、夜半亭俳諧の結社が出来ており、冒頭の「「芭蕉翁図」は、その伏見の連衆に懇望されて制作したものなのかも知れない。
 というのは、蕪村没後の天明四年(一七八四)に、夜半亭三世となる几董は、蕪村追悼集の『から檜葉』を刊行するとともに、この任口上人の百年の祥忌に際して、伏見の西岸寺で伏見の俳人たち(賀瑞ら)と歌仙を巻き、それらを『桃のしづく』(半紙本一冊)として刊行している。
 これらのことと、冒頭の「芭蕉翁図」、そして、画人蕪村のスタート地点の、芭蕉・宋阿・任口上人の座像を描いている「俳仙群会図」と、何処かしら結びついているような、そんな雰囲気を醸し出しているのである。

俳仙群会図・部分.jpg
「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)



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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十)  [芭蕉翁像]

(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)

逸翁美術館芭蕉立像白黒 .jpg
『蕪村・逸翁美術館品目録』所収「107芭蕉翁立像図」(白黒図)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「91『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九八・二×三二・〇cm
款 「夜半亭蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長をとくことなかれ
  もの云へは唇寒し秋の風
逸翁美術館蔵

 この「芭蕉翁立像図」と前回取り上げた許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」とは、賛の前書きと発句は同じであるが、前者は細長い竹杖を抱えての旅装の芭蕉像、そして、後者は、空の一方を凝視している吟詠中の芭蕉像と、趣向も構成も異なっているものと解したい。
 ここで、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている十一点について、
これまでに取り上げたものと、今後取り上げていく予定のものを記すと、次のとおりとなる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

 これら十一図の芭蕉像(蕪村筆)を、七点の座像と四点の立像を区分けして、「蕪村の
描いた芭蕉(早川聞多稿)」(「国文学解釈と鑑賞837与謝蕪村―その画・俳二道の世界」所収)の中で、次のように指摘している。

「(これらの)七点の座像と四点の立像の間には明らかな相違があるやうに思へてくる。それは端的にいつて、座する芭蕉像がある安定感を醸し出してゐるのに対して、立ち姿の芭蕉像(二図は旅姿、二図は歩く姿)にはどこかに移り行く変化(へんげ)の感が漂つてゐる(注、図4→上記の⑤半身像→「その十一」で取り上げる)」。
 そして、さらに、次のように続ける。
「さて四点の立ち姿の芭蕉像を見比べると、そのうちの二点(注、上記の『⑥ 全身蔵』と『⑦ 全身像』)が座像を含めた他の肖像画と大きく異なってゐる」として、その一つに、「賛の句が一句のみで、しかも両図とも同一句であるという点である。その賛とは、『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふもので」とし、その内の一点」の、上記の許六に倣ったとされる「⑦ 全身像」(前回に取り上げたもの)に触れている。
 そこで、次のような見解を述べられている。
「虚空を見上げる芭蕉の視線の先に、芭蕉の座右の銘であった『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふ言葉があれば、見る者は自ずと自らの言動を省みることにならう。そして蕪村はこの芭蕉像を見るのが先づもつて当代の俳人たちであることを承知してゐた筈である。といふことは、蕪村が本図において賛を変へたのは、それが単に芭蕉の尊い人生訓だつたからだけではなく、暗に蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表すためだつたやうに思われる。」

 これらに関して、「蕪村が本図(「⑦全身像」)において賛を変へた」のは、蕪村の「許六と素堂への挨拶句的なことと捩り句的なことを包含した」もので、それは其角・巴人に連なる江戸座の「洒落風俳諧」の一端を利かせているものだということについては、前回で触れた。
 さらに、それらに付け加えることとして、「蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表す」ものというよりも、蕪村の夜半亭二世継承などを巡っての書簡(明和七年頃の几董宛書簡)に出て来る、「京師之人心、日本第一の悪性(京都の人心は日本一の悪性)」などの、一部の慇懃無礼な京都俳人への警鐘の意味合いも、この前書きのある句の賛の背後に潜ませているようにすら思えるのである。
 このことは、芭蕉自身、元禄三年(一六九〇)四月十日付、此筋・千川(大垣藩士の蕉門の俳人)宛書簡で、「菰を着て誰人います花のはる」(芭蕉の「歳旦句」)に関連して、「京の者共はこもかぶり(乞食)の句を引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候。例の通(とほり)、京之作者(京都の俳人)つくし(尽くし=尽きている)たる」との、京都人への非難を、今に遺している。
 この芭蕉の、京都俳人への痛烈な非難の思いは、蕪村も等しく抱いていたことであろう。

 ここで、『⑦ 全身像』(前回取り上げた)ではなく、「五老井(許六)図・素堂句」と関係の無い、ただ、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛だけが同じの、冒頭の「芭蕉翁立像図」(上記の『⑥ 全身蔵』)を鑑賞すると、次のような総括的な思いを抱くのである。
 なお、この「芭蕉翁立像図」は「絹本淡彩」で、他の「絹本淡彩」(「① 座像」「⑤ 半身像)」など)と同じ色調のものなのであろう。

一 蕪村の丹後時代に、その閲覧を渇望した百川筆「芭蕉翁像」(その二で取り上げている)と、その賛が全く同じで、この賛は、百川との関係を抜きにしては片手落ちになる。

二 蕪村の立像(上記の「② 半身像」「⑤ 半身像」「⑥ 全身蔵」「⑦ 全身像」)は、何れも、金福寺の芭蕉庵の再建と関連していて、その意味で、蕪村が金福寺に奉納した、上記の「③ 座像」の「芭蕉翁図」(その六)と何らかの関係を有しているように思われる。

三 上記の「芭蕉翁像」(十一点の座像と立像)は、主として芭蕉忌などにの俳筵興行などのもので、その俳筵の作法と、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛は関係しているようにも思える。また、その背後には、当時の「蕉風復興運動」や「保守的な京都俳壇との葛藤」などの、俳諧師としての蕪村のアイロニカル的な視線も感じられる。


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その九)  [芭蕉翁像]

(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

許六倣芭蕉像.jpg
『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆) 

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で、蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像(「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 )が初公開された、その図録中に、それと並列して、この「四四 芭蕉翁図」が収載されている。

 その作品解説は次のとおりである

[ 蕪村は、多くの芭蕉翁図を描いたようで、『蕪村事典』(桜楓社) によれば、それらの総数十二点にも及ぶ。これは、蕪村の芭蕉翁図中最も優れた作品である。賛中の「これは五老井か図せる蕉翁の像なり」の五老井とは、森川許六のこと。芭蕉門下の俳人で、狩野派の画技にすぐれ、信頼に足る芭蕉画像を遺したという。その許六の芭蕉翁像に倣ったとあるから、芭蕉の風貌をよく伝える作品ということになる。なおこの作品については、「芭蕉翁図」について(一〇二頁)と、彭城百川が描く芭蕉翁像(七〇)も、併せて参照されたい。百川の描く僧衣をまとった芭蕉翁像に対し、蕪村は、唐服姿の芭蕉像を描いた。ついでながら、本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、「芭蕉翁立像図」(逸翁美術館蔵)が伝わることを付記しておきたい。  ]

 この「作品解説」中の「『芭蕉翁図』について(一〇二頁)」は、「結城下館時代の蕪村について二、三」(茨城県立歴史館学芸員 北畠健稿)の「『芭蕉翁図』について」で、その内容は次のとおりである。

[ (前略) 蕪村書簡に、「愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候 (略) 」
と記されている。
 ここで言う関東とは、江戸のことか、あるいは江戸以外の関東のことか分からないが、とにかく、関東において見た「芭蕉翁像」の記憶を基にして、今、自分の芭蕉翁像を描くという、非常に興味深い内容である。「芭蕉翁像」といえば、百川が描いた「芭蕉翁像」のことがよく取り沙汰されるが、蕪村は、許六の、さらには杉風の作品をも念頭において、「芭蕉翁像」を制作していたのである。許六は、最も信頼に足る「芭蕉翁像」を遺したことでも知られているから、その意味でも、蕪村の「芭蕉翁像」を再考して見る必要があるように思われる。また、関東時代にこのような優れた作品に接し、いよいよ、画嚢を豊かにしていたことをも窺わせる書簡ではある。 ]

 ここに引用されている蕪村書簡は、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛てのものであるが、この書簡に出て来る「許六が画の肖像に素堂の賛有之物」は、現存していないようである(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)。
 また、「作品解説」中の、「本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、『芭蕉翁立像図』(逸翁美術館蔵)が伝わる」とされているが、この逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」は、次回(その十)で取り上げるが、細長い杖を片手に抱えている旅姿の芭蕉像で、この許六に倣ったとされる全身像の「芭蕉翁図」とは、「ほぼ構成を同じくする」ということについては、否定的に解したい。
 ただ、賛の前書きと発句とは同じであるが、この許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」は、その後書きに、「これは五老井か図せる蕉翁の像なり/句は めい月や池をくりて終夜 也/それを坐右の銘の句に書かへ侍る」とあり(逸翁美術館蔵「芭蕉翁立像図」には無い)、この後書きに、蕪村特有の「遊び心」が見え隠れしているということを付記しておきたい。
 それは、蕪村の、この画を描いた許六と、それに賛をした素堂への挨拶句的なことと捩り句的なこととを包含した賛のように理解をしたいのである。
 すなわち、「芭蕉翁の高弟・許六先生が描いた空を見上げている『芭蕉翁図』に、翁の盟友・素堂先生が、名月を見ていると解して、『めい月や池をめぐりてよもすがら』の賛をしているが、私(蕪村)は、この許六先生の『芭蕉翁図』に、素堂先生の名月ならず、翁の『座右之銘/人の短をいふことなかれ/おのれが長を説ことなかれの』の前書きがある『もの云へば唇寒し秋の風』の句を、その前書きともども、この図の賛にしたい。その心は、この翁は、『よけいなことをしゃべっている』わいと、ただ、『秋風が吹いて、唇が寒々としている』だけなのです・・・、と、『どうでしょうか、みなさん』・・・」と、其角→巴人→蕪村に連なる「江戸座」の、夜半亭蕪村の賛のように解したいのである。

 なお、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「92『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅半切 一三六・〇×三五・〇cm
款 「蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長を説ことなかれ
  もの云へは唇寒し秋風
   これは五老井か図せる蕉翁の像なり
   句は めい月や池をめくりて終夜 也
   それを坐右の銘の句に書かへ侍る
『蕪村遺方』



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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その八)  [芭蕉翁像]

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている、先に触れた「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)」は、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介されたものである。
 その「後記」で、「第二図(口絵の第二図)は蕪村筆の芭蕉翁像で、京都堀井静氏の蔵にかゝる。蕪村の筆になる芭蕉の像は、すでに知られたものがかなり多いが、これは本書によって初めて紹介された作である」と記されている。
 初版発行は、昭和十八年(一九四三)一月二十日で、太平洋戦争の真っ只中の頃である。この年の十月、明治神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された年である。
 この著の「序」(昭和十七年秋)で、「共に蕪村を語った若い友は、今召されて南支の野にある。もう間もなくこの書も世に出るであらう。友の武運のめでたさを祈りながら、まづ一本を遠く彼の野に送りたいと思つて居る」と記されている。
 蕪村が、この「芭蕉翁像」を描いたのは、その落款に「安永己亥冬十月十三日写」とあり、安永八年(一七七九)十月十三日の作で、この落款の日付は、江東区立芭蕉記念館蔵の「芭蕉翁像」の「干時安永己亥冬十月十三日」と、全く同じ日の作ということになる。
 さらに、金福寺蔵の「芭蕉翁像」の落款が、「安永己亥冬十月写」で、この三本の作品は、同一時の作品群と解して差し支えなかろう。
 それにしても、その一本が、その制作時より一世紀半以上の時の経過の後に、謂わば、学徒出陣の若き学徒に捧げられたということは、名状しがたき感慨が去来して来る。

選書・芭蕉像.jpg
『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵「芭蕉翁像」


『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「87『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅
款 「安永己亥冬十月十三日写 於夜半亭 蕪村拝」
印 一顆(印文不詳) 「春星」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九)『蕪村』(創元選書)
(賛)
※ほうらいに聞はやいせの初便
※※花にうき世我我酒白く飯黒し
うぐいすの笠落したる椿かな
※※行春や鳥啼魚の目はなみだ
※※夏ころもいまた虱をとりつくさす
ゆふかほや秋はいろいろの瓢かな
※※おもしろふてやかてかなしきうふねかな
この辺目に見ゆるものみな涼し
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽おとろく
※馬に寝て残夢月遠し茶の煙    
※この道を行人なしに秋のくれ
※※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※※名月や池をめぐりて通宵
※※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
海くれて鴨の声ほのかに白し
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
※梅白しきのふや鶴をぬすまれし
  伏見西岸寺任口上人を訪
※我衣にふしみのもゝの雫せよ
※さみたれに鳰のうき巣を見に行む
粟稗にまつしくもあらす艸の菴
※寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
※としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(説明)
上記の※の句は、「86『芭蕉像』画賛」にも記されているもの。※※の句は、「86『芭蕉像』画賛」と「88『芭蕉像』画賛」との両方に記されているものである。また、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』も『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』とも、白黒の写真だが、この画は「絹本淡彩」であり、「86『芭蕉像』画賛」(絹本淡彩)と同じ日に制作されていることに鑑みて、それと同じ色調の淡彩仕上げのものであろう。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その七) ] [芭蕉翁像]

(その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 先に(その一で)、蕪村が描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』では、下記の十一点が収録されていることについて触れた。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 前回(その六)の金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)は、上記の「③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)」である。
 今回は、「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)」について触れたい。
 なお、『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」によると、上記の、金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)に関連して、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描いているということについて触れたが、この他の二点というのは、上記の「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作)と「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作)」を指しているのかも知れない。
 そして、この三点のうち、①②は円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③は長方形型(角頭巾型)の白帽子と、何れも白帽子であることが興味深い。

芭蕉記念館・芭蕉像(蕪村筆).jpg
江東区立芭蕉記念館蔵「芭蕉翁像」(蕪村筆・部分)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「86『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九三・九×四〇・〇cm
款 「夜半亭蕪村拝写 干時安永己亥冬十月十三日」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 江東区立芭蕉記念館蔵
(賛)
(上段)
ほうらいに聞はやいせの初便
※花にうき世我我酒白く飯黒し
※ふる池やかはす飛こむ水の音
※ゆく春や鳥啼魚の目は泪
※夏ころもいまた虱をとりつくさす
※おもしろふてやかてかなしきうふね哉
※いてや我よき衣着たり蝉衣
さみたれに鳰のうき巣を見に行む
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※
此道を行人なしに秋のくれ
※名月や池をめぐりてよもすから
※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
曙や白魚白き事一寸
寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(中段)
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽驚く
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※ 
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
梅白しきのふや鶴をぬすまれし
   伏み西岸寺任口上人をとふ
我衣にふしみのもゝの雫せよ
   人の短を言事なかれ
   おのれか長をとくことなかれ
もの云へは唇寒し秋の風

(下段)※※
早行残夢の句 一喝三嘆口吟しやむことあ
たはす されははしめに書したるを忘れて
又書す こいねかはくは其再復をとかむる
事なかれ 夜半亭(花押)

(説明)
 上記の※の句は、「88『芭蕉像』画賛」にも記されている句である。※※の句は、蕪村が間違って、上段と中段に二度記しているものである。そして、下段の※※で、その間違ったことを記している。
 これらの賛が、上記の上に、三段に分けて(上段・中段・下段)、記されている。



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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その六) ] [芭蕉翁像]

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 安永五年(一七七六)四月、樋口道立の発起により、洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵が再建された。但し、この時の草庵は天明元年(一七八一)に改築されているから、その実は仮小屋のようなものであったらしい(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
 この芭蕉庵再建発起を機に、蕪村門の有志が集まって「写経社」という俳諧結社が誕生し、その八月に『写経社集(道立編)』が成り、その巻頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」が収載されている。
 これらのことに関して、その蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」の末尾の頃に、蕪村は次のように記している。

[ よしや、さは追ふべくもあらず(注・金福寺には芭蕉と関係している書画・文献などは存在しないが)、たゞかゝる勝地に、かゝるたとき名(注・道立の曽祖父の伊藤担庵の知人が「芭蕉」を名乗っていた)ののこりたるを、あいなくうちすておかんこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたちのごとくの一草庵を再興して、ほとゝぎす待つ卯月のはじめ、をじか啼く長月のすゑかならず此の寺に会して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ(注・芭蕉の蕉風俳諧を仰ぐ「写経社」会を結成した)。再興発起の魁首は、自在庵道立子(注・樋口道立)なり、道立子の大祖父担庵(注・伊藤担庵)先生は、蕉翁のもろこしのふみ(注・漢学)学びたまひける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此興にあづかり(注・芭蕉庵再興の発起に関係される)給ふも、大かたならぬすくせ(注・前世)のちぎりなりかし。
安永丙申五月望前二日(注・安永五年五月十三日) 平安 夜半亭蕪村 慎記 ]

 この道立が再建した芭蕉庵の傍らに、翌年の安永六年(一七七七)、「芭蕉顕彰碑」が建立された。その全文は次のとおりである。

「芭蕉翁以諧歌聞於海内 諧歌即世所謂俳諧者 翁之履歴人往往詳之 盖伊賀人罷仕隠於 江戸 又住江之大津遷於摂而終 翁没七十余年高士韻人与夫諧歌者流思慕稱賛不已」
(芭蕉翁、諧歌を以て海内に聞こゆ。諧歌は即ち世の俳諧と謂ふ所のものなり。翁の履歴は人往々にしてこれを詳らかにす。盖し、伊賀の人、仕を罷めて江戸に隠る。又、江の大津に住み、摂に遷りて終る。翁没して七十余年、高士韻人とその諧歌者の流れ、思慕称賛すること已まず。)

「翁冢所在有之 姪道卿新建於東山詩仙堂南金福寺中 請予銘焉 予義祖伊藤担菴先生亦与翁交 担菴集中有謝翁邀飲詩 亦可以想翁為人矣」
(翁の冢所在にこれ有れど、姪道卿、新たに東山詩仙堂の南金福寺中に建て、予に銘を請ふ。予の義祖、伊藤担菴先生は亦た翁と交はる。『担菴集』中に「翁に謝して邀飲す」の詩有れば、亦た以て翁の人と為りを想ふべし。)

「今之諧歌要有二端 牛鬼蛇神眩耀蒿目 打油釘鉸脂韋莠口 野服葛巾風標如仙 而明人所謂 那白雲常飛卓程屋上」
(今の諧歌、要二端有り。牛鬼蛇神、眩耀して蒿目し、打油釘鉸、脂韋して莠口す。野服葛巾、風標仙の如し。而れば明人の所謂「那白雲常飛卓程屋上」たり。)

「翁作諧歌 清新不俗 澹有骨力 庶幾詩家陶韋 抑又上援杜陵 下伴香山 亦或可擬 世傳翁風 神散朗侯鯖 如茶泓崢 之寄杖□(尸にギョウニンベンと婁) 千里可謂進于技者矣」
(翁の作りし諧歌、清新して俗ならず。澹として骨力あれば、詩家陶韋に庶幾たり。抑又、上は杜陵を援き、下は香山を伴ふ。亦た或は擬ふべし、世に伝ふる翁の風。神散朗として侯鯖、茶の泓崢たるが如し。これ杖□(尸の中ギョウニンベンと婁)を寄せて、千里技に進む者と謂ふべきや。)

「道卿名敬義 予仲氏第二子 出嗣樋口氏 為吾藩同宗川越侯源公知京邸事 慧而不苛 介而能円 多諸技芸 其於諧歌 盖亦有師 受淵源云 道卿与翁生不並 世出處異轍 而心酔不已 至有斯挙 盖有臭味相契於衷者」
(道卿、名は敬義。予が仲氏の第二子なり。出でて樋口氏を嗣ぎ、吾が藩の同宗、川越侯源公が為に京邸の事を知す。慧くして苛せず、介にして能く円かなり。諸ろの技芸を多くす。其れ諧歌に於いては、盖し亦た師有り、淵源を受くと云ふ。道卿、翁と生は並ばず。世に出づるに処は轍を異にすれど、心酔して已まざれば、斯かる挙の有るに至る。盖し臭味有りて、衷に相契る者なり。)

「嗚呼 翁者予義祖所交 而道卿尸祝焉 予豈漠然 銘曰 才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 行雲流水 十暑三霜 野老争席 桃李門墻 人与骨朽 言与誉長 勒珉此處 建冢多方 維斯名寺 風水允揚 卜隣高士 魂其帰蔵 雖非桑梓 維翁之郷 越国文学播磨清 絢撰
安永丁酉夏五月      平安處士  永忠原書 」
(嗚呼、翁は予の義祖が交、道卿の尸祝する所なり。予、豈に漠然たらんや。銘に曰く、
  才□貌□[サイシボウク]  錦心綉腸[キンシンシュウチョウ]
  行雲流水[コウウンリュウスイ]  十暑三霜[ジッショサンソウ]
  野老は席を争う  桃李の門墻
  人と骨とは朽つとも  言と誉れとは長ず
  珉を此処に勒り  冢を建つ多方
  維れ斯の名寺  風水允に揚ぐ
  高士を卜隣すれば  魂それ帰蔵す
  桑梓に非ずといえども  維れ翁の郷
越国文学播磨     清絢撰
安永丁酉夏五月    平安処士 永忠原書      )

 この「芭蕉顕彰碑」の碑文の撰者は、「越国文学播磨(越前福井藩儒学者・播磨出身) 清絢(清田絢)撰」で、道立の叔父の清田(せいだ)憺叟(たんそう)である。
明和五年(一七六八)版『平安人物史』「学者」の部には、道立、道立の父・江村北海、そして、この清田憺叟の名も収載されている。
 また、この碑文の書は、その『平安人物志』「学者」と「書家」の項に「永忠原 字俊平号東皋上長者町千本東ヘ入町 永田俊平」で出て来る永田俊平の書である。そして、この二人とも、道立に連なる当時の京都の名士なのである。
 この「芭蕉顕彰碑」の日付の「安永丁酉夏五月」は、安永六年(一七七七)五月で、芭蕉庵が再建された翌年ということになる。 
 そして、翌々年の安永八年(一七七九)に、蕪村は「芭蕉翁自画賛」を描き、それを金福寺に奉納する。これは、頭陀袋を前に掛けた座像で、その上部に芭蕉の発句十五句が加賛されている。その上に、清田憺叟が、上記の「芭蕉顕彰碑」の一部を加賛している。

金福寺芭蕉像.jpg
金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

(補説)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「88『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一二八・一×二七・九cm
款 「安永己亥冬十月写於夜半亭 蕪村拝」
印 「春星氏」(白文方印) 「東成」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 金福寺蔵
(賛)
才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 
行雲流水 十暑三霜
野老争席 桃李門墻
人与骨朽 言与誉長
勒珉此處 建冢多方
維斯名寺 風水允揚
卜隣高士 魂其帰蔵 
雖非桑梓 維翁之郷 
 越国文学播磨 清絢撰

こもを着て誰人います花の春
花にうき世我酒白く飯黒し
ふる池やかはす飛こむ水の音
ゆく春や鳥啼魚の目はなみた
おもしろふてやかてかなしきうふねかな
いてや我よきゝぬ着たり蝉衣
子とも等よ昼かほさきぬ瓜むかん
夏ころもいまた虱をとり尽きす
名月や池をめぐりてよもすから
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
あかあかと日はつれなくも秋のかせ
いな妻や闇のかたゆく五位の声
世にふるもさらに宗祇の時雨かな
年の暮線香買に出はやな
(口絵)
金福寺芭蕉像・部分.jpg
金福寺「芭蕉翁画賛」(一幅・部分)


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その五) ] [芭蕉翁像]

その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg
右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

 『呉春(財団法人逸翁美術館)』所収の「呉春略年表」によると、「天明二(一七八二)三一歳 池田で迎春、呉春と改む。剃髪」とあり、「月渓」の号を「呉春」と改めたのは、天明二年(一七八二)ということになる。
 しかし、「月渓」と「呉春」とを併用している期間が、寛政元年(一七八九)の応挙の写生画に完全に転向するまでの間には認められるので、この天明二年(一七八二)から寛政元年(一七八九)までの間のものは、蕪村風(南画風)のものには「月渓」、そして、応挙風(写生画風=円山四条派風)のものには「呉春」と、大まかに使い分けしていると理解して差し支えなかろう。
 このような観点から、上記の芭蕉像のうち、呉春の署名のある「52 呉春筆」と「55 呉春筆」のものは、寛政元年(一七八九)以降の創作と理解したい。そして、月渓の署名のある「53 月渓筆」は、落款に「丙午十月十二日月渓拝写」とあり、天明六年(一七八六)の作で、呉春と改号しているが、月渓の署名でしているものと理解をしたい。なお、この「53 月渓筆」は、安永八年(一七七九)、蕪村が金福寺の芭蕉庵再興(再興は安永五年で、再興後の芭蕉忌に因んでのもの)に際しての掛物の「蕪村筆芭蕉像」をモデルにしてのものであろう。
 さて、この中央の「54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛」のものであるが、この異様な無精髭の、眉の濃い、そして、何処となく旅の疲れで窶(やつ)れている感じの芭蕉像は、この芭蕉像の作者、妻と実父の不慮の死に遭遇して、京都から池田へと隠棲した頃の、月渓の風貌を醸し出している雰囲気で無くもない。
 因みに、天明五年(一七八五)十一月二十五日には、池田で田福主催の夜半亭(蕪村)三回忌が執行され、その折りの月渓は、「雲水月渓」の、「雲水」(行脚僧)の二字を、己が号の「月渓」に冠しているのである。
 その「雲水月渓」の描いた「雲水芭蕉像」の雰囲気でも無くもない。そして、それに賛する、蕪村の畏友の嘯山の芭蕉の選句(「奥の細道・笈の小文」)もまた、その「雲水月渓」の、その当時の月渓を思い巡らしているような雰囲気で無くもない。


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その四) [芭蕉翁像]

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」

 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg

 この若冲の「松尾芭蕉図」の創作年次は、上記の「作品解説」の「改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳(注・嘯山は二歳下で八十一歳だが、賛には八十二叟とある)、寛政十年に描かれた」ものと解したい。
 この若冲の「松尾芭蕉図」は、先に紹介した『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」をモデルにしていることは、一目瞭然である。
 この百川筆と若冲筆とでは、細かい点では異なるが、特に、芭蕉の髭面が、若冲のそれは濃墨で、それに比して、百川のそれは顎髭がやや濃墨なだけで、やはり、それぞれの芭蕉観というのは察知される。
 そして、ここには、当時、最も多くの「松尾芭蕉像」を描いた、若冲と同年齢の蕪村の影響の影は微塵もない。
即ち、若冲に取っての「松尾芭蕉像」は、共に、「売茶翁ネットワーク」(売茶翁を主軸とする連=サロン)の、年齢的に先輩格にあたる彭城百川が描くところの「芭蕉像」ということに他ならない。
即ち、同年齢の、江戸(関東)そして浪速(大阪)出身の、同じ京都の四条烏丸近辺に住む、謂わば、「余所者(よそもの)」の蕪村が描く「芭蕉像」は、若冲の眼中には無いということに他ならない。
そもそも、蕪村書簡というのは、現に五百通以上存在していると言われているが、その書簡中には、若冲を話題にしたものは皆無なのである。おそらく、この二人の直接的な交遊関係というのは存在していなかったというのが正当な見方なのであろう。
しかし、若冲の交遊関係と蕪村の交遊関係と、その枠を拡大して行くと、「池大雅・円山応挙・上田秋成・皆川淇園・木村蒹葭堂」等々と、二人の接点というのはかなりの面で交差して来る。
この冒頭に紹介した若冲の「松尾芭蕉図」に賛をしている三宅嘯山は、若冲より蕪村との交遊関係がより濃密に認められる人物と解して差し支えなかろう。

 先に、宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛について、百川を私淑してのものということについて触れたが、蕪村が上洛して最初に訪れた先は、蕪村の師の宋阿(巴人)門の高弟、望月宋屋で、当時、宋屋は六十五歳の高齢で、京都俳壇の古老の一人であった。そして、嘯山は、この宋屋門の俳人なのである。
 即ち、蕪村と嘯山との出会いは、この宋屋を介してのものであろう。嘯山は質商を営む傍ら、宋屋に俳諧を、慧訓和尚に詩を学んだ。後に、京都俳壇で重きをなすが、漢詩人としても『嘯山詩集(十巻)』(現存八巻)を残している。
 その漢学の素養から仁和寺や青蓮院の侍講を勤めた。蕪村(そして若冲)より二歳年下であるが、蕪村との親密な交際ぶりは、百池自筆『四季発句集』に、「滄浪居士(嘯山)の大人(うし=先生)世に在(いま)す頃は老師蕪村叟とは錦繡の交はりにて常に席を同じうす」(『蕪村と其周囲(乾猷平著)』)と記されている。
 蕪村が、宝暦六年(一七五六)に丹後の宮津から京都の嘯山宛てに送った書簡が今に残っている(下記「参考」のとおり)。
 
 冒頭の、若冲の「松尾芭蕉図」に嘯山が賛をしたのは、寛政十年(一七九八)とすると、蕪村が没した天明三年(一七八三)から十五年後ということになる。若冲も嘯山も、最晩年の頃で、おそらく、嘯山が、当時の京都画壇の最右翼に位置していた若冲に「松尾芭蕉図」を依頼し、その絵図に、「春もやゝけしき調ふ月と梅」(『続猿蓑』)と「初時雨猿も小蓑をほしげなり」(『猿蓑』)との二句の賛をしたのであろう。
 この芭蕉の「春もやゝけしき調ふ月と梅」の句は、許六を画の師と仰いだ芭蕉が、許六と合作した梅月画賛のために詠まれた元禄六年(一六九三)の作で、その芭蕉真筆の自画賛が何点か在り、後世、芭蕉の画賛句として珍重されていることに因るのであろう。
 また、「初時雨猿も小蓑をほしけ(げ)なり」の句は、蕉門の最高峰を成す撰集『猿蓑』の、その巻頭の一句である。これまた、許六の「猿蓑は俳諧の古今集也、初心の人去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)とを意識してのものであろう。
 とすると、嘯山の芭蕉観というのは、永遠の放浪の旅人を象徴化した許六の動的なイメージの句に対して、やや、この若冲の「松尾芭蕉図」は、京都以外に旅をした経験の皆無の、何処となく、「売茶翁ネットワーク」の百川の「松尾芭蕉図」を、静的なイメージとして、それをモデルとしているという思いが拭えない。
 なお、天明二年(一七八二)版の『平安人物史』上における、若冲と蕪村とに関係する「画家」と「学者」とに搭載している人達は次のとおりである。

(画家の部)

藤応挙 (円山主水)、号(僊斎 一嘯 夏雲 仙嶺)、住所(四条堺町東入町)、(1733~1795)
滕汝鈞 (滕若冲)、号(若冲)、住所(高倉四条上ル町)、(1716~1800)
謝長庚(与謝蕪村)、号(春星・三菓・宰鳥・夜半亭)、住所(仏光寺烏丸西入町)、(1716~1783)
長沢(長沢芦雪)、住所(御幸町御池下ル町)、(1754~1799)
巌郁(梅亭)、住所(高辻新町西入町)、(1734~1810)

(学者の部)

三宅方隆 (三宅嘯山)、号(蒼浪・嘯山・葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒・碧玉山)、住所(中長者町新町西入町)、(1718~1801)
皆川愿 (皆川文蔵)、号(淇園 有斐斎 呑海子)、住所(中立売室町西入町)、(1734~1807)
源敬義(樋口源左衛門)、号(芥亭・道立・柴庵・自在庵)、住所(下立売釜座西入町)、(1738~1812)
毛惟亮(雨森正廸) 、号(陶丘)、住所(白川橋三条下ル町)
釋慈周(六如)、号(白楼・無着庵) 、住所(安井門前)、(1734~1801)
釋竺常(蕉中・梅荘)、号(大典 蕉中 東湖)、住所(近江神埼郡伊庭)、(1719~1801)

(参考)  蕪村の嘯山宛ての書簡(書簡A)

(書簡A)

書簡A.png

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。
     

蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その三) [芭蕉翁像]

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像

 彭城百川は、元禄十年(一六九七)の生まれ、没したのは 宝暦二年(一七五二)八月である。蕪村が上洛したのは、宝暦元年(一七五一)の八月で、蕪村と百川との京都での出会いがあったとすると、僅々一年という短い期間ということになる。

 蕪村の上洛の大きな理由の一つに、画・俳両道において名を成していた百川が念頭にあったことは、先に紹介した蕪村書簡(「翁像少之内御見せ可被下」)などからして想像するに難くない。
百川の本姓は榊原、名は真淵、字が百川で、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂などがある。通称は土佐屋平八郎で、彭城は自称である。俳諧は美濃派の各務支考門で、後に、麦林派の中川乙由に帰依している。

 百川は町人出身の職業画家で、当時の京都の文化人ネットワークの中心人物の「売茶翁」(黄檗宗の僧で還俗後は高遊外、煎茶中興の祖)に倣い、自ら「売画自給」と称し、後に、絵師として法橋に叙せられている。

 同じく日本南画の先駆者とされる武士階級の祇園南海や柳澤淇園は、職業画家ではなくより中国の士大夫階級の余技的な絵画(文人画))という異なる面を有している。また、当時舶載の中国画や画譜類に関する造詣が深く、『元明画人考』『元明清書画人名録』などの著作を有している。

 南海、淇園、そして、百川が日本南画の先駆者とすると、池大雅と与謝蕪村とがその大成者として位置づけられる。そして、この両者も公家・武家階級ではなく町人階級出身で、職業画家という面においては、百川に近い画家ということになろう。

 特に、画・俳両道を志している蕪村にとって、当時の百川は、格好の「プトロタイプ」(原型)という存在であったろう。

 蕪村の芭蕉崇拝は夙に知られているが、百川もまた『八僊観墨なおし』(百川の第三撰集)の「墨直し」(芭蕉忌などに関連し芭蕉碑の墨直しをする儀式)を、延享二年(一七四五)に東山双林寺で修するなど、支考・乙由に連なる蕉門の一員として、やはり、芭蕉崇敬の念は人後に落ちないであろう。

 そして、芭蕉忌などの句筵興行などに際しては、「芭蕉翁像」を掲げることが通例で、百川の、その種のものは、僧衣をまとった祖師形のものに類型化されているという(『蕪村の遠近法(清水孝之)』所収「百川から蕪村へ」)。
 また、同著には、「芭蕉翁肖像」の図録はないが、次の三点が紹介されている。

一 芭蕉翁肖像 倣杉風画 丙寅年三月十一日八日八僊観主人模写於洛東双林寺

 紙本水墨の座像一幅(佐々木昌興氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)。顔貌は杉風様式を忠実に写している。この作品は『八僊観墨なおし』の翌延享三年の「墨直し会」の席上に描かれたことに注目される。双林寺の墨直し行事は、百川筆芭蕉像の声価をも高めたものではないか。かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる。

二 法衣に袈裟を掛け、杖を手にする芭蕉翁立像(佐々木嘉太郎氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)

 紙本水墨。前大徳大順禅師の賛があり、落款は「八僊老人写」とする。前者に比べると格段にすぐれた筆蝕に成り、草体ではあるが、百川独自の顔面描写も美しい。精魂をこめて構想し墨筆を揮ったものとして百川の芭蕉画像の佳品といえよう。(以下、略)

三 松任市の聖興寺所蔵の「八僊逸人写」すところの、僧形芭蕉像。
 これも水墨画の草画で、脇息によって斜め上方を見上げるポーズに動きがある。左上部に「いざ宵やまだ誰々も見えぬうち 尼素園」の賛句がある(日本経済新聞社載、谷信一氏稿)。

 上記の一については、『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」(かつて佐々木昌與氏のコレクションであった作品で、東京国立文化財研究所提供の写真による)で、下記のとおり紹介されている。

双林寺・芭蕉像.jpg
『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」
⑱ 芭蕉翁像 一幅 五一・二×二九・一cm
款 「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」
印 「平安一酒徒」
注 丙寅年=延享三年(一七四六) 

 なお、この作品については、先に紹介した茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」の「作品解説」で、「本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった」と記されている。

 この延享三年(一七四六)は、百川が五十歳の時で、百川の大作「前後赤壁図屏風」(岡山県立美術館蔵)が創作された年である。また、この八月には売茶翁を訪ね、「売茶翁煎茶図」も創作されていて、百川の頂点に達した頃であろう。

 一方、この頃の蕪村は、北関東の結城に居て、延享二年(一七四五)、三十歳の時に、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』で絶賛された、類い稀なる俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲)を創作した頃である。

 いずれにしろ、百川の「芭蕉翁像」というのは、この延享三年(一七四六)の洛東双林寺で描かれたものがベースになっていて、これは、「かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる」(『清水・前掲書』)と、それをより完成したものとした作品の一つに、茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」が位置するという理解で差し支えなかろう。

 その他に、上記の「二・三」の系統のものとか、さらに、義仲寺の『奉扇会』関連の「芭蕉翁画像」(扇子を持つ座像)とか、「知られざる百川筆の芭蕉翁像」とかが、その背後に存在しているのであろう。


蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その二) [芭蕉翁像]

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その一) [芭蕉翁像]

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

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