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蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二) [蕪村・若冲・大雅・応挙]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

諸家寄合膳(二十枚).jpg
諸家寄合膳(二十枚) 上から「一段目~五段目」
一段目(右~左)「一円山応挙」・「二池大雅」・「三与謝蕪村」・「四池玉瀾」
二段目(右~左)「五鼎春嶽・皆川淇園賛」・「六曽我蕭白」・「七東東洋・八木巽処賛」
・「八伊藤若冲・四方真顔賛」
三段目(右~左)「九福原五岳・三宅嘯山賛」・「十狩野惟信・鴨祐為賛」・「十一岸駒・森川竹窓賛」・「十二長沢芦雪・柴野栗山賛」
四段目(右~左)「十三月僊・慈周(六如)賛」・「十四吉村蘭洲・浜田杏堂賛」・「十五土方稲嶺・木村蒹葭堂賛」・「十六玉潾・慈延賛」
五段目(右から左)「十七紀楳亭・加茂季鷹賛」・「十八観嵩月」・「十九島田元直・谷口鶏口」
・「二十堀索道・大島完来賛」

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、「諸家寄合膳」の絵の作者、それに賛を草した者(別記一)は、主として、十八世紀の、そして、ほぼ京都で活躍した人達であると解して差し支えなかろう。
 これらの人達を、「十八世紀の京都ルネッサンス」(「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展のスタートの第一章のネーミング)のもとに、「諸家寄合膳」そして「諸家寄合椀」の作者・賛者として、その「膳」(二十枚)・「椀」(十一合)を展示したのは圧巻であった。

 ここで、「十八世紀の京都ルネッサンス」とは、いかなるものなのか。絵付けをした、「応挙・大雅・若冲・蕪村・玉瀾・春嶽・蕭白・東洋・五岳・惟信・岸駒・芦雪・月僊・蘭州・稲嶺・玉潾・楳亭・嵩月・元直・索道」のニ十人、賛を草した「淇園・巽処・真顔・嘯山・祐為・竹窓・栗山・慈周・杏堂・蒹葭堂・慈延・季鷹・鶏口・完来」の十四人の、この錚々たる顔ぶれの画人・文人達が活躍した、十八世紀の京都というのは、どのようなものであったのかと、実に、これは興味をかきたてるものがある。

 もちろん、この三十四人は、十八世よりもより十九世紀に掛けて活躍した人も、また、京都よりも浪華(大阪)や江戸や仙台で活躍した人も居られる。それ以上に、これらの人達は、当時の画人・文人達の、ほんの一部であって、例えば、明和五年(一七六八)版『平安人物史』に登載されている者は、六部門で延べ百五十三名、最も多い文政十三年(一八三〇)版では、部門も三十部門以上に激増し、八百名近くの文化人が登載されている。

 すなわち、十八世紀(そして十九世紀)は、江戸(東京)の徳川幕藩体制のもと、文化の東漸運動が著しく進展した時代であったが、依然として文化の中心地は遠く平安時代からの京都がその一翼を担っているということを意味している。
 そして、象徴的なことは、十七世紀から十八世紀に掛けての「元禄文化」の中心的な京都の画人・尾形光琳が、徳川吉宗が将軍となった享保元年(一七一六)に、その五十九年の生涯を閉じ、その同じ年に、若冲(正徳六年=一七一六)と蕪村(享保元年=一七一六)とが誕生していることである。
 すなわち、光琳の後の、若冲・蕪村の時代は、享保の時代であり、それは幕藩体制の強化の時代でもあった。しかし、それは、その反動として、武士階級や公家階級の文化ではなく、新しく勃興しつつあった商人階級を基盤にしての、「旧きものを破壊し、新しいものを生み出す」転換期の時代でもあった。
 これらのことが、「十八世紀の京都ルネッサンス」の正体であり、その背景でもある。すなわち、上記の「諸家寄合膳」に登場する三十四人は、その強弱はあれ、いずれも、「十八世紀(そして十九世紀)の京都の新しい文化の夜明け(ルネッサンス)」を告げる「明烏(あけがらす)」(蕪村七部集の一つ『明烏』《几董編》の書名)が、その正体なのである。

 さらに、これらに付け加えるならば、上記の三十四人の一人の、六如庵慈周(「別記一」の十三のニ、「六如」・「慈周」)の、その賛を、ここに掲げて置きたい。

[ 盧山東南五老峰、中有真人寄玄踪、玄踪茫々不可覓、青天仰望金芙蓉  六如
(読み下し)
 盧山ノ東南五老峰、中ニ真人有リテ玄踪ニ寄ス、玄踪茫々ニシテ覓(もと)ムベカラズ、青天ヲ仰ギ望ム 金芙蓉
(訳)
盧山の東南に五老峰が見える。山中には真人がいて、奥深く足跡を残す。その奥深い足跡はかすかで、求めても求められない。ただ、青天に、金芙蓉と言われる山容を仰ぎ見るだけである。]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』
所収「作品解説(3)鈴木洋保(訳読)・「読み下し」は平仮名表記を片仮名表記にしてある」)

 この十八世紀の日本の京都の六如(慈周)の賛の意味するところのものは、十九世紀のドイツの詩人「カール・ブッセ」の次の詩と同じ意のものと解したい(「カール・ブッセ」の詩の「幸(さいわひ)」を「六如」の賛の「金芙蓉=新しい時代の創造・文化」と置き換えたい)。

Ueber den Bergen Carl Busse     山のあなた(カール・ブッセ《以下「上田敏訳」》))

Ueber den Bergen, weit zu wandern   山のあなたの空遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.   幸(さいはひ)住むと人のいふ
Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 噫(あゝ) われひとと尋(と)めゆきて
kam mit verweinten Augen zurueck.    涙さしぐみ かへりきぬ
Ueber den Bergen, weit weit drueben    山のあなたになほ遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.   幸(さいはひ)住むと人のいふ

 この十八世紀の京都で、その名が知られている六如は、売茶翁が若冲に呈した「丹青活手妙通神(丹青ノ活手ノ妙神ニ通ズ)」を捩って、当時の新進気鋭の応挙に、「丹青天下無双手(丹青ノ天下ノ無双ノ手ナリ)」と高く評価した、天台宗の学僧で、伴蒿蹊の『近世畸人伝』の「序」を草した、その人である。
 そして、この六如(慈周)は、蕪村の追悼句文集『から檜葉』(上・下)の、その巻末の、蕪村への「哭文・哭詩」を草した、雨森章迪と同じ文化圏にあったことを伝えている文献(『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」)がある。

(別記一)「諸家寄合膳」作者・賛者一覧

一 円山応挙(まるやま おうきょ) 享保十八年(一七三三)~ 寛政七年(一七九五)。江戸時代中期の絵師。姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。丹波穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)出身。明和三年(一七六六年)の頃から「応挙」を名乗り始め、この頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。「写生」を重視した平明な画風で、三井家を始めとする富裕な町人層に好まれた。著名な弟子には呉春・長沢蘆雪・森徹山・源琦などがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派」と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流となっている。
二 池大雅(いけの たいが) 享保八年(一七二三)~ 安永五年(一七七六)。江戸時代中期の絵師(文人画家)・書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱(いみな)は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。妻の玉瀾も画家。弟子に、福原五岳・木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
三 与謝蕪村(よさ ぶそん) 享保元年(一七一六)~ 天明三年(一七八四)。江戸時代中期の絵師(文人画家)で且つ俳人(中興俳諧の巨匠)。本姓は谷口、のちに「与謝」。「蕪村」は号で、名は信章。画号は「春星」・「謝寅(しゃいん)」など多数ある。俳号も多く、蕪村以外では「宰鳥」、紫狐庵」「夜半亭(二世)」など。画家の弟子に、呉春(蕪村没後応挙門)・紀楳亭など。俳人の弟子に、高井几董・黒柳召波・江森月居など。池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)生まれ。江戸で俳諧などを学んだ後、京都を拠点に活動し、丹後や讃岐も訪れた。
四 池玉瀾(いけの ぎょくらん) 享保十二年(一七二七)~天明四年(一七八四)。江戸時代中期の女流絵師。文人画家池大雅の妻。柳沢淇園,のち大雅に学ぶ。山水の扇面画に優れる。母百合(ゆり)、祖母梶(かじ)は共に歌人。本姓は徳山。名は町。
五の一 鼎春嶽(かなえ しゅんがく) 明和三年(一七六六)~ 文化八年(一八一一)。江戸時代中期の日本の南画・篆刻家。池大雅の門人・福原五岳に師事。浪華の人。
五の二 皆川淇園(みながわ きえん) 享保十九年(一七三五)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。京都の人。絵画の腕も卓越しており、山水画の師は円山応挙。
六 曽我蕭白(そが しょうはく) 享保十五年(一七三〇年)~ 天明元年(一七八一)。江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。京都の人。蕭白は高田敬輔や望月玉蟾に師事したとの説が古くからある。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。蕭白の逸話として、「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」などが知られている。
七の一 東東洋(あずま とうよう) 宝暦五年(一七五五年)~ 天保十年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。仙台の人。二十歳の頃、京都の上り、池大雅を訪ねる。後に、長崎に赴き、中国人画家に学んだとされる。各地を遊歴の後帰洛し、妙法院真仁法親王の支援を受け、絵師の応挙や呉春、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らと親交を結ぶ。文政八年(一八二五)七十一歳で仙台に帰郷。享年八十五。墓は仙台と京都にある。
七の二 八木巽処(やぎ せんしょ) 明和八年(一七七一)~天保七年(一八三六)。 江戸時代中期から後期の儒者、書画家。木村蒹葭堂と親しく、浪華の人か。
八の一 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう) 正徳六年(一七一六)~ 寛政十二年(一八〇〇)。江戸時代中期の絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。別号に、斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)など。京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。四十歳代の約十年を費やして完成させた「釈迦三尊像(三幅)」と共に相国寺に寄進した「動植綵絵(三十幅)」(一八八九年に皇室に献納)が代表作である。,売茶翁や梅荘顕常など黄檗僧たちとも交わり、信仰の念は生涯厚かった。独身を通し、晩年は深草の石峰寺に隠棲した。
八の二 四方真顔(よもの まがお) 宝暦三年(一七五三)~ 文政十二年(一八二九)。江戸時代中期から後期の狂歌師・戯作者。姓は鹿津部で、鹿津部真顔(しかつべ まがお)。通称は北川嘉兵衛。別号に狂歌堂などがある。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業としていた。江戸の人。全国的に門人が多く、晩年には、京都から宗匠号を授けられている。
九の一 福原五岳(ふくわら ごがく) 享保十五年(一七三〇)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の文人画家。池大雅の高弟。号は五岳のほかに玉峰・楽聖堂など。通称・大助。備後尾道の人。
九の二 三宅嘯山(みやけ しょうざん) 享保三年(一七一八)~享和元年(一八〇一)。 江戸時代中期の儒者・俳人。三宅観瀾の一族で、京都の質商。夜半亭巴人(早野巴人)門の望月宋屋に俳諧を学ぶ。宝暦元年(一七五一)の頃から蕪村と親交を結ぶ。「俳諧古選」などの評論で元禄期への復帰をとなえる。漢詩にも優れ、中国白話小説にも通じた。別号に葎亭・,滄浪居など。
十の一 狩野惟信(かのう これのぶ) 宝暦三年(一七五三)~ 文化五年(一八〇八)。江戸時代中期から後期の木挽町家狩野派七代目の絵師である。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。 
十の二 鴨祐為(かもの すけため) 元文五年(一七四〇)から享和元年〈一八〇一)。江戸時代中期から後期の京都の神官、歌人。代々上賀茂神社の神官を務める賀茂氏の流を汲む梨木)家に生れる。幼少の頃より和歌を好み冷泉為村に師事し、その生涯を通して十万首を超える和歌を詠んだといわれる。
十一の一 岸駒(がんく) 宝暦六年(一七五六)または寛延二年(一七四九)~ 天保九年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。姓は佐伯。名は昌明。初期の号は岸矩。岸派の祖である。出身地は越中高岡と加賀金沢との二説がある。安永七年(一七七八)の頃から上洛し、天明四年(一七八四)に有栖川宮家の近習となり、有栖川宮の庇護のもと、京都を代表する絵師の一人となる。
十一の二 森川竹窓(もりかわ ちくそう) 宝暦十三年(一七六三)~ 文政十三年(一八三〇)。江戸時代中期・後期の書家・画家・篆刻家である。 号は竹窓の他に良翁・墨兵・天遊など。大和の人。浪華に移住し、京都で没する。上田秋成と親交が深い。
十二の一 長沢芦雪(ながさわ ろせつ) 宝暦四年(一七五四)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の絵師。円山応挙の高弟。別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。丹波篠山に生まれ、安永七年(一七七八)、二十五歳の頃、応挙門に入る。「後年応挙に破門された」とかの流説があるが、事実は不明。
十二の二 柴野栗山(しばの りつざん) 元文元年(一七三六)~ 文化四年(一八〇七)。
江戸時代中期・後期の儒学者・文人。讃岐の生まれ、寛政の三博士(寛政期に昌平黌の教官を務めた朱子学者三人、古賀精里・尾藤二洲・柴野栗山)の一人として知られる。
十三の一 月僊(げっせん) 元文六年(一七四一)~ 文化六年(一八〇九)。江戸時代中期から後期にかけての画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。尾張名古屋の生まれ。江戸へ出て増上寺に入り月僊の号を与えられる。応挙・蕪村に私淑。画料を貪るなど「乞食月僊」との呼称もあるが、晩年その財を投じ伊勢山田の寂照寺を再興。著書『月僊画譜』など。
十三の二 慈周(じしゅう・六如=りくにょ) 享保十九年(一七三四)~ 享和元年(一八〇一)・江戸中期の天台宗の僧・漢詩人。近江の生まれ。医者・苗村介洞の子。白楼・無着菴と号する。初め天台宗武蔵明静院の学僧であったが、野村東皐に詩文を学び、のち江戸に出て宮瀬龍門に師事した。また儒者・皆川淇園らと親交があった。内外の書に精通し、仏儒に兼通するが、殊に詩学で知られる。晩年には京都に落ち着いて、嵯峨の長床坊に隠棲したという。
十四の一 吉村蘭洲(よしざわ らんしゅう) 元文四年(一七三九)から文化十三年(一八一三)。江戸時代中期-後期の画家。京都の人。石田幽汀のち円山応挙に学び,西本願寺絵師となる。円山応挙晩年の弟子で、応門十哲の一人に数えられる。
十四の二 浜田杏堂(はまだ きょくどう) 明和三年(一七六六)~ 文化十一年(一八一五)。江戸時代中期後期の画家・漢方医。本姓は名和氏。号は杏堂・痴仙。浪華の人。
十五の一 土方稲嶺(ひじかた とうれい) 享保二十年(一七三五)または寛保元年(一七四一)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだという。
十五の二 木村蒹葭堂(きむら けんかどう) 元文元年(一七三六)~ 享和二年(一
八〇二は、江戸時代中期の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。呉は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)など。通称は 坪井屋吉右衛門。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には多数の来訪者の記録があり、当時の漢詩人・作家・学者・医者・本草学者・絵師・大名等など幅広い交友が生まれ、一大文化サロンを形成している。この「諸家寄合膳」・「諸家寄合椀」に出てくる作者のほとんどが、蒹葭堂と何らかの関係を有している。
十六の一 玉潾(ぎくりん) 宝暦元年(一七五一)~文化十一年(一八一四)。江戸時代中期・後期の画僧。近江の人。京都永観堂の画僧玉翁の法弟で洛東山科に住した。画を師に学び、墨竹を得意とした。公卿や名門の人々と交わって画名をあげ、茶道・華道・蹴鞠の道も究めたという。俗姓は馬場。法号は曇空。別号に墨君堂・淵々斎。
十六の二 慈延(じえん) 寛延元年(一七四八)~ 文化二(一八〇五)。江戸時代中期・後期天台宗の僧・歌人。父は儒医兼漢学者塚田旭嶺。尾張藩明倫堂の督学を務めた儒学者塚田大峯の弟。字は大愚。号は吐屑庵。小沢蘆庵・澄月・伴蒿蹊とともに平安和歌四天王の一人に数えられている。信濃の生まれ、比叡山で出家して天台教学を学び、円教院に住した。
十七の一 紀楳亭(きの ばいてい) 享保十九年(一七三四)~ 文化七(一八一〇)。江戸時代中期・後期の絵師。与謝蕪村の高弟で師の画風を忠実に継承し、晩年大津に住んだため、近江蕪村と呼ばれた。山城鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。
十七の二 加茂季鷹(かもの すえたか) 宝暦四年(一七五四)~天保十二年(一八四一)。江戸後期の国学者。京都の生まれ。姓は山本、号を生山・雲錦。和歌を有栖川宮職仁親王に学ぶ。江戸では加藤千蔭・村田春海ら歌人・文人と交わり、京に帰って上賀茂の祠官となる。狂歌を得意とし、居を雲錦亭と名づけ歌仙堂を設け、また文庫に数千巻の書を蔵した。
十八 観嵩月(かん すうげつ) 宝暦五年(一七五五)~ 文政十三年(一八三一)。江戸時代後期に活躍した英派の絵師。高嵩谷の門人。高氏、名は常雄。別号に蓑虫庵・景訥など。江戸深川六軒堀の生まれ。
十九の一 島田元直(しまだ もとなお) 元文元年(一七三六)~文政2年(一八一九)。江戸中・後期の絵師。京都の生まれ。姓は紀、字は子方・子玄、別号に鸞洞(らんどう)など。円山応挙に師事。
十九の二 谷口鶏口(たにぐち けいこう) 享保三年(一七一八)~享和二年(一八〇二)。谷口楼川・谷口田女の養子。江戸神田の人。養父母とともに馬場存義側の点者をつとめる。楼川の跡をついで木樨庵2世となった。別号に獅子眠(ししみん)。
二十の一 堀索道(ほり さくどう) 生年未詳~享和二年(一八〇二)。江戸時代中期・後期の絵師。狩野)派の鶴沢)探山に学ぶ。寛政の内裏造営に際し,障壁画制作に加わった。法橋。名は守保。
二十の二 大島完来(おおしま かんらい) 寛延元年(一七四八)~文化十四年(一八一七)。 江戸時代中期・後期の俳人。伊勢津藩士。大島蓼太に学び、のち養子となって、雪中庵四世を継いだ。本姓は富増。通称は吉太郎。別号に震柳舎,野狐窟など。

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