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町物(京都・江戸)と浮世絵(その八 酒井抱一・その三) [洛東遺芳館]

(その八) 酒井抱一(その三)「晋子肖像」
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。

(歌仙) 柳ちり (底本『反古ぶすま』 寛延三年以前の作と推定)
 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ     蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月      李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに        百万(旨原)
(以下 略)

(歌仙) 思ふこと (底本『東風流』 宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人       宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫      春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(ねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん  雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)
 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
 そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(『寛保四年宇都宮歳旦帖(蕪村編著)』)

 寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯

(「歳旦三つ物」)
  いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
  かも川の水音にやや春を告げたり
 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱   宰鳥(蕪村の前号)
   神馬(じんめ)しづかに春の白たへ     露鳩
 谷水の泡だつかたは根芹にて          素玉
  (中略)
 名月の根分の芋も雑煮かな           嶺月
  大黒舞の気にも子(ね)の味         宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
  宝引綱(ほうびきづな)もみる喰(くひ)の紅 露長
 のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて   宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
(「歳末」)
  (前略)
 水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり  宰鳥(蕪村の前号)
(「春興」)
 梅が香や能(よき)瓶持(もち)て酒一斗    雁宕(結城)
   (中略)
 逃水(にげみづ)に羽をこく雉子の光哉     大済(下館)
   (中略)
 梅が香や画具(ゑのぐ)のはげる御所車     阿誰(関宿さか井)
   (中略)
 梅が香や隣の娘嫁(か)せし後         潭北(佐久山)
   (後略)
(軸)
 古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら        蕪村(「蕪村」の改号)
(追加) (後略)
(追附) (前略)
  四十のはるを迎(むかへ)て
 七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 存義

 寛保四年(一七四四)、蕪村、二十九歳の時、結城の砂岡雁宕の娘婿である佐藤露鳩の後援を得て宇都宮で歳旦帖を出した。歳旦帖を出したということは俳諧宗匠として一人立ちをしたということである。
 『寛保四年宇都宮歳旦帖』は、紙数九枚(十七頁)の片々たる小冊子であるが、蕪村が編集した最初の俳書であり、また、「蕪村」の号が初めて見える文献として重要な意味を持つ。
 その表紙に記された、「寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯」の「渓霜蕪村」の「渓霜(けいそう)」は、「芭蕉桃青(とうせい)のように、号を二つ重ねたものなのかも知れない。また、「谷(口)蕪村」の「渓」の意味もあるのかも知れない。また、この「霜」は、寛延三年(一七五〇)の「月夜行旅図」の落款に「霜蕪村」とあり、その関連もあるのかも知れない。
 この歳旦帖には、蕪村の句(付句を含む)は五句あるが、それは、上記のとおり、蕪村の前号の「宰鳥」の名で、「歳旦三つ物」の「発句」(「鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱」)・「脇句」(「大黒舞の気にも子(ね)の味」)・「第三」(「のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて」)、「歳末」の句(発句=俳句)「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」の四句、そして、「春興」の軸句(発句=俳句、巻軸句として一番重要な句)の、「蕪村」の号による「古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら」の句である。
 そして、さらに重要なことは、この蕪村のこの「軸」句の後に、「追加」として、「東都(江戸)」俳人、さらに続けて、「追附」として、同じく、「東都(江戸)」の俳人の句を続けて、その「巻末」の句に、存義の「四十のはるを迎(むかへ)て」の前書きのある七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 」の句を以て、この歳旦帖を締め括っているのである。
 すなわち、「蕪村」の改号披露を兼ねての、俳諧宗匠として一人立ちを意味する「(宗匠)立机」披露の初「歳旦帖」を刊行するにあたり、その最高後援者の、お墨付けを与える役として、実質上、亡き夜半亭一世宋阿こと早野巴人の『夜半亭俳諧』を引き継いだ、江戸座の総宗匠格の馬場存義が、この句を蕪村に下賜して、江戸座の俳諧宗匠としての蕪村を認知したということを意味しよう。
 そして、その存義を頂点とする蕪村を巡る先輩格の江戸座の宗匠の面々が、雁宕(結城)・
大済(下館)・ 阿誰(関宿さか井)・潭北(佐久山)・露鳩(宇都宮)等々ということになろう。
 その俳諧宗匠として一人立ちをした、当時、二十九歳の蕪村が、六十二歳と老齢を重ねた安永六年(一七四四)に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」と、当時、十七歳の酒井抱一が、蕪村と関係の深かった、その馬場存義の江戸座俳諧に入門して来るのである。

 これは、「画・俳」の二道を極めた、日本南画の大成者の一人でもある与謝蕪村と、ともすると、「江戸琳派の創始者」として、その「画」道の人としのみに見られがちの酒井抱一が、実は、蕪村と同じ宝井其角に通ずる、江戸座の俳諧宗匠の大立者の馬場存義を介して、「俳」(俳諧=連句・俳句)の世界の人でもあったということと、それに併せ、「浮世絵・狂歌・漢詩・茶道・能」等々に通じた、蕪村以上のディレッタント(多種多用な芸術や学問を趣味として愛好する好事家などを意味する)であることを、思い知るのである。

 ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり

補記三 建部巣兆

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-takebesocho.html

巣兆.jpg
巣兆筆「盆踊り図」

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その七 酒井抱一・その二) [洛東遺芳館]

(その七) 酒井抱一(その二)「文読む美人図」

抱一・文読む美人図.jpg
酒井抱一筆「文読む美人図」一幅 太田記念美術館蔵

「二十代の抱一が多数描いた美人画の中でも最初の段階を示す作らしく、手つき足首など、たどたどしく頼りなさがあるが、側面の顔立ちが柔和で、帯の文様など真摯な取り組みが初々しい。安永期に活躍し影響の大きかった浮世絵師、磯田湖龍斎による美人画の細身なスタイルの反映があることも、制作時期の早さを示す。『楓窓杜綾畫』と署名し、『杜綾』朱文印を捺す。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

 抱一は、酒井家の家老、松下高除の著書『摘古探要』中の「等覚院殿御一代」(抱一の法名「等覚院文詮暉真」)に、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」とあり、浮世絵の最大の流派である歌川派の始祖、「歌川豊春」(一七三五~一八一四)に、浮世絵美人画を学んだと目されている。
 豊春の出生地は、豊後国臼杵(うすき)ともいわれ、また、但馬国豊岡、江戸ともいわれている。京都に出て、江戸狩野派の鶴沢探鯨(たんけい)に学んだ後、江戸に出て烏山石燕(せきえん)に入門したという。
 豊春の門人の双璧は、初代歌川豊国と歌川豊広で、その両門下から秀抜した浮世絵師たちが多数輩出し、その後の浮世絵界をリードする一大勢力を築き上げている。「洛東遺芳館」にも、この豊春や豊国に連なる浮世絵が多数あり、応挙、そして、呉春に連なる「円山四条派」の作品と共に、一つの特色となっている。

豊春.jpg
歌川豊春筆「松風村雨図」絹本著色 一幅 洛東遺芳館蔵

補記一 江戸の琳派芸術 (出光美術館)

http://blog.livedoor.jp/aa3454/archives/72320153.html

「遊女と禿図」(抱一筆)

「天明七丁未初冬尻焼猿人画」の署名と「猿人」の朱文印が捺されている。抱一、二十七歳の作。賛は吉原五明楼の扇屋花扇が、寝惚子こと大田南畝の戯文を書いたもので、絵の花魁のモデルは花扇と見る説もある。

補記二 「生誕250年記念展 酒井抱一と江戸琳派の全貌」(総出品目録)

http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2011/1010/1010_list2.pdf

補記三 酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

www.j-bunka.jp/comment/10suzuki.pdf


抱一 村雨図.jpg
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その六 酒井抱一・その一) [洛東遺芳館]

(その六) 酒井抱一(その一)「冨士図」

抱一・冨士図.jpg
酒井抱一筆「富士図」 絹本墨画金泥 一幅

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

富士の表現には、周囲を薄墨で暗くし、富士山自体は塗り残して白さを際立たせる外隈という技法が使われています。その富士山に墨の濃淡で表わされた雲が重なっています。
このような表現は、抱一に限らず、墨画の富士図に一般的ですが、抱一の特徴は、雲に用いる墨の滲みを、形がなくなるまで最大限に生かして、富士山の単純な形と対照させる点です。さらに、この作品は、稜線を真っ直ぐにして、デザイン性の強い琳派らしい作品となっています。

 酒井抱一(一七六一~一八二八)は、譜代大名酒井雅樂頭(うたのかみ)家の一員として生を享け、三十七歳で出家し(西本願寺第十八世文如光暉のもと「権大僧都等覚院文詮暉真」の称号を賜る)、酒井家を離れる。しかし、姫路十五万石を擁する有力大名家の出自は、生涯にわたり、抱一の基盤であり、その拠り所の中核に居するものであった。
 抱一は、「江戸琳派」の創始者として名高いが、その画業の開始は「浮世絵」であった。
抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、「安永八年(一七七九)十九歳」には、「杜綾(とりょぅ)」の号初めて用いる。古川藩主、土井家からの仮養子の所望を断る」とある。
 この年譜にもあるとおり、抱一の出発点は、画業としては「浮世絵」であったが、その母胎は、「遊びの文芸」としての「俳諧」、そして、それに続く、「狂歌・戯作」の世界であった。

歌麿・抱一.jpg
「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。


補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その五 呉春) [洛東遺芳館]

(その五) 呉春の「手描き友禅」「双六」

手描き友禅.jpg

呉春 手描 白絖地雪中藪柑子図描絵小袖 一領

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 蕪村の、天明初年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛て書簡に、次のような文面のものがある。

「小糸かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合(とりあわせ)甚あしく候。やはり梅亭可然候。梅亭は毎度美人之衣服に書き覚(おぼえ)候故、模様取(どり)、旁(かたがた)甚よろしく候。小糸右之道理をしらずしての物好きと被存候。我等が画きたるを見候はゞ、却(かえつ)て小糸後悔可致ときのどくに候。小糸事に候ゆへ、何をたのみ候てもいなとは申さず候へども、物好きあしく候ては、西施に黥(イレズミ)いたす様成(なる)物にて候。美人之形容見劣り可申といたはしく候。二三日中に右あはせ仕立候て、もたせ遣(つかわし)候よし申遣候。どふぞ小糸に御逢被成候て、とくと御聞かせ可被下候。縷々(るる)筆談に尽しがたく候。何事も御顔御物がたりと申候。以上」

 天明初年(一七八一)というと、蕪村、六十六歳の時である。ここに出て来る「小糸」とは、晩年の蕪村の贔屓の芸妓である。この頃の蕪村の書簡には、「杉月(さんげつ)・雪楼(富永楼)・一菊楼・玉松亭・中村屋・井筒屋」などの茶屋(料亭)の名が、しばしば出て来る。
 この茶屋遊びには芸妓が付き物だが、蕪村の贔屓の芸妓は、「小糸・小雛・石松・琴野」などで、中でも、小糸に対する寵愛ぶりは相当なものがあったらしい。

「青楼(せいろう)の御意見承知いた候。御もつともの一書、御句にて小糸が情も今日限りに候。よしなき風流、老いの面目をうしなひ申し候。禁ずべし。さりながせ、もとめ得たる句、御批判下さるべく候。
 妹(いも)がかきね三味線草の花咲きぬ 」(安永九年四月二十五日付け道立宛て書簡)

 「青楼」とは遊郭のことだが、ここは茶屋(料亭)遊びのこと。上記の書簡は、道立が蕪村の茶屋遊びを諫めているものの返書なのであろう。儒学の名門に生まれ、自らも儒学者であった樋口道立は、夜半亭一門では蕪村に諫言できる唯一の人物であったのであろう。
 蕪村書簡で、道立の名はしばしば出て来るが、蕪村は必ず「様」「子」「君」などの敬称を付けており、道立を呼び捨てにしているものは目にしないない。年齢的に、道立は蕪村よりも二十歳程度も年下なのであるが、蕪村は道立を一目も二目も置いていたのであろう。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)  大阪 うめ
  さそえばぬるむ水のかも河           其答
 盃にさくらの発句をわざくれて          几董
  表うたがふ絵むしろの裏           小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月            夜半(蕪村)
  おりおりかほる南天の花            佳棠

 天明二年(一七八二)、蕪村、六十七歳の折に刊行した、春興帖『花鳥篇』の中の俳諧(連句)の半歌仙(十二句の「連句」)の、表六句である。この表六句の発句は、大阪の梅女からの書簡に見える一句である。この「梅女」こそ、後に、呉春の後妻になる、当時の大阪の名妓なのである。
 この梅女の発句の句意は、「(蕪村さんが上げている)この凧(歌仙)が、(蕪村さんが肩入れしている)小糸(こいと)さんにによるものなら、何とも、憎らしい」というようなことであろう。
 それ続く、脇句の作者「其答(きとう)」とは、歌舞伎役者、初代・沢村国太郎その人である。俳号「其答」、屋号「三笠屋(後に「天満屋)で、京坂の舞台で活躍した大立者である。それに付けての「第三」は、夜半亭二世・蕪村の名跡を継ぐ、夜半亭三世・高井几董である。
 それに続く「四句目」は、蕪村御贔屓の芸妓、小糸の句である。「蕪村さんの御贔屓は表面だけで、その裏の真意は分かりません」というようなことであろうか。それに、蕪村がぬけぬけとと五句目を付けている。「近づきの印に小糸との語らいに、外には夏の月が掛かっている」と、ご満悦の様子である。
 続く、六句目の折端の句は、蕪村のパトロンの一人の、京都の書肆汲古堂の主人、田中庄兵衛こと、俳号・佳棠の句である。この佳棠が、蕪村の茶屋遊びの指南役なのであろう。

「いつもとは申しながら、この節季(せつき)、金ほしやと思ふことに候。今日はあまりのことに、手水鉢(ちようずばち)にむかひ、かかる身振り(手水鉢を叩こうとする人物を描く)いたし候へども、その金ここに、といふ人なきを恨み候。されどもこの雪、ただも見過ごしがたく候。二軒茶屋中村屋へと出かけ申すべく候。いずれ御出馬下さるべく候。是非是非。以上 二十七日 佳棠福人 」

 「かかる身振り」というのは、浄瑠璃の「ひらがな盛衰記」の登場人物、梅が枝(え)のしぐさで、彼女が金が欲しいといいながら手水鉢を叩くと、二階から「その金ここに」と小判三百両が投げ出される。金が無いといいながら、茶屋で雪見酒と洒落ようというのである。金が無いというのは、支払いの方は佳棠さんよろしくということであろう。福人は、その金持ちの敬称で、佳棠も福人と敬称で言われれば、雪見酒の費用は持たない訳にはいかないということであろう。佳棠の汲古堂の店は、寺町五条上ル町にあった。

 さて、司馬遼太郎に、呉春を主人公にした「天明の絵師」という小説がある。登場人物は、「蕪村・呉春・応挙・上田秋成」などである。そこでは、呉春について、「おそろしく器用なのだ。尋常一様の器用ではない。いまからすぐ呉服屋の番頭がつとまるほど如才ないし、手さきの器用さにかけては、それこそ人間ばなれしていた」と、呉春の、マルチの多芸多才ぶりを記している。
 そして、この呉春の師匠の蕪村は、「蕪村の病中、家計がいよいよ窮迫し、呉春は必死にかけまわってね金策した。借りられるところはすべて借りた。蕪村の俳句の弟子である宇治田原の庄屋奥田治兵衛には、正月の粟餅の無心をいったほどだ」と、その窮乏振りを記している。
 そして、蕪村と呉春について、「蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、『勅命』で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい」と、この両者の比較を結語にしている。
 しかし、同じ時代に生きた、「天明の絵師」の、年齢順に、「蕪村・応挙・呉春」の三人のうちで、「茶屋遊び・芝居好き」にかけては、上記の佳棠との交遊などにあるとおり、その筆頭格であったことであろう。
 上記の、「『勅命』で思想を一変した呉春」といのは、「蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門成家の大建築に描くような張りのあるものではない」、「いま勅命があって、御所の杉戸、襖、天井などに絵をかけ、といわれれば、蕪村の絵ではつとまらんよ」という、応挙の画論のことで、呉春が、蕪村亡き後に、応挙の、この画論に従い、応挙門の、御所向きの絵に様変わりしたという指摘なのである。
 それらに続けて、「応挙の死後御所の御用をつとめ、その権威も手つだって画料はいよいよ高騰し、門人は数百人をかぞえるにいたり、呉春が四条通りに住んだところから門人たちはその周辺に居を移し、このため呉春の派は、『四条派』といわれ、繁栄し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇にまで及んでいる」とし、「呉春が、もし蕪村の流れに生涯貞潔であったとすれば、単に無名の月渓でおわったろうし、また天明ノ大火がなかったなら、呉春は貧窮のうちに死んでいたのかもしれない」と、「蕪村好き」の司馬遼太郎らしい、「応挙・呉春」観を披露している。
 しかし、画人、あるいは、画壇の主流というのは、この「応挙・呉春」の流れであって、いわゆる、日本の文人画という「蕪村」の流れというのは、その亜流と化し、今や絶滅品種の類いのものということであろう。

 さて、また、冒頭の、呉春の「手書き友禅」に戻って、こういうものは、その師匠の蕪村も、上記の蕪村書簡にあるとおり、手掛けなかったし、また、司馬遼太郎の「御所向きの大建築の障壁画」を目指している応挙も、いかに、懇望されても、「その任に非ず」と、この種のものは、今に遺されていないようである。
 そして、マルチの、多芸多才の呉春は、この種のものだけでなく、子供向けの「双六」まで手掛けているのである。

双六.jpg

呉春 下絵 すごろく 木版 寛政十年

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 こういう、「天明の絵師」の、マルチの多芸多才の「呉春」に匹敵する人物は、浮世絵師・北尾政演こと戯作者・山東京伝、そして、図案集『小紋新法』、滑稽図案集『絵兄弟』、滑稽本『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』、そして、紙製煙草入れ店を開き、そのデザインした煙草入れを大流行させた、「天明のマルチ・スーパースター」の、呉春より九歳年下の、江戸の「山東京伝」を抜きにしては語れないであろう。

補記一 司馬遼太郎の「天明の絵師」周辺

http://rikachanhouse.com/3914.html%E3%80%8D

補記二 山東京伝の「デザイン」周辺

http://www.ee-kimono.net/komon.html



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その四 北尾政演・山東京伝) [洛東遺芳館]

(その四) 浮世絵(北尾政演・山東京伝作「吉原傾城新美人合自筆鏡」)

山東京伝.jpg

北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

 この「章台」は、遊里のこと。「折揚柳(セツヨウリュウ)」は、「別離の時に歌う楽曲(楽府題=がふだい)の名」、そして、「春日」は「春の日」、「路傍情」は、「路傍を見ている遊女との心の交流」のようなことであろう。

澱河歌.jpg

 蕪村筆「澱河曲」扇面自画賛(A) 紙本淡彩 一幅 一七・八×五〇・八センチ

款 右澱河歌曲 蕪村
印 東成(白文方印)

賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓→伏見百花楼ニ遊ビテ浪花ニ帰ル人ヲ送ル 妓ニ代ハリテ

  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願並枕長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン

  君は江頭の梅のことし
  花 水に浮て去ること
  すみやか也
  妾は水上の柳のことし
  影 水に沈て
  したかふことあたはす

澱河歌二.jpg

蕪村筆「澱河歌」扇面自画賛(B) 紙本淡彩 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  
款 夜半翁蕪村
印 趙 大居(白文方印)

賛 澱河歌 夏
  若たけや
  はしもとの遊女
  ありやなし
    
澱河歌 春
  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願同寝長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン
  君は江頭の梅のことし
   花 水に浮て去事すみ
   やか也
   妾は岸傍の柳のことし
   影 水に沈てしたかふ
   ことあたはす

 蕪村には、「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)、「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」の、三大俳詩がある。この「春風馬堤曲(十八首)」と「澱河歌(三首)」とは、安永六年(一七七七)、六十二歳の折の春興帖『夜半楽』に収載されているもので、「老鶯児(一首)」と併せ、三部作の連作詩篇として夙に名高い。
 この『夜半楽』収載の三部作のうち、「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、その従属的な作品と解されがちであったが、上記の「扇面自画賛」(AとB)などの紹介などと併せ、逆に、「春風馬堤曲」の先行的な作品として、『澱河歌の周辺』(『与謝蕪村(安藤次男著)』)などで、蕪村のエロティシズムの俳詩として再評価されている。
 『蕪村の世界(尾形仂著)』では、「扇面自画賛」(A)は、「これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される」とし、さらに、「扇面自画賛」(B)に記されている「若竹やはしもとの遊女ありやなし」の句について、「安永四年五月二十一日、几董庵月並句会での兼題『若竹』によるものであろう」とし、その前後の作であることを示唆している。
 何れにしろ、安永六年(一七七七)、春興帖『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲(十八首)、「澱河歌(三首)」、そして「「老鶯児(一首)」は、それぞれに相互に連動している、晩年の蕪村の「華やぎと老懶」の詩境を如実に反映していることは想像する難くない。
 そして、この『澱河歌』の、「澱河」(澱水)は、淀川、「菟水」は、宇治川の中国風の呼び名で、「京都伏見の百花楼で、淀川を舟で浪花へ帰る男を見送る遊女にかわって、蕪村がその惜別の情を詠んだ漢詩(二首)、和詩(一首)より成る、楽府題の一曲」というのが、この俳詩の解題ということになろう。

 ここで、冒頭の北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」とに戻りたい。この楽府題の歌語の「折揚柳」は、蕪村の「澱河歌」の、「君は江頭の梅のことし/妾は水上の柳のことし」と対応している。
 すなわち、上記の冒頭の「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川の背後には、蕪村が「扇面自画賛(A)」で描いている、「男(少年)」との別離が見え隠れしているのである。さらに、「扇面自画賛(B)」で続けるならば、その冒頭に出て来る「若竹やはしもとの遊女ありやなし」と連動している。
 この「はしもと(橋本)」は、現京都府八幡市内、当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多く、蕪村がその竹林の奥に幻視しているのは、『撰集抄』に見える「江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか」と、西行に連なる遊女のそれであろう。
 そして、蕪村は、安永六年(一七七七)の、この春興帖『夜半楽』の刊行に続けて、亡母追善の意を込めての回想集『新花摘』を刊行するが、そこに収載されている、「ころもがへ母なん藤原氏なりけり」「ほととぎす歌よむ遊女聞こゆなる」などの発句は、蕪村の亡母追悼のものとして、これまた、「春風馬堤曲」と併せて、夙に知られているものである。
 
 ここまで来て、扇面自画賛(B)の、「澱河歌 夏」「澱河歌 春」に対応しての、蕪村の、それに続く、「澱河歌 秋」、そして、「澱河歌 冬」は、それらは、どのようなものであったのであろうか(?)
 それらは、永遠の謎ということになろう。そして、その蕪村の、永遠の謎の一つの解明として、安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳の折の、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」、そして、安永七年(一七七八)、六十三歳の折の、「絶えだえの雲しのびずよ初しぐれ」の句が、冒頭の、北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」と、見事に交叉して来るのである。

補記一 「吉原傾城新美人合自筆鏡」(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

補記二 浮世絵 山東京伝・北尾政演

http://heartland.geocities.jp/hamasakaba/44kyoden/

補記三 東洲斎写楽の登場秘話、蔦屋と山東京伝の筆禍

http://www.ten-f.com/kansei3nen.html

補記四 山東京伝・歌川豊国らの「腹筋逢夢石」

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306128158-1

補記五 蕪村の俳詩「澱河歌」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/11/blog-post.html

補記六 蕪村の「夜半楽」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/09/blog-post.html

夜半楽(『蕪村全集七 編著・追善』所収)

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首
(この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。)

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

(「歌仙(一巻)」「春興雑題(四十三首)」略)

   謝 蕪 邨
余一日問耆老於故園。渡澱水
過馬堤。偶逢女歸省郷者。先
後行數里。相顧語。容姿嬋娟。
癡情可憐。因製歌曲十八首。
代女述意。題曰春風馬堤曲。

春風馬堤曲 十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤ヨリ下テ摘芳草  荊與蕀塞路
 荊蕀何妬情    裂裙且傷股
○溪流石點々   踏石撮香芹
 多謝水上石   敎儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
 無恙を賀し且儂が春衣を美ム
○店中有二客   能解江南語
 酒錢擲三緡   迎我讓榻去
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
○呼雛籬外鷄   籬外草滿地
 雛飛欲越籬   籬高墮三四
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得す去年此路よりす
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋邊財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
○郷を辭し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
○故郷春深し行々て又行々
 楊柳長堤道漸くくだれり
○嬌首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
 待春又春
○君不見古人太祇が句
  藪入の寢るやひとりの親の側

澱河歌 三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 舟中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 舟中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

老鶯児 一首

春もやゝあなうぐひすよむかし声 

安永丁酉春 正月
    門人 宰鳥校
平安書肆 橘仙堂板

補記七 蕪村の『新花摘』周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/06/blog-post_114982024055218622.html




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