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蕭白の「群仙図屏風」(その三) [蕭白]

(その三)「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」の「林和靖」と「唐子」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」(部分図・林和靖と唐子)

 中央の唐子を抱いている立身像の男性が、「林和靖(リンナセイ・リンワセイ)」である。名が逋(ホ)、字が君復(クンプク)、号が和靖先生(ワセイセンセイ)、中国・宋代の詩人である。生涯独身で、「梅妻鶴子」(梅は妻で、鶴は子である)と、「梅」と「鶴」とをこよなく愛した。鶴は和靖先生のメッセンジャーでもあった。
 寺の子供たちに、「もし遠くから来るお客さんが急用の場合、鶴を空に飛ばして下さい。飛んだ鶴を見るとすぐに船で帰りますから」と、「朋(トモ)遠方より来たる、また楽しからずや」、その後に続く、「人知らずして慍(ウラ)みず、また君子ならずや」の、中国の知識人・士大夫(シタイフ)の典型的な仙人なのである。
 この和靖先生を「ニヤケ顔」とか、この「唐子」達を「ヘンナ顔のオンパレード」とかと鑑賞しているものも散見するが、これは、紛れもなく、「和靖先生」の「先生」の「在るべき姿」と、その「先生」に純真無垢なるままの信頼を置いている、「唐子・寺子たち(生徒たち)」との、これほど、象徴的な画像は、なかなか、お目に掛かれない。
 この「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」(部分図)の、ここに焦点を当てただけでも、蕭白という画人は、例えば、同時代の京都の画人達の、「若冲・蕪村・大雅・応挙・芦雪・呉春」等々に比して、それらを時に「アザケリ・ヤユ」し、そして、縦横無尽に「ホントウノモノヲカキタイ」ということに徹した一人ということを実感する。

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蕭白の「群仙図屏風」(その二) [蕭白]

(その二) 「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」文化庁蔵(一七二・〇×三七八・〇cm)

 蕪村の同時代の「奇想画の旗手」の曽我蕭白は、全く「文人画の旗手」の与謝蕪村と、全く異次元の、画人かというと、そうではないのである。その根っこにある、「伝統に対して革新」、そして、その「革新に対して、更なる、新しい息吹」ということには、この両者とを見比べると時、当時の、「蕪村・蕭白、そして、若冲」等々の、熱気溢れった、「芸術家の、飽くなき追及して止まない、病的なほどの熱気」を、ひっし、ひっしと実感するのである。
 さて、この蕭白の「左隻」の、左上の落款は「式部太輔蛇足軒暉珏入道十世曾我左近次郎蕭白暉雄筆」と、何とも仰々しい「遊び心」が満喫しているサインなのである。そのサインの右側の透けた団扇をかざしている女性が、「西王母(セイオウボ)」で、その西王母の前に、不老不死の実の「仙桃(セントウ)」が置かれている。その仙桃を食べようとしている動物が、松毬のような鱗を持った「穿山甲(センザンコウ)」である。
 その穿山甲を見ている女性は、西王母の侍女で、何やら盆の上に小さな桃の実のようなものを載せて持っている。その右側に、「蝦蟇仙人(ガマセンニン)が、「蝦蟇(ガマ)」を肩に載せている。それだけではなく、隣の女性に、「耳かき」をさせている。
 画面中央の「鯉(コイ)」を掴んでいる人物は「左茲(サジ)」で、「三国志」で活躍する妖術使いの名手である。何やら背に「遁甲天書」の巻物などを携えている。
白い「鶴(ツル)」と黄色い「鶴(ツル)」は、隣の「唐子(カラコ)」の一人を抱っこし、数人の唐子を引き連れての「林和靖(リンナセイ)」と「左茲(サジ)」とを取り持つ「吉鳥(キツチョウ)」なのであろう。
 どうにも、この「唐子(カラコ)」は、屈託がなく、そして、逞しく、さながら、当時の、京都画壇の、「応挙・蕭白・若冲・蕪村」等々の、その幼なかりし頃の、イメージすら抱かせるのである。
 そして、蕪村の「十二神仙図押絵貼屏風」(六曲一双)の、その「左隻」は、これらの蕭白の「唐子」の、それぞれが、それぞれに到達した、その「老仙」の姿のようにも思われる。

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「十二神仙図押絵貼屏風」(蕪村筆)の「左隻」(一二九・六×三二六・四cm)


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蕭白の「群仙図屏風」(その一) [蕭白]

その一 「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」文化庁蔵(一七二・〇×三七八・〇cm)

 「奇想画の旗手」の曽我蕭白は、享保十五年(一七三〇)生まれ、享保元年(一七一六)生まれの与謝蕪村よりも年少であるが、亡くなったのは、天明元年(一七八一)で、天明三年(一七八三)没の蕪村よりも早く亡くなっている。
 この二人は、同時代の、そして、共に、京都を舞台にしての、その『平安人物誌』上で名を馳せている画人(画家)ということになろう。
 全く、異質の世界の画人であるが、共に、正統(主流派)に対しての異端(少数派)の画人であったことは、歩調を一にしている。
 この蕭白の、奇想画の典型たる「群仙図屏風」(六曲一双)の「右隻」は、右上の落款「従四位下曾我兵庫頭暉祐朝臣 十世孫蛇足軒蕭白左近次郎 曾我暉雄行年三十五歳筆」とあり、明和元年(一七六四)、蕭白、三十五歳時の作である。
 ここに描かれている仙人たちは、右側の落款の下の人物は、瓢箪と巻物を持っていて、三国時代の呉の医師「董奉(トウホウ)」と言われているが、「麻衣子(マイシ)」あるいは「扁鵲(ヘンジャク)」との別人説もある。その足元には「虎(トラ)」が居る。
 その左脇の赤い服の赤ら顔の人物は、春秋時代の簫(竹で作った笛のような楽器)の名手の「簫史(ショウシ)」で、その膝元には、白い羽の「鳳凰(ホウオウ)」が描かれている。
 その左脇の手を挙げている人物は、「鉄拐仙人(テッカイセンニン)」。隋代の李玄(鉄拐は幼名)で、口から気を吐いて分身を出す術を使う。足が悪いため、鉄製の杖を持っている。
 左側の「龍」に乗っている人物は、「呂洞寶(リョドウヒン)」。八仙(道教の代表的な八人の仙人)の筆頭格で、民を救う神仙として絶大な人気を誇る。鉢から龍を出して乗りこなす仙人の「陳楠(チンナン)」という説もある。
 さて、蕪村にも、その丹後時代(三十九歳~四十二歳)に、「十二神仙図押絵貼屏風」(六曲一双)があり、その「右隻」には、「鉄拐仙人」や「「呂洞寶」らしき人物が描かれている。

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「十二神仙図押絵貼屏風」(蕪村筆)の「右隻」(一二九・六×三二六・四cm)


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蕪村の奇想画(その七) [蕪村の奇想画]

その七 「真桑瓜の化物」と「西瓜の化物」

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(真桑瓜の化物)

 この図の右側に、「山城 駒のわたり 真桑瓜のばけもの」とある。これに対応して、次の「西瓜の化物」が、この絵巻の最終のものである。

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(西瓜の化物)

 この図の右側に、「大阪木津 西瓜のばけもの」とある。

 この両図を見比べると、「山城(京都) 駒のわたり(木津川の渡り)、真桑瓜のばけもの(化物)」と、「大阪(浪速) 木津(大阪市浪速区内) 西瓜のばけもの(化物)」との対比ということになる。

 もう一つ、「天王寺(浪速・大阪)」は、「蕪青(ブセイ・ブショウ・カブラ・カブ)」の産地で名が知れ渡っている。
然らば、この「妖怪絵巻」の作者、「蕪村」は、この「浪速(大阪)の「蕪」の産地の、「天王寺村」生まれに由来があるということを、暗示しているようなのである。

 それを暗示しているのは、国立国会図書館(デジタルコレクション)で公開している、『蕪村妖怪絵巻解説 : 附・化物づくし』(乾猷平著・北田紫水文庫)という貴重な文献である。

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国立国会図書館(デジタルコレクション)


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蕪村の奇想画(その六) [蕪村の奇想画]

その六 夜なき婆

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(夜なき婆)

 右側に、「遠州のみつけの宿(現・静岡県磐田)、夜なきばゝ(婆)」とある。その左側に、男と女とが泣いている図があり、そこに、「その家にうれひ(憂い)あらんとする時、此のばけもの(化物)門口に来たりなきけるとなり。人又その声を聞きて思はずなみだ(涙)こぼしけるとぞ。かゝる事二三度に及びて、その家にかならず憂ひごと有りしと也」との文言がある。
 泣き女(なきおんな)または泣女(なきめ)または泣き屋(なきや)は、葬式のときに雇われて号泣する女性である。朝鮮の泣き女は夙に知られている。アイルランドやスコットランドに伝わる女の妖精(バンシー)の泣き声が聞こえた家では、近いうちに死者が出るとされている。

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泣女(妖精・バンシー)


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蕪村の奇想画(その五) [蕪村の奇想画]

その五 銀杏の木の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(銀杏の木の化物)

 この図の右側に、「鎌倉若宮八幡いてう(銀杏)の木のばけ者」と記されている。
蕪村のものは、『妖怪百物語絵巻(湯本豪一編著)』によると「老木の精霊を図像化」したものとされている。
 ここで、泉鏡花の「化銀杏(ばけいちょう)」の最終場面を掲載して置きたい。

【 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過(よぎ)りたまわん時、好事(こうず)の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏(ばけいちょう)の旅店?と問われよ。
老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥(しゅうじょく)の後(のち)に御注意あれ。
 間(ま)広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森(しん)として、凄風(せいふう)一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然(きょうぜん)たる足音あり寂寞(せきばく)を破り近着き来(きた)りて、黒きもの颯(さと)うつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うかがうあらむ。その時声を立てられな。もし咳(しわぶき)をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返(いちょうがえし)の背向(うしろむき)に、あとあし下りに入いり来りて、諸君の枕辺(まくらべ)に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然(しょうぜん)としたまわんか。トタンに件(くだん)の幽霊は行燈(あんどん)の火を吹消(ふっけ)して、暗中を走る跫音(あしおと)、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭(はずれ)に至りて、そのままハタと留やむべきなり。
 夜(よ)はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮(おもんばか)りて、諸君は一夜を待(まち)明かさむ。
 明くるを待ちて主翁(あるじ)に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然(しゅうぜん)としてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室(ひとま)に行ゆけ。密閉したる暗室内に俯向うつむき伏したる銀杏返の、その背と、裳もすその動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透すきより見るを得(う)べし。これ蓋(けだし)狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
 されど室内に立入りて、その面おもてを見んとせらるるとも、主翁は頑として肯(がえん)ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来(じらい)世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠(かれ)は恐懼おそれて日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚(はだ)えに一注せば、渠は立処(たちどころ)に絶して万事休やまむ。
 光を厭(いとう)ことかくのごとし。されば深更一縷(いちる)の燈火(ともしび)をもお貞は恐れて吹消(ふっけし)去るなり。
 渠はしかく活(いき)ながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕(じょ)せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺(いころす)なかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意(ほい)なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや 】


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蕪村の奇想画(その四) [蕪村の奇想画]

その四 産女の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(産女の化物)

 右側に、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物」とあり、この図の次に、「関口五郎太夫」の図があり、その図に、「雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」とある。
 蕪村の自叙伝の『新花摘』(安永六年作)にも、結城や宮津で狸に悪戯された話や、下館の狐の話が出て来るが、それと一緒に、秋田佐田家の家老、「梅津半右衛門ノ尉」(其角門の俳人・其雫=キダ)の四十七士討ち入りのことを報じた手紙の伝来記などが記されている。
 蕪村の「妖怪絵巻」の「産女の化物」は、その秋田佐田家地方の「産女の妖怪」と関わっているようである。
 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという伝承は、日本の各地で様々な「産女・姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」の妖怪ものを生んでいる。

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鳥山石燕『画図百鬼夜行』「姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」

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蕪村の奇想画(その三) [蕪村の奇想画]

その三 ぬっぽり坊主

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(ぬっぽり坊主)

 「京か帷子が辻、ぬっぽり坊主のばけもの。目は鼻もなく、一つの眼、尻の穴に有りて、光ること稲妻のごとし」とある。
 ここで、蕪村の時代以後の『絵本百物語』((天保十ニ年刊)の「帷子の辻」を紹介して置きたい。それは、どうやら、「腐乱した高貴な女性の死体が見える妖怪談で、その女性が、カラスや犬に食われ、蛆が湧いていく、その様を見た人々が、うつつを抜かし行く」という図と、何やら、繋がっている感じなのである。
 とにもかくにも、この、蕪村の「ぬっぽり坊主」は、蕪村の「原風景」と深く関わるものなのであろう。

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『絵本百物語』所収「帷子の辻」

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蕪村の奇想画(その二) [蕪村の奇想画]

その二 赤子

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(赤子)

 左側の人物が「林一角坊」、そして、「夜更けて数百人の足音して踊る体(テイ)に聞こえける故、襖を押し開け、伺いけるに、数千の赤子あつまりて、一角坊をなやまし」ている図である。この右側は「赤子」(妖怪)の群像である。
 この赤子(妖怪)は、大和国(現・奈良県)に伝わる妖怪らしい。この蕪村の「赤子(妖怪)」系列の、『ばけもの絵巻』(年代・作者不詳)もあるらしい。

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『ばけもの絵巻』(年代・作者不詳)


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蕪村の奇想画(その一) [蕪村の奇想画]

その一 猫股

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(猫股)

 蕪村が、宝暦四年(一七五四)から七年(一七五七)にかけて寄寓していた京都・丹後・宮津・の見性寺の欄間に張られていたものと伝えられている『蕪村妖怪絵巻』(ブソンヨウカイエマキ)は、通常の蕪村画とは異質の「奇想画」と名付けても差し支えなかろう。
 その第一景は、「榊原の家臣稲葉六郎大夫と猫又(ネコマタ)」である。左側の文字は、「おれがはら(腹)のかわ(皮)をためして見おれ、にゃん、にゃん」とある。
 この「猫股」は、年をとった猫で、尾が二つに分かれ、時に化けて人に害をなすと恐れられている。この蕪村の奇想画は、彼の「戯画・酔画」のうちの、一つの余興的な作品なのであろうが、
蕪村の根っ子のところに、この系譜の「奇想画」に連ねるものが見て取れる。
 蕪村の三大俳詩の一つ「春風馬堤曲」(安永六年)に、破調の発句体の、次の句がある。

〇 古駅三両家猫児(ビョウジ)妻を呼(ヨブ)妻来(キタ)らず

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十五)  [芭蕉翁像]

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」

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(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」図録の「作品解説1」は、次のとおりである

【絹本着色 三五・〇×三七・〇
款記   朝滄写
印章   丹青不知老至(白文方印)
柿衛文庫蔵

後賛詞(上部)
 此俳仙群会の図は元文の
 むかし余若干の時写したる
 ものにしてこゝに四十有余年
 に及へりされは其拙筆
 今更恥へしなんそ烏有と
 ならすや今又是に
 讃詞を加へよといいふ固辞
 すれともゆるさすすなはち
 筆を洛下の夜半亭にとる
 花散月落て
  文こゝに
   あらあり
    かたや
 天明壬寅春三月
 六十七翁蕪村書
 印章 謝長庚印(白文方印) 溌墨生痕
賛(下部)
 元日や神代のこともおもはるゝ(守武)
 鳳凰も出よのとけきとりのとし(長頭丸・貞徳)
 これはこれはとはかり花のよしのやま(貞室)
 手をついて哥申上る蛙かな(宗鑑)
 ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け(梅翁・宗因)
 古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 桂男懐にも入や閨の月(やちよ)
 古暦ほしき人にはまいらせむ(嵐雪)
いなつまやきのふはひかしけふは西(其角)
 はつれはつれあはにも似たるすゝき哉(園女)
 かれたかとおもふたにさてうめの花(支考)
 こよひしも黒きもの有けふの月(宋阿)
 任口上人の句はわすれたり
  平安蕪邨書
 印章 謝長庚(白文方印) 謝春星(白文方印)

 後賛詞「元文のむかし余若干の時写したるものにして」によれば、元文年間、蕪村二十代前半の作で、現存する原本作品中最も古いものということになる。芭蕉を初めとする俳仙に、師・宋阿を加えた計十四人の俳人が描かれている。後賛詞に誤りがなければ、宋阿像は生存中の宋阿を描いたことになる。一方では、この作品の制作時期を、丹後時代とする説もある。描いた年代の記憶は、時と共に曖昧になるのが常だが、自身の師の像を生存中に描いたか否かの記憶は、早々薄れるものではない。したがって、蕪村の後賛詞は信ずるに足るものであると考えられる。人物の表現に関しては、「狩野・土佐折衷様式を持つ江戸狩野の特色が強い」との指摘がなされている。 】

 この「作品解説(北畠健稿)」の基本的な考え方は、「柿衛文庫」の創設者・岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』所収「俳仙群会図」の解説を踏襲している。その解説は次のとおりである。

【右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

 (「賛」の句・落款を省略)

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

 (「後賛詞」の句文・落款を省略)

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 以下、略 】

 ここで、蕪村の画号の「朝滄」は、蕪村の関東歴行時代(元文元年・一七三六~寛延三年・一七五〇)には見られない(画号は「子漢・四明・蕪村」の三種類だけである)。そして、印章は、「四明山人・朝滄・渓漢仲」で、「朝滄」(二種類)が用いられている。
 問題は、「丹青不知老到(タンセイオイノイタルヲシラズ)」の遊印で、いみじくも、この遊印は、同年齢の蕪村と若冲とが、同じ頃、それぞれが、それぞれの自己の遊印として使用しているという曰くありげな印章なのである。
 即ち、この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
 この宝暦九年(一七五九)・宝暦十年(一七六〇)というのは、若冲・蕪村が、四十四歳・四十五歳の時で、杜甫の詩に由来のある「丹青(絵画)老イノ至ルヲ知ラズ」は、「不惑ノ年=四十歳=初老」と深く関わっているように思われる(これらのことについては「補記」を参照)。
 蕪村が、不惑の四十歳を迎えるのは、宝暦五年(一七五五)で、その前年に丹後宮津に赴き、以後、この宮津滞在中に「朝滄」の号で多くの画作を残している。こういう観点から、二十歳代の蕪村(「宰町・宰鳥」時代)が、「朝滄」という画号はともかく、「丹青不知老到」という印章を使用するとは、まずもって不自然ということになろう。
 とすると、この「後賛詞」の「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」とは、
この「俳仙群会図」の下絵など(「控え帳」などの「縮図」など)を指し、それに基づいて、丹後時代に本絵を仕上げたという意味にも取れなくも無い。
 そして、この「後賛詞」を書いた、亡くなる一年前の天明二年(一七八三)に、蕪村は二枚の表情の異なる「芭蕉翁像」(座像)を描いている(その十三を参照)。それらの「芭蕉翁像」と、この「俳仙群会図」の、この「後賛詞」とは、やはり、何かしら縁があるように思われる。
 いずれにしろ、この「俳仙群会図」中の、無帽の座像の「芭蕉像」は、それが、元文年間の駆け出しの二十歳代のものにしろ、宝暦年間の不惑の年の四十歳代のものにしろ、蕪村の「芭蕉像」の、そのスタート地点のものであることには、いささかも変わりはない。
 そして、蕪村が亡くなる一年前の、六十七歳時の、この「俳仙群会図」の「後賛詞」の末尾に記した、「花散り月落ちて文こゝにありあらありがたや」の、この字余りの破調の句は、「花が散る、月が落ちるように、芭蕉翁、師の宋阿翁をはじめ、皆、俳仙の方々は鬼籍の人となったが、その句文は今に存して、道しるべとなっている。何とありがたいことであることか」というのは、「六十七歳・蕪村翁」の、万感の意を込めてのものであろう。
 この「俳仙群会図」は、蕪村の生涯、そして、蕪村の芭蕉観を知る上での、極めて、重要且つ示唆深い作品の一つということになろう。

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(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(補記)「若冲と蕪村の『蝦蟇・鉄拐図』」より「朝滄」と「「丹青不知老(将)至」関連(抜粋)

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十四)  [芭蕉翁像]

その十四 眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点について、
これまでに、「④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)を除いて、全て、概括してきた。今回、この最後の一枚を見て行きたい。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年作=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その十四)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

蕪村遺芳.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「89『芭蕉像』画賛」

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「89『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅 
一〇〇・一×三〇・七cm
款 「夜半亭蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  後掲
『蕪村遺芳』
(賛)
蓬莱に聞はやいせの初便
先たのむ椎の木も有夏木立
名月や池をめくりて終宵
海くれて鴨の声ほのかにしろし

 この「芭蕉像」は白帽子である。「安永八年作=一七七九作」の「① 座像」「② 半身像」「③ 座像」も、白帽子であった。その特徴からする、その「安永八年(一七七九)」の、金福寺に奉納した「③ 座像」と、同一時頃の作品なのかも知れない。
 ここで、「国文学 解釈と鑑賞(特集与謝蕪村)837 2001/2」所収「蕪村の描いた芭蕉(早川聞多稿)」で紹介されている「芭蕉像に賛された発句一覧(句の上の数字は引用回数、句の下に、詠句年齢・出所出典)」を、以下に掲げて置きたい。
 ※は、この賛にある句である。

⑥ 芭蕉野分して盥に雨をきく夜かな (三八歳・茅舎の感)
⑤ 花にうき世我我酒白く飯黒し   (四〇際・虚栗)
⑤ 夏衣もいまだ虱を取り尽さず   (四二歳・野ざらし紀行)
④ 名月や池をめぐりて夜もすがら  (四三歳・あつめ句)   ※
③ わが衣に伏見の桃の雫せよ    (四二歳・野ざらし紀行)
③ 海暮れて鴨の声ほのかに白し   (四二歳・野ざらし紀行) ※
③ 世にふるもさらに宗祇のやどりかな(四三歳・笠の記)
③ おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな (四五歳・鵜舟)
③ 朝夜さに誰がのつしまぞ片心   (四五歳・桃舐集)
③ 行く春や鳥啼魚の目は泪     (四六歳・奥の細道)
③ 物いへば唇寒し秋の風      (四八歳頃・芭蕉庵小文庫)

③ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便    (五一歳・真蹟自画賛)  ※
② 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  (四二歳・野ざらし紀行)
② あけぼのや白魚白きこと一寸   (四二歳・野ざらし紀行)
② 年暮れぬ笠着て草鞋はきなから  (四二歳・野ざらし紀行)
② 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  (四二歳・野ざらし紀行)
② 古池や蛙飛こむ水の音      (四三歳・蛙合)
② いてや我よき衣着たり蝉衣    (四四歳・あつめ句)
② 五月雨に鳰のうき巣を見にゆかん (四四歳・泊船集)
② 寒菊や粉糠のかゝる臼の端    (五〇歳・炭俵)
② この道を行く人なしに秋の暮   (五一歳・書簡)

① 櫓の声(せい)波を打つて腸凍る夜や涙 (三八歳・寒夜の辞)
① 年の市線香買ひに出でばやな   (四三歳・続虚栗)
① おもしろし雪にやならん冬の雨  (四四歳・俳諧千鳥掛)
① 夕顔や秋はいろいろ瓢哉     (四五歳・真蹟懐紙考)
① このあたり目に見ゆるものは皆涼し(四五歳・十八楼の記)
① 粟稗にまづしくもあらず草の庵  (四五歳・笈日記)
① あかあかと日はつれなくも秋の風 (四六歳・奥の細道)
① 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   (四六歳・猿蓑)
① 蛍の笠落したる椿かな      (四七歳・真蹟色紙)
① 菰を着て誰人います花の春    (四七歳・真蹟草稿)

① 先たのむ椎の木も有り夏木立   (四七歳・幻住庵の記) ※
① ほととぎす大竹藪を漏る月夜   (四八歳・嵯峨日記)
① 子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん   (五〇歳・藤の実)
① 稲妻や闇の方ゆく五位の声    (五一歳・有磯海)


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十三)  [芭蕉翁像]

その十三 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

天明二年1.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「101『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「101『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「天明歳次壬寅晩冬初十日 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(白文連印)
賛  後掲
天明二年(一七八二)
『俳人真蹟全集 蕪村』
(賛)
花にうき世我酒しろく飯くろし
夏ころもいまた虱をとりつくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
あけぼのや白魚しろきこと一寸
あさよさにたれまつしまそ片こゝろ

 落款の「天明歳次壬寅晩冬初十日」から、「天明二年(一七八二)十ニ月十日」の作ということになる。蕪村が亡くなるのは、翌年の天明三年(一七八三)十ニ月二十五日、丁度、亡くなる一年前の作品ということになる。
 この賛中の芭蕉の五句は、蕪村が精選を重ねての五句ということになろう。晩年の芭蕉が到達した「軽み」の世界というのは、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する」と要約すれば、これらの作品は、決して晩年の作品ではないが、どの句も「日常卑近の題材」であり、そして、どの句も「真率・平淡な表現」のものということになろう。
 これらの賛の五句が、芭蕉の「軽み」の世界のものとするならば、この蕪村の「芭蕉像」を、顔の表情は実にユーモラスで、先に紹介した「倣暒々翁墨意」の落款のある「芭蕉像」(『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」)に近いという印象を深くする。

天明二年2.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「蕪村拝写」
印 一顆(印文不明)
賛  後掲
『上方俳星遺芳』
(賛)
花にうき世我酒白く飯黒し
夏衣いまた虱を取つくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
おもしろし雪にやならむふゆの雨
あさよさにたれまつしまそ片心

 冒頭に掲げた「芭蕉像」の賛中の五句と同じものではなく、この四句目のみが相違している。また、他の四句も、漢字と平仮名などの句形を異なにしている。しかし、この両者は、この賛などからして、同一時期の作品と解したい。即ち、両者とも、天明二年(一七八二)作と解したい。
 その上で、両者の画像を比較鑑賞すると、前者が、速筆体の「戯画」「酔画」の、「真・行・草」の「草画」的な印象に比して、後者の方は、丁寧な筆遣いで、「真(本)画」的な印象を強く受ける。

 先に、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛ての蕪村書簡の一部について触れたが、ここで、より詳しく、その書簡について触れて置きたい。

[ (前略)
〇 杉風が画の肖像も少々俗気有之候故、いさゝか添削を加候。都(スベ)て肖像之画法は、年を寄せ候が能(よく)候。
〇 杉風原本にはしとね(褥)を敷(しき)候へども、是はよろしからず候。仏家之祖師などの像には褥(しとね)をよく候へ共、翁などのごとき風流洒落(しゃらく)にて脱俗塵たる像は、只寒相にて寂しき方を貴(たっと)び申事に候。
〇 愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画(えがき)たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候。庶幾(こいねがわくば)其真にせまらん事を。(以下、略)  ]
(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)

 蕪村が描く座像の「芭蕉像」は、多く、杉風の芭蕉像(例えば、義仲寺の芭蕉像)を参考にしているのだろうが、この書簡にあるごとく、ことごとく「添削を加え」(手を入れて修正している)、蕪村の内たる芭蕉像を描出している。
 また、この書簡の、杉風作は「褥を敷(しき)候へ共、是はよろしからず候」と、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている七点の座像ものは、全てが、「褥(しとね=座る時の四角い敷物)は敷いていない。
 さらに、この書簡の、「肖像之画法は、年を寄せ候(年相応に描く)が能(よく)候」と、その顔の表情などは、一枚足りとも同じ表情のものはない。壮年の芭蕉は壮年らしく、老齢の芭蕉は老齢のままに描いている。

 上記の同一時の頃の作と思われる(その賛などからして)二例にしても、前者が「動的・ユーモラス」な芭蕉像とすると、後者は「静的・謹厳実直」な芭蕉像という趣である。そして、画人・蕪村の忠実な後継者である「月渓」の描く芭蕉像などは、蕪村の外面的なものの把握だけで、その内面的なものに迫ろうとする気配は感じられない。
 そして、これまで見てきた「百川・若冲・月渓」の芭蕉像と、蕪村のそれとを比較すると、質・量共に、蕪村に匹敵する画人は見当たらないということを実感する。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十二)  [芭蕉翁像]

その十二 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)

逸翁・座像.jpg
『蕪村・逸翁美術館蔵品目録』所収「18芭蕉翁像」(白黒写真)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一一七・〇×三八・二cm
款 「倣暒々翁墨意 謝寅」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  真率其性風 雅斯宗偉哉 此翁厥声無窮 従三位具選題
逸翁美術館蔵

 上記の落款にある「倣暒々翁墨意 謝寅」の「暒々翁」とは、江戸中期の蕪村の次の世代の戯作者・浮世絵師として名高い「山東京伝」(本名は岩瀬醒《さむる》、江戸深川の生まれ、画号・北尾政演等々。錦絵だけではなく多くの戯作・狂言本などに挿絵を描いている)であろう。
 蕪村が享保元年(一七一六)の生まれとすると、山東京伝は宝暦十一年(一七六一)の生まれ、両者の年の開きは四十五歳程度と、この落款の「倣暒々翁墨意」というのは、老翁の「俳諧師・挿絵画家・蕪村」が、新進気鋭の「黄表紙戯作者・挿絵画家・山東京伝(暒々翁)」の、「倣暒々翁墨意」との「新しい感覚」を期待してのものなのかも知れない。
 蕪村の、この落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」(山東京伝)には驚かされるが、この賛をした人物の「従三位具選」(岩倉具選)にも驚かされる。
 岩倉具選(ともかず)は、宝暦七年(一七五七)の生まれ、岩倉家七世の祖。公卿としては主に後桜町上皇に仕え、その院別当などを務めた。剃髪号可汲。詩文・書画を能くし、篆刻を、池大雅の朋友、高芙蓉に学んでいる。
 蕪村との年齢差は、四十一歳の開きがあり、具選は山東京伝と同時代の、共に、江戸中期・後期の日本史の一角にその名を占めている人物である。
 この一幅に関係している群像の、「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」と、実に豪華な顔ぶれなのである。どうしてこういうものが生まれたのか、興味深々たるものがある。
 さて、この岩倉具選は、蕪村没後の天明八年(一七七八)に従三位に達して公卿に列し、寛政八年(一七九六)には蟄居となっている。とすると、この蕪村画に具選が賛をしたのは、天明八年(一七七八)から寛政八年(一七九六)の間ということになる。
 とすると、堂上人・具選と、一介の町絵師兼俳諧師・蕪村とは、同じ京都に住んでいても、活躍する時代も違うことなどからして、面識はなかったと解するのが妥当であろう。
 とすると、この一幅に関係している「松尾芭蕉・与謝蕪村・岩倉具選・山東京伝」の四人は、生前に何らかの面識なり交友関係はなかった解すべきなのであろう。

 では、次に、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは何を意味し、そして、具選は、蕪村の、この落款をどのように解したかという謎なのである。
 これは、江戸期に流行した絵入り娯楽本の「赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻」を背景にしているように思われる。
 「赤本」は、芭蕉の時代(元禄期)に盛んであって、「昔話・絵解き」などの子供向けが多かった。続く「黒本」は。蕪村の時代(延享・宝暦期)に流行し、「軍記物・浄瑠璃・歌舞伎」などで、蕪村は、この「黒本」と次の「青本」とに深く関わっている。
 「青本」(明和・安永期に盛んであった)は、「遊郭・滑稽・諧謔」物が増えてくる。この「青本」は、安永末期から天明期以降、知識層向け文芸作品を主とした「青本」とは別に、「洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を漫画的に描き綴る」ところの「黄表紙」の時代となって来る。
 この「黄表紙」時代のチャンピオンが「山東京伝」に他ならない。続く、「合本」というのは、蕪村は知らない文化元年(一八〇四)の頃から登場する、「黄表紙」の長編化したもので、その代表選手達が、「山東京伝・式亭三馬・十返舎一九・曲亭馬琴、柳亭種彦」等々である。
 さて、この蕪村の「倣暒々翁墨意」とは、「倣暒々翁之『黄表紙』之墨意」と置き換えても良いのではなかろうかという仮説なのである。
 山東京伝の「黄表紙」の挿絵というのは、「狂歌・狂句(川柳)」の言葉尻ですると「狂画(黄表紙)」と名付けても差し支えなかろう。この「狂歌・狂句・狂画」の「狂」とは、「正当」(雅)に対する「異端」(俗)を意味しよう。
 蕪村は、しばしば、落款などに、「戯画・酔画」などの用語を用いているが、それを一歩進めて、「倣暒々翁墨意」とは、微温的な上方の「戯画・酔画」のそれではなく、俗に徹した江戸生まれの山東京伝らの「狂画」の世界をも摂取しようとしている、その心意気を示したものと理解をしたいのである。

 具体的には、冒頭の黒白写真では、それらを判然と指摘することはできないのだが、その顔の表情などを見ると、目は二つの小さな点、それに比して、特徴の鼻など、全体として、ユーモラスの「芭蕉翁像」という印象を受けるのである。
 それに比して、このユーモラスな俗調の「芭蕉翁像」に対する、篆刻の大家である具選の書は、何とも隷書体の高雅の世界のもので、その違和感を醸し出していると共に、また、そのアンバランスが、その画と書との余白と共に、独特の世界を形作っているように思われる。
 ここで、具選は、蕪村の、この「芭蕉翁像」と落款・署名の「倣暒々翁墨意 謝寅」を、どのように解したかということについて触れて置きたい。
 その前に、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点中、署名が「謝寅」になっているのは、この「⑩ 座像(左向き、褥なし、款『倣睲々翁墨意 謝寅』。逸翁美術館蔵)」だけなのである。
 他の十点の署名は、「夜半亭蕪村」か「蕪村」かである。凡そ、これらの「俳画」(「俳諧物之草画」)の人物画に属する作品の署名は、「蕪村」と署名するのが通例であって、安永七年(一七七八)から没する天明三年(一七八三)の足掛け六年間の蕪村の晩年の栄光の画号である「謝寅」は、所謂、「謝寅書き」と称せられる、蕪村の傑作画に署名されるものというのが、一般的な理解であろう。

 とにもかくにも、蕪村が、この片々たる一幅に、「謝寅」の署名をしたということは、少なくても、下記の十一点の「芭蕉像」の中では、蕪村が最終的に到達した傑作画に該当するものとして理解すべきものなのかも知れない。
 そして、それは、晩年の芭蕉が到達した「軽み」(日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する俳諧理念)の世界と軌を一にするものであって、その意味で、この「芭蕉翁像」は、蕪村の新境地の「軽み」の世界のものと鑑賞することも可能であろう。
 そして、具選の賛の芭蕉をして「真率其性風」を、蕪村の、この「芭蕉翁像」の中に、蕪村の「真率其性風」を見て取ったのかも知れない。そして、具選は、この蕪村の署名の「謝寅」に万感の意を感じ取って、己の「真率其性風」の書体を以て賛をしたと解したいのである。
 さらに、具選は、蕪村の落款の「倣暒々翁墨意」の「暒々翁」から、江戸で一世を風靡している「黄表紙」の世界を連想し、その「黄表紙」「青本」の特徴である、挿絵(狂画・戯画)と文(戯作)とが半分半分の体裁を取って、大きな余白を取り、江戸の「黄表紙」ならず、上方の「黄表紙」スタイルを意識してのもののようにも思われる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑫ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)
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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十一)  [芭蕉翁像]

(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

西岸寺芭蕉立像.jpg
『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「90『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九六・二×三二・二cm
款 「蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  
 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ
ほとゝきす大竹原をもる月夜
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
海くれて鴨の声ほのかに白し
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ
個人蔵

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』展図録「102 松尾芭蕉図」の「作品解説」(石田佳也稿)は次のとおりである。

[ 蕪村が描いた芭蕉像は十点以上が知られるが、図様から座像と立像に大別される。このうち、立像はさらに足元までを描いた全身像と、腰あたりまでを描いた半身像に分けられる。ここでは道服に頭巾を被り、手は袂の中に入れる半身像で、頭陀袋を杖に結んで左肩に担いでおり、旅姿であることが強調されている。芭蕉を追慕する風潮から、俳諧師による旅や行脚が流行したこともあって、旅姿の芭蕉像への需要が高まったと推定されるが、本図の賛として選ばれた芭蕉の句の大半が、旅の途上で詠まれた句であることも注目される。「蕪村拝写と署名があり、「長庚」「春星」(朱白文連印)を捺す。  ]

 上記の賛の一句目の前書き「西岸寺任口上人を訪ひて」は、『野ざらし紀行』では「伏見西岸寺任口上人に逢て」である。この任口上人は、東本願寺門下の京都伏見西岸寺第三代住職宝誉上人で、松江重頼門の俳人で、俳号は任口である。
 芭蕉が門人千里(ちり)を伴って、『野ざらし紀行』の旅に江戸を出立したのは、貞享元年(一六八四)八月中旬、東海道を下り、伊勢を経て、九月八日に郷里上野に帰る。数日逗留して、大和・吉野・山城を美濃の大垣に谷木因を訪ねる。初冬、熱田に入り、名古屋で『冬の日(尾張五歌仙)』を巻き上げる。十二月二十五日に、再び上野に帰り、郷里で越年する。
 明けて貞享二年(一六八五)二月に故郷を出て、奈良のお水取りの行事を見たのち、京都・大津に滞在する。二月下旬から三月上旬にかけて、京都(伏見)の任口上人を訪れたのであろう。
 三月中旬過ぎに大津を立ち、熱田・鳴海で俳席を重ね、四月十日に鳴海を立ち、名古屋・木曽路・甲州路を経て月末に江戸に帰着する。この貞享元年から二年の九カ月に及ぶ旅の紀行が『野ざらし紀行』(別名『甲子吟行』)である。

 上記の五句に創作年次などを付記すると次のとおりである。

 西岸寺任口上人を訪ひて
我きぬにふしみのもゝの雫せよ(貞享二年・一六八五、四十二歳、伏見、『野ざらし紀行』)
ほとゝぎす大竹原(藪)をもる月夜(元禄四年・一六九一、四十八歳、嵯峨、『嵯峨日記』)
はせを野分して盥に雨をきく夜哉(延宝九年・一六八一、三十八歳、深川、『武蔵曲』)
海くれて鴨の声ほのかに白し(貞享元年・一六九四、四十一歳、尾張、『野ざらし紀行』)
あさよさにたれまつしまそかたこゝろ(元禄二年・四十六歳、松島を想う、『桃舐集』)

 これらの五句を賛した蕪村の芭蕉像のイメージというのは、ずばり、芭蕉の「四十代」をイメージしてのものなのであろう。そして、それは、芭蕉七部集の第一撰集『冬の日』の時代をイメージしてのものなのであろう。そして、上記の五句目での、次の旅の「奥の細道」の「松島」の句を据えて、「漂泊の詩人・芭蕉」をイメージしているのであろう。

 ここで、あらためて、この賛の冒頭の前書きの「西岸寺任口上人を訪ひて」の、この「任口上人」に焦点を当てたい。
 
 この「任口上人」についての画像を、蕪村は、元文年間(二十年代前半)の作としている後賛詞(「元文のむかし余若干の時写したるものにして」)のある「俳仙群会図(一幅)」を今に遺している(この作品の制作時期については、丹後時代(四十代前半)とする説もあり、署名が「朝滄」、印が「丹青不知老死」で、丹後時代の作と解するのが妥当であろう)。
 いずれにしろ、蕪村の「元文年間(二十年代前半)又は丹後時代(四十代前半)」に描いた芭蕉像(「俳仙群会図」中の芭蕉座像)と、この、蕪村の金福寺の芭蕉庵再興の頃(六十歳代)に描いたと思われる、この「芭蕉立像(半身像)」とは、「任口上人」を介しての、謂わば、姉妹編と解すべきことも可能であろう。
 蕪村の「俳仙群会図」の俳人群像は、「守武・長頭丸(貞徳)・貞室・宗鑑・梅翁(宗因)・芭蕉・やちよ・嵐雪・其角・園女・おにつら(鬼貫)・支考・宋阿・任口」の十四人で、これらの俳人は、俳諧の祖の「守武・宗鑑」、そして、江戸前期の「貞門(貞徳・貞室)、貞徳(任口)、談林(宗因)、伊丹派(鬼貫)、蕉門(芭蕉。其角・嵐雪)、蕉門・江戸座(宋阿)、蕉門・美濃派(支考)、女流(園女・やちよ)」と、江戸中期の天明俳壇に位置する蕪村が、生前に面識のある俳人は、内弟子として仕えた蕉門・江戸座の其角系の俳人、宋阿(夜半亭一世・早野巴人)一人ということになろう。
 そして、それ以外の面識のない十三人の俳人に関しては、すべからく、師の宋阿などを介しての情報・資料に基づいて、この「俳仙群会図」を描いたのであろう。この任口上人については、宋阿の師・其角の『雑談集』などに因るもののように思われる。
 また、宋阿が興した夜半亭俳諧を蕪村が継承した明和七年(一七七〇)当時、京都の伏見には、「鶴英・柳女(鶴英の妻)・賀瑞(鶴英の娘)」などが中心になって、夜半亭俳諧の結社が出来ており、冒頭の「「芭蕉翁図」は、その伏見の連衆に懇望されて制作したものなのかも知れない。
 というのは、蕪村没後の天明四年(一七八四)に、夜半亭三世となる几董は、蕪村追悼集の『から檜葉』を刊行するとともに、この任口上人の百年の祥忌に際して、伏見の西岸寺で伏見の俳人たち(賀瑞ら)と歌仙を巻き、それらを『桃のしづく』(半紙本一冊)として刊行している。
 これらのことと、冒頭の「芭蕉翁図」、そして、画人蕪村のスタート地点の、芭蕉・宋阿・任口上人の座像を描いている「俳仙群会図」と、何処かしら結びついているような、そんな雰囲気を醸し出しているのである。

俳仙群会図・部分.jpg
「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)



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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十)  [芭蕉翁像]

(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)

逸翁美術館芭蕉立像白黒 .jpg
『蕪村・逸翁美術館品目録』所収「107芭蕉翁立像図」(白黒図)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「91『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九八・二×三二・〇cm
款 「夜半亭蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長をとくことなかれ
  もの云へは唇寒し秋の風
逸翁美術館蔵

 この「芭蕉翁立像図」と前回取り上げた許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」とは、賛の前書きと発句は同じであるが、前者は細長い竹杖を抱えての旅装の芭蕉像、そして、後者は、空の一方を凝視している吟詠中の芭蕉像と、趣向も構成も異なっているものと解したい。
 ここで、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている十一点について、
これまでに取り上げたものと、今後取り上げていく予定のものを記すと、次のとおりとなる。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その九)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

 これら十一図の芭蕉像(蕪村筆)を、七点の座像と四点の立像を区分けして、「蕪村の
描いた芭蕉(早川聞多稿)」(「国文学解釈と鑑賞837与謝蕪村―その画・俳二道の世界」所収)の中で、次のように指摘している。

「(これらの)七点の座像と四点の立像の間には明らかな相違があるやうに思へてくる。それは端的にいつて、座する芭蕉像がある安定感を醸し出してゐるのに対して、立ち姿の芭蕉像(二図は旅姿、二図は歩く姿)にはどこかに移り行く変化(へんげ)の感が漂つてゐる(注、図4→上記の⑤半身像→「その十一」で取り上げる)」。
 そして、さらに、次のように続ける。
「さて四点の立ち姿の芭蕉像を見比べると、そのうちの二点(注、上記の『⑥ 全身蔵』と『⑦ 全身像』)が座像を含めた他の肖像画と大きく異なってゐる」として、その一つに、「賛の句が一句のみで、しかも両図とも同一句であるという点である。その賛とは、『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふもので」とし、その内の一点」の、上記の許六に倣ったとされる「⑦ 全身像」(前回に取り上げたもの)に触れている。
 そこで、次のような見解を述べられている。
「虚空を見上げる芭蕉の視線の先に、芭蕉の座右の銘であった『人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風』といふ言葉があれば、見る者は自ずと自らの言動を省みることにならう。そして蕪村はこの芭蕉像を見るのが先づもつて当代の俳人たちであることを承知してゐた筈である。といふことは、蕪村が本図において賛を変へたのは、それが単に芭蕉の尊い人生訓だつたからだけではなく、暗に蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表すためだつたやうに思われる。」

 これらに関して、「蕪村が本図(「⑦全身像」)において賛を変へた」のは、蕪村の「許六と素堂への挨拶句的なことと捩り句的なことを包含した」もので、それは其角・巴人に連なる江戸座の「洒落風俳諧」の一端を利かせているものだということについては、前回で触れた。
 さらに、それらに付け加えることとして、「蕉風復興運動の風潮に対する批判と反省を表す」ものというよりも、蕪村の夜半亭二世継承などを巡っての書簡(明和七年頃の几董宛書簡)に出て来る、「京師之人心、日本第一の悪性(京都の人心は日本一の悪性)」などの、一部の慇懃無礼な京都俳人への警鐘の意味合いも、この前書きのある句の賛の背後に潜ませているようにすら思えるのである。
 このことは、芭蕉自身、元禄三年(一六九〇)四月十日付、此筋・千川(大垣藩士の蕉門の俳人)宛書簡で、「菰を着て誰人います花のはる」(芭蕉の「歳旦句」)に関連して、「京の者共はこもかぶり(乞食)の句を引付の巻頭に何事にやと申候由、あさましく候。例の通(とほり)、京之作者(京都の俳人)つくし(尽くし=尽きている)たる」との、京都人への非難を、今に遺している。
 この芭蕉の、京都俳人への痛烈な非難の思いは、蕪村も等しく抱いていたことであろう。

 ここで、『⑦ 全身像』(前回取り上げた)ではなく、「五老井(許六)図・素堂句」と関係の無い、ただ、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛だけが同じの、冒頭の「芭蕉翁立像図」(上記の『⑥ 全身蔵』)を鑑賞すると、次のような総括的な思いを抱くのである。
 なお、この「芭蕉翁立像図」は「絹本淡彩」で、他の「絹本淡彩」(「① 座像」「⑤ 半身像)」など)と同じ色調のものなのであろう。

一 蕪村の丹後時代に、その閲覧を渇望した百川筆「芭蕉翁像」(その二で取り上げている)と、その賛が全く同じで、この賛は、百川との関係を抜きにしては片手落ちになる。

二 蕪村の立像(上記の「② 半身像」「⑤ 半身像」「⑥ 全身蔵」「⑦ 全身像」)は、何れも、金福寺の芭蕉庵の再建と関連していて、その意味で、蕪村が金福寺に奉納した、上記の「③ 座像」の「芭蕉翁図」(その六)と何らかの関係を有しているように思われる。

三 上記の「芭蕉翁像」(十一点の座像と立像)は、主として芭蕉忌などにの俳筵興行などのもので、その俳筵の作法と、「人の短をいふことなかれ/おのれが長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」の賛は関係しているようにも思える。また、その背後には、当時の「蕉風復興運動」や「保守的な京都俳壇との葛藤」などの、俳諧師としての蕪村のアイロニカル的な視線も感じられる。


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その九)  [芭蕉翁像]

(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)

許六倣芭蕉像.jpg
『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆) 

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で、蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像(「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 )が初公開された、その図録中に、それと並列して、この「四四 芭蕉翁図」が収載されている。

 その作品解説は次のとおりである

[ 蕪村は、多くの芭蕉翁図を描いたようで、『蕪村事典』(桜楓社) によれば、それらの総数十二点にも及ぶ。これは、蕪村の芭蕉翁図中最も優れた作品である。賛中の「これは五老井か図せる蕉翁の像なり」の五老井とは、森川許六のこと。芭蕉門下の俳人で、狩野派の画技にすぐれ、信頼に足る芭蕉画像を遺したという。その許六の芭蕉翁像に倣ったとあるから、芭蕉の風貌をよく伝える作品ということになる。なおこの作品については、「芭蕉翁図」について(一〇二頁)と、彭城百川が描く芭蕉翁像(七〇)も、併せて参照されたい。百川の描く僧衣をまとった芭蕉翁像に対し、蕪村は、唐服姿の芭蕉像を描いた。ついでながら、本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、「芭蕉翁立像図」(逸翁美術館蔵)が伝わることを付記しておきたい。  ]

 この「作品解説」中の「『芭蕉翁図』について(一〇二頁)」は、「結城下館時代の蕪村について二、三」(茨城県立歴史館学芸員 北畠健稿)の「『芭蕉翁図』について」で、その内容は次のとおりである。

[ (前略) 蕪村書簡に、「愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候 (略) 」
と記されている。
 ここで言う関東とは、江戸のことか、あるいは江戸以外の関東のことか分からないが、とにかく、関東において見た「芭蕉翁像」の記憶を基にして、今、自分の芭蕉翁像を描くという、非常に興味深い内容である。「芭蕉翁像」といえば、百川が描いた「芭蕉翁像」のことがよく取り沙汰されるが、蕪村は、許六の、さらには杉風の作品をも念頭において、「芭蕉翁像」を制作していたのである。許六は、最も信頼に足る「芭蕉翁像」を遺したことでも知られているから、その意味でも、蕪村の「芭蕉翁像」を再考して見る必要があるように思われる。また、関東時代にこのような優れた作品に接し、いよいよ、画嚢を豊かにしていたことをも窺わせる書簡ではある。 ]

 ここに引用されている蕪村書簡は、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛てのものであるが、この書簡に出て来る「許六が画の肖像に素堂の賛有之物」は、現存していないようである(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)。
 また、「作品解説」中の、「本作品とは顔の向きとその風貌のみを異なにし、他の構成をほぼ同じくする作品、『芭蕉翁立像図』(逸翁美術館蔵)が伝わる」とされているが、この逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」は、次回(その十)で取り上げるが、細長い杖を片手に抱えている旅姿の芭蕉像で、この許六に倣ったとされる全身像の「芭蕉翁図」とは、「ほぼ構成を同じくする」ということについては、否定的に解したい。
 ただ、賛の前書きと発句とは同じであるが、この許六に倣ったとされる「芭蕉翁図」は、その後書きに、「これは五老井か図せる蕉翁の像なり/句は めい月や池をくりて終夜 也/それを坐右の銘の句に書かへ侍る」とあり(逸翁美術館蔵「芭蕉翁立像図」には無い)、この後書きに、蕪村特有の「遊び心」が見え隠れしているということを付記しておきたい。
 それは、蕪村の、この画を描いた許六と、それに賛をした素堂への挨拶句的なことと捩り句的なこととを包含した賛のように理解をしたいのである。
 すなわち、「芭蕉翁の高弟・許六先生が描いた空を見上げている『芭蕉翁図』に、翁の盟友・素堂先生が、名月を見ていると解して、『めい月や池をめぐりてよもすがら』の賛をしているが、私(蕪村)は、この許六先生の『芭蕉翁図』に、素堂先生の名月ならず、翁の『座右之銘/人の短をいふことなかれ/おのれが長を説ことなかれの』の前書きがある『もの云へば唇寒し秋の風』の句を、その前書きともども、この図の賛にしたい。その心は、この翁は、『よけいなことをしゃべっている』わいと、ただ、『秋風が吹いて、唇が寒々としている』だけなのです・・・、と、『どうでしょうか、みなさん』・・・」と、其角→巴人→蕪村に連なる「江戸座」の、夜半亭蕪村の賛のように解したいのである。

 なお、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「92『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅半切 一三六・〇×三五・〇cm
款 「蕪村写」
印 「謝長庚」「春星氏」(白文連印)
賛  人の短をいふことなかれ
   おのれか長を説ことなかれ
  もの云へは唇寒し秋風
   これは五老井か図せる蕉翁の像なり
   句は めい月や池をめくりて終夜 也
   それを坐右の銘の句に書かへ侍る
『蕪村遺方』



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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その八)  [芭蕉翁像]

(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている、先に触れた「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)」は、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介されたものである。
 その「後記」で、「第二図(口絵の第二図)は蕪村筆の芭蕉翁像で、京都堀井静氏の蔵にかゝる。蕪村の筆になる芭蕉の像は、すでに知られたものがかなり多いが、これは本書によって初めて紹介された作である」と記されている。
 初版発行は、昭和十八年(一九四三)一月二十日で、太平洋戦争の真っ只中の頃である。この年の十月、明治神宮外苑競技場で「学徒出陣壮行会」が挙行された年である。
 この著の「序」(昭和十七年秋)で、「共に蕪村を語った若い友は、今召されて南支の野にある。もう間もなくこの書も世に出るであらう。友の武運のめでたさを祈りながら、まづ一本を遠く彼の野に送りたいと思つて居る」と記されている。
 蕪村が、この「芭蕉翁像」を描いたのは、その落款に「安永己亥冬十月十三日写」とあり、安永八年(一七七九)十月十三日の作で、この落款の日付は、江東区立芭蕉記念館蔵の「芭蕉翁像」の「干時安永己亥冬十月十三日」と、全く同じ日の作ということになる。
 さらに、金福寺蔵の「芭蕉翁像」の落款が、「安永己亥冬十月写」で、この三本の作品は、同一時の作品群と解して差し支えなかろう。
 それにしても、その一本が、その制作時より一世紀半以上の時の経過の後に、謂わば、学徒出陣の若き学徒に捧げられたということは、名状しがたき感慨が去来して来る。

選書・芭蕉像.jpg
『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵「芭蕉翁像」


『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「87『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅
款 「安永己亥冬十月十三日写 於夜半亭 蕪村拝」
印 一顆(印文不詳) 「春星」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九)『蕪村』(創元選書)
(賛)
※ほうらいに聞はやいせの初便
※※花にうき世我我酒白く飯黒し
うぐいすの笠落したる椿かな
※※行春や鳥啼魚の目はなみだ
※※夏ころもいまた虱をとりつくさす
ゆふかほや秋はいろいろの瓢かな
※※おもしろふてやかてかなしきうふねかな
この辺目に見ゆるものみな涼し
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽おとろく
※馬に寝て残夢月遠し茶の煙    
※この道を行人なしに秋のくれ
※※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※※名月や池をめぐりて通宵
※※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
海くれて鴨の声ほのかに白し
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
※梅白しきのふや鶴をぬすまれし
  伏見西岸寺任口上人を訪
※我衣にふしみのもゝの雫せよ
※さみたれに鳰のうき巣を見に行む
粟稗にまつしくもあらす艸の菴
※寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
※としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(説明)
上記の※の句は、「86『芭蕉像』画賛」にも記されているもの。※※の句は、「86『芭蕉像』画賛」と「88『芭蕉像』画賛」との両方に記されているものである。また、『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』も『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』とも、白黒の写真だが、この画は「絹本淡彩」であり、「86『芭蕉像』画賛」(絹本淡彩)と同じ日に制作されていることに鑑みて、それと同じ色調の淡彩仕上げのものであろう。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その七) ] [芭蕉翁像]

(その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 先に(その一で)、蕪村が描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』では、下記の十一点が収録されていることについて触れた。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 前回(その六)の金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)は、上記の「③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)」である。
 今回は、「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)」について触れたい。
 なお、『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」によると、上記の、金福寺の「芭蕉自画賛」(蕪村筆)に関連して、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描いているということについて触れたが、この他の二点というのは、上記の「① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作)と「② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作)」を指しているのかも知れない。
 そして、この三点のうち、①②は円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③は長方形型(角頭巾型)の白帽子と、何れも白帽子であることが興味深い。

芭蕉記念館・芭蕉像(蕪村筆).jpg
江東区立芭蕉記念館蔵「芭蕉翁像」(蕪村筆・部分)

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「86『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

絹本淡彩 一幅 九三・九×四〇・〇cm
款 「夜半亭蕪村拝写 干時安永己亥冬十月十三日」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 江東区立芭蕉記念館蔵
(賛)
(上段)
ほうらいに聞はやいせの初便
※花にうき世我我酒白く飯黒し
※ふる池やかはす飛こむ水の音
※ゆく春や鳥啼魚の目は泪
※夏ころもいまた虱をとりつくさす
※おもしろふてやかてかなしきうふね哉
※いてや我よき衣着たり蝉衣
さみたれに鳰のうき巣を見に行む
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※
此道を行人なしに秋のくれ
※名月や池をめぐりてよもすから
※はせを野分して盥に雨をきく夜かな
※世にふるもさらに宗祇のやとりかな
曙や白魚白き事一寸
寒きくや粉糠のかゝる臼のはた
としくれぬ笠着て草鞋はきなから

(中段)
  杜牧か早行の残夢小夜の
  中山にいたりて忽驚く
馬に寝て残夢月遠し茶の煙    ※※ 
  三井秋風か鳴滝の山家をとひて
梅白しきのふや鶴をぬすまれし
   伏み西岸寺任口上人をとふ
我衣にふしみのもゝの雫せよ
   人の短を言事なかれ
   おのれか長をとくことなかれ
もの云へは唇寒し秋の風

(下段)※※
早行残夢の句 一喝三嘆口吟しやむことあ
たはす されははしめに書したるを忘れて
又書す こいねかはくは其再復をとかむる
事なかれ 夜半亭(花押)

(説明)
 上記の※の句は、「88『芭蕉像』画賛」にも記されている句である。※※の句は、蕪村が間違って、上段と中段に二度記しているものである。そして、下段の※※で、その間違ったことを記している。
 これらの賛が、上記の上に、三段に分けて(上段・中段・下段)、記されている。



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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その六) ] [芭蕉翁像]

その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 安永五年(一七七六)四月、樋口道立の発起により、洛東一乗寺村の金福寺に芭蕉庵が再建された。但し、この時の草庵は天明元年(一七八一)に改築されているから、その実は仮小屋のようなものであったらしい(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
 この芭蕉庵再建発起を機に、蕪村門の有志が集まって「写経社」という俳諧結社が誕生し、その八月に『写経社集(道立編)』が成り、その巻頭に蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」が収載されている。
 これらのことに関して、その蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」の末尾の頃に、蕪村は次のように記している。

[ よしや、さは追ふべくもあらず(注・金福寺には芭蕉と関係している書画・文献などは存在しないが)、たゞかゝる勝地に、かゝるたとき名(注・道立の曽祖父の伊藤担庵の知人が「芭蕉」を名乗っていた)ののこりたるを、あいなくうちすておかんこと、罪さへおそろしく侍れば、やがて同志の人々をかたらひ、かたちのごとくの一草庵を再興して、ほとゝぎす待つ卯月のはじめ、をじか啼く長月のすゑかならず此の寺に会して、翁の高風を仰ぐことゝはなりぬ(注・芭蕉の蕉風俳諧を仰ぐ「写経社」会を結成した)。再興発起の魁首は、自在庵道立子(注・樋口道立)なり、道立子の大祖父担庵(注・伊藤担庵)先生は、蕉翁のもろこしのふみ(注・漢学)学びたまひける師にておはしけるとぞ。されば道立子の今此興にあづかり(注・芭蕉庵再興の発起に関係される)給ふも、大かたならぬすくせ(注・前世)のちぎりなりかし。
安永丙申五月望前二日(注・安永五年五月十三日) 平安 夜半亭蕪村 慎記 ]

 この道立が再建した芭蕉庵の傍らに、翌年の安永六年(一七七七)、「芭蕉顕彰碑」が建立された。その全文は次のとおりである。

「芭蕉翁以諧歌聞於海内 諧歌即世所謂俳諧者 翁之履歴人往往詳之 盖伊賀人罷仕隠於 江戸 又住江之大津遷於摂而終 翁没七十余年高士韻人与夫諧歌者流思慕稱賛不已」
(芭蕉翁、諧歌を以て海内に聞こゆ。諧歌は即ち世の俳諧と謂ふ所のものなり。翁の履歴は人往々にしてこれを詳らかにす。盖し、伊賀の人、仕を罷めて江戸に隠る。又、江の大津に住み、摂に遷りて終る。翁没して七十余年、高士韻人とその諧歌者の流れ、思慕称賛すること已まず。)

「翁冢所在有之 姪道卿新建於東山詩仙堂南金福寺中 請予銘焉 予義祖伊藤担菴先生亦与翁交 担菴集中有謝翁邀飲詩 亦可以想翁為人矣」
(翁の冢所在にこれ有れど、姪道卿、新たに東山詩仙堂の南金福寺中に建て、予に銘を請ふ。予の義祖、伊藤担菴先生は亦た翁と交はる。『担菴集』中に「翁に謝して邀飲す」の詩有れば、亦た以て翁の人と為りを想ふべし。)

「今之諧歌要有二端 牛鬼蛇神眩耀蒿目 打油釘鉸脂韋莠口 野服葛巾風標如仙 而明人所謂 那白雲常飛卓程屋上」
(今の諧歌、要二端有り。牛鬼蛇神、眩耀して蒿目し、打油釘鉸、脂韋して莠口す。野服葛巾、風標仙の如し。而れば明人の所謂「那白雲常飛卓程屋上」たり。)

「翁作諧歌 清新不俗 澹有骨力 庶幾詩家陶韋 抑又上援杜陵 下伴香山 亦或可擬 世傳翁風 神散朗侯鯖 如茶泓崢 之寄杖□(尸にギョウニンベンと婁) 千里可謂進于技者矣」
(翁の作りし諧歌、清新して俗ならず。澹として骨力あれば、詩家陶韋に庶幾たり。抑又、上は杜陵を援き、下は香山を伴ふ。亦た或は擬ふべし、世に伝ふる翁の風。神散朗として侯鯖、茶の泓崢たるが如し。これ杖□(尸の中ギョウニンベンと婁)を寄せて、千里技に進む者と謂ふべきや。)

「道卿名敬義 予仲氏第二子 出嗣樋口氏 為吾藩同宗川越侯源公知京邸事 慧而不苛 介而能円 多諸技芸 其於諧歌 盖亦有師 受淵源云 道卿与翁生不並 世出處異轍 而心酔不已 至有斯挙 盖有臭味相契於衷者」
(道卿、名は敬義。予が仲氏の第二子なり。出でて樋口氏を嗣ぎ、吾が藩の同宗、川越侯源公が為に京邸の事を知す。慧くして苛せず、介にして能く円かなり。諸ろの技芸を多くす。其れ諧歌に於いては、盖し亦た師有り、淵源を受くと云ふ。道卿、翁と生は並ばず。世に出づるに処は轍を異にすれど、心酔して已まざれば、斯かる挙の有るに至る。盖し臭味有りて、衷に相契る者なり。)

「嗚呼 翁者予義祖所交 而道卿尸祝焉 予豈漠然 銘曰 才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 行雲流水 十暑三霜 野老争席 桃李門墻 人与骨朽 言与誉長 勒珉此處 建冢多方 維斯名寺 風水允揚 卜隣高士 魂其帰蔵 雖非桑梓 維翁之郷 越国文学播磨清 絢撰
安永丁酉夏五月      平安處士  永忠原書 」
(嗚呼、翁は予の義祖が交、道卿の尸祝する所なり。予、豈に漠然たらんや。銘に曰く、
  才□貌□[サイシボウク]  錦心綉腸[キンシンシュウチョウ]
  行雲流水[コウウンリュウスイ]  十暑三霜[ジッショサンソウ]
  野老は席を争う  桃李の門墻
  人と骨とは朽つとも  言と誉れとは長ず
  珉を此処に勒り  冢を建つ多方
  維れ斯の名寺  風水允に揚ぐ
  高士を卜隣すれば  魂それ帰蔵す
  桑梓に非ずといえども  維れ翁の郷
越国文学播磨     清絢撰
安永丁酉夏五月    平安処士 永忠原書      )

 この「芭蕉顕彰碑」の碑文の撰者は、「越国文学播磨(越前福井藩儒学者・播磨出身) 清絢(清田絢)撰」で、道立の叔父の清田(せいだ)憺叟(たんそう)である。
明和五年(一七六八)版『平安人物史』「学者」の部には、道立、道立の父・江村北海、そして、この清田憺叟の名も収載されている。
 また、この碑文の書は、その『平安人物志』「学者」と「書家」の項に「永忠原 字俊平号東皋上長者町千本東ヘ入町 永田俊平」で出て来る永田俊平の書である。そして、この二人とも、道立に連なる当時の京都の名士なのである。
 この「芭蕉顕彰碑」の日付の「安永丁酉夏五月」は、安永六年(一七七七)五月で、芭蕉庵が再建された翌年ということになる。 
 そして、翌々年の安永八年(一七七九)に、蕪村は「芭蕉翁自画賛」を描き、それを金福寺に奉納する。これは、頭陀袋を前に掛けた座像で、その上部に芭蕉の発句十五句が加賛されている。その上に、清田憺叟が、上記の「芭蕉顕彰碑」の一部を加賛している。

金福寺芭蕉像.jpg
金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

(補説)
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に、「88『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本淡彩 一幅 一二八・一×二七・九cm
款 「安永己亥冬十月写於夜半亭 蕪村拝」
印 「春星氏」(白文方印) 「東成」(白文方印)
賛 下掲
安永八年(一七七九) 金福寺蔵
(賛)
才□(ニクヅキに叟)貌□(ヤマイダレに瞿) 錦心綉腸 
行雲流水 十暑三霜
野老争席 桃李門墻
人与骨朽 言与誉長
勒珉此處 建冢多方
維斯名寺 風水允揚
卜隣高士 魂其帰蔵 
雖非桑梓 維翁之郷 
 越国文学播磨 清絢撰

こもを着て誰人います花の春
花にうき世我酒白く飯黒し
ふる池やかはす飛こむ水の音
ゆく春や鳥啼魚の目はなみた
おもしろふてやかてかなしきうふねかな
いてや我よきゝぬ着たり蝉衣
子とも等よ昼かほさきぬ瓜むかん
夏ころもいまた虱をとり尽きす
名月や池をめぐりてよもすから
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
あかあかと日はつれなくも秋のかせ
いな妻や闇のかたゆく五位の声
世にふるもさらに宗祇の時雨かな
年の暮線香買に出はやな
(口絵)
金福寺芭蕉像・部分.jpg
金福寺「芭蕉翁画賛」(一幅・部分)


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