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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その四) [芭蕉翁像]

その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」

 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg

 この若冲の「松尾芭蕉図」の創作年次は、上記の「作品解説」の「改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳(注・嘯山は二歳下で八十一歳だが、賛には八十二叟とある)、寛政十年に描かれた」ものと解したい。
 この若冲の「松尾芭蕉図」は、先に紹介した『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」をモデルにしていることは、一目瞭然である。
 この百川筆と若冲筆とでは、細かい点では異なるが、特に、芭蕉の髭面が、若冲のそれは濃墨で、それに比して、百川のそれは顎髭がやや濃墨なだけで、やはり、それぞれの芭蕉観というのは察知される。
 そして、ここには、当時、最も多くの「松尾芭蕉像」を描いた、若冲と同年齢の蕪村の影響の影は微塵もない。
即ち、若冲に取っての「松尾芭蕉像」は、共に、「売茶翁ネットワーク」(売茶翁を主軸とする連=サロン)の、年齢的に先輩格にあたる彭城百川が描くところの「芭蕉像」ということに他ならない。
即ち、同年齢の、江戸(関東)そして浪速(大阪)出身の、同じ京都の四条烏丸近辺に住む、謂わば、「余所者(よそもの)」の蕪村が描く「芭蕉像」は、若冲の眼中には無いということに他ならない。
そもそも、蕪村書簡というのは、現に五百通以上存在していると言われているが、その書簡中には、若冲を話題にしたものは皆無なのである。おそらく、この二人の直接的な交遊関係というのは存在していなかったというのが正当な見方なのであろう。
しかし、若冲の交遊関係と蕪村の交遊関係と、その枠を拡大して行くと、「池大雅・円山応挙・上田秋成・皆川淇園・木村蒹葭堂」等々と、二人の接点というのはかなりの面で交差して来る。
この冒頭に紹介した若冲の「松尾芭蕉図」に賛をしている三宅嘯山は、若冲より蕪村との交遊関係がより濃密に認められる人物と解して差し支えなかろう。

 先に、宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛について、百川を私淑してのものということについて触れたが、蕪村が上洛して最初に訪れた先は、蕪村の師の宋阿(巴人)門の高弟、望月宋屋で、当時、宋屋は六十五歳の高齢で、京都俳壇の古老の一人であった。そして、嘯山は、この宋屋門の俳人なのである。
 即ち、蕪村と嘯山との出会いは、この宋屋を介してのものであろう。嘯山は質商を営む傍ら、宋屋に俳諧を、慧訓和尚に詩を学んだ。後に、京都俳壇で重きをなすが、漢詩人としても『嘯山詩集(十巻)』(現存八巻)を残している。
 その漢学の素養から仁和寺や青蓮院の侍講を勤めた。蕪村(そして若冲)より二歳年下であるが、蕪村との親密な交際ぶりは、百池自筆『四季発句集』に、「滄浪居士(嘯山)の大人(うし=先生)世に在(いま)す頃は老師蕪村叟とは錦繡の交はりにて常に席を同じうす」(『蕪村と其周囲(乾猷平著)』)と記されている。
 蕪村が、宝暦六年(一七五六)に丹後の宮津から京都の嘯山宛てに送った書簡が今に残っている(下記「参考」のとおり)。
 
 冒頭の、若冲の「松尾芭蕉図」に嘯山が賛をしたのは、寛政十年(一七九八)とすると、蕪村が没した天明三年(一七八三)から十五年後ということになる。若冲も嘯山も、最晩年の頃で、おそらく、嘯山が、当時の京都画壇の最右翼に位置していた若冲に「松尾芭蕉図」を依頼し、その絵図に、「春もやゝけしき調ふ月と梅」(『続猿蓑』)と「初時雨猿も小蓑をほしげなり」(『猿蓑』)との二句の賛をしたのであろう。
 この芭蕉の「春もやゝけしき調ふ月と梅」の句は、許六を画の師と仰いだ芭蕉が、許六と合作した梅月画賛のために詠まれた元禄六年(一六九三)の作で、その芭蕉真筆の自画賛が何点か在り、後世、芭蕉の画賛句として珍重されていることに因るのであろう。
 また、「初時雨猿も小蓑をほしけ(げ)なり」の句は、蕉門の最高峰を成す撰集『猿蓑』の、その巻頭の一句である。これまた、許六の「猿蓑は俳諧の古今集也、初心の人去来が猿蓑より当流俳諧に入るべし」(『宇陀法師』)とを意識してのものであろう。
 とすると、嘯山の芭蕉観というのは、永遠の放浪の旅人を象徴化した許六の動的なイメージの句に対して、やや、この若冲の「松尾芭蕉図」は、京都以外に旅をした経験の皆無の、何処となく、「売茶翁ネットワーク」の百川の「松尾芭蕉図」を、静的なイメージとして、それをモデルとしているという思いが拭えない。
 なお、天明二年(一七八二)版の『平安人物史』上における、若冲と蕪村とに関係する「画家」と「学者」とに搭載している人達は次のとおりである。

(画家の部)

藤応挙 (円山主水)、号(僊斎 一嘯 夏雲 仙嶺)、住所(四条堺町東入町)、(1733~1795)
滕汝鈞 (滕若冲)、号(若冲)、住所(高倉四条上ル町)、(1716~1800)
謝長庚(与謝蕪村)、号(春星・三菓・宰鳥・夜半亭)、住所(仏光寺烏丸西入町)、(1716~1783)
長沢(長沢芦雪)、住所(御幸町御池下ル町)、(1754~1799)
巌郁(梅亭)、住所(高辻新町西入町)、(1734~1810)

(学者の部)

三宅方隆 (三宅嘯山)、号(蒼浪・嘯山・葎亭・滄浪居・橘斎・鴨流軒・碧玉山)、住所(中長者町新町西入町)、(1718~1801)
皆川愿 (皆川文蔵)、号(淇園 有斐斎 呑海子)、住所(中立売室町西入町)、(1734~1807)
源敬義(樋口源左衛門)、号(芥亭・道立・柴庵・自在庵)、住所(下立売釜座西入町)、(1738~1812)
毛惟亮(雨森正廸) 、号(陶丘)、住所(白川橋三条下ル町)
釋慈周(六如)、号(白楼・無着庵) 、住所(安井門前)、(1734~1801)
釋竺常(蕉中・梅荘)、号(大典 蕉中 東湖)、住所(近江神埼郡伊庭)、(1719~1801)

(参考)  蕪村の嘯山宛ての書簡(書簡A)

(書簡A)

書簡A.png

 上記の書簡は、宝暦七年(一七五七)、蕪村、四十二歳時の、丹後の宮津(現・京都府宮津市)から京都の知友・三宅嘯山宛てに、丹後滞在中の近況を報じたものの後半の部分で、その文面は次のとおりである。

「俳諧も折々仕候。当地は東花坊が遺風に化し候て、みの・おはりなどの俳風にておもしろからず候。一両人巧者も在之候。(瓢箪図)先生、嘸老衰いたされ候半存候。宜被仰達可被下候。詩は折々仕候。帰京之節可及面談候。御家内宜奉願候。頓首 卯月六日 蕪村(花押) 嘯山公 」
(訳「俳諧も折々やっています。当地は各務支考の影響に染まっていて、美濃・尾張の俳風で面白くありません。一・二人巧者もおります。瓢箪先生(望月宋屋)、さぞかし、御齢を召されたことと思います。宜しくお伝え下さい。漢詩も時折作っています。京に帰りましたら早速お邪魔したいと思います。奥様によろしく。頓首 四月七日 蕪村 三宅嘯山公」)

 この書簡の宛名の三宅嘯山は、京で質商を営み、仁和寺や青蓮院宮の侍講をしていた。漢詩と中国白話(現代中国語)に通じた多才の人で、享保三年(一七一八)の生まれ、蕪村よりも二歳年下である。
蕉門俳人木節の子孫を娶ったのを機に俳諧を学び、蕪村の早野巴人門の兄弟子に当たる宋屋門に入り、後に点者(宗匠・指導者)の一人となっている。別号に葎亭など、その『俳諧古選』『俳諧新選』などの編著によって、京俳壇等に大きく貢献した一人である。
 蕪村と嘯山との出会いは、宝暦元年(一七五一)に蕪村が上京し、その秋の頃、宋屋と歌仙を巻いており(『杖の土(宋屋編)』)、その上京して間もない頃と思われる。爾来、この二人は、「錦繍の交はりにて常に席を同じうす」(『四季発句集(百池自筆)』)と肝胆相照らす知友の関係を結ぶこととなる。
 この書簡中の、(瓢箪図)先生こと、望月宋屋は、師(早野巴人)を同じくする画俳二道を歩む蕪村を高く評価しており、巴人没後の延享二年(一七四五)の奥羽行脚の際、その途次で結城に立ち寄り蕪村に会おうとしたが、蕪村が不在で出会いは叶わなかった。翌年の帰途に再び結城に立ち寄ったが、またしても、蕪村は不在で、江戸の増上寺辺りに居るということで、江戸でも探したが、そこでも二人の出会いはなかった。
 それから五年の後の二人の初めての出会いである。宝暦元年(一七五一)の蕪村上洛の大きな理由の一つは、この巴人門の最右翼の俳人宋屋を頼ってのものであったのであろう。
 宋屋は、蕪村(前号・宰鳥)について、その『杖の土』で次のように記している。

「宰鳥が日頃の文通ゆかしきに、結城・下館にてもたづね遭はず、赤鯉に聞くに、住所は増上寺の裏門とかや。馬に鞭して僕どもここかしこ求むるに終に尋ねず。甲斐なく芝明神を拝して品川へ出る。後に蕪村と変名し予が草庵へ尋ね登りて対顔年を重ねて花洛に遊ぶも因縁なりけらし。」
(訳「宰鳥(蕪村)の日頃の便りに心引かれるものがあり、結城・下館に行ったおり訪ねたが遭えず、赤鯉に聞いたところ、住所は増上寺の裏門とか。馬を走らせて下僕に捜させたが終に遭えなかった。止む無く、芝の大神宮に参拝し品川を後にした。後に、蕪村と名を改めて、私の草庵を訪ねて来て初めて対顔した。そのまま年を重ねて京都に遊歴しているのも何かの縁であろう。」)

 この宋屋の文面の「日頃の文通ゆかしきに」からして、巴人が在世中の頃から巴人と京都の巴人門との連絡役を蕪村が勤めていて、そんなことが、この両者を取り持つ機縁となっていたのであろう。また、「年を重ねて花洛に遊ぶ」ということは、当時の蕪村が京都に永住するのかどうかは不確かなことで、事実、上洛して三年足らずの、宝暦四年(一七五四)には丹後に赴き、この書簡を送る頃までの三年余を丹後に滞在している。  
 ここで、上記の嘯山宛ての書簡で注目すべき一つとして、蕪村と署名して、その後に、
蕪村の終生の花押となる、何やら、槌のような形をしたものが書かれていることである。
 この花押は、蕪村の十年余に及ぶ関東放浪時代には見られない。おそらく、この書簡が出された丹後時代から使い始めたもののように思われる。
蕪村の落款は、関東放浪時代は無款のものが多いが、「子漢・浪華四明・浪華長堤四明山人・霜蕪村」、印章は「四明山人・朝滄・渓漢仲」などで、これが丹後時代になると、落款は、主として、「朝滄(朝滄子・四明朝滄・洛東閑人朝滄子)」が用いられ、その他に、「嚢道人(囊道人蕪村)・魚君・孟冥」、印章は「朝滄・四明山人・囊道・馬秊」などが用いられている。
これらの落款・印章の「四明」は、比叡山の四明ヶ岳に因んでのもので、当時は蕪村の故郷の摂津(大阪)の毛馬の堤から比叡山が望めたということで、「浪華長堤」(毛馬長堤)と共に望郷の思いを託したものなのであろう。
 そして、この「朝滄」は、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。
 宝暦元年(一七五一)に上洛して間もなく、蕪村は「嚢道人」という号を使い始める。丹後時代の大画面の屏風絵(十三点)中、六曲半双「田楽茶屋図」は、英一蝶流の町狩野系統の近世的な軽妙な風俗画として知られているが、落款は「嚢道人蕪村」、印章は「朝滄・四明山人」である。
 上記書簡中の花押は、「囊道人蕪村」の「蕪村」の「村」から作った花押という見解(『俳画の美(岡田利兵衛)』があり、この「囊」は、蕪村が上洛して「東山麓に卜居」していた「洛東東山の知恩院袋町」(池大雅の生家の所在地)の「袋」に因んでのものと、その見解に続けられている。
 この「蕪村」の「村」から作った花押という見解(岡田利兵衛)に対して、「槌」を図案化したものという見解(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)がある。この「槌」を図案化したという見解を裏付ける記述は見られないが、上洛前の寛延年間(一七四八~一七五一)、江戸在住の頃の無宛名(結城の早見桃彦か下館の中村風篁宛て)の書簡(書簡B)に、「槌」を描いたものがあり、それらと関係のある花押という理解なのかも知れない。
そもそも、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場するのは、元文三年(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に於いてで、そこに「鎌倉誂物」と前書きのある「尼寺や十夜に届く鬢葛」の発句を記した自画賛が収められている。それは立て膝で手紙を読む洗い髪姿の女性像で、そこに「宰町自画」と、蕪村の最初期の号「宰町」で登場する。
この『卯月庭訓』の編者・豊島露月は、蕪村の師・早野巴人と親交のあった俳人の一人で、観世流謡師匠でもあり、その絵俳書の刊行は、享保七年(一七二二)の『俳度曲(はいどぶり)』から延享二年(一七四五)の『宝の槌』まで十一点に及んでいる。
その露月編の絵俳書シリーズの一番目を飾る『俳度曲』は、謡曲名を題として、それに画と句を配したもので、そのトップを飾るのは、今に浮世絵師として名高い鳥居清倍(きよすえ)の画に、蕉風俳諧復興運動の先駆けとなる『五色墨』のメンバーの一人・松木珪琳(けいりん)の蓮之(れんし)の号での句が添えられている。それに続く二番目の画は、英一蝶(二世か?一世英一蝶は蕪村の師筋に当たる其角の無二の知友)のもので、この一蝶画に、『続江戸筏』の編者の石川壺月の句が添えられている。
これらの画人の画には、落款又は花押が施されており、おそらく、蕪村の、槌を図案化したような花押は、この露月の絵俳書のシリーズと深く関係しているように思われる。  
ちなみに、蕪村が宰町の号で登場する『卯月庭訓』は、このシリーズの九番目にあたるもので、この蕪村の自画賛には花押は押されていない。この頃の蕪村(宰町)は全くのアマチュア画家で、落款や花押を施すような存在ではなかったのであろう。
     

蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その三) [芭蕉翁像]

その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像

 彭城百川は、元禄十年(一六九七)の生まれ、没したのは 宝暦二年(一七五二)八月である。蕪村が上洛したのは、宝暦元年(一七五一)の八月で、蕪村と百川との京都での出会いがあったとすると、僅々一年という短い期間ということになる。

 蕪村の上洛の大きな理由の一つに、画・俳両道において名を成していた百川が念頭にあったことは、先に紹介した蕪村書簡(「翁像少之内御見せ可被下」)などからして想像するに難くない。
百川の本姓は榊原、名は真淵、字が百川で、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂などがある。通称は土佐屋平八郎で、彭城は自称である。俳諧は美濃派の各務支考門で、後に、麦林派の中川乙由に帰依している。

 百川は町人出身の職業画家で、当時の京都の文化人ネットワークの中心人物の「売茶翁」(黄檗宗の僧で還俗後は高遊外、煎茶中興の祖)に倣い、自ら「売画自給」と称し、後に、絵師として法橋に叙せられている。

 同じく日本南画の先駆者とされる武士階級の祇園南海や柳澤淇園は、職業画家ではなくより中国の士大夫階級の余技的な絵画(文人画))という異なる面を有している。また、当時舶載の中国画や画譜類に関する造詣が深く、『元明画人考』『元明清書画人名録』などの著作を有している。

 南海、淇園、そして、百川が日本南画の先駆者とすると、池大雅と与謝蕪村とがその大成者として位置づけられる。そして、この両者も公家・武家階級ではなく町人階級出身で、職業画家という面においては、百川に近い画家ということになろう。

 特に、画・俳両道を志している蕪村にとって、当時の百川は、格好の「プトロタイプ」(原型)という存在であったろう。

 蕪村の芭蕉崇拝は夙に知られているが、百川もまた『八僊観墨なおし』(百川の第三撰集)の「墨直し」(芭蕉忌などに関連し芭蕉碑の墨直しをする儀式)を、延享二年(一七四五)に東山双林寺で修するなど、支考・乙由に連なる蕉門の一員として、やはり、芭蕉崇敬の念は人後に落ちないであろう。

 そして、芭蕉忌などの句筵興行などに際しては、「芭蕉翁像」を掲げることが通例で、百川の、その種のものは、僧衣をまとった祖師形のものに類型化されているという(『蕪村の遠近法(清水孝之)』所収「百川から蕪村へ」)。
 また、同著には、「芭蕉翁肖像」の図録はないが、次の三点が紹介されている。

一 芭蕉翁肖像 倣杉風画 丙寅年三月十一日八日八僊観主人模写於洛東双林寺

 紙本水墨の座像一幅(佐々木昌興氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)。顔貌は杉風様式を忠実に写している。この作品は『八僊観墨なおし』の翌延享三年の「墨直し会」の席上に描かれたことに注目される。双林寺の墨直し行事は、百川筆芭蕉像の声価をも高めたものではないか。かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる。

二 法衣に袈裟を掛け、杖を手にする芭蕉翁立像(佐々木嘉太郎氏旧蔵、「南画鑑賞」八ノ四)

 紙本水墨。前大徳大順禅師の賛があり、落款は「八僊老人写」とする。前者に比べると格段にすぐれた筆蝕に成り、草体ではあるが、百川独自の顔面描写も美しい。精魂をこめて構想し墨筆を揮ったものとして百川の芭蕉画像の佳品といえよう。(以下、略)

三 松任市の聖興寺所蔵の「八僊逸人写」すところの、僧形芭蕉像。
 これも水墨画の草画で、脇息によって斜め上方を見上げるポーズに動きがある。左上部に「いざ宵やまだ誰々も見えぬうち 尼素園」の賛句がある(日本経済新聞社載、谷信一氏稿)。

 上記の一については、『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」(かつて佐々木昌與氏のコレクションであった作品で、東京国立文化財研究所提供の写真による)で、下記のとおり紹介されている。

双林寺・芭蕉像.jpg
『知られざる南画家百川(名古屋市博物館 1984 3/10 – 4/8特別展)』図録所収「参考図版目録」
⑱ 芭蕉翁像 一幅 五一・二×二九・一cm
款 「芭蕉翁肖像 倣杉風筆 丙寅年三月十八日八僊観主人摸写 於洛東双林寺」
印 「平安一酒徒」
注 丙寅年=延享三年(一七四六) 

 なお、この作品については、先に紹介した茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」の「作品解説」で、「本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった」と記されている。

 この延享三年(一七四六)は、百川が五十歳の時で、百川の大作「前後赤壁図屏風」(岡山県立美術館蔵)が創作された年である。また、この八月には売茶翁を訪ね、「売茶翁煎茶図」も創作されていて、百川の頂点に達した頃であろう。

 一方、この頃の蕪村は、北関東の結城に居て、延享二年(一七四五)、三十歳の時に、萩原朔太郎の『郷愁の詩人与謝蕪村』で絶賛された、類い稀なる俳詩「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲)を創作した頃である。

 いずれにしろ、百川の「芭蕉翁像」というのは、この延享三年(一七四六)の洛東双林寺で描かれたものがベースになっていて、これは、「かなりな数量を描いたらしく、粗放な筆法と形式化が認められる」(『清水・前掲書』)と、それをより完成したものとした作品の一つに、茨城県立歴史館で初公開された「芭蕉翁像」が位置するという理解で差し支えなかろう。

 その他に、上記の「二・三」の系統のものとか、さらに、義仲寺の『奉扇会』関連の「芭蕉翁画像」(扇子を持つ座像)とか、「知られざる百川筆の芭蕉翁像」とかが、その背後に存在しているのであろう。


蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その二) [芭蕉翁像]

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

幻の芭蕉像.jpg



蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その一) [芭蕉翁像]

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg








蕪村の絵文字(その十五) [蕪村書簡]

(その十五)

八半.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 上記の書簡について、先に(「蕪村の絵文字・その一」)下記の(参考)とおり記した。しかし、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、蕪村の恋の句関連の書簡として、概略、次のとおりの鑑賞をしている。

一 夏山はつもるべき塵もなかりけり

 この蕪村の句は、「君なくて塵つもりぬる床夏(とこなつ)のつゆ打ちはらひ幾夜寝ぬらん」(『源氏物語(葵)』)を背景としている。この歌は「常夏(とこなつ)」に「床(とこ)」を言いかけたもので、これは妻の葵の上を失った源氏の独り寝を「塵つもりぬる床」と表現したものである。
 また、「塵をだにすゑじとぞ思ふ咲きしより妹(いも)とわが寝(ぬ)るとこ夏の花」(『古今集』・巻三)の歌は、「塵のつもりぬる床」の逆で、「塵をだにすゑじ床」の意となる。
 これらの歌を背景とすると、上記の句は、「塵の積もるはずの独り寝の床にあって、その積もるはずの塵さえないほどに、悶々とした日々を送っている」ので、今日の遊びに「御誘引を賜りたい」と続くとの鑑賞のようである。

二 「池」「ち」「千」の羅列は、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている

 俳諧入門書の『俳諧独稽古』に「三字中略は千鳥(ちどり)を塵(ちり)と取る」とあるように、「チドリ」の三字を中略して「チリ」を発句としている。蕪村のこの書簡は、この「賦物」形式を利用して、発句に「塵」を詠んで「千鳥」の名を暗示し、そこから、「百池→百ち→百千→百千鳥」の連想を誘っている。
(そして、蕪村の「千鳥」の句には、妓楼の情緒を含んでいるようなニュアンスなのである。以下は、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』の引用ではなく、『蕪村全集一発句』所収「明和五年(一七六八)作『千鳥』の句」を挙げて置きたい。)

二六四 磯ちどり足をぬらして遊びけり
二六五 打(うち)よする浪や千鳥の横歩き
二六六 湯揚(あが)りの舳先(へさき)に立ツや村衛
二六七 風呂と見て小船漕(こぎ)よる千鳥哉
二六八 風雲のよすがら月のちどり哉
二六九 浦ちどり草も木もなき雨夜哉
二七〇 羽織着て綱もきく夜や河ちどり
二七一 むら雨に音行(ゆき)違ふ衛かな
二七二 ふられたる其(その)夜かしこき川千鳥
二七三 鳥叫(ない)て水音暮るゝ網代かな
二七四 わたし呼(よぶ)女の声や小夜ちどり
二七五 小夜千鳥君が鎧に薫(たきもの)す
二七六 鎧来て粥を汲む夜や村千鳥

 そして、橘南谿の『北窓瑣談』(文政十二年、一八二九)に、「加茂川の西岸三条辺に、冬のころ暫し住みしことのありしに、夜は川千鳥はなはだ多く啼く。久しく京に住みながら、かく千鳥の多きことを始めて知りたり」とあるように、鴨川には千鳥が群をなして鳴いていたのである。そうした鴨川の千鳥の情緒が、祇園の妓楼を包んでいたと言うのである。

※ 「蕪村の絵文字」ということで、「蕪村書簡」中の、「絵が描かれている書簡、謎を秘めているような書簡」などを見て来たが、そのスタート時点の、この書簡からして、上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』のように、どうにも、「謎が謎を生んで行く」気配で無くもない。
 しばらくは「蕪村書簡」(蕪村の絵文字)にはのめり込まないことが肝要なことなのかも知れない(丁度「その十五」は、その「潮時」に相応しいのかも知れない)。

(参考) 蕪村の絵文字(その一)

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。
  
  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。
 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。
 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)とか「銭貨・銀貨・金貨」などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。

蕪村の絵文字(その十四) [蕪村書簡]

(その十四)

時雨.jpg
『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「二〇三後旦宛・口絵写真」(野村美術館蔵)

 書簡の全文は次のとおりである。

[ 貴墨辱(かたじけなく)拝覧。まことにきのふはおもひもよらぬしぐれにて、御立寄申候処、ゆるゆる御茶下(くだ)され、相たのしみ候。ことにこゝろよき御茶碗、銘は「霜夜」とやら、折から一しほおもしろく、今更存出候。帰路ますます、
(時雨の絵)
からかさ恩借かたじけなく候。其節の御ホ句おかしく。ワキを付申候。
  小しぐれに借す傘(からかさ)や神無月  後旦
   頭巾まぶかにまこと顔(がお)なる   蕪村
京極黄門の「よのまこと」よりおもひつゞけ候。
  (傘の絵) 御返却いたし候。
余は期拝眉(はいびをごし)可申残候。 以上
  上
後旦 様               夜半亭        ]

 ここに出て来る「後旦」は、京都の俳人で、蕪村が夜半亭を襲号した翌明和八年(一七七一)の春興帖『明和辛卯春(めいわしんぼうのはる)』(蕪村編)に、その名が出て来る俳人である。
 書簡の内容は、「時雨に遭って、思いがけずお寄りしたところ、お茶を頂戴し、その上、傘を借用いたし、有難うございました。その折の発句に脇句を付けました」というようなものである。
 この書簡中の「京極黄門」とは、京極中納言の藤原俊成の別称である。その「よのまこと」とは、「偽のなき世なりけり神無月たがまことよりしぐれそめけん」(『続御拾遺集・冬』)が、その背景にある。

これは、蕪村好みのドラマ(能、そして、歌舞伎の世界)なのである。

(以下)「定家・三番目物 金春禅竹」の記事(参考)


定家   三番目物 金春禅竹

北国に僧一行が、都に上り千本辺りで時雨が降り出し、庵で晴れ間を待つ間女が現れ、ここが定家卿の時雨亭と教え、蔦葛にまとわれた式子内親王の墓に案内する。内親王は定家との秘めた恋が世間に漏れ始めたため、二度と会わずにこの世を去ったが、定家は、思いは晴れず、死後の執心が蔦葛となって墓にまとわりついていると語り、自分こそ内親王と告げ、救いを求めて姿を消す。所の者が僧の問いに答えて定家葛の由来を語り、供養を勧めて退く。

その夜読経し弔っていると、痩せ衰えた内親王の霊が現れ、薬草喩品の功徳で呪縛が解け、苦しみが和らいだと喜び報恩の舞を舞い、再び墓の中に消えると定家葛がまとわりつく。
ワキ・ワキツレ 山より出づる北時雨、山より出づる北時雨、行ゑや定めなかるらん。

ワキ 是は北國より出たる僧にて候、我未だ都を見ず候程に、此度思ひ立都に上り候。
ワキ・ワキツレ 冬立つや、旅の衣の朝まだき、旅の衣の朝まだき、雲も行違遠近の、山又山を越過て、紅葉に殘る眺めまで、花の都に着にけり、花の都に着にけり。
ワキ 急候程に、是ははや都千本あたりにて有げに候、暫く此あたりに休らはばやと思ひ候。
 
ワキ 面白や比は神無月十日あまり、木々の梢も冬枯れて、枝に殘りの紅葉の色、所々の有樣までも、都の氣色は一入の、眺め殊なる夕かな、荒笑止や、俄に時雨が降り來りて候、是に由有げなる宿りの候、立寄り時雨を晴らさばやと思候。

シテ女 なふなふ御僧、其宿りへは何とて立ち寄り給ひ候ぞ
ワキ 唯今の時雨を晴らさむために立寄りてこそ候へ、扨ここをばいづくと申候ぞ
女 それは時雨の亭とて由ある所なり、其心をも知ろしめして立寄らせ給ふかと思へばかやうに申なり。

ワキ げにげに是なる額を見れば、時雨の亭と書かれたり、折から面白うこそ候へ、是はいかなる人の立置かれたる所にて候ぞ。
女 是は藤原の定家卿の建て置き給へる所なり、都のうちとは申ながら、心凄く、時雨物哀なればとて、此亭を建て置き、時雨の比の年々は、爰にて歌をも詠じ給ひしとなり、古跡といひ折からといひ、其心をも知ろしめして、逆縁の法をも説き給ひ、彼御菩提を御とぶらひあれと、勧め參らせん其ために、これまで顯れ來りたり
ワキ 扨は藤原の定家卿の建て置き給へる所かや、扨々時雨を留むる宿の、歌は何れの言の葉やらん
女 いや何れとも定めなき、時雨の比の年々なれば、分きてそれとは申がたし去ながら、時雨時を知るといふ心を、偽のなき世なりけり神無月、誰がまことより時雨れ初めけん、此言書に私の家にてと書かれたれば、若此歌をや申べき
ワキ 實あはれなる言の葉かな、さしも時雨は偽の、なき世に殘る跡ながら
女 人は徒なる古事を、語れば今も假の世に
ワキ 他生の縁は朽ちもせぬ、是ぞ一樹の陰の宿り
女 一河の流を汲みてだに
ワキ 心を知れと
女 折からに
同 今降るも、宿は昔の時雨にて、宿は昔の時雨にて、心すみにし其人の、哀を知るも夢の世の、實定めなや定家の、軒端の夕時雨、古きに歸る涙かな、庭も籬もそれとなく、荒れのみ増さる草むらの、露の宿りも枯れ/\に、物凄き夕べ成りけり、物凄き夕べ成りけり。
 
女 今日は心ざす日にて候ほどに、墓所へ參り候、御參候へかし。
ワキ それこそ出家の望にて候へ、頓而參らふずるにて候。
女 なふなふ是なる石塔御覧候へ
ワキ 不思議やな是なる石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひ纏ひ、形も見えず候、是は如何なる人のしるしにて候ぞ
女 是は式子内親王の御墓にて候、又此葛をば定家葛と申候
ワキ 荒面白や定家葛とは、いかやうなる謂れにて候ぞ御物語候へ
女 式子内親王始めは賀茂の齋の宮にそなはり給ひしが、程なく下り居させ給しを、定家卿忍び/\御契り淺からず、其後式子内親王ほどなく空しく成給ひしに、定家の執心葛となつて御墓に這ひ纏ひ、互ひの苦しび離れやらず、共に邪婬の妄執を、御經を読み弔ひ給はば、猶々語り參らせ候はん。

同 忘れぬものをいにしへの、心の奧の信夫山、忍びて通ふ道芝の、露の世語由ぞなき。
女 今は玉の緒よ、絶えなば絶えねながらへば
同 忍ぶることの弱るなる、心の秋の花薄、穂に出初めし契りとて、また離れ/\の中となりて

女 昔は物を思はざりし
同 後の心ぞ、果てしもなき
同 あはれ知れ、霜より霜に朽果てて、世々に古りにし山藍の、袖の涙の身の昔、憂き戀せじと禊せし、賀茂の齋院にしも、そなはり給ふ身なれ共、神や受けずも成にけん、人の契りの、色に出けるぞ悲しき、包むとすれど徒し世の、徒なる中の名は洩れて、外の聞えは大方の、空恐ろしき日の光、雲の通路絶え果てて、乙女の姿留め得ぬ、心ぞ辛きもろともに

女 實や歎く共、戀ふ共逢はむ道やなき
同 君葛城の峰の雲と、詠じけん心まで、思へばかかる執心の、定家葛と身は成て、此御跡にいつとなく、離れもやらで蔦紅葉の、色焦がれ纏はり、荊の髪も結ぼほれ、露霜に消えかへる、妄執を助け給へや
地 古りにし事を聞からに、今日もほどなく呉織、あやしや御身誰やらむ
女 誰とても、亡き身の果ては淺茅生の、霜に朽にし名ばかりは、殘りても猶由ぞなき
地 よしや草場の忍ぶ共、色には出でよ其名をも
女 今は包まじ
地 この上は、われこそ式子内親王、是まで見え來れ共、まことの姿はかげろうふの、石に殘す形だに、それ共見えず蔦葛、苦しびを助け給へと、言ふかと見えて失せにけり、言ふかと見えて失せにけり

<中入>

ワキ・ワキツレ 夕も過ぐる月影に、夕も過ぐる月影に、松風吹て物凄き、草の陰なる露の身を、念ひの玉の數々に、とぶらふ縁は有難や、とぶらふ縁は有難や。
後女 夢かとよ、闇のうつつの宇津の山、月にも辿る蔦の細道
女 昔は松風蘿月に詞を交はし、翠帳紅閨に枕を並べ
地 樣々なりし情の末
女 花も紅葉も散々に
地 朝の雲
女 夕の雨と
同 古言も今の身も、夢も現も幻も、共に無常の、世となりて跡も殘らず、なに中々の草の陰、さらば葎の宿ならで、そとはつれなき定家葛、是見給へや御僧

ワキ 荒痛はしの御有樣やあらいたはしや、佛平等説如一味雨 随衆生性所受不同
女 御覽ぜよ身は徒波の立ち居だに、亡き跡までも苦びの、定家葛に身を閉ぢられて、かかる苦しび隙なき所に、有難や
シテ 唯今讀誦給ふは薬草喩品よなふ
ワキ 中々なれや此妙典に、洩るる草木のあらざれば、執心の葛をかけ離れて、佛道ならせ給ふべし
女 荒有難や、げにもげにも、是ぞ妙なる法のへ
ワキ 普き露の惠みを受けて
女 二つもなく
ワキ 三つもなき。
同 一味の御法の雨の滴り、皆潤ひて草木国土、悉皆成佛の機を得ぬれば、定家葛もかかる涙も、ほろ/\と解け広ごれば、よろ/\と足弱車の、火宅を出でたる有難さよ。この報恩にいざさらば、ありし雲井の花の袖、昔を今に返すなる、其舞姫の小忌衣
 
女 面無の舞の
地 あり樣やな
女 面無の舞の有樣やな
 
同 面無や面映ゆの、有樣やな
女 本より此身は
地 月の顏はせも
女 曇りがちに
地 桂の黛も
女 おちぶるる涙の
同 露と消えても、つたなや蔦の葉の、葛城の神姿、恥づかしやよしなや、夜の契りの、夢のうちにと、有つる所に、歸るは葛の葉の、もとのごとく、這ひ纏はるるや、定家葛、這ひ纏はるるや、定家葛の、はかなくも、形は埋もれて、失せにけり
※巻第十一 戀歌一 百首歌の中に忍恋を 式子内親王
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ることの弱る
※巻第四 秋歌上 百首歌に 式子内親王
花薄まだ露ふかし穂に出でばながめじとおもふ秋のさかりを
※第十五 戀歌五 和歌所の歌合に逢不遇戀のこころを 皇太后宮大夫俊成女 異本歌
夢かとよ見し面影も契りしも忘れずながらうつつならねば
※第十 羇旅歌 駿河の國宇都の山に逢へる人につけて京にふみ遣はしける 在原業平朝臣
駿河なる宇都の山邊のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
※続古今集 小野小町
夢ならばまた見る宵もありなまし何中々のうつつなるらむ 
第八 哀傷歌 六條攝政かくれ侍りて後植ゑ置きて侍りける牡丹の咲きて侍りけるを折りて女房のもとより遣はして侍りければ 大宰大貳重家
形見とて見れば歎のふかみぐさ何なかなかのにほひなるらむ

蕪村の絵文字(その十三) [蕪村書簡]

(その十三)

道立宛書簡.jpg
『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』所収「一一八道立宛宛」

[ 青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
 これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。御心切(しんせつ)之段々、忝(かたじけなく)奉存候。
   四月廿五日                    蕪村
道立 君
 尚々(なおなお)枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候。 ]

 この書簡中の句、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」は、安永九年(一七八〇)の几董編『初懐紙』に収載されている。そのことから、この書簡は「安永九年」の書簡と推定されている。
 その『初懐紙(几董編)』には、「正月廿日壇林会席上探題」のところに、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」の前書きを付して、「妹が垣根三味線草の花咲きぬ」の句形で収載されている。
 この「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」とは、「司馬相如が富豪の娘で寡婦の卓文君に琴歌に託して意を通じ妻にした故事」(『蒙求・文君当壚』)を裏返し、琴を三味線に転換してのものとの解がある(『蕪村全集一発句』所収「二〇九四頭注」)。また、「昔見し妹が垣根は荒れにけりつばな交じりの菫のみして」(藤原公実『堀河院百首』)を踏まえての句のようである。
 句意は、「恋する人の垣根に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花が咲いている」というようなことであろう。そもそも、この句は小糸とは関係のないものなのだが、この書簡中に置くと、「恋する人の垣根(家)に、私の恋心を伝えるかのように三味線草の花ならず、小糸の三味線の音色が伝わって来る」というようなニュアンスになって来よう。

 そして、この句の創作年次の安永九年(一七八〇)を根拠にして、この書簡も同年のものと即断するのは、必ずしも正当とは言えないであろう。事実、天明二年(一七八二)五月の『花鳥篇』(「小糸と同座しての連句が収載されている」)刊行後の、最晩年の天明三年(一七八三)と推定しているものもある(『戯遊の俳人与謝蕪村《山下一海著》』)。

 ここで、この書簡の宛名の樋口道立について触れて置きたい。

 樋口道立は、元文三年(一七三八)生まれ、文化九年(一八一二)没。本名、樋口道卿、通称、源左衛門。別号に、自在庵・紫庵・芥亭など。明和五年(一七六八)版『平安人物志』の儒者の部に「源彦倫、字道卿、号芥亭、下立売西洞院東ヘ入町、樋口源左衛門」と掲載されている。『日本詩史』の著者江村北海の第二子で、川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を嗣いだ。安永五年(一七七六)四月、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵再興が企てられ、写経社会が結成されると管事となっている。蕪村との交遊は二十余年に及ぶが、蕪村門人というよりも蕪村盟友という関係が相応しい。天明元年(一七八一)五月に芭蕉庵は改築再建される。

 ここで、この書簡が出された年次について、金福寺内の芭蕉庵が改築再建された天明元年(一七八一)五月二十八日前の四月二十五日というのが浮かび上がって来る。
それは、この書簡の理解に最も相応しい『几董・月居十番句合(蕪村判)』の「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」に対する、蕪村が判定を下した次のものに、この書簡のニュアンスが最も近いということに他ならない。

[ 老(おい)初(そめ)て身のむかしだにかなしきといふにもとづき、恋ほど切なるものはあらじといへるに、老が身の事々物々に親切なる、況(いはんや)人のきくを憚るも「年過半百(白)不称意」(年半百ニ過ギテ意ニ称ハズ)といふがごとく、かく老が恋の切なれども、秋のくれのそゞろのものゝかなしき、「眇々悲望如思何」(眇々タル悲望思ウモ如何)ともの字をもて自問自答せるなり。  ]
『蕪村全集四俳詩・俳文』所収「評巻五蕪村判、几董・月居十番句合(天明元年)」

 ここで、前回の「天明二年(一七八二)」の年譜と合作すると次のとおりとなる。

(天明元年=一七八一)
四月二十五日 道立宛書簡(「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候」)。
五月二十八日 芭蕉庵改築再建に際し、芭蕉庵再興記を自筆に記して奉納する。
八月十四日 几董・月居の十番左右句合に判す「老(おい)そめて恋も切なる秋の暮(几董)」(『反古瓢』)。
(天明二年=一七八二) 
一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

老いが恋.jpg
『蕪村全集四俳詩・俳文』(第四巻月報「老が恋・芳賀徹稿」所収)

 上記は、安永三年(一七七四)九月二十三日付大魯宛書簡の後半部分である。『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』によると、次のとおりである。

[ 狐火の燃えつくばかりかれ尾花 
是は塩からき(趣向・技法の古くさい)様なれど、いたさねばならぬ事にて候。御観察可被下候。
几董会 当座 時雨
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな
  しぐれの句、世上皆景気(叙景の句)のみ案(あんじ)候故、引違(ひきちがえ)候ていたし見申候。「真葛(まくず)がはらの時雨」とは、いさゝか意匠違ひ候。
  右いづれもあしく候へども、書付ぬも荒涼に候故、筆之序(ついで)にしるし候。
  余は期重便(じゅうびんをごし)候。頓首
   九月二十三日          蕪村
大魯 様                      ]

 この書簡中の「真葛(まくず)がはらの時雨」というのは、慈円の「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原の風騒ぐなり」(『新古今・巻十一』)を指し、その「風が吹いて葛が白っぽい裏を見せる、恨み(裏見)で心の落ち着かない恋心」と、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「老(おい)が恋」とを、「時雨」が同じだからと言って、同じように取って貰っては困るというようなことであろう。
 とすると、この「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の句は、先に紹介した『花鳥篇』の「花ちりて身の下やみやひの木笠」の「花ちりて」に近いもので、その背後に、式子内親王の「花は散りてその色となく詠(なが)むればむなしき空に春雨ぞふる」(『新古今・春下・一四九』)の、「花は散り=人生の終わり」「むなしき空=虚空」を意識している雰囲気で無くもない。
 同様に、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」の「わすれんとすれば」の字余りは、式子内親王の「花は散りて」の字余りを意識してのものなのかも知れない。

  老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな(安永三年大魯宛書簡)
  妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ
       (安永九年『初懐紙《几董編》』・天明元年道立宛書簡) 
  花ちりて身の下やみやひの木笠(天明二年『花鳥篇』)

 蕪村が「老(おい)が(の)恋」を主題にしたのは、安永三年(一七七四)、五十九歳の頃である。爾来、没する天明三年(一七八三)、六十八歳までの、約十年間の主題であり続けた。
その間、冒頭の天明元年(一七八一)の道立宛書簡のように、「よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし」と自戒の書簡を認めることもあった。
 しかし、その書簡に記すが如き、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」、それが、「泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候」と、この「老(おい)が恋」は、表面的には形を失せても、内面的には益々、蕪村の主題としてあり続けたのである。
 そして、そのエッポクメーキング(それを示す象徴的なもの)が、天明二年(一七八二)の『花鳥篇』なのである。
 そこに収載されている蕪村(夜半)の句は、「花ちりて身の下やみやひの木笠」、どうにも、「花ちりて」「身のしたやみ(闇)や」と、「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」なのである。
 しかし、その「名状し難き陰鬱」した「老(おい)が恋」の、その底流に流れているものが、実は、『花鳥篇』の中に、さりげなく記されている。

[ 寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。かの伏波将軍(ふくはしやうぐん)が老当益壮といへるぞ、よろずの道にわたりて致(おもむき)を一にすべし。古(いにしへ)、市河(川)栢筵(はくえん)、今の中むら(村)慶子などは、よくその道理をわきまへしりて、年どしに優伎(いうぎ)のはなやかなるは、まことに堪能(かんのう)の輩(ともがら)と云ふべし。  ]
『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」

 ここに出て来る「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」とは、『後漢書(馬援伝)』に出て来る馬援のことで、その馬援の言葉の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」こそ、蕪村の「老(おい)が恋」の底流に流れているものなのであろう。
 それは、実生活上でのものというよりも、芭蕉俳諧の「さび・しをり」に対して、蕪村俳諧は「壮麗」を目指したいという、蕪村の創作理念とも言うべきものなのであろう。
そして、その「壮麗」の具体例として、立役の名優二代目市川団十郎(俳号栢筵)と女形の名優初代中村富十郎(俳号慶子)の歌舞伎役者を挙げ、彼らは年齢に関係なく壮麗・華麗な優伎を現出させており、それを範とすべきと言うのであろう。

 この「老当益壮」の視点から、冒頭の「道立宛書簡」を読むと、蕪村の真意が明瞭となって来る。

一 「青楼(遊里)の御意見承知いたし候。御尤もの一書、御句にて小糸(蕪村なじみの芸妓)が情も今日限(かぎり)に候。よしなき風流(甲斐もなき色恋)、老(おい)の面目をうしなひ申候。禁(きんず)べし。」 → ご意見承知いたしました。
二 「去(さり)ながらもとめ得たる句、御披判(ごひばん)可被下候。
妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ   」 → 然しながら、その風流で得た句の、「妹(いも)がかきね三線草(さみせんぐさ)の花さきぬ」を、
どうか、ご批判下さい。
三 「これ泥に入(いり)て玉を拾ふたる心地に候。此(この)ほどの机上のたのしびぐさに候。」→ この句は、泥の中から玉を拾ったような気持ちです。外出もせず、画室にて、この句より得た「「老当益壮」の「壮麗なる句そして画」を構想してるのが、今の楽しみであります。

 また、この「尚なお書き」の「枇杷葉湯一ぷく、あまり御心づけ被下、おかしく受納いたし候」からすると、道立の「御意見」というのは、当時の金福寺内の芭蕉庵再興という大きな懸案事項を抱えていて、「健康第一を旨として戴きたい」というようなことが包含されているような感じに受け取りたい。
 それに対して、「多情を戒める枇杷葉湯を頂戴し、これは、まさに俳諧(滑稽)です」というのは、蕪村と道立との信頼関係における成り立つ「遊び心」の表現なのであろう。

(補説一)

 上記の『花鳥篇』の「寂(さび)・しをりをもはら(専)とせんよりは、壮麗に句をつくり出(いで)さむ人こそこゝろにくけれ。(攻略)」について、『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』では、次のように記している。

これは蕪村の手で天明二年に刊行された『花鳥篇』に収める六十七歳の老蕪村の壮麗論である。芭蕉一門の「さび・しをり」に対して、蕪村はここで「壮麗」を対立理念として提唱した。その基本にあるのは「老当益壮」(老イテハマサニマスマス壮(さか)ンナルベシ)ということだ。門人の几董はこういう師の蕪村について、「もとより懶惰(らんだ)なりといへども、老イテハ当(まさ)ニ益々壮(さか)ンナルベシと、つねに伏波将軍の語をつぶやき」と言っている。『後漢書』馬援伝に見える言葉で、伏波将軍とはこの馬援のこと。蕪村の青春の詩は五十代から六十代にかけて花を咲かせた。蕪村が祇園の妓女小糸と、生涯で最も熱烈に恋をしたのは六十五歳から六十八歳の死までである。「老」という人生の喪(ほろ)びを前にした壮麗論だ。それは落日が黄昏(たそがれ)に近いがゆえに限りなく美しかったようにである。老いの喪びゆえに、壮麗な美しさを見せる落日の美学だ。(『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』所収「落日庵蕪村の詩論」)

(補説二)

上記の『月に泣く蕪村(高橋庄次著・春秋社)』中の、蕪村の「懶惰(らんだ)」そして「老当益壮」関連については、やはり、蕪村の最高傑作詩篇とされている、安永六年(一七七七)二月の春興帖『夜半楽』の三部作(「春風馬堤曲」・「澱河歌」・「老鶯児」)と、さらに、安永四年(一七七五)作の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の「憂き我・老懶」などの関連で、再構築が必要となって来よう。その再構築(メモ)の一端を下記に掲げて置きたい。

一 蕪村の安永四年(一七七五)の「うき我にきぬたうて今は又(また)止ミね」の句は、芭蕉の「うき我をさびしがらせよかんこどり」(『嵯峨日記』)を、さらには、「砧打(うち)てわれをきかせよ坊が妻」(『野ざらし紀行』)を念頭にあったのことは言をまたない。

二 芭蕉は、「憂い・老懶」に、真っ向から対峙している。「閑古鳥」の鳴き声を、「ある寺に独(ひとり)居て云(いひ)し句なり」と、さらに、「さびしがらせよ」と一歩も退いていない。さらには、「憂い・老懶」の増すなかにあって、「砧を打ちてわれを聞かせよ」と、その「憂い・老懶」の正体を正面から凝視し、傾聴しようとしている。それに比して、蕪村は、日増しに増す「憂い・老懶」の日々にあって、芭蕉と同じように、「うき我にきぬたうて」としながらも、「今は又(また)止ミね」(今は又止めて欲しい)と、その「憂い・老懶」の中に身を沈めてしまう。

三 蕪村の安永五年(一七七六)の「去年より又さびしいぞ秋の暮」の句もまた、芭蕉の佳吟中の佳吟「この秋は何で年寄る雲に鳥」(『笈日記』)に和したものであろう(『蕪村全集(一)』)。芭蕉は、この芭蕉最後の旅にあって、その健康が定かでないなかにあって、「憂い・老懶」の真っ直中にあって、「何で年寄る」と完全な俗語の呟きをもって、「雲に鳥」と、連歌以来の伝統の季題の、「鳥雲に入る」・「雲に入る鳥」・「雲に入る鳥、春也」と、次に来る「春」を見据えている。

四 それに比して、蕪村は、芭蕉の「憂い・老懶」の「寂寥感」に耐えられず、「去年より又さびしいぞ」と、その「老懐」に、これまた身を沈めてしまうのである。そして、蕪村は、その翌年の春を迎え、その春の真っ直中にあって、「春もやゝあなうぐひすよむかし声」と、いよいよ、その「憂い・老懶」に苛まれていくのである。

五 さればこそ、この「憂い・老懶」を主題とする「老鶯児」の一句を、巻軸として、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」の二扁の序奏曲をもって、「華麗な華やぎ」を詠い、その後に、真っ向から、「憂い・老懶」の自嘲的な、「老鶯児」と題する、「「春もやゝあなうぐひすよむかし声」の一句を、この『夜半楽』の、「老い」の「夜半」の「楽しみ」としつつ、そして、いよいよ募る「憂い・老懶」に、「琴心挑美人(きんしんもてびじんにいどむ)」たる、「伏波将軍(ふくはしやうぐん)」の「老当益壮(ろうとうえきそう)=老イテハ当(まさ)ニ益(ますます)壮(さかん)ナルベシ」を以てしたのではなかろうか。

蕪村の絵文字(その十二) [蕪村書簡]

(その十二)

百池宛て書簡.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「二九九 天明二年一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛」個人蔵

 この表書きの「さかい(堺)屋三右衛門」は、寺村百池の屋号と通称である。書簡の内容は、なかなか意味深長のものがある。
 この「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」の「御細書」とは、次に続く、「しばらく絶誹(俳)可然候」と「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」とのことを指しているようである。
 この「しばらく絶誹(俳)可然候」とは、百池は、「しばらく俳諧(連句興行・句会の出席など)は止めたい」ということ、そして、「其外(そのほか)之遊興御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」ということは、「茶屋遊びなどは一切しない」ということに、百池の師の蕪村は、「御つゝ(慎)しみ第一ニ御座候」と、それが「尤もである」と、「百池」ならず、「さかい(堺)屋三右衛門」で、書簡を認めている。
 蕪村は享保元年(一七一六)生まれ、百池は寛延元年(一七四八)生まれで、二人の年齢差は、蕪村が三十二歳年長である。因みに、月渓は宝暦二年(一七五二)の生まれで、百池より四歳年下である。この百池と月渓とが、晩年の蕪村の秘蔵子と言っても良かろう。
 ここで、この書簡の日付の天明二年(一七八二)に注目したい。この年の月渓は池田で新年を迎え、剃髪して呉春と改号した年に当たる。そして、この年の五月に蕪村は『花鳥篇』を刊行する(蕪村編集の板下も蕪村が書いている)。
 この『花鳥篇』こそ、次の年が没年となる、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」の一瞬の結晶とも言うべき、そして、それは、束の間の「あだ(徒・婀娜)花」(はかなく散る実を結ばない桜花)のごときものと位置付けることも可能であろう。
 この『花鳥篇』に、晩年の蕪村が親しんだ、愛人とも言われている「小いと(小糸)」と同座して巻かれた連句(十二句)が収載されている。
 その表六句は次のとおりである。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)    大阪 うめ
  さそへばぬるむ水のかも河             其答
 盃にさくらの発句をわざくれて            几董
  表うたがふ絵むしろの裏             小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月              夜半 
  をりをりかをる南天の花              佳棠 
  
 この発句の前に、「みやこに住(すみ)給へる人は月花のお(を)りにつけつつ、よき事も聞(きき)給(たまは)んと、いとねたくて 蕪村様へ、文のはしに申(まうし)つかはし侍(はべる)」という前書きがある。
 この発句の作者「うめ」は大阪新地の芸妓で、後に月渓の後妻となった女性である。月渓は、この前年の天明元年(一七八一)三月晦日に愛妻雛路を海難事故で亡くしている。その八月には実父が江戸で客死するという二重に不幸に遭遇し、蕪村の計らいで、蕪村門の長老の田福(京都五条の呉服商で百池の縁戚に当たる)の別舗が池田にあり、その二階を仮の住居として転地療養をしている。
 この『花鳥篇』にも、月渓の名は見られない。
さて、この発句の句意は、表面的には、「凧は大空に自由に高く舞い上がっているようで、実は見えない糸に頼っているというのは憎たらしい」というようなことである。そして、その背後に、四句目の作者「小いと」が蕪村の愛人であることを暗にほのめかしていて、それが、前書きの「みやこに住(すみ)給へる人=小いと」が「いとねたく」、そして、発句の「凧(蕪村様)がいと(小いと)に頼りきっているのは、憎たらしい」ということを利かしている。
 また、この句は、「糸によるものならなくに別れ路の心細くも思ほゆるかな」(『古今集』)の本歌取りの技巧的な句なのである。
 次の脇句の作者「其答」は、蕪村の後継者の「几董」を捩っての、蕪村の「変名」の感じなくもないが、歌舞伎役者沢村国太郎のようである(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著))。
句意は、「人を誘って、凧が舞い上がっている野辺に行くと、賀茂川の水も春らしくなっている」ということで、この「人を誘って」の「人」は、「小いと」を指しているのであろう。
 第三の几董の句は、発句・脇句の「凧の舞い上がる賀茂川の野辺に居て、盃を重ねながら、桜の発句を吟じたい」と、第三の「て留め」だが、実質的に、この句が発句的な意味合いもあるのだろう。
 四句目は、夜半亭一門で蕪村との仲が話題となっている「小いと(小糸)」の句である。「表うたがふ絵むしろの裏」と、俳諧の「表=表面的の世界」と「裏=背後に隠されている世界」と、そして、この句意は、「表の恋模様の絵筵の、その裏は、さてさて、どのようなものなのでしょうか」と、どうにも、手の込んだ句で、おそらく夜半翁(蕪村)が手入れしての一句なのであろう。
 その前句に対して、「ちかづきの隣に声す夏の月」と、ここは月の定座で、「夏の月が空にかかり、何やら近くの親しい隣家の声が聞こえてくる」というのである。この「近づき」は、勿論、この作者の「夜半」と「小いと」との「近づきの仲」を掛けてのものなのであろう
 表六句の折端の句は、茶屋遊びの指南役の佳棠の「南天の花」の「匂い」の付けである。
勿論、「夜半翁と小いととの関係は香しい匂いが立ち込めている」というのであろう。

 この「小いと(小糸)」の名は、安永八年(一七七九)頃の蕪村書簡から散見されるが、蕪村の方が積極的であったことは、天明元年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛書簡の次のような文面からも窺える。

「返す返す小糸もとめならば、此方よりのぞみ候ても画き申たき物に候。右之外之画ならば、何なりとも申し遣し候様御申し伝へ下さるべく候。」

 これは、小糸が「白練」(白の練り絹)に、蕪村の「山水画」を描いてくれと佳棠を仲介にして頼まれたのだが、小糸の着物に私の山水画はどうにも似合わないので、「右之外之画」(それ以外の画)ならば、「何なりとも申し遣し」下さいと「伝え下さるべく候」というのである。
 蕪村の小糸への一通りでない気持ちが伝わって来る。そして、それが次第に周囲の目にも余るものになってきたらしい。蕪村門人で川越候松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ儒学者の道立から諫言され、その諫言に対して、「小糸が情も今日限り候」との蕪村の返信の書簡が今に遺されている。
 さて、冒頭の「天明二年一月二十八日付け堺屋三右衛門(百池)宛て蕪村書簡」を見ると、「百池がしばらく俳諧を止め、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業に専心する」ということに対しての、「御細書之(の)おもむき(趣)至極御尤(ごもつとも)之御事二(に)候」という蕪村の書簡は、当時の蕪村自身の、「俳諧は几董に任せ、茶屋遊びなどの遊興を止め、本業(画業)に専心する」という、六十七歳の賀を迎えた老翁・蕪村の実像なのかも知れない。

花鳥篇2.jpg
『蕪村全集七編著・追善』所収「花鳥篇」=蕪村書・画「花ちりて身の下やみやひの木笠」

 この『花鳥篇』の「花」は「桜」、そして、「鳥」は「時鳥」を指している。もとより、季題の頂点を占める五個の景物(花・月・雪・時鳥・紅葉)の、その「花・時鳥」を書名にしていることは言うまでもない。
 そして、前半の「花桜帖」の末尾に、上記の「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句と挿絵(蕪村筆)が描かれている。ちなみに、後半は、「ほととぎすいかに鬼神もたしかに聞(きけ)」(宗因)の句ほ発句にして、脇句(蕪村)、第三(几董)と続く、夜半亭一門の歌仙(三十六句)が巻かれている。そして、その末尾に、慶子(中村富十郎)画の「時鳥」の挿絵が添えられている。
 この「花ちりて身の下やみやひの木笠(夜半)」の句には、次の前書きが添えられている。

「さくら見せうぞひの木笠と、よしのゝ旅にいそがれし風流はした(慕)はず、家にのみありてうき世のわざにくるしみ、そのことはとやせまし、この事はかくやあらんなど、かねておも(思)ひはか(図)りことゞもえはたさず、つい(ひ)には煙霞花鳥に辜負(こふ=そむく)するためしは、多く世のありさまなれど、今更我のみおろかなるやうにて、人に相見んおもて(面)もあらぬこゝちす」

 この前書きを踏まえると、芭蕉の「吉野にて桜見せうぞ檜木笠」(『笈の小文』)を踏まえての一句ということが察知される。句意は、「芭蕉から『桜見せうぞ』と呼びかけられた檜木笠は、花が散って、自分自身の陰が作る闇に沈んでいる。見る暇もなく散った花に、私の心はもっと暗い」(『蕪村全集一発句』所収「二二五一頭注」)。

 ここで、冒頭の天明二年(一七八二)一月二十八日の堺屋三右衛門(百池)宛書簡前後から、五月の『花鳥篇』出版までの蕪村の年譜を辿ると次のとおりとなる。

一月二十一日 春夜楼で壇林会(連句・発句会)に出席(几董『初懐紙』)。『夜半亭歳旦帖』の代わりに『花鳥篇』の刊行を計画。
一月二十八日 堺屋三右衛門(百池)宛書簡(百池の「俳諧を暫く休み、遊興を慎む」旨の書簡に返信)。
三月 田福らと念願の吉野の花見の旅をする(『夜半翁三年忌追福摺物(田福編)』、ここに「我此翁に随ひ遊ぶ事久し。よし野の花に旅寝を共にし」とある。また、「雲水 月渓」の長文の前書きを付した発句も収載されている。月渓は蕪村没後「雲水=行脚僧」であったのであろう)。 十七日 吉野の花見から帰洛(梅亭宛書簡)。
四月 金福寺句会(道立宛書簡)。
五月 『花鳥篇』出版

 この『花鳥篇』の前半の「花桜帖」には、「ナニハ うめ(梅女)」「女 ことの(琴野)」「女 小いと(小糸)」「女 石松」と、蕪村の馴染みの芸妓たちの句と共に、「慶子(中村富十郎)」「巴江(芳沢いろは)」「雷子(二世嵐三五郎)」「眠獅(嵐雛助)」「其答(沢村国太郎)」の役者、そして、江戸の「蓼太」、尾張の「暁台」等々と、誠に 華やかな顔触れの句が続き、その造本も凝りに凝った蕪村の趣向が随所に顕われている。
 しかし、この「花桜帖」の末尾を飾る「花ちりて身の下やみやひの木笠」の、この「身の下やみ」の、「蓑笠と身の陰の下の、この漆黒の闇」とは、ここに、蕪村の最晩年の「老いの華やぎ」と、その束の間の「あだ(徒・婀娜)花」と、その背後の、「滅びゆくものの、老愁と、老懶と、そして、寒々とした漆黒の闇」とが察知されるような、そんな思いを深くする。


蕪村の絵文字(その十一) [蕪村書簡]

(その十一)

とも宛て書簡.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「四三四 安永末~天明三年 二十三日 おとも宛」柿衛文庫蔵

 末尾の「おともどのへ 用事」の「おとも」とは、蕪村の細君である。この書簡の内容は、「きのふより杉月(さんげつ)に居つゞ(続)けいたし」と、三本樹(木)の料亭、杉月楼に居続けて、「少々二日酔(ひ)」だというのである。
 そして、「けふ(今日)は東山へ参(まゐり)候」と、東山の句会に行くということらしい。
それで、「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳(俳諧師などが外出用に着した着物)・扇・煙草少々」を「佳棠(書肆汲古堂主人)」の「供寄せ申候」(供の者をそちらに立ち寄らせる)」から、「御越(遣)可被下候」(持たせてやって下さい)というのである。
 蕪村の亭主関白ぶりが目に見えるようである。

  身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ)  (安永六年作)

 この句は、安永六年(一七七七)、蕪村、六十二歳の時の作とされている。それは几董の『丁酉之発句帖』(安永六年)中の「閨怨」と題する句とされていることに因る。
句意は「秋夜、暗い寝間の片隅でふと踏んだのは亡妻の櫛であった。なぜ今ごろこんな所にあったのだろう。今さらながら秋の夜の独り寝の寒さと無常の思いが身に沁みる。小説的虚構の句」(『蕪村全集一 発句(一八〇八)』)とある。

 蕪村が結婚したのは、丹後から帰洛して画名も漸く高まり、一応生活の安定が得られるようになった宝暦十年(一七六〇)、四十五歳の頃と推定されている。蕪村は晩婚で、蕪村よりもずっと年若の妻であったのであろう。
 名は、上記の書簡のとおり、「とも」といい、「とも」が亡くなったのは、金福寺の過去帳によると文化十一年(一八一四)のことで、蕪村没後三十年余も後のことである。蕪村との間に一女があって、名は「くの」(又は「きぬ(婚家先での名か)」)で、しばしば、蕪村書簡でその名が散見される。
 蕪村書簡によると、「くの」は、安永五年(一七七六)十二月に結婚して、その翌年の安永六年(一七七七)の五月には離婚している。この「くの」の離婚に関連しての蕪村の痛々しいほどの心痛を綴った几董宛ての書簡が今に遺されている。

「(前略) むすめ病気又々すぐれず候で、此方(婚家から蕪村宅へ)へ夜前(昨夜)引取養生いたさせ候。是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候。(後略)」(几董宛、安永六年五月)

「是等無拠(よんどころなき)心労どもにて、風雅(俳諧)も取失ひ候ほどに候」と、「風雅(俳諧)」どころではないというのである。蕪村は、この娘が離婚する一か月ほど前の、四月八日から、夏行(夏季に行われる僧侶の仏道修行の一つ)とし、一日十句の発句を作ることを志して、後半の文章篇と併せ自叙伝とも言うべき『新花摘』の執筆に取り掛かっている。
 その前半の発句篇の最後(廿四日)の前書きに、「此(この)日より所労のためよろずおこたりがちになり。発句など案じ得べうもあらねば、いく日(にち)もいたづらに過(すご)し侍る」と、上記書簡の文面と一致するような箇所がある。
 とすると、蕪村の『新花摘』は、其角の亡母追善を意図した『華(花)摘』に倣い、亡母追善(「五十回忌」説)の意図があるとされているが、それだけではなく、この「くの」の結婚そして離婚などと大きく係わっているのであろう(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「解説《『蕪村句集』と『新花つみ』の成立》」)。
 
 さて、ここで、上記の「小説的虚構の句」とされている「身にしむやなき妻のくしを閨(ねや)に踏(ふむ) 」は、妻「とも」との関連では、まさに、「小説的虚構の句」なのだが、当時、執筆していた『新花摘』の亡母や娘「くの」との関連ですると、薄幸な女性をイメージしてのものという捉え方は十分に成り立つであろう。

 さらに、冒頭の蕪村の亭主関白ぶりの書簡についてであるが、蕪村の芝居好きや茶屋遊びというのも、「老を養ひ候術(すべ)に候故(ゆえ)、日々少年行(漢詩の楽府題の一つ)、御察可被下候」(有田孫八宛・年代不詳・六月八日付)と、画業のスランプの脱出などと密接不可分のような思いを深くする。また、料亭などでの席画や依頼画の制作などで、画室外での作業なども多かったことであろう。

 そういう、当時の、画家そして俳諧宗匠を業として一家を支えている蕪村と、その画料等を唯一の家計としている「とも」との、この両者の信頼関係を抜きにしては、この書簡の真の背景を理解しているとは言えないであろう。

新花摘1.jpg
(『新潮日本古典集成 与謝蕪村集《清水孝之校注》』所収「新花つみ」)
月渓筆「渭北文台ノ主トナレリ」の挿絵
左端 宗匠(点者)となった渭北(右江氏、淡々門、淡々の「渭北」を引き継ぎ、前号は「麦天」)、この宗匠(点者)のスタイルなどが、蕪村書簡の「小袖・唐紙・硯箱・机の上の草稿一冊・十徳」などと関係して来る。宗匠(点者)の前の机が「文台」、そして、宗匠(点者)になったことを証しする儀式のことを「文台開き」と言う。

蕪村の絵文字(その十) [蕪村書簡]

(その十)

其雪影.jpg
『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「巴人・几圭対座像」

 『蕪村七部集』のスタートを飾る『其雪影(几董編)』は、巻首(上巻)と巻尾(下巻)との二巻から成り、明和九年(一七七二)に刊行されている。この俳諧撰集は、宝暦十二年(一七六二)十二月二十三日に没した父几圭の十三回忌追善のために編んだものであるが、几圭の実際の十三回忌は安永三年(一七七四)で、それを二年引き上げている。
 それは、明和七年(一七七〇)三月の、蕪村の夜半亭二世継承と大きく関係していることであろう。この六月より、几董は俳諧修行のため句稿を書き始め、その第一集が『日発句集』(明和七年歳旦より翌八年六月に至るまでの「発句・連句・俳文・紀行等」の記録集)である。
 その『日発句集』の「発端」には、「巴人(夜半亭一世)・几圭(巴人門の高足で几董の父)・蕪村(夜半亭二世)」の三人を、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」とし、その三人の句を「巻のかしら(頭)」とするということで、その「数十章」の句が列記されている。
 この几董の『日発句集』を目の当たりにすると、蕪村は夜半亭二世を継承する時に、その三世は、「師祖(巴人)・亡父(几圭)・蕪師(蕪村)」の、この「亡父(几圭)」の遺児(几董)にバトンタッチをするということで、蕪村に懇請をされたものであろう。
 几董は、明和七年(一七七〇)七月に、この蕪村の懇請を受けて、夜半亭社中(三菓社中)に、馬南(後の大魯)と共に参加する。蕪村は、将来の夜半亭社中を、この二人に託するという意味合いもあったのであろう。

 当時の夜半亭社中の連衆(会衆)は次のとおりである。

(明和三年三菓社句会の初回からの連衆)
 蕪村・太祇・召波・鉄僧・竹洞・印南・峨嵋・百墨(後の自笑)
(明和三年七月~明和五年七月、蕪村讃岐行のため休会)
(明和五年三菓社句会再開、以降の新参加者)
 鶴英(伏見、明和五年六月~)、田福(明和五年七月~)、五雲(江戸より移住、明和五年十二月~)、図太(江戸より移住、明和六年~)、鷺喬(伏見、明和六年六月~)、竹護(江戸より移住、明和七年六月~)
 几董・馬南(後の大魯)=明和七年七月~
 泰里(江戸より上京)・嘯山(泰里の上京中参加)=昭和七年七月~九月

 蕪村が、夜半亭二世を継承したのは、明和七年(一七七〇)三月であるが、その翌年の明和八年(一七七一)八月に、盟友太祇が没(享年六十三)、秋に伏見の鶴英没、そして、十二月に、召波没(享年四十五)と、悲報が続く。そういう悲報と併せ、上記の三菓社中は夜半亭社中に移行し、三菓社句会は高徳院(知恩院の一院の名)発句会に衣替えをして行く。この高徳院発句会の新参加者は次のとおりである。

(明和八年四月~) 百池、その他几董社中数名
(明和八年八月~) 武燃(宋屋門)、重厚(蝶夢門)、維駒(十一月~)

 この明和八年(一七七一)の春に、蕪村は『明和辛卯春』の春興帖を刊行し、その翌年の明和九年・安永元年(一七七二)、上記で紹介した『其雪影(几董編)』が、単なる几圭追善集ではなく、夜半亭一門の実質的な俳諧撰集として広く世に問うことなる。
 この翌年の安永二年(一七七三)に、几董は「春夜楼」という俳諧結社を結成し、独自に『初懐紙』と称する歳旦帖を出している。すなわち、几董は、蕪村の夜半亭社中から独立して、俳諧宗匠(点者)の道を歩み始める。
 この几董の独立と歩調を併せ、馬南(大魯)が、大阪で「蘆陰社」という俳諧結社を結成する。馬南(大魯)が俳諧宗匠(点者)となったのは、蕪村よりも早く、明和七年(一七七〇)の在京俳諧宗匠(点者)六十余人中、馬南(大魯)は五十七番目、蕪村は六十四番目で、宗匠(点者)としては大魯が先輩格であるが、その業俳(俳諧を業とする)のままに、蕪村の夜半亭社中に参加し、蕪村を師と仰ぐのである。
 そして、この安永二年(一七七三)に、几董と馬南(大魯)の両吟歌仙一巻を筆頭にした、『蕪村七部集』の第二集に当たる『あけ烏(几董編)』が刊行される。この『あけ烏』は、蕉風復興を志向し、俳諧の新風を世に示すものであった。同時に、几董一門の歌仙二巻が収載され、几董の「「春夜楼」俳諧のスタートを意味するものであった。
 これらの夜半亭一門の几董や大魯の動きと並行して、当時、二十二歳の月渓(松村氏)が蕪村の句会に参加している(『耳たむし』)。それは、その翌年の安永三年(一七七四)からスタートする、「高徳院発句会」から「月並発句会」への衣替えと繋がっている。
 この夜半亭一門の「月並発句会」の連衆(会衆)は、従来からの、「蕪村・几董・田福・鉄僧・自笑・百池・佳棠・我則・五雲・維駒」等の他に、「月渓・道立・柳女・賀瑞・正名・東瓦」等が参加して来る。

 さて、冒頭に掲げた『其雪影(几董編)』の「巴人・几圭対座像」について触れて置きたい。

この右上の画像は、巴人像で、その上に、「郢月泉巴人 後以巴人為菴号 更名宋阿 別号夜半亭」(郢月泉巴人、後ニ巴人ヲ以テ菴号ト為シ、名ヲ宋阿ニ更メ、別ニ夜半亭ヲ号ス)と、説明書きがしてある。その左に、次の巴人の句が記述されている。

 啼(なき)ながら川こす蝉の日影哉

 その巴人に対座しての左下の画像は、几圭像で、その右に、「高几圭 後更名宋是 号几圭菴」(高《井》几圭 後ニ名ヲ宋是ニ更メ、几圭菴ト号ス)と説明書きがあり、左上に次の几圭の句が記述されている。

  凩のそこつはあらでんめ(梅)の花

 巴人像の文台の右下に、「夜半亭蕪村画 門人高几董書」とあり、蕪村が画像を描いて、書は几董筆であることが記述されている。

 実は、この「巴人・几圭対座像」の前に、「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」があり、そこに、次の三句が記述されている。

  古いけや蛙とび込(こむ)水の音   芭蕉翁
  稲妻やきのふは東けふは西      晋其角
  黄ぎく白菊そのほかの名はなくも哉  雪中菴嵐雪

 この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」と「巴人・几圭対座像」とにより、蕪村が継承した夜半亭俳諧は、「芭蕉→其角・嵐雪→巴人→几圭」に連なり、「蕪村→几董」に継承されて行くことを示唆している。この「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」は、次のとおりである。
芭蕉・其角・嵐雪像.jpg
『天明俳諧集(新日本古典文学大系)・岩波書店』所収「其雪影(下巻)」=「芭蕉・晋子(其角)・嵐雪像」

蕪村の絵文字(その九) [蕪村書簡]

(その九)
几董宛書簡2.jpg
『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「六 京師之人心、日本第一之悪性」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「三几董(推定)宛(日付なし)」に、その全文が収載されている。
 この書簡の中ほどに、「名角(なにか)ニ付(つけ)京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」という文言が出て来る。意味は、すばり「何かにつけて京都の人間の心は日本第一の悪性(悪い性質)であります」と、蕪村の強烈な京都人への痛罵なのであろう。
 この蕪村の書簡は、蕪村が夜半亭二世を襲名し、俳諧宗匠の仲間入りをした、明和七年(一七七〇)三月以降の、その蕪村の夜半亭継承に関連する書簡のようである。
 冒頭の「御細書(さいしよ)御厚意之趣(おもむき)相心得候」というのは、「細々としたお手紙、私(蕪村)に対するお心遣いよく承知しました」ということで、「蕪村が夜半亭二世を継承したのは、若い几董に夜半亭三世を継承させるための繋ぎ役なのだ」ということについては、「夜半亭社中で不満に思っている方がおられますから、その点の御配慮をお願いします」というような、几董の書簡の返信のようなのである。
 それに対して、「社中ニ左様之不平をいだき被申候(まうされさうらふ)仁(じん=人)、たれ(誰)ニ而(て)候哉(や)」と、「その不満をいだいている人とは誰なんだ」として、「京師之人心、日本第一之悪性」という文言が続くのである。
 そして、この書簡の後半に、「何ぞ可焉(かえん)・来川(らいせん)が輩」と、「夜半亭一世(郢月泉)早野巴人」に連なる古参俳人の「可焉(上阪氏)」と「来川(来川庵小川由至)」との名が出て来る。

 ここで出て来る「可焉(上阪氏)」は、現在、早野巴人の唯一の墓(詣墓=まいりばか)である京都の俗称椿寺で知られている昆陽山地蔵院の「宋阿早野巴人墓」の建立者なのである。
 夜半亭宋阿(早野巴人)は、寛保二年(一七四二)六月六日、江戸日本橋石町で没する(享年六十七)。当時、宰鳥を名乗っていた門人蕪村は二十七歳の夏である。宋阿(巴人)は浅草幡随院門前の即随寺に埋葬された。その即随寺は、文政年間の火災及び関東大震災によって打撃を受けて、千葉県市川市に移転していて、過去帳は遺っているようだが、墓碑は不明のようである(『与謝蕪村の俳景―太祇を軸として― 谷地快一著・新典社』所収「京都の早野巴人墓碑覚書―俳諧寺可焉と蕪村」)。
 寛政九年(一七九七)刊行の『誹諧家譜後拾遺』で、可焉について「明和九年(一七七二)九月十三日没 年七十五」とか(『谷地・前掲書)、それで生年を逆算すると、元禄十年(一六九七)生まれ、彭城百川と同じ年ということになる。いずれにしろ、蕪村よりも相当年配な、京都在住時代の早野巴人門下の一人であることは間違いない。
 宋阿(巴人)が江戸を出立して上洛したのは、享保十年(一七二五)の、五十歳の頃で、再び、江戸に帰って来たのは、元文二年(一七三七)、六十二歳の時である。従って、宋阿(巴人)の関西(主として京都)移住は、十二年間程度で、この京都時代に、宋屋(富鈴)と几圭(宋是)とが、巴人門の高足である。
 宋屋は、望月氏、初め百葉泉・富鈴・机墨庵などを号とした。宋阿(巴人)帰東後は一門を率いて、淡々系俳家など他流と広く交際し、京俳壇の一方の雄となっている。門人も多く、嘯山(三宅氏)・武然(望月氏)・蝶夢(睡花堂・五升庵・泊庵)など、宋屋後もそれぞれ一派を成している。
 几圭は、高井氏、庵号は郢月居(巴人の庵号の郢月泉と関係があるか)、薙髪して宋是を名乗る(これも巴人の別号の宋阿と関係があるか)。蕪村の後継者となる几董は、几圭の次男で、几董の初号は雷夫である。
 京都椿寺の地蔵院に在る「宋阿早野巴人墓」の建立者の可焉は、宋屋よりも几圭に近い俳人のように思われるが、蕪村が夜半亭二世を継承した明和七年(一七七〇)当時には、宋屋(明和三年=一七六六没)も几圭(宝暦十年=一七六〇)も亡き京都の巴人門の中では、最古参の俳人の一人だったのであろう。
 そして、蕪村は、「愚老ひろめの事(文台開きの事=宗匠になったことを世間に知らせる儀式)も、滞りなく相済み候間、御安心下さるべく候」(明和七・一七七〇年三月二十二日付の召波宛書簡)と、宋阿(巴人)没後二十八年の後に、夜半亭誹諧が京都で蘇ったのであるが、その夜半亭継承に関連しては、いろいろと複雑なことがあったのであろう。
 この蕪村が夜半亭誹諧を継承した明和七年(一七七〇)から可焉が没した明和九年(一七七二)の、この二年間という短い期間前後に、可焉は、「宋阿(巴人)敬慕の墓守を自らに命ずる意味で俳諧寺を名乗り、詣墓を建てた」とする推測も十分に成り立つであろう(『谷地・前掲書)。
 なお、この可焉について、『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、
「安永三年=一七七四没」「上坂(『誹諧家譜後拾遺』)氏は上阪氏の表記」と、『誹諧家譜後拾遺』とは違った記述をしている。

 ここで、明和七年(一七七〇)の蕪村の夜半亭継承について、別な観点からすると、次のような環境にあったということが言えるであろう。

一 宋阿(巴人)俳諧の継承者の第一は、宋屋であったが、宋屋は、明和三年(一七六六)に没し、その宋屋誹諧は、宋屋の高足の武然(望月氏)に引き継がれている。
二 この宋屋に次ぐ几圭は、宝暦十年(一七六〇)に没しているが、生前に、宋阿(巴人)の別号である「郢月泉」に因んでの「郢月居」を別号としており、その几圭誹諧は、遺児の几董が引き継ぐとすると、几董が、宋阿(巴人)俳諧の、「郢月泉」なり「夜半亭」を継承することは一つの自然の流れであろう。
三 明和七年(一七七〇)当時、宋阿(巴人)の「夜半亭」の継承者としては、江戸と京都の巴人門の中で、蕪村より年長者の結城の俳人雁宕(砂岡氏)が健在であったが(安永二年=一七七三没)、雁宕は江戸俳壇関連の人で、京都俳壇とは極めて遠い存在で、「夜半亭」の継承者としては、やや難点があったことであろう。
四 明和六年(一七六九)に、『江戸廿歌仙』(湖十等編)に比すべく『平安二十歌仙』(三宅嘯山等編)が刊行され、その発句の部(「追加 四季混雑」)で、その筆頭に蕪村の四句が収載されている。この『平安二十歌仙』は、太祇(紀逸門)・嘯山(宋屋門)・随古(巴人門)の三吟二十巻が主たるもので、発句には、太祇(四句)、嘯山(四句)、随古(二十二句)と、最も句数が多いのは随古(湯浅氏)で、この三人が当時の京都俳壇の最右翼に位置していたのであろう。そして、この三人は、当時の蕪村と親交が厚く、特に、太祇は、当時の蕪村の三菓社句会の実質的なリーダー格的な役割を果たしていた。この三人は、蕪村の夜半亭継承に大きな役割を果たしたであろうことは、想像するに難くない。
五 この『平安二十歌仙』の発句の部にも、「可焉・来川」の名は見られない。また、几董の亡父几圭十三回忌を早めて、明和九年(一七七二)に刊行した、蕪村七部集の筆頭を飾る『其雪影(几董編)』にも、その名は見られない。そして、この『其雪影』こそ、夜半亭二世蕪村とその三世を引き継ぐことが約束されている几董とが、世に問うた第一の俳諧撰集ということになろう。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、蕪村が「京師之人心(けいしのじんしん)、日本第一之悪性(あくしやう)ニ而(て)候」と痛罵したのは、生粋の京都人の几董宛て書簡の中であり、当時の夜半亭誹諧(三菓社社中)の主だった面々(随古・召波・烏西・峨眉・図大・田福・百池・鶴英・子曳・自笑・鉄僧・杜口・馬南=大魯・維駒・郢里等々)の殆どが、京都人であることに鑑みると、故郷喪失者(「浪速江近きに生を享け、若くして江戸放浪の身となり、京に定住しても余所者意識の強い、帰るべき母郷と決別している「故郷喪失者」)としての、「やるかたなきよりうめき出(いで)たる実情」(安永六・一七七七年二月二十三日付、柳女・賀瑞宛書簡)の吐露に近いものであったという思いを深くする。

早野巴人墓.jpg
京都・俗称椿寺で知られている地蔵院の「宋阿早野巴人墓」
左側=墓碑(正面に「宋阿墓」、碑影に「こしらへて有とはしらす西の奥/俳諧寺可焉建之)
右側=記念碑(側面に「巴人晩年宋阿ト号ス其角ノ門人ニシテ蕪村ノ師ナリ享保ノ中頃京ニ来往後江戸ニ帰リ寛保二年六月六日歿享年六十七/昭和七年七月 藤井紫影)

蕪村の絵文字(その八) [蕪村書簡]

(その八)

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『蕪村の手紙(村松友次著)』所収「一九 へんしう(偏執)多き人心」

 『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)岩波文庫』では、「一三〇几董宛(安永九年)」に、その全文が収載されている。

 上記の書簡中の、「只さへへんしう(偏執)多き人心(ひとごころ)に候」というのは、「只でさえ偏見我執の多いのが人間の常ですが」というような意で、次の「こと更(さら)尾(び)の輩などハ何がな疵(きづ)を見出し候にてあしざまニ沙汰せんと、手ぐすミいたし居(をり)候おもむきニ候」に掛かるのであろう。

 この「尾(び)」とは、暁台の尾張俳壇を指していることは言うまでも無い。暁台と几董では、十歳程度、暁台が年長である。そして、几董は、夜半亭二世蕪村が、その生前に夜半亭三世を継ぐことを宣言している、巴人→蕪村と続く「夜半亭俳諧」の正統な継承者なのである。

 蕪村が没したのは、天明三年(一七八三)十二月二十五日の未明、明けて天明四年(一七八四)の春、几董は、蕪村追悼集『から檜葉(几董編)』を刊行し、その十二月二十五日に、『蕪村句集(几董撰)』を刊行する。

 さらに、天明五年(一七八五)に、夜半亭二世与謝蕪村が、生前に、師の夜半亭一世早野巴人の『一夜松』に倣い『続一夜松』を編纂しようとして叶わなかったことに思いを致し、義仲寺で薙髪して江戸に下り、当時の日本俳壇のトップに位置していた大島蓼太の推薦を得て、夜半亭三世を継承し、その冬に、『続一夜松』(『前集』「序」=蓼太、「跋」=自跋、『後集』「序」=重厚、「跋」=道立、『後集』の刊行=天明六年)を刊行し、それらを北野天満宮に奉納する。

 ここに、名実共に、夜半亭俳諧は、二世蕪村から三世几董へと引き継がれることになる。
この夜半亭俳諧の継承には、蓼太と共に大きな勢力を形成していた暁台との関わりは見られない。その背景には、蕪村の、この冒頭の書簡に見られる、暁台俳諧に対する名状し難き感情の縺れが、蕪村の継承者の几董へと引き継がれている思いを深くする。

 安永二年(一七七三)当時の、蕪村が暁台と初めて接した頃は、蕪村は暁台を「百世の知己」「実にはいかい(俳諧)の伯楽」「丁寧家懇情の人」とまで評価し、期待をかけていたのだが、この書簡の安永九年(一七八〇)の頃には、「へんしう(偏執)多き人心/こと更(さら)尾(び)の輩」と不信感を露わにしている。

 この不信感は、「暁台を批判する蕪村書簡」(大阪俳文学会会報第二十号、昭和六一年九月)になると、「なごや(名古屋)のはいかい(俳諧)けしからぬ物に相成候」「いやみの第一」「むねの悪き事」「目も当らぬ次第にて候」「暁台もいけぬものに候」とまで増大して来る。

 しかし、表面的には、この蕪村の暁台に対する不信感は顕現化せず、天明元年(一七八一)十月には、蕪村は暁台編の『風蘿念仏』の「序」を書き、亡くなる天明三年(一七八三)三月の「洛東安養寺及び金福寺における暁台主催芭蕉百回忌取越し追善俳諧興行」に全面的に支援し、蕪村の夜半亭一門と暁台の尾張一門との交流は絶えることはなかったのである。

 そして、その年の暮れ、十二月二十五日に蕪村が没するや、明けて天明四年(一七八四)一月二十五日、暁台は尾張より急遽上洛して、洛東金福寺の本葬に参列し、追悼の辞を草する共に、夜半亭一門との一順歌仙を霊前に手向けているのである。

 この蕪村の夜半亭一門と暁台の尾張一門との交流の影の立役者は、蕪村と暁台の両巨匠に絶大なる信頼があった、寺村百池の存在を抜きにしては考えられないであろう。それは、蕪村没後も、暁台の信任は厚く、また、蕪村の後継者几董亡き後も、同門中で重きを成している一事を取っても、容易に窺がい知れるところである。

 それは、「堺屋」を背景とする豊富な財力や経営力と共に、自筆の『大来堂句集(十一巻)』に見られる穏健清雅な句風、そして、蕪村の句稿をまとめた「落日庵句集」「夜半叟句集」、さらには、夜半亭一門の句筵控えの「夏より」「高徳院発句会」「月並発句集」「紫狐庵発句集」「耳たむし」などの稿本(『蕪村全集三 句集、句稿・句会稿』に収載されている)などを目にする時、蕪村と蕪村一門の俳諧の中で、百池が果たした役割というのは、想像を絶するものがある。

 百池は、晩年薙髪して「紹賀・大来堂・微雨楼・九隠斎・閑柳亭・竹外」などと号したが、その晩年の百池像は下記のとおりである。

寺村百池肖像2.jpg
(晩年の薙髪後の「寺村百池肖像」=早稲田大学図書館蔵)