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「風神雷神図」幻想(その一) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)

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河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治十四年(一八八一)以降 双幅 絹本着色 ボストン美術館蔵 各一一四・三×三五・五cm 

【 本図は虎屋本(次図)と風雷神の左右が逆で、琳派系の配置となっている。金泥まで使った彩色も施され、風神の輪郭線はことさら強調されている。風神の下方には強風に舞い散る紅葉が描かれ、雷神には金泥で小鼓が描かれ、稲妻も金泥や朱を取りまぜて描かれる。風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもので、雷神の小鼓や稲妻に金泥を使うのも探幽本にみられる。両神の背景に渦巻く暗雲の表現は墨のにじみを効果的に使っている。 】 『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 これは、「ボストン美術館蔵」のもので、上記の「作品解説」にある「虎屋本」(虎屋文庫蔵)は、次図のものである。次図のものは、明治四年(一八七一)以降の制作で、上図のボストン美術館蔵よりも早い時期のものである。この明治四年(一七八一・四十一歳)の年譜
(『安村敏信監修・前掲書』所収)に、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される」とあり、これらの「風神雷神図」は、その前年の「書画会」で描いたものが、「貴顕を嘲弄する」としての「筆禍事件」と、何らかの関係があるような雰囲気を有している。

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河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm

【 風神雷神は古来より描かれてきたが、我が国で絵画化されたものとして有名なのは俵屋宗達による二曲屏風である。風神が向かって右に、雷神が左に描かれるが、狩野派では探幽以来、風神を向かって左に、雷神を右に配してきた。本図は風雷神の配置は狩野派のものだ。抑制された描線と墨のデリケートな濃淡によって異形神の出現の場の劇的雰囲気を作り上げている。風神の口元が迦楼羅(かるら)のようにとがっているのが珍しい。 】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 まず、この虎屋本のものから見て行くと、「風雷神の配置は狩野派のもの」(雷神=右、風神=左)ということに注目したい。
暁斎が、「筆禍事件」を引き起こしたのは、明治三年(一八七〇・四十歳)の時で、年譜には、「十月六日、俳諧師其角堂雨雀主催の書画会が、不忍弁天の境内にある長駝亭で開催され、暁斎(当時・狂斎)も出席。この席で酒に酔って描いた戯画が、貴顕を嘲笑するものとみなされて捕らえられ、大番屋へ入れられる。入牢中、酷い皮膚病にかかり、一時釈放されるが年末に再入牢。」とあり、この時の入牢中のことを、晩年(明治二十年=一八八七、五十七歳)になって、その『暁斎画談(瓜生政和編著)』に、その挿絵図を描いている。

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暁斎画談. 内,外篇 / 河鍋洞郁 画 ; 瓜生政和 編 (外編巻下)
早稲田大学図書館 (Waseda University Library)

 この『暁斎画談』の「河鍋洞郁 画」の「洞郁」とは、嘉永二年(一八四九、十九歳)時年譜の、「師洞白陳信から、『洞郁陳之(とういくのりゆき)』の号を与えられ、異例の若さで修業を終える」との、駿河台狩野派における、暁斎の画号なのである。
 そして、明治四年(一八七〇、四十一歳)の年譜に、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される。五~十月、修善寺温泉で静養。沼津の母を訪ねる。(中略)筆禍事件以降、号を『狂斎』から『暁斎(きょうさい)』に改める」と、入牢していた暁斎を引き取ったのは、駿河台狩野派(狩野洞栄、後に洞春)なのである。また、それまでの号「狂斎」を、以降、「暁斎」に改めているのである。

 これらの暁斎の年譜と、上記の虎屋蔵の「風神雷神図」を重ね合わせると、さまざまな、連想・幻想が沸き起こって来る。それらの一端を記すと、次のとおりである。

一 この水墨画の「風神雷神図」は、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄が背景にあり、その投獄の体験は、暁斎にとって強烈且つ過酷のものであり、これまでの前半生とこれからの行く末を決定づける大きな要因で、大きな節目の事件であった。

二 それは、自己の泥酔による一時の即興画(席画)が、これほどの事件になったことの、
痛恨なる自己否定と自己嫌悪の果てに、それを克服する唯一の方途として、その原点に位置する、暁斎が修業時代の全てをかけた、「駿河台狩野派」の画法を、以後の自分の道標とすることの決意表明こそ、この墨一色の「風神雷神図」であるという思いを深くする。

三 そして、それは、この「風雷神の配置」が、「雷神=右、風神=左」の、「狩野派伝来のもの」ということと、これまでの、「狂斎」という号を棄てて、新しく、「醒々(せいせい)暁斎(きょうさい)」と改号したところに、暁斎の、この「風神雷神図」に込めた意気込みというのが、その「抑制された描線と墨のデリケートな濃淡」によって、見事に表現されていることと軌を一にするということに他ならない。

四 翻って、狩野派というのは、その祖、狩野正信(初代)、古法眼元信(二代)以来、漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法を、その基礎に据えており、この暁斎の「風神雷神図」は、その狩野派の基礎中の基礎の、水墨画法を踏まえて、その基礎の上に、暁斎ならでの、「考え抜かれた構図」と「絶妙な墨の濃淡」に加えて、何らかの趣向を施しているところに、歴代江戸狩野派の絵師の中でも、群を抜いた異色の絵師として位置づけられる。

五 ずばり、この「風神雷神図」の、暁斎ならでは趣向とは、左図の「風神図」の「風神」が、異色の「迦楼羅(かるら)」(一切の悪を食い尽くす、天駆ける聖なる鳥の化身)の風姿であることと、その風神が、吹き飛ばそうとしている、「洞(ほら)のある老木の幹とその枝葉」が、「宗達→光琳→抱一→其一」等々の「風神図」とは、まるで異質の世界を構築しているという、この二点にある。

六、ここで、この老木は何の樹であろうか? → これは、その枝葉の風情から、ずばり「柳」
であろう。そして、暁斎は、この「風神図」に、「柳に風」(柳が風になびくように、逆らわない物は災いを受けないということ。 また、相手が強い調子であっても、さらりとかわして巧みにやり過ごすことのたとえ)の姿勢を託していると解したいのである。

七 そして、この老木の「洞(ほら)」は、暁斎の狩野派の師の、駿河台狩野派の亡き「洞白」とその後継者の「洞栄(後に洞春)」を示唆しているのであろう。すなわち、暁斎は、自分の後半生は、駿河台狩野派に腰を据えて、その「柳に風」の「柔軟性としなやかさ」を信条としたいとう決意表明と解したいのである。

八 と同時に、この老木の「洞(ほら)」は、その「筆禍事件」に絡ませば、これは「落とし穴」(姦計)のような意味合いも、暁斎の、意識、無意識のうちに、そういうものが、ここに込められているような、そんな感じを濃厚に受けるのである。

九 とすると、この「風神」の「迦楼羅(かるら)」は、時の明治政府の、その前世の江戸幕府以来の、「綱紀粛正(倹約令・風俗取締り・庶民の娯楽に制限・出版の規制)」等々の、
時の官憲の「文化統制」の象徴としての、「竜を食う獰猛な大怪鳥」そのものと化して来る。

十 ここで、右図の「雷神図」に焦点を当てると、それは、不動明王(大日如来の化身で、悪魔を退散させ、煩悩や因縁を断ち切って人々を救う仏様)の化身であると同時に、赤裸々な、時の明治政府の、身の毛もよだつような、「人権蹂躙」の、その鉄槌のような「鬼」の形相を呈して来るのである。

十一 暁斎は、狩野派流の肉筆画、浮世絵風の肉筆画、歌川国芳の流れを汲む錦絵(浮世絵版画)、縦横無尽の滑稽と諷刺に満ちた戯画・漫画、そして挿絵画の類、果ては、春画の類まで、その多方面のマルチアーティスト振りは、「とてつもない絵師」というネーミングが最も相応しい感じで無くもない。しかし、その中にあって、この「風神雷神図」のように、暁斎の最も中核に位置するものは、狩野派流の水墨画であるという思いを深くする。

十二 暁斎の世界は、しばしば、「二重性の世界」と呼ばれる場合があるが(『反骨の画家 河鍋暁斎(狩野博幸・河鍋楠美著)』所収「正統と異端を同時に生きた画家」)、それは、「正統(体制派)と異端(反体制派)」「狩野派(本画派)と歌川派(浮世絵派)」「江戸(近世)と東京(近代)」等々の、「二重性」を宿していることに他ならない。

十三 この「風神雷神図」で、その「二重性」に焦点をあてると、これは、全体として水墨画という「正統(体制派)」の世界ということになる。そして、この「正統(体制派)」の世界の中に、通常、鬼の風姿からなる「風神」を、異色の烏天狗のような「迦楼羅(かるら)」をもって来たところに、暁斎の「異端(反体制派)」の世界が垣間見えて来るということになる。

十四 そして、この「二重性」(あるいは「二律背反性」)を、一つの整序性のある造形の世界を現出している最大の要因として、暁斎の類まれなる「筆力」ということが、その根底を為している。すなわち、暁斎にとって、凡そ、「表現する」ということは、「言葉・文字」等より、より、「筆」による「絵(スケッチ)」でするという、これこそ、「とてつもない絵師」の正体なのである。

十五 暁斎の「日記」は、文字による日記ではなく、「絵日記」である。しかも、それは、「筆」一本で為されている。その「絵日記」の一端は、次のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288439?tocOpened=1

十六 また、暁斎の「画談」というのは、これまた、文字によるものは、他人に任せて、ひたすら「絵」で表現しようとしている。その「暁斎画談」の一端は、次のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850342

十七 ここで、「暁斎絵日記」に頻出して出て来る「鬼」(「稚鬼」「狂鬼」「乱鬼」「酒鬼」
等々)は、己の分身の自画像かと思いしや、どうやら、出入りの「経師屋・高須平吉、通称・鬼平」が一番多いらしい(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「鬼・狂(暁)斎(北森鴻稿)」)。

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河鍋暁斎の1888年(明治21年)2月の絵日記

news.livedoor.com/article/detail/12666262/

 この上図の「鬼」は「平」との漢字が付されており、紛れもなく、「経師屋」の「鬼平」なのであろう。暁斎にとって、「鬼」は、決して「虚構」の大それたものではなく、極めて身近な「日常の現実」の自己・知己の分身ということになる。そして、ここにも、「虚」と「実」との「二重性」の世界が現出されて来る。

十八 そもそも、暁斎は、七歳の時に、反骨精神の旺盛な浮世絵の大家・歌川国芳門に入り、国芳から「奇童」と呼ばれ、その薫陶を受けた。さらに、十歳の時に、駿河台狩野派の前村洞和門に入り、洞和が病気になったため、洞和の師の、駿河台狩野洞白に入門する。そこで、洞白から、「餓鬼(がき)」ならず「画鬼(がき)」のあだ名を頂戴し、爾来、駿河台狩野派の絵師としての道を歩むことになる。

十九 とすると、この「風神雷神図」の、「迦楼羅」の形相の「風神」は、暁斎を「奇童」と呼んだ、浮世絵師の「国芳」、そして、狩野派最大の絵師といわれる狩野探幽の「雷神」の形相に因み、暁斎を「餓鬼」と呼んだ、探幽の養子の狩野洞雲に連なる、狩野派の絵師「洞
白」を、この「雷神」と見立てることも、一つの見方であろう。

二十 とにもかくにも、墨一色の、この水墨画「風神雷神図」は、「醒々狂斎」を返上して、「醒々暁斎」を名乗った、明治四年(一八七一・四十一歳)、不惑の年の頃の作品と解し、
暁斎の作品の中でも、極めて、キィーポイントとなる、傑作画の一つと解したい。
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