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芦雪あれこれ(海浜奇勝図屏風) [芦雪]

(その十三)海浜奇勝図屏風

芦雪・山水図屏風.jpg

海浜奇勝図屏風(芦雪筆)六曲一双 メトロポリタン美術館蔵
各一五四・六×三五六・〇

「この屏風が今や日本に存しないことに複雑な気分になる。ある時期まで、茶や禅だけを日本の美の核とする(今もつづいている)錯覚のあることが、たとえばこうした作品を喪わせたのである。金地屏風を前にして墨色によって奇景を描くことは、痩せ枯れた美とは相対するものと思われたに相違ないが、日本美は厳然としてここにあるのだ。」
『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「海浜奇勝図屏風(狩野博幸稿)」

「芦雪画の魅力(狩野博幸稿)」(『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収)は、次の九つの視点から記述している

一 対比 二 型破り 三 空間構成 四 生命観 五 律動 六 表現の冒険 七 即筆 八 自由の絵画 九 抒情の真実

 この「海浜奇勝図屏風」は、「五 律動」の中で取り上げられているが、この作品を通して、上記の九つの視点から、芦雪画の魅力・特徴を次の通り説明することも可能であろう。
(なお、次の記述の『』の記述は、「芦雪画の魅力・狩野博幸稿」を引用している。)

一 対比 

 芦雪画の魅力・特徴の第一は、『黒と白、大と小、高さと低さ、漲(みなぎる)る力とフット力を抜いたすがた』など、その対比の妙にある。この絵ですると、上段の「左隻(落款のある隻)」の「動・ダイナミック」と下段の「右隻」の「静・スタティック」ということになろう。

二 型破り

 『型破り、とは伝統を無視することだ。もっというならばあたかも伝統を無視するように動くことであろう。』 この「型破り」とは「意表を突く」という言葉に置き換えても良かろう。この「左隻」の「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山、その豪快な筆さばきは、まさに「度肝を抜く」という言葉がより適切であろう。そして、小さな小舟に小さな五人の人影も、やはり「奇(型破り)」という言葉が適切であろう。それに比して、この「右隻」の穏やかさ、そして、やはり人家に「老師と三人の若き人影」も、やはり「奇(型破り)」で、それは「新」に連なるということを意味するのかも知れない。
 なお、冒頭の作品解説(「海浜奇勝図屏風(狩野博幸稿)」)の「『茶と禅を基調とする日本文化』=『痩せ枯れた美』」(伝統)に相対する「奇(型破り)は新なり」(革新)の解説は、この「型破り」に多く由来している。

三 空間構成

 『粗野と精緻を一つの作品で表現し尽した屏風絵は、応挙師匠一途の弟子たちの精神世界では、生まれるはずもない画境というほかはない。』 ここで言う「粗野と精緻」というのは、応挙風の写実主義(写生主義)の見地からすると「粗野と精緻」ということなのであろう。この「海浜奇勝図屏風」ですると、「左隻」が「粗野」、そして、「右隻」が「精緻」の世界で、その「対比」の世界は、応挙門ではタブーであったのであろう。しかし、芦雪は敢えて、そのタブーに挑戦する途を選んだのだろう。芦雪の「対比」「型破り」は、すべからく、芦雪の「空間構成」(「空間マジック」)の巧妙さに由来する。「右隻」そして「左隻」の、それぞれの「空間構成」の凄さ、そして、「右隻」と「左隻」とが一体となっての「空間構成」の凄さは、まさに、芦雪の独壇場の世界であろう。

四 生命感

 『応挙の膨大な数の弟子たちのなかにあって、芦雪が孤立していたことは疑いようがない。芦雪自身は《孤立》を恐れなかったが、その芦雪の《孤立》自体を《社会的存在》と化していた円山派の画家たちが許すはずはなかったのである。《自由》こそが十八世紀京都画壇のレゾン・デートル《存在理由》であったのに、円山派そのものが体制へと変貌した。』
 この前に、『応挙を筆頭とする写生画派』という言葉が出て来る。この「写生」の「生」を「生命感」と捉えると、応挙も芦雪も他の応挙門の全てが、この「生命観」を描出することに専念した。そして、応挙が追及したものは、目に映る外的な「生命観」で、目に見えない内面的な「生命観」は、拠雑物として排斥した。そして、応挙門の多くが、師の応挙の、この姿勢に追随したが、芦雪は、応挙の姿勢を足掛かりにして、応挙門ではタブーの内面的な「生命観」の世界をも、自己の造形の世界に取り入れようとした。
 それが、芦雪の「対比・型破り・空間構成」等々で、それらが応挙の世界からすると逸脱した世界ということになろう。
 「海浜奇勝図屏風」でするならば、この「左隻」の「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山は、「悪画」(「己れ一人と心得て慢心になり、画はいよいよわるくなり」=『書画聞見集《応挙門・東東洋からの聞書き集=澹斎編》』)の見本とされ、あまつさえ、「芦雪は困窮して大阪で首をつった」などの流言すら、この書により喧伝されることになる。
 しかし、芦雪は、決して、反「応挙」ではない。応挙の目指したものは、「写生」(生を写す)から「写実(生の実を写す)=生命感」であり、芦雪は、その応挙が追い求め続けた「写実(生の実を写す)=生命感」の世界へ一歩踏み出した画人であったような感じで無くもない。

五 律動

『芦雪が求めつづけたのは絵の安定性というものではなかった。そのことは、ここに掲げる二つの屏風(「白梅図」=省略「海浜奇勝図」=冒頭に掲載)を眺めるだけでも明らかではないか。』
 「生命感」と「律動」とは密接不可分のものである。それを洞察したのは、芦雪であった。それが、冒頭の、この「海浜奇勝図屏風」ということになる。

六 表現の冒険

『絵を描く、とはどんな意味を持つのだろうか。中国では昔から詩作と画作とは同じことだとして、詩は形のない絵、絵は音のない詩と永くいいつづけられてきた。』
 この「詩は形のない絵、絵は音のない詩」というのは、「詩は有声の絵、絵は無声の詩」の方が分かり易いかも知れない。そして、その「詩画一体」の世界を目指したのが、蕪村や大雅の文人画が世界であった。
 しかし、芦雪が目指したのは、応挙門の絵画の世界で、それは造形の世界であった。その造形の世界で、「形を造る」基本の「写生」から「写実」、そして、さらに「写意」(表現主義=「外形の印象から進んで内面の心の表現)へと弛まざる冒険(試行)の軌跡でもあった。
 この「海浜奇勝図屏風」で説明すれば、この「左隻」の、「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山は、芦雪の抑え難き「心象風景」以外の何物でもなかろう。この芦雪の「心象風景」を理解した人は、立場の相違はあれ、造形の世界の「絵画の自律性」を弛まず追求し続けた、芦雪の師の応挙只(ただ)一人のみという印象を深くする。

七 即筆

 「即筆」「席画」「画家のパフォーマンス」については、先に、「牧童吹笛図」(その十一)で触れた。「即筆」とは「『席画』などの、あらゆる場所で、あらゆる作画の要求に、瞬時に対応出来る画人としての実力」を指しての造語的なものであろう。そして、芦雪は、その「指頭画」など、抜群の「即筆」の達人であった。

八 自由の絵画

 十八世紀の京阪地方の「自由」なる文化的風土について、これまた、「牧童吹笛図」(その十一)で触れた。それは、造形という世界に限れば、画家の自由な表現意欲を湧きたたせ、その意欲に駆られた画家同志の切磋琢磨する風土と、それを支えるサロン的風土が構築されていたということに他ならない。そして、芦雪に限れば、それは、芦雪の「自在なる心」を揺さぶるものであったろう。
 この「海浜奇勝図屏風」の、この「左隻」の「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・岩山は、それを自他(他は一部の許容者)共に認めた象徴的な作品ということになろう。

九 抒情の真実

 『芦雪は、本来、抒情的感性をそれこそ豊穣にもっていた画家である。しかし、その感性にそのまま素直に表現してしまうほどには、かれの自意識は余りにも強烈すぎた。』
 「抒情」の説明は、夏目漱石の『草枕』ですると、「知・情・意」の、芦雪の本質は「情」の画人ということになろう。それに比して、芦雪が心酔し、絶えず、その鏡とした師の応挙は、「情」を殺して、「知・意」に徹した画人ということになろう。
 この相克の狭間の軌跡が、芦雪の画業の全てであったのかも知れない。
さて、この「海浜奇勝図屏風」で、芦雪の「抒情の真実」を端的に語っているものは何か(?)
 それは、いろいろな答えがあろうが、ずばり、「左隻」の「芦雪の世界」と、「右隻」の「応挙の世界」とを結びつける、「右隻」の、左側の三扇(面)の「余白と落雁(?)」の、この『あわい』(ほのかな)の「姿影」に、芦雪の『抒情の真実』の一部が発露しているように思われる。

 さて、「芦雪画の魅力・狩野博幸稿」の九つの視点に、もう一つ、「遊びこころ」を加えたい。

(十)遊びこころ

 この「海浜奇勝図屏風」(左隻)を見て、芦雪特有の「度肝も抜く・驚かせる」のパフォーマンス(作為)過剰と共に、その巨大さに対する微細な帆船の人物像などを見ると、どことなく芦雪特有の「遊びこころ」とか「おかしみ」のようなものが伝わって来る。
 人によっては、これを「慢心」とか「見せびらかしている」とか、否定的に受け取る向きも出て来ようが、こういう性向は、芦雪の生来的な気質から来ているようにも思えるのである。
 そして、この種の「遊びこころ」や「おかしみ」というのを、拠雑物として極度に拒絶する芦雪の師の応挙が、芦雪に陰に陽に諭すなどしたことが十分に窺えるが、芦雪にとっては、それは、抑えがたいものとして、応挙の教え通りにはならなかったのであろう(こういうことが重なって、芦雪の応挙門破門に関する逸話などが伝えられているのであろう)。
 こういう視点から、「右隻」の人物像を見ると、老師が一人の弟子を叱咤し、それを二人の弟子が見ている図のようにも取れ、この老師が応挙、そして、叱咤されているのが芦雪のように思えて来るのである(そういう芦雪の潜在的・無意識的なものが、その芦雪の「遊びこころ」などを通して伝わって来るというのが不可思議なのである)。

補記

一 「この屏風が今や日本に存しないことに複雑な気分になる」『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「海浜奇勝図屏風(狩野博幸稿)」ということについては、明治維新後の「神仏分離令」などによる「廃仏毀釈運動」などと大きく関係しているのであろう。これにより、若冲の「動植綵絵」(三十幅)が五山の相国寺から「宮内庁三の丸尚蔵館」へと渡った経緯などと同じようなことが、その背景にあるように思える。

二 この「海浜奇勝図屏風」を、「山水唐人物図屏風」としているものも目にするが、水墨画の山水画(風景画)」という範疇でネーミングするならば、上記の「右隻」「左隻」の「六曲一双」としては、後者の「山水唐人物図屏風」がより適切なのかも知れない(「メトロポリタン美術館」では、このネーミングなのかも知れない)。 

三 この「海浜奇勝図屏風」(左隻)の、この「奇抜・奇形・巨大」な岸壁・洞窟・岩山などは、例えば、永徳の父・狩野松栄が大徳寺(聚光院)の襖八面に描いた「瀟湘八景図」の、次のようなものが、芦雪のイメージにあったのかも知れない。

松栄.jpg
狩野松栄筆「瀟湘八景図」(襖八面)「部分図」(大徳寺・聚光院蔵)

四 落款の「蘆雪」の「蘆」を「くさかんむりを二つの点で表す署名は、寛政十年(一七八九)の『大仏殿炎上』(その六)と同じ」(『もっと知りたい長沢蘆雪(金子信久著)』)とすると、この作品は、芦雪の亡くなる一年前の作ということになる。

五 「芦雪の死と墓所」について、次のとおりの記述がある(『もっと知りたい長沢蘆雪(金子信久著)』)。

[ 芦雪が、寛政十一年(一七九九)六月八日に四十六歳で没したことは、墓所、回向院(京都市上京区)の過去帳から明かである。死因は不明だが、毒殺や自害の伝聞が、相見香雨『蘆雪物語』に記されている。同年の八月に皆川淇園が記した「書安喜生得小幅五百羅漢事(『淇園文集』巻十一)には、浪華に客遊中に没し、芦雪が描いた小幅「五百羅漢」を彼の地(大阪)の墓のある寺に納めた、とある。つまり、芦雪の墓は大阪と京都にあったわけだが、大阪のそれは、東高津(天王寺区)の直指庵だったといわれる。交流のあった斯経慧梁(しきょうえりょう)の庵だが、今はなく、芦雪の養子、芦洲が天保九年(一八三八)四十周忌にあたる年に再建した墓石も、明治三十四年(一九〇一)以前に近くの天龍院に移されている。また、それとは別に、芦洲らがやはり天保九年に建てた碑が、長楽寺(京都市東山区)にある。 ]


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芦雪あれこれ(孔雀図) [芦雪]

(その十二)孔雀図

孔雀図.jpg

孔雀図(芦雪筆)一幅 絹本着色 静岡県立美術館蔵
寛政後期(一七九四~九九) 一八五・〇×九七・〇cm

「牡丹の花咲く岩の上に鎮座する孔雀は、応挙も得意とする吉祥画である。だが、芦雪のこの絵においては、さまざまな鳥ばかりか、蝶も配され、もっと目を凝らせば蟻までも描かれている。こうした画家としての態度が、江戸の洋風画の小田野直武のたとえば「不忍池」と通底していることは注目しておいてよい。東洋の吉祥画としての花鳥画を逸脱するものとして蟻のすがたがある。」
『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「孔雀図(狩野博幸稿)」


 この絵の蟻は何処に描かれているか? 右下の地面を見ている雉のような鳥の周辺、その脇に、小さな雀が居る。その雀が蟻を見ている。その右脇の二輪の白牡丹の下にも蟻が居る。雉が見ているのは、ミミズクなのかも? その脇に蜘蛛も描かれているような感じ? 白蝶は一匹、中央の真上、画面が切れる間際に、確かに描かれている。

 「孔雀・さまざまな鳥・雀・紅牡丹・白牡丹」、どれも、応挙風の花鳥画だが、仔細に見ると、孔雀の羽の紋様も、牡丹の花や葉など、応挙をひたすら模写していた初期の芦雪のそれとは(下記の「牡丹孔雀図屏風」)、様変わりしている。全体に、応挙の写生的緻密さよりも、簡略・軽快の流れるような自在さと写意的要素が感知される。

孔雀・初期.jpg

牡丹孔雀図屏風(芦雪筆) 二曲一双 紙本着色 天明二年(一七八二)
一六六・九×一八四・六cm  プライスコレクション蔵

「応挙の模写的な作品の細部に芦雪らしい変容が現れる。明和八年(一七八二)に応挙が描いた大幅「牡丹孔雀図」(相国寺焦天閣美術館蔵)から雌孔雀を省略し、牡丹の色をわずかに変えた以外ほぼ同じ図様である。芦雪は孔雀の羽の先を模様のように描き、牡丹の花びらの輪郭を強調し、より装飾的な画面としている。岩も応挙とほぼ同じ形だが、うろの部分をより暗く表して太湖石の奇形を強調し、緑青の点苔がアメーバ状に不気味に広がる。応挙の旧円満院「牡丹孔雀図」のパターンは円山派、四条派を主としたその後の京都の画家たちに受け継がれるもので、芦雪も「百鳥図屏風」などに本作品と同じポーズの孔雀を描いている。」
『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「牡丹孔雀図屏風(伊藤紫織稿)」

孔雀.jpg

牡丹孔雀図(応挙筆)一幅 絹本着色 明和八年(一七七一)
一三〇・九×一九二・四cm 相国寺焦天閣美術館蔵

「牡丹と太湖石、雌雄の孔雀を描いた華やかな作品。享保十六年(一七三一)に来日した中国人画家沈南蘋の精緻な描写と華麗な彩色による花鳥画の画風を取り入れている。牡丹は富貴の花として、南蘋風の吉祥画題でもしばしば描かれた。孔雀は美しい羽根の描写などに南蘋風の技術を発揮できる。牡丹と孔雀の組み合わせは明和から天明期にもてはやされた新しい中国風の絵「唐絵」に適切な画題であった。応挙は他にも「牡丹孔雀図」を描いているが、とくに旧円満院のパターンは影響力が強く、芦雪は天明二年の模写的な作品以後も寛政後期の「孔雀図」(静岡県立美術館蔵)他数点の作品でくり返し取り上げており、原在中「孔雀図襖」(三玄院蔵)は孔雀の同じ姿形を墨画で描く。」
『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「牡丹孔雀図(伊藤紫織稿)」



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芦雪あれこれ(牧童吹笛図) [芦雪]

(その十一) 牧童水笛図

吹笛図.jpg

「牧童水笛図」(芦雪指画)一幅 紙本墨画 建仁寺・久昌院蔵
一四一・八×一三九・〇cm

 この図の左上に、「平安 芦雪指画」とある。これも、草堂寺の「栽松・焚経図屏風」(二曲一双・紙本墨画)と同じく、芦雪の「指頭画」ということになる。
 この「牧童水笛図」は、平成二十六年(二〇一四)三月二十六日から五月十八日まで、東京国立博物館で開催された「栄西と建仁寺」展で公開されていた。
「建仁寺ゆかりの名宝」ということで、「俵屋宗達筆『風神雷神図屏風』(国宝)」「海北友松筆『雲龍図』(重要文化財)」「「長谷川等伯筆『竹林七賢図屏風』」等の目玉作品の他に、「伊藤若冲『「雪梅雄鶏図」」「曽我蕭白筆『山水図』」そして、この「芦雪筆『牧童吹笛図』」などが喧伝されていた。
 図録などでは、サイズが書いてあっても、その大きさがなかなか実感出来ないが、展示中のスナップ写真などを見ると、図録のものとは、また違った印象を受ける。
 この作品については、『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』の中の「芦雪画の魅力(七即筆)(八自由の絵画)狩野博幸稿」で、「この作品との出会い・印象・席画・十八世紀の京都の自由の絵画」などについて記述しているので、以下に、その要点を抽出して置きたい。
 また、「栄西と建仁寺」展での、この作品の展示に関するものが(東京国立博物館の「取材レポート」)公開されていたので、下記に掲げて置きたい。

吹笛図1.jpg

「栄西と建仁寺」展(東京国立博物館)の「取材レポート」

【「七 即筆」
(前略)
京都の国立博物館に勤めるようになって暫くしてから、建仁寺の宝物係のお坊さまがある絵を持って来た。それが芦雪の指頭画の傑作と今日では評価されている「牧童吹笛図」であった。
 初めてその絵を目にしたときの感慨は、でかい絵だなあということであった。しかし、よく見れば、何やら硬い筆致で、「平安芦雪指画」と書されていることに気づく。つまり、この絵はいわゆる筆ではなく指や爪に墨をとって描いた指頭画だったのである。
 今は有名になったこの作品を初めて目にしたとき、正直いって面食らったことは事実である。おそらく、画面の中で墨垂直に流れていることからも、この絵があらかじめ立てられた画面に画家が墨をつけたことが知られる。
 もっとはっきりいえば、この絵は用意されたたぶん衝立(その大きさから、まず間違いない)に、直接に指や爪、手の平を駆使して描きあげたものであったろう。
 款記に「平安」とあることも旅先でのことも推測される。
(略)
「席画」ということばがある。様々な宴席に呼ばれた画家がそこで注文を受けて即席に絵を描くことが「席画」である。
 墨はともかくとしても、限られた絵具を用いて下図を描くことなく作品を創る。
(略)
 そして、急に求められる「席画」で優れたバフォーマンスをしめすことのできる画家こそが、実のところ真の画力をもった者であることをいっておかなければならない。
(後略)
「八 自由の絵画
 十八世紀の京都の画家の作品を見ていて気づくことは、長沢芦雪は当然のこと、曽我蕭白や伊藤若冲あるいは与謝蕪村や池大雅に至るまで、心を豊かに拡げておとがいを解(ほどか)せる作品を数多く制作していることである。
(略)
 徳川家が選んだ朱子学でがんじ絡めに圧(お)さえつけられた江戸に対し、十八世紀半ば頃から京都芸苑には老荘思想が大いに喜ばれた。老荘思想をひとことで述べることは慎まなければならないが、少なくとも朱子学が強要する堅固な社会的秩序に対して、おおらかな世界観が呈出されているように感じられたことは確認しておいてよい。
 なぜなら、ものごとを自由に見ることの素晴らしさを、京都の十八世紀は、その生み出す作品がしめしつづけたからである。
 絵を、しゃっちょこばって鑑賞する必要などないのだとする見方である。
(略)
 「自由」という言葉を表現芸術に初めて用いたのは井原西鶴であった。かれは格調を喪うことを恐れた貞門俳諧に対し、談林俳諧師として、
われらの俳諧は、
  自由にもとづく俳諧、
であると規定した(『大矢数』)。
 十八世紀の京都の新しい文苑は、まさしくこの「自由」に魅せられた人びとによって支えられた。
(略)
 この本に収められた芦雪の作品は、画家の自由な表現意欲にまみれているだろう。それを許しているのは、この時代の京阪地方の文化的雰囲気にほかならない。その文化的雰囲気を知って初めて、芦雪という画家のレゾン・デートル(存在理由)にあらためて目を瞠(みは)ることになる。  】
『別冊太陽181 長沢芦雪(狩野博幸監修)』所収「芦雪画の魅力(七即筆)(八自由の絵画)狩野博幸稿」
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芦雪あれこれ(指頭画) [芦雪]

(その十)芦雪指頭画

 草堂寺(南紀白浜・富田)に、芦雪が筆を使わず指によって一気に描いた「栽松・焚経図屏風」(二曲一双・紙本墨画)がある。もともとは、仏間の襖画(東側二面・西側二面)であったが、屏風画に改装されている。
 その「左隻」に当たる「栽松図屏風」は、次のとおりである。

芦雪指画.jpg
「栽松図屏風」(芦雪指画)二曲一隻 紙本墨画 一八五・五×一八〇・〇cm

 この「栽松図屏風」は、別名「五祖裁松図屏風」とも称され、禅宗の始祖・達磨から数えて、五世・弘忍(禅師)を象徴的に表現しているものと言われている。左の端に、「芦雪指画」の落款があり、印章の「魚」も指画で描かれている。
 この落款が施されているものは、屏風画の「右隻」と「左隻」との別ですると「左隻」ということになろう。
 そして、芦雪が、師の名代として南紀(主として、無量寺・草堂寺・成就寺)に訪れるのは、これら禅宗(臨済宗・東福寺の海蔵院を本山とする)と深い関わりがあるのであろう。
 同時に、応挙が芦雪を名代として推挙した背景には、芦雪が、こうした「禅画」(禅機図)にも深い理解を有していたことを見抜いていたということが挙げられよう。

焚経図.jpg

「焚経図屏風」(芦雪指画)二曲一隻 紙本墨画 一八五・五×一八〇・〇cm

 「左隻」に、禅の悟りの契機を象徴的に表現する「五祖・弘忍の松を植える図」をし、それに対応して、「右隻」には、禅の極意を象徴的表現する「経文を焼いて、不立文字を修する図」を配したということになろう。

焚経図・部分図.jpg

「栽松図屏風」の「部分図」

 上記は、「栽松図屏風」の人物像の顔の部分を拡大したものだが、これが「指頭画」(指画・指墨=筆のかわりに、手の指の肚(ハラ)や爪(ツメ)に墨をつけて描く水墨画の技法の一つ)なのかと、改めて、芦雪のデッサン力に圧倒される。
 そして、指頭画というのは、パフォーマンス(特技を披露する)の見せ場で、「席画」などの公開の席上で、即興的に一気呵成に描いていくのが常で、これらの作品は、そういう環境下で為されたものなのであろう。
 この指頭画を得意としたのは、文人画の大成者の池大雅であるが、芦雪の師の応挙や応挙門下で、芦雪以外にこの指頭画を以て、後世に作品を残した例を寡聞にして知らない。

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芦雪あれこれ(群猿図) [芦雪]

その九 群猿図

群猿図屏風.jpg
「群猿図屏風」(芦雪筆)六曲一双 紙本墨画 各一五九・〇×三六一・〇cm
草堂寺蔵 天明六~七年(一七八六~八七)作

 芦雪は猿を主題にして多くの作品を残している。この「群猿図屏風」は、天明六年(一七八六)から天明七年(一七八七)にかけて南紀に赴いた時のものである。芦雪が南紀へ赴いた経緯について、『紀伊国名所図会熊野篇』に、概略、次のような記述がある。

「無量寺の愚海和尚は本堂再建を果たし、京都の長澤芦雪を伴って帰り、屏風、襖、その他大作を描かせた。愚海は若い頃、応挙と親交があり、一寺を建立した暁には描いてもらう約束をしていた。愚海が寺を中興した当時、応挙は既に一家をなし、多くの弟子を育てる立場だったが、約束を守り、高弟の芦雪に自分の作品を持たせ、寺にとどまらせ、その他の求めにも応じさせた。芦雪も師の命を守って数多(あまた)の作品を残した。草堂寺での話と同様で、無量寺は串本の芦雪寺として有名である。天明六年(一七八六)、芦雪三十三歳のことであった。」 (『もっと知りたい長沢芦雪(金子信久著)』)

この作品は、上記の記述に出て来る草堂寺(白浜・富田)のもので、草堂寺での作品は、無量寺よりも数も多く、注目すべき作品も少なくない。
 さて、この作品の「右隻」には、険しい崖と三角形の岩の頂に一頭の白い猿が座り、「左隻」の水辺の猿の群れを見下ろしている。その「左隻」の猿は、水を飲む猿、蚤を取っているのか腹をいじっている猿、そして、その蚤を取っている猿を見ている猿、そして、左端の猿の背中には子猿がいる。
 この「左隻」に描かれている猿の仕草は、全て、芦雪の師の応挙の世界であり、その「写生図巻」などをモデルにしてのものなのであろう。それに比して、「右隻」の一頭の白い猿は、その応挙の世界を足掛かりにし、独自の世界を切り拓いて行った、芦雪の猿であり、応挙門の中で、独り孤立しがちな芦雪の自画像的な雰囲気すら有している。

芦雪白猿.jpg
群猿図屏風(芦雪筆)の「右隻の部分図」

 さらに、この「右隻」は、中国淅派の影響が色濃く宿されている荒々しい岩山をベースにして、極めて漢画的な写意重視の抽象的な世界を表出しているのに比して、「左隻」は、湿潤且つ温和な水辺に戯れる猿の群れの風景で、師の応挙を踏まえ和画的且つ写実重視の具象的な世界を表出していて、この「右隻」と「左隻」との見事な対比が、この「六曲一双」の見所となる。

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芦雪あれこれ(富士越鶴図) [芦雪]

その八 富士越鶴図

鶴1.jpg

芦雪筆「富士越鶴図」一幅 絹本墨画淡彩 個人蔵
一五七・〇×七〇・五cm 寛政六年(一七九四)作

 富士山は不死の山に由来し蓬莱山に見立てられる。この富士山は、寛政六年(一七九四)の広島滞在時の逗留先、広島城下随一の呉服商といわれた富士屋に伝えられたている作品の一つで、その屋号の「富士屋」の因んでのものであろう。
 そして、鶴は蓬莱山につきもので、この「富士越鶴図」は、「富士(蓬莱山)・鶴」、そして、グライダーのような鶴の右端の上の、「旭日(朝日・太陽)」の三点セットの吉祥の画題なのである。
 縦長の画面の上方に黒っぽい雲が右から左に流れ、下方には白雲が下から上へと沸き立って、尖った三角錐のような富士山が高く屹立している。その右の稜線の中ほどに旭日が輝き、あたかも、その旭日から誕生したような、丹頂鶴の一群が、垂直方向の富士山を水平方向に横切ろうとしている。
 ここで、高く屹立している富士山の形状を、この垂直方向の画面で、上に上にと聳え立つ雄姿の下方を、すっぽりと棚引く白雲で覆い隠すことによって、その高さを強調する技法などは、例えば、「那智滝図」の滝壺付近の下方の余白処理などの応用でもあろう。
 「那智滝図」では、「人(『小』」)と滝(『大』」)との『大と小』との対比の演出」によって、那智の滝の全容を強調したのであった。ここでは、その「大と小」ではなく、「雲の形状」「旭日の位置」などにより、富士山の屹立している雄姿を強調していることになる。
 さて、この「富士越鶴図」の見所は、その垂直方向の「富士山」に、水平方向の「丹頂鶴の一群」を配したところが、その最大のポイントということになる。
 ここで、芦雪の師の応挙の、空前絶後の大きさを誇る「大瀑布図」の、その「滝の部分は垂直(方向)に、滝壺の部分は水平(方向)になる、応挙の『空間マジック』」」を、芦雪は、この「富士越鶴図」に因って、縦長の「掛軸」ものの垂直方向の画面に、「屏風絵・襖絵・絵巻」ものの水平方向を加味するという、新たなる芦雪の「空間マジック」を現出しているということを強調して置きたい。

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芦雪筆「富士越鶴図」の「部分図」(「旭日と丹頂鶴の一群)

 『江戸の絵を愉しむ(榊原悟著)』では、これまでの「垂直方向」(縦長)と「水平方向」(横長)の二次元の世界の他に、「動きを表す=反復効果」という、新たなる「鑑賞視点」を提示している

「富士山の向こうからこちらへ、鶴が飛んで来る。一羽、二羽、三羽・・・と、隊列を組んでいるようだ。(略) このグライダーような『かたち』のくり返しが、一羽の鶴が飛んでくる航跡を表しているようにも見える。同形の反復とは、これである。まるでアニメーションだ。」

 ここに、応挙が「大瀑布図」で試みた、「垂直方向(壁面=滝の落下部分)」と「水平方向」(床面=滝壺の部分)が、一つの「掛幅画」(「縦」に「ひらく」=垂直画)に、異次元の「絵巻・屏風画・襖画」(「横」に「ひらく」=水平画)だけではなく、「動きを表す=反復の効果」をも、この「富士越鶴図」で、試行したということになる。
 しかし、この「動きを表す=反復の効果」は、「富士山の向こうからこちらへ、鶴が飛んで来る」という、いわゆる「遠近法」の「向こうからこちらへ」の「奥行」と一体となって、この「視覚的トリック」が実現されることになる。
 ところが、この「富士越鶴図」では、「遠くのものは小さく、近くのものは大きく」という「遠近法」は、手前の「鶴」、中間の「富士山」、遠方の奥の「旭日」の関係で為され、「鶴の群れ」は、その遠近法に因らず、「同形の反復」という意表を突いた手法を併用したところに、芦雪の、この「富士越鶴図」で試行された「空間マジック」「「造形の魔術」「視覚トリック」が存在するということになろう。
 そして、ここでは、「縦」と「横」との二次元だけでの世界ではなく、「奥行」を伴っての三次元の造形的な世界と、さらに、スローモーションビデオを見るよう「時間制」などをも有している、多種多様な趣向の上に成り立っている世界と言えよう。

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芦雪あれこれ(瀑布図) [芦雪]

その七 瀑布図

 芦雪の「瀑布図」は何点かある。その代表的なものとして、『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』では、「那智滝図」(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)を挙げている。それは、「縦に『ひらく『演出』」の中の、「『大・小』対比の演出」の中である。

芦雪・滝.jpg

芦雪筆「那智滝図」(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)
一六九・二×四八・六cm.

 この「那智滝図」のサイズの「一六九・二×四八・六cm」は、ほぼ大人の等身大の天地である。実際の那智の滝は、その滝壺までの落差は「一三三m」、落ち口の幅は「一三m」、そして、一段の滝としての落差は日本第一の名瀑である。
 この芦雪の「那智滝図」の縦の長さの「一六九・二cm」で、実際の「那智の滝」の滝壺までの落差「一三三m」を現出させるための「空間マジック」は、一番最下部の滝壺の手前の左脇「四阿」近辺に施されている。その四阿の右下に、杖を右手に笠を被った巡礼者が、滝を仰ぎ見ているのが描かれており、この人(「小」)と滝(「大」)との対比が、すなわち、芦雪の巧妙な「空間マジック」「造形の魔術」「視覚トリック」だというのである(『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』『日本絵画のあそび(榊原悟著)』)。

 この本図の左下の、四阿と巡礼者、その前に広がる余白(流れ落ちる膨大な滝の落下と滝壺から吹き上がる水煙等々)を部分図として掲出すると、次の図のとおりである。

芦雪・滝5.jpg

芦雪筆「那智滝図」「部分図」(サンフランシスコ・アジア美術館蔵)

 さて、この芦雪の「那智滝図」に施した「『大・小』対比の演出」の企みの背景には、芦雪の師の応挙が、安永元年(一七七二)、四十歳の時に制作した、空前絶後の大きさを誇る「大瀑布図」(三六二・八×一四四・五cm)が見え隠れしているように思われる。

大瀑布図.jpg

新潟日報 (2012年9月28日掲載)
円山応挙の「大瀑布図」の展示作業

 上記は、平成二十四年(二〇一二)に新潟県歴史博物館で開催された「若冲・応挙の至宝-京都相国寺と金閣・銀閣 名宝展-」の展示作業を、「新潟日報」が掲載したものである。
 この「新潟日報」のスナップ写真が、応挙の「大瀑布図」の空前絶後の大きさと、そして、この「大瀑布図」に隠された、芦雪の企みと根っ子が同じところの「空間マジック」を伝えるのに、最も適切な一枚のように思われる。
 まず、この作品の大きさは、これを展示する人(二人)と比較してみると、いかに大きいかが一目瞭然となる。
 そして、この作品の展示に当たって大事な所は、天井から壁面に沿ってぶら下げて、床に達したら、その床の面に伸ばして、丁度、壁面と床との「L字」型に展示するように細工が施されているようなのである。
 すなわち、滝の部分は垂直に、滝壺の部分は水平になる。すなわち、これは応挙の「空間マジック」ということになる。
 そもそも、この応挙の作品は、応挙の良き理解者で最大の支援者であった円満院祐常(近江円満院三十七世、関白二条吉忠の三男)が、円満院の池に滝がないので、応挙に描かせ、池の上に懸けたとも、池に面した書院の長押に懸けたともいわれている。すなわち、この作品は、現実の庭の景色と一体化させて見ることを前提にして制作されている。
 すなわち、応挙の、この作品は、あくまでも、対象を「実物大」に描くというのが基本で、その「空間マジック」も、垂直方向と水平方向との二次元的な限定的なものであった。  
 しかし、芦雪の「空間マジック」は、垂直方向の一次元的な世界に、「実物大」ではなく、
「『大・小』対比の演出」によって、多種多様な「無限的空間」を生み出すという、「造形の魔術」「視覚トリック」が施されているということになる。
 芦雪が、応挙門に入った年次は定かではないが、芦雪の応挙門でのデビューは、安永七年(一七七八)、二十五歳の「東山名所風俗図」であった。応挙が、この「大瀑布図」を手掛けていた頃に、芦雪が応挙門に入っていたかどうかは不明であるが、芦雪が、この応挙の「大瀑布図」に大きな影響を受けていたことは、想像するに難くない。
 事実、芦雪は、「実物大」を主題にしての、篠竹一本を、縦一五五・八cm、横一一・三cmの、縦・横の比率が「一四対一」という、極端に細長い画面に描いている(『竹に月図)。
 芦雪に関する口碑はいろいろあり、「芦雪は応挙を試すようなことをして破門された」とかいわれているが、「実際のところはそうした形跡はない」し、応挙没後も円山家との交流は保たれ、「芦雪がその生涯にわたって応挙との関係を失うことがなかった」(『日本の美術八長沢芦雪№219宮沢新一編』)ということは、特記して置く必要があろう。
 また、芦雪の、寛政十一年(一七九九・四十六歳)の、大阪での客死に関連して、自殺・毒殺・困窮による縊死とかといわれているが、これも、「もし、縊死が事実なら、困窮のためではなく、絵筆が握れなくなった、というような事情が想像される」(『前掲書・宮沢新一編)と、その真相は、巷間に伝来されていることを鵜呑みにするのは危険のように思われる。


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芦雪あれこれ(大仏殿炎上) [芦雪]

その六 大仏殿炎上

 「大仏殿」というと、奈良東大寺のそれが思い起こされるが、芦雪が描く「大仏殿炎上図」(個人蔵)は、京都・東山の方広寺の金堂(大仏殿)である。この方広寺の大仏は、豊臣家の滅亡の歴史を象徴するかのような、数奇な運命を辿る。
 豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な「方広寺鐘銘事件」が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまうのである。
 この時の炎上の様子を描いたのが、下記の「大仏殿炎上図」である。落款に「即席漫写
芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)したのであろう。
 空高く噴き上げる紅蓮の炎と煙に「畳目」が写っている。さらに、この落款は「墨と朱とを使い分け、あたかもこれらの文字が、大仏殿から立ちのぼる炎に照らし出されていいるかのようにも見え」、「神技とでもいうべきか。毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)もかくや、と思わせる筆の冴えである」(『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』)と称賛されているのである。
 この作品は、芦雪が亡くなる一年前の、四十六歳の時のものである。「白象黒牛図屏風」(六曲一双)が「屏風画」とすると、こちらは「掛幅画(掛軸)」ということになる。
『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』では、「縦に『ひらく』演出」と題して、この作品を取り上げ、そこで、「掛緒を掛けて軸を回転させながら下方へ下げていくことで」、「変化のドラマ」が生じ、「画面を『ひらく』にしたがって、一瞬、人魂とも、焚き火の煙とも見えたものが、じつは巨大な火の粉であり」、その最下部の二層の甍(小さく描かれた『大仏殿』と「楼門」)の炎上が、「同じ『かたち』でありながら、それが表す(意味)を劇的に変化」させているというのである。
 そして、これらを、「見事な『造形の魔術』」として、それを成し遂げた芦雪を、上述の「毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)」との称賛に繋げているのである。

芦雪・炎上.jpg

芦雪筆「大仏殿炎上図」紙本淡彩 一幅(個人蔵)
一二〇・五×五六・二cm
寛政十年(一七九八)作

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芦雪あれこれ(黒牛図) [芦雪]

その五 黒牛図

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「白象黒牛図屏風」(芦雪筆・六曲一双・紙本墨画)の「黒牛図屏風」(左隻)
各一五五・三×三五九・〇cm プライスコレクション

「白象黒牛図屏風」の「白象」は、「背と後ろ脚と尻」が大図面からはみ出し、この「黒牛」では、「肩と後ろ脚」が、やはり画面の外にはみ出している。それだけではなく、「白象」では、その背に二羽の黒い烏が乗っかっているのに対して、この「黒牛」では、その腹部に、一匹の白いむく毛の子犬がちょこんと、この画面を鑑賞する人の方向に視線を向けている。
さらに、「白象」(右隻)の大画面では、余白が、左の頭部から前脚の部分と背の二羽の烏が居る所だけなのに比して、こちらの「黒牛」(左隻)では、右の頭部から左の尻の方まで、余白が十分に取られ、また、その余白処理が絶妙で、その白の風のたなびきのようなものが、「白象」(右隻)に流れて、「左隻」と「右隻」との一体感を醸し出している。
「黒と白」「大と小」「余白処理」「対比」「モチーフの選択」「空間マジック」「視覚トリック」等々、その発想の「自在さ」「柔軟さ」「奇抜さ」に相まって、師の応挙の「写生的描写」の世界を一歩踏み出して、その応挙が目指した「新図・新意の尊重」(「真物を臨写して新図を編述するにあらずんば画図と称するに足らんや」=仙斎円山先生伝)の境地を達成したのは、応挙門下では、この芦雪一人であったかも知れない(『日本の美術八・№219号長沢芦雪・宮島新一編』)。
 巨大な動物をモチーフとし、「黒と白」との対比で作品化したものとして、若冲の「象と鯨図屏風」などが挙げられる。先に、その一つとして、その「象図」(右隻)を紹介したが、ここで、その「鯨図」(左隻)を参考までに掲げて置きたい。

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「象と鯨図屏風」(若冲筆・六曲一双・紙本墨画)「左隻」MIHO MUSEUM蔵
 各一五九・四×三五四・〇cm

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芦雪あれこれ(白象図) [芦雪]

その四 白象図

白象1.jpg
「白象黒牛図屏風」(芦雪筆・六曲一双・紙本墨画)の「白象図屏風」(右隻)
各一五五・三×三五九・〇cm プライスコレクション

 巨大な像に真っ黒な烏が二羽止まっている。象のイメージというのは、普賢菩薩が乗る白象で、白のイメージである。芦雪が生まれる二十数年前の享保十三年(一七二八)に、オランダ船によって日本に上陸し、長崎から江戸まで運ばれ、時の将軍徳川吉宗の上覧に供されている。
 享保十四年(一七二九)五月二十五日、象の江戸到着を告げる瓦版(象潟屋清八板元)が、『日本絵画のあそび(榊原悟著)』で紹介されている。

「象の年六歳 長さ一丈、高さ五尺余、四足廻り一尺五寸程、鼻の長さ四尺程、鼻の廻り一尺五寸、牙の長さ一尺二寸但し上あごより出る。眼三寸形(なり)は笹の葉のごとし、象の寿命五百年をたもつとなり。」

 芦雪は、実物はともかくとして、刷り物などで、実物に近い象を見ているであろう。そして、芦雪の師・応挙よりも年齢的に先輩格の若冲にも何種類かの象の作品があり、それらの作品も何らかの形で拝見やら情報などを得ていることであろう。
 しかし、芦雪が描く「白象黒牛図屏風」は、芦雪ならでは趣向が施されている。この「白象図屏風」ですると、この象の背と後ろ脚と尻が、画面の外にはみだしている。
即ち、屏風の六曲(六扇=六面)の大画面に収まりきらないほど大きいということ訴えようとしている。さらに、大きな象に小さな烏を配置して、大きなものはさらに大きく、小さいものはさらに小さく見えるように、「対比の妙」を現出させている。
 さらに、「白象黒牛図屏風」のタイトルのように、左隻の「黒牛」の「黒」と、この右隻の「白象」の「白」の対比だけでなく、「黒牛」の「黒」と「子犬」の「白」、そして、この「白象」の「白」に、二羽の「烏」の「黒」を対比させると、二重にも三重にも趣向を凝らしている。
 その造形的な趣向の他に、この「白象」では、その小さな二羽の烏の一羽は、口を開けて、隣の烏に話しかけているような図様と、もう一羽の烏は、この大きな象をじっくり観察しているような図様なのである。ここに、芦雪の「遊びこころ」をさりげなく現出している雰囲気なのである。
 とにかく、芦雪の「空間マジック」、そして、「視覚的トリック」の妙は、師の応挙や奇想画の旗手の若冲を遥かに凌ぐものがあろう。

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「象と鯨図屏風」(若冲筆・六曲一双・紙本墨画)「右隻」MIHO MUSEUM蔵
 各一五九・四×三五四・〇cm

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芦雪あれこれ(虎図) [芦雪]

その三 虎図

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無量寺の「龍虎図襖(芦雪筆)」(龍・襖六面、虎・襖六面)上段「龍図」下段「虎図」
紙本墨画、 襖・一八三・五×一一五・五cm(四面)・一八〇・〇×八七・〇cm(二面)

 上段の「龍」も巨大だが、下段の「虎」も巨大である。「龍図」は「龍は興りて雲を致(マネ)く」が定石で、芦雪の「龍」も、その定石を踏まえて、その雲を切り裂くように、その眼光も鋭い。「虎図」は「虎は嘯(サケビ)て風烈(ハゲ)し」というのが定石で、芦雪の「虎」も、岩の脇の竹の葉が激しく靡いている中でのもので、その定石を踏まえているが、その表情は猛虎というよりも、巨大な猫(「虎もどきの猫」)という雰囲気で無くもない。
 この無量寺の「龍虎図襖」は、本堂室中の「東・西」に面したもので、「東」側に「龍図」、そして、「西側」に「虎図」がある。そして、この「虎図」の襖の裏面に、芦雪の「薔薇と猫図」(薔薇の下に猫の親子が三匹)が描かれている。
 こちらの猫は原寸大の猫で、そのうちの一匹(子猫)が、水中の鮎を狙っている。そして、この子猫には、「虎に竹」ではなく、その竹に似た「芦の葉」が靡いている図を配している。
 即ち、この子猫が狙っている「鮎」の目から見た「猫」が、「龍虎図襖」の巨大な「虎図」だということになる。
 その「虎図」を仔細に見ていくと、襖四面のうち、左の一面は「虎の髭の端」だけ、次に「虎の両足を揃えた虎の前頭部」、次に「虎の胴体と尾と足の一部」、次に「虎の尾と足の一部」と「笹竹の葉の一部と岩の一部」とが描かれている。
 そして、次のやや小ぶりの襖に面に「笹竹と岩」が描かれて、それが、裏面の「薔薇と猫」図に続いているような、何とも壮大な構成になっている。
 これらのことに関して、『江戸の絵を愉しむ(榊原悟著)』では、「芦雪のマジック」「紙芝居効果」と題して、「襖を『開ける』」(すると、図様に消える部分と残る部分とが生ずる)、「襖を『閉める』」(そのとたん、わたしたちの視界から一瞬消えていた『虎』が、突然、巨大な姿を現す))、この「襖の開閉」による「紙芝居効果」的な視覚的意外性を、芦雪は、これらの襖絵に企んでいると喝破している。
 さらに、『日本絵画のあそび(榊原悟著)』では、芦雪の師・応挙は、「描かれた絵が、あたかも鑑賞者の座っている部屋から望まれる現実の景色であるかのように表現することに成功した」(大乗寺書院の間障壁画『山水図』)と、応挙もまた「空間マジック」の第一人者であったことも喝破している。
 この応挙と芦雪との二人の関係を、この芦雪の「虎図」で見ていくと、芦雪は、師の応挙が描くところの獰猛で精悍な「虎」をモデルにせず、どちらかというと、光琳の描くところの「虎」(「竹に虎図」)の「虎もどきの猫」を、この襖絵では描き、さらに、師の応挙が大画面障壁画に遠近技法を取り入れ、「鑑賞者に『現実の景色』を見るように錯覚させる」視覚的トリックを、その「現実の景色」ではなく、「巨大なものを、さらに巨大にさせる」という「空間マジック」を試行したということになろう。
 ここでも、芦雪は、師の応挙の絵画技法を自家薬籠中のものにして、それをさらに発展させているということになる。
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無量寺の「薔薇・猫襖図」(芦雪筆)「部分図」(紙本着色「薔薇図」襖八面のうちの「部分図」)

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「水呑虎図」(応挙筆)九六・五×一四一・〇cm

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芦雪あれこれ(群龍図) [芦雪]

その二 群龍図 

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芦雪筆「群龍図」・ 寛政年間(一八世紀末)・ 絹本墨画金泥・大原美術館蔵
一四一・六×一三二・七cm

 芦雪は、丹波篠山の生まれ、幼少のとき、淀藩の足軽長沢家の養子になったと伝わる。二十代で円山応挙門に入り、京都に移住して応挙門で頭角を現して来る。天明六年(一七八六)の暮れから翌年にかけて南紀各地を回り、無量寺・草堂寺・成就寺等で襖絵や屏風絵を描く。四十歳頃から広島に滞在して厳島神社に「山姥図」を奉納。大胆奇抜な発想と自由闊達な筆さばきで異能ぶりを発揮した。四十六歳で大阪の地で客死する。門人の芦州が跡を継いだ。
 芦雪の「龍」といえば、串本・無量寺の「龍虎図襖」(龍・襖六面、虎・襖四面)、松江・西光寺の「龍図」(襖八面)が名高いが、それに匹敵するのは、この「群龍図」であろう。
何匹居るかは不明だが、いろいろに形を変えて、これだけの「龍」を描くということは、芦雪というのは、師の応挙を凌ぐものがあろう。

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無量寺の「龍虎図襖」(龍・襖六面、虎・襖四面)のうち「龍」(四面)

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西光寺の「龍図」(襖八面)のうちの四面

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西光寺の「龍図」(襖八面)のうちの四面

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芦雪あれこれ(山姥図) [芦雪]

その一 山姥図

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芦雪筆「山姥図」絹本着色 一五七・〇×八四cm 広島・厳島神社

 寛政九年(一七九七)、芦雪・四十三歳の頃の作品である。広島城下随一の呉服商といわれた富士屋の七代目・藤井嘉兵衛正道が筆頭願主となって、厳島神社に奉納した絵馬である。破れた笠を負い、長く白髪を垂らした老嫗の容貌は凄まじい。身に纏っている小袖は端裂を継いだもので、身すぼらしさを装っているが、一つ一つの裂は華やかである。おそらく、筆頭願主の富士屋の家業を意識してのものなのであろう。
 それにしても、厳島神社に奉納する絵馬に、よりよって、こんなグロテスクなものを、どうして、芦雪が描いたのかは、どうにも謎めいている。当時、上方歌舞伎で、「媼山姥(コモチヤマウバ)」(近松門左衛門作)が人気を博していたので、それらが、この作品の背景にあるのかも知れない。
 即ち、この「山姥」の主題は、山姥と化した遊女(八重桐)が怪童丸(坂田金時・金太郎)を育てる「母子像」ということなのかも知れない。
 この「山姥・金太郎」を主題とした浮世絵師は、美人画で名高い、喜多川歌麿その人である。歌麿は、いろいろな視点から、この「山姥・金太郎」を制作しているが、その山姥は、どれもが、歌麿好みの美人画となってしまう。
 芦雪も、「楊貴妃図」など美人画の名手であるが、その名手が一変して、これほど凄い「山姥→鬼女→媼(老女)」を現出させるのを目の当たりにすると、どうにも、歌麿の「山姥・金太郎」の、「山姥」は、どういう仕草(「アカンベー」など)をしても、「姥」ではない。

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「山姥・金太郎・あかんべえ」(歌麿筆)大判・錦絵


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蕭白の「群仙図屏風」(その七) [蕭白]

(その七)「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」の「鉄拐」「龍」「呂洞宝」「霊芝」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」の「鉄拐」「龍」「呂洞宝」「霊芝」

 この右側の鉄製の杖を片手に、もう一方の手を真上に挙げて、この左側の龍に乗っている青い着物の来た「呂洞寶(リョドウヒン)」と思われる人物に、何やら語り掛けている人物は、「鉄拐仙人(テッカイセンニン)」のようである。
 この鉄拐は、「左隻」の左側に登場する「西王母(セイオウボ)」に師事して、東華教主に封じられ、鉄丈(杖)を授けられたという。その鉄丈を投げると龍になり、それに乗って昇天したといわれている。
 この左側の主役のような「呂洞寶」は、『三国志』に登場する武将の「関羽」と肩を並べるほどの主神(主仙人)として夙に挙げ奉られているが、ここでは、師の「鍾離権(ショウリケン)」から不老長寿の秘薬「龍虎金丹(リュウコキンタン)」の仙術を授かったという、その逸話を主題にしているようである・
 即ち、この「呂洞寶」の片手に持っている「霊芝(レイシ)が、不老長寿の秘薬「龍虎金丹」と深く関わるものなのであろう。
 その「霊芝」を象徴化するように、「呂洞寶」がまとっている青い着物も、その「霊芝」の紋様をし、そして、「呂洞寶」と「龍」とを取り巻いている風の渦巻きの「風紋」も、どうやら、その「霊芝」の紋様なのである。
 即ち、この画面のメインテーマは、不老長寿の秘薬「龍虎金丹」の「霊芝」であり、それが、この絵図の右側に描かれている名医「董奉(トホウ)」と結びつくのであろう。
 さらに付け加えるならば、この「右隻」中の、「龍」も「虎」も、そして、「鳳凰」すら、生来の力がない様で、それも、この「霊芝」を要求しているということであろうか。
 様々なドラマが、この「右隻」だけでも、壮大に展開して行くが、それは、「左隻」と一体となって来ると、これは無限大の、空前絶後のものへと展開して行く。そして、その壮絶なドラマ化のうちに、蕭白の根っ子となる「遊び心(こころ)」が見えて来る。

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蕭白の「群仙図屏風」(その六) [蕭白]

その六)「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」の「董奉」「虎」と「簫史」「鳳凰」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」(部分図・「董奉」「虎」と「簫史」「鳳凰)

 この「群仙群図屏風」(六曲一双)の「右隻(六曲一隻)」の右からの「第一扇(面)・第二扇(面)」(部分図)だけでも、優れた、曽我蕭白の「群仙図」ということになろう。
 「明と暗」とのコントラストの、暗の右側(第一扇)には、髭を風に吹かさせての、「貧しい患者からは治療費の代わりに杏の苗を受け取ったという『神仙伝』中の名医「董奉(トホウ)」その人が描かれている。
 それを暗示するのは、この明の左側(第二扇)の、白一色の感のある「鳳凰」にウィンクしているような、白虎ならず、名医の「董奉」に仕えて、その「杏林(キョウリン)」を見守りしている、何やら「虎」らしきものが描かれている。
 この「虎」らしきものの視線は、この「右隻」の「第六扇(面)」に描かれている「黒龍」ではなく(「青龍」と「白虎」との対比ではなく)、「白い翼の鳳凰(白鳳凰)」に注がれている。
 この鳳凰は、伝説上の瑞鳥で百鳥の王とされ、太平の象徴でもある。古来、宇治平等院鳳凰堂など様々な装飾などに使用されている。また、「龍」「鳳凰」「麒麟」「亀」は、「吉祥」(縁起物)の吉を招く「四霊」とされている。
 因みに、「四神」は「(青)龍」「朱雀=鳳凰」「(黄)龍=麒麟」「(白)虎」、「五獣」は「四神+玄武(亀蛇)=黒」、「五龍」は「青龍・朱龍・黄龍・白龍・黒龍」、そして、「鳳凰」にも、「赤を鳳(ホウ)、黄を鵷雛(エンスウ)、青を鸞(ラン)、紫を鸑鷟(ガクサク)、白を鴻鵠(コウコク)、朱雀(スザク)=鳳凰から生まれ邪を焼き尽くす炎の神鳥」と細分化されるらしい。
 さて、この鳳凰を随えている、赤い服をまとって、赤ら顔の、簫(竹で作った笛のような楽器)を吹いている人物は、簫史という簫の名手で、「鳳凰」(太平楽の象徴)を天から呼び寄せたという仙人なのであろう。
 蕭白は、この簫史について、別に「簫史吹簫図屏風」(「塞翁飼馬・簫史吹簫図屏風」の左隻)を制作しており、それらのモチーフを、ここにも応用しているのであろう。
 この「右隻」の「簫史(朱)と鳳凰(白)」とが、その「右隻」のメインであるばかりでなく、「群仙屏風図」(六曲一双)全体のメインのような色調・コントラストが感じられる。
しかし、その脇の名医「董奉」の眼は、隣の簫史や鳳凰ではなく、遥か彼方の「龍・呂洞寶」、そして、呂洞寶の手にある「霊芝(レイシ)」(幻の霊薬)に注がれている。
 すなわち、全体のテーマは、「不老不死・長寿のお祝い」(男嗣誕生・健康・富貴・長生・家運隆盛等々)で、この「右隻」の圧巻は、龍と呂洞宝を取り巻く、渦巻き状の「疾風怒涛」(特に「疾風」)の紋様が、「霊芝」をイメージしているところに在るように思われる。

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「塞翁飼馬・簫史吹簫図屏風」(蕭白筆・紙本墨画・六曲一双・三重県立美術館蔵)の「右隻・簫史吹簫図屏風・一五五×三三八cm」



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蕭白の「群仙図屏風」(その五) [蕭白]

(その五)「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」の「西王母」と「蝦蟇仙人」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」(部分図・西王母と蝦蟇仙人)

 『無頼の画家 曽我蕭白(狩野博幸・横尾忠則著)』では、「美女の耳そうじでニンマリの蝦蟇仙人」とか「誰となく秋波送る西王母……もう収拾がつきません」とかの、何やら怪しげな文言が列挙されている。
 しかし、大名家である京極家の、男嗣出生にまつわる、「祝い品」(「鯉幟・武者幟」の類い)の美術装飾品的作品と解して、その視点からすると、ここに描かれている「西王母(セイオウボ)」は、長寿の神様で、その「西王母」の前に描かれている桃は、不老不死の実の「仙桃(セントウ)」、そして、その「仙桃」の傍らの「穿山甲(センザンコウ)」(体の外部に松毬のような鱗を持つ珍獣)は「魔除け」と、全て、「吉祥画(キッショウガ)」(縁起物の画)のモチーフということになろう。
 同様に、右下の、「蝦蟇仙人(ガマセンニン)=劉海蟾(リュウカイセン)」は、不老不死の術を修めた仙人で、その背に居る蝦蟇は、三本足の白い蝦蟇の「青蛙神(セイアジン)」で、この青蛙神が訪れると幸運・金運に恵まれるなどの伝承がある。
 この「左隻」は、「不老不死・長寿の祝い」がメインテーマとすると、「唐子たちの笑い」「和靖先生の笑い」「左茲の笑い」、そして、耳そうじをされての「蝦蟇仙人の笑い」、それを見ている「西王母の笑い」と、「笑う門には福来る」がサブテーマという雰囲気である。

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「群仙図屏風」(蕭白筆・二曲一双・東京芸大美術館蔵)の「右隻」



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蕭白の「群仙図屏風」(その四) [蕭白]

(その四)「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」の「左茲」と「鯉」と「鶴」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」(部分図・左茲と鯉と鶴)

 この左側に描かれている「左茲(サジ)」は、右側の「和靖先生」が「先生」とすると、どうにも、眼光の鋭い、そして、手に「鯉」(出生魚)を掴んでいることから、「唐子を選抜する」ところの、謂わば、「人買い」のような悪相の仙人のような雰囲気である。
「左茲」が活躍するのは、「神仙伝」というよりも、戦国時代の『三国志』上に登場する妖術使いの名手である。この詩人の「和靖先生」から、妖術使いの「左茲」への、黄色い「鶴」と白い「鶴」(「平和」のシンボル)を介してのバトンタッチは、「和靖先生」(「平和」の時代)から「左茲」(「戦国」の時代)への変遷を物語っているのか知れない。
 しかし、実は、蕭白には、同じ画題の「群仙図屏風」(二曲一双・東京芸大美術館蔵)があり、その左隻には、「葛玄」(カツゲン、左茲の一番弟子)が、鯉を呼び寄せている図が描かれている。そして、その脇に、「黄安」(コウアン、亀仙人)が「亀」を両手にしているのである。
 とすると、この「和靖先生」のペットの「鶴」は、「鶴は千年、亀は万年」の「長寿の鶴」を意味し、「鯉」は「男児の出生と健康」を祝ってのものなのかも知れない。何故、「左茲」とか「葛玄」が出て来るかというと、「左茲」が「葛玄」に「霍山(カクザン)に登って九転丹(仙丹=不老不死あるいは仙術を得るという仙薬)を作るよ」との逸話の、これまた、「不老不死」の「長寿」の祝いと関係するのかも知れない。
 すなわち、何とも、蕭白の代表的な奇想画とされている「群仙屏風図」(六曲一双)は、
大名家である京極家伝来の作品とされ、中国の「神仙伝」逸話を主題にしての、京極家の、男嗣出生にまつわる、「祝い品」(「鯉幟・武者幟」の類い)の美術装飾品的作品と解するのが妥当なのかも知れない。

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「群仙図屏風」(蕭白筆・二曲一双・東京芸大美術館蔵)の「左隻」


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蕭白の「群仙図屏風」(その三) [蕭白]

(その三)「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」の「林和靖」と「唐子」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」(部分図・林和靖と唐子)

 中央の唐子を抱いている立身像の男性が、「林和靖(リンナセイ・リンワセイ)」である。名が逋(ホ)、字が君復(クンプク)、号が和靖先生(ワセイセンセイ)、中国・宋代の詩人である。生涯独身で、「梅妻鶴子」(梅は妻で、鶴は子である)と、「梅」と「鶴」とをこよなく愛した。鶴は和靖先生のメッセンジャーでもあった。
 寺の子供たちに、「もし遠くから来るお客さんが急用の場合、鶴を空に飛ばして下さい。飛んだ鶴を見るとすぐに船で帰りますから」と、「朋(トモ)遠方より来たる、また楽しからずや」、その後に続く、「人知らずして慍(ウラ)みず、また君子ならずや」の、中国の知識人・士大夫(シタイフ)の典型的な仙人なのである。
 この和靖先生を「ニヤケ顔」とか、この「唐子」達を「ヘンナ顔のオンパレード」とかと鑑賞しているものも散見するが、これは、紛れもなく、「和靖先生」の「先生」の「在るべき姿」と、その「先生」に純真無垢なるままの信頼を置いている、「唐子・寺子たち(生徒たち)」との、これほど、象徴的な画像は、なかなか、お目に掛かれない。
 この「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」(部分図)の、ここに焦点を当てただけでも、蕭白という画人は、例えば、同時代の京都の画人達の、「若冲・蕪村・大雅・応挙・芦雪・呉春」等々に比して、それらを時に「アザケリ・ヤユ」し、そして、縦横無尽に「ホントウノモノヲカキタイ」ということに徹した一人ということを実感する。

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蕭白の「群仙図屏風」(その二) [蕭白]

(その二) 「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「左隻」文化庁蔵(一七二・〇×三七八・〇cm)

 蕪村の同時代の「奇想画の旗手」の曽我蕭白は、全く「文人画の旗手」の与謝蕪村と、全く異次元の、画人かというと、そうではないのである。その根っこにある、「伝統に対して革新」、そして、その「革新に対して、更なる、新しい息吹」ということには、この両者とを見比べると時、当時の、「蕪村・蕭白、そして、若冲」等々の、熱気溢れった、「芸術家の、飽くなき追及して止まない、病的なほどの熱気」を、ひっし、ひっしと実感するのである。
 さて、この蕭白の「左隻」の、左上の落款は「式部太輔蛇足軒暉珏入道十世曾我左近次郎蕭白暉雄筆」と、何とも仰々しい「遊び心」が満喫しているサインなのである。そのサインの右側の透けた団扇をかざしている女性が、「西王母(セイオウボ)」で、その西王母の前に、不老不死の実の「仙桃(セントウ)」が置かれている。その仙桃を食べようとしている動物が、松毬のような鱗を持った「穿山甲(センザンコウ)」である。
 その穿山甲を見ている女性は、西王母の侍女で、何やら盆の上に小さな桃の実のようなものを載せて持っている。その右側に、「蝦蟇仙人(ガマセンニン)が、「蝦蟇(ガマ)」を肩に載せている。それだけではなく、隣の女性に、「耳かき」をさせている。
 画面中央の「鯉(コイ)」を掴んでいる人物は「左茲(サジ)」で、「三国志」で活躍する妖術使いの名手である。何やら背に「遁甲天書」の巻物などを携えている。
白い「鶴(ツル)」と黄色い「鶴(ツル)」は、隣の「唐子(カラコ)」の一人を抱っこし、数人の唐子を引き連れての「林和靖(リンナセイ)」と「左茲(サジ)」とを取り持つ「吉鳥(キツチョウ)」なのであろう。
 どうにも、この「唐子(カラコ)」は、屈託がなく、そして、逞しく、さながら、当時の、京都画壇の、「応挙・蕭白・若冲・蕪村」等々の、その幼なかりし頃の、イメージすら抱かせるのである。
 そして、蕪村の「十二神仙図押絵貼屏風」(六曲一双)の、その「左隻」は、これらの蕭白の「唐子」の、それぞれが、それぞれに到達した、その「老仙」の姿のようにも思われる。

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「十二神仙図押絵貼屏風」(蕪村筆)の「左隻」(一二九・六×三二六・四cm)


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蕭白の「群仙図屏風」(その一) [蕭白]

その一 「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」

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「群仙図屏風」(蕭白筆)の「右隻」文化庁蔵(一七二・〇×三七八・〇cm)

 「奇想画の旗手」の曽我蕭白は、享保十五年(一七三〇)生まれ、享保元年(一七一六)生まれの与謝蕪村よりも年少であるが、亡くなったのは、天明元年(一七八一)で、天明三年(一七八三)没の蕪村よりも早く亡くなっている。
 この二人は、同時代の、そして、共に、京都を舞台にしての、その『平安人物誌』上で名を馳せている画人(画家)ということになろう。
 全く、異質の世界の画人であるが、共に、正統(主流派)に対しての異端(少数派)の画人であったことは、歩調を一にしている。
 この蕭白の、奇想画の典型たる「群仙図屏風」(六曲一双)の「右隻」は、右上の落款「従四位下曾我兵庫頭暉祐朝臣 十世孫蛇足軒蕭白左近次郎 曾我暉雄行年三十五歳筆」とあり、明和元年(一七六四)、蕭白、三十五歳時の作である。
 ここに描かれている仙人たちは、右側の落款の下の人物は、瓢箪と巻物を持っていて、三国時代の呉の医師「董奉(トウホウ)」と言われているが、「麻衣子(マイシ)」あるいは「扁鵲(ヘンジャク)」との別人説もある。その足元には「虎(トラ)」が居る。
 その左脇の赤い服の赤ら顔の人物は、春秋時代の簫(竹で作った笛のような楽器)の名手の「簫史(ショウシ)」で、その膝元には、白い羽の「鳳凰(ホウオウ)」が描かれている。
 その左脇の手を挙げている人物は、「鉄拐仙人(テッカイセンニン)」。隋代の李玄(鉄拐は幼名)で、口から気を吐いて分身を出す術を使う。足が悪いため、鉄製の杖を持っている。
 左側の「龍」に乗っている人物は、「呂洞寶(リョドウヒン)」。八仙(道教の代表的な八人の仙人)の筆頭格で、民を救う神仙として絶大な人気を誇る。鉢から龍を出して乗りこなす仙人の「陳楠(チンナン)」という説もある。
 さて、蕪村にも、その丹後時代(三十九歳~四十二歳)に、「十二神仙図押絵貼屏風」(六曲一双)があり、その「右隻」には、「鉄拐仙人」や「「呂洞寶」らしき人物が描かれている。

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「十二神仙図押絵貼屏風」(蕪村筆)の「右隻」(一二九・六×三二六・四cm)


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蕪村の奇想画(その七) [蕪村の奇想画]

その七 「真桑瓜の化物」と「西瓜の化物」

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(真桑瓜の化物)

 この図の右側に、「山城 駒のわたり 真桑瓜のばけもの」とある。これに対応して、次の「西瓜の化物」が、この絵巻の最終のものである。

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(西瓜の化物)

 この図の右側に、「大阪木津 西瓜のばけもの」とある。

 この両図を見比べると、「山城(京都) 駒のわたり(木津川の渡り)、真桑瓜のばけもの(化物)」と、「大阪(浪速) 木津(大阪市浪速区内) 西瓜のばけもの(化物)」との対比ということになる。

 もう一つ、「天王寺(浪速・大阪)」は、「蕪青(ブセイ・ブショウ・カブラ・カブ)」の産地で名が知れ渡っている。
然らば、この「妖怪絵巻」の作者、「蕪村」は、この「浪速(大阪)の「蕪」の産地の、「天王寺村」生まれに由来があるということを、暗示しているようなのである。

 それを暗示しているのは、国立国会図書館(デジタルコレクション)で公開している、『蕪村妖怪絵巻解説 : 附・化物づくし』(乾猷平著・北田紫水文庫)という貴重な文献である。

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国立国会図書館(デジタルコレクション)


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蕪村の奇想画(その六) [蕪村の奇想画]

その六 夜なき婆

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(夜なき婆)

 右側に、「遠州のみつけの宿(現・静岡磐田)、夜なきばゝ(婆)」とある。その左側に、男と女とが泣いている図があり、そこに、「その家にうれひ(憂い)あらんとする時、此のばけもの(化物)門口に来たりなきけるとなり。人又その声を聞きて思はずなみだ(涙)こぼしけるとぞ。かゝる事二三度に及びて、その家にかならず憂ひごと有りしと也」との文言がある。
 泣き女(なきおんな)または泣女(なきめ)または泣き屋(なきや)は、葬式のときに雇われて号泣する女性である。朝鮮の泣き女は夙に知られている。アイルランドやスコットランドに伝わる女の妖精(バンシー)の泣き声が聞こえた家では、近いうちに死者が出るとされている。

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泣女(妖精・バンシー)


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蕪村の奇想画(その五) [蕪村の奇想画]

その五 銀杏の木の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(銀杏の木の化物)

 この図の右側に、「鎌倉若宮八幡いてう(銀杏)の木のばけ者」と記されている。
蕪村のものは、『妖怪百物語絵巻(湯本豪一編著)』によると「老木の精霊を図像化」したものとされている。
 ここで、泉鏡花の「化銀杏(ばけいちょう)」の最終場面を掲載して置きたい。

【 諸君、他日もし北陸に旅行して、ついでありて金沢を過(よぎ)りたまわん時、好事(こうず)の方々心あらば、通りがかりの市人に就きて、化銀杏(ばけいちょう)の旅店?と問われよ。
老となく、少となく、皆直ちに首肯して、その道筋を教え申さむ。すなわち行きて一泊して、就褥(しゅうじょく)の後(のち)に御注意あれ。
 間(ま)広き旅店の客少なく、夜半の鐘声森(しん)として、凄風(せいふう)一陣身に染む時、長き廊下の最端に、跫然(きょうぜん)たる足音あり寂寞(せきばく)を破り近着き来(きた)りて、黒きもの颯(さと)うつる障子の外なる幻影の、諸君の寝息を覗うかがうあらむ。その時声を立てられな。もし咳(しわぶき)をだにしたまわば、怪しき幻影は直ちに去るべし。忍びて様子をうかがいたまわば、すッと障子をあくると共に、銀杏返(いちょうがえし)の背向(うしろむき)に、あとあし下りに入いり来りて、諸君の枕辺(まくらべ)に近づくべし。その瞬時真白なる細き面影を一見して、思わず悚然(しょうぜん)としたまわんか。トタンに件(くだん)の幽霊は行燈(あんどん)の火を吹消(ふっけ)して、暗中を走る跫音(あしおと)、遠く、遠く、遠くなりつつ、長き廊下の尽頭(はずれ)に至りて、そのままハタと留やむべきなり。
 夜(よ)はいよいよ更けて、風寒きに、怪者の再来を慮(おもんばか)りて、諸君は一夜を待(まち)明かさむ。
 明くるを待ちて主翁(あるじ)に会し、就きて昨夜の奇怪を問われよ。主翁は黙して語らざるべし。再び聞かれよ、強いられよ、なお強いられよ。主翁は拒むことあたわずして、愁然(しゅうぜん)としてその実を語るべきなり。
 聞くのみにてはあき足らざらんか、主翁に請いて一室(ひとま)に行ゆけ。密閉したる暗室内に俯向うつむき伏したる銀杏返の、その背と、裳もすその動かずして、あたかもなきがらのごとくなるを、ソト戸の透すきより見るを得(う)べし。これ蓋(けだし)狂者の挙動なればとて、公判廷より許されし、良人を殺せし貞婦にして、旅店の主翁はその伯父なり。
 されど室内に立入りて、その面おもてを見んとせらるるとも、主翁は頑として肯(がえん)ぜざるべし。諸君涙あらば強うるなかれ。いかんとなれば、狂せるお貞は爾来(じらい)世の人に良人殺しの面を見られんを恥じて、長くこの暗室内に自らその身を封じたるものなればなり。渠(かれ)は恐懼おそれて日光を見ず、もし強いて戸を開きて光明その膚(はだ)えに一注せば、渠は立処(たちどころ)に絶して万事休やまむ。
 光を厭(いとう)ことかくのごとし。されば深更一縷(いちる)の燈火(ともしび)をもお貞は恐れて吹消(ふっけし)去るなり。
 渠はしかく活(いき)ながら暗中に葬り去られつ。良人を殺せし妻ながら、諸君請う恕(じょ)せられよ。あえて日光をあびせてもてこの憐むべき貞婦を射殺(いころす)なかれ。しかれどもその姿をのみ見て面を見ざる、諸君はさぞ本意(ほい)なからむ。さりながら、諸君より十層二十層、なお幾十層、ここに本意なき少年あり。渠は活きたるお貞よりもむしろその姉の幽霊を見んと欲して、なお且つしかするを得ざるものをや 】


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蕪村の奇想画(その四) [蕪村の奇想画]

その四 産女の化物

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(産女の化物)

 右側に、「出羽の国 横手の城下 蛇の崎が橋 うぶめの化物」とあり、この図の次に、「関口五郎太夫」の図があり、その図に、「雨ふる夜、此のばけものに出合、力をさづけられるとぞ。其の後ゑぞか嶋合戦の時、其てがらあらわしけるとぞ。佐竹の家中にその子孫有」とある。
 蕪村の自叙伝の『新花摘』(安永六年作)にも、結城や宮津で狸に悪戯された話や、下館の狐の話が出て来るが、それと一緒に、秋田佐田家の家老、「梅津半右衛門ノ尉」(其角門の俳人・其雫=キダ)の四十七士討ち入りのことを報じた手紙の伝来記などが記されている。
 蕪村の「妖怪絵巻」の「産女の化物」は、その秋田佐田家地方の「産女の妖怪」と関わっているようである。
 死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという伝承は、日本の各地で様々な「産女・姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」の妖怪ものを生んでいる。

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鳥山石燕『画図百鬼夜行』「姑獲鳥(うぶめ・こかくちょう)」

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蕪村の奇想画(その三) [蕪村の奇想画]

その三 ぬっぽり坊主

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(ぬっぽり坊主)

 「京か帷子が辻、ぬっぽり坊主のばけもの。目は鼻もなく、一つの眼、尻の穴に有りて、光ること稲妻のごとし」とある。
 ここで、蕪村の時代以後の『絵本百物語』((天保十ニ年刊)の「帷子の辻」を紹介して置きたい。それは、どうやら、「腐乱した高貴な女性の死体が見える妖怪談で、その女性が、カラスや犬に食われ、蛆が湧いていく、その様を見た人々が、うつつを抜かし行く」という図と、何やら、繋がっている感じなのである。
 とにもかくにも、この、蕪村の「ぬっぽり坊主」は、蕪村の「原風景」と深く関わるものなのであろう。

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『絵本百物語』所収「帷子の辻」

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蕪村の奇想画(その二) [蕪村の奇想画]

その二 赤子

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(赤子)

 左側の人物が「林一角坊」、そして、「夜更けて数百人の足音して踊る体(テイ)に聞こえける故、襖を押し開け、伺いけるに、数千の赤子あつまりて、一角坊をなやまし」ている図である。この右側は「赤子」(妖怪)の群像である。
 この赤子(妖怪)は、大和国(現・奈良県)に伝わる妖怪らしい。この蕪村の「赤子(妖怪)」系列の、『ばけもの絵巻』(年代・作者不詳)もあるらしい。

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『ばけもの絵巻』(年代・作者不詳)


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蕪村の奇想画(その一) [蕪村の奇想画]

その一 猫股

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『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「妖怪絵巻」(猫股)

 蕪村が、宝暦四年(一七五四)から七年(一七五七)にかけて寄寓していた京都・丹後・宮津・の見性寺の欄間に張られていたものと伝えられている『蕪村妖怪絵巻』(ブソンヨウカイエマキ)は、通常の蕪村画とは異質の「奇想画」と名付けても差し支えなかろう。
 その第一景は、「榊原の家臣稲葉六郎大夫と猫又(ネコマタ)」である。左側の文字は、「おれがはら(腹)のかわ(皮)をためして見おれ、にゃん、にゃん」とある。
 この「猫股」は、年をとった猫で、尾が二つに分かれ、時に化けて人に害をなすと恐れられている。この蕪村の奇想画は、彼の「戯画・酔画」のうちの、一つの余興的な作品なのであろうが、
蕪村の根っ子のところに、この系譜の「奇想画」に連ねるものが見て取れる。
 蕪村の三大俳詩の一つ「春風馬堤曲」(安永六年)に、破調の発句体の、次の句がある。

〇 古駅三両家猫児(ビョウジ)妻を呼(ヨブ)妻来(キタ)らず

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十五)  [芭蕉翁像]

その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」

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(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)

 平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」図録の「作品解説1」は、次のとおりである

【絹本着色 三五・〇×三七・〇
款記   朝滄写
印章   丹青不知老至(白文方印)
柿衛文庫蔵

後賛詞(上部)
 此俳仙群会の図は元文の
 むかし余若干の時写したる
 ものにしてこゝに四十有余年
 に及へりされは其拙筆
 今更恥へしなんそ烏有と
 ならすや今又是に
 讃詞を加へよといいふ固辞
 すれともゆるさすすなはち
 筆を洛下の夜半亭にとる
 花散月落て
  文こゝに
   あらあり
    かたや
 天明壬寅春三月
 六十七翁蕪村書
 印章 謝長庚印(白文方印) 溌墨生痕
賛(下部)
 元日や神代のこともおもはるゝ(守武)
 鳳凰も出よのとけきとりのとし(長頭丸・貞徳)
 これはこれはとはかり花のよしのやま(貞室)
 手をついて哥申上る蛙かな(宗鑑)
 ほとゝきすいかに鬼神もたしかに聞け(梅翁・宗因)
 古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 桂男懐にも入や閨の月(やちよ)
 古暦ほしき人にはまいらせむ(嵐雪)
いなつまやきのふはひかしけふは西(其角)
 はつれはつれあはにも似たるすゝき哉(園女)
 かれたかとおもふたにさてうめの花(支考)
 こよひしも黒きもの有けふの月(宋阿)
 任口上人の句はわすれたり
  平安蕪邨書
 印章 謝長庚(白文方印) 謝春星(白文方印)

 後賛詞「元文のむかし余若干の時写したるものにして」によれば、元文年間、蕪村二十代前半の作で、現存する原本作品中最も古いものということになる。芭蕉を初めとする俳仙に、師・宋阿を加えた計十四人の俳人が描かれている。後賛詞に誤りがなければ、宋阿像は生存中の宋阿を描いたことになる。一方では、この作品の制作時期を、丹後時代とする説もある。描いた年代の記憶は、時と共に曖昧になるのが常だが、自身の師の像を生存中に描いたか否かの記憶は、早々薄れるものではない。したがって、蕪村の後賛詞は信ずるに足るものであると考えられる。人物の表現に関しては、「狩野・土佐折衷様式を持つ江戸狩野の特色が強い」との指摘がなされている。 】

 この「作品解説(北畠健稿)」の基本的な考え方は、「柿衛文庫」の創設者・岡田利兵衛氏の『俳画の美 蕪村・月渓』所収「俳仙群会図」の解説を踏襲している。その解説は次のとおりである。

【右の大きさ(画 竪三五センチ 横三七センチ 全書画竪 八七センチ)の絹本に十四人の俳仙、すなわち宗鑑・守武・長頭丸(貞徳)・貞室・梅翁(宗因)・任口・芭蕉・其角・嵐雪・支考・鬼貫・八千代・園女と宋阿(巴人)の像を集めてえがいている。特に宋阿は蕪村の師であるので加えたもので、揮毫の時点においては健在であったから迫真の像であると思われる。着彩で精密な描写は大和絵風の筆致で、のちの蕪村画風とは甚だ異色のものである。これは蕪村が絵修業中で、まだ進むべき方途が定まっていなかったからであろう。しかし細かい線の強さ、人物の眼光に後年の画風の萌芽を見出すことができる。
中段に別の絹地に左の句がかかる。

 (「賛」の句・落款を省略)

さらに上段に左記の句文か貼付される。これは紙本である。

 (「後賛詞」の句文・落款を省略)

この三部は三時期に別々にかかれたもの。上段は紙本で明らかに区分されるが、中段と下段はどちらも絹本であってやや紛らわしいかもしれないが絹の時代色が違うのと、謝長庚・謝春星の印記が捺され、この号は宝暦末から使用されるから、これから見て区分は明白である。上段の文意によってもそのことがわかる。
ここで最も重大なことは上段に「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして、こゝに四十有余年」と自ら記している点である。これは絵が元文期・・・蕪村二十一歳から二十四歳・・・に揮毫されたことを立証している。すなわち現に伝存する蕪村筆の絵画中の最も早期にかかれたものであり、その点、甚だ貴重な画蹟といわねばならぬ。それに四十有余年後の天明二年に賛を加えよといわれて、困ったが自筆に相違ないので恥じながら加賛したのである。
 この画の落款は朝滄である。この号はつづく結城時代から丹後期まで用いられるものである。また印記の「丹青不知老到」という遊印であるが、この印章は初期に屡々款印に用いられている。すなわち下段の画は元文、中段の句は安永初頭(推定)、上段は天明二年の作である。
 以下、略 】

 ここで、蕪村の画号の「朝滄」は、蕪村の関東歴行時代(元文元年・一七三六~寛延三年・一七五〇)には見られない(画号は「子漢・四明・蕪村」の三種類だけである)。そして、印章は、「四明山人・朝滄・渓漢仲」で、「朝滄」(二種類)が用いられている。
 問題は、「丹青不知老到(タンセイオイノイタルヲシラズ)」の遊印で、いみじくも、この遊印は、同年齢の蕪村と若冲とが、同じ頃、それぞれが、それぞれの自己の遊印として使用しているという曰くありげな印章なのである。
 即ち、この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。
 この宝暦九年(一七五九)・宝暦十年(一七六〇)というのは、若冲・蕪村が、四十四歳・四十五歳の時で、杜甫の詩に由来のある「丹青(絵画)老イノ至ルヲ知ラズ」は、「不惑ノ年=四十歳=初老」と深く関わっているように思われる(これらのことについては「補記」を参照)。
 蕪村が、不惑の四十歳を迎えるのは、宝暦五年(一七五五)で、その前年に丹後宮津に赴き、以後、この宮津滞在中に「朝滄」の号で多くの画作を残している。こういう観点から、二十歳代の蕪村(「宰町・宰鳥」時代)が、「朝滄」という画号はともかく、「丹青不知老到」という印章を使用するとは、まずもって不自然ということになろう。
 とすると、この「後賛詞」の「元文のむかし、余弱冠の時写したるものにして」とは、
この「俳仙群会図」の下絵など(「控え帳」などの「縮図」など)を指し、それに基づいて、丹後時代に本絵を仕上げたという意味にも取れなくも無い。
 そして、この「後賛詞」を書いた、亡くなる一年前の天明二年(一七八三)に、蕪村は二枚の表情の異なる「芭蕉翁像」(座像)を描いている(その十三を参照)。それらの「芭蕉翁像」と、この「俳仙群会図」の、この「後賛詞」とは、やはり、何かしら縁があるように思われる。
 いずれにしろ、この「俳仙群会図」中の、無帽の座像の「芭蕉像」は、それが、元文年間の駆け出しの二十歳代のものにしろ、宝暦年間の不惑の年の四十歳代のものにしろ、蕪村の「芭蕉像」の、そのスタート地点のものであることには、いささかも変わりはない。
 そして、蕪村が亡くなる一年前の、六十七歳時の、この「俳仙群会図」の「後賛詞」の末尾に記した、「花散り月落ちて文こゝにありあらありがたや」の、この字余りの破調の句は、「花が散る、月が落ちるように、芭蕉翁、師の宋阿翁をはじめ、皆、俳仙の方々は鬼籍の人となったが、その句文は今に存して、道しるべとなっている。何とありがたいことであることか」というのは、「六十七歳・蕪村翁」の、万感の意を込めてのものであろう。
 この「俳仙群会図」は、蕪村の生涯、そして、蕪村の芭蕉観を知る上での、極めて、重要且つ示唆深い作品の一つということになろう。

俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(補記)「若冲と蕪村の『蝦蟇・鉄拐図』」より「朝滄」と「「丹青不知老(将)至」関連(抜粋)

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。

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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十四)  [芭蕉翁像]

その十四 眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』に収録されている下記の十一点について、
これまでに、「④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)を除いて、全て、概括してきた。今回、この最後の一枚を見て行きたい。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年作=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)→(その七)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)→(その八)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九作。金福寺蔵)→(その六)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)→(その十四)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)→(その十一)
全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)→(その十)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)→(その九)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)→(その十三)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)→(その十三)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)→(その十二)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)→ (その一)

蕪村遺芳.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「89『芭蕉像』画賛」

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「89『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

紙本墨画 一幅 
一〇〇・一×三〇・七cm
款 「夜半亭蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛  後掲
『蕪村遺芳』
(賛)
蓬莱に聞はやいせの初便
先たのむ椎の木も有夏木立
名月や池をめくりて終宵
海くれて鴨の声ほのかにしろし

 この「芭蕉像」は白帽子である。「安永八年作=一七七九作」の「① 座像」「② 半身像」「③ 座像」も、白帽子であった。その特徴からする、その「安永八年(一七七九)」の、金福寺に奉納した「③ 座像」と、同一時頃の作品なのかも知れない。
 ここで、「国文学 解釈と鑑賞(特集与謝蕪村)837 2001/2」所収「蕪村の描いた芭蕉(早川聞多稿)」で紹介されている「芭蕉像に賛された発句一覧(句の上の数字は引用回数、句の下に、詠句年齢・出所出典)」を、以下に掲げて置きたい。
 ※は、この賛にある句である。

⑥ 芭蕉野分して盥に雨をきく夜かな (三八歳・茅舎の感)
⑤ 花にうき世我我酒白く飯黒し   (四〇際・虚栗)
⑤ 夏衣もいまだ虱を取り尽さず   (四二歳・野ざらし紀行)
④ 名月や池をめぐりて夜もすがら  (四三歳・あつめ句)   ※
③ わが衣に伏見の桃の雫せよ    (四二歳・野ざらし紀行)
③ 海暮れて鴨の声ほのかに白し   (四二歳・野ざらし紀行) ※
③ 世にふるもさらに宗祇のやどりかな(四三歳・笠の記)
③ おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな (四五歳・鵜舟)
③ 朝夜さに誰がのつしまぞ片心   (四五歳・桃舐集)
③ 行く春や鳥啼魚の目は泪     (四六歳・奥の細道)
③ 物いへば唇寒し秋の風      (四八歳頃・芭蕉庵小文庫)

③ 蓬莱に聞かばや伊勢の初便    (五一歳・真蹟自画賛)  ※
② 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  (四二歳・野ざらし紀行)
② あけぼのや白魚白きこと一寸   (四二歳・野ざらし紀行)
② 年暮れぬ笠着て草鞋はきなから  (四二歳・野ざらし紀行)
② 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  (四二歳・野ざらし紀行)
② 古池や蛙飛こむ水の音      (四三歳・蛙合)
② いてや我よき衣着たり蝉衣    (四四歳・あつめ句)
② 五月雨に鳰のうき巣を見にゆかん (四四歳・泊船集)
② 寒菊や粉糠のかゝる臼の端    (五〇歳・炭俵)
② この道を行く人なしに秋の暮   (五一歳・書簡)

① 櫓の声(せい)波を打つて腸凍る夜や涙 (三八歳・寒夜の辞)
① 年の市線香買ひに出でばやな   (四三歳・続虚栗)
① おもしろし雪にやならん冬の雨  (四四歳・俳諧千鳥掛)
① 夕顔や秋はいろいろ瓢哉     (四五歳・真蹟懐紙考)
① このあたり目に見ゆるものは皆涼し(四五歳・十八楼の記)
① 粟稗にまづしくもあらず草の庵  (四五歳・笈日記)
① あかあかと日はつれなくも秋の風 (四六歳・奥の細道)
① 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   (四六歳・猿蓑)
① 蛍の笠落したる椿かな      (四七歳・真蹟色紙)
① 菰を着て誰人います花の春    (四七歳・真蹟草稿)

① 先たのむ椎の木も有り夏木立   (四七歳・幻住庵の記) ※
① ほととぎす大竹藪を漏る月夜   (四八歳・嵯峨日記)
子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん   (五〇歳・藤の実)
① 稲妻や闇の方ゆく五位の声    (五一歳・有磯海)


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蕪村・百川・若冲そして月渓らの「芭蕉翁像」(その十三)  [芭蕉翁像]

その十三 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)

天明二年1.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「101『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「101『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「天明歳次壬寅晩冬初十日 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(白文連印)
賛  後掲
天明二年(一七八二)
『俳人真蹟全集 蕪村』
(賛)
花にうき世我酒しろく飯くろし
夏ころもいまた虱をとりつくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜哉
あけぼのや白魚しろきこと一寸
あさよさにたれまつしまそ片こゝろ

 落款の「天明歳次壬寅晩冬初十日」から、「天明二年(一七八二)十ニ月十日」の作ということになる。蕪村が亡くなるのは、翌年の天明三年(一七八三)十ニ月二十五日、丁度、亡くなる一年前の作品ということになる。
 この賛中の芭蕉の五句は、蕪村が精選を重ねての五句ということになろう。晩年の芭蕉が到達した「軽み」の世界というのは、「日常卑近な題材の中に新しい美を発見し、それを真率・平淡に表現する」と要約すれば、これらの作品は、決して晩年の作品ではないが、どの句も「日常卑近の題材」であり、そして、どの句も「真率・平淡な表現」のものということになろう。
 これらの賛の五句が、芭蕉の「軽み」の世界のものとするならば、この蕪村の「芭蕉像」を、顔の表情は実にユーモラスで、先に紹介した「倣暒々翁墨意」の落款のある「芭蕉像」(『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」)に近いという印象を深くする。

天明二年2.jpg
『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』所収「102『芭蕉像』画賛」

『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の「102『芭蕉像』画賛」で、次のとおり紹介されている。

一幅 
款 「蕪村拝写」
印 一顆(印文不明)
賛  後掲
『上方俳星遺芳』
(賛)
花にうき世我酒白く飯黒し
夏衣いまた虱を取つくさす
はせを野分して盥に雨をきく夜かな
おもしろし雪にやならむふゆの雨
あさよさにたれまつしまそ片心

 冒頭に掲げた「芭蕉像」の賛中の五句と同じものではなく、この四句目のみが相違している。また、他の四句も、漢字と平仮名などの句形を異なにしている。しかし、この両者は、この賛などからして、同一時期の作品と解したい。即ち、両者とも、天明二年(一七八二)作と解したい。
 その上で、両者の画像を比較鑑賞すると、前者が、速筆体の「戯画」「酔画」の、「真・行・草」の「草画」的な印象に比して、後者の方は、丁寧な筆遣いで、「真(本)画」的な印象を強く受ける。

 先に、安永末年(一七八〇)から天明三年(一七八三)の間と推定される、大津の俳人、(伊東)子謙宛ての蕪村書簡の一部について触れたが、ここで、より詳しく、その書簡について触れて置きたい。

[ (前略)
〇 杉風が画の肖像も少々俗気有之候故、いさゝか添削を加候。都(スベ)て肖像之画法は、年を寄せ候が能(よく)候。
〇 杉風原本にはしとね(褥)を敷(しき)候へども、是はよろしからず候。仏家之祖師などの像には褥(しとね)をよく候へ共、翁などのごとき風流洒落(しゃらく)にて脱俗塵たる像は、只寒相にて寂しき方を貴(たっと)び申事に候。
〇 愚老むかし関東に於て、許六が画の肖像に素堂の賛有之物を見申候 厳然たる真蹟 伝来正きものに候 其像之面相は 杉風が画たる像とは大同小異有之候 許六が画(えがき)たるも 翁現世の時之画と相見え候 杉風・許六二画の内、いづれが真にせまり候や 無覚束候 愚老が今写する所は、右二子の画たる像を参合して写出候。庶幾(こいねがわくば)其真にせまらん事を。(以下、略)  ]
(『蕪村書簡集(大谷篤蔵・藤田真一校注)』)

 蕪村が描く座像の「芭蕉像」は、多く、杉風の芭蕉像(例えば、義仲寺の芭蕉像)を参考にしているのだろうが、この書簡にあるごとく、ことごとく「添削を加え」(手を入れて修正している)、蕪村の内たる芭蕉像を描出している。
 また、この書簡の、杉風作は「褥を敷(しき)候へ共、是はよろしからず候」と、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』で紹介されている七点の座像ものは、全てが、「褥(しとね=座る時の四角い敷物)は敷いていない。
 さらに、この書簡の、「肖像之画法は、年を寄せ候(年相応に描く)が能(よく)候」と、その顔の表情などは、一枚足りとも同じ表情のものはない。壮年の芭蕉は壮年らしく、老齢の芭蕉は老齢のままに描いている。

 上記の同一時の頃の作と思われる(その賛などからして)二例にしても、前者が「動的・ユーモラス」な芭蕉像とすると、後者は「静的・謹厳実直」な芭蕉像という趣である。そして、画人・蕪村の忠実な後継者である「月渓」の描く芭蕉像などは、蕪村の外面的なものの把握だけで、その内面的なものに迫ろうとする気配は感じられない。
 そして、これまで見てきた「百川・若冲・月渓」の芭蕉像と、蕪村のそれとを比較すると、質・量共に、蕪村に匹敵する画人は見当たらないということを実感する。

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