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町物(京都・江戸)と浮世絵(その八 酒井抱一・その三) [洛東遺芳館]

(その八) 酒井抱一(その三)「晋子肖像」
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。

「月泉(げっせん)阿誰(あすい)ははじめ夜半亭の門人なりしが、宋阿いまそかりける時、阿誰・大済(たいさい)ふたりは余が社中たるべきことの約せしより、机下に遊ぶこと年あり、もとより、夜半亭とあが水魚のまじはりあつきがゆえなり。」(阿誰追善集『その人』の存義の「序文」、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信編)』よりの抜粋)

 上記は、夜半亭一世・早野巴人の遺句集『夜半亭保発句帖』を編んだ「阿誰・大済・雁宕」の、その編者の一人、阿誰・追善集『その人』に寄せた、当時の江戸座俳諧の代表的な宗匠・馬場存義その人の「序」文なのである。

(歌仙) 柳ちり (底本『反古ぶすま』 寛延三年以前の作と推定)
 神無月はじめの頃ほひ、下野の国に執行して、
遊行柳とかいへる古木の陰(陰 )に
目前の景色を申出はべる
柳ちり清水かれ石ところどころ     蕪村
 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月      李井(存義)
茶坊主を貰ふて帰る追出シに        百万(旨原)
(以下 略)

(歌仙) 思ふこと (底本『東風流』 宝暦元年以前の作と推定)

思ふことありや月見る細工人       宋阿(早野巴人)
 声は満(みち)たり一寸の虫      春来(前田春来)
行く水に秋の三葉(みつば)を引捨(すて)て  大済(中村大済)
 朝日夕日に森の八棟(やつむね)       蕪村(与謝蕪村)
居眠(ねむり)て和漢の才を息(いこ)ふらん  雁宕(砂岡雁宕)
 出るかと待(まて)ば今米を炊(たく)    存義(馬場存義)
 (以下略)

 存義は、元禄十六年(一七〇三)の生まれ、蕪村は享保元年(一七一六)の生まれで、存義は、蕪村よりも十三歳年長である。しかし、この二人は、其角そして巴人に連なる俳人で、謂わば、存義は、蕪村の師の巴人の関係からすると、蕪村の兄弟子ということになろう。
 そして、寛保二年(一七四二)、巴人が没した時、二十七歳であった蕪村は、結城の砂岡雁宕のもとに身を寄せるが、その前後には、上記のとおり、江戸座の宗匠の一人となっている存義と歌仙(連句)を巻く間柄であったのである。

(『寛保四年宇都宮歳旦帖(蕪村編著)』)

 寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯

(「歳旦三つ物」)
  いぶき山の御燈に古年の光をのこし、
  かも川の水音にやや春を告げたり
 鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱   宰鳥(蕪村の前号)
   神馬(じんめ)しづかに春の白たへ     露鳩
 谷水の泡だつかたは根芹にて          素玉
  (中略)
 名月の根分の芋も雑煮かな           嶺月
  大黒舞の気にも子(ね)の味         宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
  宝引綱(ほうびきづな)もみる喰(くひ)の紅 露長
 のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて   宰鳥(蕪村の前号)
  (中略)
(「歳末」)
  (前略)
 水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり  宰鳥(蕪村の前号)
(「春興」)
 梅が香や能(よき)瓶持(もち)て酒一斗    雁宕(結城)
   (中略)
 逃水(にげみづ)に羽をこく雉子の光哉     大済(下館)
   (中略)
 梅が香や画具(ゑのぐ)のはげる御所車     阿誰(関宿さか井)
   (中略)
 梅が香や隣の娘嫁(か)せし後         潭北(佐久山)
   (後略)
(軸)
 古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら        蕪村(「蕪村」の改号)
(追加) (後略)
(追附) (前略)
  四十のはるを迎(むかへ)て
 七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 存義

 寛保四年(一七四四)、蕪村、二十九歳の時、結城の砂岡雁宕の娘婿である佐藤露鳩の後援を得て宇都宮で歳旦帖を出した。歳旦帖を出したということは俳諧宗匠として一人立ちをしたということである。
 『寛保四年宇都宮歳旦帖』は、紙数九枚(十七頁)の片々たる小冊子であるが、蕪村が編集した最初の俳書であり、また、「蕪村」の号が初めて見える文献として重要な意味を持つ。
 その表紙に記された、「寛保四甲子/歳旦歳暮吟/追加春興句/野州宇都宮/渓霜蕪村輯」の「渓霜蕪村」の「渓霜(けいそう)」は、「芭蕉桃青(とうせい)のように、号を二つ重ねたものなのかも知れない。また、「谷(口)蕪村」の「渓」の意味もあるのかも知れない。また、この「霜」は、寛延三年(一七五〇)の「月夜行旅図」の落款に「霜蕪村」とあり、その関連もあるのかも知れない。
 この歳旦帖には、蕪村の句(付句を含む)は五句あるが、それは、上記のとおり、蕪村の前号の「宰鳥」の名で、「歳旦三つ物」の「発句」(「鶏(とり)は羽(は)にはつねをうつの宮柱」)・「脇句」(「大黒舞の気にも子(ね)の味」)・「第三」(「のどかさは又鉄槌(かなづち)の柄もぬけて」)、「歳末」の句(発句=俳句)「水引も穂に出(いで)けりな衣(きぬ)くばり」の四句、そして、「春興」の軸句(発句=俳句、巻軸句として一番重要な句)の、「蕪村」の号による「古庭に鶯啼(なき)ぬ日もすがら」の句である。
 そして、さらに重要なことは、この蕪村のこの「軸」句の後に、「追加」として、「東都(江戸)」俳人、さらに続けて、「追附」として、同じく、「東都(江戸)」の俳人の句を続けて、その「巻末」の句に、存義の「四十のはるを迎(むかへ)て」の前書きのある七種(ななくさ)やはじめて老(おい)の寝覚より 」の句を以て、この歳旦帖を締め括っているのである。
 すなわち、「蕪村」の改号披露を兼ねての、俳諧宗匠として一人立ちを意味する「(宗匠)立机」披露の初「歳旦帖」を刊行するにあたり、その最高後援者の、お墨付けを与える役として、実質上、亡き夜半亭一世宋阿こと早野巴人の『夜半亭俳諧』を引き継いだ、江戸座の総宗匠格の馬場存義が、この句を蕪村に下賜して、江戸座の俳諧宗匠としての蕪村を認知したということを意味しよう。
 そして、その存義を頂点とする蕪村を巡る先輩格の江戸座の宗匠の面々が、雁宕(結城)・
大済(下館)・ 阿誰(関宿さか井)・潭北(佐久山)・露鳩(宇都宮)等々ということになろう。
 その俳諧宗匠として一人立ちをした、当時、二十九歳の蕪村が、六十二歳と老齢を重ねた安永六年(一七四四)に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」と、当時、十七歳の酒井抱一が、蕪村と関係の深かった、その馬場存義の江戸座俳諧に入門して来るのである。

 これは、「画・俳」の二道を極めた、日本南画の大成者の一人でもある与謝蕪村と、ともすると、「江戸琳派の創始者」として、その「画」道の人としのみに見られがちの酒井抱一が、実は、蕪村と同じ宝井其角に通ずる、江戸座の俳諧宗匠の大立者の馬場存義を介して、「俳」(俳諧=連句・俳句)の世界の人でもあったということと、それに併せ、「浮世絵・狂歌・漢詩・茶道・能」等々に通じた、蕪村以上のディレッタント(多種多用な芸術や学問を趣味として愛好する好事家などを意味する)であることを、思い知るのである。

 ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり

補記三 建部巣兆

https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/shiryo-takebesocho.html

巣兆.jpg
巣兆筆「盆踊り図」

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その七 酒井抱一・その二) [洛東遺芳館]

(その七) 酒井抱一(その二)「文読む美人図」

抱一・文読む美人図.jpg
酒井抱一筆「文読む美人図」一幅 太田記念美術館蔵

「二十代の抱一が多数描いた美人画の中でも最初の段階を示す作らしく、手つき足首など、たどたどしく頼りなさがあるが、側面の顔立ちが柔和で、帯の文様など真摯な取り組みが初々しい。安永期に活躍し影響の大きかった浮世絵師、磯田湖龍斎による美人画の細身なスタイルの反映があることも、制作時期の早さを示す。『楓窓杜綾畫』と署名し、『杜綾』朱文印を捺す。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

 抱一は、酒井家の家老、松下高除の著書『摘古探要』中の「等覚院殿御一代」(抱一の法名「等覚院文詮暉真」)に、「天明の頃は浮世絵師歌川豊春の風を遊ハしけるが(後略)」とあり、浮世絵の最大の流派である歌川派の始祖、「歌川豊春」(一七三五~一八一四)に、浮世絵美人画を学んだと目されている。
 豊春の出生地は、豊後国臼杵(うすき)ともいわれ、また、但馬国豊岡、江戸ともいわれている。京都に出て、江戸狩野派の鶴沢探鯨(たんけい)に学んだ後、江戸に出て烏山石燕(せきえん)に入門したという。
 豊春の門人の双璧は、初代歌川豊国と歌川豊広で、その両門下から秀抜した浮世絵師たちが多数輩出し、その後の浮世絵界をリードする一大勢力を築き上げている。「洛東遺芳館」にも、この豊春や豊国に連なる浮世絵が多数あり、応挙、そして、呉春に連なる「円山四条派」の作品と共に、一つの特色となっている。

豊春.jpg
歌川豊春筆「松風村雨図」絹本著色 一幅 洛東遺芳館蔵

補記一 江戸の琳派芸術 (出光美術館)

http://blog.livedoor.jp/aa3454/archives/72320153.html

「遊女と禿図」(抱一筆)

「天明七丁未初冬尻焼猿人画」の署名と「猿人」の朱文印が捺されている。抱一、二十七歳の作。賛は吉原五明楼の扇屋花扇が、寝惚子こと大田南畝の戯文を書いたもので、絵の花魁のモデルは花扇と見る説もある。

補記二 「生誕250年記念展 酒井抱一と江戸琳派の全貌」(総出品目録)

http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2011/1010/1010_list2.pdf

補記三 酒井抱一「松風村雨図」(細見美術館蔵)

「松風村雨図」は浮世絵師歌川豊春に数点の先行作品が知られる。本図はそれに依ったものであるが、墨の濃淡を基調とする端正な画風や、美人の繊細な線描などに、後の抱一の優れた筆致を予測させる確かな表現が見出される。兄宗雅好みの軸を包む布がともに伝来、酒井家に長く愛蔵されていた。(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「二章 浮世絵制作と狂歌」)

www.j-bunka.jp/comment/10suzuki.pdf


抱一 村雨図.jpg
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その六 酒井抱一・その一) [洛東遺芳館]

(その六) 酒井抱一(その一)「冨士図」

抱一・冨士図.jpg
酒井抱一筆「富士図」 絹本墨画金泥 一幅

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

富士の表現には、周囲を薄墨で暗くし、富士山自体は塗り残して白さを際立たせる外隈という技法が使われています。その富士山に墨の濃淡で表わされた雲が重なっています。
このような表現は、抱一に限らず、墨画の富士図に一般的ですが、抱一の特徴は、雲に用いる墨の滲みを、形がなくなるまで最大限に生かして、富士山の単純な形と対照させる点です。さらに、この作品は、稜線を真っ直ぐにして、デザイン性の強い琳派らしい作品となっています。

 酒井抱一(一七六一~一八二八)は、譜代大名酒井雅樂頭(うたのかみ)家の一員として生を享け、三十七歳で出家し(西本願寺第十八世文如光暉のもと「権大僧都等覚院文詮暉真」の称号を賜る)、酒井家を離れる。しかし、姫路十五万石を擁する有力大名家の出自は、生涯にわたり、抱一の基盤であり、その拠り所の中核に居するものであった。
 抱一は、「江戸琳派」の創始者として名高いが、その画業の開始は「浮世絵」であった。
抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、「安永八年(一七七九)十九歳」には、「杜綾(とりょぅ)」の号初めて用いる。古川藩主、土井家からの仮養子の所望を断る」とある。
 この年譜にもあるとおり、抱一の出発点は、画業としては「浮世絵」であったが、その母胎は、「遊びの文芸」としての「俳諧」、そして、それに続く、「狂歌・戯作」の世界であった。

歌麿・抱一.jpg
「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。


補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その五 呉春) [洛東遺芳館]

(その五) 呉春の「手描き友禅」「双六」

手描き友禅.jpg

呉春 手描 白絖地雪中藪柑子図描絵小袖 一領

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 蕪村の、天明初年(一七八一)五月二十六日付け佳棠宛て書簡に、次のような文面のものがある。

「小糸かたより申こし候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候て、美人には取合(とりあわせ)甚あしく候。やはり梅亭可然候。梅亭は毎度美人之衣服に書き覚(おぼえ)候故、模様取(どり)、旁(かたがた)甚よろしく候。小糸右之道理をしらずしての物好きと被存候。我等が画きたるを見候はゞ、却(かえつ)て小糸後悔可致ときのどくに候。小糸事に候ゆへ、何をたのみ候てもいなとは申さず候へども、物好きあしく候ては、西施に黥(イレズミ)いたす様成(なる)物にて候。美人之形容見劣り可申といたはしく候。二三日中に右あはせ仕立候て、もたせ遣(つかわし)候よし申遣候。どふぞ小糸に御逢被成候て、とくと御聞かせ可被下候。縷々(るる)筆談に尽しがたく候。何事も御顔御物がたりと申候。以上」

 天明初年(一七八一)というと、蕪村、六十六歳の時である。ここに出て来る「小糸」とは、晩年の蕪村の贔屓の芸妓である。この頃の蕪村の書簡には、「杉月(さんげつ)・雪楼(富永楼)・一菊楼・玉松亭・中村屋・井筒屋」などの茶屋(料亭)の名が、しばしば出て来る。
 この茶屋遊びには芸妓が付き物だが、蕪村の贔屓の芸妓は、「小糸・小雛・石松・琴野」などで、中でも、小糸に対する寵愛ぶりは相当なものがあったらしい。

「青楼(せいろう)の御意見承知いた候。御もつともの一書、御句にて小糸が情も今日限りに候。よしなき風流、老いの面目をうしなひ申し候。禁ずべし。さりながせ、もとめ得たる句、御批判下さるべく候。
 妹(いも)がかきね三味線草の花咲きぬ 」(安永九年四月二十五日付け道立宛て書簡)

 「青楼」とは遊郭のことだが、ここは茶屋(料亭)遊びのこと。上記の書簡は、道立が蕪村の茶屋遊びを諫めているものの返書なのであろう。儒学の名門に生まれ、自らも儒学者であった樋口道立は、夜半亭一門では蕪村に諫言できる唯一の人物であったのであろう。
 蕪村書簡で、道立の名はしばしば出て来るが、蕪村は必ず「様」「子」「君」などの敬称を付けており、道立を呼び捨てにしているものは目にしないない。年齢的に、道立は蕪村よりも二十歳程度も年下なのであるが、蕪村は道立を一目も二目も置いていたのであろう。

 いとによる物ならにくし凧(いかのぼり)  大阪 うめ
  さそえばぬるむ水のかも河           其答
 盃にさくらの発句をわざくれて          几董
  表うたがふ絵むしろの裏           小いと
 ちかづきの隣に声す夏の月            夜半(蕪村)
  おりおりかほる南天の花            佳棠

 天明二年(一七八二)、蕪村、六十七歳の折に刊行した、春興帖『花鳥篇』の中の俳諧(連句)の半歌仙(十二句の「連句」)の、表六句である。この表六句の発句は、大阪の梅女からの書簡に見える一句である。この「梅女」こそ、後に、呉春の後妻になる、当時の大阪の名妓なのである。
 この梅女の発句の句意は、「(蕪村さんが上げている)この凧(歌仙)が、(蕪村さんが肩入れしている)小糸(こいと)さんにによるものなら、何とも、憎らしい」というようなことであろう。
 それ続く、脇句の作者「其答(きとう)」とは、歌舞伎役者、初代・沢村国太郎その人である。俳号「其答」、屋号「三笠屋(後に「天満屋)で、京坂の舞台で活躍した大立者である。それに付けての「第三」は、夜半亭二世・蕪村の名跡を継ぐ、夜半亭三世・高井几董である。
 それに続く「四句目」は、蕪村御贔屓の芸妓、小糸の句である。「蕪村さんの御贔屓は表面だけで、その裏の真意は分かりません」というようなことであろうか。それに、蕪村がぬけぬけとと五句目を付けている。「近づきの印に小糸との語らいに、外には夏の月が掛かっている」と、ご満悦の様子である。
 続く、六句目の折端の句は、蕪村のパトロンの一人の、京都の書肆汲古堂の主人、田中庄兵衛こと、俳号・佳棠の句である。この佳棠が、蕪村の茶屋遊びの指南役なのであろう。

「いつもとは申しながら、この節季(せつき)、金ほしやと思ふことに候。今日はあまりのことに、手水鉢(ちようずばち)にむかひ、かかる身振り(手水鉢を叩こうとする人物を描く)いたし候へども、その金ここに、といふ人なきを恨み候。されどもこの雪、ただも見過ごしがたく候。二軒茶屋中村屋へと出かけ申すべく候。いずれ御出馬下さるべく候。是非是非。以上 二十七日 佳棠福人 」

 「かかる身振り」というのは、浄瑠璃の「ひらがな盛衰記」の登場人物、梅が枝(え)のしぐさで、彼女が金が欲しいといいながら手水鉢を叩くと、二階から「その金ここに」と小判三百両が投げ出される。金が無いといいながら、茶屋で雪見酒と洒落ようというのである。金が無いというのは、支払いの方は佳棠さんよろしくということであろう。福人は、その金持ちの敬称で、佳棠も福人と敬称で言われれば、雪見酒の費用は持たない訳にはいかないということであろう。佳棠の汲古堂の店は、寺町五条上ル町にあった。

 さて、司馬遼太郎に、呉春を主人公にした「天明の絵師」という小説がある。登場人物は、「蕪村・呉春・応挙・上田秋成」などである。そこでは、呉春について、「おそろしく器用なのだ。尋常一様の器用ではない。いまからすぐ呉服屋の番頭がつとまるほど如才ないし、手さきの器用さにかけては、それこそ人間ばなれしていた」と、呉春の、マルチの多芸多才ぶりを記している。
 そして、この呉春の師匠の蕪村は、「蕪村の病中、家計がいよいよ窮迫し、呉春は必死にかけまわってね金策した。借りられるところはすべて借りた。蕪村の俳句の弟子である宇治田原の庄屋奥田治兵衛には、正月の粟餅の無心をいったほどだ」と、その窮乏振りを記している。
 そして、蕪村と呉春について、「蕪村は現世で貧窮し、呉春は現世で名利を博した。しかし、百数十年後のこんにち、蕪村の評価はほとんど神格化されているほどに高く、『勅命』で思想を一変した呉春のそれは、応挙とともにみじめなほどひくい」と、この両者の比較を結語にしている。
 しかし、同じ時代に生きた、「天明の絵師」の、年齢順に、「蕪村・応挙・呉春」の三人のうちで、「茶屋遊び・芝居好き」にかけては、上記の佳棠との交遊などにあるとおり、その筆頭格であったことであろう。
 上記の、「『勅命』で思想を一変した呉春」といのは、「蕪村の絵は所詮は世捨てびとの手なぐさみにすぎず、権門成家の大建築に描くような張りのあるものではない」、「いま勅命があって、御所の杉戸、襖、天井などに絵をかけ、といわれれば、蕪村の絵ではつとまらんよ」という、応挙の画論のことで、呉春が、蕪村亡き後に、応挙の、この画論に従い、応挙門の、御所向きの絵に様変わりしたという指摘なのである。
 それらに続けて、「応挙の死後御所の御用をつとめ、その権威も手つだって画料はいよいよ高騰し、門人は数百人をかぞえるにいたり、呉春が四条通りに住んだところから門人たちはその周辺に居を移し、このため呉春の派は、『四条派』といわれ、繁栄し、その流儀の系列は、明治、大正、昭和の日本画の画壇にまで及んでいる」とし、「呉春が、もし蕪村の流れに生涯貞潔であったとすれば、単に無名の月渓でおわったろうし、また天明ノ大火がなかったなら、呉春は貧窮のうちに死んでいたのかもしれない」と、「蕪村好き」の司馬遼太郎らしい、「応挙・呉春」観を披露している。
 しかし、画人、あるいは、画壇の主流というのは、この「応挙・呉春」の流れであって、いわゆる、日本の文人画という「蕪村」の流れというのは、その亜流と化し、今や絶滅品種の類いのものということであろう。

 さて、また、冒頭の、呉春の「手書き友禅」に戻って、こういうものは、その師匠の蕪村も、上記の蕪村書簡にあるとおり、手掛けなかったし、また、司馬遼太郎の「御所向きの大建築の障壁画」を目指している応挙も、いかに、懇望されても、「その任に非ず」と、この種のものは、今に遺されていないようである。
 そして、マルチの、多芸多才の呉春は、この種のものだけでなく、子供向けの「双六」まで手掛けているのである。

双六.jpg

呉春 下絵 すごろく 木版 寛政十年

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

 こういう、「天明の絵師」の、マルチの多芸多才の「呉春」に匹敵する人物は、浮世絵師・北尾政演こと戯作者・山東京伝、そして、図案集『小紋新法』、滑稽図案集『絵兄弟』、滑稽本『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』、そして、紙製煙草入れ店を開き、そのデザインした煙草入れを大流行させた、「天明のマルチ・スーパースター」の、呉春より九歳年下の、江戸の「山東京伝」を抜きにしては語れないであろう。

補記一 司馬遼太郎の「天明の絵師」周辺

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補記二 山東京伝の「デザイン」周辺

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その四 北尾政演・山東京伝) [洛東遺芳館]

(その四) 浮世絵(北尾政演・山東京伝作「吉原傾城新美人合自筆鏡」)

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北尾政演作「吉原傾城新美人合自筆鏡」

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江戸時代後期の流行作家山東京伝は、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名で浮世絵を描いていました。その政演の最高傑作が、天明四年(1784)に出版された『吉原傾城新美人合自筆鏡』です。当時評判だった遊女の姿を描き、その上に彼女たち自筆の詩歌を載せています。右の遊女は松葉屋の瀬川で、彼女は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いていますが、他の遊女たちは自作の和歌を書いています。

上記の紹介文で、流行作家(戯作者)「山東京伝(さんとうきょうでん)」と浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)とで、浮世絵師・北尾政演は、どちらかというと従たる地位というものであろう。
 しかし、安永七年(一七七八)、十八歳の頃、そのスタート時は浮世絵師であり、その活躍の場は、黄表紙(大人用の絵草紙=絵本)の挿絵画家としてのものであった。そして、自ら、その黄表紙の戯作を書くようになったのは、二十歳代になってからで、「作・山東京伝、絵・北尾政演」と、浮世絵師と戯作者との両刀使いというのが、一番相応しいものであろう。
 しかも、上記の『吉原傾城新美人合自筆鏡』は、天明四年(一七八四)、二十四歳時のもので、その版元は、喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出す「蔦重」(蔦屋重三郎)その人なのである。
さらに、この浮世絵版画集ともいうべき絵本(画集)の「序」は、「四方山人(よもさんじん)=太田南畝=蜀山人=山手馬鹿人=四方赤良=幕府官僚=狂歌三大家の一人」、「跋」は、「朱楽管江(あけらかんこう)=准南堂=俳号・貫立=幕臣=狂歌三大家の一人」が書いている。
その上に、例えば、この絵図の右側の遊女は、当時の吉原の代表的な妓楼「松葉屋」の六代目「瀬川」の名跡を継いでいる大看板の遊女である。その遊女・瀬川の上部に書かれている、その瀬川自筆の盛唐の詩人・崔国輔の「長楽少年行」の後半(二行)の部分は次のとおりである。

章台折揚柳 → 章台(ショウダイ)揚柳(ヨウリュウ)ヲ折リ
春日路傍情 → 春日(シュンジツ) 路傍(ロボウ)ノ情(ジョウ)

 この「章台」は、遊里のこと。「折揚柳(セツヨウリュウ)」は、「別離の時に歌う楽曲(楽府題=がふだい)の名」、そして、「春日」は「春の日」、「路傍情」は、「路傍を見ている遊女との心の交流」のようなことであろう。

澱河歌.jpg

 蕪村筆「澱河曲」扇面自画賛(A) 紙本淡彩 一幅 一七・八×五〇・八センチ

款 右澱河歌曲 蕪村
印 東成(白文方印)

賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓→伏見百花楼ニ遊ビテ浪花ニ帰ル人ヲ送ル 妓ニ代ハリテ

  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願並枕長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン

  君は江頭の梅のことし
  花 水に浮て去ること
  すみやか也
  妾は水上の柳のことし
  影 水に沈て
  したかふことあたはす

澱河歌二.jpg

蕪村筆「澱河歌」扇面自画賛(B) 紙本淡彩 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
  
款 夜半翁蕪村
印 趙 大居(白文方印)

賛 澱河歌 夏
  若たけや
  はしもとの遊女
  ありやなし
    
澱河歌 春
  春水浮梅花南流菟合澱→春水梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
  錦纜君勿解急瀬舟如電→錦纜君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟雷ノ如シ
  菟水合澱水交流如一身→菟水澱水ニ合シ 交流一身ノ如シ
  舟中願同寝長為浪花人→舟中願ハク寝ヲ同(とも)ニシ 長ジテ浪花ノ人ト為ラン
  君は江頭の梅のことし
   花 水に浮て去事すみ
   やか也
   妾は岸傍の柳のことし
   影 水に沈てしたかふ
   ことあたはす

 蕪村には、「北寿老仙をいたむ」(「晋我追悼曲」)、「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」の、三大俳詩がある。この「春風馬堤曲(十八首)」と「澱河歌(三首)」とは、安永六年(一七七七)、六十二歳の折の春興帖『夜半楽』に収載されているもので、「老鶯児(一首)」と併せ、三部作の連作詩篇として夙に名高い。
 この『夜半楽』収載の三部作のうち、「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、その従属的な作品と解されがちであったが、上記の「扇面自画賛」(AとB)などの紹介などと併せ、逆に、「春風馬堤曲」の先行的な作品として、『澱河歌の周辺』(『与謝蕪村(安藤次男著)』)などで、蕪村のエロティシズムの俳詩として再評価されている。
 『蕪村の世界(尾形仂著)』では、「扇面自画賛」(A)は、「これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される」とし、さらに、「扇面自画賛」(B)に記されている「若竹やはしもとの遊女ありやなし」の句について、「安永四年五月二十一日、几董庵月並句会での兼題『若竹』によるものであろう」とし、その前後の作であることを示唆している。
 何れにしろ、安永六年(一七七七)、春興帖『夜半楽』の三部作、「春風馬堤曲(十八首)、「澱河歌(三首)」、そして「「老鶯児(一首)」は、それぞれに相互に連動している、晩年の蕪村の「華やぎと老懶」の詩境を如実に反映していることは想像する難くない。
 そして、この『澱河歌』の、「澱河」(澱水)は、淀川、「菟水」は、宇治川の中国風の呼び名で、「京都伏見の百花楼で、淀川を舟で浪花へ帰る男を見送る遊女にかわって、蕪村がその惜別の情を詠んだ漢詩(二首)、和詩(一首)より成る、楽府題の一曲」というのが、この俳詩の解題ということになろう。

 ここで、冒頭の北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」とに戻りたい。この楽府題の歌語の「折揚柳」は、蕪村の「澱河歌」の、「君は江頭の梅のことし/妾は水上の柳のことし」と対応している。
 すなわち、上記の冒頭の「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川の背後には、蕪村が「扇面自画賛(A)」で描いている、「男(少年)」との別離が見え隠れしているのである。さらに、「扇面自画賛(B)」で続けるならば、その冒頭に出て来る「若竹やはしもとの遊女ありやなし」と連動している。
 この「はしもと(橋本)」は、現京都府八幡市内、当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多く、蕪村がその竹林の奥に幻視しているのは、『撰集抄』に見える「江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか」と、西行に連なる遊女のそれであろう。
 そして、蕪村は、安永六年(一七七七)の、この春興帖『夜半楽』の刊行に続けて、亡母追善の意を込めての回想集『新花摘』を刊行するが、そこに収載されている、「ころもがへ母なん藤原氏なりけり」「ほととぎす歌よむ遊女聞こゆなる」などの発句は、蕪村の亡母追悼のものとして、これまた、「春風馬堤曲」と併せて、夙に知られているものである。
 
 ここまで来て、扇面自画賛(B)の、「澱河歌 夏」「澱河歌 春」に対応しての、蕪村の、それに続く、「澱河歌 秋」、そして、「澱河歌 冬」は、それらは、どのようなものであったのであろうか(?)
 それらは、永遠の謎ということになろう。そして、その蕪村の、永遠の謎の一つの解明として、安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳の折の、「老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな」、そして、安永七年(一七七八)、六十三歳の折の、「絶えだえの雲しのびずよ初しぐれ」の句が、冒頭の、北尾政演(山東京伝)作「吉原傾城新美人合自筆鏡」の右側の遊女・瀬川と、その瀬川自筆の「崔国輔の詩『長楽少年行』」の「折揚柳」と、見事に交叉して来るのである。

補記一 「吉原傾城新美人合自筆鏡」(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288343

補記二 浮世絵 山東京伝・北尾政演

http://heartland.geocities.jp/hamasakaba/44kyoden/

補記三 東洲斎写楽の登場秘話、蔦屋と山東京伝の筆禍

http://www.ten-f.com/kansei3nen.html

補記四 山東京伝・歌川豊国らの「腹筋逢夢石」

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306128158-1

補記五 蕪村の俳詩「澱河歌」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/11/blog-post.html

補記六 蕪村の「夜半楽」周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/09/blog-post.html

夜半楽(『蕪村全集七 編著・追善』所収)

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首
(この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。)

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

(「歌仙(一巻)」「春興雑題(四十三首)」略)

   謝 蕪 邨
余一日問耆老於故園。渡澱水
過馬堤。偶逢女歸省郷者。先
後行數里。相顧語。容姿嬋娟。
癡情可憐。因製歌曲十八首。
代女述意。題曰春風馬堤曲。

春風馬堤曲 十八首

○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤ヨリ下テ摘芳草  荊與蕀塞路
 荊蕀何妬情    裂裙且傷股
○溪流石點々   踏石撮香芹
 多謝水上石   敎儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶店の老婆子儂を見て慇懃に
 無恙を賀し且儂が春衣を美ム
○店中有二客   能解江南語
 酒錢擲三緡   迎我讓榻去
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
○呼雛籬外鷄   籬外草滿地
 雛飛欲越籬   籬高墮三四
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
○たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
 三々は白し記得す去年此路よりす
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懷袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋邊財主の家
 春情まなび得たり浪花風流
○郷を辭し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
○故郷春深し行々て又行々
 楊柳長堤道漸くくだれり
○嬌首はじめて見る故園の家黄昏
 戸に倚る白髮の人弟を抱き我を
 待春又春
○君不見古人太祇が句
  藪入の寢るやひとりの親の側

澱河歌 三首

○春水浮梅花 南流菟合澱
 錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
 錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
 舟中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
 舟中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
 浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
 妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
 沈(しづみ)てしたがふことあたはず

老鶯児 一首

春もやゝあなうぐひすよむかし声 

安永丁酉春 正月
    門人 宰鳥校
平安書肆 橘仙堂板

補記七 蕪村の『新花摘』周辺

http://yahantei.blogspot.jp/2006/06/blog-post_114982024055218622.html




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その三・歌麿) [洛東遺芳館]

(その三) 浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

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多川歌麿作「画本虫ゑらみ」

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天明七年(1787)八月十四日の夜、朱楽菅公、大田南畝などが、向島押上あたりの庵崎(いおさき)で虫聞きの狂歌会を開きました。その時の狂歌に歌麿の絵を添えて、翌年、蔦屋重三郎が出版したのが、この『画本虫ゑらみ』です。今回、少し遅れて出版された歌麿の狂歌絵本『潮干のつと』も展示しています。いずれも完成度が高く、独自の画風の美人画で成功する前に、別のジャンルでこれほどの技量を発揮していたのは驚きです。

 歌麿は、宝暦三年(一七五三)の生まれとすると、天明七年(一七八七)は、三十四歳の頃ということになる。この年に、京都の円山応挙は、五十五歳、金刀比羅宮の障壁画や、大乗寺障壁画(前期)に取り組んでいた頃である。
 歌麿というと浮世絵の美人画のジャンルの第一人者ということになるが、この「画本虫撰(ゑらみ)」のような花鳥画のジャンルでも卓抜した技量の持ち主であったことを証明している。
 「画本虫撰(ゑらみ)」は上巻八図、下巻七図の、計十五図からなる木版絵本で、一画面に歌麿の草花と二種類の虫の図、当時の狂歌師三十人の虫を詠題とした狂歌が合わせられている。
 そして、上記の紹介文で重要なことは、この「画本虫撰」の「版元」(出版者)が、浮世絵文化の仕掛人とも言われている「蔦重(つたじゅう)」こと「蔦屋重三郎」というところである。
 この蔦重が世に出した浮世絵師は、六大浮世絵師のうち、美人画の筆頭格の「喜田川歌麿」、役者絵の謎の浮世絵師「東洲斎写楽」、そして浮世絵全般の画狂人こと「葛飾北斎」のデビュー当時の「勝川春章」、そして、もう一人、浮世絵師・北尾政演(まさのぶ)こと、戯作者・山東京伝(さんとうきょうでん)で、この山東京伝は、蔦屋重三郎の弟分というようなことであろう。
 浮世絵というのは、一点物の「肉筆画」(絵画)と何点も刷り上げる「版画」との二種類があるが、一般的には、当時の一般町人が求めやすい、後者の「浮世絵版画」と解して差し支えなかろう。
 そして、この「浮世絵版画」というのは、次のような「版元」(プロデューサー)を主軸としてのチーム制作ということになる。

版元 → プロデューサー兼出版・販売
絵師 → 版元と共に企画立案し、それを絵画化する
彫師 → 絵師の版下絵を彫る
摺師 → 彫師の版木を摺る

 これを「浮世絵肉筆画」ですると、「彫師・摺師」とがカットされて、「絵師・版元」でも「絵師」が、その主役の世界ということになろう。しかし、「浮世絵版画」の中でも、この冒頭の「画本虫撰(ゑらみ)」でするならば、「絵師」は「挿絵画家」というポジションで、その全体の「画本」からすると、「版元」が主要なポジションを得ることになろう。
 「浮世絵」(「浮世絵版画」)というのは、この「版元」の活動(企画・制作・出版・販売)を抜きにして存在しないといっても過言ではなかろう。そして、その「版元」でも、江戸の三大版元として、「蔦重(蔦屋重三郎)・西村屋(西村屋与八)・鶴喜(鶴屋喜右衛門)」が特に有名で、この三大版元の動向が、即、浮世絵の動向といっても、これまた過言ではなかろう。
 例えば、美人画のジャンルで、西村屋が鳥居清長のそれを売り出すと、それに対抗して、蔦重が喜多川歌麿をデビューさせ、さらに、京都から参入した鶴喜が、蔦重と共に歌麿をバックアップするなど、この三者のせめぎ合いというのは、浮世絵の背後に蠢いている。
 さらに、「錦絵」(多色摺り版画)の誕生(「墨摺り」→「墨摺りに手彩色」→「錦絵」)に関連しても、その切っ掛けは、「絵暦」(富裕の商人らの贈答用絵入りカレンダー)で、この絵暦も、版元が「絵師・彫師・摺師」を駆使して考案していったということが、その背景に蠢いている。
 さて、冒頭の、この「画本虫撰」に描かれている、歌麿の「赤蜻蛉」と「いなご」の、この精緻な描写は、応挙の「写生帖」や若冲の「菜蟲譜」などが連想されて来る。この若冲には、通常の木版画とは異質の「拓版画」ともいうべき四種類の版画の世界がある。

一 「乗興舟(じょうきょうしゅう)」(淀川両岸図巻)一巻 → 明和四年(一七六七)春の大典顕常の跋がある。
二 「玄圃瑤華(げんぽようか)」一帖(四十八図) → 明和五年(一七六八)三月の大典顕常及び菅原世長の跋がある。
三 「素絢帖(そけんじょう)」一帖(四十八図) → 明和五年(一七六八)四月の四辻公亨(龍門承猷の兄)の跋がある。
四 「著色花鳥版画」六枚 → うち一図の印文に明和八年(一七七一)の年紀がある。

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若冲作「玄圃瑤華」のうち「冬葵図」

この作品のタイトル「玄圃瑤華」の「玄圃」とは、「崑崙山(こんろんさん)にある仙人の住む理想郷」、そして、「瑤華」とは「玉のように美しい」という意味らしい。そして、「水葵」「糸瓜」「瓢箪」「蕪」などの花卉蔬菜に「昆虫」を配して、さながら、冒頭の、歌麿の「花卉と昆虫図」の前駆的な作品というイメージで無くもないが、前者の、「『虫撰(ゑらみ)』とは、虫合わせであり互いの出した虫に合わせ歌の優劣を競うもの」で、必ず、二種類の昆虫を描くものとは、本質的に狙いを異にしている。
さらに、前者の歌麿の「画本虫撰(ゑらみ)」が、錦絵に近い多色摺り(狂歌摺物で、配りものに使うため贅を尽くした非売品の版画や木版画本)なのに比して、後者の若冲のものは、「拓版画」で、絵柄を凹版に彫り、濡らした紙を押し付けて凹んだ部分以外に墨を塗って仕上げた、若冲独特の技法を駆使したモノトーンの世界で、イメージ的には、この両者の世界は、似ても非なる世界のものと理解すべきなのであろう。
 そして、それは、前者が江戸(東京)の「狂歌人と浮世絵師(歌麿)」との「遊びの世界」とすると、後者は京都の五山(禅林)の「漢詩人と奇想の画家(若冲)」との「詩画合作の世界」とでも換言することが出来るのかも知れない。

花鳥版画.jpg

若冲作「著色花鳥版画」のうち「竹に錦鳥」(リッカー美術館蔵)

 これは「浮世絵=多色摺りの錦絵」ではない。また、上記若冲の「乗興舟・玄圃瑤華・素絢帖」の、モノトーンの「拓版画」でもない。若冲が最後に到達した、「型紙を用いて輪郭を写し、筆で彩色する、上方版画での手法の『合羽摺(かっぱずり)』」で、下絵から彩色まで、何から何まで全て若冲の個人作業による「型紙と筆と刷毛での手作りの錦絵」とでも称する世界のものであろう。
 「浮世絵=多色摺りの錦絵」というのは、明和二年(一七六五)以降に創始された技法とかで、この若冲の「著色花鳥版画」は、明和八年(一七七一)、五十六歳の作とすると、京都以外の土地を知らない若冲も、江戸で流行している「浮世絵=多色摺りの錦絵」を承知し、それと同じような効果を、若冲独自の手法で実現したと理解しても良いのかも知れない。
 この明和八年(一七七一)の頃の歌麿は、未だ十八歳の頃で、浮世絵師としてはデビューしていない。明和七年(一七七〇)の頃、「石要」の名で俳諧歳旦帖などの挿絵画家をしていたとの記録もあるようだが、何れにしろ、歌麿は、京都の孤高の異色の画人、そして、独自の「型紙と筆と刷毛での手作りの錦絵」とでもいうべき作品の「著色花鳥版画」の世界などとは、全くの無縁のことであったことであろう。
 しかし、江戸中期の同じ時代に、その年齢差や、京都と江戸との活躍する場の相違はあれ、二人の天才画人(若冲と歌麿)が、同じような「花卉と昆虫」とを画題とし、さらに、共通の「版画」そして「多色摺りの『錦絵』と合羽摺りの『著色版画』」という共通の土俵を有していたことの不可思議さを、しみじみと実感するのである。

補記一 浮世絵の構造(小林忠稿)

http://www.gakushuin.ac.jp/univ/g-hum/art/web_library/author/kobayashi/structure_of_ukiyoe/index.html

補記二 北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る- 江戸時代における知的財産戦略

https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200705/jpaapatent200705_041-048.pdf

補記三 喜多川歌麿の狂歌絵本 『画本虫撰』(むしえらみ)驚嘆する歌麿の画力

http://www.photo-make.jp/hm_2/utamaro_mushi.html

補記四 円山応挙「写生帖」

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/13964

補記五 伊藤若冲「菜蟲譜」

https://www.city.sano.lg.jp/museum/collection/jakucyu.html

補記六 伊藤若冲≪着色花鳥版画≫考−その制作と受容をめぐって−

http://www.bijutsushi.jp/pdf-files/reikai-youshi/06-1-28-nishi-gotou.pdf

補記七 上方版画と伊藤若冲

https://core.ac.uk/download/pdf/34704303.pdf




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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二・清長) [洛東遺芳館]

(その二) 浮世絵(鳥居清長作「浅草金龍山十境 二十軒茶屋」)

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鳥居清長 浅草金龍山十境 二十軒茶屋

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

 柏原家伝来の鳥居清長の作品のなかには、他では見られないものも数点含まれています。『浅草金龍山十境』の「二十軒茶屋」もそのひとつです。この『十境』は天明三年(1783)の作と考えられていますが、前年の作と思われる『浅草金龍山八境』の後を受けていています。この「二十軒茶屋」に対応する『八境』の図は、従来誤って「仲見世」と呼ばれていました。

 この上記の紹介文によると、六大浮世絵師の一人の、鳥居清長には、「浅草金龍山十境」(天明三年作)と「浅草金龍山八境」(天明二年作)とがあり、前者の「二十軒茶屋」は、後者では「仲見世」とされているが、上記のものは、前者の希少価値のある「二十軒茶屋」のものであるというようなことであろう。
 とにもかくにも、これは、現在の東京(江戸)浅草寺境内の「仲見世」付近、そして、その内の「二十軒茶屋」と評判(名所)の「水茶屋」を背景としての、「風俗・美人画」ということになろう。
 ここで、六大浮世絵師を、年齢順にすると、「鈴木春信(一七二四~七〇)、鳥居清長(一七五二~一八一五)、喜多川歌麿(一七五三~一八〇六)、東洲斎写楽(?~一七九五)、葛飾北斎(一七六〇~一八四九)、歌川(安藤)広重(一七九七~一八五八)」となるが、「春信・清長・歌麿・写楽」の四人は、「初期(~一七六四)・中期(一七六五~一八〇〇)・後期(一八〇〇~)の三区分ですると、中期の、浮世絵全盛時代の人ということになる。

 そして、清長の上記の作品は、天明三年(一七八三)の作で、この年の十二月二十五日の未明に、日本南画の大成者の一人の与謝蕪村が京都で六十八年の生涯を閉じ、円山派の創始者・円山応挙は、その前年の五十歳の時に、『平安人物志』の画家の部で、その筆頭に掲載されるなど、その全盛時代の頃と重なる。
 応挙は、享保十八年(一七三三)の生まれ、清長は、宝暦二年(一七五二)の生まれ、その年齢差は、応挙が三十一歳年上で、応挙の名声は、京都の関西圏だけではなく、江戸の関東圏まで行き渡っていた頃である。
一方、清長は、江戸の新しい浮世絵というジャンルにあって、新進気鋭の若手の筆頭格のような位置で、その鳥居派の得意とする「役者絵」は勿論、「美人画」の鈴木春信などの作風へと食指を伸ばし、単に、人物画のみの美人画ではなく、その背景に「風物・風俗」を配しての、いわゆる、「風俗美人画」という世界を切り開いていた。

浮世絵の「美人画」というのは、この「春信→清長→歌麿」、そして、「風物・風俗」の「風景画」というのは、「清長→広重」、そして、「役者絵」というのは、「鳥居派→清長→写楽」という、いずれの「浮世絵」の「美人画・風景画・役者画」の、この三大潮流の、そのキィ―ポイントの浮世絵師が、この冒頭に掲げた「浅草金龍山十境の内『二十軒茶屋』」の作者、鳥居清長ということになろう。
 この清長の、その本拠地の江戸でも希少価値のある、この冒頭の「浅草金龍山十境」の、この「二十軒茶屋」が、江戸から遠く離れた、日本南画の「大雅・蕪村」、そして、今に続く京都画風の「円山・四条派」の、その祖の「応挙・呉春」の、そして、その本拠地の、いわゆる、「京都町物」の一角を今に多く所蔵している「洛東遺芳館」が、今に伝えている、その邂逅ということは、これは、前回の応挙の「虎」と、この清長の「風俗美人画」とが呼応している、そんな邂逅と同じような趣で無くもない。

補記一 天心が行った浮世絵の時代区分

http://www.tenshin.museum.ibk.ed.jp/02_tenrankai/03_kinen_tenshin-theme/images/201503_chronology.pdf

補記二 鳥居清長の世界

www.ccma-net.jp/publication_artnews/vol42.pdf

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その一・応挙) [洛東遺芳館]

(その一) 京都町物(応挙「虎図」)

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応挙筆「虎図」(洛東遺芳館)

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虎は龍と対になって勢いある姿に描かれるのが伝統的です。応挙もそのような虎を描いていますが、一方で、応挙独自の虎を展開して行きます。応挙全盛期の天明三年(1783)四月に描かれたこの虎は、龍とは対にならず、草地の上でくつろいでいて、まさに応挙的な虎の傑作と言えます。応挙は実際の虎を見たことはなかったので、全体的な姿はリアルではありませんが、毛描きによる質感表現は絶妙です。

 「浮世絵」に比して、「町物」という言葉は未だ一般には通用しない、特殊な用語の部類なのかも知れない。意味するものは、「公家文化(公家時代の書画など)」=「公家物」、「武家文化(武家時代の書画など)」=「武家物」とすると、「町人文化(浮世絵師・町絵師時代の書画など)」=「町物」というようなことである。
 そして、この「町物」の代表的なものは、江戸時代の江戸(東京)で、今に、世界に通ずる日本文化の一翼を担っている「浮世絵」の世界ということになろう。
この「浮世絵」に携わった絵師などを「浮世絵師」とすると、「浮世絵師」というジャンルではなく、「町絵師」による「公家物」「武家物」(さらに「五山文化」=「僧侶物」)などに携わった世界が、これが、いわゆる、京都の円山応挙を祖とする「円山四条派」の世界と見做して大筋差し支えなかろう。
そして、「浮世絵」が大流行した江戸(東京・関東)においても、京都の応挙に匹敵する、
「酒井抱一・谷文晁・渡辺崋山など」の、狩野派の御用絵師ではなく、当時の一般人(町人など)に支持された、その出身を問うことなく、いわゆる「町絵師」が、「浮世絵師」に匹敵する、いや、それ以上の多種多様な世界を構築していたということなのである。
 これらを、「浮世絵」に伍して、江戸(関東)と京都(関西)に二分して、それぞれ「江戸町物」「京都町物」と二分して、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の三区分で、その上に、京都の、「公家文化=御所」ではなく、その「武家文化=二条城」ではなく、その「僧侶文化=相国寺」ではなく、その「町人文化=洛東遺芳館」という観点で、この「洛東遺芳館」の、これまでの展示などをフォローしていきたいのである。

 その上で、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」での三区分ですると、その「京都町物」のその筆頭格は、この応挙の「虎図」ということになるが、これは、単に、その三区分以上に、その、三区分の「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の全てを象徴するような作品の一つとしてとらえたい(これは、例えば、「二条城」の「武家文化」を象徴する「障壁画」の「虎図」に対するアンチテーゼの、応挙の「京町衆(柏原家)」への、それへのメッセージとしての「虎図」と解したいのである)。

補記一 「武家物」の「虎」(襖絵)→「狩野甚之/竹虎図/二条城二の丸御殿」

http://nico-wisdom.com/newfolder1/fusuma-nijyoujyou.html

補記二 モノを描く : 16世紀における「絵画の変」)

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/53317/jjsd47_051.pdf

補記三  扇面画の美術交渉 ― 日本・中国からフランスへ ―

www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/46/kiyo4604.pdf

補記四 応挙と応挙工房周辺

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306134552-1


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その十 三井家当主の画業など) [洛東遺芳館]

(十)三井高就筆「馬追」(洛東遺芳館蔵)

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三井高就筆・大典和尚賛「 馬追」 紙本墨画(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

作者は北三井家七代目・高就(たかなり)です。落款には「牧山」とありますが、これは高就の号の一つです。賛は、高就と親交のあった大徳寺の大典(だいてん)和尚が書いています。絵も賛も写しで、原作は、絵が松花堂昭乗、賛は沢庵和尚です。その原作は、古くから茶人の間では有名で、現在は根津美術館に所蔵されています。

 ここで、まず、この賛をした「大典和尚」とは、江戸時代中期の禅僧・漢詩人にして、当時の「応挙・若冲・大雅・蕪村」等々の、その背景に必ずや登場する、特に若冲の支援者としても知られる、相国寺第百十三世の「大典顕常(だいてんけんじょう、享保四年(一七一九)~ 享和元年(一八〇一))、その人であろう。
 そして、この画を描いた「三井高就(たかなり)」とは、三井惣領家・北三井家七代目当主その人である。現在国宝に指定されている応挙の代表作『雪松図屏風』は、この高就の誕生百二十日目の宮参りにあわせて、天明六年(一七八六)に制作されたともいわれている。高就は、惣領家に二十七年ぶりに誕生した男子とかで、こうした目出度いお祝いの席に使用する屏風として、三井家と最も友誼関係にある応挙に、その制作を依頼したのが、この屏風制作の背景のようである(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」・安村敏信著』)。

 応挙と最も親密な関係にあった三井家の当主は、四代目高美(たかはる)で、応挙との合作や応挙との逸話も多く残されている。この高美は文雅的体質が強く、経営者として不向きな面もあり、この高美に代わって家業を取り仕切ったのが、弟の新町三井家三代目の高彌(たかひさ)で、応挙の「郭子儀祝賀図」は、高美が高彌の隠居祝いに贈呈したものといわれている。
 この高美、そして、高彌の跡を継いだのが高美の子の五代目高清、続く、六代目祐(たかすけ)の、次が、七代目の高就ということになる。
応挙は、この北家三井家とは、四代目高美、五代目高清、六代目高祐と親交があり、応挙亡き後も、この円山家と三井家との親交関係は続くこととなる。

 応挙と三井家との関係は、単に、惣領家の北家三井家だけでなく、南家三井家四代目高業(たかなり、狂歌号・嘉栗)とも親交があり、その高業(嘉栗)が編んだ『狂歌奈良飛乃岡』には、応挙だけでなく蕪村も、その挿絵を描いているようである(『安村・前掲書』他)。

 さて、冒頭の、この「三井高就筆・大典和尚賛『 馬追』」は、「(その)原作は、絵が松花堂昭乗、賛は沢庵和尚です。その原作は、古くから茶人の間では有名で、現在は根津美術館に所蔵されています」というのである。
 この「松花堂昭乗」は、書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、近衛信尹(のぶただ)、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」と称せられている、その人である。
 そして、「沢庵和尚」とは、安土桃山から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で、大徳寺住持、書画・詩文・茶道に通じ、江戸(東京)で没した一大の傑僧、その人である。
 とすると、この「馬追」は、沢庵和尚が江戸に呼ばれて東下りする途中に詠んだ和歌の「何ゆゑに おもに(主に・重荷)おほ津(大津・負ふつ)の うま(生ま・馬)れきて なれ(汝)もうき世(浮世)か 我もうきよに」を踏まえてのものなのであろう。
 そして、この三井家というのは、みな、それぞれに、高美(一成)、高清(宗徹)、高祐(宗節)、そして、高就(宗睦)と、茶人で、その伝統が、その背景に深く根ざしているのである。

 ここで、この三井家と現在の洛東遺芳館を旧邸とする柏原家というのは、洛東遺芳館が所蔵する「北三井家ゆかりの品々」(その紹介文など)を見ると、姻族関係にあり、その輪は、単に、両家だけではなく、当時の京都随一の両替商・那波屋九郎左衛門家などと結びついていたことが、一目瞭然となって来る。
 当時の京都の文化というのは、御所で象徴される公家文化と、二条城で象徴される武家文化と、五山の寺院に代表される僧侶文化の他に、新たに上記の三井家や柏原家を筆頭とする町衆に支えられた町人文化ともいうべきものが勃興し、それらの比重は、これまでの伝統的な格式を重んじる貴族的文化よりも、新興の自由溌剌とした庶民的文化へと軸足を移しつつあったということになる。
 そして、応挙と、応挙を祖とする「円山派」、さらに、蕪村の流れを汲む呉春が合体しての「円山四条派」の絵師たちは、江戸の「浮世絵」の浮世絵師と同じように、その活躍の場を拡大しつつ、京都画壇の主流と化していったということになろう。
 それは、専門的な町絵師(「円山四条派」の絵師たち)を頂点とし、その下に、三井家の当主たちのように、その絵師たちの指導下で趣味的に創作活動に励んでいる愛好者と、鑑賞や蒐集などを趣味とする愛好者と、ピラミッド型のように、その底辺の裾野が拡大していったということと歩調を一にしているということになろう。

 ここで、冒頭の、三井高就筆・大典和尚賛「 馬追」に再度戻って、その原作の賛(沢庵和尚)は、次のとおりのようである。

「何ゆへに 重荷おおつ(負う・大津)の うま(馬・生)れきて なれもうき世に 我もうきよに  と 馬おいのよみしは むへ(べ)もやさしき こころはへ(ばえ)なり」

 この「大津」は、三井家発祥の地の「近江(国)」、そして、「主に(重荷)」は、三井家の家業(主に「越後屋」の家業など)、そして、「大津馬」は、「大津の荷馬のように働く新興商人たち(三井家の当主など)」、そして、この「うき世」は、「うきよ(浮き世・憂き世)」の、「現世(江戸の「浮世絵」、京都の「円山四条派の絵」に象徴される、その現世)と解すると、何処かしら、「江戸中・後期の京師(京都)の画人たち」のイメージが鮮明になってくるのである。

補記一 「北三井家ゆかりの品々展」・「北三井家当主たちの書画」「三井家・柏原家・那波家」など

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記二 応挙の「郭子儀祝賀図」と山口素絢の「郭子儀図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-30

補記三  近世京都商人那波家の江戸店経営とその没落について

http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/17308.pdf

補記四 松花堂照乗年譜考(下)

http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/1424/1/bunga_53_yamaguchi.pdf

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その九 塩川文麟) [洛東遺芳館]

(九)塩川文麟筆「兜に菖蒲図」(洛東遺芳館蔵)

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塩川文麟筆「兜に菖蒲図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2015.html

五月五日は端午の節句です。古代中国では、この日、厄除けにヨモギの人形と菖蒲を飾る風習がありました。それが日本に伝わりますが、次第に、武具が飾りに加わるようになります。菖蒲が「尚武(しょうぶ)」を連想させるためとも言われています。さらに旗に鍾馗や鯉が描かれるようになり、江戸時代後期には、鯉のぼりが登場します。上記(5の)作品には、菖蒲とヨモギの前に兜が描かれていて、兜には柏原家の家紋が入っています

 上記の紹介文に出て来る「柏原家の家紋」の「柏原家」とは、この「洛東遺芳館」のホームページの「黒江屋」の、その京都の本拠地で、その旧邸が「洛東遺芳館」である。この「洛東遺芳館」は、「現在の建物も幾多の大小火難を逃れ、数百年来の商家の体裁を保っている京都でも数少ないものであります」のとおり、天明八年(一七八八)正月の、いわゆる「天明の大火」でも罹災しなかった、稀有的な商家の一つである。
 この天明の大火の時、応挙は五条鴨川東の喜雲院に避難し、そこで偶然に呉春と同居するという、「円山四条派」にとっては、エポック的な出来事のあった年でもある。そして、何よりも、この柏原家は、当時の応挙の支援者であった。そして、後に、呉春も応挙を介して、この柏原家に出入りするようになり、応挙没後の呉春の有力な支援者となる。爾来、この柏原家と「円山四条派」との友誼関係は続くことになる。
 さて、その柏原家の端午の節句のお祝いに描いた冒頭の「兜に菖蒲図」を描いた作者・塩川文麟は、江戸中期・後期の画家というよりも、幕末・明治期の画家としても差し支えなかろう。
 享和元年(一八〇一)、京都の生まれ、没したのは明治十年(一八七七)、七十七歳であった。字は士温、号は雲章、別号は可竹斎・竹斎・泉声など。通称は図書。呉春の高弟・岡本豊彦門で山水画を得意とした。明治元年(一八六八)、画家の親睦団体である如雲社を主宰し、京都画壇における中枢的指導者となった。教育者としてもすぐれ、近代京都画壇の育成に貢献し、幸野楳嶺以下多くの俊英を門下から輩出させている。

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塩川文麟筆「花鳥図」襖絵(十二面のうちの一部)(京都御所・北の間)

 文麟は、安政二年(一八五五)の御所造営に参加し、新内裏に襖絵(上記「花鳥図)を制作するが、これは、紛れもなく応挙の世界のものであろう。
 そもそも、応挙は、天明八年(一七八八)の、いわゆる「天明の大火」の内裏御所焼失に際しての御所障壁画に一門上げて参加し、寛政二年(一七九〇)に完成させているが、
その応挙らの壁画は、嘉永七年(一八五四)の火災で焼失し、現存していない。
 その応挙ら壁画が焼失した後、「応挙」(一代)からすると、「応瑞・源琦・芦雪・呉春など」(二代)、「応震・景文・豊彦・義董など」(三代)の次の四代目(応立・文麟・来章など)が、現在の御所の造営に参加しているということになる。
 ちなみに、天明の大火の際の御所造営の、その応挙一門(応瑞・源琦・芦雪など)の中には、文人画(南画)の蕪村の流れを汲む呉春は入っていない。それは、御所との関わりなどの前歴を記載しての「禁中御用絵師任用願」などを提出して、その選考を経るというステップを踏むことと関係しているようである(『別冊太陽 円山応挙』所収「応挙年代記・五十歳から晩年まで・五十嵐公一稿」)。
 応挙と応挙一門の画人たちが参加した、寛政御所造営の障壁画が見ることは出来ないが、この文麟らの、応挙の流れを汲む「円山四条派」の画人たちが参加した、安政の御所造営の障壁画は、時に公開され今に目にすることが出来る。そして、その背後には、焼失してしまった幻の応挙らの、その障壁画の残像を宿していることは間違いない。

補記一 京都御所・北の間(塩川文麟筆「花鳥図」襖十二面)

http://www.kunaicho.go.jp/event/kyotogosho/pdf/shiori6.pdf

補記二 塩川文麟の師の岡本豊彦の「春慶墨画草花図 小吸物膳 十膳揃」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306117368-1

補記三 「呉春筆 寿老・鶴・亀 絹本着色」→「三井家」と「柏原家」との関係

「文政七年(1824)二月の江戸の火事で、三井家の江戸駿河町店が類焼しました。その時、柏原家の江戸本町店から多数の者が手伝いに出ました。同じ年の十二月、「則兵衛」から「御挨拶」(お礼)として「呉春三幅対」が贈られてきました。「則兵衛」とは北三井家六代目・高祐(たかすけ)で、彼は呉春のパトロンでした。柏原家に伝来している呉春の作品のうち三幅対はこの一点だけですので、これが則兵衛から贈られたものと思われます。」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その八「柴田義董」) [洛東遺芳館]

(八)柴田義董筆「飲中八仙図」(洛東遺芳館蔵)

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柴田義董筆「飲中八仙図」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

飲中八仙図は、杜甫の詩「飲中八仙詩」を絵画化したもので、唐時代の八人の大酒飲みを描いています。八人の中では、詩人の李白と書家の張旭がよく知られています。絵の作者は柴田義董です。呉春の弟子ですので、四条派の画家ですが、人物画を得意にしました。

 柴田義董(安永九=一七八〇~文政二=一八一九)は、字は威仲、号は琴緒・琴海など。通称喜太郎。備前(岡山県)の人で、京都で活躍した。呉春門下の最大画家と称せられ、人物・花鳥・走獣など幅広い画域を誇ったが、特に人物画を得意とし、「花鳥は(松村)景文、山水は(岡本)豊彦、人物は義董」と評された。四十歳の若さで逝去。下京の長講堂に葬られたとされるが、現在は確認できない。

 十八世紀の江戸中期時代の京都画壇は、応挙・若冲・大雅・蕪村・元直などを第一期とすると(安永六年=一七七七版『平安人物志』)、その応挙の「円山派」(源琦・芦雪・文鳴・徹山・守礼・雪亭・孝敏・応受・応瑞・南岳・規礼・楠亭・素絢・月僊・鶴嶺・東洋など)と蕪村門を経て応挙門で活躍する呉春などが第二期ということになろう。
 そして、その円山派(応挙派)は、初代・応挙、二代・応瑞、そして、三代・応震の頃には、呉春系(四条派)の画人(景文・豊彦・義董・月樵・孔寅・公長・広成など)が多く輩出し、「円山四条派」へと移行し、これらが第三期ということになろう。
 柴田義董は、応挙門というより呉春門で、この「円山四条派」の、応挙・蕪村(第一期)からすると第三期の画人で、応挙が没した寛政七年(一七九五)には僅か十五歳であり、義董は、応挙・蕪村らとの直接的な接触は無い時代の画人と解した方が良かろう。
 その上で、この冒頭の義董の「酒中八仙図」を鑑賞すると、まず、この「酒中八仙図」は、日本南画(文人画)の大成者の一人として知られている蕪村が、画巻や屏風絵などで傑作画を残している漢画の代表的な画題なのである。

飲中八仙図屏風.jpg

蕪村筆「飲中八仙図屏風」 絖本着色 六曲一双
各 一六六・〇×三七〇・〇㎝
「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展展示(「サントリー美術館」)

[ 飲中八仙とは、中国唐代の詩人・杜甫が「飲中八仙歌」(『唐詩選』巻二)で取り上げた、酒を好む八人の文化人のことで、賀知章(がちしょう)、李適手(りてきしゅ)、汝陽王李璡(なんようおうりしん)、崔宗之(さいそうし)、 蘇晋(そしん)、 李白(りはく)、 張旭(ちょうきょく)、 焦遂(しょうすい)をさす。本屏風はその詩に取材したもので、右隻右より、蘇晋、崔宗之、賀知章、汝陽王李璡、左隻右より李白、張旭、憔遂、李適手の順で描かれている。酔って両脇から供に支えられる李白の姿は、独立した主題として好まれたもので、しばしば絵画化された。彩色は緑や茶、淡青などの落ち着いて色を主体としつつも、右隻第一扇の画中画に描かれた布袋らしき人物の衣や、左隻の机および椅子など、朱色を効果的に使うことで、画面を引き締めている。署名は「謝長庚」、印章は「謝長庚」(白文方印)、「謝春星」(白文方印)、絖(ぬめ)に描かれた本作は屏風講時代、四十歳代後半に京都で制作されたとする指摘がある。『旧藤田男爵家別邸燈篭庭石及当市西陣新実家所蔵品入札』(昭和八年)に本屏風が掲載されている。 ](『前掲展示図録・解説(池田芙美稿)』)

 この蕪村の大作「飲中八仙図屏風」は、「山水・人物」画の構成なのだが、冒頭の義董の「飲中八仙図(掛幅)」は、「人物」画本位に仕立て、そして、その人物像は、蕪村風(写意風)よりも応挙風(「写生・写実風」)に描写しているところが、「蕪村・応挙・義董」の三者関連の一つの見所となって来よう。
 そして、これは、まさしく、蕪村と応挙とを、その二人を師とする呉春の、その「円山四条派」の、その流れを顕著にしている作品の一つということになろう。


補記一 蕪村の「鹿」、そして、義董の「鹿」(義董の「蕪村風」の接近)

蕪村の「鹿」図など

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%80%80%E9%B9%BF&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=HRSMN0hFPiTmQM%253A%252CjDrmlGhqkYKSRM%252C_&usg=__2_SUjgzex1lKCn0FfUhkHJo_L5o%3D&sa=X&ved=0ahUKEwjM2u-3r_LXAhUHzbwKHdkpAXIQ9QEINjAC#imgrc=HRSMN0hFPiTmQM:

義董の「鹿」図など

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%9F%B4%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%91%A3%E3%80%80%E9%B9%BF%E5%9B%B3&safe=active&tbm=isch&source=iu&ictx=1&fir=8ck62VCQv4olCM%253A%252C-WTjSshMtWdmBM%252C_&usg=__gSD-i0aEnv2Y0jIevyVczMir414%3D&sa=X&ved=0ahUKEwip8MSYrPLXAhUNPrwKHU4nBBIQ9QEIMjAE#imgrc=0ZYXpm8hNYKdkM:

補記二 大雅の書「飲中八仙歌」(「根津美術館蔵)

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/collection/detail.php?id=00298

補記三 蕪村の「飲中八仙図襖絵」(銀閣慈照寺障壁画)

http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/g01.html



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その七「源琦」) [洛東遺芳館]

(七)源琦筆「布袋図」(洛東遺芳館蔵)

源琦三.jpg

源琦筆「布袋図一」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

布袋は唐時代の末に実在していた僧侶です。名を契此(かいし)といいますが、いつも布袋を背負っていたので、布袋と呼ばれました。後に禅僧たちにあがめられ、弥勒の化身とされました。民間でも信仰をあつめ、日本では七福神に入っています。この絵の画家は駒井源琦(こまい・げんき)です。円山応挙の弟子で、応挙の弟子の中でもっとも応挙の画風に忠実でした。この絵も全く応挙風です。

源琦は、延享四年(一七四七)京都の生まれ、寛政九年(一七九七)、師の応挙没後、二年の後に没している。一般に姓の源(みなもと)を音読みする。琦はその名。氏は駒井、字は子韞(しおん)、通称幸之助。とくに唐美人図を得意とし,同門山口素絢の描く和美人と併称された。また彩色に長じ,芦雪とともに応挙門の二哲と呼ばれた。応挙没後,応瑞を補佐して円山派を盛り立て,応挙画風を素直に継承した温雅な画趣を特色としている。
 さて、応門二哲の芦雪と源琦もともに布袋図を描いているが、源琦が冒頭の布袋図のように、応挙の「伝統性・理想性」に比重を置いているとすると、芦雪は応挙の「革新性・奔放性」に比重を置いているように思われる。
そして、それは、師の応挙の二面性に多く由来するもので、芦雪は、応挙の「革新性・奔放性」、そして、源琦は、応挙の「伝統性・理想性」に、より多く身を置いていたということが出来よう。

布袋二.jpg

応挙筆「布袋図二」(名古屋市立博物館蔵)

 雪舟の室町時代から布袋図は水墨画の主要な画題一つで、多くの画人が布袋図を残している。この応挙の「布袋図」は、それらの伝統を踏まえつつ、応挙ならではの革新性と奔放性とを重ね有している。そして、芦雪は、こういう応挙の革新性や奔放性を重視し、その視点を置いての多くの作品を残している。

布袋一.jpg

応挙筆「布袋図三」(個人蔵)

 この応挙の「布袋図三」は、先の「布袋図二」(「革新性・奔放性」)に比すると、応挙の作品の多くに見られる「伝統性・理想性」に比重が置かれた作品と理解できよう。そして、源琦は、終始一貫して、師の応挙の、この「伝統性・理想性」の世界により多く身を置いていたということになろう。
この源琦の、ひたすらに応挙一筋、ひたすらに、その「伝統性・理想性」一筋が、冒頭の「布袋図一」のように、師の応挙以上の、「応挙風・応挙らしさ・応挙様式」を具有して来るという、ここに源琦の世界があるように思われる。それは、応門随一といわれる源琦の「唐美人画」の世界に置いて、より顕著に窺い知れるであろう。


補記一 大乗寺(その十二 源琦筆「梅花遊禽図」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-11

補記二 源琦 富士図 

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「源琦は円山応挙の弟子の中でも、最も師の画風に忠実な画家でした。この作品も、応挙が描いた「四季富士図」四幅のうちの「春」によく似ています。近景の山並みには、稚松図から出てきたような若々しい松が描かれていて、春らしい雰囲気を醸しています。筆の線はほとんど残さず、穏やかな濃淡表現でまとめていて、とても新鮮な墨画という感じがします。」
(特記事項) 応挙は、「植松文書」(沼津原宿)によると、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、上記の「四季富士図」の「春」を描いたのであろう。そして、応挙門の側近の源琦も、恐らく、富士山の真景を見ることなくして、この「富士図」を描いたのであろう。しかし、これは紛れもなく、応挙の「富士山」を踏まえての、未だ、応挙が描いていない「冨士山」の景を水墨画で描いている。

補記三 応挙筆「冨士巻狩図屏風」

https://blogs.yahoo.co.jp/nagoyawalker/62134735.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その六「山口素絢」) [洛東遺芳館]

(六)山口素絢筆「郭子儀図」(洛東遺芳館蔵)

山口素絢.jpg

山口素絢筆「郭子儀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

郭子儀は唐時代の武将です。自身栄達しましたが、子孫もみんな出世しました。ですから郭子儀図には子孫繁栄の願いが込められています。山口素絢は円山応挙の弟子です。この作品は応挙の「郭子儀図」(三井記念美術館)を写したものです。

山口素絢(やまぐちそけん、宝暦九年=一七五九~ 文政元年(一八一八))は、応門十哲の一人に数えられている。通称は武次郎、字は伯後、号は山斎など。京都の人。円山応挙に画技を学び,寛政七年(一七九五)大乗寺障壁画制作(後期)に参加している。文化十年(一八一三))版の『平安人物志』により、そのころ祇園袋町に住していたことがわかる。人物画をよくして時様の和美人を得意とし、兄弟子の源琦の唐美人と併称された。
 さて、冒頭に掲げた「郭子儀図(素絢筆)は、次の「郭子儀祝賀図」(応挙筆)の模写絵である。

郭子儀祝賀図.jpg

「郭子儀祝賀図」(応挙筆)一幅 絹本着色 一七七五(安永四)一一八・〇×五八・五cm
三井記念美術館蔵
「郭子儀は唐時代陜西華州の人で、数々の武功に輝く名将である。八男七女をもうけ孫は数十人、長寿を誇ったという。老夫妻を頂点に人物が環状に配される構図は、この故事を絵画化したものである。本図は三井高美から実弟である高彌へ隠居祝いとして贈られた。商売にあまり熱心でなかった高美に代わり、高彌は三井家の家業をよくまとめたのである。子孫繁栄と長寿を慶ぶ郭子儀の顔は、なんと高彌の肖像で描かれている。」(『もっと知りたい 円山応挙(樋口一貴著)』)

 応挙は、この郭子儀について、大乗寺障壁画の「郭子儀の間」でも、その襖絵を描いているが、これと全く同じ図柄で、その着衣の色だけを異にしたものを描き、さらに、その「郭子儀図粉本」まで、今に残している(「東京国立博物館(植松家旧蔵)」・「郭子儀携小堂図」「郭子儀図粉本」)。
 すなわち、応挙は、「人物画」「花鳥画」「山水画」などの主たる画題(モチーフ)について、この種のマニュアル(粉本・下絵等)を作成しておいて、制作依頼の需に応じて、いわゆる、応挙工房(応挙と側近門人たち)で、門弟たちが応挙の代筆なども可能にしていたように思われる。
 そして、これらのことは、当時の狩野派にしろ琳派にしろ、障壁画などの大作を制作するような場合には、そういうマニュアル・手順書の類いのものは必須であって、今日の芸術品とか美術品とかを鑑賞する視点とはやや異なるという思いを深くする。
 また、当時の応挙にしろ、蕪村にしろ、芸術家と同意義の「画家・画人」という意識よりも、職人的な「絵師・画工」、そして、何人かで制作する場合のリーダー格は、「絵師・画工の棟梁」(「大乗寺文書(応挙書簡)」など)というような意識だったような思いを深くする。
 冒頭の素絢の、師・応挙の「郭子儀祝賀図」の模写絵のような作品も、「子孫繁栄・長寿」の吉祥的な贈答品の類いのものと理解するのが妥当なのかも知れない。
この「郭子儀祝賀図」の郭子儀の顔は、三井家惣領家(北三井家)四代目高美が一族から義絶された後に、暫定的に高美の跡を継いだ高美の実弟高彌(三井新町家三代目当主)の肖像で描かれているとのことで、こと、三井一族に取っては、この高彌肖像の「郭子儀図」というのは、需要が多く、そんなことと関係しているのかも知れない。
 というのは、そもそも、この三井家四代目の高美は、「大乗寺文書(円山派名簿)」(補記一)に、「京都三井八郎右衛門」と、その名が登場する、列記とした「円山派」の画人の一員なのである。そして、その血筋は、面々と、三井家六代目・高祐、七代目・高就、八代目・高福などが、応挙・応瑞・応震と引き継がれていく円山派の画人として、その作品を今に残している(補記四)。
とすれば、「京都三井八郎右衛門」(三井家惣領家)周辺においては、この種のもの(素絢筆「郭子儀図」)の制作依頼も多かったと解することも可能であろう。
 そもそも、絵師になるために画塾のシステムというのは、口伝による秘伝のようなもので、「臨写を以て始め臨写を以て終る」(橋本雅邦「木挽町絵所」)の、模写教育というのが中心であったのだろう。
 しかし、一人前の絵師になるには、この模写の世界から、自らの創意工夫による、いわゆる「新図」的な世界を会得しないと、例えば、後世に「応門十哲」の一人と目せられるようなことはなかろう。
 そして、「応門十哲」の一人と目せられている山口素絢は、まぎれもなく、応挙の「人物画」の世界を超え、素絢ならではの「美人風俗画」的世界を構築していることが(補記五)、その証左の一つになろう。そして、それらのことが、素絢をして「和美人画に関しては円山派随一」との評価を得ている背景なのであろう。

補記一 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-21

補記二 大乗寺障壁画「郭子図襖」(応挙筆)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-22

補記三 東京芸術大学蔵(植松家旧蔵)「郭子儀携小童図」(応挙筆)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007134

補記四 三井家当主(六代目・七代目・八代目)の作品など

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2017.html

補記五 山口素絢筆「百美人図」について―関連作品との比較から―

https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/23180/039000140008.pdf



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その五「東洋」) [洛東遺芳館]

(五)東洋筆「冨士三保松原図」(洛東遺芳館蔵)

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東洋筆「富士三保松原図」(絹本着色)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

東洋の絵には、どこか素朴で懐かしくなるようなところがありますが、この作品では、特に波の表現にそれが感じられます。しかし、空間表現は高度なもので、近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士と、四段階の遠近法が用いられています。
彩色が次第に薄くなる空気遠近法も効果的で、大きくて、しかも遠方にあるという富士山の表現に成功しています。

 東東洋は、宝暦五年(一七五五年)、現在の登米市石越町の生まれ、 天保十年(一八三九)、八十五歳で没。当初狩野梅笑に狩野派を学び、のち、上洛して円山応挙・池大雅等に師事し、法眼に叙せられた。姓・氏は東、名・通称は洋。字は大洋。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。晩年は帰郷して陸奥仙台藩の御用絵師となる。近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、菊田伊洲らと共に仙台四大画家の一人に数えられる。
 十五歳の頃、各地を遊歴していた狩野派の絵師・狩野梅笑から本格的に絵を学ぶ、十八歳の頃、江戸に出て、さらに、二十歳の頃、上洛し、池大雅を訪ね『芥子園画伝』の講釈を受ける。以後半世紀、しばしば各地を歴訪しつつも、京都を中心に活動する。
 三十歳代初めにかけて、長崎に赴き、そこで方西園という中国人画家に学んだとされる。しかし、同時に南蘋派も学んだと推測され、天明五年(一七八五)の頃京に再帰し、応挙に師事したのは、この頃であろうか。そして、応挙を介してであろうが、妙法院真仁法親王と親交を結ぶようになる。
 法眼に叙せられたのは、応挙が没する寛政七年(一七九五)前後のことで、寛政八年(一七九六)、四十二歳の時に、仙台藩の絵画制作に携わるようになるが、その仙台藩の仕事を携わる一方、活動の拠点は京都であり続けた。京都から仙台へ帰郷したのは、文政八年(一八二五)、七十一歳の頃で、墓は、仙台(若林区荒町にある昌傳庵)と、京都(下京区にある聖光寺)にある。
東洋は、呉春の「四条派」の画人としているものもあるが、応挙の「円山派」の画人の方がより妥当であろう(『別冊太陽 円山応挙』所収「円山四条派系図」)。
 呉春も東洋も、妙法院宮真仁法親王(光格天皇の兄)の知遇を得、いわゆる、妙法院サロンの有力メンバーの一員なのであるが、それは、応挙の推挙によるものであろう(『応挙・呉春・芦雪(山川武著)』)。ちなみに、応挙の「墓石」に見る「源応挙墓」の四字は、妙法院宮真仁法親王の筆である(『山川・前掲書』、現在「悟真寺」は右京区太秦の地に移されている)。
 そのサロンには、文人・歌人・儒者等の、「伴蒿蹊・小沢蘆庵・慈延法師(大愚)・賀茂季鷹・上田秋成・岡本保考・香川景樹・皆川淇園・村瀬栲亭・釈慈周(六如)」等々、そして、画人には、「応挙・呉春・東洋」等が名を連ねている(「補記一」の画人や「賛」をしている文人等とオーバラップしている)。
 また、東洋については、下記(「補記」三)のものが詳しい。ここでは、冒頭の「富士三保松原図」に関連して、「大雅・応挙」などの「遠近法」などについて触れて置きたい。

 「遠近法」(透視遠近法)というのは、「近くものを大きく、遠くのものを小さく一点に収束するように描く」描法で、古来の日本画や東洋画の描法ではなく、新しく西洋画(ルネッサンス期に体系化された)をルーツとしているものである。
 この「遠近法」について、応挙は、そのスタートの時点で、「玩具店尾張屋」に奉公し、「眼鏡絵」という風景画を描くことを通して、この「遠近法」という描法を自分のものにし、そして、その上で、「写生」を基調とする「応挙風様式」という画法を樹立していった。
 この東洋の「富士三保松原図」は、その応挙の「遠近法」を明確に意識し、「近景の岩、中景の松原、遠景の山並み、そして、さらに遠くの富士」と、四段階の遠近法を駆使している。そして、この「富士三保松原図」の主題は、大雅が繰り返し主題にしているもので、例えば、「冨士十二景」の「寒林柴扃図(かんりんさいけいず)」(東京芸術大学蔵)と、同一趣向のように解せられる。
 しかし、この大雅の「冨士十二景」(「補記」二)においては、応挙のような、西洋画的な「遠近法」ではなく、東洋的な「遠近法」(高遠は山の下から頂を仰ぎ見る形式、深遠は山の前から後をのぞきうかがう形式、平遠は近山から遠山を望み見る形式)が主たるものと解せられる。
 そして、この東洋の「富士三保松原図」は、大雅と応挙とに学んだ成果を活かして、大雅が試みていた「高遠・深遠・平遠」の東洋的な「三遠法」を、応挙風の「透視的遠近法」に置き換えている点に、東洋の、この絵に託しての狙いがあるように解せられる。


補記一 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲、「(その一)」などは掲載メモ)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」    (「その五」で「冨士十二景図など) 
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛       (その五)
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

補記二 大雅筆「冨士十二景図」(東京芸術大学蔵)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/239493

補記三 東東洋《花鳥押絵貼屏風》──ほのぼのと味わい深い風情「樋口智之」

http://artscape.jp/study/art-achive/10139894_1982.html

補記四 東洋筆「東方朔(とうほうさく)」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2016.html

補記五 二条派から古学派へ―堂上歌学の変容と地方への伝播

https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_snippet&page_id=13&block_id=21&index_id=126&pn=1&count=20&order=17&lang=japanese

補記六 東洋と芦雪など

 『書画聞見集(澹斎著)』に、仙台の画人東東洋が京都で見聞したこととして、「芦雪は傲慢な性格で、応挙の死後自分が一番と慢心したため、画はいよいよ悪くなり貧窮して、ついに大阪へ行って自ら首を吊った」ということが記されている。(『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」安村敏信著)

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洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その四「呉春」) [洛東遺芳館]

(四)呉春筆「孔雀図」(洛東遺芳館蔵)

孔雀図.jpg
呉春筆「孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

 呉春は京都の生まれですが、一時、摂津の池田に住んでいました。池田で呉春の作品を対象にした「掛物講」が開かれ、その記録が『池田人物誌』に記録されています。披露される掛物の体裁は決まっていて、縦四尺余、絖の唐表具、撥軸の一幅でした。第二回目の掛物講は天明六年(1786)六月四日で、「松樹に孔雀」が披露され、その表具は「柳茶の絖で明朝仕立て、大一文字は茶の竹屋町」でした。この特徴は全て本作品と一致します。

 『呉春(逸翁美術館編)』の「年譜」によると、呉春の池田寓居は、天明元年(一七八一)、三十歳の時から、寛政元年(一七八九)、三十八歳の頃までの八カ年ということになる。
 その「天明元年(一七八一)」には、「三月晦日妻雛路事故死 八月二十八日父匡程江戸で客死 秋摂津池田に移る」とあり、「寛政元年(一七八九)」には、「五月、池田を引払い、京都四条に住 十月二十三日、几董伊丹で急逝 追悼集『鐘筑波』に付句一、発句一」とある。
 この呉春の八年にわたる池田時代の大きな出来事として、天明三年(一七八三)十二月の蕪村の逝去と、天明八年(一七八八)正月二十九日の天明の大火があげられる。
そして、蕪村没後の天明七年(一七八七)の、応挙一門の「大乗寺障壁画」(前期)に参加し、その「郡山露頂図」(襖絵)を描き、それに関する「大乗寺文書」では、「応挙門人」ではなく「蕪村高弟」と記述されている。
 さらに、天明大火後の、応挙が没する寛政七年(一七九五)の「大乗寺障壁画」(後期)にも参加し、応挙の「松孔雀図」(襖絵)の完成に併せて、呉春は「四季耕作図」(襖絵)を完成させている。
 この前期の「郡山露頂図」は、蕪村晩年の「峨嵋露頂図」や「衡岳露頂図」の連作のような、蕪村風の山水画の趣なのであるが、後期の「四季耕作図」は、それまでの蕪村風から写生を基調としての応挙風への接近が如実に顕われているものであった。
 ここで、冒頭に掲げた天明六年(一七八六)の「孔雀図」と、その翌年の天明七年(一七八七)の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」を併せて鑑賞すると、「蕪村・応挙・呉春」の三者の画風について、次のようなことを指摘して置きたい。

一 呉春の「孔雀図」は、蕪村晩年の漢画を基調にしての「山中採薬図」(下記図)と同じ頃の作品であろう。そして、「山中採薬図」の、この「松樹」の描法は、そのままそっくり、「孔雀図」の「松樹」と重なってくる。そして、この「孔雀」は、蕪村の孔雀というよりも、応挙の孔雀に近いものであろう。そして、呉春にとって、蕪村と応挙というのは、蕪村在世中から、やはり、目標とすべき画人であったと解したい。

山中採薬図.jpg
呉春筆「山中採薬図」(逸翁美術館蔵)

二 この「山中採薬図」(呉春筆)を介在して、蕪村の「漢画」(「俳画」などを除く)は、応挙の「漢画」(「狩野派・土佐派」に対しての「漢画」)と、「写意(蕪村風)・写生(応挙)」の根本的なものは別にして、やはり、共に、「中国山水画・花鳥画」(「銭舜挙・沈南蘋」等)から多くのものを摂取しようとしていたことが了知され、その点においては、この「蕪村・応挙・呉春」の、それぞれの「漢画」の世界は、同一趣向のものであったと解したい。

三 その上で、呉春の、「蕪村(風)から応挙(風)」の転換というのは、一つの自然の流れで、例えば、天明七年(一七八七)作の「郡山露頂図」、そして、寛政七年(一七九五)の「四季耕作図」の、この劇的な変化も、それは、主題(モチーフ)に対する、作者・呉春の姿勢に因るものであって、そして、その自然の流れというのは、その後の、「円山派」(応挙風)と「四条派」(呉春風)との流れにいえることで、その峻別に、ことさら視点を当てる必要がないと解したい。

補記一 呉春筆「郡山露頂図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-06

補記二 呉春筆「四季耕作図」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-11-08

補記三 呉春筆 「山水(襖絵)」「竹に亀・寿老人・松に鶴(掛軸三幅対)」等

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その三「蕪村」) [洛東遺芳館]

(三)蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」(洛東遺芳館蔵)

遺芳館一.jpg
蕪村筆「呂恭大行山中採芝図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

真ん中の人物が呂恭です。薬草を採りに大行山に出かけた呂恭は、山中で仙人に会います。二日、仙人たちと過ごして、家に帰ってみると、二百年が経っていたという話です。
 この話は『列仙全伝』という本に出ていますが、それには挿絵があって、そこに描かれている呂恭と二人の従者の姿は、この絵での彼らの姿に似ていて、蕪村は『列仙全伝』の話だけでなく、挿絵も参考にしていたことが分かります。

『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』では、「絵画・完成期(明和七~安永六年)」中に、次のように紹介されている。
[207 呂恭大行山中採芝図 絹本着色 一幅 一三〇・三×六七・六cm 款「呂恭大行山中採芝図 謝春星」 印「謝長庚」(白文方印) 「謝春星」(白文方印)  洛東遺芳館蔵 ]

 先に(その一)、安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の「五柳先生」について紹介し、
蕪村自身、「五柳先生」と題する作品があることについて触れたが、この「呂恭大行山中採芝図」も、その「五柳先生図」と同時の頃の作品であろう。
 『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の、配列(通し番号)は、「207 呂恭大行山中採芝図」「220 五柳先生図(写於夜半亭謝春星)」「221 五柳先生図(謝春星写於三菓堂中)」の順で、この時期は、この種の『列仙全伝』に関わる漢画系統の作品が多い。
 蕪村と応挙との交遊関係が何時頃から始まったのかは定かではないが、蕪村の「絵画・完成期(明和七~安永六年)」の、明和七年(一七七〇、蕪村・五十五歳、応挙・三十八歳)から安永六年(一七七七、蕪村・六十二歳、応挙・四十五歳)の頃が、一応の目安として差し支えなかろう。
 時期は定かではないが、蕪村が応挙を主題とした次の句がある。

  筆灌(そそ)ぐ応挙が鉢に氷哉 (『蕪村全集一』では「安永九年」作で収載)

句意は、「応挙が絵筆を灌ぐ筆洗い鉢に氷が張っている。その氷は、この寒気の中で画作に専心している作者の鮮烈さを象徴しているかのようである」というようなことであろう。

応挙合作一.jpg
「狗子図画賛」応挙筆・蕪村賛 一幅 紙本墨画 一九・六×二六・八cm 個人蔵

 応挙の画に、蕪村が句を賛した「応挙・蕪村」の合作の小品として夙に知られている作品である。この蕪村の句、「己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋」は、
『蕪村句集(几董編)』では、「丸山氏が黒き犬を画(えがき)たるに、賛せよと望みければ」との前書きが付してある。
 この前書きと句を一緒にして、鑑賞すると、「円山氏(応挙)が黒き犬を描いて、それに賛せよと懇望されたので、『己が身の闇より吼て夜半の秋』と吟じて賛をした。句意は、『黒い犬は、己の心の闇(黒=煩悩)に慄いて吼え立てるのであろうか』というようなことです」と、応挙と蕪村とが一緒の席で、制作されたものと解せられるであろう。
 しかし、「蕪村叟消息・詠草」には、「くろき犬を画(えがき)たるに賛せよと、百池よりたのまれて」との前書きで、この応挙の黒き犬の画に「賛をせよ」と蕪村に懇望したのは、蕪村の若き門弟の寺村百池(寛延元年=一七四八~天保六年=一八三六)、その人というこになる。
 そして、この百池は、夜半亭門で俳諧を蕪村に、絵は応挙に、茶は六代藪内紹智に師事している。百池の寺村家は、京都河原町四条上ルに住している糸物問屋で、父三右衛門(俳号=三貫など)は、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)門で、蕪村にも師事している。すなわち、三貫・百池の寺村家は、親子二代にわたり、夜半亭門で、共に蕪村に師事し、そして、蕪村と夜半亭門の有力後援者なのである。
 おそらく、画人蕪村と応挙との交遊関係の背後には、この百池などが介在してのであろう。

 己(おの)が身の闇より吼(ほえ)て夜半(よは)の秋 (『蕪村句集』他)

 この蕪村の句も、そして、この句の背景にある応挙の画も、小宴(酒宴など)の後の、席画的な「戯画・戯句」の類いのものではない。もとより、応挙の「狗子画」は、応挙の得意中の得意のレパートリーのもので、それは、「思わず抱き上げたくなる可愛い狗子たち」で、人気も高く、応挙の、この種の作画は多い。
 その中にあって、上記の「狗子図画賛」の、応挙の、この「一匹の黒き狗子」は、蕪村にとって、「煩悩の犬」「煩悩の犬は打てども去らず」を思い起こさせたのであろう。この「一匹の黒き狗子」は、蕪村自身であり(この句の「夜半の秋」の「夜半」は、それを暗示している)、同時に、この「一匹の黒き狗子」を描いた応挙の心の中にも、この「黒き闇、そして、煩悩の犬」が巣食っていることを、瞬時にして、見抜いたのであろう。
 蕪村にとって、「黒き闇、そして、煩悩の犬」とは、「夜半亭俳諧と謝寅南画の飽くなき追及」であり、そして、応挙にとって、それは、「応挙画風の樹立と革新的『写生・写実画』の飽くなき追及」というようなニュアンスに近いものであろう。

 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉      (「詠草・蕪村遺墨集」) 
 己が身の闇より吼て夜半の秋   (「詠草・蕪村叟消息」)

 この蕪村の応挙に対する「筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉」は、同時に、応挙の蕪村への返句とすると、次の「応挙を蕪村」に変えての本句通りのものが浮かんで来る。
 
 筆灌ぐ応蕪村が鉢に氷哉  

補記一 「蕪村筆 呂恭大行山中採芝図」「応挙筆 虎図」「呉春筆 孔雀図」

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html

補記二 応挙の「狗子図」など

http://ommki.com/news/archives/4146

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など(再掲)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」  (「その一」「その二・円満院祐常」)
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」  (「その三」)
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」  (その四)
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」



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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京師の画人たち」(その二「円満院祐常」) [洛東遺芳館]

(二)円満院祐常筆「冨士」

円満院祐常.jpg

円満院祐常筆「冨士」((洛東遺芳館蔵))

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

祐常(ゆうじょう)は二条家(にじょうけ)の出身で、大津(おおつ)の円満院(えんまんいん)の門主を務めました。円満院の祐常のもとには、円山応挙(まるやまおうきょ)が出入りしていたこと知られていますが、 祐常も瀟洒な作品を残しています。展示した作品は、輪郭線は使わず、薄墨だけで富士を表わしています。賛の和歌「たちのぼる、雲も およばぬ、ふじのねに、けぶりをこめて、かすむ春かな」は九条尚実(くじょうひさざね)の書ですが、絵とピッタリと意気が合っています。

 応挙の前半生に影響を与えた人物の筆頭格は、円満院祐常であろう。祐常は五摂家の一つの二条家の生まれ、実父は右大臣の吉忠である。十二歳で得度して門跡寺院である円満院に入り、後に大僧正に任じられている。
 祐常は、一七六一年から一七七三年まで日常の諸事万端を『萬誌(ばんし)』という書物に残している。そこに、応挙の名が出てくるのは、六五年(明和二年)、三十三歳の時からである。祐常自身、絵の心得があったが、応挙のパトロンであると同時に、応挙門で応挙に絵の指導を仰いでいたのであろう。
 この二人の関係から生まれた代表的な作品が、「七難七福図巻」(「天災巻」「人災巻」「福寿巻」相国寺蔵)で、「天災巻」は、三二・二×一五九〇・八(約一六m)、「人災巻」は、三二・〇×一〇六一・八(約一一m)、「福寿巻」は、三二・二×一二〇八・〇(訳一二m)と、空前絶後の長大横長の図巻である。
 祐常は、応挙に、祐常自身が描いた下絵を示しながら、「何年かかっても良いから応挙自身が見聞き、体験し、そして、目のあたりにしたものをリアルに描いて欲しい」と懇請し、それに応えた応挙は、明和二年(一七六五)から明和五年(一七六八)の、足掛け四年の歳月をかけて、この作品を完成したという。
 この明和二年(一七六五)、応挙、三十三歳から、明和五年(一七六八)の、応挙、三十六歳に掛けての、この「七難七福図巻」に関わる、応挙の真摯な「見聞・体験・実写・模写」等々の、その「創意(計画)・実践(試行)・確認(相互評価)」の繰り返しが、その後の、「応挙・円山派・円山四条派」の礎になったことは、応挙の、その作品の、その前半生と後半生とを分けて、つぶさに鑑賞するならば、自ずから了知されるものであろう。

補記一 洛東遺芳館について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

補記二 萬野美術館と相国寺承天閣美術館など

http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10715.html

補記三 「江戸中・後期の京都の画人たち」など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

諸家寄合膳(二十枚)

一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)

一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」


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「洛東遺芳館」と「江戸中・後期の京都の画人たち」(その一「応挙」) [洛東遺芳館]

(一) 応挙筆「五柳先生」

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応挙筆「五柳先生」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「安永五年(一七七六)、応挙四十四歳の時の作品です。五柳先生とは陶淵明のことです。
陶淵明の自伝と言われる「五柳先生伝」の中に、「宅辺に 五柳樹あり」とあります。この作品では、その柳と頭巾が陶淵明である ことを示しています。籬の下に菊が描かれているのは、陶淵明の有名な詩の一節「菊を採る東籬のもと」に基いています。いかにも応挙らしい円満な表情が特徴です。」

 この安永五年(一七七六)四月十三日、大雅が五十四歳の生涯を閉じた。当時、六十一歳の蕪村は、「大雅堂も一昨十三日故人と相成り候。平安の一奇物、をしき事に候」との書簡(安永五年四月十五日付け霞夫宛書簡)を今に残している。
 その前年の『平安人物志』(安永四年版)の画家の部には、「応挙(四条麩屋町西エ入町)・若冲(高倉錦小路上ル町)・大雅(祗園下河原)・蕪村(仏光寺烏丸西エ入町)」の順で、今に時めく四人の名が登載されている。
 この四人は、謂わば「応挙工房・画塾サロン」「若冲錦小路サロン」「大雅書画サロン」「蕪村画俳サロン」というような、一部、共通するメンバーを抱え、近接な場に居を構えていながら、それぞれ活動の場を異にしていて、相互の交流関係というのは、それほど密ではない。
 同年齢の「蕪村・若冲」とは、若冲が生粋の京都人とすると、蕪村は浪華の在の生まれで江戸放浪などを経て帰洛した他所人で、蕪村、若冲のどちらの側からも、この二人の直接的な交遊関係の接点というのは見えてこない。
 「蕪村・大雅」とは、共に日本南画の大成者として、画人としては、同じ文人画・南画というフィ―ルドで活躍しながら、今に「十便十宣図画冊」(「十便図=大雅筆」「十宣図=蕪村筆)の合作(鳴海の下郷学海の斡旋)を残すくらいでで、この二人の親密な関係というのも、これまた見えて来ない。
 この四人の中で、「蕪村・応挙」との関係は、この二人が茶屋などで小宴を催し、応挙が猫の戯画、蕪村が杓子の戯画と「ぢいもばばも猫もしゃくしもおどりかな」の戯句を賛しての、「猫も杓子も図画賛」(蕪村・応挙合作)などが今に残されており、比較的親密であったことが了知される。

 ここで、冒頭の「五柳先生」(応挙筆)に関連して、「蕪村」の号の由来は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」とし、続けて、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意であり、すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「『帰るに帰れない』、その脳裏にのみ存在するものであった」(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)というのが、大方の「蕪村の号」の由来の、その根拠というようなことになろう。
 さらに、続けるならば、蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人で、且つ、応挙に、亡き蕪村の高弟として遇せられる月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖節(淵明)詩集』に挟まれていた、師(蕪村)自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 翻って、その文人画家・蕪村のスタートを飾った作品も、「陶淵明山水図(中村美術サロン蔵)」で、『蕪村全集六絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平他編))』の第一番目に登載されているのを始め、次のようなものが紹介されている。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)
48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館蔵
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)
二 絵画・完成期(明和七~安永六)
220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

 上記のとおり、蕪村の「五柳先生図」と題するものも、二点ほどあり、これらの、蕪村の「陶淵明(五柳先生)」にあやかり、応挙風の「「陶淵明(五柳先生)」の、応挙にしては、
その、蕪村(「五柳先生」のイメージの強い)への、俳諧(連句)の、挨拶句的な意味合いの強いものという雰囲気で無くもない。

 いずれにしろ、この応挙筆の「五柳先生」(陶淵明)は、陶淵明(五柳先生)」と深い縁のある蕪村との、「応挙と蕪村」との、知られざる何かを語っているイメージを受けるのである。

補記一 蕪村と月渓が描いた陶淵明像

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-13

補記二 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-29

補記三 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-01

補記四 蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-06-03


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応挙工房周辺(円山派・応挙工房・応募画塾) [応挙]

その十八 円山派(円山応挙工房・応挙画塾)の画人たち

円山派.jpg

大乗寺文書(円山派名簿)

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06/03_06_21.html

(「大乗寺」障壁画などに携わった画人たち)

故主水    応挙   島田主計頭  元直
月渓     呉春   駒井幸之助  源琦
長澤     芦雪   円山主水   応瑞
木下直一 応受   秀権九郎   雪亭
故山本数馬  守礼   山形貫次(?) 鶴嶺
奥順蔵    貞章(?)森文蔵(?)  徹山  
式部治郎(?)素絢   亀岡規十郎   規礼

(※=「応門十哲」などに関係する画人)
(※※と※※※=特記すべき画人、※※※※=支援者など)

※※原    在中          ※楠亭
吉村     蘭洲   岡橋喬快(?) 直珽(?)
三谷逸記   五雲   中村平右衛門  孝敬
※ 奥田兎毛 南岳   ※吉村羊蔵   孝敬
土岐富吉   瑛正   白井忠八    直賢
白井周蔵   白猷   ※※岸雅樂助(?)蘭斎
松村直治   士慎   脇畑栄蔵    守渓
太子堂    自浄   田辺茂兵衛   源章(?)
駒井真蔵   愛延   和田金兵衛   公遵
東部     呉龍   越後      東洋
※※※※冨士山応令 與右衛門(?)※※※双林寺 西阿弥
※※※※京都三井八郎右衛門   池田  宣春
亀山     文蔵   浅井庄兵衛   義篤
島田   内匠 元直息  風折(?)  友丈 故人

 上記のものを、先の「円山四条派関係系図」(下記のアドレス)と照合などすると、次のようなことが浮かび上がってくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-21

一 冒頭の文書は、「故主水 応挙」(一七九五没)「故山本数馬 守礼」(一七九〇没)の記述から、応挙没後の、応挙を祖とする「円山派関係画人一覧」の、大乗寺側の書き留めと解せられる。この内、「応挙・元直・呉春・源琦・芦雪・応瑞・応受・雪亭・守礼・鶴嶺・貞章=文鳴・徹山・素絢・規礼」は、天明七年(一七八七)から寛政六年(一七九四)の、大乗寺障壁画などに係わった画人たちで、その意味で、応挙を棟梁として、その采配下で制作に随時参加するなど、いわゆる「応挙工房の画人たち」という趣である。

①  円山応挙 → 孔雀の間 郭子儀の間 山水の間 (一階)
②  円山応瑞 → 鯉の間  仏間 (一階)
③  木下応受 → (孔雀の間・郭子儀の間 山水の間)小壁(遊亀図)
④  駒井源琦 → 鴨の間 (二階)
⑤  長沢芦雪 → 猿の間 (二階) 
⑥  山本守礼 → 狗子の間(一階)
⑦  亀岡規礼 → 使者の間(一階)
⑧  奥 文鳴 → 藤の間 (一階)
⑨  源 正勤 → 屏風(子猷訪戴図・帰去来図)
⑩  山口素絢 → (鴨の間・猿の間)小壁(蛾蝶図)
⑪  森 徹山 → (猿の間)小壁(山雀図)
⑫  秀 雪亭 → 仙人の間(一階)
⑬  山跡鶴嶺 → (農業の間)小壁(飛燕図)
⑮  呉春   → 農業の間 群仙露頂の間(一階)

二 「応門十哲」との関連で見ると次のようなことが言える。

(「応門十哲」→ 「事典」などの一つの見解)
駒井源琦 (上記一)
長沢蘆雪 (上記一)
山跡鶴嶺 (上記一)
森徹山  (上記一)
吉村孝敬 (大乗寺文書※)
山口素絢 (上記一)
奥文鳴  (上記一)
月僊
西村楠亭 (大乗寺文書※)
渡辺南岳 (大乗寺文書※)

 「吉村孝敬(一七六九~一八三六)」は、吉村蘭洲の長男で、応挙晩年の弟子である。伝統的な狩野派の画法や応挙の写生画を消化し、さらに写生を推し進めた画風で、京都画壇にその足跡をのこしている。 
 「西村楠亭(一七七五~一八三四)」は、西村氏、名は予章、大坂の人。楠亭と号し、寛政から天保初年にかけて、肉筆風俗画をよくしている。
 「渡辺南岳(一七六七~一八一三)」は、京都の人。名は巌、字は維石、号は南岳、通称猪三郎、小左衛門。画を円山応挙に学んだが、後年尾形光琳に私淑し、流麗な筆使いで美人や魚などを巧みに描いた。晩年江戸に出て、江戸に円山派を伝え、谷文晁、酒井抱一らと交友している。
 「月僊(一七四一~一八〇九)」は、冒頭の「大乗寺文書」には記載がない。名古屋の人で、仏門修行の傍ら雲谷派を学び、上洛して、応挙に師事して写実的画風の感化を受けた。また、与謝蕪村の影響も受け、さらに諸派に学んで独自の画風を確立している。

三 応挙と「原在中・岸駒(岸雅楽助)」そして「月峯(大雅堂二世・西阿弥)」関連について

 冒頭の「大乗寺文書」には、応挙没後の京都画壇に、「円山・四条派」とは別の「原派」を創設する「原在中(一七五〇~一八三七)」と「岸派」を創設する「岸駒(岸雅楽助)一七四九/五六~一八三九」の名も出てくる(上記の※※)。
 「原在中」は、京都の人。名は致遠、字は子重、別号に臥遊など。幼少より画を好み、円山応挙に学んだといわれているが、石田幽汀に師事したとする説もある。明画を独学し、さらに土佐派を学ぶなど諸派を研究、精緻な装飾的作風の原派を興した。
 「岸駒」は、加賀の人。字は賁然(ひぜん)。号は同功館・可観堂など。南蘋派の花鳥画を学び、円山派などの諸派を折衷し、京都画壇の中心となった。天明四年(一七九四)有栖川宮家の障壁画を描く。このころ雅楽介を称する。
 この二人について、「応挙没後、在中は自分は応挙の弟子ではないとし、これに腹をたてた岸駒が応挙の子・円山応瑞のところに行って門人帳を調べると、在中の自筆で入門と名簿に書いてあった」(『古画備考』)との逸話があるが、冒頭の「大乗寺文書」に、二人の名があることは、この二人も応挙系の画人と解して差し支えなかろう
 すなわち、応挙の「円山派」は、呉春の「四条派」と併称して「円山四条派」、それに、「原派」、そして、「岸派」も加えると、応挙の世界(写生を作画の基本に置くという世界)の拡がりというのは、それまでの伝統的な狩野派・土佐派の世界を圧するものがあったことであろう。
 さらに、注目すべきことは、「双林寺 西阿弥」(※※※)で、大雅の跡を継いで、大雅堂二世を名乗った「月峯」のようなのである。

http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/11759/info.html

「名前: 月峯(辰亮)
解説: 月峯( ~天保10年) 僧(時宗画家)名は辰亮、月峯又菊澗、又は可有斎と号した。京都東山双林寺長喜庵主双林寺世一世謙阿明亮の法嗣。先師明亮の勧めにより境内に住み画を描いた池大雅に就いて画を学び其気格を得、且つ篆刻を巧みにした。大雅没後その遣跡を守り大雅堂二世と称したが、天保十年十一月九日没した。年八十。(文化十 文人画 文政五 文人画 文政十三 文人画 再出 篆刻 天保九 文人画 再出 篆刻家)」

 すなわち、日本の文人画(南画)を樹立した、蕪村と大雅は、その後継者たるべき、呉春(蕪村門人)と月峯(大雅門人)とが、蕪村と大雅亡き後の、京都画壇の中枢を獲得した応挙と結びつき、その後の、「西洋画」そして「東洋画」に匹敵する真正なる「日本画」の趨勢を方向づけたということに解したい。
 こうして見てくると、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)は、途轍もない、「十八世紀の京都画壇とその後の日本画の趨勢」について、一つの示唆を含む貴重な資料ということになろう。

四 「京都 三井八郎右衛門」と「冨士山応令 與右衛門」などについて

 この「京都 三井八郎右衛門」(※※※※)とは、応挙と応挙一門の最大の支援者ともいうべき、三井十一家の惣領家である北三井家四代目の「三井 高美」その人であろう。この高美と応挙とは昵懇の間柄で、この高美が、片手に団扇を持ち、裸でくつろぐ後ろ姿を、応挙が軽いタッチで描いた「夕涼み図」が今に残されている。
 この高美は、経営者的センスよりも文雅的嗜好が強く、家業は実弟の高弥(新町家)が取り仕切り、晩年は一族から義絶されるなど、毀誉褒貶の多い生涯を送るが、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)に、その名があるということは、応挙の庇護者であったと同時に、応挙に絵の指導などを受けていたと解すべきなのであろう。 
 三井家は、この高美が亡くなった以降も、応挙と応挙一門との関係は良好で、応挙の国宝「雪松図屏風」をはじめ、今に、三井記念美術館は、「円山・四条派」関係作品の宝庫でもある。
 次に、「冨士山応令 與右衛門」は、これまた、応挙と京都の三井八郎右衛門(高美)と関係と同じように、富士山麓の東海道沼津原宿の大素封家である「植松與右衛門」(「植松家」当主の名跡)のことで、その「応令」は、応挙門での画号なのであろう(「応令」の父は、応挙と親交のあった「蘭渓」で、応令は蘭渓の仲介で応挙門に入っていた時期があり、応挙門の一員に数えられていたのであろう)。
 この蘭渓・応令親子について、次のようなことが紹介されている。

「駿河国、原(静岡県沼津市郊外)資産家植松家の当主蘭渓(与右衛門)は妙心寺海福院住職斯経和尚を介して応挙と相識となり、息子の季英(応令)を京都に出して応挙に入門させた程であったが、植松家に残された応挙書簡によると、応挙は蘭渓から再三富士見物の誘いを受けながら遂にそれを果たさなかったらしい。応挙の場合、未知の土地に新鮮な奇勝を求めるというよりは、馴れ親しんだ畿内の風物を繰返しとり上げ、むしろ平凡な日常的風景のなかに温和な抒情性をうたいこもうとしていたように思われる。」(『応挙・呉春・芦雪―円山・四条派の画家(山川武著)』)

 これらの、京都の豪商の三井高美(「三井八郎右衛門」)や、駿河沼津の大素封家「植松家(応令)」は、冒頭の「大乗寺文書」(円山派名簿)に記載されていることからして、単なる、応挙の庇護者や愛好者ではなく、謂わば、「応挙画塾」で、応挙の直接的な指導を受け、応挙門人の一員として遇せられていたと解すべきなのであろう。
 そして、この二人のように、画家を職業とはしていないが、応挙門人として遇せられていた者は、例えば、儒者として名高い、皆川淇園など相当数が存在していると解して差し支えなかろう。
 さらに、応挙そして応挙派の庇護者・愛好者ということになると、例えば、京都を中心として三都にわたって呉服・紙・塗物問屋を多角経営していた「柏原家」(今日の「洛東遺芳館」の同家旧邸に所蔵作品等)など、その輪は、これまた、相当数に達すると解して差し支えなかろう。

 これら、十八世紀の京都画壇の中枢を占めた、円山応挙と円山派は、その応挙の統率・指導下にあって、謂わば、「専門画家集団・準専門画家集団・庇護者・愛好者・理解者」という輪を拡大させながら、それが、単に、京都、そして、三都とを問わず、例えば、日本海に面する、但馬香住の、凡そ百六十五面に及ぶ「大乗寺障壁画」を完成させた、その原動力であったのであろう。
 そして、応挙と応挙一門とが、常に目指していた、その象徴的なものは、やはり、天明六年(一七八六)、応挙、五十四歳時頃の、今に国宝とされている「雪松図屏風」と、そして、それは、応挙が常に目標としていた、狩野探幽の世界(伝統的な世界)に、新しい息吹(革新)を齎したたいという応挙の赤裸々な思いだったこと実感する。

図-22.png

応挙筆「雪松図屏風」国宝 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm

補記一 三井記念美術館について

http://www.mitsui-museum.jp/gaiyou/gaiyou4.html

補記二 駿河原宿植松家の帯笑園

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/59/5/59_5_9/_pdf

補記三 帯笑園 における高家大名等 の訪 問 につ いて

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1994/60/5/60_5_395/_pdf

補記四 洛東遺芳館(「柏原家」)について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

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応挙工房周辺(大乗寺(その十五 応挙の「十六羅漢図」など) [応挙]

その十七 大乗寺(その十五 応挙の「十六羅漢図」他)

 兵庫県北部、旧但馬国の日本海に臨む香住に、別名応挙寺として夙に知られている、高野山真言宗寺院の亀居山大乗寺がある。
この大乗寺の客殿に、応挙を筆頭として、嫡子の応瑞や門人の源琦・芦雪、そして、蕪村高弟の呉春(後に応挙に朋友として迎えられる)たち総勢十四名が、凡そ百六十五面に及ぶ障壁画を完成させている。
 この客殿再建に携わった大乗寺の中心人物は、密蔵上人(一七一六~八六)と密英上人(一七五三~一八〇二)で、密蔵上人は、その応挙らの障壁画が着手される天明六年(一七八六)七月以前の、その年の二月に遷化し、その密蔵上人の志を引き継いだのが密英上人ということになる。
 応挙と大乗寺側(密蔵上人など)との、この障壁画に係わる逸話としては、「応挙が幼いころ大乗寺の世話になった恩返し説」(石田幽汀の門に入る頃、大乗寺の密蔵上人が資金を援助したと伝えられている)などが、その背景の内容であるが、それらは、あくまでも逸話の域を出ないのであろう。
 これらのことに関して、大乗寺の所蔵の、応挙筆「十六羅漢図屏風」(二曲一隻・八隻)
は、一つの示唆を与える縁のものと解したい。

応挙羅漢一.jpg

応挙筆「十六羅漢図屏風」(二曲一隻・八隻)の内の「第一隻」(大乗寺蔵)

 この「十六羅漢図屏風」の裏面には、「此尊影求密英上人 本所京東福寺什宝 渡唐之十六羅漢願 拝借則於彼方丈使 画師源應擧令寫焉 文政七申夏仕堅密円」とあり、「密英上人が、応挙にこの十六羅漢の制作を依頼している」との文面(文政七年=一八二四・密円記)のようである。そして、「応挙が三十才代初期に模写したものと伝えられる」としている。

 この「応挙三十歳代」を、「応挙年譜」で見ると次のとおりとなる。

宝暦13[1763]  応挙31歳 この頃、宝鏡寺蓮池院尼公との係わり深くなる。
明和2[1765] 応挙33歳 この頃、円満院門主祐常との親交はじまり、応挙の円満院時代始まる。
明和3[1766] 応挙34歳 この頃、名を「応挙」と改名し、作品には主に「応挙」の落款を用いる。円山応瑞生れる。(応挙二男)
明和8[1771] 応挙39歳 「牡丹孔雀図」(萬野美術館蔵)を描く

 ここで、この「十六羅漢図屏風」の裏面に記載されている、「本所京東福寺什宝 渡唐之十六羅漢願 拝借則於彼方丈使 画師源應擧令寫焉」の「本所京東福寺」に注目したい。
 この応挙筆の「十六羅漢図」は、京都東福寺の「渡唐之十六羅漢」の、応挙が「古画」の模写絵に没頭していた頃の、その応挙の古画の模写絵の真骨頂を示すものの一つの証しであろう。
 そして、応挙と「京東福寺」との関係は、大乗寺の密蔵・密英上人もさることながら、上記の応挙年譜の「円満院門主祐常」(近江円満院三十七世、関白二条吉忠の三男、母は栄子内親王。法諱は祐常、号は月渚・素円・由清)が大きく関与していることであろう。
 その、応挙のスタート地点を証しする、応挙三十代の、「十六羅漢図」の全貌と共に、その最晩年の亡くなる年、寛政七年(一七九五)正月作の「鍾馗図」が、大乗寺に残されている。

応挙・関雨図.jpg

応挙筆 掛軸 紙本墨画淡彩 寛政七年(一七九五)正月

補記一 大乗寺蔵の「円山応挙作品一覧と文書」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_01.html

補記二 大乗寺蔵の「円山応瑞作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_02.html

補記三 大乗寺蔵の「木下応受作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_03.html

補記四 大乗寺蔵の「源琦作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_04.html

補記五 大乗寺蔵の「長澤芦雪作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_05.html

補記六 大乗寺蔵の「山本守礼作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_06.html

補記七 大乗寺蔵の「亀岡規礼作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_07.html

補記八 大乗寺蔵の「奥文鳴作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_08.html

補記九 大乗寺蔵の「源正勤(注・奥文鳴の別号?)作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_09.html

補記十 大乗寺蔵の「山口素絢作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_10.html

補記十一 大乗寺蔵の「森徹山作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_11.html

補記十二 大乗寺蔵の「秀雪亭作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_12.html

補記十三 大乗寺蔵の「山本鶴嶺作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_13.html

補記十四 大乗寺蔵の「呉春作品一覧」について

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_14.html



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応挙工房周辺(大乗寺(その十四「嶋田元直」他) [応挙]

その十六 大乗寺(その十四「嶋田元直」他)

平安人物誌.jpg

『平安人物志』(安永四年版・画家の部)

上記の「画家の部」の五人の記載は次の通りである。

藤応挙 字僊斎 号僊斎 四条麩屋町西エ入町 円山主水
(円山応挙 1733~1795 )
滕汝鈞 字景和 号若冲 高倉錦小路上ル町  滕 若冲
(伊藤若冲 1716~1800 )
池魚名 再出(注・「書道」の部と再出)    池野秋平
(池大雅  1723~1776)
謝長庚 字春星 号三菓 仏光寺烏丸西エ入町 与謝蕪村
(与謝蕪村 1716~1783 )
紀元直 字子方 号鸞洞 新町綾小路下ル町  嶋田内蔵助
(嶋田元直 1736~1819)

 この安永四年(一七七五)版の『平安人物志』の「画家の部」に記載されている五人は、当時の「平安(京都)」の、「画家五人衆」と解して差し支えなかろう。「円山応挙→伊藤若冲→池大雅→与謝蕪村」、それに続く、「紀元直(嶋田内蔵助)」とは、天明七年(一七八七)の、応挙の大乗寺障壁画(第一次)に取り組む、その画人の内、応挙に次いで出てくる「嶋田主計頭四位元直」その人である。

 『平安人物志』(平安四年版)に出て来る「嶋田内蔵助」は、応挙の大乗寺障壁画に係わる文書の「嶋田主計頭四位元直」とは、全くの同一人物で、単に、「内蔵助」から「主計頭」への、その役職が上に行ったことを示しているということに他ならない。

書簡二.jpg

(「大乗寺文書・部分=書簡A)応挙書簡・襖絵依頼と費用覚 天明七年、寛政元年、天明四年(辰)

 天明七年(一七八七)の、大乗寺障壁画(第一次)に参加した六名の画人(円山応挙・嶋田元直・呉月渓・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞)である。

書簡三.jpg

(「大乗寺文書・部分=書簡B)呉春、嶋田元直、山本守礼、秀雪亭、應瑞書簡(画料受取)

 上記の、大乗寺障壁画(第一次)に参加した六名の画人のうち、応挙を除いた五名の、その折りの「画料受取」の書簡である。
 嶋田元直のものは、「御襖花鳥挨拶金千弐百疋/送リ被下辱落手仕候以上/九月八日 嶋田主計頭」とあり、「花鳥画」の襖を描いた、その画料の受け取りの書状である。しかし、この嶋田元直の「花鳥画」の襖絵だけが現存しない。
 このことについて、「行方知れずの絵」として、次のようなことが、紹介されている。

http://museum.daijyoji.or.jp/05temple/05_09.html

「大乗寺客殿建築後20年ほど後、裏山に地崩れがあり、客殿の山側の3部屋に被害を受けたようです。壊れた3部屋は客殿では住職の私的な部屋で、それぞれ「牡丹の間」「竹の間」「雪の間」の名が付いていました。その後、壊れた部分の資材の一部はもらわれて行き、豊岡の福田での寺の建築に利用されたといいます。応挙が大乗寺から襖絵の依頼を請けた際の書付が残っており、そこには制作にあたるメンバーに当時人気の絵師であった島田元直の名があります。しかしながら現在の大乗寺には元直の絵は1枚も残されていないのです。壊れた3部屋に描かれていたといわれる牡丹、竹、雪の絵は島田元直の筆によるものではないかと思われます。 もらわれていった資材の中に島田元直の絵も混じっていたのでしょうか? 豊岡福田の寺では1995年頃の改築時にいらなくなった廃材を焼却したということです。」

 嶋田元直は、元文元年(一七三六)生まれ、文化二年(一八一九)に没、八十四歳と、冒頭の「画家五人衆」の中では、最も長命であった。本姓は紀、名は元直、字は子方、号に、鸞洞・後素軒など。もともとは、嶋田家は院長官を勤めるなどの公家。元直は従四位下主計頭となる。円山応挙に画を学び、寛政二年(一七九〇)の御所造営にも応挙一門として参加している。


補記一 大乗寺文書について

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06.html

補記二 「平安人物志」上の嶋田元直について(「明和五年版・安永四年版・天明二年版・文化十年版)

http://tois.nichibun.ac.jp/hsis/heian-jinbutsushi/jinbutsu/11499/info.html

補記三 高精度画像でみる円山派の筆づかい(図一 嶋田元直筆「遊鯉図」)

http://museum.kwansei.ac.jp/guidance/wp-content/uploads/sites/5/2014/04/b2ca0ae2cb6d3785217d929af82e96a9.pdf

補記四 応挙書簡(大乗寺文書)天明七年(一七八七)・天明四年(辰・一七八四)の上半分→翻刻文

応挙工房周辺(大乗寺(その五 遊鯉図)) [応挙]

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/

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応挙工房周辺(大乗寺(その十三「群猿図」)) [応挙]

その十五 大乗寺(その十三「群猿図」)

芦雪.jpg

芦雪筆「群猿図(部分図)」(大乗寺「猿の間」)

【 群猿図 長沢芦雪筆 猿の間
 本図は客殿二階にある部屋で、海辺の岩場に猿の群が描かれており、子猿を背負った母親や岩の上でのんびりと甲羅干しをする猿、更には海で泳いだ後岩場へ上がろうする猿など、実に表情豊かに描かれている。驚かされることは、猿の輪郭線で、象(かたど)ってから毛描きするのではなく、平筆を横に使って、毛描きと体そのものの形態描写とを、一回で済ませてしまっていることである。普通は画面は寝かせて描くものであるが、芦雪は仕立てられた白襖を立てたままで、下書きもせず、いきなり直に描いていったものと考えられる。画面には墨が垂れた後があり、芦雪の速写の力量を物語っている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「猿の間」)

 芦雪は、宝暦四年(一七五四)生まれ、源琦が亡くなった二年後の寛政十一年(一七九九)に大阪で客死する。奔放な性格ゆえに、応挙門を破門されたとか様々な逸話が残っているが、応挙が亡くなる最晩年の寛政七年(一七九五)の、第二次(後期)大乗寺障壁画制作に応門二哲(源琦と芦雪)が揃って参加し、応挙の「孔雀の間(松に孔雀図)」に、「鴨の間(梅花遊禽図)・源琦筆」と「猿の間(群猿図)・芦雪筆」が花を添え、天明七年(一七八七)から続く、応挙の、その一大障壁画制作が完成したということになる。
 この応門二哲の、源琦も芦雪も、応挙風の「山水画・花鳥画・人物画」の、それぞれの傑作画を今に残しているが、源琦は夙に、その源琦に連なる応門十哲の山口素絢共々、美人画(特に唐美人画)で、その名が高い。しかし、ともすると、応挙門の異端児とか「奇想画の旗手」として名を馳せている芦雪も、これまた、応挙風の美人画の世界で、源琦や素絢と肩を並べての名手なのである。

芦雪二.jpg

芦雪筆「呉美人図(部分図)」(東京国立博物館蔵)一幅 107.1×40.6

補記一 山口素絢 「大乗寺・鴨の間」の「蛾蝶図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_10.html

補記二 森徹山 「大乗寺・猿の間」の「山雀図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_11.html

補記三 木下応受 「大乗寺・山水の間・郭子儀の間」の「遊亀図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_03.html

補記四 山跡鶴嶺 「大乗寺・農業の間」の「飛燕図」(小壁)

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04_13.html

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応挙工房周辺(大乗寺(その十二「梅花遊禽図」) [応挙]

その十四 大乗寺(その十二「梅花遊禽図」)

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源琦筆「梅花遊禽図(部分画)」(大乗寺「鴨の間」)紙本淡彩

【 梅花遊禽図 源琦筆 鴨の間
 本図は客殿二階の東南に位置する部屋で、アーチ型に湾曲した梅の木とその下の芦の茂る池には水鳥の姿が描かれている。源琦は応挙の数ある弟子の中で只一人の内弟子であった絵師で、応挙の画法を最も忠実に受け継ぎ、応挙の右腕となって常に師を支え続けた。真面目で勤勉実直な性格を反映した素直で平明な作風は、師の応挙画を彷彿とさせるものがあり、画面奥へと続く水景は描かれていないその先までも、空間が広がるかのような表現方法である。鳥の姿の表現に見られるような丁寧な写生をもとにした作画姿勢は、叙情味に傾くことの多い弟子達の中にあって、一人師風を厳しく守り続けている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「鴨の間」)

 源琦は、延享四年(一七四七)の生まれ、 応挙が亡くなった二年後の寛政九年(一七九七)に没している。姓は駒井、本姓は源、名は琦で、駒井源琦と表記されることも多い。
 安永四年(一七七五)、源琦、二十九歳時に刊行された『平安人物誌』にも搭載され、同誌に載る応挙弟子は、源琦と島田元直と二人だけである。他には応挙、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、呉春、曾我蕭白らの名が並び、源琦はこれらの絵師に並んで京都画壇の一角に名を連ねたということが解る。
 長沢芦雪と共に二哲と評された。芦雪とは対照的に師の画風を最も忠実に継承し、特に清楚な唐美人図で知られる。 他に、『木村蒹葭堂日記』にもその名が登場しており、両者には交流があった事が読み取れる。

源琦二.jpg

源琦筆「楊貴妃図」(MIHO MUSEUM蔵)H-120.8 W-61.7

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001879.htm


補記一 円山応挙の門人について(黒川古文化研究所)

http://www.kurokawa-institute.or.jp/oukyomonjin.pdf

補記二 池大雅の作画と文人性(黒川古文化研究所)

http://www.kurokawa-institute.or.jp/5-sugi.pdf

補記三 「鯉図屏風」と画家・渡辺南岳について(黒川古文化研究所)

http://www.kurokawa-institute.or.jp/7-sugi02.pdf

補記四 江戸中期の漢詩文にみる画人関係資料-事項一覧編‐(黒川古文化研究所) 

http://www.kurokawa-institute.or.jp/9-sugi.pdf
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応挙工房周辺(大乗寺(その十一「藤花禽鳥図」)) [応挙]

その十三 大乗寺(その十一「藤花禽鳥図」)

奥文鳴.jpg

奥文鳴筆「藤花禽鳥図」紙本着色(大乗寺「藤の間」)

【 藤花禽鳥図 奥文鳴 藤の間 
 奥文鳴は応門十哲の一人に数えられる、力ある弟子である。山水の間北側の廊下に面した壁貼付である本図は、大きな三面から構成されており、曲がりくねる藤を刷毛で巧みに表現した「付立」と呼ばれる速写描法が使用されている。藤花には胡粉の白い色がさされ、通常より白い紙の地の上に、更に白さを増した花の存在を意識させ、小鳥に施された微かな色が、墨画で描かれた画面のアクセントとなっている。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「藤の間」)

 この部屋は、「山水の間」の東側裏で、武者隠し(要人の座の近くに警備の武者を隠しておく小部屋)に当たる。この部屋には、襖はなく壁面に襖と同様の仕様で表装されたパネル状の表具がはめ込まれており、その上に描かれている。落款は「源貞章」と署名している。

 奥文鳴は、安永二年(一七七三)生まれ、文化十年(一八一三)の没。寛延七年(一七九五)、二十三歳の時の、この大乗寺障壁画制作(第二次の後期制作)の「藤花禽鳥図」が、現在確認できる制作年が判明する最も早い作品で、生涯最大の作品である。
 寛政二年(一七九〇)の御所造営に伴う障壁画制作にも、応挙一門の一人として、若干十八歳の若さで参加している(しかし、この時の障壁画は嘉永七年=一八五四の火災で焼失し、現存していない)。
 天明七年(一七八七)の大乗寺障壁画第一次の前期制作時は、年齢が十五歳当時で、まだ参加するだけの力量はなかったのであろう。
 文鳴の父は、賀川玄悦の弟子の、賀川流産科医・奥道栄で、応挙と昵懇の関係にあり、その関係で応挙門に入り、応挙門では、応挙の嫡子・応瑞(明和三年=一七七六生まれ)、応挙の三男・木下応受(安永六年=一七七七生まれ)共々、応挙の最側近の一人であったのであろう。
 しかし、木下応受は、文化十二年(一八一五)に、二十九歳で没、文鳴も、文化十年(一八一三)に、四十歳、さらには、山本守礼も、寛政二年(一七九〇)に、やはり、四十歳で没しており、応挙一門、そして、円山(応挙系)四条(呉春系)派の周辺というのは、幾多の変遷を経ながら、京都画壇の主流として脈々と受け継がれ今日に至っている。
 なお、文鳴の、享和元年(一八〇一)に著した『仙斎円山先生伝』は、応挙が没した寛政七年(一七九五)から六年しか経ていない時のもので、また、応挙の最側近の伝記ということで、応挙伝記、そして、応挙画論を知る上で、最も枢要なものとされている(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「応挙に見る伝統と革新」(河野元昭稿))。

補記一 奥文鳴「寒塘水禽図」(敦賀市美術館蔵)

http://www.city.tsuruga.lg.jp/about_city/news_from_facility/gaibu_shisetsu/hakubutsukan/past_exhibactivities/jyousetsutenshinshun.html

奥文鳴2.jpg

補記二 円山応挙と清朝花鳥画 ―近衛家煕の唐物趣味をふま えて―

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/10017/1/KU-1100-20151101-04.pdf

補記三 奥文鳴「仙斎円山先生伝」

https://books.google.co.jp/books?id=s6FMotKqLRkC&pg=PA7&lpg=PA7&dq=%E5%A5%A5%E6%96%87%E9%B3%B4%E3%80%80%E4%BB%99%E6%96%8E%E5%86%86%E5%B1%B1%E5%85%88%E7%94%9F%E4%BC%9D&source=bl&ots=Hbw4vehRTk&sig=fZYuPzVdUNRd8O3CrJ4vxQCSkkI&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiytMnwzLPXAhUBv7wKHQv4BeoQ6AEINDAC#v=onepage&q=%E5%A5%A5%E6%96%87%E9%B3%B4%E3%80%80%E4%BB%99%E6%96%8E%E5%86%86%E5%B1%B1%E5%85%88%E7%94%9F%E4%BC%9D&f=false

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応挙工房周辺(大乗寺(その十「四季耕作図」)) [応挙]

その十二 大乗寺(その十「四季耕作図」)

耕作図襖.jpg

呉春筆「四季耕作図」(襖十二面のうち部分画)(大乗寺「農業の間」)紙本淡彩

【 四季耕作図 呉春筆 農業の間 
 種をまくところから、稲が育ち、刈り取りをするまでの工程が、季節を追って描かれている本図は、墨に淡彩のみで描かれており、呉春が四条派として確立した作風を見せている。群山露頂図より八年の後に描かれていることから、かっての師であった蕪村風の文人画の描法はもはや見られず、円山派入門後の作品と考えられる。頭が大きく描かれる特徴ある呉春の表現が見られ、人々が立ち働く様子が生き生きと描かれている。経済を司る持国天の世界をイメージしているとも解釈されていて、仏教上の方位では東側に当たる部屋である。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「農業の間」)

 呉春は、寛政元年(一七八九)五月に池田を引き払い、京都四条に帰洛して来る。それ以降、亡くなる文化八年(一八一一)の二十余年間を、呉春の「四条派時代」という。
 冒頭の「四季耕作図」は、寛政七年(一七九五)の、大乗寺客殿第二次(後期)制作期のものである。
 これは、天明七年(一七八七)の第一次(前期)制作期の「群山露頂図」が蕪村の文人画風であるのに比して、完全に応挙の写生画風(円山風)の、そして、呉春の「四条派時代(四条派風)」へと、方向転換を明示した作品ということになろう。
 翻って、安永四年(一七七五)に大雅が没し(五十四歳)、安永十年(一七八一)に蕭白(五十二歳没)、そして、呉春の師の蕪村が、天明三年(一七八三)に没した(六十八歳没)。
 続く、寛政年間になると、円山派の総帥の応挙が、寛政七年(一七九五)に六十三歳で没、芦雪は寛政十一年(一七九九)に没(四十六歳)、そして、若冲は続く寛政十二年(一八〇〇)に八十五歳の生涯を閉じている。
 
ここに、「京師の画、円翁(注・応挙)に一変し、呉叟(注・呉春)に再変す」(頼山陽『雲烟略伝』)と、京師の画人達は、呉春の住む京都四条界隈に、その多くが居(画室)を構えることになる。

「松村景文=四条富小路西、柴田義董=富小路四条北、岡本亮彦=堺町四条南、森義章=堺町四条北、田中日華=堺町四条北、佐久間草偃は堺町四条北、百々広年は四条高倉東、山脇広成(紀東暉)は四条東洞院西、三谷五峰は錦小路室町西、横山清暉は新町四条北、岡本豊彦は四条西洞院東、塩川文麟は蛸薬師新町西などと(中略)、これが文字通り四条派である。」(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術」(冷泉為人稿))

呉春は、この四条派の創始者として、その中核に位置する画人であるが、日本の文人画を樹立した一人と目されている、師の蕪村の世界を凌駕するものでは決して無い。また、日本の写生画を文字通り切り拓いていった、師の応挙の世界を、これまた凌駕するものでは決して無い。
 それは、呉春の知己の詩文・書画に造詣の深い村瀬栲亭の「月渓碑文」にある「総円謝(注・円山応挙と与謝蕪村)二家之長」を自家薬籠のものとして、当時の京都の「町家の奥座敷に実にぴたりとよく似合った」(「冷泉・前掲書」)、蕪村の文人画風と応挙の写生画風を止揚させたところの「軽妙・洒脱・諷詠」的な世界を方向づけた先達的画人ということになろう。
 その晩年は、「老に及て髪を不削、指甲を不切、帯をぐるぐるまきにて昼夜同衣にて湯(フロ)にも不入、奇状也」(『其親楼自語』)と、筆を執るような状態ではなく、惨憺たる状態のままに、文化八年(一八一一)、その六十年の生涯を閉じている。

補記一 近世近代京都における絵師・画家の居住地に関する史的研究

https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/8059

補記二 洛東遺芳館と「応挙・呉春・円山四条派の画人達」の関連について

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index.html

当館は京の豪商であった、柏屋を母体とし、昭和49年(1974)に開館しました。以来、今日迄春秋2回特別公開をしております。  柏原家は、肥後熊本加藤清正公の家臣、柏原郷右衛門を祖とすると伝えられています。江戸期の正保2年(1645)初代三右衛門が当所に居を構えたといわれており、はじめ京小間物・扇子等を商い、徐々に商種商域を拡げ、木綿・漆器・紙の店を江戸に持ったいわゆる江戸店持京商人となり、今日も東京・大阪で盛業中であります。  展示品のすべては、柏原家の江戸時代からの伝承品で、婚礼調度・絵画・浮世絵・工芸品・古書古文書等で、これ等を順次展示しております。また、現在の建物も幾多の大小火難を逃れ、数百年来の商家の体裁を保っている京都でも数少ないものであります。

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html

◆平成23年 春季展より 2011年4月1日(金)~5月5日(木)「呉春とその周辺展」
呉春(1752-1811)は江戸時代中期の絵師である。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)。京に生れ、京で没す。絵は蕪村に学び、後に応挙に影響を受ける。四条派の始祖。
岡本豊彦(1773-1845)備中(倉敷)に生れ、京で没す。郷里で黒田綾山に学んだ後、京で呉春に学ぶ。 その他、与謝蕪村(1716-1784)・円山応挙(1733-1795)・松村景文(1779-1843)などを展示。

(特記事項)

今に続く「漆器店 黒江屋」の美術館ともいうべき「洛東違芳館」は、「応挙・蕪村・呉春、そして、円山四条派の画人達」とは深い関係にあり、例えば、「蕪村・若冲・大雅・応挙らの『諸家寄合膳』と『諸家寄合椀』」などと、何らかの関係があるように思われる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306117368-1


補記四 呉春筆「孔雀図」(洛東遺芳館蔵)

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2014.html


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応挙工房周辺(大乗寺(その九「群山露頂図」) [応挙]

その十一 大乗寺(その九「群山露頂図」)

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呉春筆「群山露頂図」(十四面の内二面・部分画)大乗寺「群山露頂の間」(別称「禿山の間」) 紙本墨彩

【 群山露頂図 呉春筆
 天明七年(一七八七)呉春三十六歳の作品で、師蕪村を四年前に亡くし、応挙門には未だ入門していない状況のときである。蕪村と交友のあった応挙が、おそらく呉春に大乗寺障壁画制作への参加を誘ったものと思われ、大乗寺文書では「蕪村高弟」と記されている。部屋のぐるりに、深い靄の間から姿を見せる高山の頭頂部のみを描き、室中もそのような俗界を離れる神聖な頂に居るかのような構成である。呉春は、ここでは短筆披麻皺(ひましゅん)を多用した。文人画色の強い漢画描法を使用しており、農業の間に用いた親しみやすい四条派の作風とは好対照を成している。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「群山露頂の間」)

 呉春(松村月渓)が、蕪村門に入門したのは、安永三年(一七七四)、二十三歳の頃、年譜には、「この頃すでに蕪村に師事するか。このころ月渓・存白・存允白・孫石・可転の号あり。住居は二条通りの北。鴨川のほとり。その住居を百昌堂という」とある(『日本の美術39応挙と呉春・鈴木進編集』)。
 そして、蕪村が没した天明三年(一七八三)、三十二歳時は、「十一月頃から蕪村京都に病む。呉春、師の看病に没頭す。十二月二十五日、蕪村没(六十八歳)」とあり、そして、天明七年(一七八六)、三十六歳時に、「五月、応挙を棟梁とする計六名の画士の仲間にはいり、兵庫県香住の大乗寺の襖絵制作に参加。この時の文書には『蕪村高弟呉月渓』とあり」と、冒頭の「群山露頂図襖」十四面は、その折りの制作である。
 蕪村書簡などによる、蕪村の呉春激賞に関する事項は次のとおりである。

「画は当時無双之妙手に而候。(中略)別而画は愚老(注・蕪村)も恐るゝ斗之若者而候。(後略)」(天明三年=一七八三・九月十四日 士川宛て書簡)
「此児輩(注・月渓=呉春)画には天授の才有之、終には牛耳を握るおのこと末たのもしく候。(後略)」(「蜀桟道図」添状)
(参考)
「旧冬蜀桟の幅呈覧仕候処、為御謝黄金三円二方御めぐみ、扨々かたしけなく奉存候。御徳蔭を以節鬼を追ひはらひ候而大慶の至に御座候。月渓へも方金二地早速相遣候。(後略)」
※蕪村が受領した画料三円二方とは三両と方金(一分金)二分のことで、蕪村が呉春に渡した方金二地とは方金二分のことらしい。方金四分が一両にあたり、当時の一両は今日のほぼ二万四千円に相当する。(『応挙・呉春・芦雪 円山四条派の画家たち(山川武著)』)

 蕪村没後の、応挙と呉春について、『画乗要略(白井華陽著)』には、概略、次のようなことが記されている。

【 呉春は蕪村の没後、応挙に対して束脩(入門の礼をとること)して業を受けることを請うたが、応挙はこれを辞して莫逆の友(親密な友)として遇したと伝えられる。応挙はかねてから呉春の画才をよく知っていて、「月渓ト申若年ノ者アリ、コハキ者ハ、此一人ニテ侍ル。只今京師ニ居ラズ。洛外トカにアリ、是バカリニテ侍ル。」(『古画備考』所引「大通寺話」)と述懐していたといわれる。  】(『山川・前掲書』)

 上記の、「只今京師ニ居ラズ」というのは、呉春は、天明元年(一七八一)に「妻雛路(名・はる=植田氏)と父匡程」を失い、池田(蕪村門下の田福=本名川田祐作、京都五条に呉服店井筒屋を経営、その池田支店に仮住まい)に移り住んで、剃髪し、月渓の号を「呉春」に改めていた。
 そして、呉春が京都に再帰したのは、天明八年(一七八八)の「天明の大火」で、五条鴨川の川向かいの喜雲庵に避難し、偶々、応挙もそこに避難し、その奇遇を切っ掛けとして、その翌年の寛政元年(一七八九)の五月に京都四条に移住しているようである。
 いずれにしろ、冒頭の大乗寺障壁画の「群山露頂図」の制作に取り組んでいた頃は、呉春の、いわゆる池田時代で、応挙自身が認めているように、応挙門とは関係なく、「蕪村高弟呉春」として参加し、そして、その背景には、蕪村亡き後、再び、呉春が大きな画業に取り組む環境作りの一環として、応挙が呉春に働き掛けたのが、その実態のように思われる。
 そして、これらのことは、この「群山露頂図」に関する、冒頭の「ここでは短筆披麻皺(ひましゅん)を多用した。文人画色の強い漢画描法を使用しており、農業の間に用いた親しみやすい四条派の作風とは好対照を成している」との評と軌を一にしているということになる。

補記一 「群山露頂図」(呉春筆)と「峨嵋露頂図」(蕪村筆)、そして、「衡岳露頂図(蕪村筆)について

【「群山露頂図襖」(十四面)は、周知のとおり大乗寺障壁画群のひとつであり、天明七年に応挙を中心とした弟子達とともに描いたものである。これは文字通り、「露頂図」ということからも知られるように師蕪村の「峨嵋露頂図」にならった作品。これを山川武氏は「一室にめぐらされる画面は代赭と藍の淡彩をほどこしているが、特に四季の移り変わりをみせようともせず、楼閣や人物のようなものを一切、描かれずただ柔らかい皺法を重ねて、群山の起伏と樹叢の繁簡だけをゆるやかな韻律をもって流している」、と説く(『日本美術絵画全集二二』)。また呉春が倣った蕪村の「峨嵋露頂図」は、よく知られているとおり、唐の詩人李白の「峨嵋山月歌」を絵画化したものであり、これを知らせるために「峨嵋露頂」と巻記に明記している。この「峨嵋露頂図」をまたまた真似た。すなわち呉春は蕪村の短い絵巻のような小画面の「峨嵋露頂図」を器用に消化させて襖絵十四面にまで及ぶ大画面に変容させたのである。 】(「聚美2011秋 円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術」(冷泉為人稿))

 「群山露頂図」(呉春筆)は、蕪村の「峨嵋露頂図」(蕪村筆)をモデルにしたというのであるが、それよりも、蕪村最晩年の天明三年(一七八三)の「衡岳露頂図」(滋賀・義仲寺)をモデルにしていると思われる。
 「峨嵋露頂図」の特徴は、上記の「柔らかい皺法を重ねて、群山の起伏と樹叢の繁簡だけをゆるやかな韻律をもって流している」の「皺法(しゅんぽう)」(岩や山の峰などの画中の物体の表面にしわのような線を引き、その物体の立体感を表そうとする中国南宗画の技法)というよりも、「点苔法(てんたいほう)」(岩上の苔、山上の樹木などを表すために細かい点を打つ技法)が大きな特色で、これは一種の溌墨法で、「夜色楼台雪万家図」の、胡粉の雪の点描と同じ手法とされている(『日本近世絵画の図像学―趣向の深意―(林進著)』所収「蕪村の『峨嵋露頂図』―『言葉』と『図像』の多義性―」)。
 そして、この種の、一気呵成の気の趣くままに、謂わば、水墨の偶発性を狙っているような描法というものは、それを真似しようとしても、例え、蕪村の画法の全てを承知している呉春にとっても、それは不可能のようなものであろう。 
 蕪村は、この「峨嵋露頂図」に続いて、蕪村が生涯において私淑し続けた芭蕉が葬られている義仲寺に、蕪村が六十八年の生涯を閉じる天明三年(一七八三)に、「衡岳露頂図」という襖絵を描いた。
 これは、現在、二曲一双の屏風に改装され、傷みが激しく、図葉が判然としないのであるが、明治の漆芸家柴田是真が、その縮図を手控えていて、そこに、「倣王藍田筆意 発卯春正月写於雪堂中 夜半翁」と記されおり、亡くなる年の正月に制作したことが判明している。
 この「衡岳露頂図」は、「湖南省にある五岳の一つ南岳の衡山を描いたもので、衡山七十二峰の一つ回雁峰(雁がこの峰から北に引き返すところから名づけられた)を表したもの」とされている(『林進・前掲書』)。
 ここで、あらためて、呉春の「群山露頂図」(襖十四面)の高山頭頂部を目の当たりにすると、これは、紛れもなく、蕪村の「衡岳露頂図」(二曲一双屏風)の丁寧な「皺法」と細やかな「点苔法」を、応挙が大乗寺文書に記した「蕪村高弟」として、忠実に、それを再現したという思いを深くする。

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蕪村筆「衡岳露頂図」(柴田是心筆「諸国縮図帖・東京芸術大学学術資料館」)・「滋賀・義仲寺蔵「衡岳露頂図屏風」―『日本美術絵画全集一九 与謝蕪村(吉沢忠著)』―

補記二 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「呉春」の部分(翻刻文)

http://museum.daijyoji.or.jp/03mokuro/03_06/03_06_19.html

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この画料「千疋」について、『日本美術絵画全集(第二十二巻)応挙・呉春』所収「作品解説(山川武稿)」では、「当時の一両を今日の二四〇〇〇円として換算すると六万円にあたる」としている。

補記三 皺法(『芥子園画伝』)と点苔法(「峨嵋露頂図・蕪村筆)について

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皺法(『芥子園画伝』初集のうち「石壁露頂法」)

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点苔法(「峨嵋露頂図・蕪村筆)

 蕪村の「山水画」では、上記の『芥子園画伝』初集の「石壁露頂法」は、しばしば見られるものであるが、「峨嵋露頂図」では、上記のとおり太い「点苔法」が顕著で、それが特徴となっている。

補記四 蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-05-10



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応挙工房周辺(大乗寺(その八「群仙図」)) [応挙]

その十 大乗寺(その八「群仙図」)

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秀雪亭筆「群仙図(襖四面)」(大乗寺「仙人の間」襖八面の内)

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秀雪亭筆「群仙図(襖四面)の左一面の拡大図」

【 群仙図 秀雪亭筆
 仏教上の方位で北に位置する部屋に描かれた本図は、医療を司る多聞天の世界をイメージさせたとも解釈されており、眼下には靄の中に木立や建物、山の頂などが見え、仙人達は、それぞれ仙果である桃や、香炉、笛、巻子、盆石等、様々な物を運んでいる。仙人の着衣や独特の風貌には日常的でない表現を用い、人々のイメージする世界を映し出すことに腐心している。秀雪亭はどのような絵師であったか未だはっきりとは解明されていないが、寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際にも、応挙一門として共に制作に当たっている。 】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「使者の間」)

 秀雪亭については、『平安人物志(文化十年版)』に、「分類: 画  秀喬卿 - 号 : 綿山 - 字 : 子寿 - 諏訪町松原北 - (俗称) 秀雪亭」と記載されている。
 上記の、「寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際にも、応挙一門として共に制作に当たっている」に関連しては、次のようなことが背景にある。

【天明の大火で内裏御所が焼失した。幕府は老中・松平定信を惣奉行に命じ、すぐに御所造営にあたらせた。ところが、当時の幕府財政は逼迫していたため、内裏御所壁画制作に異変が生ずることとなった。内裏御所障壁画は幕府に仕える江戸の狩野一門が行うのが通例だった。ところが、今回は紫宸殿の賢聖障子だけを江戸で描かせて京都に送り、それ以外の障壁画を京都在住の絵師たちに描かせることになったのである。経費節減のためである。ただ、素性の怪しい絵師に内裏御所障壁画を描かせる訳にはいかない。そこで寛政元年(一七八五)五月、この御用を志願する京都在住の絵師たちに身元、および朝廷での御用勤め履歴などを記載した願書を提出させた。その内容が『禁中御用絵師任用願』という記録からわかり、そこに応挙の記録も含まれている。それによれば、安永九年(一七八〇)、光格天皇即位のための道具新調を勤めたのが応挙の朝廷での最初の仕事だったようだ。この前歴により応挙は内裏御所障壁画制作への参加が許され、常御殿一之間と御小座敷上御間の襖絵を描くことが認められた。なお、この時、応挙一門では、円山応瑞、源琦、長沢芦雪、島田元直、秀雪亭なども選考にパスし、内裏御所障壁画制作の参加が許されている。 】
(『別冊太陽 円山応挙』所収「応挙年代記・五十代から晩年まで・五十嵐公一稿」)

 この時の、応挙と応挙一門の障壁画は、嘉永七年(一八五四)四月の火災で焼失してしまった。いずれにしろ、秀雪亭は、応挙の嫡子・応瑞とともに、応挙晩年の若手の有力応挙一門の一人であったのであろう。

補記一 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「秀雪亭」の部分拡大

秀雪亭三.jpg

御襖群仙之図懸画/相認メ候御挨拶ノ為方ニ金/五百疋送リ下サレ忝ク拝受/仕リ候 以上/九月八日 秀権九郎(注・秀雪亭)

補記二 文化10年版(画) - 立命館大学

http://www.ritsumei.ac.jp/~mit03437/coe/heian/bunka10/bunka10_ga.htm


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応挙工房周辺(大乗寺(その七「少年行図」「採蓮図」)) [応挙]

その九 大乗寺(その七「少年行図」「採蓮図」)

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山本守礼筆「少年行図(部分画)」(大乗寺「使者の間」北側襖四面の内)

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亀岡規礼筆「採蓮図(部分画)」(大乗寺「使者の間」西側襖四面の内)

【 少年行図(山本守礼筆) 採蓮図(亀岡規礼)
 「少年行図」を描いた山本守礼と「採蓮図」を描いた亀岡規礼とは兄弟で、守礼の方が兄である。「少年行図」も「採蓮図」も共に中国の画題で、楽曲をもとに作られているが、少年が乗馬を楽しむ様と、女性が湖に舟を浮かべ、蓮の花を手折る恋の歌の内容とが表されている。自然の中での人々の姿を描くことによって、より一層風景の持つ美しさ、爽やかさを印象付けている。品格ある描線、丁寧で整った清明な作風には共通性があり、一つの部屋を二人で制作していても、全く違和感がない。守礼はまた、大乗寺では狗子の間を描いている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「使者の間」)

 亀岡規礼は、明和七年(一七七〇)の生まれ、早くに、山本守礼の弟子となり、守礼の実家の亀岡の姓を継ぐ。守礼との関係は、守礼が義兄あるいは養父という関係なのであろう。本姓は笹井、名は光茂。字は子恭、通称は喜十郎。天保六年(一八三五)、六十六歳で没している。『平安人物志(文化十年版)』『平安人物志(文政五年版)』『平安人物志(文政十三年版)』に、その名が見られる。
 天明七年(一七八七)の大乗寺障壁画(使者の間)の「採蓮図」を描いたのは、若干十七歳の頃で、この作品が規礼のデビュー作品ということになろう。山本守礼は、寛政二年(一七九〇)に夭逝(三十九歳)しているので、以後、応挙門で守礼の後継者ということになろう。
 応挙の「円山派」では、応門十哲(源琦・長沢蘆雪・山口素絢・奥文鳴・吉村孝敬・森徹山・山跡鶴嶺・木下応寿・福知白瑛・亀岡規礼)と目せられるものもあり、守礼ともども、応挙画風の正しい継承者の一人として重きを成していたのであろう。

http://www.kowado.net/benkyo002.htm

 この「採蓮図」の女性像に関連して、次の守礼筆「美人機織図」(黒川古文化研究所蔵)の女性像をモデルにしている雰囲気である。

守礼四.jpg

山本守礼筆「美人機織図(部分画)」(黒川古文化研究所蔵)
紙本着色 一二七・〇×五四・〇cm

補記一 円山応挙の門人について

http://www.kurokawa-institute.or.jp/oukyomonjin.pdf

補記二 『若冲が来てくれました ブライスコレクション江戸絵画の美と生命』所収「ブライス動物園」
47 歩みよるトラ 虎図 一幅 亀岡規礼筆 絹本着色
一一七・二×四〇・〇cm

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応挙工房周辺(大乗寺(その六 梅花狗子図)) [応挙]

その八 大乗寺(その六 梅花狗子図)

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山本礼筆「梅花狗子図」(「狗子の間」襖十一枚の内の二枚)紙本淡彩(大乗寺)

【 梅花狗子図 山本守礼筆 
満開の梅の木の下でこの春生まれたばかりの子犬たちが、無邪気にじゃれ合う姿が描かれているが、子犬は応挙が好んだモチーフで、弟子達もそれを継承した。狩野派などでは、松や鷹、鶴、龍虎のような、日常的でないモチーフを扱うことが多かったのに対し、応挙は日常の生活で見慣れている物に対し慈愛の視線を送り、自然界の生きとして生けるもの全てが美しく、絵のモチーフになりうるものという考え方を持っていた。従来、絵のモチーフとして扱われることがほとんどなかった子犬が、応挙以降円山四条派の特色を担うモチーフの一つとなり、守礼も応挙の筆致で愛くるしい子犬の表情を巧みに表現している。】
(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「狗子の間」)

守礼は、宝暦元年(一七五一)の生まれ、寛政二年(一七九〇)に没している。すなわち、天明七年(一七八七)に、この「梅花狗子図」を制作して、二年足らずで、四十歳足らずの生涯を閉じている。
 本姓は藤原、旧姓は亀岡。諱は守貞、のち守礼。通称は数馬、主水。字は子敬、号を久珂、探芳斎、猶亭。山本家は京都で代々狩野探幽の流れをくむ画系で、守礼はその六代目にあたり、守礼の代で円山派に転向したともいわれている。
 守礼は、弟の亀岡規礼との合作で、「使者の間」の「少年行図(守礼筆)」「採蓮図(規礼筆)」も描いているが、これも、「狗子の間」と同じく、天明七年(一七八七)の第一期(前期)には完成していて、一緒に大乗寺に納入されていたのであろう。

守礼二.jpg

山本守礼筆「山水人物図」(「天袋・小襖四面の内)(上部「欄間」は「松に岩図・応挙筆)
「東京国立博物館・応挙館」→A図

守礼一.jpg

A図の一部(拡大)

杉戸狗子図.jpg

円山応挙筆「朝顔狗子図杉戸絵」二面 板地着色 各一六六・五×八一・三cm
「東京国立博物館・応挙館」→B図

上記は「東京国立博物館・応挙館」の障壁画の一部である。この応挙館は、元々は、尾張国(現在の愛知県大治町)の天台宗寺院、明眼院のもので、天明四年(一七八四)に、応挙が眼病で明眼院に療養していた際のお礼として揮毫したといわれている。
 この応挙館は、茶人「鈍翁」として名高い旧三井物産の創業者・益田孝が、品川の邸宅で茶室として使用していたが、昭和八年(一九三三)に東京国立博物館(台東区上野)に寄贈され、同館庭園に移築されたものである。
 その障壁画は、「梅図襖」(四面)、「松に岩図」(「床・壁貼付七面)、「竹図」(壁貼付二面)、「芦雁図」(襖十面)などで、上記のA図は、応挙筆「松に岩図」(「床・壁貼付七面)と一体となっている、山本守礼筆の「山水人物図」(「小袋・天袋四面の内)である。
 この天明四年(一七八四)は、応挙、五十二歳、守礼が三十三歳の時で、いわゆる、応挙が、多くの門弟を抱え工房を形成し、多くの障壁画を制作した、そのスタート時点での、応挙・守礼の師弟コンビでの、今に伝わっている遺作ともいえるものであろう。
 この時の、応挙の杉戸絵が、B図の「朝顔狗子図杉戸絵」で、これは、応挙の「動物画」(鶴・孔雀・兎・虎・子犬など)の、応挙風「子犬」のモデル画の一つとされているものである。
 その上で、冒頭の守礼の、大乗寺「狗の間」の「梅花狗子図」を見ると、これは、紛れもなく、この「狗子」は、応挙の「朝顔狗子図杉戸絵」(B図)の「狗子」、そして、その「梅図(樹)」も、これまた、応挙の「梅図襖」をモデルにしていることが一目瞭然となって来る。
 すなわち、「応挙工房の活動」と、その活動のピークとなる、数々の「応挙(応挙工房)障壁画」の、その原動力になったのは、三十代の山本守礼と、そして、二十代の応挙の嫡子・円山応瑞の二人であったのであろう。

補記一 応挙館のデジタルアーカイブ関連

http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/t01.html

補記二 大乗寺のデジタルアーカイブ関連

http://www.dnp.co.jp/denshoubi/works/fusuma/d02.html

補記三 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「守礼」の部分拡大

守礼文書.jpg

御襖二間分少年行/梅狗子両図相認メ候拙/画資方 金千百疋御恵/投忝ク拝納仕リ候 以上

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応挙工房周辺(大乗寺(その五 遊鯉図)) [応挙]

その七 大乗寺(その五 遊鯉図)

鯉の間一.jpg
応瑞筆「遊鯉図襖」(南面の三面)(大乗寺「鯉の間」)→A図

鯉の間二.jpg

応瑞筆「遊鯉襖」(A図の左側襖の「鯉」図)

鯉の間三.jpg

応瑞筆「遊鯉襖」(A図の中央襖の「亀」図)

【 遊鯉図 円山応瑞筆
応瑞は応挙の息子で、天明七年(一七八七)に、本図が制作されたときには二十二歳であった。水中に泳ぐ鯉や亀が透けて見えるような透明な水景が描かれている。僅かに淡彩を施し、たっぷりと余白を取った画面は、厳しい応挙の写生画に比べると、より叙情味の強まった柔らかな作風となっている。修行の一つとして自らの意識を広げていき、又、それを縮めて、自分の内に世界を見るということをする時のために、本図に描かれた部屋は、隣接する寺の北側に位置する鯉池の風景と一体化するように工夫されている。 】(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収「鯉の間」)

 大乗寺障壁画の第一期(前期)が完成したのは、天明七年(一七八七)、応挙、五十五歳、そして、嫡子・応瑞が二十二歳の時であった。応瑞については、その生涯にわたって「家法を守る」(白井華陽著『画乗要略』)という姿勢を堅持したという評が適切なのかも知れない。
 それらは、上記の「鯉」の図、「亀」の図を見ただけでも、まさしく、これらは、応瑞をして応挙画風を堅持する嫡出子という印象を深くする。
 なお、「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)を見ると、「円山主水」(応挙)の文書(書簡など)以外に、「円山右近」「源応瑞」「応瑞」「右近」(応瑞)の文書(書簡など)が多数見られ、まさしく、この大乗寺障壁画の応挙名代は、応瑞であったという印象を、これまた深くする。

応瑞画料.jpg

「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図

 この大乗寺文書は、先に紹介した次の応挙書簡(翻刻文Aなど)に対応するものと思われる。

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応挙書簡(大乗寺文書)天明七年(一七八七)・天明四年(辰・一七八四)の上半分→翻刻文A

 上記の二つの文書(B図と翻刻文A)を併せて読むと、概略、次のとおりとなる。

呉月渓(呉春)千疋(注・約五両) 郡山露頂の間(襖十四枚) 
嶋田元直  千弐百疋(約五・二両) 地崩れで部屋崩壊による紛失(「牡丹の間」「竹の間」「雪  の間」)  
山本守礼  千壱百疋(約五・一両)「狗子の間」(襖十一枚)「使者の間」(襖十一枚)の二間  (「使者の間」は、弟の亀岡規礼と合作 )
秀 雪亭   五百疋 (約二・五両) 仙人の間(襖八枚)
円山応瑞   五百疋 (約二・五両) 鯉の間(襖八枚) 

 これらは、天明七年(一七八七)に完成した大乗寺障壁画の前期制作にかかるものということになろう。そして、上記の「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書→B図」は、それぞれの画人の直筆であって、これらの文書を大乗寺に書簡として送ったのは、この文書の一番最後に記載している応瑞と解したい。
 なお、この前期制作には、応挙の「山水の間」「郭子儀の間(芭蕉の間)」そして、応瑞の「仏間」も完成しているものと思われるが、それらは「謝礼」として、例えば、上記の「翻刻文A」に続く「翻刻文B」などに、その一部が記載されている。
 また、寛政七年(一七九五)に完成する、応挙の「孔雀の間」、そして、「藤の間(奥文鳴筆)」「鴨の間(源琦筆)」「猿の間(芦雪筆)」「農業の間(呉春筆)」などの後期制作にかかる経費についても、上記の文書(書簡など)に準じて、その一部は「大乗寺応挙関係資料」などに記載されている。

補記一 「鯉の間」

http://museum.daijyoji.or.jp/04sakka/04kai/04_01_05k.html

遊鯉図 円山応瑞筆 天明7年[1787年]について 

 この部屋は「山水の間」につながる高位な人の控室の機能をもっています。この部屋に床の間がついているのはそのためで、襖1枚で山水の間の高座敷に入って行ける位置にあります。襖に描かれた鮎が泳ぐ川は、山水の間に描かれた湖へと繋がっています。更にこの部屋は、仏間の真後にあたる部屋ですから、仏間の蓮池とここに描かれた蓮池が繋がるようになっています。
 応瑞は応挙の子でこの絵を描いた時は22歳でした。池の中の鯉や亀がテーマとなっており、身体をくねらせて泳ぐ鯉や、水面に顔を出してしばし休憩中の亀など、自然の光景を一瞬時を止めたかのように表現している。淡い彩色と余白は無限の広がりを感じさせ、池の中の小宇宙はそのまま大宇宙の摂理であることを暗示しているようにも見えます。
 また、この部屋も庭に向って開かれ、庭には鯉の泳ぐ池があり、ここでも絵の世界と現実の世界の一体化を試みています。

◆逃げる亀、向きを変える鯉
 岩に上がって甲羅を干している亀は右から見ると左へ、左から見ると右へと向きを変えて、人から逃げるように見えます(図1)。また、同様に左端の襖に描かれ身をくねらせている鯉も、右から見ると左に、左から見ると右に身を翻すふうに見えるのです(図2)。これらは2次元平面である絵と3次元の現実空間の間で起きる現象ですが、これらを巧みに使って描くのは応挙一門の得意とするところです。

補記二 円山応挙について

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06index.html

円山応挙について

 円山応挙は江戸時代中期に活躍した画家で、それまでの踏襲と伝授を主としていた日本の絵画の世界に、新しい考え方と技法を取り入れ、従来にない絵画表現を完成させた画家である。

 目前の対象を見て描くという写生を基に構成する絵画手法は、それまでの日本の絵画にはみられない斬新な制作法であり、その結果として生まれる作品は人々を魅了し「写生派の祖」といわれるようになった。

 しかしながら、応挙の絵は「写生派」の呼称を超えたところにその真価があって、例えば「龍」のような空想上の動物をまるで本当に生きたものを見たかのように息遣いまでを込めて描き、葉の様相を描くことで風や雨を表現する。さらに「雪松図」のように「場の一瞬の空気感」を表現した作品をも生みだすに至るのである。その芸術性の高さと日本の絵画史上での業績はもっと評価されてしかるべきである。「水墨画」「浮世絵」というどちらかといえば外国人評価の二大ジャンルのはざ間で、そのどちらでもない応挙の評価が見過ごされてきた感がある。

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_01.html

第1話. 穴太村に生れる

 円山応挙は享保18年(1733年)丹波の国、亀岡穴太村の農家、円山藤左衛門の次男として生まれている。農家の次男に生まれながら禁裏(御所)に出入りを許される画家にまでなったのである。人との出会いや社会の要求との合致があったとはいえ稀な例といえる。
 与えられた環境の中からアートへの慧眼を育て、芸術に身を投じる例は江戸時代にあっても同様で、応挙の周辺の画家をみても呉春は京都金座の役人の息子、芦雪は淀川を警備する役人の子息であったといわれており、どちらも師の応挙よりも恵まれた環境下に生まれている。近代の画家の例をみても、小出楢重は薬問屋、安井曽太郎は木綿問屋、児島善三郎は紙問屋の子息である。名を成した画家のすべてがそうとはいえないが、一定の環境下で芸術への造詣を深めていく例は多い。一方ゴッホ、青木繁など厳しい条件の下に生まれた芸術家には壮絶な生き方の人が多い。
 さて応挙はというと、農家の次男である、しかも出生の前年には西国で虫害による飢饉があり、翌年には多数の死者が出たということであるから、相当に厳しい情況に生まれている。長男以外は家を出る慣習ではあるが、負担の軽減という理由からも応挙は家を出ることを当然のことととらえていたであろう。当初は菩提寺(地元の寺)の金剛寺に預けられたらしい。金剛寺には壮年期に描いた応挙の襖絵が残されている。応挙が恩義を感じて納めたものか、あるいは高名となった応挙にゆかりの寺が依願したものかは定かではないが、天明の大火でアトリエを失った応挙が、一時期故郷に帰って制作したとも伝えられていることなどから考えても、幼くして故郷を後にしたにもかかわらず地元の人達とも友好な関係を保っていたことが想像できる。自らの出生の不運をうらむことなく人柄も平明であった応挙は、その後の人生でも行く先々で受け入れられていく。
 やがて15歳の頃、上洛し京都で奉公に出る。縁あって人形や玩具、ビードロ道具を扱う「尾張屋」に奉公することになる。尾張屋での人形制作や覗き装置の絵を描くなどの仕事は応挙の資質に合っているばかりか、多くの技術を身に着けたとも思われ、応挙のその後を大きく決定付けることとなったようだ。尾張屋主人中島勘兵衛は応挙の素質を見抜いて、応挙17歳の頃狩野派の画家、石田幽汀に絵を習わせたという。石田幽汀に絵を習ったことが応挙の中でどれほどの意味をもっていたかは知るよしもないが、学んだ期間はさほど長くはなかったようで、若い奉公人の応挙であったが、この頃すでに狩野派の手法にしっくりこないものがあったのではないかと想像してしまう。若い応挙が尾張屋での手仕事をこなしながら、狩野派を体験するも動じることなく、また黙々と自らの手を動かせている様はなんとも痛快な感じであるし、その後の応挙のありようをこの時点で予兆しているようである。後年、中島勘兵衛の葬儀を応挙は池大雅とともに仕切っているから、恩義を感じていたというだけでなく絵師として身を立てた後も勘兵衛や尾張屋との付き合いがあったのだろう。
 人によっては成功ののち苦難時代をことさらに表現したり、苦境時の欠乏感を補うかのように豪華絢爛な趣味にはしる例があるが、応挙にはそういうところがまったくなく、ひがみや屈折した感情がまるでないかのようである。画家として名声を高めた後もどのような注文にも応じ注文主を満足させながらも、同時に譲ることのなく自分の絵を描ききっている。この応挙の何でも呑み込んでしまうようなブラックホール的心情は、生まれながらにしてその状況を受け入れざるを得なかったその出自によるところが大きく影響しているのではないかと想像する。若くしてこの心情を持ち得たことが、その後の応挙の成功への過程でも大きく作用しているように思われる。
 上田秋成が応挙の人物像を「衣食住に頓着のない面白味に欠ける人」と評しているが、少し成功すると妙に暮らしの様々にこだわりはじめる人が多いなか応挙にはそれがなく、ある意味上田秋成の指摘は当たっているといえる。

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_02.html

第2話. 尾張屋勘兵衛とレンズ

 応挙は15歳で京都に奉公に出ている。江戸時代は政治の中心は江戸に移っているが、天皇家や有力寺院は京都を拠点として歴史を重ね、市民の生活に根ざした工芸や芸術など、時代を動かす力はまだまだ京都が中心であった。
 応挙はいくつかの奉公先を移ったようであるが、尾張屋という書画骨董や人形、玩具類を扱う店に入ったことは応挙がその後の画家として成功するうえでの基点となったようである。尾張屋は当時まだ珍しかったガラスのレンズを使った望遠鏡やのぞき眼鏡を扱っており、これらはビードロ道具ともいわれ、なかでも輸入されたのぞき眼鏡はレンズを通して見ると絵の遠近感が強調されて立体的に見えるのが珍しく流行していた。これらは眼鏡絵あるいは浮絵(うきえ)と呼ばれ使用する絵が輸入品だけでは足りず尾張屋でも描いていたようで、応挙にも描いてみろということになったのだろう。尾張屋の主人中島勘兵衛は応挙の絵の才能を見抜き、狩野派の画家石田幽汀に絵を習わせている。応挙はこの奉公先で三十三間堂など京の名所や祭りの情景など眼鏡絵を盛んに描いている。当時ののぞき眼鏡は現存しているものや、浮世絵に描かれたものなどから考えると、大小さまざまで、レンズも単眼のもの双眼のものがあり、望遠鏡の接眼レンズのように眼を近づけて見るものから、天眼鏡のように大口径レンズを通して見るタイプのものなどがある。立てた絵を直線的に見るものや、平面に置かれた絵を45度に設置された鏡に反射させて見るものなどその構造も様々であるが、レンズはいずれも凸レンズが使われている。

http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_03.html

第3話. 応挙と博物学

 応挙は「写生の祖」といわれている。目前の対象物を観察しながら描く写生を絵画制作に取り入れ、それまでの画法を大きく変化させた。その画法は現代の日本画壇にまで受け継がれている。
 応挙が42歳であった安永3年(1774年)に「解体新書」が刊行されている。「解体新書」は前野良沢、中川淳庵、杉田玄白らが明和8年(1771年)3月小塚原での死刑囚の死体解剖に立会い、オランダの解剖図譜「ターヘルアナトミア」の内容が正しいことを知って驚き、その翻訳を決意したことによるのであるが、この解体新書の挿絵を描いたのが秋田藩の若い平侍であった小田野直武という人であったことはあまり知られていない。
当時の秋田藩主佐竹義教(よしあつ)(後に号を曙山とする)は「画法綱領」「図画理解」などの絵画論の著書を刊行するなど絵に造詣深く、秋田蘭画といわれるほどこの時期秋田藩では洋画が盛んであった。平侍であった小田野直武はその画才を認められ藩主の元に出入りを許されていたという。直武は銅山検分に秋田藩を訪れた平賀源内との出会いにより、江戸に呼び出され急遽「解体新書」の挿絵を描くことになったらしい。
 図柄の踏襲や師の技法伝授にひたすら精力的であったそれまでの絵師では、人体解剖という現場の刻々を観察しながら描く必要に応えることができない、という判断があったのだろう。江戸から遠く離れた秋田藩の人物が抜擢された事実は、この時代絵に求められるものも急激に変化したことの象徴的な出来事であるように思える。また、人の出会いという要因もあろうが、この時代の人の交流や才能評価の自在さには驚かされるばかりである。
 時代の要求はいろいろな分野で真実をとらえようとする意欲を盛んにし、様々の事項が項目別に整理され、図入りで説明が付けられた百科全書が中国から輸入される。その内容は、当時の人々の好奇心を刺激し、知識欲を満たしてくれる格好のものとなり、同様のものを自分達でも編纂してみようという動きも盛んとなる。そのためには今までにない実証的精神が求められ、現実をふまえた試行錯誤や研究開発の姿勢が必要となったのである。絵師自身も物事に関する探究心をもち、作品それぞれに知識の裏付けが必要とされることとなる。
 応挙も絵師としての名声が高まるとともに、様々の分野の知識人との交流を始めている。応挙の絵の明るく美しいところは皇家の受け入れるところとなり、皇室血縁の人々との交流が盛んとなる。宝鏡寺蓮池院尼公の元に出入りし、やがて応挙のスポンサー的存在となる円満院門主祐常の知遇を得、円満院時代と呼ばれるほど多くの作品を生み出すのである。円満院門主祐常も博物図譜の編纂を目論んでいたらしく、応挙のこの時期の写生帖には数々の昆虫、蝶、植物などの写生が残されている。また門主自身絵筆をもつ人であり、応挙から様々の技法や画法の手ほどきを受け詳しく記録に残しており、自らの考えと実現したい諸々を応挙に熱く語ったに違いない。応挙も門主の要望によく応えているようで、門主をうならせたであろうと想像できる作品を多く遺している。
 応挙の写生帖には絵とともに対象への観察の痕跡があって、展覧会でも画帖への関心は高くたいへんな人気である。応挙にとってはあくまで本作品のための取材であり、メモであり、覚えであったりで、人に見せることを考えて描いたものではないが、応挙の画帖に絵画習作の域を越えた何かを感じるのは、対象物をとらえて描く視線の裏に画家としての絵画表現の目と並んで博物学者としての観察の目があるからではないかと考えている。

補記三 「応挙関係資料」(『大乗寺(佐々木丞平・正子編著)』所収)「呉春・嶋田元直・山本守礼・秀雪亭・円山応瑞の画料等の文書」→B図 ・・・・「応瑞」の部分拡大

応瑞一.jpg

 御襖八面池ニ魚遊ノ図/相認メ差上候挨拶支方ノ為/金五百疋送リ下サレ/辱ク受納仕リ候 以上 九月二十一日 円山右近

疋=疋は銭を数える語。古くは鳥目一〇文を一疋とし、のちに二五文を一疋とした。
(『江戸の絵師 「暮らしと稼ぎ」』安村敏信著・小学館)

一疋=二五文×五百疋=一万二五〇〇文  明和年間は金一両=約五〇〇〇文とすると、約二・五両

https://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/1ryou.pdf

・食べ物を基準にすると、1文=5~30円、1両=4~20万円、
・労賃を基準にすると、1文=30~50円、1両=20~35万円    


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