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蕪村の絵文字(その三) [蕪村書簡]

(その三)

絵文字.jpg
『蕪村全集五 書簡』所収「四一明和九年一月四日 無宛名」

 書簡の冒頭に、この謎めいた絵文字が出て来る。この右上に書いてある文言は「わたしはお前の兄さんのむすめでござんす」で、左下の文言は、「これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな」と書いてある。
 そして、書簡の出だしに、「『一(わたしはお前の兄さんのむすめでござんす)』の『二(これはそのほうにたのむ。大事な物じや。かならずかならず失ふな。ナ合点歟。かならずかならず失ふな)』の御慶、めでたく申納候。御家内様御揃御平安被成御越年、奉賀候」と続くのである。
 その書簡の末尾には、次の「歳暮」の句が出て来る。

   歳暮
  張子房と云(いへ)る題を探りて
 石公(せきこう)へ五百目戻すとし(年)のくれ(くれ) 蕪村

 この句は、『蕪村全集一 発句(八三六)』に「題 沓(くつ)」で収載されている。句意は、「年末の借銭を返すのに、張良が石公に沓の片方を拾って戻したのに倣い、半分を返して済ますことにしよう。故事の俳諧化」とある。
 この句意を得て、この書簡は、「歳暮(年末)・歳旦(新年)」の挨拶の書簡ということと、やはり、「歳暮の借銭返し」に関連するものという背景が浮かび上がっている。
 『蕪村全集五 書簡』では、「冒頭の絵文字は解読できない」(頭注)とあるのだが、この書簡は、いわゆる、「判じ物」(当時流行していた「絵」を見て「答」を探る「謎々遊び」)のようである。
 そのヒントは、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」にあるようである。

絵文字2.jpg
『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「書簡等挿絵・絵文字『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』・『六右書簡添句挿絵』」

 すなわち、この書簡の冒頭の「絵文字」(謎々は?=『五無宛名書簡絵文字(判じ物)』)の、その答えは、この書簡の末尾の「絵文字」(『六右書簡添句挿絵(答)』)ということになる。

蕪村の絵文字(その二) [蕪村書簡]

(その二)

節季.jpg
『蕪村書簡集 岩波文庫』所収「一八九 佳棠宛(十二月二十七日)・年代不詳」

 この図柄(絵文字というより素描)は、浄瑠璃「ひらがな盛衰記」第四段、傾城梅ケ枝が、「ア、金がほしいなアー」と手水鉢を無間の鐘に見立てて、柄杓で打てば、「其の金ここに」と、小判三百両が二階の障子の内から、ぱらりと投げ出される。その梅ケ枝の身振りとか(脚注一)。
 書簡の内容は、「此の節季」の「節季」(十二月の年末)に関してのものである。その年末に、「けふはあまりのことに手水鉢にむかい、かゝる身ぶりをいたし候得共、『其の金ここに』、といふ人なきを恨み候」と、新しい年を迎える金がないということと思いしや、「されども此の雪、只も見過ごしがたく候」と、年末の忙しい時に、折りからの雪を見て、「雪見酒」の宴会をやりたいという文面のようである。
 場所は、「二軒茶や中村やへと出かけ可申候」というのである。嵐山は三軒茶屋だが、こちらは、祇園南楼門前の二軒茶屋、東を中村屋、西を藤屋というとか(脚注二)、その中村屋(祇園豆腐が名高いとか)を、御指名している。
 この蕪村書簡の宛名は、「佳棠福人」とある。この「佳棠」は、先(その一)に触れた、書肆田中汲古堂のこと「佳棠」大檀那であり、「福人」という敬称は、「雪見酒の金主を頼む故」のものとか(脚注三)。

 さて、冒頭の蕪村書簡に戻って、その書簡にある図柄(素描)は、「蕪村」その人の風姿なのであるが、当時の蕪村は、明和八年(一七七一)の歳旦帖『明和辛卯春』に、「浪花の鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子」らの俳優連が、それぞれの句を寄せているほどの、その俳優連の熱烈なファンの最たるものだったのである。
 その芝居好きの蕪村の最も良き相方が、この書簡の宛名にある「佳棠」その人である。

 ちなみに、「ひらがな盛衰記」第四段の傾城梅ケ枝の「あらすじ」は次のとおりである。

「勘当された源太と千鳥のその後の運命を綴ったのが四段目の「辻法印」「神崎揚屋」である。源太を養うため千鳥は神崎の廓に身を沈め、梅ヶ枝と名乗る遊女になった。折しも一の谷で合戦が起こり、源太は梅ヶ枝に預けていた産衣の鎧を取りにくる。しかし梅ヶ枝は、源太の揚代を作るため、鎧を質に入れてしまっていた。百計尽きた梅ヶ枝は、小夜の中山の無間の鐘の言い伝えを思い出し、庭の手水鉢を鐘に見立てて柄杓で打とうとした。その時二階から質受けに必要な三百両の金が降ってきた。客に化けていた母延寿の、思いがけない情の金であった。」

傾城梅ケ枝.jpg
[左から]傾城梅ヶ枝(中村福助)、梶原源太景季(中村信二郎) 平成15年9月歌舞伎座


蕪村の絵文字(その一) [蕪村書簡]

(その一)

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『蕪村全集五 書簡』所収「四一七 天明元~三年 夏 百池宛て」

 「半」を八つ書いて、「八半」=「夜半(蕪村)」の駄洒落。
 「池・ち・千」を「百」(「百」はない。「百」の意に使っているか?)書いて=「百池」の駄洒落。
  
  夏山やつもるべき塵もなかりけり   蕪村の句

 『蕪村全集一 発句』所収「二六六一の頭注」は、「夏山は澄みきった青空の下、深緑の偉容を見せている。『塵も積もって山となる』などという俗謡とは無縁に」と格調の高い解がなされている。
どうも、書簡の内容からすると、「夏山」を「百池」に見立てて、「百池さんや、夜半は、『塵も積もって山となる』の、その塵(お金)一つない、金欠病にかかっている」という駄洒落の句の感じが濃厚である。

 「雪居」は、百池の一族で、書簡からすると何か貰い物をした蕪村のお礼の文面のようである。
 「佳東」は、「佳棠」のことで、蕪村門の俳人且つ蕪村のパトロンの一人である。「書肆・汲古堂」の大檀那で、蕪村は、佳棠の招待で、京の顔見世狂言などを見物し、役者の克明な芸評などをしている書簡がある。
 蕪村門には、もう一人、八文字屋本の版元として知られている、「八文舎自笑」が居る。
「百墨・素玉・凌雲堂」などと号した。三菓社句会の古参で、蕪村門の長老格である。明和四年(一七六七)に父祖伝来の版権を他に譲渡し、わずかに役者評判記や俳書などを出版していた。蕪村没後の寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住して、文化十二年(一八一五)で没している。

 さて、冒頭に戻って、「池・ち・千」と、書簡の宛名の「百池」を、この三種類の字体で書いたのも、江戸座の「其角→巴人」の流れを汲む、俳諧師・蕪村ならではの、何かしらの謎を秘めている雰囲気で無くもない。どうも、「一文銭・四文銭・十文銭」(一文=二十五円?)などと関係していると勘ぐるのは、野暮の骨頂なのかも知れない。

タグ:絵文字

蕪村の花押(その七の二) [蕪村と呉春]

蕪村の花押(その七の二)

蕪村像.jpg
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg
「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)


タグ:窓辺の蕪村

蕪村の花押(その七の一) [蕪村と呉春]

蕪村の花押(その七の一)

「老なりし」合作画賛.jpg
『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「『老なりし』月渓合作賛=D-2」

 ここに出て来る蕪村の賛は次の通りである(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」に因る)。

  老なりし鵜飼ことしは見えぬかな  紫狐庵(花押)

 すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也。右の句に此(この)画はとり合(あは)ず候。此画にて右の句のあはれ(哀れ)を失ひ、むげ(無下)のことにて候。か様(やう)句には、只(ただ)篝(かがり)などをたき(焼き)すてたる光景、しかる(然る)べく候。

  これは門人月渓に申(まうし)たることを、直ニ其(その)席にて書(かき)つけま  
  い(ゐ)らせ候。かゝる心得は万事にわたることにて候。
 乙ふさ(総)子                    蕪村

(『蕪村全集五 書簡(講談社刊)』所収「七九 安永三年 日付なし 乙総宛」)

 上記の「月渓画・蕪村賛(乙総宛て書簡)」は、冒頭の『蕪村全集六 絵画・遺墨』(『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「参考図二『老なりし』月渓合作賛=D-1」)の通りに収録されていて、そこでは「『老なりし』月渓合作賛=D-2」(一幅、一〇六・三×二八・二cm、 款、「紫狐庵」(花押)、印、なし 賛=上記と同じ)の、月渓と蕪村の合作画賛となっている。

 しかし、これは、単純な「月渓・蕪村合作画賛」なのではない。これは、蕪村の、夜半亭社中(ここでは、月渓と乙総の二人)への、賛にある「絵をかく事、画者のこゝろえ(心得)有(ある)べき事也」の、その「画者の心得」を具体的に示したものなのである。

 すなわち、この蕪村・月渓合作の、この画賛は、まず、蕪村が紫狐庵の署名で、「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」という句を書き、それに、蕪村常用の花押を書いて、この句に相応しい「絵をかく」ように、門人の月渓に命じたのである。
 何故、紫狐庵の署名にしたかというと、この句は、安永三年(一七七四)四月十七日の紫狐庵での句会のもので、その紫狐庵の庵号で署名したのであろう。
 その蕪村の指示を受け、月渓は大きな魚籠と数匹の鮎を描いて、師の蕪村に差し出したところ、「此の句に此の画はとり合はず(釣り合わない)、此の画にては此の句の哀れ(情趣)を失ふ、無下(甚だ拙い)也」と酷評され、「か様(やう=よう)の句には、只(あっさりと)鵜飼をする篝火などの光景が、然るべし(相応しい)」と諭され、画者の心得としてメモを取っておくように指導されたのである。
 後日、蕪村は、この蕪村・月渓合作の画賛の左上に、月渓に指導したことを書面に認め、その書簡付きの合作画賛を、但馬(兵庫県)出石の門人、乙総宛てに、送ったというのが、この合作画賛の背景ということになる。
 この乙総は、蕪村門の但馬の代表的な俳人、霞夫(芦田氏)の弟で、霞夫は、醸造業を営み、別号に馬圃・如々庵などと称した。この霞夫と乙総は、蕪村書簡にしばしば出て来る、蕪村と親しい俳人で且つ蕪村の支援者でもあった。

 この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」の賛中の「画者のこゝろえ(心得)」というのは、主として「俳画の心得」であって、この「俳画」は、蕪村の言葉ですると、「はいかい(俳諧)物の草画」ということになる。

 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。

 さて、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」で、蕪村が月渓や乙総に伝えようとしたのは、俳諧(連句)用語ですると、「余情付(よじょうづけ)」(前句《賛》の余韻・余情が付句《絵》)のそれと匂い合って、情感の交流が感じられるような付け方《賛に対する絵の描き方》)のような「賛と絵との有り様」を目指すべきであるということなのであろう。
 蕪村が俳諧の道に入ったのは、元文二年(一七賛七)、二十二歳の頃で、爾来、俳諧師としての修業は、画業に専念してからも、これを怠りにはせず、明和七年(一七七〇)、五十五歳の時に、夜半亭二世(夜半亭俳諧=江戸座の其角門の早野巴人を祖とする俳諧)を継承して、芭蕉の次の時代の中興俳諧の一方の雄なのである。
 まさに、「はいかい(俳諧)物之草画(大まかな筆づかいで簡略に描いた墨絵や淡彩画)」においては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)という蕪村の自負は、決して独り善がりのものではなく、いや、俳画というのは蕪村から始まると極言しても差し支えなかろう。
 この俳画第一人者の蕪村が、これはという門人の月渓や乙総に、その「俳画の心得」を伝授しようとしているのが、この「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」なのである。
 中でも、蕪村の月渓への期待というのは、「此(この)月渓と申(まうす)者は至て篤実之君子にて、(略) 画は当時無双の妙手」(天明三年九月十四日付け士川宛て書簡)と、まさに、月渓は、蕪村の秘蔵子と言っても差し支えなかろう。
 蕪村だけではなく、蕪村没後に同胞として迎え入れた応挙も、「近畿の画家為すあるに足るものなし、只恐るべきは月渓といふ若者なり」と、月渓を高く評価しているのである(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』)。

 ここで、冒頭の「書簡付き蕪村・月渓合作画賛=D」に戻り、この月渓の「画(絵)」は、紫狐庵(蕪村)の賛の「老なりし鵜飼ことしは見えぬかな」の「句(発句)」に対して、大きな魚籠と数匹の鮎を描いて(俳諧の付け合いでは「物付(ものづけ)=言葉尻を捉える付け方」)、この「老なりし・鵜飼」の「老なりし」の、この句の主題に対する、何らの「余情」も感じられないというのが、蕪村の酷評した、その主たるものなのであろう。

 こういう蕪村の特訓を受けて、月渓の俳画というのは、見事に開花して行く。
次に掲げる蕪村の書簡(芭蕉の時雨の句に関する書簡)に付した呉春(月渓)の「窓辺の蕪村(像)」ほど、「憂愁なる詩人・嚢道人蕪村」その人の風姿を伝えるものを知らない。

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 「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨の句などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

蕪村の花押(六の三) [蕪村と呉春]

蕪村の花押(六の三)

筏師画賛.jpg
月渓(呉春)筆「筏師画賛=C」逸翁美術館蔵  34×31.5cm

 この画中の筏師の右側に書いてある賛は次のとおりである。

[ 筏しのみのやあらしの花衣 / これは先師夜半翁三軒 / 茶やにての句也又 /渡月橋にて / 月光西に / わたれば花影 / 東に歩むかな / 日くれて家に / 帰るとて / 石高な都は / 花のもどり足   ]
 筏師の左側の賛は次のとおりである。
[ 花をふみし / 草履も見へて / 朝ねかな / 身をはふらかし / よろづにおこたり / がち成ひとを / あはれみたると / はし書あり / 月渓写 ]
(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」)

 呉春(松村月渓)は宝暦二年(一七五二)、京都の堺町四条下ル町で生まれた。本姓松村、名は豊昌、通称嘉左衛門、別号に可転など、軒号に蕉雨亭・百昌堂など、のち蕪村から「三菓軒」の号を譲られている。
 蕪村に入門をしたのは、明和八年(一七七一)十九歳の頃で、この年に、蕪村門の最右翼の高弟黒柳召波が亡くなっている。
 池大雅が亡くなった安永五年(一七七六)の二十五歳の頃は、蕪村社中の『初懐紙』『写経社集』などに続々入集し、画道共に俳諧活動も活発であった。
 上記の「筏師画賛=C」の制作年次は明らかではないが、その画賛中の「筏しのみのやあらしの花衣」の蕪村の句から類推すると、安永九年(一七八〇)二十九歳の頃から剃髪して呉春と改号した天明二年(一七八二)三十一歳前後の間のものであろう。
 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。

 上記の「筏師画賛=C」賛中の、蕪村の句関連は、次のような構成を取っている。

 筏士のみのやあらしの花衣
  これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也 (後書き)
   (又)
  渡月橋にて (前書き)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな
  日くれて家に帰るとて (前書き)
 石高な都は花のもどり足

 花をふみし草履も見へて朝ねかな
  花鳥のために身をは(ほ)ふらかし
  よろづにおこたりがち成(なる)ひとを
  あはれみたりとはし書(がき)あり  (後書き) 月渓写

 ここに出て来る四句は、月渓(呉春)に取っては、忘れ得ざる先師夜半翁(蕪村)の句ということになる。
 
 筏士のみのやあらしの花衣(天明三年=一七八三作とされているが、安永九年=一七八〇作)
 月光西にわたれば花影東に歩むかな(安永六年=一七七七作)
 石高(いしだか)な都は花のもどり足(安永九年=一七八〇作、石高=石高道のこと)
 花をふみし草履も見へて朝ねかな(安永五年=一七七六作)

 これらの四句に見える安永五年(一七七六)~安永九年(一七八〇)は、蕪村が最も輝いた時代で、同時に、蕪村と月渓(呉春)との師弟関係が最も張り詰めた年代であった。
 ここで繰り返すことになるが、この安永五年(一七七六)、蕪村六十一歳、そして、呉春二十五歳の時に、大雅(享年=五十二)が没した年で、この年に、蕪村の夜半亭門の総力を挙げての、金福寺境内の「芭蕉庵」が再建された年なのである。
 そして、この安永九年(一七八〇)、その翌年の四月、天明元年(一七八一)となり、この端境期の三月晦日に、月渓(呉春)は、最愛の妻・雛路を瀬戸内の海難事故失い、それに加えて、その年の八月に、これまた、最大の理解者であり支援者であった父が江戸で客死するという、二重の悲劇に見舞われる。
その時に、蕪村は月渓(呉春)に、蕪村門長老の川田田福(京都五条の呉服商、百池家と縁戚)の別舗のある摂津池田に転地療養させる。この池田の地は別名「呉服(くれは)の里」と言い、その「呉」と亡き愛妻の「春」そして師蕪村の雅号「春星」の「春」を取って、月渓は三十一歳の若さで剃髪して「呉春」と改号する。
 しかし、呉春と改号後も、蕪村の夜半亭を継承した几董在世中は、月渓の号も併称していた。几董の夜半亭継承は、天明六年(一七八六)で、上記の「筏師画賛=C」賛中の「これは先師夜半翁三軒茶やにての句也」からすると、几董が夜半亭三世を継承した以後に制作されたものなのかも知れない。
 そして、この「三軒茶や」は、嵐山三軒茶屋ということについては先に触れた。ここで、画人・松村月渓(呉春)の生涯を大きく分けると、安永・天明年間(一七七二~一七八八)の「月渓時代」と寛政・文化八年年間(一七八九~一八一一)の「呉春時代」と二大別することも一つの見方であろう。
 そして、この「月渓時代」は、蕪村との師弟関係にあった時代で、「呉春時代」は応挙門と深い関係にあった時代ということになろう。この「月渓時代」を「学習模索期・完成期前半」の時代とすると「呉春時代」は「完成期後半・大成期」という時代区分になるであろう。
 また、この「月渓時代」は、蕪村風の「漢画」と「俳画」が中心で、「呉春時代」は応挙風を加味しての「四条派画」(「円山派の平明で写実的な作風に俳諧的な洒脱みを加えた画風」)と明確に区別されることになる。
 上記の「筏師画賛=C」は、蕪村風の「俳画」そのもので、その賛の書蹟も全く蕪村の書蹟と瓜二つで、殆ど両者を区別することが出来ないと言って良かろう。その俳画の描写筆法も、これまた蕪村風そのもので、こういう師風そのものに成りきるという才能は、月渓(呉春)の天性的なものなのであろう。
 ここで、この月渓(呉春)の「筏師画賛=C」の元になっている、蕪村の「筏士自画賛=A(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)」を、『蕪村 その二つの旅』」図録
所収「81『いかだしの』の自画賛=A-2」のものを再掲して置きたい。

いかだし自画賛.jpg
蕪村筆「『いかだしの』自画賛=A-2」個人蔵 絹本墨画 掛幅装一軸四五・七×六一・二
(『蕪村 その二つの旅』図録=監修、佐々木丞平・佐々木正子、編集発行、朝日新聞社)

 なお、「都名所図会」(長谷川貞信・浮世絵)中の「嵐山三軒茶屋より眺望」を下記に掲載して置きたい。

三軒茶屋.jpg








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蕪村の花押(六の二) [0 蕪村]

蕪村の花押(六の二)

蕪村・筏師・出光美術館.jpg
 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

[【筏師画賛】一幅 与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 江戸時代 二七・二×六六・八㎝
嵐山の桜を愛でている最中に、急に風雨が激しくなって、筏師の蓑が風に吹かれた一瞬を花に見立てた俳画。蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている。蓑笠だけで表された筏師のポーズは遊び心にあふれ、ほのぼのとしていながら印象的である。遊歴の俳人画家、蕪村は五十歳になってから京都に安住の地に選び、身も心も京都の人になりきって庶民の風習を楽しんだ。自己を語ることをせずに、筏師一人だけを慎み深く捉えているところに、かえって都会的な香りや郷愁を感じさせる。(出光)
(釈文)
嵐山の花にまかりけるに俄に風雨しけれは
いかたしの みのや あらしの 花衣  蕪村 (花押) ]
「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》』のこころ」(作品解説38)

 上記の「作品解説」の中で、「蓑の部分は、紙を揉んで皺をつけ、その上から渇筆を擦りつけることで、蓑のごわごわとした質感をあらわしている」の、いわゆる、水墨画の「乾筆(かっぴつ)=墨の使用を抑え,半乾きの筆を紙に擦りつけるように描く」の技法を、この「ミの(蓑)」に駆使しているのが、この俳画のポイントのようである。
 その「蓑」に比して、「笠」の方は、「潤筆(じゅんぴつ)=十分に墨を含ませて描く」の技法の一筆描きで、この「蓑と笠」だけで「筏師のポーズ」を表現するというのは、「遊歴の俳人画家」たる蕪村の「遊び心」で、「ほのぼのとしていながら印象的である」と鑑賞している(上記の解説)。
 ここで、この「筏師画賛=B」は、何時頃制作されたのかということについては、この賛に書かれている発句「いかたしの/ミのや/あらしの/花衣」の成立時期との関連で、凡その見当はついてくるであろう。

 『蕪村句集(几董編)』の収載の順序に、成立年時を付した『蕪村俳句集(尾形仂校注・岩波文庫)』では、次のようになっている。

     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し ※安永九年(※は推定)
一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時   安永六年
     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          天明三年

 この「一八六 筏士の蓑やあらしの花衣」は、「筏士自画賛」の百池「箱書き」の内容に照らして、天明三年(一七八三)の作ではなく、「一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」と同時の、安永九年(一七八〇)作なのではなかろうかということについては、先に触れた。ここで、この両句を、その前書きから、「一八六 → 一八四」の順にすると次のとおりとなる。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣 
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し

 この順序ですると、「雨日嵐山にあそぶ」、そして、「筏士」の句などを作り、「日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る」、その帰途中で、知人と出会い、「嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し」の句を作ったということになる。
 さらに、『蕪村句集』を見て行くと、「嵯峨の雅因亭」での、次の句が収載されている。

     嵯峨の雅因が閑を訪(とひ)て
三一一 うは風に音なき麦を枕もと       ※(安永三年四月)

 この「嵯峨の雅因」は、京都島原の妓楼吉文字屋の主人で、嵐山の宛在楼に閑居し、蕪村らと親しく交遊関係を結んでいる、山口蘿人門の俳人である。しかし、この雅因は、安永六年(一七七七)十一月二十六日に没しているので、ここで、上記の「一八五 花の香や嵯峨のともし火消(きゆ)る時」(安永六年作)が、雅因への追悼句の雰囲気を伝えて来る。 いずれにしろ、上記の『蕪村句集』に収載されている、「一八四・一八五・一八六」は、相互に響き合った、何かしらの因果関係にある句と解したい。

 さらに、ここに付け加えることとして、大雅が、安永五年(一七七六)四月十三日に没していることである。
 蕪村と大雅とは、京都の近い所に住んでいながら、ほとんど没交渉のような、この二人の生前の交渉の足跡はどうにも未知数の謎のままである。
大雅が没したときの、蕪村の書簡は、「大雅堂も一作(昨)十三日古人(故人)と相成候。平安(京都)の一奇物、をしき事に候」(安永五年四月十五日付け霞夫宛て書簡)と、関心は持っていて、その才能は高く評価していたのであろうが、生粋の京都(平安)人である大雅を、潜在的に余所者意識(大阪近郊の田舎生まれ且つ江戸育ちの放浪者意識)の強い蕪村が敬遠していたという印象を拭えない。

これは、蕪村と若冲との関係にも言えることであって、丹波(京都郊外)の田舎出身の応挙とは気が合うのも、そういった蕪村の潜在的な意識と大きく関係しているのかも知れない。
ともあれ、「諸家寄合膳」の大雅筆の「梅図=二」は、安永五年(一七七六)以前のものであろうということと、蕪村筆の「翁自画賛=三」は、安永九年(一七八〇)以降のものということで、この両者は、大雅と蕪村との唯一の交叉を象徴する「十便十宣図」(二十枚)のような関係にはないということは間違いなかろう。 また、寛政十二年(一八〇〇)の若冲筆・四方真顔賛の「雀鳴子図=八」とは、全く制作年次を異にするということも、これまた指摘して置く必要があろう。

 唯一、蕪村との関連ですると、当時(安永=一七七二~天明=一七八一に掛けて)、蕪村と応挙との親密な交遊は散見され、例えば、蕪村と応挙との合筆の「『ちいもはゝも』画賛」(「広島・海の見える杜美術館」蔵)などからして、「諸家寄合膳」の蕪村筆の「翁自画賛=三」と応挙筆の「折枝図=一」とは、同時の頃の作と解しても、それほど違和感が無いのである。

 それよりも、蕪村・応挙合筆の「『ちいもはゝも』画賛」に、「猫は応挙子か(が)戯墨也/しやくし(杓子)ハ蕪村か(が)戯画也」と、画面の右に墨書し、中央の下に、「蕪村賛」と署名し、その下に、花押が書かれている。
 この花押が、何と「諸家寄合膳」の蕪村筆「「翁自画賛=三」の花押と同じものと思われるのである(下記の蕪村筆「「翁自画賛=三」)。
 ここで、蕪村の花押について、一つの仮説のようなもの提示して置きたい(詳細は、折りに触れて関連する所で後述することとしたい)。

一 蕪村の花押は、常用の花押(上記の「筏師画賛=B」などに見られる花押)と諸家(例えば、応挙など)との合筆画(それに類するもの)などに見られる花押(下記の「翁自画賛=三」)との二種類のものがある。
二 その常用の花押も、また、合筆画用の花押も、その由来となっているものは、蕪村が関東歴行時代に見切りをつけ、宝暦初年(一七五一)に上洛して間もない頃に草した「木の葉経句文」に因っているものと解したい。
三 すなわち、その「木の葉経句文」中の、末尾の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に草した署名、「洛東間人(かんじん)嚢道人釈蕪村」の、この「嚢道人(釈)蕪村」の、その姓号と思われる「嚢道人」を象徴する「嚢」(雲水僧が携帯している経巻用の「嚢=袋」)の図案化と解したい。

諸家寄合膳(四枚).jpg
「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」(四枚)
上段(左)=蕪村筆「翁自画賛=三」 上段(右)若冲筆・四方真顔賛「雀鳴子図=八」
下段(左)=大雅筆「梅図=二」 下段(右)=応挙筆「折枝図=一」


補記一

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集)

 この二句について、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「二四〇 無宛名(二月二十一日付)」の中に、「愚老(蕪村)生涯嵐山の句也とつぶやくことに候」と認められており、蕪村の自信作でもあり、また、蕪村の夜半亭社中でも、話題になっていた句のようである。なお、嵐山を流れる大堰川(桂川・保津川)は、当時の蕪村は、「大井(ゐ)川」と表記しているようである。

補記二 

 同じく、『蕪村書簡集(岩波文庫)』所収の「一一五 几董宛(安永九年三月七日付)」の中に、「筏士が蓑もあらしの花衣」の句形で、この句が出て来て、「帰路は杉月楼(さんげつろう)」に寄ったとの文言が見られる。先に紹介した、「三本樹(木)」の、「井筒楼」・「富永楼(雪楼)」の他に、この「杉月楼」も、蕪村行きつけの茶屋なのであろう。

補記三

 先に、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」(『蕪村全集一 発句』所収「2377=P515)に関連して、「『三本樹(木)』」の『井筒楼』」や『富永楼』ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい」と記したが、この『月渓筆画賛=C』を、『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収「100月渓筆筏師画賛」で確認することが出来た。それに因ると、「これは先師夜半翁、三軒茶やにての句也」と、祇園 の二軒茶屋ではなく、嵐山の三軒茶屋での作句というのが正解のようである。
 そして、その図柄は、先の蕪村筆の「筏士自画賛=A」に近いもので、冒頭の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)のものではないことも確認出来た(これらのことは、また別稿といたしたい)。

補記四

 さらに、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「95『筏士の』の付言(天明三年)」(真蹟=月渓筆の蕪村画像に貼付。『蕪村名画譜』<昭和八年一月刊>所収)で、この句に関連しての、「『袋草紙』に伝える公任の歌よりも勝っていると、(蕪村が)俳諧自在を自負したもの」というものも確認出来た(これも、また、別稿で出来れば取り上げたい)。

補記五

「筏士自画賛=A」については、『蕪村全集六 絵画・遺墨』所収「110『いかだしの』自画賛」で確認できた。しかし、肝心の、この画賛に付随する、百池の「箱書き」などには、当然のことながら(編集方針・スペースなど)、一言も触れられてはいない。

補記六

 しかし、『蕪村全集四 俳詩・俳文』所収「『風蘿念仏』序(天明元年十月)」で、その「筏士自画賛=A」に関連する、「『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、『金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座』」の、この「風蘿念仏」に関する、蕪村の「序」が全文収載されている(中興俳諧の二巨頭の京都の蕪村と名古屋の暁台との交遊などを背景にしたもの)。
 これらのことを背景とすると、次の二句とそれに関する「画賛」などは、兄弟句(姉妹編)と解して差し支えなかろう。

     雨日嵐山にあそぶ
一八六 筏士の蓑やあらしの花衣          (『蕪村句集』)
     日暮るゝほど嵐山を出(いづ)る
一八四 嵯峨へ帰る人はいづこの花に暮(くれ)し  (『蕪村句集』)


蕪村の花押(六の一) [0 蕪村]

蕪村の花押(六の一)

蕪村花衣.jpg
蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり・蕪村の署名はなく花押のみ)=A

 寺村百池の「箱書き」(括弧書き=読みと注)は次のとおりである。

[ これは是、老師夜半翁(蕪村)世に在(ま)す頃、四明山下金福寺に諸子会しける日、帰路三本樹(京都上京区の地名=三本木、その南北に走る東三本木通りは、江戸時代花街として栄えた)なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く。時に越(こし=北陸道の古名)の桃睡(とうすい)、酔に乗じて衣を脱ぎ師に筆を乞ふ。とみに肯(うべな)ひ、麁墨(そぼく)禿筆(とくひつ)を採(とり)てかいつけ給ふものなり。余(百池)も其(その)傍に有りて燭をとり立廻(たちめぐ)りたりしが、日月梭(ひ)の如く三十年を経て、さらに軸をつけ壁上の観となし、其(その)よしをしるせよと責(せめ)けるこそ、そゞろ懐古の情に堪へず、たゞ老師の磊落(らいらく)なる事を述(のべ)て今のぬしにあたへ侍りぬ。 ]
(『蕪村全集一 発句)』所収「2377 左注・頭注・脚注」)

 さらに、『大来堂発句集』(百池の発句集)』の天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」として、「雨日嵐山
に春を惜しむ」との前書きのある「み尽して雨もつ春の山のかひ」という句が所出されている。
 すなわち、蕪村が亡くなる天明三年(一七八三)の三月二十三日、上記の百池の「箱書き」に記載されている句会が、金福寺芭蕉庵で開かれて、その帰途に、三本樹の井筒楼で宴会があり、その宴席での、即興的な「席画」(宴席や会合の席上で、求めに応じて即興的に絵を描かくこと。また、その絵)が、上記の「筏士自画賛=A」なのである。
 これは、百池の「箱書き」によって、桃睡の「衣」に描いた、すなわち、「絹本墨画」の「筏士自画賛」ということになる。ところが、「紙本墨画淡彩」の「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)も現存するのである。これは、後述することとして、その前に、上記の「筏士自画賛=A」の賛の発句や落款について触れて置きたい。
 この画中の右の冒頭に、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」として、「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」の句が中央に書かれている。それに続いて、画面の左に、「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」と落款し、その最後に、蕪村常用の「花押」が捺されている。
 このことから、蕪村は、亡くなる最晩年にも、この独特の花押を常用していたことが明瞭となって来る。
 ここで、蕪村が最晩年の立場に立って、生涯の発句の中から後世に残すに足るものとして自撰した『自筆句帳』の内容を伝える『蕪村句集(几董編)』の「巻之上・春之部」では、「雨日嵐山にあそぶ」として「筏士(いかだし)の蓑(みの)やあらしの花衣(はなごろも)」の句形で採られている。
 この句形からすると、出光美術館所蔵の「筏師画賛=B」(「大雅・蕪村・玉堂と仙崖―『笑《わらい》のこころ』」図録中「作品38」)も「筏士画賛」のネーミングも当然に想定されたものであろう。おそらく、「筏士自画賛=A」と区別したいという意図があるのかも知れない。
 これらの、「筏士自画賛=A」と「筏師画賛=B」との比較鑑賞(考察)は、後述・別稿ですることにして、この他に、「月渓筆画賛=C」(「資料と考証六」=未見)もあるようで、そこに、
「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」と付記してあるという(『蕪村全集一 発句』)。
 これは、恐らく「筏師画賛=B」に近いもので、この「筏師画賛=B」に近いものが、他に何点か、その真偽はともかくとして出回っているようである。
 ここでは、冒頭の「筏士自画賛=A」の百池「箱書き」中の、「三本樹の井筒楼」と「月渓筆画賛=C」中の「二軒茶や」と、蕪村の傑作画として名高い「夜色楼台雪万家図」と関連しての、「晩年の蕪村が足繁く通った『雪楼』」」(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)などについて触れて置きたい。
 この「雪楼」は、百池宛て蕪村書簡(天明二年・一七八二、七月十一日付け)で、「祇園 富永楼のこと。蕪村行き付けの茶屋」(『蕪村書簡集《大谷篤蔵・藤田真一校注》』)なのである。すなわち、晩年の蕪村が足繁く通った、蕪村自身の「拙(雪)老」の捩りの「雪楼」のようである。

蕪村 夜色楼台図.jpg

 (図1 蕪村筆 「 夜色楼台図」)

 この蕪村の「夜色楼台図」の左の画面外に、百池「箱書き」の「四明山(比叡山・四明岳)下金福寺」がある。そこで、天明三年(一七八三)三月二十三日に、「金福寺芭蕉庵、追善之俳諧興行(風蘿念仏)に、蕪村、桃睡、百池一座」と、句会を開いている。その「帰路三本樹なる井筒楼に膝ゆるめて、各三盃を傾く」と、宴会があった。
 当時の「三本樹」の花街の様子が、次の『拾遺都名所図会』で紹介されている。ここに、「井筒楼」や「富永楼(雪楼)」の茶屋があった。

三本樹.png
 (図2 「 三本樹(木)」『拾遺都名所図会』 ) 

 この『拾遺都名所図会』に描かれている川は「かも川(鴨川)」である。この「かも川」付近の「井筒楼」で、冒頭の「筏士自画賛=A」が「席画」され、その主題は、「嵐山の花見に/まかりけるに/俄(にわか)に風雨しければ」と「嵐山」であり、その「嵐山」の「桂川(保津川)」の「いかだしの/みのや/あらしの/花衣」と、「筏士」ということになる。
 すなわち、この「筏士自画賛=A」は、「嵐山」の「桂川(保津川)」の「筏士」を、「鴨川」の近くの「三本樹(木)の井筒屋」で、かつて画賛にしたもの(「筏師画賛=B」)を思い出しながら、「酔蕪村」(酔っている蕪村)が、即興的に、「桃睡、百池一座」の見ている前で描いたということになろう。

 その前に描いた画賛(「筏師画賛=B」)は、次のものであろう。

蕪村・筏師・出光美術館.jpg
 蕪村筆「筏師画賛=B」(出光美術館蔵)

 この「筏師画賛=B」に簡単に触れて置くと、「筏士自画賛=A」の左に記載されている
「酔蕪村/三本樹/井筒屋に/おいて写」のような記述はない。そして、その下にあった「花押」(「蕪村」の署名はない)は、「筏師画賛=B」では、右端に「蕪村・花押」とあり、
それに続く、前書きの文言も発句の句形も、微妙に異なっている。
 そして、「筏士自画賛=A」は、棹の位置からして、右の方向に進むのだが、この「筏師画賛=B」では、左の方向に進む図柄なのである。それ以上に、種々、大きな相違点などについては、別稿で詳しく見て行くことにしたい。
 ここで、付記して置きたいことは、この「筏師画賛=B」は、「諸家寄合膳」の「蕪村筆・翁自画賛」に書かれている「嵯峨へ帰る人はいずこの花にくれし」(安永九年・一七八〇作)と同時の頃の作と思われるのである。
 さらに、この「筏師画賛=B」も「席画」で、それは、恐らく、「月渓筆画賛=C」(未見)の付記の「これは先師夜半翁、二軒茶やにての句也」の、「三本樹(木)」の「井筒楼」や「富永楼」ではなく、京都祇園社境内の二軒茶屋などのものと解したい。

補記 

『蕪村全集一 発句』の「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」の、「脚注」に「自画賛<潁原ノート>」とあり、その「左注」に「自画賛に2377(筏士のみのやあらしの花筏)と併記」とある。この「脚注」と「左注」とからすると、「嵯峨へ帰る人はいづこの花にくれし」と「筏士のみのやあらしの花筏」を併記している、蕪村筆「自画賛」(未見)もあるのかも知れない。

蕪村の花押(その五) [0 蕪村]

蕪村の花押(その五)

膳.jpg
「諸家寄合膳」(二十枚)のうちの「蕪村筆・翁自画賛」=A

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(3)」では、「画面左に杖を持った二人の人物を簡単な筆づかいで描く。右上に三行で『嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし』という発句を書く。『蕪村』という署名花押を書く」とある。

 この花押は、蕪村が、宝暦六年(一七五六)の丹後時代から常用している花押と明らかに相違している。
 蕪村の常用の花押については、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「嘯山宛の手紙に、蕪村常用の、独特の形をした花押が書かれている(挿図の『花鳥篇』序参照)。かつてこの花押は、矢を半分にしたもので矢半(夜半)の洒落だといわれていたが、岡田利兵衛氏のように、夜半亭を継承する以前にこの花押が用いられているから、従来の説は誤りである(『俳画の美』)。岡田氏は『村』から作った花押だというが、私には槌の形に見える。花押の作り方としては異例だが、これは槌を図案化したものではなかろうか」と記されている。
 同書では、『花鳥篇』序(天理大学付属天理図書館蔵)のものの花押を例示し、別の「蕪村の大黒天図」に関連して、俵の上に乗り木槌を持った「大黒天図(中村家像)」を挿図として掲載している。

 この蕪村常用の花押について、これまでに掲載したものを、ここに併載して置きたい。

書簡A.png
蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))=B

絵図A.png
蕪村挿絵図(『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)=C

蕪村静御前.jpg
蕪村筆 静御前図自画賛(「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」作品21) =D

 上記(B・C・D)の花押は、拡大すると、凡そ次のようなものである。

蕪村花押 .jpg
「蕪村の署名・花押」=E

冒頭の「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、この「蕪村の署名・花押」=Eとを比較すると、署名はともかくとして、花押は似ても非なるものの印象が拭えないのである。
ここで、いわゆる「真贋」とかを話題にするというよりは、この二様の違う、蕪村の花押を、鑑識や鑑定の世界での、「これならとおる」(「見解は分かれるが、多くの人を納得させられる」)のようなものが見いだせないかという、そんな難問題への、無謀な謎解きをしたいというのが、その真相なのである。
 しかし、この謎解きに入る前に、「蕪村筆・翁自画賛」=Aに、「三行で書かれている発句」の「嵯峨へ帰る 人はいつこの 花にくれし」(安永九年・一七八〇作)に併記して、「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」があり、そこに、「酔蕪村 三本樹井筒屋楼上において写」と落款して、そこに花押(Eと同種の花押)が押されている。
 すなわち、「蕪村筆・翁自画賛」=Aと、極めて関連の深い「自画賛」が別に現存し、そこに花押(Eと同種)があり、さらに、この謎解きは複雑な形相を呈して来るのである。
そして、あろうことか、こちらの「筏士(いかだし)のみのやあらしの花衣」の「自画賛」には、寺村百池の詳細な箱書きがあり、それに加えて、月渓(呉春)筆の「自画賛」もあるようで、どうにも整理の仕様がないような複雑な問題が内在しているのである。
 今回は、百池の箱書きのある「自画賛」を、『蕪村全集一 発句』の、その頭注より拡大して掲載をして置きたい。

蕪村花衣.jpg
 蕪村筆「筏士自画賛」(百池の箱書きあり、花押=Eと同種)

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三) [諸家寄合膳・椀]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その三)

諸家寄合椀.jpg
「諸家寄合椀」(十一合)のうちの「若冲筆・梅図」

『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(4)」では、「朱塗りの椀の外側に墨で絵付けをした作品。十一合」とあり、その「三、伊藤若冲筆『梅図』」で、「署名は身部分に『米斗翁八十五戯画』とあり、左下に花押と思われる墨書がある。署名より、寛政十ニ年(一八〇〇)亡くなる年の絵付けである」としている。
 この「米斗翁八十五戯画」の署名は、「諸家寄合膳」の「伊藤若冲筆、四方真顔賛『雀鳴子図』にもあり、この両者は同時の作のようである。 
 そして、「若冲と蕪村関連年表」(上記書所収)の若冲の項に、「寛政十ニ年(一八〇〇)
八五 『諸家寄合膳』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)※、『霊亀図』
(作品223) 四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」とあり、若冲が亡くなった年の作とされている。
 この年表の注意事項に、「年齢は数え年で、制作年に関しては若冲、蕪村ともに落款にある年齢や年代の表記にしたがった。※は、款記と賛の年が異なることを示す」とあり、その※のある「松尾芭蕉図」(伊藤若冲筆 三宅嘯山賛)の「作品解説102」は、次のとおりである。
 
[ 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられる。
なお、嘯山の賛は八十ニ歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五戯画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文方印)     芭蕉
  春もやゝけしき調ふ月と峰
  初時雨猿も小蓑をほしけなり
            八十二叟
             嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印)「之元」(白文円印)       ]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(102)・石田佳也稿」)

ここに出て来る「改元一歳加算説」というのは、「若冲還暦以後改元年齢加算説」(『若冲《伊藤若冲画、狩野博幸 監修・執筆、紫紅社》』)のことで、狩野博幸氏の主唱しているものである。
 確かに、若冲が亡くなる寛政十二年(一八〇〇)の、「四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席 九月十日没」の短い期間に、「諸家寄合膳」のうちの「梅図」(作品4)、「松尾芭蕉図」(作品102)、「霊亀図」(作品223)などを手掛けるということは至難のことだという思いがして来る。また、画と賛との関係からしても、「若冲還暦以後改元年齢加算説」が、自然のように思われる。
 しかし、その説が極めて自然で、正鵠を得たものとしても、現に存在する落款の署名に明記しているものを基礎に据えることは、これまた基本的なことなのであろう。

 それにしても、蕪村が初めて『平安人物史』に登場する明和五年(一七六八)版の「画家」の部で登載されている順序は、「円山応挙・伊藤若冲・池大雅・与謝蕪村」の順であり、その若冲が、先の「諸家寄合膳」では八番目、この「諸家寄合椀」では三番目で、何故、若冲のみ「応挙・大雅・蕪村」に並列しないで別扱いにしているのだろうか。また、何故、若冲のみ、「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の両方にあるのだろうか、次から次と疑問が湧いて来る。
 とすると、全くの類推以外の何物でもないのだが、これらは、例えば、明和八年(一七七一)の大雅と蕪村との合作の「十便十宣帖」のように、明確なテーマのもとに作者・賛者を人選しての綿密な企画を立ててスタートしたものではなく、結果的に、今日のような、「諸家寄合膳」(二十枚)、そして、「諸家寄合椀」(十一合)のみのものが、現にセットになって伝えられているもののような思いを抱くのである。
 すなわち、例えば、若冲が、京都の「青物問屋」の「枡屋」(家名と併せて通称『枡源』)」の大旦那であった画人とすると、それらに類する、京都の「漆問屋」(「画具・紅染・漆商」等の問屋)などが介在しての、極端に言うと、今でいう特定の文人・趣味人向けの、言わば「陳列品・グッズ商品」の逸品のようなもので、それらが、たまたま「旧蔵者」として箱書きにある日本画家の江戸時代末期から明治期に掛けての「雨森白水」の手に渡ったようなものなのかも知れない。
 そして、この種のものは、完全にオリジナル(他の手を煩わせていない作者・賛者の真筆)なものなのかどうかという一抹の疑問すら拭えないのである。
 すなわち、またまた、類推以外の何物でもないのだが、例えば、晩年の若冲の、石峰寺の五百羅漢のように、若冲が「下絵」を描き、石工が仕上げるというように、この種の「朱塗膳・朱塗椀」の作製の絵付けなどにおいては、塗師(塗り師)の何らかの支援が必須なのではないのかという、そんな素朴な思いを抱くのである。
 なお、この「諸家寄合椀」の絵師(十二人)については、別記二のとおりである。これらの絵師は、「諸家寄合膳」に比すると、狩野派(英派・鶴沢派)や土佐派の旧派系の者が多く、新派(南画・写生派・奇想派)の絵師も、比較的狩野派に近い者が多い感じである。

(補記一)

「関西大学創立120周年記念講演会 大坂画壇の絵画」(中谷伸生氏の講演記録―「関西大学学術リポトリジ」)の中で、「一 大坂画壇の評価について 二 木村蒹葭堂の画業と生涯 三 蒹葭堂と大坂画人による合作 四 蒹葭堂と交際した大坂の画家たち 五 岡田半江とその周辺の文人画 六 大坂の画家たちとその評価」について簡潔に触れられていた。その「三 蒹葭堂と大坂画人による合作」の中で、関西大学図書館所蔵の「大坂文人合作扇面」(紙本墨画淡彩)と共に、個人蔵(海外)の「諸名家合作(松本奉時に依る)」(紙本墨画淡彩・ 111.0×60.0㎝)が紹介されている。ここに登場する何人かの画人は、「諸家寄合膳」「諸家寄合椀」に登場する画人と一致する。ちなみに、「諸名家合作(松本奉時に依る)」の画人は、次のとおりである。

慈雲飲光、日野資技、西依成斉、中井竹山、六如慈周、細合半斉、皆川淇園、墨江武禅、福原五岳、中江杜徴、森周峯、圓山応瑞、奥田元継、森祖仙、木村蒹葭堂、伊藤若冲、伊藤東所、長沢芦雪、月僊、上田耕夫、篠崎三嶋、呉春

(補記二)

上記の『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』所収「作品解説(102)・石田佳也稿」で紹介されている「三宅嘯山」については、この「俳諧と美術」のサイトをスタートさせた、第一回の「蕪村の花押(その一)」の冒頭で取り上げている。そこで取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)の署名の後の花押(「槌」のような、「経巻」のような、「嚢」のような、謎めいた花押)の周辺を探りたいというのが、そもそもの発端であった。その花押と、現に取り上げている「諸家寄合膳」(三 蕪村筆「翁自画賛」)での蕪村花押がどうにも一致しないのである(これは、後日取り上げていくことになる)。ここで、第一回の「蕪村の花押(その一)」で取り上げた蕪村書簡(嘯山宛て)を再掲して置きたい。

書簡A.png
  蕪村書簡(三宅嘯山宛て、宝暦七年(一七五七))

(別記二)「諸家寄合椀」作者一覧

一 呉春(ごしゅん、宝暦二年・一七五二~文化八年・一八一一) 江戸時代中期・後期の絵師。四条派の始祖。本姓は松村(まつむら)、名は豊昌。通称を文蔵、嘉左衛門。号には呉春のほかに月溪(げっけい)、可転、蕉雨亭など。初期の号の松村月渓も広く知られる。京都堺町の生まれ。安永二年(一七七三年)の頃に、与謝蕪村の内弟子として入門、俳諧や南画(文人画)を学ぶ。天明元年(一七八一)の頃、身内の不幸に遭い、蕪村門下の俳人・川田田福を頼り、現在の大阪府池田市に転地療養し、この地の古名である「呉服(くれは)の里」に因み、呉春を名乗るようになる。蕪村没後、蕪村と交流があった応挙が、呉春の画才を高く評価し、「共に学び、共に励む」の客分待遇で、応挙門となり、応挙没後は、京都画壇の中心となり、その画派は呉春の住む場所から四条派と呼ばれた。後に師の応挙と合わせて円山・四条派と呼称され、近現代にまで連なる京都日本画壇の遠祖となった。
二 高嵩谷(こう すうこく、享保十五年・一七三〇~文化元年・一八〇四) 江戸時代中期の絵師。佐脇嵩之の門人。江戸の人。高久氏。名は一雄。明和頃から主に英一蝶風の洒脱な肉筆画や役者絵などを描いている。高嵩月は門人。
三 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう、正徳・一七一六~寛政十二年・一八〇〇)
(別記一)「諸家寄合膳」作者一覧に記載。
四 英一峰(はなぶさ いっぽう、元禄四年・一六九一~宝暦十年・一七六〇) 江戸時代中期の絵師。英一蝶の高弟。
五 黄(横山)崋山(よこやま かざん、天明元年・一七八一~天保八年・一八三七) 江戸時代後期の絵師。名は暉三、または一章。京都出身(越後出身説あり)。福井藩松平家の藩医の家に生まれる。西陣織業を営む横山家の分家横山惟聲の養子となり、本家が支援した曾我蕭白に私淑。長じて岸駒に師事、のちに円山応挙や四条派の呉春の影響を受けた。
六 土佐光貞(とさ みつさだ、元文三年・一七三八~文化三年・一八〇六) 江戸時代中期の絵師。宝暦四年(一七五四)に分家して、土佐宗家の兄とともに絵所預(えどころあずかり)となる。寛政二年(一七九〇)の内裏造営の際,宗家の土佐光時(みつとき)をたすけ,障壁画の制作にあたった。号は廷蘭。
七 村上東洲(むらかみ とうしゅう、?~文化三年・一八二〇) 江戸中期・後期の絵師。京都の生まれ。名は成章、字は秀斐。僧鼇山(一説には大西酔月)に学び、人物・山水を能くした。
八 鶴沢探泉(?~文化十三年・一八〇九) 江戸時代中期・後期の画家。父は鶴沢探索。狩野派鶴沢家四代。法眼。名は守之。
九 森周峯(もり しゅうほう、元文三年・一七三八~文化六年・一八二三) 江戸時代中期・後期の大坂画壇で活躍した森派の絵師の一人。姓は森、名は貴信。俗称は林蔵。周峰(峯)、杜文泰、鐘秀斎と号す。森如閑斎の次男であり、森陽信の弟、森狙仙の兄であった。
十 宋紫山(そう しざん、享保十八年・一七三三~文化二年・一八〇五) 江戸中期・後期の画家。江戸の生まれ。父は宋紫石、子は紫岡。姓は楠本。名は白圭、別号に雪渓(二世)・雪湖(二世)など。画を父に学び、山水花鳥を能くする。
十一 森狙仙(もり そせん、寛延元年・一七四七~文化四年・一八二一) 江戸時代中期・後期の絵師。通称は八兵衛、名を守象、号としては祖仙、如寒斎、霊明庵、屋号の花屋も用いた。狩野派や円山応挙などの影響を受けながら独自の画風を追求し、養子森徹山へと連なる森派の祖となった。主として動物画を描き、とりわけ得意とした猿画の代表作として『秋山遊猿図』がある。



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蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二) [蕪村・若冲・大雅・応挙]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その二)

諸家寄合膳(二十枚).jpg
諸家寄合膳(二十枚) 上から「一段目~五段目」
一段目(右~左)「一円山応挙」・「二池大雅」・「三与謝蕪村」・「四池玉瀾」
二段目(右~左)「五鼎春嶽・皆川淇園賛」・「六曽我蕭白」・「七東東洋・八木巽処賛」
・「八伊藤若冲・四方真顔賛」
三段目(右~左)「九福原五岳・三宅嘯山賛」・「十狩野惟信・鴨祐為賛」・「十一岸駒・森川竹窓賛」・「十二長沢芦雪・柴野栗山賛」
四段目(右~左)「十三月僊・慈周(六如)賛」・「十四吉村蘭洲・浜田杏堂賛」・「十五土方稲嶺・木村蒹葭堂賛」・「十六玉潾・慈延賛」
五段目(右から左)「十七紀楳亭・加茂季鷹賛」・「十八観嵩月」・「十九島田元直・谷口鶏口」
・「二十堀索道・大島完来賛」

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、「諸家寄合膳」の絵の作者、それに賛を草した者(別記一)は、主として、十八世紀の、そして、ほぼ京都で活躍した人達であると解して差し支えなかろう。
 これらの人達を、「十八世紀の京都ルネッサンス」(「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展のスタートの第一章のネーミング)のもとに、「諸家寄合膳」そして「諸家寄合椀」の作者・賛者として、その「膳」(二十枚)・「椀」(十一合)を展示したのは圧巻であった。

 ここで、「十八世紀の京都ルネッサンス」とは、いかなるものなのか。絵付けをした、「応挙・大雅・若冲・蕪村・玉瀾・春嶽・蕭白・東洋・五岳・惟信・岸駒・芦雪・月僊・蘭州・稲嶺・玉潾・楳亭・嵩月・元直・索道」のニ十人、賛を草した「淇園・巽処・真顔・嘯山・祐為・竹窓・栗山・慈周・杏堂・蒹葭堂・慈延・季鷹・鶏口・完来」の十四人の、この錚々たる顔ぶれの画人・文人達が活躍した、十八世紀の京都というのは、どのようなものであったのかと、実に、これは興味をかきたてるものがある。

 もちろん、この三十四人は、十八世よりもより十九世紀に掛けて活躍した人も、また、京都よりも浪華(大阪)や江戸や仙台で活躍した人も居られる。それ以上に、これらの人達は、当時の画人・文人達の、ほんの一部であって、例えば、明和五年(一七六八)版『平安人物史』に登載されている者は、六部門で延べ百五十三名、最も多い文政十三年(一八三〇)版では、部門も三十部門以上に激増し、八百名近くの文化人が登載されている。

 すなわち、十八世紀(そして十九世紀)は、江戸(東京)の徳川幕藩体制のもと、文化の東漸運動が著しく進展した時代であったが、依然として文化の中心地は遠く平安時代からの京都がその一翼を担っているということを意味している。
 そして、象徴的なことは、十七世紀から十八世紀に掛けての「元禄文化」の中心的な京都の画人・尾形光琳が、徳川吉宗が将軍となった享保元年(一七一六)に、その五十九年の生涯を閉じ、その同じ年に、若冲(正徳六年=一七一六)と蕪村(享保元年=一七一六)とが誕生していることである。
 すなわち、光琳の後の、若冲・蕪村の時代は、享保の時代であり、それは幕藩体制の強化の時代でもあった。しかし、それは、その反動として、武士階級や公家階級の文化ではなく、新しく勃興しつつあった商人階級を基盤にしての、「旧きものを破壊し、新しいものを生み出す」転換期の時代でもあった。
 これらのことが、「十八世紀の京都ルネッサンス」の正体であり、その背景でもある。すなわち、上記の「諸家寄合膳」に登場する三十四人は、その強弱はあれ、いずれも、「十八世紀(そして十九世紀)の京都の新しい文化の夜明け(ルネッサンス)」を告げる「明烏(あけがらす)」(蕪村七部集の一つ『明烏』《几董編》の書名)が、その正体なのである。

 さらに、これらに付け加えるならば、上記の三十四人の一人の、六如庵慈周(「別記一」の十三のニ、「六如」・「慈周」)の、その賛を、ここに掲げて置きたい。

[ 盧山東南五老峰、中有真人寄玄踪、玄踪茫々不可覓、青天仰望金芙蓉  六如
(読み下し)
 盧山ノ東南五老峰、中ニ真人有リテ玄踪ニ寄ス、玄踪茫々ニシテ覓(もと)ムベカラズ、青天ヲ仰ギ望ム 金芙蓉
(訳)
盧山の東南に五老峰が見える。山中には真人がいて、奥深く足跡を残す。その奥深い足跡はかすかで、求めても求められない。ただ、青天に、金芙蓉と言われる山容を仰ぎ見るだけである。]
(『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)』
所収「作品解説(3)鈴木洋保(訳読)・「読み下し」は平仮名表記を片仮名表記にしてある」)

 この十八世紀の日本の京都の六如(慈周)の賛の意味するところのものは、十九世紀のドイツの詩人「カール・ブッセ」の次の詩と同じ意のものと解したい(「カール・ブッセ」の詩の「幸(さいわひ)」を「六如」の賛の「金芙蓉=新しい時代の創造・文化」と置き換えたい)。

Ueber den Bergen Carl Busse     山のあなた(カール・ブッセ《以下「上田敏訳」》))

Ueber den Bergen, weit zu wandern   山のあなたの空遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.   幸(さいはひ)住むと人のいふ
Ach, und ich ging im Schwarme der andern, 噫(あゝ) われひとと尋(と)めゆきて
kam mit verweinten Augen zurueck.    涙さしぐみ かへりきぬ
Ueber den Bergen, weit weit drueben    山のあなたになほ遠く
Sagen die Leute, wohnt das Glueck.   幸(さいはひ)住むと人のいふ

 この十八世紀の京都で、その名が知られている六如は、売茶翁が若冲に呈した「丹青活手妙通神(丹青ノ活手ノ妙神ニ通ズ)」を捩って、当時の新進気鋭の応挙に、「丹青天下無双手(丹青ノ天下ノ無双ノ手ナリ)」と高く評価した、天台宗の学僧で、伴蒿蹊の『近世畸人伝』の「序」を草した、その人である。
 そして、この六如(慈周)は、蕪村の追悼句文集『から檜葉』(上・下)の、その巻末の、蕪村への「哭文・哭詩」を草した、雨森章迪と同じ文化圏にあったことを伝えている文献(『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」)がある。

(別記一)「諸家寄合膳」作者・賛者一覧

一 円山応挙(まるやま おうきょ) 享保十八年(一七三三)~ 寛政七年(一七九五)。江戸時代中期の絵師。姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。丹波穴太(あのお)村(現・京都府亀岡市)出身。明和三年(一七六六年)の頃から「応挙」を名乗り始め、この頃から三井寺円満院の祐常門主の知遇を得る。「写生」を重視した平明な画風で、三井家を始めとする富裕な町人層に好まれた。著名な弟子には呉春・長沢蘆雪・森徹山・源琦などがいる。応挙を祖とするこの一派は「円山四条派」と称され、現代にまでその系譜を引く京都画壇の源流となっている。
二 池大雅(いけの たいが) 享保八年(一七二三)~ 安永五年(一七七六)。江戸時代中期の絵師(文人画家)・書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱(いみな)は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。妻の玉瀾も画家。弟子に、福原五岳・木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。
三 与謝蕪村(よさ ぶそん) 享保元年(一七一六)~ 天明三年(一七八四)。江戸時代中期の絵師(文人画家)で且つ俳人(中興俳諧の巨匠)。本姓は谷口、のちに「与謝」。「蕪村」は号で、名は信章。画号は「春星」・「謝寅(しゃいん)」など多数ある。俳号も多く、蕪村以外では「宰鳥」、紫狐庵」「夜半亭(二世)」など。画家の弟子に、呉春(蕪村没後応挙門)・紀楳亭など。俳人の弟子に、高井几董・黒柳召波・江森月居など。池大雅と共に、日本の文人画(南画)の大成者とされる。摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)生まれ。江戸で俳諧などを学んだ後、京都を拠点に活動し、丹後や讃岐も訪れた。
四 池玉瀾(いけの ぎょくらん) 享保十二年(一七二七)~天明四年(一七八四)。江戸時代中期の女流絵師。文人画家池大雅の妻。柳沢淇園,のち大雅に学ぶ。山水の扇面画に優れる。母百合(ゆり)、祖母梶(かじ)は共に歌人。本姓は徳山。名は町。
五の一 鼎春嶽(かなえ しゅんがく) 明和三年(一七六六)~ 文化八年(一八一一)。江戸時代中期の日本の南画・篆刻家。池大雅の門人・福原五岳に師事。浪華の人。
五の二 皆川淇園(みながわ きえん) 享保十九年(一七三五)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。京都の人。絵画の腕も卓越しており、山水画の師は円山応挙。
六 曽我蕭白(そが しょうはく) 享保十五年(一七三〇年)~ 天明元年(一七八一)。江戸時代中期の絵師。蛇足軒と自ら号した。京都の人。蕭白は高田敬輔や望月玉蟾に師事したとの説が古くからある。蕭白自身は室町時代の画家曾我蛇足の画系に属すると自称し、落款には「蛇足十世」などと記している。蕭白の逸話として、「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」などが知られている。
七の一 東東洋(あずま とうよう) 宝暦五年(一七五五年)~ 天保十年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。最初の号は、玉河(玉峨)で、別号に白鹿洞。仙台の人。二十歳の頃、京都の上り、池大雅を訪ねる。後に、長崎に赴き、中国人画家に学んだとされる。各地を遊歴の後帰洛し、妙法院真仁法親王の支援を受け、絵師の応挙や呉春、歌人の小沢蘆庵や伴蒿蹊、学者の皆川淇園らと親交を結ぶ。文政八年(一八二五)七十一歳で仙台に帰郷。享年八十五。墓は仙台と京都にある。
七の二 八木巽処(やぎ せんしょ) 明和八年(一七七一)~天保七年(一八三六)。 江戸時代中期から後期の儒者、書画家。木村蒹葭堂と親しく、浪華の人か。
八の一 伊藤若冲(いとう じゃくちゅう) 正徳六年(一七一六)~ 寛政十二年(一八〇〇)。江戸時代中期の絵師。名は汝鈞(じょきん)、字は景和(けいわ)。別号に、斗米庵(とべいあん)、米斗翁(べいとおう)、心遠館(しんえんかん)など。京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」(家名と併せて通称「枡源(ますげん)」)の長男として生を受ける。四十歳代の約十年を費やして完成させた「釈迦三尊像(三幅)」と共に相国寺に寄進した「動植綵絵(三十幅)」(一八八九年に皇室に献納)が代表作である。,売茶翁や梅荘顕常など黄檗僧たちとも交わり、信仰の念は生涯厚かった。独身を通し、晩年は深草の石峰寺に隠棲した。
八の二 四方真顔(よもの まがお) 宝暦三年(一七五三)~ 文政十二年(一八二九)。江戸時代中期から後期の狂歌師・戯作者。姓は鹿津部で、鹿津部真顔(しかつべ まがお)。通称は北川嘉兵衛。別号に狂歌堂などがある。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業としていた。江戸の人。全国的に門人が多く、晩年には、京都から宗匠号を授けられている。
九の一 福原五岳(ふくわら ごがく) 享保十五年(一七三〇)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の文人画家。池大雅の高弟。号は五岳のほかに玉峰・楽聖堂など。通称・大助。備後尾道の人。
九の二 三宅嘯山(みやけ しょうざん) 享保三年(一七一八)~享和元年(一八〇一)。 江戸時代中期の儒者・俳人。三宅観瀾の一族で、京都の質商。夜半亭巴人(早野巴人)門の望月宋屋に俳諧を学ぶ。宝暦元年(一七五一)の頃から蕪村と親交を結ぶ。「俳諧古選」などの評論で元禄期への復帰をとなえる。漢詩にも優れ、中国白話小説にも通じた。別号に葎亭・,滄浪居など。
十の一 狩野惟信(かのう これのぶ) 宝暦三年(一七五三)~ 文化五年(一八〇八)。江戸時代中期から後期の木挽町家狩野派七代目の絵師である。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。 
十の二 鴨祐為(かもの すけため) 元文五年(一七四〇)から享和元年〈一八〇一)。江戸時代中期から後期の京都の神官、歌人。代々上賀茂神社の神官を務める賀茂氏の流を汲む梨木)家に生れる。幼少の頃より和歌を好み冷泉為村に師事し、その生涯を通して十万首を超える和歌を詠んだといわれる。
十一の一 岸駒(がんく) 宝暦六年(一七五六)または寛延二年(一七四九)~ 天保九年(一八三九)。江戸時代中期から後期の絵師。姓は佐伯。名は昌明。初期の号は岸矩。岸派の祖である。出身地は越中高岡と加賀金沢との二説がある。安永七年(一七七八)の頃から上洛し、天明四年(一七八四)に有栖川宮家の近習となり、有栖川宮の庇護のもと、京都を代表する絵師の一人となる。
十一の二 森川竹窓(もりかわ ちくそう) 宝暦十三年(一七六三)~ 文政十三年(一八三〇)。江戸時代中期・後期の書家・画家・篆刻家である。 号は竹窓の他に良翁・墨兵・天遊など。大和の人。浪華に移住し、京都で没する。上田秋成と親交が深い。
十二の一 長沢芦雪(ながさわ ろせつ) 宝暦四年(一七五四)~ 寛政十一年(一七九九)。江戸時代中期の絵師。円山応挙の高弟。別号に千洲漁者、千緝なども用いた。円山応挙の弟子で、師とは対照的に、大胆な構図、斬新なクローズアップを用い、奇抜で機知に富んだ画風を展開した「奇想の絵師」の一人。丹波篠山に生まれ、安永七年(一七七八)、二十五歳の頃、応挙門に入る。「後年応挙に破門された」とかの流説があるが、事実は不明。
十二の二 柴野栗山(しばの りつざん) 元文元年(一七三六)~ 文化四年(一八〇七)。
江戸時代中期・後期の儒学者・文人。讃岐の生まれ、寛政の三博士(寛政期に昌平黌の教官を務めた朱子学者三人、古賀精里・尾藤二洲・柴野栗山)の一人として知られる。
十三の一 月僊(げっせん) 元文六年(一七四一)~ 文化六年(一八〇九)。江戸時代中期から後期にかけての画僧。俗姓は丹家氏。名は玄瑞・元瑞。字は玉成。尾張名古屋の生まれ。江戸へ出て増上寺に入り月僊の号を与えられる。応挙・蕪村に私淑。画料を貪るなど「乞食月僊」との呼称もあるが、晩年その財を投じ伊勢山田の寂照寺を再興。著書『月僊画譜』など。
十三の二 慈周(じしゅう・六如=りくにょ) 享保十九年(一七三四)~ 享和元年(一八〇一)・江戸中期の天台宗の僧・漢詩人。近江の生まれ。医者・苗村介洞の子。白楼・無着菴と号する。初め天台宗武蔵明静院の学僧であったが、野村東皐に詩文を学び、のち江戸に出て宮瀬龍門に師事した。また儒者・皆川淇園らと親交があった。内外の書に精通し、仏儒に兼通するが、殊に詩学で知られる。晩年には京都に落ち着いて、嵯峨の長床坊に隠棲したという。
十四の一 吉村蘭洲(よしざわ らんしゅう) 元文四年(一七三九)から文化十三年(一八一三)。江戸時代中期-後期の画家。京都の人。石田幽汀のち円山応挙に学び,西本願寺絵師となる。円山応挙晩年の弟子で、応門十哲の一人に数えられる。
十四の二 浜田杏堂(はまだ きょくどう) 明和三年(一七六六)~ 文化十一年(一八一五)。江戸時代中期後期の画家・漢方医。本姓は名和氏。号は杏堂・痴仙。浪華の人。
十五の一 土方稲嶺(ひじかた とうれい) 享保二十年(一七三五)または寛保元年(一七四一)~ 文化四年(一八〇七)。江戸時代中期から後期の絵師。因幡出身。号は臥虎軒、虎睡軒。稲嶺の号は、地元の名所稲葉山に因んだという。
十五の二 木村蒹葭堂(きむら けんかどう) 元文元年(一七三六)~ 享和二年(一
八〇二は、江戸時代中期の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。呉は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)など。通称は 坪井屋吉右衛門。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には多数の来訪者の記録があり、当時の漢詩人・作家・学者・医者・本草学者・絵師・大名等など幅広い交友が生まれ、一大文化サロンを形成している。この「諸家寄合膳」・「諸家寄合椀」に出てくる作者のほとんどが、蒹葭堂と何らかの関係を有している。
十六の一 玉潾(ぎくりん) 宝暦元年(一七五一)~文化十一年(一八一四)。江戸時代中期・後期の画僧。近江の人。京都永観堂の画僧玉翁の法弟で洛東山科に住した。画を師に学び、墨竹を得意とした。公卿や名門の人々と交わって画名をあげ、茶道・華道・蹴鞠の道も究めたという。俗姓は馬場。法号は曇空。別号に墨君堂・淵々斎。
十六の二 慈延(じえん) 寛延元年(一七四八)~ 文化二(一八〇五)。江戸時代中期・後期天台宗の僧・歌人。父は儒医兼漢学者塚田旭嶺。尾張藩明倫堂の督学を務めた儒学者塚田大峯の弟。字は大愚。号は吐屑庵。小沢蘆庵・澄月・伴蒿蹊とともに平安和歌四天王の一人に数えられている。信濃の生まれ、比叡山で出家して天台教学を学び、円教院に住した。
十七の一 紀楳亭(きの ばいてい) 享保十九年(一七三四)~ 文化七(一八一〇)。江戸時代中期・後期の絵師。与謝蕪村の高弟で師の画風を忠実に継承し、晩年大津に住んだため、近江蕪村と呼ばれた。山城鳥羽出身。俗称は立花屋九兵衛。楳亭は画号(当初は画室の号)で、俳号は梅亭。
十七の二 加茂季鷹(かもの すえたか) 宝暦四年(一七五四)~天保十二年(一八四一)。江戸後期の国学者。京都の生まれ。姓は山本、号を生山・雲錦。和歌を有栖川宮職仁親王に学ぶ。江戸では加藤千蔭・村田春海ら歌人・文人と交わり、京に帰って上賀茂の祠官となる。狂歌を得意とし、居を雲錦亭と名づけ歌仙堂を設け、また文庫に数千巻の書を蔵した。
十八 観嵩月(かん すうげつ) 宝暦五年(一七五五)~ 文政十三年(一八三一)。江戸時代後期に活躍した英派の絵師。高嵩谷の門人。高氏、名は常雄。別号に蓑虫庵・景訥など。江戸深川六軒堀の生まれ。
十九の一 島田元直(しまだ もとなお) 元文元年(一七三六)~文政2年(一八一九)。江戸中・後期の絵師。京都の生まれ。姓は紀、字は子方・子玄、別号に鸞洞(らんどう)など。円山応挙に師事。
十九の二 谷口鶏口(たにぐち けいこう) 享保三年(一七一八)~享和二年(一八〇二)。谷口楼川・谷口田女の養子。江戸神田の人。養父母とともに馬場存義側の点者をつとめる。楼川の跡をついで木樨庵2世となった。別号に獅子眠(ししみん)。
二十の一 堀索道(ほり さくどう) 生年未詳~享和二年(一八〇二)。江戸時代中期・後期の絵師。狩野)派の鶴沢)探山に学ぶ。寛政の内裏造営に際し,障壁画制作に加わった。法橋。名は守保。
二十の二 大島完来(おおしま かんらい) 寛延元年(一七四八)~文化十四年(一八一七)。 江戸時代中期・後期の俳人。伊勢津藩士。大島蓼太に学び、のち養子となって、雪中庵四世を継いだ。本姓は富増。通称は吉太郎。別号に震柳舎,野狐窟など。

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蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一) [諸家寄合膳・椀]

蕪村・若冲・大雅・応挙らの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」(その一)


2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が 開催された。
その冒頭(第一章「十八世紀の京都ルネッサンス」)を飾ったのが、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)とであった。
 その図録(サントリー美術館・MIHO MUSEUM編)の紹介と若干の考察を付して置きたい。
 なお、その図録中、この「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の「作品解説」は、岡田秀之氏(MIHO MUSEUM学芸員)が担当し、その「諸家寄合膳」の「釈読」は鈴木洋保氏(書画家・書画史家)が担当している。
 また、図録中、「蕪村絵画における賛の書画をめぐって」は鈴木氏、「若冲と蕪村―その共通点と相違点」は岡田氏が執筆している。

諸家寄合膳(四枚).jpg

「諸家寄合膳」(二十枚)のうち「蕪村・若冲・大雅・応挙」の四枚
上左・蕪村筆「翁自画賛」 上右・若冲筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
下左・大雅筆「梅図」   下右・応挙筆「折枝図」 

諸家寄合椀.png

「諸家寄合椀」(十一合) 前方の中央の椀(若冲筆「梅図」)

 これらの「諸家寄合膳」と「諸家寄合椀」の所蔵者は、その「出品目録」を見ると、空白になっており、個人蔵のようである。
 なお、その「作品解説(4「諸家寄合椀」)の末尾に、「『諸家寄合膳(作品3)と同じように『酔墨斎持』とあり、もと雨森白水(一七九三~一八八一)が所蔵していた」とある。
 この旧蔵者の雨森白水は、幕末・明治に掛けての日本画家の雨森白水であろう。
 この酔墨斎こと雨森白水は、寛政五年(一七九三)の生まれで、「若冲と蕪村 関連年表」(上記『図録』所収)」によると、その生まれた年に、若冲(七十八歳)は、「この年までに、石峰寺に隠棲」とあり、そして、没する寛政十二年(一八〇〇、八十五歳)に、「『諸家寄合椀』のうち『梅図』(作品4)、『松尾芭蕉図』(作品102)、『霊亀図』(作品223)、四月、池大雅の二十五回忌を病を理由に欠席、九月十日没」とある 
 すなわち、若冲の「諸家寄合椀」(「梅図」)は、若冲が亡くなった最晩年の遺作ともいうべきものということと、江戸中期の「若冲・蕪村・大雅・応挙」らと江戸後期から明治に掛けての「白水」とは、そもそも活躍した時代が違うということになろう。
 若冲との関連で見ていくと、若冲が晩年に隠棲し、若冲の五百羅漢で知られている石峰寺(若冲が埋葬された墓があり、その遺髪は菩提寺宝蔵寺と相国寺にも埋納されている)に、白水の墓地もあり、白水と若冲とは何らかの縁もあるような雰囲気ではある。
 しかし、この雨森白水は、金福寺の蕪村墓碑を揮毫した書家で知られている、蕪村と三十年の交友関係にあった雨森章迪の一族と解し、その雨森家が二代、三代にわたって蕪村、そして、百池や呉春、さらには木村蒹葭堂などの縁により蒐集していたものと考える方が自然であろう。

 ここで、「諸家寄合膳」(二十枚)と「諸家寄合椀」(十一合)の作者と画題などを下記に掲載して置きたい。
 これによると、一番早い年代のものは、「諸家寄合椀」の「四英一峰(一六九一~一七六〇)」で、宝暦十年(一七六〇)前の絵付けということになろう。続いて、「諸家寄合膳」の「二池大雅(一七二三~七六)」の安永五年(一七七六)前のものということになる。
 一番遅いものは、「諸家寄合膳」の「十八観嵩月(一七五九~一八三〇)」の天保元年(一八三〇)前のものということになろう。
 いずれにしろ、下記のものが全部出来上がるまでには、少なくとも、半世紀(五十年)以上の年数がかかっているものと解したい。

諸家寄合膳(二十枚)
一 円山応挙(一七三三~九五)筆「折枝図」
二 池大雅(一七二三~七六)筆「梅図」     
三 与謝蕪村(一七一六~一七八三)筆「翁自画賛」
四 池玉瀾(一七二八~八四)筆「松渓瀑布図」
五 鼎春嶽(一七六六~一八一一)筆、皆川淇園賛「煎茶図」
六 曽我蕭白(一七三〇~八一)筆「水仙に鼠図画賛」
七 東東洋(一七五五~一八三九)筆、八木巽処賛
八 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆、四方真顔賛「雀鳴子図」
九 福原五岳(一七三〇~一七九九)筆、三宅嘯山賛「夏山図」
十 狩野惟信(一七五三~一八〇八)筆、鴨祐為賛「富士図」
十一 岸駒(一七四九《五六》~一八三八)筆、森川竹窓賛「寒山拾得図」
十二 長沢芦雪(一七五四~一七九九)筆、柴野栗山賛「薔薇小禽図」
十三 月僊(一七四一~一八〇九)筆、慈周(六如)賛「五老図」
十四 吉村蘭洲(一七三九~一八一七)筆、浜田杏堂賛「山居図」
十五 土方稲嶺(一七三五~一八〇七)筆、木村蒹葭堂賛「葡萄図」
十六 玉潾(一七五一~一八一四)筆、慈延賛「墨竹図」
十七 紀楳亭(一七三四~一八一〇)筆、加茂季鷹賛「蟹図」
十八 観嵩月(一七五九~一八三〇)筆「鴨図」
十九 島田元直(一七三六~一八一九)筆、谷口鶏口賛「菊図」
二十 堀索道(?~一八〇二)筆、大島完来賛「牡丹図」

諸家寄合椀(十一合)
一 呉春(一七五二~一八一一)筆「燕子花郭公図」
二 高嵩谷(一七三〇~一八〇四)筆「山水図」  
三 伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)筆「梅図」
四 英一峰(一六九一~一七六〇)筆「芦雁図」
五 黄(横山)崋山(一七八一~一八三七)筆「柳図」
六 土佐光貞(一七三八~一八〇六)筆「稚松」
七 村上東洲(?~一八二〇)筆「三亀図」
八 鶴沢探泉(?~一八〇九)筆「三鶴図」
九 森周峯(一七三八~一八二三)筆「水仙図」
十 宋紫山(一七三三~一八〇五)筆「竹図」
十一 森狙仙(一七四七~一八二一)筆「栗に猿図」

呉春筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」 [蕪村・呉春・雨森章迪]

呉春(月経)筆・雨森章迪賛の「蕪村画像」


奉哭(雨森章迪).jpg

雨森章迪賛 紙本墨書一枚 二五・六×三七・三
署名「盟弟雨森章迪慟泣拝書」 印章「章」「迪」(白文連印) 

蕪村像・呉春.jpg

呉春筆 紙本墨画淡彩 一幅 二五・七×一四・三
署名「辛酉十二月廿五日 呉春拝写」 印章「呉」「春」(白文連印)  

 平成二十年(二〇〇八)三月十五日から六月八日(日)にかけてMIHO MUSEUMで開催された春季特別展「与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)」に出品されたものである。
 その図録の「作品解説」(岡田秀之)は次のとおりである。

[ 呉春(松村月渓)が宗匠頭巾をかぶる蕪村の右側からみた姿を描いた作品。落款から没後十八年の享和元年(一八〇一)に、蕪村の命日十二月二十五日に描かれたことがわかる。この図の上部には本来雨森章迪の賛があり、蕪村追善集『から檜葉』天明四年(一七八四)に載る追悼文とほぼ同じで、現在は、絵と賛が別になっている。この作品の外箱には、鉄斎の筆で「謝蕪村翁肖像 呉月渓/雨森章迪画賛 鉄斎外史題」とあり、鉄斎はこの図をもとに蕪村の肖像画を数点描いている。
賛 (略)  ]
(『与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」)

 上記の「作品解説(169)」に掲載されている「賛」(漢文)を、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)のもので、読みと簡単な注を付し(括弧書き)掲載して置きたい。

(雨森章迪「賛」)

[ 哭(「画賛」では「奉哭」)
謝蕪村先生(画賛」では「蕪村謝先生」)
先生ノ文(俳諧)墨(画)ノ伎ニ於ケル、只独リ描事ニコレ力(つと)メ、晩ニシテ事業愈(いよいよ)長ズ。
刻画(細かく輪郭づけて描く北宗画)似不似ノ論ニ唾シ、終(つひ)ニ模写倣傚(ほうこう=真似)、牽率(一派を率いる)シテ成ル者トハ大イニ異ル。
而シテ自ラ謝氏一家ノ墨(画)ト称シ、倣然(ごうぜん)トシテ世ト乖張(かいちょう=反旗を張る)ス。
宛(さなが)ラ婆蘿林(釈迦の入滅した娑羅の林)中ノ最後ノ説法ノ如シ。
六師(六師外道=異端の徒)幺魔(幼魔=心無い輩)、聴ク者益(ますます)懼(おそ)ル。
今年﨟月(臘月=陰暦十二月)念(一瞬=急に)五病ニ罹(かか)リテ卒(しゅつ=死)ス。
嗚呼(ああ)天斯(こ)ノ人ニ殃(わざわい=神の咎め)シ、斯の道に殃ス。
迪(てき=雨森章迪)ヤ三十年ノ旧盟(旧い同志)ニシテ、楚惜(耐え難い惜別)の念、噬臍(ぜいせい=臍を噛む)尽キズ。
哭詩二章ヲ奠(てん=供え祀る)シ、聊(いささ)カ悲痛牢騒(ろうそう=牢固たる騒ぎ)ノ万一ヲ舒(の)ブルト云ウ。

江山一墨生痕ヲ溌シ、画禅ニ晤入(ごにゅう)シテ独尊ト称ス。
元是レ天然ノ大才子、周行七歩謝蕪村。

倏(たちま)チ三冬臥病ノ身ト作(な)リ、硯墨(けんぼく)ニ親マズ薬ニ惟(こ)レ親ム。
没却(もっきゃく)ス江山筆々ノ春

                          盟弟 雨森章迪拝書  ] 

 蕪村は天明三年(一七八三)十二月二十五日、六十八歳で没したが、その没後七々日(四十九日)を限りとして、諸家から寄せられた句文・詞章を集めた追善集『から檜葉(上下)』が、その翌年の一月、後に、夜半亭蕪村の後を継ぎ、夜半亭三世となる高井几董によって編まれた。書名は、蕪村の死の翌日に夜半亭で興行した一順追善俳諧の発句「から檜葉の西に折るゝや霜の声(几董)」から取られている。
 上巻には、主として夜半亭・春夜社(几董の社)中の悼句を収め、その跋文は、蕪村が葬られる金福寺の、その金福寺に蕪村が在世中に再興した芭蕉庵の、その再興の要となった樋口道立(漢詩人・江村北海の次男、川越京都留守居役の要職にあった儒者にして俳人)が起草している。
 下巻には、暁台の悼句を立句とする几董以下一門の歌仙、さらに杜口・蝶夢・闌更・旧国(大江丸)・無腸(上田秋成)・蓼太らの句文を収め、その跋文は、蕪村が葬られた後に、金福寺境内に蕪村句碑を建立した、蕪村門最大の後援者であった糸物問屋「堺屋」の惣領にして俳人の寺村百池である。蕪村百回忌には、その孫の百遷によって「蕪村翁碑」が、その境内に建立されている。
 この百地の跋文に続いて、上記の、雨森章迪の「哭文・哭詩」が、すなわち、蕪村追悼集『から檜葉』の「上・下」巻の総まとめのスタイルで起草されているのである。
 そして、その「哭文・哭詩」のまえに、その「序文」のようなものが認められている。その章迪の序文(漢文)は次のとおりである。
 上記の「賛」(「哭文・哭詩」)と同じく、「から檜葉」(『蕪村全集七・講談社』所収)に因り、その漢文書下し文のものを掲載して置きたい。

(雨森章迪「哭文・哭詩」の「序文」)

[ 夜半謝先生没スルヤ、門生高几董諸子ノ哭歌(こくか)ヲ鳩(あつ)メ、檜葉集ヲ撰ス。句々咸(みな)先生誹諧ノ奇ヲ以テ称嗟ス。呉月渓・梅嵒(ばいがん)亭余ニ謂ヒテ曰ク、先生描画ニ鳴リ、誹諧ニ波余ス。而(しか)モ一言ノ画ニ及ブ橆(な)シ。遺恨是レ之ヲ何如ト謂ハン。僕等(ら)画業ヲ先生ニ授カリシ者、世ノ識ル所ナリ。今ヤ筆ヲ立テ以テ其ノ妙ヲ言ハント欲スルモ、悲涙洋々トシテ、紙上海ノ如シ。幸イナルカナ君ノ哭詩、都(すべ)テ絵事ニ渉(わた)ル。冀(こいねが)ハクハ之ヲ巻末ニ置キ、僕等ノ筆に代ヘンコトヲ。余謝スルニ疣贅(ゆうぜい)ヲ以テス。可(き)カズ。併(あわ)セテ同社ノ二三子懇求シ、竟(つい)ニ写シテ呉・嵒二生(にせい)ニ与フルノミ。   ]

 この「序文」に出て来る「呉月渓」は、「呉春」(松村月渓)その人であり、「梅嵒(ばいがん)亭」は、呉春と共に、画業における蕪村門の二大双璧の「紀楳亭(きのばいてい)」(俳号・梅亭)である。
 呉春は、蕪村没後、蕪村と交流のあった円山応挙に迎えられ、後に「四条派」を形成し、応挙と共に、「円山・四条派」は、近・現代の京都日本画壇の主流を占めるに至る。また、
楳亭は、天明の大火で近江(大津)に移住し、後に、「近江の蕪村」と称せられるに至る。
 呉春も楳亭も、与謝蕪村門の画人として、当時の京都画壇の一角を占めていたが、同時に、俳人としても、蕪村の夜半亭社中の一角を占めている。そして、何よりも、この両者は、蕪村の臨終の最期を看取ったことが、『から檜葉』(上)に、次の前書きのある句で物語っている。

  師翁、白梅の一章を吟じ終て両眼を閉(とじ)、今ぞ世を辞す
  べき時也。夜はまだ寒きや、とあるに、万行の涙を払ふて
明(あけ)六ツと吼(ほえ)て氷るや鐘の声            月渓
夜や昼や涙にわかぬ雪ぐもり                梅亭

 これに続いて、「奉哭」と題して、夜半亭一門の句が収載されている。この登載の順序は、恐らく、年齢や俳歴などに因っての、序列などを意味していると解せられる。

雪はいさ師走の葉(はて)のねはん哉              田福
折(おれ)て悲し請(こふ)看(みよ)けさの霜ばしら         鉄僧
師は去りぬ白雲寒きにしの空                 自笑
かなしさや猶(なお)消(け)ぬ雪の筆の跡             維駒
雪にふして栢(かや)の根ぬらす涙かな             百池
(以下略)

田福は、享保六年(一七二一)の生まれ、蕪村より五歳年少で、一門の最長老格なのであろう。京都五条町で呉服商を営み、摂津池田に出店があった。百池の寺村家とは姻戚関係にあり、宝暦末年までは貞門系の練石門に属し、練石没後蕪村門に投じている。三菓社句会には、明和五年(一七六八)七月より、その名が見える。
 鉄僧は、詳細不明だが、雨森章迪の俳号との説がある(『人物叢書 与謝蕪村《田中善信著》』・「国文白百合27号」所収「蕪村と鉄僧《田中善信稿》」)。それによると、「章迪は医を業としたが、書にも巧みで、京都の金福寺に現存する蕪村の墓碑の文字を書いた人物として知られている。後に蕪村のパトロンとなる百池は彼に書を学んだという。章迪は天明二年の『平安人物史』に毛惟亮の名で医者として登載されている(但し、『平安人物史』には医者の項目はなく、「学者」の部に登載されている)。住所は、「白川橋三条下ル町」である。
 章迪は、天明六年(一七八六)に、享年五十五で没しており、逆算して、享保十六年(一七三一)の頃の生まれとすると、田福に次ぐ、蕪村門の長老ということになる。蕪村門の俳歴からすると、鉄僧が章迪の俳号とすると、明和三年(一七六六)の第一回参加者句会から参加しており、次に出てくる「自笑」と共に最古参ということになる。
 とすると、この鉄僧こと雨森章迪が、この蕪村追悼集『から檜葉』の巻末の「哭文・哭詩」を草することと併せ、金福寺の蕪村墓碑の揮毫をする、その理由が明らかとなって来る。即ち、当時の蕪村の最大の支援者であり理解者であったのが、鉄僧こと雨森章迪ということになる。
 次の自笑(初号は百墨)は京都の人で、浮世草子の出版で有名な八文字屋の三代目である。三菓社句会の初回から加わり、蕪村門での俳歴は長い。後に、寛政初年(一七八九)の大火で大阪に移住している。
 続く、維駒は、蕪村門の最高弟であった黒柳召波の遺児で、安永六年(一七七七)に父の遺句を集めて『春泥句集』、蕪村が没する天明十三年(一七八三)、父の十三回忌に追善集『五車反古』を刊行し、この二書は同門中における維駒の名を重からしめた。この『五車反古』の「序」に、「病(びょう)夜半題(題ス)」と署名し、この『五車反句』の「序」が、蕪村の絶筆となった。
 次の百池は、姓は寺村、名は雅晁、通称は堺屋三右衛門、のち助右衛門と改めた。別号に大来堂など。祖父の代に京に上り、繡匠をもって業とした。河原四条に居を定め、大いに家業を興し、巨万の富を積んだ。父三貫が、蕪村の師の早野巴人門で、三貫自身、蕪村門に投じている。百池は、明和七年(一七七〇)の頃に蕪村門に初号の百稚の名で入門している。蕪村の有力な経済的支援者であると共に、穏健静雅な句風によって同門中に重きをなしている。また、百池没後の多くの遺構類は、「寺村家伝来与謝蕪村関係資料」として、今に遺されている。

 さて、冒頭の「呉春筆・雨森章迪賛の『蕪村画像』」に戻って、呉春が、この「蕪村画像」を描いたのは、蕪村没後十八年の享和元年(一八〇一)で、この時には、賛を書いた雨森章迪(鉄僧)は、天明六年(一七八六)に没している。
 従って、この賛は、呉春が、章迪(鉄僧)の遺構類のものをもって、この「蕪村画像」の上に合作して一幅としたものなのであろう(『与謝蕪村―翔(か)けめぐる創意(おもい)』図録所収「作品解説(169)」では「現在は、絵と賛が別になっている」との記述があるが、その一幅となっていた前の形態は、「絵と賛が別々」であったのであろう)。
 最後に、雨森章迪の筆による、蕪村墓碑」(金福寺)を掲載して置きたい。

(補記)

 2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その折出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚、各、二八・〇×二八・〇 高二・八)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合、各、径一二・六 高二八・八)は、旧蔵者の「雨森白水」との関連で、最初に、これらを企画し、蒐集したのは、蕪村、そして、呉春と親交の深い、鉄僧こと、雨森章迪ということも、十分に有り得ることであろう。
 なお、『日本文学研究資料叢書 蕪村・一茶』所収「蕪村周辺の人々(植谷元稿)」に、「処士雨森章迪誌銘」(皆川淇園に因る墓誌銘)が紹介されており、その中に、「無子(子無シ)」とあり、章迪は継嗣を失っており、その継嗣を失った時の賛(「般若心経」)が月渓(呉春)の「羅漢図」にあるようである。また、章迪の「号は多数」で、その中に、寺村百池の別号の「大来堂」もあり、章迪の別号の「大来堂」を百池が譲り受けたのかも知れない。とすると、第一回の「三菓社」句会は、鉄僧(章迪)の「大来堂」で行われたということなのかも知れない(『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』では、「鉄僧の居宅大来堂で行われた」としている)。

蕪村墓.png

(雨森章迪筆 「与謝蕪村墓碑」)


『平安人物史』上の蕪村と若冲 [蕪村と若冲]

 『平安人物史』上の蕪村と若冲(「補記」を含む)

 蕪村が明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』に載ったのは、宝暦七年(一七五七)三年間に及ぶ丹後・宮津逗留に終止符を打って、それ以前に寓居していた京都に再帰して十年余りが過ぎた、五十三歳の時であった。
 この宝暦七年(一七五七)から明和五年(一七六八)にかけての蕪村の歩みを振り返ると、讃岐逗留(明和三年=一七六六~明和五年=一七六八)を含む「三菓社時代(宝暦九年=一七五九~明和七年=一七七〇)」ということになろう。
 「三果」というのは、蕪村の画室(アトリエ)の庵号で、「三果園・三果軒・三果亭・三菓堂」などと、安永五年(一七七六)頃までの長期にわたり断続的に用いられている。その前身は、「朱瓜楼」で、「朱瓜」は「烏瓜・唐朱果」の烏瓜のことで、蕪村の画室から見られる、その種の「三果樹」などに由来があるのであろう。
 「三果社」の「社」は、詩社(片山北海の「混沌社」など)の名称にならったもので、蕪村を中心とした俳諧結社名ということになろう。その第一回目の句会は、明和三年(一七六六)六月に、鉄僧(医師・雨森章迪の俳号)の居宅の太来堂で行われ、その時のメンバーは、蕪村・太祇(炭太祇)・召波(黒柳召波)・鉄僧(雨森章迪)・百墨(自笑)・竹洞・以南・峨眉の八人である。

(補記
「鉄僧」を「雨森章迪」の俳号としているのは、『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著)』に因っている。同書の「三菓社句会」の章で、『夏より 三菓社句集』(百池の後裔の寺村家伝来)に基づき当時の三菓社句会の様子の記述が成されている。そこで、「第一回の句会が六月二日鉄僧の居宅大来堂で行われた」と、「大来堂」を鉄僧の居宅としているのだが、後に、「百雉」の名で、この句会のメンバーになる「寺村百池」の別号が「大来堂」で、この「大来堂」は、寺村家と解したい。百池の父「三貫」が、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)門で、「河原町四条に居を定め、繡匠をもって、大いに家業を興し」(「国文学 解釈と鑑賞《1978・3》」所収「蕪村とその弟子たち《丸山一彦稿》」、その「三貫」の関係で「寺村家」で開催されたものと解したい。
 なお、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展で出品された、「諸家寄合膳」(応挙・大雅・蕪村・若冲ら筆・朱塗膳・二十枚)と「諸家寄合椀」(呉春・若冲ら筆・朱塗椀・十一合)の旧蔵者の「雨森白水」は、「雨森章迪」(医者・書家・漢詩人、別号に白山・白隠斎など)と深い関係にある者と解したい。

 この「三果」の庵号が初めて登場するのは、宝暦九年(一七五九)の「牧馬図」の落款においてで、「己卯(宝暦九年)冬、三果書堂ニ於イテ写ス 東成趙居」と、その署名は「東成趙居」である。この「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意が込められているのかも知れない。後の、蕪村晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款の、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意は、未だ包含していないであろう。
 この「趙居」は、宝暦七年(一七五七)に丹後宮津を去って京都に再帰してからの蕪村の画号で、宝暦十年(一七六〇)の「謝長庚」が登場して、以後見られなくなる(但し、「趙」という一字の印章は晩年まで用いられている)。
 大雑把な「三果社時代」の画業の中心をなすのは、宝暦十三年(一七六三)から明和三年(一七六〇)にかけての「屏風講(蕪村の屏風など大作を購入する同好会)時代」で、そのメンバーは、三果社のメンバーが基礎になっていたのであろう。
 この屏風講時代に創作された絖本(こうほん・ぬめ張り)・絹本の屏風絵は次の通りである。

○山水図屏風(絖本、出光美術館蔵) 宝暦十三年四月碧雲洞での作。(落款)謝長庚。東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚・春星氏・謝長庚印・春星・東成。
○野馬図屏風(絖本、京都国立博物館蔵) 宝暦十三年八月三果軒および碧雲洞での作。(落款)東成謝春星・東成謝長庚。(印章)春星・謝長庚印。
○山水図屏風(絖本、文化庁蔵) 明和元年夏三果亭での作。(落款)謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・溌墨生痕・三果居士。
○山水図屏風(絖本、個人蔵) 明和九年・十月三果亭での作。(落款)東成謝長庚・謝長庚。(印章)謝長庚印・春星・謝長庚・謝春星。
○柳塘晩霽図屏風(絖本、フリーア美術館蔵) 明和元年十一月三果亭での作。(落款)謝
長庚・東成謝春星。(印章)謝長庚・謝春星・謝長庚印・春星・溌墨生痕。「柳塘晩霽図 陳霞狂筆ニ擬ス」と記す。
○青楼清遊図屏風(絹本、個人蔵) 明和二年六月作。(落款)春星。
○蘭亭曲水図屏風(絖本、東京国立博物館蔵) 明和二年作。(落款)謝長庚・溌墨生痕・山水自清言。
○草廬三顧・蕭何追韓信図屏風(絖本、野村文華財団蔵) 製作年次不明。(落款)謝長庚。(印章)謝春星・謝長庚。
○龍山勝会・春夜桃李園図屏風(絖本、MOA美術館蔵) 製作年次不明。三果堂での作。(落款)謝長庚、東成謝長庚。(印章)溌墨生痕・謝長庚印・謝長庚・謝春星。
                (『人物叢書 与謝蕪村(田中善信著・吉川弘文館)』)

 そもそも、宝暦七年(一七五七)、蕪村が四十二歳の時に、丹後宮津から京に再帰する以前の前半生というのは、大阪・江戸・北関東・東北・京都・丹後各地を、一所不在の放浪の日々で、それは同時に、画(画人)・俳(俳人)の二道を極めんとしての修業・修練の日々でもあった。
 そして、その前半生の放浪・修練の日々は、「釈蕪村」と僧籍にある「釈」氏を名乗り、浄土宗の遊行僧として雲水行脚の日々であったとしても差し支えなかろう。
 その放浪の雲水行脚の日々に終止符を打って、還俗して俗姓の「与謝」氏を名乗り、結婚して京都での定住の生活に入ったのは、宝暦十年(一七六〇)の四十五歳の頃で、この時期を境にして、蕪村の絵の落款は「謝長庚」「謝春星」と「謝」氏となり、この「謝」は「与謝」という姓の中国風に一字のものにしたものと解して差し支えなかろう。
 上記の、蕪村の一時代を画することになる屏風講時代の大作は、いずれも、「謝長庚・謝春星」の落款を用いての、京都に定住して創作されたものということになる。そして、蕪村が、名実共に京都の画人として世に認められた証しが、冒頭に掲げた明和七年(一七六八)刊行の『平安人物史』の「画家」の部に、「大西酔月・円山応挙・伊藤若冲・池大雅・蕪村」の順で、全部で十六人中、五番目に搭載されたことが、何よりの証左ということになろう。
 ここで、蕪村と同年(正徳六・寛保元年=一七一六)に誕生した若冲との関連を、「蕪村と若冲関連年表」(『生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』所収)でビックアップすると次のとおりである。

宝暦七年(一七五七)四二歳 (若冲)高遊外、「売茶翁像」(作品一五二)に賛する。(蕪村)九月、鷺十の閑雲山真照寺にて「天橋立図」(作品二七)を描く。丹後与謝から京に戻る。帰洛後、氏を与謝と改める。
宝暦八年(一七五八)四三歳 (若冲)「動植綵絵」(宮内庁三の丸尚蔵館)の制作をはじめる(前年からか)。春、「梅花小禽図」(動植綵絵)。
宝暦十年(一七六〇)四五歳 (若冲)梅荘顕常や池大雅らと京郊外の梅を見る(翌年か)。八月、「花鳥蔬菜図押絵貼屏風」(作品一五一)。十一月、「四季花鳥押絵貼屏風」(作品六四)。十二月冬至、「動植綵絵」を見た高遊外から「丹青活手妙通神」の一行書を与えられる。
「髑髏図」(作品七四)に高遊外の賛。(蕪村)六月、「維摩・龍・虎図」(作品五〇)。十二月、「倣王叔明山水図屏風」(作品一四二)。冬、「双馬図」(作品一二六)。この頃、結婚するか。 
宝暦十三年(一七六三)四八歳 (若冲)『売茶翁偈語』に高遊外の肖像を描く。(蕪村)この頃、屏風講をはじめ、屏風を多数制作。
明和二年(一七六五)五〇歳 (若冲)九月十九日、末弟宗寂没(享年不明)。九月二十九日、「釈迦三尊像」三幅(宮内庁三の丸尚蔵館)、「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進。十一月十一日、宝蔵寺に宗寂の墓建立。十二月二十八日、相国寺と死後永代供養の契約を結ぶ。
明和五年(一七六八)五三歳 (若冲)五月、『玄圃遙華』(作品七九)。十一月一日、東本願寺光遍上人、「動植綵絵」の一覧を相国寺に願い、貸与を許可される。三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「高倉錦小路上ル町」。『素絢帖』(作品七八)跋。
(蕪村)三月、『平安人物史』(作品一)の画家の部に載る。住所は「四条烏丸東ヘ入町」。
四月、讃岐を去り、帰京する。五月六日、三果社中句会を再開する。

 上記の「関連年表」で、まずもって注目したいことは、宝暦七年(一七五七)に蕪村が京都に再帰した、その年に、若冲の畢生の傑作シリーズの「動植綵絵」の製作がスタートを切ったということである。この若冲の「動植綵絵」(三十幅)と「釈迦三尊図(三幅対)との全貌は別記の通りである。

 そして、この「動植綵絵」は、明和二年(一七六五)九月に、妻子のいない若冲の跡取りとして期待をかけていた末弟宗寂が亡くなったのを機に、いまだ未完成のままに、「釈迦三尊」(三幅)と「動植綵絵」(二十四幅)を臨済宗相国寺派大本山相国寺に寄進し、生家の伊藤家の菩提寺宝蔵寺(浄土宗)の宗寂の墓を建立している(父母の墓も若冲が建立している)。
 何故、生家の菩提寺宝蔵寺ではなく相国寺に寄進したのかは、若冲より三歳年下の、生涯にわたって精神的支柱と仰いでいた、後の、相国寺百十三世住持となる大典顕常和尚(梅荘顕常)と、その相国寺の塔頭の林光院を住居としていた売茶翁(漢詩人・高遊外、臨済・曹洞の二禅を極め、さらに律学をも修した当代一流の黄檗僧・月海元昭、その僧籍を捨てて、「通仙亭」で煎茶を売る「売茶翁」の名で知られている)との二人の縁に因るものなのであろう。
 この若冲の精神的二大支柱の梅荘顕常と高遊外の二人が、宝暦十年(一七六〇)に、若冲のアトリエ(「独楽窩」でなく「心遠館」か)を訪れて、「将ニ花鳥三十幅ヲ作リ、以テ世ニ遺サントス。而シテ十有五幅既ニ成レリ」((大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」))と、その時に完成していた十五幅を見たとの記事を残している。
 それだけではなく、この時に梅荘顕常に同行していた高遊外は、「宝暦庚辰(十年)冬極月/丹青活手妙通神/八十六翁高遊外書付/若冲隠士」という一行書(書A)を認め、若冲に与えたのである。
この高遊外が「八十六翁」の八十六歳とすると、若冲、四十五歳、梅荘顕常、四十二歳の時となる。即ち、高遊外と若冲・梅荘顕常とは、四十歳以上の歳の開きがあったということになる。
若冲は、この一行書の「丹青活手妙通神(丹青活手の妙神に通ず)」の七文字を二行にわかって印刻し、生涯にわたってそれを使用し続けた。「動植綵絵」においても、別記の「17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)」「22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)」「23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)に、その印影を見ることが出来る。
 さらに続けると、梅荘顕常の「藤景和画記」には、この「而シテ十有五幅既ニ成レリ」の、その十五幅について、漢字四字の題名をつけて、それぞれに、その図様の解説を漢文で記している。それと、現存する「動植綵絵」(三十幅)を照合すると、別記の「1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)」から「12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)」の十二幅は一致し、三幅(「秋扇涼影」「寒華凝凍」「群囲攻昧」)は該当するものがなく、その三幅は「墨画」と明記されている。
 すなわち、若冲の当初のプランでは、着色画(カラー)十五幅と水墨画(モノクロ)十五幅とを対にするものであったが、製作途中で、全てを着色画として、明確に「動植綵絵」の全体にかかわる題名を付して、宝暦十三年(一七六三)に、その二十四幅と「釈迦三尊像」(三幅対)を相国寺に寄進したということになる(『若冲 広がり続ける宇宙(狩野博幸著・角川文庫)』)。
 そして、明和七年(一七七〇)十月、父親の三十三回忌の折りに、自分と父母の戒名と、「動植綵絵」(六幅)を追加し三十幅として、その寄進を完了させ、併せて、永代供養の宿願を刻した位牌を相国寺に寄進したというのが、現存する「釈迦三尊像」「動植綵絵」との顛末ということになる。
 ここで、この「釈迦三尊像」「動植綵絵」の三十三幅は、観音菩薩が「三十三応身」として衆生を救うという教えが意識されているということと、これらの「動植綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという「草木国土悉皆成仏」の思想を具現化しているという指摘(『生誕三百年記念 若冲百図(小林忠監修)』所収「伊藤若冲の生涯(小林忠稿)」)は、誰しもが実感するものであろう。
 この「動植綵絵」の「綵絵」という語は、単なる彩色を施した絵という意味ではなく、「
仏教的なニュアンスを持っていた(元の仏画で発願者がそれらを綵絵させたと記す用例がある)」という指摘もある(『もっと知りたい伊藤若冲 生涯と作品(佐藤康宏著)』)。
 と同時に、これらの「「釈迦三尊像」「動植綵絵」にかかわる一部始終を見て行くと、若冲の作画の意図というのは、この「動植綵絵」(三十幅)の途次(二十四幅)で寄進した、明和二年(一七六五)九月晦日付け相国寺宛て寄進状(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)の、次の大意(原文は漢文)に、全て網羅されていることを実感する。

「私は常日ごろ丹青に心を尽し、草木や羽根の形状をことごとく描こうとして、あまねく題材を集め、以て一家をなしました。また嘗て張思恭(ちょうしきょう)画くところの釈迦文殊普賢像が巧妙無比なのを見て、何とか摹倣(もほう)したいと思い立ち、遂に三尊三幅を写し、動植綵絵二四幅を作りました。もとより、世俗的な動機でこれをなしたのではありませんので、相国寺へ喜捨いたし、寺の荘厳具(しょうごんぐ)として永久に伝わることになればと存じます。ちなみに私自身も百年の形骸を終(つい)に斯の地に埋めたいと心から念願しますので、そのための手筈として、いささかの費用(祠堂金)を謹んで投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともに御納めいただけることを伏して望みます。」
 (『若冲(辻惟雄著・講談社学術文庫)』) 

 図9-3.png 
(印章A 蕪村愛用の遊印「潑墨生痕」)

若冲一行書.jpg
 (書A「一行書 丹青活手妙通神
  売茶翁作 )

 さて、若冲と蕪村とが、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に、当時勃興しつつあった、新しい写生画的「花鳥画」の旗手として、応挙と若冲、そして、日本の文人画の旗手として、大雅と蕪村とが、当時の京都画壇のビックファイブとして、登載されるに至ったと解して差し支えなかろう。
 そして、当時の若冲の代表的な作品としては、煎茶中興の祖として仰がれている売茶翁(漢詩人・高遊外、法名・月海)をして、「丹青活手妙通神」とまで激賞された、釈迦三尊図(三幅対)と「動植綵絵」(三十幅のうちの二十四幅)、そして、蕪村の代表的な作品としては、
宝暦十年(一七六〇)、還俗して与謝姓を名乗った頃から晩年に至るまで、蕪村が好んで愛用した印章(遊印)の「潑墨生痕(はつぼくせいこん)」が捺されている、屏風講時代ですれば、先に掲げた「山水図屏風」(絖本、出光美術館蔵)、「山水図屏風」(絖本、文化庁蔵)、「柳塘晩霽図屏風」(絖本、フーリア美術館蔵)などが挙げられよう。
 この「柳塘晩霽図」には、「陳霞狂(ちんかきょう)ニ倣フ」の款記があり、その「陳霞狂
(汝文)の「古木短篷(こぼくたんぽう)」と題(落款)する画中に、「潑墨生痕」(白文方印)が捺されており、蕪村はこれに倣ったのではなかろうかと推測されている(『特別展没後二百年記念 与謝蕪村 名作展(大和文華館編)』所収「蕪村画の魅力(早川聞多稿)」)。
 続けて、この「潑墨生痕」の意味について、「『潑墨』とは一般に墨をそそぐやうにして描く水墨画の描法をさすが、ここではその描法から見て、描く勢ひを象徴するものと私には思はれる。そして『生痕』とは生きた跡、生の証(あかし)といふことであらう。つまり「自らの筆勢の裡に生きてゐる証を描きたい」といふ願ひが、この遊印には籠められててゐると、私は想像するのである」(早川聞多・前掲書)としている。
 ここで、この蕪村の「潑墨生痕」(印章A)に、先の、若冲の「寄進状」や、売茶翁が若冲に呈した一行書(書A)を重ね合わせると、明和五年(一七六八)刊行の『平安人物史』の画家の部に登載された、若冲と蕪村との二人が見事にクローズアップされて来る。

(別記)
動植綵絵(三十幅)宮内庁三の丸尚蔵館蔵
1・芍薬群蝶図(しゃくやくぐんちょうず)
宝暦七年(一七五七)頃の作(絹本着色)。画面左上に「平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室」、署名下に「汝鈞」(白文方印)」・「藤氏景和」(朱文方印)。画面右上に「出新意於法度之中」(朱文長方印)。題名「艶霞香風」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
2・梅花小禽図(ばいかしょうきんず)
宝暦八年(一七五八)作(絹本着色)。画面右上に「宝暦戌寅春居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。題名「碧波粉英」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
3・雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲春若冲居士製」、下に「藤女鈞字景和」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「寒渚聚奇」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
4・秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯仲秋若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「野田楽生」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
5・向日葵雄鶏図(ひまわりゆうけいず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左下に「宝暦己卯仲秋若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「初陽映発」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
6・紫陽花双鶏図(あじさいそうけいず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左中央に「宝暦己卯秋平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「堆雲畳霞」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
7・大鶏雌雄図(たいけいしゆうず)
宝暦九年(一七五九)作(絹本着色)。画面左上に「宝暦己卯年平安錦街居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「聯歩祝々」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
8・梅花皓月図(ばいかこうげつず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「羅雲寒色」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
9・老松孔雀図(ろうしょうくじゃくず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「居士若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「芳時媚景」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
10・芙蓉双鶏図(ふようそうけいず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右下に「心遠館若冲居士造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「芳園翔歩」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
11・老松白鶏図(ろうしょうはっけいず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面右に「若冲居士製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。題名「晴旭三唱」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
12・老松鸚鵡図(ろうしょうおうむず)
宝暦十年(一七六〇)作(絹本着色)。画面左に「心遠館主人若冲写」、画面左に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。題名「隴客来集」(大典和尚詩文「藤景和画記(『小雲楼稿』所収)」)。
13・芦鵞図(ろがず)
宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。署名はなく、画面右に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
14・南天雄鶏図(なんてんゆうけいず )
明和二年(一七六五)作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。
15・梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青不知老将至」。
16・棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
17・蓮池遊魚図(れんちゆうぎょず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左に「斗米
葊主若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。右上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。
18・桃花小禽図(とうかしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「若冲居士」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
19・雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左下に「錦街若冲製」、下に「汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
20・群鶏図  (ぐんけいず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
21・薔薇小禽図(ばらしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面左上に「心遠館若冲画」、下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文方印)。
22・牡丹小禽図(ぼたんしょうきんず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年頃(一七六五)の作(絹本着色)。画面右下に「若冲」、下に「汝鈞」(白文方印)。右中央に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。
23・池辺群虫図(ちへんぐんちゅうず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。画面右下に「斗米
葊若冲」、下に「藤汝鈞」(白文方印)若冲居士」(朱文円印)。左上に「丹青活手妙通神」(朱文長方印)。
24・貝甲図(ばいこうず)
宝暦十一年(一七六一)~明和二年(一七六五)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「汝鈞」(白文円印)・「若冲居士」(朱文円印)。
25・老松白鳳図(ろうしょうはくほうず)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
26・芦雁図  (ろがんず)
宝暦十一年(一七六一)作(絹本着色)。画面右下に「宝暦辛巳春居士若冲造」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤氏景和」(朱文方印)。
27・群魚図・蛸(ぐんぎょず・たこ)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右中央に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
28・群魚図・鯛(ぐんぎょず・たい)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
29・菊花流水図(きっかりゅうすいず )
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面左上に「藤汝鈞」(白文方印)・「若冲居士」(朱文円印)。
30・紅葉小禽図(こうようしょうきんず)
明和二年(一七七五)~明和三年(一七六六)頃の作(絹本着色)。署名はなく、画面右下に「藤汝鈞印」(白文方印)・「若冲居士」(白文方印)。
釈迦三尊図(三幅対)京都・相国寺蔵
31・釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。
32・普賢菩薩像(ふげんぼさつぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面右下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。
33・文殊菩薩像(もんじゅぼさつぞう)
明和二年(一七七五)以前の作(絹本着色)。画面左下に「平安藤汝鈞亝宿拝写」、下に「汝鈞」(白文方印)・「藤景和印」(朱文方印)。
(『若冲百図 生誕三百年記念(小林忠監修・別冊太陽)』・『若冲 名宝プライスコレクションと花鳥風月(狩野博幸監修・別冊宝島)』)

蕪村の花押(その四) [0 蕪村]

蕪村の花押(その四)

蕪村 天橋立図.png
(絵図H=蕪村筆「天橋立図」)

 『若冲と蕪村展図録』のの「天橋立図」の「作品解説(27)」は、次のとおりである。

[ 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 宝暦七年(一七五七) 八五・八×二七・八

画面上部に記された長文の賛によって、蕪村が宝暦四年(一七五四)に訪れ滞在していた丹後を、宝暦七年(一七五七)九月にいよいよ離れるにあたり、宮津の閑雲山真照寺で制作したことが判明する。真照寺には丹後滞在中に蕪村と親しく交流していた鷺十(一七一五~九〇)がおり、俳友でもあった彼のために揮毫されたのであろう。絵は、砂洲の上に松林が並ぶ簡略なもので、幅の広い刷毛を用いて一気に描かれた淡墨の砂洲の上に、淡墨で松林の幹を並べ、淡墨でリズミカルに松の葉叢を描いている。あたかも天橋立の一部を切り取って拡大したかのような風情である。
 上記の賛では、文人画家として俳諧師としても蕪村の先達であり、丹後にも滞在したことのある彭城百川と自らを対比させている。とくに百川の画風を「明風を慕ふ」と評するのに対し、自らの画風を「漢流に擬す」と位置づけている点が注目されよう。

  八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮ニに出て蓮ニによらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧(けり)。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、
はしだてを先にふらせて行秋ぞ
 わが今留別の句に、
せきれいの尾やはしだてをあと荷物
 かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中 印章「馬孛(バハイ)」(白文方印)、「四明山人」(白文方印)]

 長文の賛の簡単な訳と語注を付して置きたい。

(訳)八僊観こと彭城百川は彩色画を好んで、明代の中国画を模範としている。嚢道人こと与謝蕪村は、特定の流派にこだわらず広く絵画を愛して中国画全般から学んでいる。また、共に俳諧を嗜み、芭蕉門に連なるが、百川は支考門から出て美濃派に止まっていない。
同様に、私こと蕪村も其角門であるが其角に全面的に加担はしていない。だから、二人ともさらに前向きに向上工夫を重ねること旨とし、その結末がどうなろうとかの頓着はしていない。また、その俳諧の世界で名を上げようとも思ってはいないことも、二人は全く同じ趣なのである。
 ということで、百川がだいぶ前のことだが、この丹後の地に遊歴して帰京する時に、次の一句を残している。
 はしだてを先にふられて行秋ぞ(海中に長く突き出ている天の橋立を先触れとして、秋闌ける丹後を後にして京に帰っていくことよ)
 この百川の句を踏まえて私の留別の句は次のとおりである。
 せきれいの尾やはしだてをあと荷物(天の橋立名物の鶺鴒が長い尾を振って別れを惜しんでいる。この地を今去るに当たって、振り分けた荷物のように天の橋立の鶺鴒を名残り惜しみつつ、京に帰って行くことよ)
 これらの句のように、百川は、天の橋立を先駆けとして、その六里の松に肩を並べ馬で
京の西へと向かうが、蕪村は、その天の橋立を後にしながら、京の東へと向かう。共に、
これからの中国画、即ち、文人画の先頭に立ちたく、さながら、百川と蕪村との華やかな
の道行き道中ということではなかろうか。
 丁丑(宝暦七年)九月 嚢道人蕪村書ス於閑雲洞中
  
(語注) ○「蓮二」は支考、「晋子」は其角の別号。
○「丹青」は赤と青で彩色画。「画図」は図柄。
○「漢流」は和画に対しての中国画。
○「竿頭に一歩」は禅語でさらに向上工夫して前進すること。
○「まゝの川」は儘の川で自然の流れ。
○「留別」は旅立つ人が残る人に告げる別れ。
○「前駈」は前に駈けること。
○「殿騎」は殿(しんがり)を駆けること。
○「此道の酋長」は未開地扱いの文人画の首領の意。

 この長文の賛は、蕪村が百川について記した文献的にも貴重なもので、蕪村が深く百川に傾倒していたことが如実に示されている。また、この落款の年月日から、蕪村が丹後を去ったのが、宝暦七年(一七五二)、四十二歳の時であったことが明らかとなって来る。
 蕪村が、江戸から京都に上洛したのは宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは翌年の宝暦二年(一七五二)八月十五日のことで、両者の出会いがあったのかどうかは、その一年間という短い期間に於いてである。
 そして、その百川が亡くなると、嘗て百川が遊歴した丹後の宮津へと赴くのが、宝暦四年(一七五四)のことで、蕪村の丹後時代というのは、足掛け四年ということになる。
 ここで、この賛文中の、百川が「平安の西にふりこみ」は、百川が、京の「賀茂川以西に住んでいた晩年の八僊観の住居」を指し、蕪村の「洛城の東」は、京の「東山の僧房住まいであったと覚しい」住居を指し、蕪村は百川の住所を知っていて、生前の百川と蕪村とは面識があったという見解がある(『蕪村の遠近法(清水孝之著)所収「百川から蕪村へ」)。
 確かに、蕪村が関東での十五年余に及ぶ歴行の生活に終止符を打って上洛した大きな理由の一つに、蕪村が理想としていた画と俳との二道に於いて、その頂点に位置しているとも思われる百川への思慕があったことは厳然たる事実であろう。
 そして、蕪村の親しき交遊関係にある、亡き師の夜半亭宋阿(早野巴人)に連なる、京都俳壇の一角を担っている、宋屋・几圭等との関係に於いて、さらに、百川(前号=松角・昇角)と支考門を同じくする渡辺雲裡坊(前号=杉夫、蕪村が上洛する前年に義仲寺に無名庵の五世となり、芭蕉の幻住庵を再興している)との関係からして、蕪村と百川との出会いというのは、それが、直接的な裏付けるものがないとしても、それを否定的に解する見解よりも、上記の「生前に百川と蕪村との面識があった」という見解(清水・前掲書)を是といたしたい。
 しかし、この賛における「平安の西」そて「洛城の東」というのは、単に、平安・洛城(京都)の「西と東」とを意味するのではなく、この百川の「平安の西にふりこみ」というのは、「「平安(京都)に『西せり』(「西方浄土」に赴く)」の意と、そして、この蕪村の「洛城の東にかへる」の「洛城」は、蕪村が私淑して止まない唐詩人の李白「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、次の七言絶句が背景にあると解したい。

 誰家玉笛暗飛声 (誰ガ家ノ玉笛ゾ 暗ニ声ヲ飛バス)
 散入春風満洛城 (散ジテ春風ニ入リテ 洛城ニ満ツ)
 此夜曲中聞折柳 (此ノ夜曲中 折柳ヲ聞ク)
 何人不起故園情 (何人カ 故園ノ情ヲ起コサザラン)

 この四句目の「折柳」とは、別離の曲であり、この五句目の「故園」とは生まれ故郷を指す。この一句目の「誰家」は、落款にある「於閑雲洞中」を指し、そして、その二句目の「洛城」は、李白の詩では「洛陽の街」を指すが、ここでは「京都の街」を指すのであろう。そして、その背後には、五句目の「故園」(生まれ故郷)を利かしているように解したい。
 その上で、この「天橋立」の落款の下に押印されている印章(款印)、「馬孛(バハイ」(白文方印)、「四明山人(シメイサンジン)」(白文方印)に注目したい。この「四明山人」の「四明」は、「四明朝滄」とか、しばしば用いられるもので、比叡山の二峰の一つ四明岳に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その「比叡山(四明山)」ということになろう。
 とすると、「馬孛(バハイ)」の「馬」は、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」に由来するものなのではなかろうか。事実、先に紹介した、宝暦八年(一七五八)の几圭薙髪記念集『はなしあいて』に、挿絵一葉、発句二句、三吟百韻(鈳丈・几圭・蕪村)が収録されている頃(その前年)、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来がある(『田中・前掲書』)。
なお、この「馬孛(バハイ)」の款印を「馬秊(バネン)」としているものがあるが(『田中・前掲書』)、下記の「印譜2」(『特別展没後二百年記念与謝蕪村名作展(大和文華館編集)などからして、「馬孛(バハイ)」と解すべきであろう。
 そして、この「馬孛(バハイ)」の「孛」は、「孛星(ハイセイ)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。
 とすると、「馬孛(バハイ)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。しかし、この号(款印)は、この「天橋立図」以外に、その例を見ない。
 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(チョウコウ・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。
 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、春の「長庚(金星)」を含め、春の「孛星(ほうき星)」「子漢(蕪村の号=子の刻の天漢・長漢・銀漢=天の川)等の、季題の「星月夜」の「秋星(シュンセイ)=秋の星」ならず「春星(シュンセイ)=春の星」のもじりとも解せられる。
 と同時に、この「春星」は、上記の李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城に笛を聞く)」の「春夜」に輝いている「星」(太白星=長庚=金星)と響き合っているようにも思えるのである。
というのは、この七言絶句(四行詩)の作者・李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、その字名(通称)は「太白=金星」で、蕪村の号(款印名)の「長庚=金星」と同じなのである。そして、その「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。

 ここで、「謝長庚」「謝春星」、その「長庚・春星」に次いで、安永七年(一七七八)、蕪村、六十三歳の最晩年に近い頃から用いられる「謝寅」の「謝」は、「与謝」という姓の一字を省略したものとみて間違いあるまい(『田中・前掲書)。
 すなわち、上掲の「天橋立」を創作して丹後を後にした宝暦七年(一七五七)、その翌年(宝暦八年=一七五八、几圭薙髪賀集『はなしあいて』を刊行)の、その翌々年(宝暦十年=一七三〇、雲裡坊に筑紫行きを誘われるが、同行せず、この頃結婚し還俗したと思われる)の頃までに、蕪村は、出家していた「釈蕪村」から、以後の姓名となる「与謝蕪村」を称したということになろう。
その上で、この「与謝」の一字の姓の中国風の「謝」は、中国の文人(詩人・画人等)に多く見られる「謝」の姓だが、これまた、蕪村の脳裏には、李白の、「秋登宣城謝脁北楼(秋宣城ノ謝脁北楼ニ登ル)」や「宣州謝脁楼餞別校書叔雲(宣州ノ謝脁楼ニテ校書叔雲ニ餞別ス)」の詩に出て来る六朝時代の山水詩人として名高い「謝脁(元暉))や謝脁と共に「三謝」と称せられている「謝霊雲・謝恵連」などが当然にあったことであろう。
 続けて、蕪村の最晩年の傑作絵画中に必ず見られる落款の署名、「謝寅」の「寅」は、明時代の画家「唐寅(号=伯虎)」に由来していることは定説となっている(『田中・前掲書』)。  
この唐寅は「江南第一風流子」と署した人物で、書画文章は何れも当時高名であったという(『仁枝・前掲書』)。
 ここで、上掲李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」中の「春風」(二句中)、「折柳」(三句中)、「故園」(四句中)と、この唐寅の「江南第一風流子」の「江南」の語句は、これまた、関東遊歴・丹後時代に用いられた比叡山の別称の「四明」が、蕪村の俳詩「春風馬堤曲」と関係していると解せられるように、これらの李白・唐寅の語句は、その「春風馬堤曲」(十八首)を読み解く重要なキーワードでもある。

○ 春風や堤長うして家遠し     (二首目の「春風」)
○ 店中二客有リ。能ク解ス江南ノ語 (七首目の「江南」)
○ 揚柳長堤漸くくだれり      (十六首目の「揚柳」=楽府の「折揚柳」=「折柳」)
○ 矯首はじめて見る故園の家    (十七首目の「故園」) 

この発句体(六句、『夜半楽』の表記の「十八首」の表記では六首)、擬漢詩体(四首)そして漢文訓読調の自由詩(八首)の、日本文学史上他に例を見ない独特のスタイルの「春風馬堤曲」に関して、蕪村自身が「馬堤は毛馬塘なり。即ち余が故園なり」と記し、この作品(「春風馬堤曲」)は「愚老、懐旧のやるかたなきよりうめき出でたる実情」と認めている書簡が今に残されている(安永六年=一七七六、柳女・賀瑞宛書簡)。
 蕪村が自分の故郷を明記したのは、この書簡のみであり、望郷の思いを表出したのも、この時だけである。しかし、その萌芽の一端は、蕪村が丹後を後にして再帰洛する宝暦七年(一七五七)の、上掲の「天橋立図」の長文の賛の背景となっていると思量される、李白の「春夜洛城聞笛(春夜洛城ニ笛ヲ聞ク)」の、「何人不起故園情(何人カ故園ノ情ヲ起コサザラン)」の中に、明瞭にその痕跡を残しているように思えるのである。
 ここで、下記印譜中、「四明・馬孛・長庚・春星・謝」については触れたので、触れていないものについて若干の付記をして置きたい。
 「朝滄」については、先に、「蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものであろう」と記したが、別に、「漢滄溟」という号も使用しており、『唐詩選』の著者の李
于鱗の『滄溟集』などの関連もあるのかも知れない(『仁枝・前掲書』)。
 「囊道(人)」についても、先に間接的に触れているが、「囊=袋」の意であることは、字義的に間違いなかろう。「道・道人」は、「儒教・道教・神仙を修めた人」というよりも、「俗事を捨てた人」のような用例なのかも知れない(『仁枝・前掲書)。しかし、「仏道の修業する人」の意もあり、当時、蕪村は「嚢道人釈蕪村」と俗性を捨てて「釈」姓を名乗っていたことに関連するものなのかも知れない。とすると、この「嚢」は「頭陀袋」の意なのかも知れない(『与謝蕪村集(清水孝之校注)』)。
 そして、『春泥句集(維駒編)』の「序」(安永六年=一七七六)の、「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」の「一嚢」などと深く関わるものなのかも知れない。

(蕪村印譜)

蕪村印譜.jpg

一段目  左  1 四明山人
   中  2  馬孛 
右 3 朝滄
二段目  左 4 朝滄
   中 5 朝滄
右 6 嚢道
三段目  左 7 趙   
  中 8  東成 
  右 9  謝長庚印 
四段目 左 10 春星
  中 11  春星氏 
  右 12  謝長庚

 「趙」は、宝暦七年(一七五七)に京都に戻り、その翌年の「戌寅(宝暦八年)秋、平安城南朱瓜楼中ニ於イテ写ス 馬塘趙居」の落款のある「山水図」(東京国立博物館蔵)などから見られるものである。この時期から、「馬塘」の他に「淀南」(淀川南)、「河南」(淀南と同意)と蕪村の生まれ故郷(淀川河口の毛馬)と関係ある文字が用いられる。「趙居」とは、「趙李」(実を結ばないの意)の「居」で、「蕪村の居常借家住まい」に由来するとか、山水画を善くした南宋から元の時代の書画詩文で名高い「趙孟頫」に因っているとかとされている(『仁枝・前掲書』)。
 この「趙孟頫」は、「秋耕飲馬図」「浴馬図」「調良図」など、馬を描いた屈指の画家としても知られているが、蕪村もまた「近世南画家にあって彼程多くの馬を描いてゐる画家は他に例を見ない」(『蕪村の芸術(清水孝之著)』)ほどの馬の傑作画を残している。しかし、その馬の絵でも、蕪村は「馬ハ南蘋ニ擬シ人ハ自家ヲ用ユ」(牧馬図))など、清時代の画家で長崎に滞在したこともある、円山応挙や伊藤若冲などに多大な影響を及ぼした「沈南蘋」の、いわゆる、長崎派の写実画の影響を匂わせている。
 しかし、中国の宮廷画家の院体画に対して、士大夫層出身の儒教の学問と文学の教養を備えた文人(知識人)の、「詩・書・画」が一体としての「文人画」を復興した中心人物の「趙孟頫」の蕪村に与えた影響は、専門画家としての「沈南蘋」の影響よりも、より全般的且つ深いものがあったことであろう。
 この「趙孟頫」の別号は「甲寅人」で、蕪村の晩年の号「謝寅」は、先にふれた「唐寅」だけではなく、この「趙孟頫」の「甲寅人」の「寅」なども含まれているような雰囲気でなくもない。
 「東成」は、蕪村の生まれ故郷の「淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」の「東成」の意と、晩年の「謝寅」時代に見られる「日本東成謝寅」「日東東成謝寅」の落款からして、「西(中国)」に対する「東(日本)」の意をも包含してのものなのであろう。

 その他に、上記の款印の以外の蕪村の、未だ触れていない号(号・印)などについて簡単に触れて置きたい。

「蕪村」は、陶淵明の「帰去来兮辞」の「田園將ニ蕪レナントス/胡ゾ帰ら去ル」に基づくものであろう。
「宰町」は、蕪村の師の夜半亭宋阿(早野巴人)が江戸に戻って、日本橋本石町に夜半亭と庵を号した、その「町を主宰する」の意で、その巴人の「夜半亭」は、時の鐘を衝く鐘楼があり、張継の「楓橋夜泊」の「夜半ノ鐘声客船ニ到ル」に由来している。

「宰鳥」は、「宰町」の次の号だが、この「鳥」は、若き日の李白が、峨眉山に棲む隠者(巴人の見立て)の下で鳥を飼育しながら修業し、その鳥が李白になついだとの逸話などに関係するものか、また、巴人が没した時、「遺稿を探りて一羽烏といふ文作らん」とした「烏」(其角の「それよりして夜明け烏や不如帰」の「烏」に通ずる)などに関係するものなのかも知れない。そして、これらの号が、師の巴人が命名したものであるならば、この「宰(町)・宰(鳥)」の「宰(主宰する)」から、若き蕪村に期待するものが大きかったような印象を深くする。

「三果軒(三果園・三果居士)」は、その前身の「朱瓜楼又は朱果楼」からして、蕪村の画室の庵号なのであろう。後に、蕪村を中心として俳諧愛好家のグループが出来て、蕪村夜半亭俳諧を継承後の中心メンバーになっていく。「朱瓜」は烏瓜(唐朱瓜)の別なであるが、やはり、其角・巴人に連なる「三果樹」などに由来するものなのであろうか。
「紫狐庵」の「紫狐」は、野狐のこと(『仁枝・前掲書』)。やはり、俗世間より遁れての隠者的姿勢に由来するものであろう。

 さて、冒頭の「天橋立図」((絵図H)に戻って、この蕪村の百川と自らを対比させている、この長文の賛のある貴重な作品は、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と構図的に類似志向にあるように思われる。

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(絵図I=百川筆「石橋白鷺図)

(絵図H=蕪村「天橋立図」、紙本墨画、八五・八×二七・八)に対し、(絵図I=百川「石橋白鷺図、紙本墨画、一〇四・五×二八・四)と、百川の「石橋白鷺図」の方が、縦の長さが大きいが、同一趣向の作品である。蕪村の作品は、丹後の天橋立での作で、その松原が下段に、実に簡略に描かれている。そして、百川の作品は、能登の島山(越中万葉の故地)での作で、その石橋が下段に、上記の蕪村が見本にしたように簡略に描かれている。
 この百川の石橋の下に書かれている賛・款印などは次のとおりである。

「 一とせ能登の島山に雪を/詠んと松間の橋に船を繋ぐ/雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり/しら鷺のまよひ子もあり雪のくれ 八僊法橋/八僊逸人(白文方印)/「字余日百川(朱文方印)/得意一千画(関防印・朱文長方印) 」

 この「得意一千画」は、遊印(好みの文句を印文したもの)だが、賛の冒頭の右側に押印する「関防印」(引首印)に当り、落款の後など押印する「遊印」(押脚印・圧角印)と区別される場合がある。
 この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)で注目される点は、この賛にある「雪片大さ鷺のごとしいへる/王世貞が詩膓を得たり」の、明の文人(明代の作詩用の辞書『円機活法』の校正者として知られる)王世貞の「雪片は鷺のごとく大きい」の詩句(文)の一節で、画面の三分の二近い上部のスペースを使い、それを象徴する「白鷺」(画)を描き、「文を画に反転」している点である。
 そして、蕪村の「天橋立図」(絵図H)は、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)の「文(明の王世貞の詩句)を画(能登の白鷺)に反転」しているのを、さらに、「百川の画(能登の白鷺)を文(蕪村の丹後・天橋立への留別吟と百川との交遊関係)に反転」させているのである。
 すなわち、百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、蕪村の師筋に当たる其角の「句兄弟」との視点で見るならば、「画兄弟」ということになる。
ここで特記して置きたいことは、百川の賛に出てくる王世貞は、蕪村が常時活用していたとされている詩作等の辞書『円機活法』の校訂者として知られ、この百川の「石橋白鷺図」(絵図I)と蕪村の「天橋立図」(絵図H)とは、この王世貞を介在しても、両者の間には深い絆で結ばれていることが察知されるということである。

 すなわち、蕪村の「天橋立図」の長文の賛の、「俳諧に名あらむことをもとめざる」とは、単に、「画道が主で、俳諧で名を立てようとは思っていない」というだけではなく、「こと俳諧においても、狭い俳人意識よりも、広く、中国の漢詩に通ずる文人意識を優先している」という、百川と蕪村との共通意識を強調しているように思われる。

 なお、この蕪村「天橋立図」(絵図H)には、「馬孛(バハイ)」(白文方印)と「四明山人」(白文方印)の款印が押印されていて、花押はないが、当時蕪村は、「嚢道人釈蕪村」と出家しての僧体で、俗姓を捨てていたことと関連し、蕪村の特異な、槌を図案化したような花押は、「嚢道人」の「嚢」(頭陀袋の「嚢」と詩嚢・画嚢)の「嚢」)の図案化のようにも思える。

蕪村の花押(その三) [0 蕪村]

蕪村の花押(その三)

蕪村静御前.jpg
       (絵図G=蕪村筆「静御前図自画賛」)

 2015年3月18日~5月10日までサントリー美術館で開催された「生誕三百年同い年の天才絵師 若冲と蕪村」(以下『若冲と蕪村展図録』)で出品されたものの一つである。その「作品解説(21)」は次のとおりである。

「 与謝蕪村筆 紙本墨画 一幅 江戸時代 十八世紀 三二・一×四一・一
 立烏帽子を被って、からだの前にもつ女性を簡単な筆づかいで描く。この女性は、兄頼朝と対立した源義経とともに雪の舞う吉野を旅した静御前の旅姿でる。画面上の空白に三行にわたって大きな字で「雪の日やしづかといへる白拍子」と書かれている。静御前を暗示する「しづか」を発句のなかに詠むことで、この女性が静御前であることを暗示しているところは、蕪村の俳画としては説明的である。しかし、「白拍子」と体言止めにすることで、この後義経と別れたあと捕えられ、頼朝の前で踊ることになる静の運命を暗示させる点は、晩年の俳画の名品に通底している。画面左に花押があり、印章は押されていない。丹後地方の旧家に伝わっており、確認できる蕪村の俳画ではもっとも早い肉筆の作品。 」

 蕪村の丹後滞在は、宝暦四年(一七五四)の三十九歳から宝暦七年(一七五七)の四十一歳の、凡そ三年間ということになる。この丹後時代は、蕪村は多くの絵を残しているが、特に注目すべきは屏風絵で、六曲一双・六曲半双などの大作が十点以上も今に遺っている。
このうち、和画系統のものは、「静舞図」(六曲半双、落款「洛東閑人朝滄子描)、「田楽茶屋図」(六曲半双、落款「囊道人蕪村」)などで、漢画系統のものが圧倒的に多い。
 この「静舞図」は、画面の右に、静と侍者、左に、鼓を打つ工藤祐経、笛を吹く僧形の男、大拍子を扇子で打つ畠山重忠の、五人の人物が向かい合う構図である。小川破笠など大和絵に接近した江戸狩野派の影響を色濃く宿しているという(『蕪村 その二つ旅図録(朝日新聞社)』)。この静の緋袴など、関東歴行時代(結城時代)に下館で描いた「追羽根図」(杉戸絵四面、無落款)と同一傾向の作品であろう。
 冒頭に掲げた「静御前自画賛」(絵図G)は、立烏帽子を被っての旅姿の静御前で、同じ丹後時代の作でも、「静舞図」とは異質の世界のものである。どちらかというと、蕪村最初期(宰町時代)の、刊本の挿絵「宰町(蕪村)自画賛・鎌倉誂物」(絵図G)の女性像(目・鼻・口等)と驚くほど類似している。
 この「静御前自画賛」(絵図G)は、淡彩による丁寧の描写など、「静舞図」よりも、英一蝶の影響が指摘されている、次の「田楽茶屋図屏風」(絵図F)などと同一系統のものと思われる。

田楽茶屋図屏風A.jpg
        (絵図F=蕪村筆「田楽茶屋図屏風」)

 『若冲と蕪村展図録』の「田楽茶屋図屏風」・「作品解説(23)」は、次のとおりである。

「与謝蕪村筆 紙本墨画淡彩 六曲一双 江戸時代 十八世紀 一二八・〇×二八八・六
蕪村の丹後時代を代表する作品。茶屋の店先と、その前を往来する人々を描く。本図の人物描写については、元禄時代を中心に活躍した絵師・英一蝶(一六五二~一七二四)や大津絵からの影響が指摘されてきたが、具体的には、英一蝶筆「故事人物図巻」のうち「田楽を買い食いする奴たち」(リンデン民族博物館)のなかに、本図の田楽を焼く女、および床几に座り田楽を頬張る男と同じポーズをとる人物が認められる。「故事人物図巻」は一蝶が弟子の教育のために制作した絵手本であり、蕪村がこのような絵手本のひとつか、あるいは英派の弟子が描いた模本などを目にし、図様に取り入れたと考えられる。また、画面右端で扇を振る男については、一蝶筆「田園風俗図屏風」(フリーア美術館)に似た人物が描かれており、この一蝶の屏風を参考にした彭城百川の「田植図」(東京国立博物館)が残っている。蕪村は「天橋立図」(作品27)の賛において、自らを「嚢道人蕪村」と称し、絵画・俳諧の先達である百川について言及しており、同じ「嚢道人蕪村」の署名を記す本屏風の制作過程においても「田植図」のような百川画を意識された可能性がある。一方、本図の図様については、大岡春卜(1680~1763)『和漢名画苑』(寛延三年=一七五〇刊)の「土佐光純筆 ぎおん会」図を参照としたとする分析があり(尾形仂『蕪村の世界』岩波書店、一九九三年)、烏帽子や鎧など、仮装的な扮装の人物が見られることから、祭礼後の場面を描いたとも推測されている。樹木や人物を描く線はまだ初々しいが、淡彩による丁寧な施彩や、人々の豊かな表情など、蕪村が作品と真摯に向き合っている様子が見て取れる。なお、「蕪村」の署名は主に俳画に用いられたもので、本図に蕪村の俳画の萌芽を見る見解がある。印章は「朝滄」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)。」

 この「作品解説(23)」で注目すべきことは、蕪村のみならず百川もまた、英一蝶の影響を色濃く受けているということである。ここで紹介されている、百川の「田植図」(東京国立博物館)は、次のとおりである。

百川・田植図b.jpg
          (絵図G=百川筆「田植図(部分図)」)

 この百川の「田植図」は、蕪村に大きな影響を与えた作品のように思われる。それは、先に紹介した、高井几圭(前号=宋是)の文台開きと薙髪を兼ねて祝した記念集『はなしあいて』(宋是=几圭編集)に、蕪村は挿絵一葉(絵図A)と発句を二句寄せている。
その挿絵(絵図A)は、百川の省筆画(草画)の影響を大きく受けていることについては、先に触れた。ここで、その発句の二句について触れて置きたい。

 離(さ)別(られ)れたる身を踏(ふん)込(ごん)で田植哉    蕪村(『はなしあいて(下)』)
 とかくして一(いち)把(は)に折(おり)ぬ女郎花        ゝ (同) 

 この蕪村の発句二句の前に「夏秋」とあり、一句目夏の句、二句目は秋の句ということになろう。しかし、この二句とも、嘱目の叙景句ではなく、挨拶性と虚構性の強い人事句ということになろう。
 挨拶性と虚構性の強い人事句というのは、生涯に亘って蕪村が最も得意とした領域でもあった。挨拶性というのは、他(人・所・物等)に対する問い掛けであり、虚構性というのは、現実の体験でないものを、あたかも自分の実体験の如くに表現するということを意味する。
上記の二句ですると、一句目の「田植」の句は、当時の蕪村の最も多くの関心事であった、画・俳二道の先達者、百川とその傑作画「田植図」に寄せる蕪村の思い入れの表明である。そして、その思い入れ(挨拶性)が、「田植」(季題)・「田植え女」・「離(さ)別(られ)れたる身」(夫に離縁された身)・それをさらに「踏(ふん)込(ごん)で」という口語的な表現で具象化して、全体として一篇のドラマ(物語=虚構性の創作)として結実することになる。
 二句目の「女郎花」の句は、能楽の太鼓方几圭と能楽の演目「女郎花」に対する挨拶(問い掛け)と、几圭・蕪村の共通の俳諧の師である夜半亭宋阿(巴人)の「女郎花折や観世が駕のうち」(『夜半亭発句帖』)の延長線上のドラマ(物語=虚構性の創作)化ということになろう。
 ここでは、百川の「田植図」が、その背景となっているような一句目に注目をしたいのである。
この百川の「田植図」に触発されたような、この一句は、その「実」と「虚」との「虚構性」の彼方に、蕪村の「実」たる原風景の一端(丹後の生まれとの口碑のある薄幸な亡母のイメージなど)を物語っているような、そんな雰囲気が、後の、蕪村六十二歳の時の回想録『新花つみ』(安永六年=一七七六刊)の、異常なまでの、次の「田植」の句に関連させると、浮かび上がって来る・

 さみだれの田ごとの闇に成(なり)にけり         (『新花つみ』発句一〇五)
 水深き深田に苗(なえ)のみどりかな           (『同』同一二六)
 けふはとて娵(よめ)も出(いで)たつ田植哉        (『同』同一二七)
 泊りがけの伯母(おば)もむれつゝ田うゑ哉        (『同』同一二八)
 をそ(獺)の住む水も田に引ク早苗(さなえ)哉      (『同』同一二九)
 参(み)河(かわ)(三河)なる八橋(やばし)もちかき田植かな(『同』同一三〇)
 午(うま)の貝田うた音なく成(なり)にけり        (『同』同一三二)
 をそ(獺)を打(うち)し翁(おきな)を誘ふ田うゑかな   (『同』同一三三)
 鯰(なまず)得てもどる田植の男哉            (『同』同一三五)
葉ざくらの下陰(したかげ)たどる田草取(とり)     (『同』同一三六)
早乙女やつげのをぐしはさゝで来(こ)し       (『同』同一三七)

 もとより、これらの、安永六年(一七七六)、蕪村六十二歳時の『新花つみ』所収の句は、其角の亡母追善集『花摘』を念頭においての、蕪村の亡母五十回忌追善のために発起されたものとされている(『大磯・前掲書』)。
 そもそも、蕪村の母の丹後出身説は、次の二つの説に由来されている。その一は、京都金福寺に建立されている「蕪村翁碑」の「幼養於母氏生家(幼クシテ母氏の生家ニ養ワル)、生家在丹後国与謝邨(生家ハ丹後国与謝邨ニ在リ)、因更謝(因ッテ謝と更タム)」の記述に因るものである。
 その二は、現在の京都府与謝郡加悦町地方の口碑に因るもので、その口碑は、「蕪村の母は丹後国与謝郡加悦の人で、名はげんといい、摂津国東成郡毛馬村(現在の大阪市都島区毛馬町)に奉公に出たが、主人の子を孕んで帰郷し蕪村を出産。その後蕪村を連れて宮津で再婚したが、蕪村は養父と衝突し、与謝村の真言宗の古刹、施薬寺の小僧となった。その母の墓が加悦町に現存している」というものである(『蕪村の丹後時代(谷口謙著)』)。
 この二つの説ともこれを裏付ける確証に乏しく、蕪村自身固く口を閉ざしているので、
どうにも謎のままであるというのが実状であろう。
しかし、上記の『新花つみ』に収載されている、蕪村の吐息のような、「田植」「早乙女」に関する句に接すると、その出生地は、蕪村自身が書簡に認めている「馬堤は毛馬塘(づつみ)也。即余が故園也」(安永六年二月二十三日付柳女・賀瑞宛書簡)の、大阪の淀川近郊の毛馬村としても、その母のイメージは丹後の与謝地方の口碑などと深い関わりがあるように思われて来る。
 そして、これらの『新花つみ』に収載されている「田植」「早乙女」の句の、はるか以前の、丹後宮津から帰洛した翌年の宝暦八年(一七五八)に出版された『はなしあいて』所収の上掲の句、「離別れたる身を踏込で田植哉」は、蕪村の心中に、この薄幸な亡母のイメージが深く宿っていたということを、どうしても拭い去ることが出来ないのである。
 ここで、改めて、冒頭の「静御前図自画賛」(絵図G)を見てみると、この「静御前」は、『平家物語』・『義経記』などに登場する悲劇のヒロインで、義経の子を宿しつつ、その義経討伐の令を下す兄・頼朝の面前で、鶴岡八幡宮の舞を奉ずるという伝承が、同時の頃に描かれた「静舞図」(紙本着色・六曲屏風一隻)である。
 この「静御前図自画賛」(絵図G)は、立烏帽子の旅姿で、その左端に、署名もなく、蕪村独特の「槌」又は「経巻」のような花押が描かれ、その花押の方に、静御前の視線が注がれているのは、静御前の将来を暗示しているような、そんな趣で無くもない。
 と同時に、この悲劇のヒロインの静御前に関する伝承は、上記の蕪村の母に関する口承と、これまた二重写しになることは、どうにも、避けられないような、そんなことも暗示しているように思えるのである。

蕪村と月渓が描いた陶淵明像 [0 蕪村]

蕪村と月渓が描いた陶淵明像

 蕪村は、延享元年(一七四二、寛保四年二月二十一日に延享と改元)に、野州(栃木県)宇都宮において、『寛保四年宇都宮歳旦帖』(紙数九枚・十七頁、中村家蔵)という小冊子の歳旦帖を出し、俳諧宗匠として名乗りを上げる。そこに「巻軸」と前書きを付して、「古庭に鶯啼きぬ日もすがら」の自句で締めくくり、それまでの「宰鳥」の号に代わり、初めて「蕪村」の号を用いる。すなわち、この初歳旦帖は、蕪村の改号披露を兼ねてのものということになる(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 この「蕪村」の号は、陶淵明の「帰去来兮辞(ききょらいのじ)」の「田園将(まさ)ニ蕪(あ)レナントトス胡(なん)ゾ帰ラザル」に由来し、「蕪は荒れるの意味であり、『蕪村』は荒れ果てた村」の意ということになろう。すなわち、蕪村にとって、生まれ故郷は「帰るに帰れない」、その脳裏にのみ存在するものであった(田中・前掲書)。

 蕪村没後、蕪村の画俳二道の後継者の一人に目せられていた月渓(呉春)が、亡き師の机上にあった『陶靖(せい)節(せつ)(淵明)詩集』に挟まれていた、師自筆の「桐火桶無弦の琴(きん)の撫でごころ」の栞を見付けて、これに画(陶淵明像)と賛(蕪村自筆であることの証文など)を付した「嫁入手(よめいりて)蕪村筆栞・月渓筆陶淵明図」(逸翁美術館蔵)が今に伝存されている。

 この「嫁入手」とは、蕪村の遺児の「婚資捻出のために」、蕪村の「自筆句稿・冊子・巻物・色紙・栞」などに、月渓等の直弟子が画賛などを付して、蕪村の落款(サイン)に代えた作品の題名に便宜上付せられているものである。

呉春・陶淵明図1.jpg

 この月渓の賛(括弧書きは注)は次のとおりである。

[ 師翁(蕪村)物故の後、余(月渓)ひさしく夜半亭(京都の蕪村が没した住居=夜半亭)にありて、机上なる陶靖節(陶淵明)の詩集を閲(えっす)るに、半(なかば)過るころ此(この)しほり(栞)を得たり。これ全(すべて)淵明(陶淵明)のひとゝなりをしたひてなせる句なるべし。 
 天明甲辰(三年=一七八三)春二月(蕪村=二月二十五日未明没)写於夜半亭 月渓(松村月渓=呉春) ]

 この月渓(呉春)の描く陶淵明像は、蕪村の数ある陶淵明像の中で、おそらく、蕪村門の直弟子にあっては、一番身近な「陶淵明像」(『安永三年(一七七四)春帖』中の直弟子の一人「馬圃(まほ)」(芦田霞夫(かふ)/醸造業/俳人) →の「我(あ)とヽもに琴(きん)かき撫(なで)る柳かな」に付した蕪村画の「陶淵明像」)を参考にしていると思われる。

陶淵明像.jpg

 そして、この一筆書きのような略画の「草絵」(俳画)の「陶淵明像」は、実に、安永三年(一七七四)の、蕪村、六十三歳時、師の夜半亭二世宋阿こと早野巴人の三十三回忌に当たる年の作である。

 その巴人が没した寛保二年(一七四二)、そして、初歳旦帖を編み「蕪村」の号を使い始めた延享元年(寛保四年=一七四四)の翌年の頃、すなわち、結城・下館在住の頃の、「子漢」と款する「陶淵明山水図」(絹本淡彩三幅対)中の「陶淵明図」がある。これが、まさしく、
無弦琴を奏でている陶淵明図なのである。

 そして、これが文人画家・蕪村のスタートを飾った作品ともいえるものであろう(この「陶淵明山水図・中村美術サロン蔵」が『蕪村全集六絵画・遺墨』の第一番目に登載されている)。

buson_touenmeisansuizu.jpg

 この他の蕪村の陶淵明像などを『蕪村全集六』より記しておきたい。

一 絵画・模索期(宝暦八~明和六年)

48 陶淵明図 紙本淡彩 一幅 款「河南超居写」 国立博物館
80 陶淵明聴松風図 双幅 款「東成謝長庚写」「辛巳冬写於三菓軒中謝長庚」 宝暦十
一年 「当市西陣平尾氏、上京井上氏旧蔵品入札」(大正六・四)
163 陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「倉家並某旧家什器入札」(昭四・六)
164  陶淵明図 淡彩一幅 款「謝長庚」 「大阪市某氏入札」(大十五・三)

二 絵画・完成期(明和七~安永六)

220 五柳先生図 一幅 款「写於夜半亭謝春星」 「第五回東美入札」(昭五四・三)
221 五柳先生図 絹本着色 一幅 款「謝春星写於三菓堂中」 「題不明入札(大阪)」(昭二十九・十) 
437 後赤壁賦・帰去来辞図 紙本淡彩 双幅 款「日東謝寅画幷書」「日東々成謝寅画且 
   書」 逸翁美術館蔵
556 柳下陶淵明図 絹本淡彩 一幅 款「謝寅」 「七葉軒、不老庵入札」(昭四・四)
557 陶靖節図 絹本着色 一幅 款「倣張平山筆意 日東謝寅」 「松坂屋逸品古書籍書画幅大即売会目録」(昭和五十二・六)

その他

山水図(出光美術館)六曲一双 重要文化財 1763年
十便十宜図(川端康成記念会)画帖 国宝 1771年 池大雅との競作。蕪村は十宜図を描く。
紅白梅図(角屋もてなしの文化美術館)襖4面、四曲屏風一隻 重要文化財
蘇鉄図(香川・妙法寺)四曲屏風一双(もと襖) 重要文化財
山野行楽図(東京国立博物館)六曲一双 重要文化財
竹溪訪隠図(個人蔵)掛幅 重要文化財
奥の細道図巻(京都国立博物館)巻子本2巻 重要文化財 1778年
野ざらし紀行図(個人蔵)六曲一隻 重要文化財
奥の細道図屏風(山形美術館)六曲一隻 重要文化財 1779年
奥の細道画巻(逸翁美術館)巻子本2巻 重要文化財 1779年
新緑杜鵑図(文化庁)掛幅 重要文化財
竹林茅屋・柳蔭騎路図(個人蔵)六曲一双 重要文化財
春光晴雨図(個人蔵)掛幅 重要文化財
鳶烏図(北村美術館)掛幅(双幅) 重要文化財
峨嵋露頂図(法人蔵)巻子 重要文化財
夜色楼台図(個人蔵)掛幅 国宝
富嶽列松図(愛知県美術館)掛幅 重要文化財
柳堤渡水・丘辺行楽図(ボストン美術館)六曲一双 紙本墨画淡彩
蜀桟道図(シンガポールの会社) 1778年

(追記)

 平成二十八年十月二十九日(土)~十二月二十一日(日)まで、佐野市立吉沢記念美術館で、「特別企画展 東と西の蕪村―伊藤若冲『菜蟲譜』期間限定公開」が開催された。
 そこで、「陶淵明・山水図」(蕪村筆)が公開されていた。その作品解説は次のとおりである。

[ 最初期の彩色作品で、下館に伝来。「子漢」の款記は本作が唯一。印は捺されない。陶淵明は中国・六朝の詩人で、「帰去来辞」「桃花源記」などが知られる。「蕪村」号は「帰去来辞」の「田園将蕪(マサニアレナントス)」に由来することが有力視されるほか、詩画ともに桃源郷を投影した作品が晩年まで頻出するなど、蕪村にとって重要な詩人。
中幅の陶淵明は、酒に酔う毎に「無弦の琴」を撫でたという故事による。左右幅は「帰去来辞」の「舟は遙々として以て軽くあがり、風は飄々として衣を吹く」「雲は無心に以て峰を出で、鳥は飛ぶに倦きて還るを知る」を描く、明るい光を含んでかすむ海、藍と淡墨の葉を重ねて描かれた風に騒ぐ竹林など、後半の蕪村画の要素が見える。]
(『東と西の蕪村(佐野市立吉沢記念美術館遍)』)

(特記事項)

※ この「陶淵明」図中、左下に、花押のように、小さな「鈴」のようなものが描かれていた。これは、陶淵明の「無弦琴」に関連して、「琴の爪」のようなのである。この「琴の爪」と蕪村の花押(「槌」・「経巻」・「頭陀袋(嚢)」のような、蕪村の謎めいた花押)は、この「琴爪」に、その由来があるような、そんな示唆を受けたことを特記して置きたい。

蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」 [0 蕪村]

 蕪村の「夜色楼台図」の「雅俗と聖俗」

蕪村 夜色楼台図.jpg    
    (図1 「 夜色楼台図」 蕪村筆)

 蕪村の水墨画の二大傑作画は、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」が、その双璧を為すことであろう。「夜色楼台図」(紙本墨画淡彩、一幅、二八・〇×一二九・五cm)が、蕪村の、その生涯の実生活を背景としている「実」たる「俗」の「京都の東山」をモチーフとしているならば、「峨嵋露頂図」(紙本墨画淡彩、一巻、二八.九×二四〇.三cm)は、蕪村が、その生涯にわたって憧憬して止まなかった中国の詩人中の一人・李白の「峨嵋山月歌」に、その想を得ての、脳裡に去来する「虚」たる「雅」の「中国四川省の峨眉山」をイメージしてのものということになろう。

 この「夜色楼台図」について、「左に登りゆく山稜は比叡山に連なり、右に下る山並みは伏見に至るものであり、麓の家並みは祇園から岡崎にかけての町並みと見ればいい。(略)
 三本樹の水楼にのぼりて斜景に対す
   雲の端に大津の凧や東山
   大文字の谿間のつつじ燃えんとす
 よすがらの三本樹の水楼に宴して
   明けやすき夜をかくしてや東山
 詞書にある三本樹とは、賀茂川西岸の丸太町と荒神口の間の地名で、『烏丸仏光寺西入ル町』の蕪村の家から歩いて三十分という所である。当時、この界隈に多くの料亭が立ちならび、晩年の蕪村が足繁く通った「雪楼」もこの地にあった」と『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「夜色楼台図(早川聞多稿)」)では記されている。

 続けて、それは「見えるがままに描いた実景」ではなく、絵画的にデフォルメした世界で、「本図が一見水墨画のように見えて、実はその原則を密かに破っている」とし、「画法における『雅俗』の混在」(胡粉や代赭による即物的描写や、胡粉の下塗り、墨のたらし込みといった技法は、『水墨画』の本来かにすると邪道)と「都会の雪景色」(「一見山水画のように見せながら、『俗気』の象徴である都会を主題としての『山水画』の原則からの逸脱)との二点を挙げている。

三本樹.png    
       (図2 「 三本樹(木)」 『拾遺都名所図会』 )

 ここで取り上げられている「雅・俗」というのは、絵画表現上の「雅・俗」ということで、その根底には、永遠性に連なる「雅」(「完成」の「既に存在する表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「不易」に近い理念)と日常性に連なる「俗」(「無限」の「未開拓の未知の表現」などに美意識を求める理念=「不易流行」の「流行」に近い理念)との二元論的な把握を基調としている(『日本文学史・小西甚一著・講談社学術文庫』『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)。

 蕪村の俳諧・絵画の基本的姿勢を述べたものとして、門人、黒柳召波の『春泥句集』の「序」に寄せた、いわゆる「離俗論」が夙に知られている。

[ 俳諧は、俗語を用ひて俗を離るヽを尚ぶ、俗を離れて俗を用ゆ、離俗ノ法最かたし。
(略)  却ッテ問フ、「叟(注・蕪村)が示すところの離俗の説、その旨玄なりといへども、なほ是工案をこらして、我よりして求むるものにあらずや。しかじ彼もしらず、我もしらず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや。答ヘテ曰ク、「あり、詩を語るべし。子(注・召波)もとより詩を能す、他に求むべからず」。彼(注・召波)疑ヒ敢ヘテ問フ。「夫、詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云。迂遠なるにあらずや。
夫詩と俳諧といささか其の致を異にす。さるを俳諧をすてて詩を語れと云ふ。迂遠なるにあらずや」。答ヘテ曰ク、「画家に去俗論あり、曰ク、『画去俗無他法子(画ノ俗ヲ去ルニ他ノ法ナシ)、多読書則書巻之気上升(多クノ書ヲ読メバ即チ書巻ノ気上昇シ)市俗之気下降矣(市俗ノ気下降ス)、学者其慎旃哉(学者其レ旃(これ)オ慎シマンカナ)』。それ、画の俗を去るだも、筆を投じて書を読ましむ、況んや、詩と俳諧と何の遠しとする事あらんや」。波(召波)、すなはち悟す。]
 (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この蕪村の「離俗論」について、『俳句の世界(小西甚一著)』では、次のように解説している。

[ 蕪村が有名な離俗論を提唱したのも、この頃(注:明和五年(一七六八)・五十三歳)だったらしい。蕪村によると、俳諧は、俗語によって表現しながら、しかも俗を離れるところが大切なのである。この離俗論は、画道から啓発されたもので、当時著名だった『芥子園畫傳』初集の去俗説を承け、俳諧を修行することは、結局、その人の心位を高めることによって完成されるのだと主張する。その実際的方法としては、古典をたくさんよむことが第一である。古典のなかにこもる精神の高さを自分のなかに生かすこと、それが俳諧修行の基礎でなくてはならない。古典といっても、何も俳諧表現に関係のあるものだけに限らない。むしろ表現とは関係がなくても、人格をみがき識見をふかめるための「心の糧」こそ俳諧にとっていちばん大切なのである―。(略) この離俗の立場からは、単なる俗っぽさは、手ぎびしく排斥されなくてはならない。俗なるものを詠んでも、その俗をぬけ出たおもむきがなくてはならない。]
  (『俳句の世界・小西甚一著・講談社学術文庫』)

 蕪村の「離俗論」については、一般的には、上記のようなことなのであるが、蕪村の「離俗論」の大事な要諦は、その『春泥集』(序)の、先の引用文に続く、次のところにあるように思われる。

[ 俳諧に門戸なし。只是れ俳諧門といふを以テ門とす。(略) 諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ、みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す。唯自己ノ胸中いかんと顧みるの外、他の方なし。 ] 
   (『与謝蕪村集(清水孝之著)』新潮日本古典集成)

 この「みずから其のよきものを撰び用に随ひて出す」という蕪村の姿勢は、若き日の蕪村を育んだ、蕪村の俳諧の師、夜半亭一世早野巴人(宋阿)の、その三十三回忌に編んだ『むかしを今』の「序」の、「『夫、俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず、時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとし』とぞ。予(注・蕪村)、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかい(注・俳諧)の自在を知れり」の、この「俳諧自在」(自由自在の心)と、その「俳諧自在」の因って立つ地盤は、「唯自己の胸中」(己が心)に在るという、
これが、蕪村の「離俗の法」の本態なのであろう。

 また、この「諸流を尽シてこれを一嚢中に貯へ」に関連して、蕪村自身が、画や画人を題材にして詠んだ句は、次のようなものが挙げられる(『蕪村全集六 絵画・遺墨』「栞「女雪信と蕪村(滝沢栗郎稿)」)。

1 時鳥絵に啼け東四郎次郎  宝暦二(一七五二・三十七歳)  狩野光信
2 手すさびの団(うちは)画ん草の汁 明和五(一七六八・五十三歳) 草画、絵具
3 新右衛門蛇足を誘ふ冬至かな   同上 曽我蛇足 
4 守信と瓢に書けよ鉢たゝき    同上 狩野探幽
5 雪信が蠅打払ふ硯かな      明和六(一七六九・五十四歳) 清原雪信
6 呂記が目の届かぬ枝に閑古鳥   明和八(一七七一・五十六歳) 明人、花鳥画
7 絵団扇のそれも清十郎にお夏哉  同上 浮世絵
8 雪舟の不二雪信が佐野いずれ歟(か)寒き 同上 漢画と大和絵
9 御勝手に春正が妻か梅の月  明和年間  蒔絵師
10 不動画く宅摩が庭の牡丹かな  安永六(一七七七 六十二歳) 古画、仏画
11 南蘋を牡丹の客や福済寺    同上 清人、長崎派
12 茗長が机のうへのざくろかな  同上 染物師
13 相阿弥の宵寐おこすや大もんじ 同上 室町水墨画
14 鬼灯や清原の女が生写し    同上 写生画
15 大津絵に糞落しゆく燕かな   安永七(一七七八 六十三歳) 大津絵
16 筆灌ぐ応挙が鉢に氷哉     安永九(一七八〇 六十五歳) 円山派
17 又平に逢ふや御室の花ざかり  年不詳  土佐派、俳画

 蕪村は、俳諧の世界においては、江戸と京都で、宝井其角の江戸座の宗匠の一人として名を馳せていた夜半亭宋阿(巴人)の内弟子として仕え、生涯に亘って師と仰いでいたが、画業の世界においては、「われに師なし、古今の名画をもって師とす」(「書画戯之記」)との伝聞があるとおり、生涯にわたって仰ぐべき師を持たなかった。

 ただ、宋阿(巴人)が寛保二年(一七四二)に病死した後、いわゆる「関東・奥羽遊歴時代」(寛保二十年《一七三五・二十歳》から寛延三年《一七五〇・三十五歳》)に見切りをつけて、宝暦元年(一七五一)の初冬に京都に上ってきた、その大きな理由の一つに、当時、京都に在住して画(文人画の先駆者・絵師として法橋に叙せられている)・俳(各務支考門の美濃派後に中川乙由の伊勢派系の宗匠の一人)の二道の世界で最右翼を極めていた彭城百川が念頭にあったことであろう。

 百川は、元禄十年(一六九八)、尾張名古屋の生まれ(支考書簡による入婿説もある)、姓は榊原、名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。中国風に彭百川と称した(その祖は帰化人と伝えられ、『元明画人考』を編しているほどに漢学の素養があった。また、自称の「彭城」の姓は、中国江蘇省彭城の出身と伝えられている)。

 俳諧では蕉門の各務支考に師事し、松角、次いで昇角と号した。後に、師の美濃派の支考との間に亀裂を生じ、反旗を翻して伊勢派の乙由門に転じている。三十二歳の頃から京都を拠点として北陸や長崎に遊び、四十八歳の頃からは「売画自給」と称して絵を職業とする生活に入り、元文年間には法橋位を得るに至っている。

 百川の多芸振りは、「詩・文・書・画・俳諧」(『本朝八仙集』「序」)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』「序」)と、晩年の支考に重宝がられ格別の厚遇を受けていたことからも推察される。

 この他に、百川は、「俳書のデザイン(扉や題字等)」「挿絵」「俳画(俳趣のある簡略な画《草画》)」「実景図」「地図」など、その多種・多様な多才振りは、画・俳の両道を目途としている蕪村を、魅了して止まないものがあったことは想像に難くない。
 蕪村が江戸から上洛したのは、宝暦元年(一七五一)、そして、百川が没したのは、その翌年の宝暦二年(一七五二)の八月であった。蕪村と百川との出会いがあったとしたら、宝暦元年から二年にかけての一年足らずの期間に於いてということになる。

これらのことについて、蕪村は何ら記してはいないが、蕪村は、宝暦七年(一七五七)九月に、丹後宮津から京都に再帰する時に、「天の橋立画賛」の残し、その賛文に次のように百川のことについて記している。

[ 八僊観百川丹青をこのむで明風を慕ふ。嚢道人蕪村、画図をもてあそんで漢流に擬す。はた俳諧に遊むでともに蕉翁より糸ひきて、彼ハ蓮二に出て蓮二によらず。我は晋子にくミして晋子にならハず、されや竿頭に一歩すゝめて、落る処ハまゝの川なるべし。又俳諧に名あらむことをもとめざるも、同じおもむきなり鳧。されば百川いにしころ、この地にあそべる帰京の吟に、はしだてを先にふらせて行秋ぞ わが今留別の句に、せきれいの尾やはしだてをあと荷物。かれは橋立を前駈して、六里の松の肩を揃へて平安の西にふりこみ、われははしだてを殿騎として洛城の東にかへる。ともに此道の酋長にして、花やかなりし行過ならずや。
  丁丑九月嚢道人蕪村書於閑雲洞中  ]

 この百川の「明風に慕ふ」の「明風」は、『元明画人考』の著を有する百川への「明画」風に対して、蕪村は「漢流」(「狩野派」の意とする見解もあるが、中国画全般の「漢流」の意)で、特定の画風にこだわらないというようなことなのであろう。

 また、俳諧の方では、百川は蕉門の「蓮二(支考)」の流れに比して、蕪村は同じ蕉門でも、「晋子(其角)」の流れ(其角門の巴人の系譜)であるが、共に、その流派にこだわらない点が共通しているし、また、俳人として名声を求めない姿勢も共通しているというようなことであろう。
 蕪村と百川との出会いの確たる形跡は見当たらないが、「当時中国画研究の第一人者であり、伊勢風の俳人としても有名であった百川を八僊観に訪問しないとすれば、それこそ不可解である」(『蕪村の遠近法(清水孝之著)』「百川から蕪村へ」)という指摘を拒否する理由も定かではないであろう。

 これらのことに関して、蕪村の江戸時代の知己で、延享四年(一七四七)に近江の義仲寺の無名庵五世となっている渡辺雲裡坊(前号・杉夫)は、名古屋時代の百川(昇角)と共に支考門で、両者は旧知の関係にある。

 そして、その雲裡坊は、宝暦五年(一七五五)に、京都から丹後へ移住している蕪村を訪ね、さらに、宝暦十年(一七六〇)に、京都に再帰した蕪村に筑紫行脚の同行を勧誘するなど、年下の蕪村への配慮は格別なものがあり、京都での蕪村と百川との出会いや、百川亡き後の蕪村の丹後移住などに関して、何らかの関係があるように思われることも特記して置く必要があろう。

 さらに、蕪村の晩年の絵画に署名される栄光の雅号「謝寅」は、中国明代の画家唐寅に倣ったものとされているが(『俳画の美(岡田利兵衛著)』)、百川の「春秋江山図屏風」の左隻に、この唐寅(伯虎)に倣ったことが書かれており(『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」)、これらのことを加味すると、百川の画・俳その他全般に亘る生涯は、蕪村の生涯を先取りした趣すらして来る。

 この百川について、『知られざる南画家 百川(名古屋博物館)』「百川と初期南画(河野元昭稿)」では、「自己の創造に必要なものを何でも画嚢に取り入れてしまう性質」を「雑食性」と名付け、この「雑食性」のほかに、「町人出身の専門画家」であったこと、「俳画と真景図に新生面を開いた」ことを、百川の特質ととらえて、それらが、次の時代の大雅と蕪村の日本南画(文人画)の大成に大きく寄与しているとしている。

 百川が文人画家の先駆者として、その文人画を大成したとされる大雅と蕪村への与えた影響ということの他に、「売画自給」を標榜した百川の、その姿勢は、異色の花鳥画家とされている伊藤若冲の精神的支柱であった「売茶翁」(黄檗宗の僧、法名は月海、還俗後は高遊外)に連なるものなのであろう。

 江戸時代を、前期(十七世紀)・中期(十八世紀)・後期(十九世紀)の三区分ですると、売茶翁は、延宝五年(一六七五)の生まれ、蕪村の師巴人(延宝四年=一六七六)と同年齢時代の、前期に生を享けたことになる。

 若冲(正徳六年=一七一六)・蕪村(享保元年=一七一六)・大雅(享保八年=一七二三)は、中期、そして、百川は元禄十年(一六九七)の生まれで、十七世紀の後半に生を享けたが、その活躍したのは十八世紀の中期ということになろう。

 この百川は、延享二年(一七四五)、四十九歳のときに、「売茶翁煎茶図・売茶翁題偈」という作品を残しており、売茶翁に連なる京都文化人の一人と数えて差し支えなかろう。この売茶翁に連なる京都文化人の面々は、売茶翁と共に若冲の支援者であり続けた、相国寺第百十三世の詩僧・大典顕常、数多くの儒学者を育てた大儒・宇野明霞、書家の亀田窮楽、画壇では、池大雅、伊藤若冲、そして、蕪村もまた、「小鼎煎茶画賛」を残しており、直接的な繋がりはないが、やはり売茶翁に共鳴した一人と解して、これまた差し支えなかろう。

 宝暦十三年(一七六三)、売茶翁は、その八十八年の生涯を閉じるが、その年に刊行された『売茶翁偈語』の伝記は、大典顕常、その売茶翁の自題は大雅、口絵の売茶翁の半身像は若冲と、売茶翁と親しかった、三人の名が肩を並べている。

 若冲の別号の「米斗翁」(「絵代は米一斗」に由来する)は、売茶翁の「茶銭は黄金百鎰(注・小判二千両)より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」に由来があるものなのであろう。そして、「大雅」の別号の「待賈」は「賈(価)を待つ=商人」の、これまた、売茶翁が「茶を売る翁」に因んでの「絵を売る」、百川の「売画自給」と同じ意なのであろう。
 この売茶翁の、「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なる」(大典顕常の「売茶翁伝」の遺語)に由来するところの、その売茶翁の「売茶」という、その実践に由来するもの、それが、百川の「売画自給」の意味するものなのであろう。

 そして、その百川に続く、京都の画人達(大雅・若冲・蕪村等々)は、「雅」の「非日常性・不易なもの・虚なるもの」と「俗」の「日常性・刻々変化するもの・実なるもの」との、その「雅と俗」との、その葛藤こそ、それぞれの「売画自給」の日々の実践の証しということになろう。

 ここまで来ると、蕪村の「夜色楼台図」の全てが見えて来る。この「夜色楼台図」の根底には、上半分の「雅」たる「夜空と山並み(東山)」、そして、下半分の「俗」たる「積雪の楼台と家並み(京の街並み)」との、その「二極対比」と、その「雅俗混交」の「鬩(せめ)ぎあい」での末の、安らぎにも似た「雅俗融合」の極致の世界が、見事に浮き彫りにされている。

 さらに、細かく見ていけば、「黒(闇)と白(明かり)」、「代赭(華やぎと温もりの灯影)と胡粉(寂として消えて行く雪片)」、全体の「横長の広大なパノラマの『水平視(平遠法)』的視点」、下半分の人家の景を「見下ろす『俯瞰視(深遠法)』的視点」、そして上半分の山並みと空とを「仰ぎ見る『仰角視(高遠法)』的視点」、それらは、「画(「無声の詩」=「画中に詩有り」)」と「詩(「有声の画」=「詩中に画有り」)」との、見事な「画・俳」、そして、「画・俳・書」の、その合致の到達点を物語っている。

 この横長の絵巻風の「夜色楼台図」の、その冒頭の「夜色楼/臺(台)雪萬(万)/家」の、この「夜色楼台雪万家」の画題なるものは、『水墨画の巨匠(第十二巻)蕪村』の「図版解説(早川聞多稿)」では、若き日の蕪村が私淑した服部南郭に連なる詩僧の万庵原資の、「遊東山詠落花(東山ニ遊ビテ落花ヲ詠ズ)」の「湖上楼台雪万家」と「中秋含虚亭ノ作」での「夜色楼台諸仏座」の一節に由来があることなどが紹介されている(さらに、『生誕三百年同いの天才画家 若冲と蕪村』では、『皇明七才詩集註解』の明代の李攀龍による「宗子を懐う」に「夜色楼台雪万家」の一節があることも新説として挙げられている)。

 何れにしろ、この「夜色楼台雪万家」の主題は、「夜・楼台・雪・万家」の「夜(闇)・楼台(「華やぎ=灯影」)・雪(「無常=雪の切片)・万家(「「人家」の「無数の『生』の営み」)、その中でも、上半分の「雅」たる「山と空」と下半分の「俗」たる「人家」とを融合させている「雪」こそ、この「夜色楼台図」の主要なテーマなのではなかろうか。

 蕪村には、目白押しの「雪」の句の中から「二極対比」の句を抽出して見たい。

1 宿かさぬ灯影や雪の家つゞき  明和五年(一七六八・五十三歳) 灯影と雪
2 雪国や粮(かて)たのもしき小家がち  同上          小家と雪
3 宿かせと刀投出す吹雪哉       同上         武士と吹雪
4 初雪や上京は人のよかりけり  明和六年(一七六九・五十四歳) 上京(洛)と初雪
5 物書(かい)て鴨に換けり夜の雪    同上        王義之(前書き)と雪
6 祐成をいなすや雪のかくれ蓑  明和七年(一七七〇・五十五歳) 曽我十郎祐成と雪
7 繋馬雪一双の鐙(あぶみ)かな     同上          馬の鐙と雪
8 雪の河豚鮟鱇の上にたゝんとす 明和八年(一七七一・五十六歳) 河豚と雪
9 雪の松折るるや琴の裂る音      同上          松と雪
10 としひとつ積るや雪の小町寺  安永三年(一七七四・五十九歳) 小町寺(洛北)と雪
11 雪の旦母屋のけぶりのめでたさよ   同上          母屋の煙と雪
12 鍋さげて淀の小橋を雪の人      同上          淀の小橋と雪
13 愚に耐(たへ)よと窓暗(くらう)す雪の竹  同上     貧窮老懶の自画像と雪
14 初雪や草の戸を訪(と)ふわら草履  安永六年(一七七七・六十ニ歳) 風狂の友と雪
15 木屋町の旅人訪ん雪の朝       同上    木屋町(旅館・料亭が多い)と雪
16 住吉の雪にぬかづく遊女哉    同上  住吉大社(浪花・遊女の信仰が厚い)と雪
17 雪白し加茂の氏人馬でうて 安永七年(一七七八・六十三歳)  加茂神社の社人と雪
18 雪折やよしのゝゆめのさむる時  同上          吉野(奈良吉野山)と雪
19 雪折も聞えてくらき夜なる哉   同上          闇夜と雪(白居易の詩)
20 登蓮が雪に蓑たく竈(かま)の下 天明二年(一七八二・六十七歳)  登蓮(歌僧)と雪
21 雪を踏で熊野詣の乳母かな    同上              熊野詣と雪
22 風呂入に谷へ下るや雪の笠   年次未詳             湯治場と雪
23 水と鳥のむかし語りや雪の友   同上         「酒」(水偏の鳥)と雪
24 雪の暮鴫はもどつて居るような  同上           鴫(西行の鴫)と雪
25 雪消ていよいよ高し雪の亭    同上            雪亭(庵号)と雪

 蕪村の二大水墨画の、もう一つの「峨嵋露頂図巻」(二八・九×二四〇・三cm、紙本墨画淡彩一巻)は、「夜色楼台図」(二七・三×一二九・三cm、紙本墨画淡彩一幅)の、横長に倍の長さ(条幅紙一枚分)で、こちらは図巻(一巻)で、それを横長の掛幅とするならば、これは、一大のパノラマ仕立てになる。

 「夜色楼台図」が、日本の詩僧・万庵原資の詩と『唐詩選』を編纂したとも言われている明代の詩人・李攀龍の詩に由来があるとすれば、「峨嵋露頂図巻」は、李白の七言絶句の「峨嵋山月歌」とこれまた李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に由来があるとされている(『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「図版解説(早川聞多稿)」) 。

 ここまで来ると、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図」とは、同時期に書かれた、「雪」を主題とする蕪村の連作であったということを実感する。

 そして、この二大傑作水墨画は、蕪村が六十八年の生涯を閉じた、天明三年(一七八三)の作とされており、「蕪村絵画年譜」(『日本の美術六 与謝蕪村(佐々木丞平編)』)では、その順序は、「夜色楼台図」が先で、その年の「謝寅落款のあるもの」の最後に、「峨嵋露図」が掲載されている。

峨嵋露頂図右.png
   (図3-1 「峨嵋露頂図」(右半分) 蕪村筆「落款・謝寅」)

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  (図3-2 「峨嵋露頂図」(左半分) 蕪村筆)


 ここに、冒頭の「夜色楼台図」(図1)を掲載して置きたい。

蕪村 夜色楼台図.jpg
 (図1・再掲 「夜色楼台図」 蕪村筆「落款・謝寅書」 )

 これらの「夜色楼台図」と「峨嵋露頂巻」との落款は、主に、蕪村の漢画系統のものの落款「謝寅」で、「夜色楼台図」は「謝寅書」、そして、「峨嵋露頂図」は「謝寅」と署名されている。

 それに対して、蕪村の和画系統のものの落款「蕪村」の署名で、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と共に、横長の三大水墨画の一つに数えられている「富岳列松図」(二九・六×一三八・〇cm、紙本墨画多彩一幅)が、「夜色楼台図」と「峨嵋露頂図巻」と同年(蕪村が没する天明三年=一七八三)に制作されている。

 そして、この「富岳列松図」もまた、「雪」が主題のもので、真っ白な「富士」が赤松並木の上に浮かび上がっている。そして、墨の濃度の違いによって、その墨色で、あたかも、松の緑と空の青とを描いているかのようなのである。

富岳列松図.png
  ( 図4 富岳列松図  蕪村筆「落款・蕪村」 )

 ここで、「峨嵋露頂図」で紹介した、李攀龍(号=滄溟)の「滄溟ガ詩ヲ評ス『峨嵋天外雪中ニ看ル』」(『唐詩選国字解(服部南郭解)』「跋(荻生徂徠)」)に関連して、徂徠の『蘐園随筆』「序(安藤東野)」に触れながら、蕪村の、「峨嵋露頂図」「富岳列松図」、そして、「夜色楼台図」を三部作として、次のように、その関連を考察したものを紹介して置きたい。

[「峨嵋を天半の雪中に看る」とは、王世貞(注・明時代の学者・政治家、号は弇州山人《えんしゅうさんじん》)が李攀龍(注・明時代の詩人・文人、号は滄溟)の詩風を、峨嵋山の雪にたとえてたたえる句である。(略) あわれむべし彼等は、峨嵋山を知るだけで、わが富士山を知らない。先生(注・荻生徂徠)は実に富士の白雪である。(吉川幸次郎著『仁斎・徂徠・宣長』より)

 この一節は徂徠の愛弟子、安藤東野(注・徂徠門の儒学者)が、師(注・徂徠)の学問のすばらしさを讃えたものである。ここで注目すべきことは、「天半の峨嵋山」と李攀龍(注・蕪村が生涯に亘って愛した詩人)、「白雪の富士山」を荻生徂徠(注・蕪村の漢詩理解の源となっている服部南郭の師、「夜色楼台図」の由来となっている詩を作った万庵原資も徂徠門)というイメージの提示である。(略)
 両図(注・「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」)とも本図(注・「夜色楼台図」)と同様、横長の画面形式をとっており、その熟練した筆致から制作時期も本図と同時期のものと推定される。また、これら三図はいずれも山と雪を主要なモチーフとしている。

 このようにその共通性に注目するならば、これら三図は三部作として描かれた可能性があるといえる。もし、「峨嵋露頂図巻」の「天半の峨嵋」が李攀龍を、「富岳列松図」の「白雪富士」が荻生徂徠(注・徂徠と徂徠の古文辞学派=蘐園学派の服部南郭《儒者・詩人・画家》等の一門)を象徴としているならば、では一体、「夜色楼台図」の東山は誰を象徴しているのであろうか。(略)
 画(注・「夜色楼台図」)左の山稜をたどれば、そこは法然・親鸞が修行した比叡山であり、その山下の一乗寺村には親鸞が六角堂に通った百日別行の旧跡がある。そして、正面の山麓には法然ゆかりの法然院、金戒光明寺、知恩院が建ち並び、画面右端には親鸞の遺骨を納めた大谷の廟所がある。(略)
 さらに付け加えるならば、親鸞百日別行跡の隣の金福寺には、蕪村がその再興に関与した芭蕉庵があり、その記念碑が立っており、蕪村は、
   我も死して碑にほとりせん枯尾花
の一句を手向けたのである。そしてその願い通り、天明三年(一七八三)の暮に亡くなった蕪村の遺骨は、翌四年一月には、まさしく「祖翁之碑」の隣に納められ、同十月には「与謝蕪村墓」と刻まれた墓碑が、門人たちによって建てられたのであった。  
 このように見てくると、晩年の蕪村が眺める東山連峰は、まことに複雑なイメージを帯びていたといえよう。
 そこは自らが四季折おりを楽しむところである同時に、雪が降れば徂徠の学恩を、山麓の楼閣を見れば法然の法恩を思い、その山陰は己が人生を決定づけた親鸞と芭蕉の俤を宿す場所であった。
 そして、そこはまた、蕪村自らが「終(つい)の住処(すみか)」と思い定めた場所であった。すなわち、この一枚の画(注・「夜色楼台図」)によって、「聖」と「俗」の狭間に生きた蕪村の人生そのものが象徴されているといえよう。 ]
 (『水墨画の巨匠第十二巻蕪村(芳賀徹・早川聞多著)』(「《この一枚》夜色楼台図《早川聞多稿》)」) 。


 蕪村の、横長のパノラマ的眺望を描出している、「峨嵋露頂図巻」「富岳列松図」「夜色楼台図」を、同時期に制作された三部作として、「峨嵋露頂図巻」と李攀龍(号・滄溟)、「富岳列松図」と荻生徂徠(徂徠門服部南郭等)とを、南郭の『『唐詩選国字解』等を通して探り当てた点は卓見であろう。

 それに続けて、「夜色楼台図」は、別稿「「水墨画の俳諧化―雅俗融合の生涯《早川聞多稿》」に於いて、「僧に非ず俗にゐて俗にも非ず」(親鸞の『教行信証』)等を引用し、併せ、上掲の蕪村自身の「我も死して碑にほとりせん枯尾花」(「枯尾花」は其角の芭蕉追善集の名)句をも引きながら、「芭蕉・親鸞・法然上人」の俤を重ねたのは、やはり、この評者(早川聞多)の、この「夜色楼台図」に寄せる思い入れの深さの証左であろう。

 この親鸞の「僧に非ず俗にゐて俗に非ず」は、「俗中に生きてこそ、『聖俗』を超える契機を見出し得る」とし、そして、この親鸞の「聖俗」論は、即、蕪村の「俗を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる」(離俗論)と表裏一体を為すものなのであろう。

 即ち、親鸞は「聖俗」の人であり、蕪村は「雅俗」の人であり、親鸞の生涯が「聖俗融合」の生涯であったとするならば、蕪村の生涯は、市井に生きた「雅俗融合」の生涯だったということになろう。

 そして、この「夜色楼台図」は、まさしく、その蕪村の「雅俗融合」の生涯を、象徴的に物語っている「この一枚」ということになろう。


若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」 [蕪村と若冲]

若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」

 若冲は「名遂(と)げぬ。事畢(おわ)りぬ」(「碣銘」)の、「釈迦三尊像」(三幅)そして「動植綵絵」(三十幅)完成以後の五十代、六十代の作品は多く残らない。

 明和七年(一七七〇)十月、父の三十三回忌に当たり、その三尊(三幅)および綵絵(三十幅)の寄進の全てが終わる(「位牌銘」)前年(明和六年=一七六九)六月十七日の相国寺の「閣懺(かくせん)」(相国寺三門で行われる儀式)に合わせ、これらの全てが方丈に掛けられ、一般の人々も、その全貌を知るに至ったのである。

 この年(明和六年=一七六九)に、これが若冲の作なのかと疑うほどに、何とも奇妙奇天烈な、ユーモアに溢れた水墨画の「蝦蟇・鉄拐図」(双幅)を制作している。

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(若冲「蝦蟇・鉄拐図」)           

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(光琳「蹴鞠布袋図」)

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」は、光琳の「蹴鞠布袋図」に想を得たのではないかとされている(「日本の美術9(NO.256)伊藤若冲(佐藤康宏稿)」)。

 この「蝦蟇図」の月遷浄潭の賛は、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」、「鉄拐図」の寂照の賛は、「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙。泉南叟書」。

 月遷浄潭(じょうだん)は、海雲山法蔵寺住持(黄檗僧)で、この明和六年(一七六九)に没している。また、泉南(せんなん)叟は、「平安人物志」(明和五年版)に出て来る「学者・書家」の「釈寂照(号)・泉南(字)」で、若冲と親交があったのであろう。

 「蝦蟇図」の蝦蟇仙人(劉海蟾=りゅうかいせん)、そして、「鉄拐図」の鉄拐仙人(李鉄拐=りてっかい)は、中国の仙人で、不老不死の術を修めた、超人的な能力を持つ人々である。
蝦蟇仙人は、三本足の白いカエルと共に描かれ、このカエルは「青蛙神(せいあじん)」との別名で、この青蛙神が訪れると幸運・金運に恵まれるなどの伝承がある。

 一方、鉄拐仙人は、物乞いの体を借りて蘇ったことから、破れた衣を着て、鉄の杖を持ち、その口元をすぼめて、自分の分身を吹き出しているポーズなどで描かれている。

 さて、若冲が描く右双の「鉄拐仙人」は、実に奇妙奇天烈なポーズで、「杖を両手で握りしめ、顔らしき『顎と目玉二つと鼻ならず口と顎髯』とが、天を仰いで、その天に何やら、その分身の杖を持っている河童らしきものが描かれている」。これに賛する「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」。

 この「泉南叟書」とは、「泉南叟=釈寂照」の「書(賛)」で、この「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、「この何とも表現できないような図画の、この気を吐いている仙人は、『獨楽窩(どくらくか)』と自称しているアトリエで、『丹青不知老将至(たんせいまさにおいのいたるをしらず)』なるものを遊印として使用している『若冲居士(仙人)』さんさながらですね」というような意が込められているのかも知れない。

 そして、若冲が描く左双の「蝦蟇仙人」は、三本足の「青蛙神」を河童の頭のような禿げ頭に乗せて、その「青蛙神」が天を仰いでいる。その仰いでいる方向に、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」が書かれている。

 この「失魄無依附餓莩尸。元非其質」は、鉄拐仙人にかかわる故事の、「魂を失うて依るべき所なし、一餓莩(ウヒ)の尸(シカバネ)を起し之に附す。元(以前の)其の質(カタチ=肉体)に非ず」(「鉄拐一日老君と約して華山に赴かんとす、即ち其徒に約して曰く我が魂此に在り、若し游魂七日にして返らずんば汝吾が魂と化すべしと、徒母疾あるを以く迅く帰り、六日にして之に化す、鉄拐七日に至りて帰るも已に魂を失うて依るべき所なし、一餓莩の尸を起し之に附して起つという、形跛悪なる是れがためなり)に因っているのであろう。

 この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」の「鉄拐図」(右双)の基になっているという、尾形光琳の「蹴鞠布袋図」の「布袋」は、日本の「七福神」(恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・寿老人・布袋)の一柱で、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれるのが通例である。それを光琳は、その大きな袋を放り投げて、蹴鞠に夢中になっている布袋で、その布袋が、頭上高く舞い上がっている蹴鞠を仰いで構図である。

 その日本の「七福神」の一柱の「布袋」を、中国の「八仙人」(呂洞寶=ろどうひん、李鉄拐=りてっかい、鐘離権=しょうりけん、張果老=ちょうかろう、藍菜和=らんさいか、曹国舅=そうこくきゅう、何仙姑=かせんこ)の一柱の「(李)鉄拐」に転回しているのである

 その「鉄拐図」(右双)の「鉄拐(仙人)」が吐き出す霊気の中の「分身」が、光琳の「蹴鞠布袋図」の宙に浮いている「蹴鞠」の見立てで、今度は、その「蹴鞠」の如き「鉄拐(仙人)」の「分身」は、「蝦蟇図」(左双)の「蝦蟇仙人」(河童頭のみ表示されている)と転回し、その「蝦蟇(仙人)」が連れ歩く「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が、「蝦蟇仙人」の頭上で、天を仰いで、光琳の「蹴鞠」ならず、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」を仰いているのである。

 これは、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との見事な連携プレーで、蕪村の俳諧の世界でするならば、見事な「付け合い」ということになる。

 さらに、この若冲の「鉄拐図」(右双)の、若冲の「図」とそれに賛する寂照の賛「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、俳諧(連句)の世界でするならば、発句(若冲「図」)に対する、脇句(その発句を受けての挨拶句の趣)の「賛」という雰囲気である。

 そして、この若冲の「蝦蟇図」(左双)は、右双の「若冲図・寂照賛の『鉄拐図賛』」に対して、その「鉄拐図賛(若冲図と寂照賛)」に比しての、「蝦蟇図賛(若冲図と月遷浄潭の賛)」の、この「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が見上げている、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質」(魂ヲ失イテ依ルトコロ無シ、餓死シタル屍ニ附ク、元、其ノ質ニ非ズ)という、この月遷浄潭の賛こそ、これら一連の図と賛との「結句」のように思われる。

 それは、「肉体は無になっても、魂は無にならない」というようなことを暗示していて、これらのことを、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との関連に当て嵌めて見ると、「光琳の『蹴鞠布袋図』の魂は、若冲の『蝦蟇・鉄拐図』において、その形状は消えていても、その魂は生き続けている」ということになる。

 事実、若冲は、天明九年、改元して、寛政二年(一七九〇)の、七十五歳の晩年に於いて、光琳が得意とする金壁障屛画の如き「仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)」(襖六面・紙本金地着色・各一七七.二×九二.二cm)として結実して来る。

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(若冲「仙人掌群鶏図」)

 さて、蕪村には「蝦蟇・鉄拐図」と題する作品はない。ただ、蕪村の丹後時代(宝暦四年=一七五四~同七年=一七五五)の作「十二神仙図」(六曲一双)の一扇(面)に、「蝦蟇(仙人)・鉄拐(仙人)」を描いたらしきものが残っている。

 これらの各扇(面)の「押絵貼(おしえばり)」で描かれた人物の特定は難しいが、その右隻の第三扇(面)は、「右側は足が悪いながら魂を自在に離脱させた李鉄拐(りてっかい=鉄拐仙人)、その隣は左手に桃を持ち右手に銭差しらしき紐を握ることから劉海蟾(りゅうかいせん=蝦蟇仙人)」と鑑賞しているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収「作品解説」)。

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(蕪村「十二神仙図屏風」、右隻=六扇、その第三扇=「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」)

 この「十二神仙図」の右隻の第三扇(右から三番目)、これが蕪村の「「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」である。鉄誘仙人の口から吐き出される霊気の中には、その分身は描かれていない。それは、おそらく、その分身が戻るべき肉体が焼かれて、飢え死にした肉体に宿って再生したということを暗示しているのであろう。

 また、蝦蟇仙人には、三本足の「青蛙神」は居らず、代わりに、不老不死や邪気を払う蟠桃(ばんとう)と金運を象徴する銭差しを持っている。これらも中国または日本の版本(絵手本など)から示唆を受けたものなのであろうが、蕪村の趣向というのが窺える。

 ちなみに、この「十二神仙図」は、享保五年(一七二〇)に刊行それた大岡春卜の『画本手鑑』に掲載されている図と類似するものがあるとの指摘がある(『南画鑑賞(八―十、一九三九年)所収「蕪村の画系を訪ねて(人見少華稿)」)。

 この大岡春卜は、若冲の最初の師とされ、若冲も、この大岡春卜の版本などから多くのものを学んでのであろう。若冲自身は、「狩野氏ノ技ヲ為ス者ニ従ヒテ」と、春卜その人の名を明らかにはしていないが、続いて、若冲は、「不如舎(舎=捨テルニ如カズ)」と、全てを断ち切り、「周(アマネ)ク草木ノ英(エイ)、羽毛虫魚ノ品(ヒン)、ニ及ンデゾ貌(カタチ)ヲ悉(ツク)シ、ソノ「神」ニ会シ、心得テ手応ズ」と「物」を「写実」することを基本に据える。

 一方、蕪村は、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と、画道において終生師として仰ぐものを持たなかった。ただ、目標としていた画と俳(俳諧)との二道の面において、当時、京都在住の、その先駆的な一方の雄であった彭城百川を慕って、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、十年余に及ぶ関東遊歴時代に終止符を打って上洛して来たという事実は紛れもないことであろう。しかし、その百川は、蕪村が上洛した翌年(宝暦二年=一七五二)八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じてしまうのである。

 この百川の逝去が一つの動機となっているのだろうか、その逝去の二年後、宝暦四年(一七五四)の春か夏の頃、百川も嘗て足を止めていた丹後の宮津へ移住し、百川が標榜していた「売画自給」(画業で自立する)の実践の途を決行することになる。この時、蕪村、不惑の齢の一年前、三十九歳であった。

 上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
ちなみに、この右隻(六扇)の署名と印章は次のとおりである。

第一扇 署名「四明」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第二扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)、「朝子」(白文方印)
第三扇 署名「四明」、印章「四明山人」(朱文方印)
第四扇 署名「四明」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝」「滄」(朱白文連印)
第五扇 署名「四明写」、印章「馬孛」(白文方印)、「四明山人」(朱文方印)
第六扇 署名「四明図」、印章「丹青不知老至」(白文方印)、「朝子」(白文方印)

 この署名の「四明」は、比叡山の二峰の一つ、四明岳(しめいがたけ)に由来があるとされている。そして、安永六年(一七七六)の蕪村の傑作俳詩「春風馬堤曲」に関連させて、蕪村の生まれ故郷の「大阪も淀川河口に近い摂津国東成郡毛馬村(現、大阪市都島区毛馬街)」からは「遠く比叡山(四明山)の姿を仰ぎ見られたことだろう」(『蕪村の世界(尾形仂著)所収「蕪村の自画像」)とされている、その比叡山の東西に分かれた西の山頂(四明岳)ということになろう。
 そして、この四明岳は、中国浙江(せっこう)省の東部にある霊山で、名は日月星辰に光を通じる山の意とされる「四明山」に由来があるとされ、蕪村は、これらの和漢の「四明岳(山)」を、この画号に潜ませているのであろう。

 また、印章の「馬孛(ばはい)」の「馬」にも、蕪村の生まれ故郷の「毛馬村」の「馬」の意を潜ませているのかも知れない。事実、蕪村は、宝暦八年(一七五八)の頃に、「馬塘趙居」の落款が用いられ、この「馬塘」は、毛馬堤に由来があるとされている(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。

 そして、この「馬孛(ばはい)」の「孛」は、「孛星(はいせい)=ほうきぼし、この星があらわれるのは、乱のおこる前兆とされた」に由来があり、「草木の茂る」の意味があるという(『漢字源』など)。

 とすると、「馬孛(ばはい)」とは、「摂津東成毛馬」の出身の「孛星(ほうき星)=乱を起こす画人」の意や、生まれ故郷の「摂津東成毛馬」は「草木が茂る」、荒れ果てた「蕪村」と同意義の「馬孛」のようにも解せられる。

 そして、この「孛星(ほうき星)」に代わって、宝暦十年(一七六〇)の頃から「長庚(ちょうこう・ゆうづつ=宵の明星=金星)」という落款が用いられる。

 この「長庚(金星)」は、しばしば「春星」と併用して用いられ、「長庚・春星」時代を現出する。ちなみに、「蕪村忌」のことを「春星忌」(冬の季語、陰暦十二月二十五日の蕪村忌と同じ)とも言う。

 この「春星」は、「長庚」の縁語との見解があるが(『俳文学と漢文学(仁枝忠著)』所収「蕪村雅号考」)、「春の長庚(金星)」を「春星」と縁語的に解しても差し支えなかろう。と同時に、「長庚・春星(春の長庚)」の、この「金星」は、別名「太白星」で、李白の生母は、太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ(「草堂集序」)、李白の字名(通称)なのである。

 また、この「朝子・朝・滄」の印章は、「四明」と同じく画号で、蕪村の師筋に当たる宝井其角の畏友・英一蝶(初号・朝湖、俳号・暁雲)の「狩野派風の町絵師」として活躍していた頃の号「朝湖」に由来するものなのであろう。

 関東放浪時代は、落款(署名)がないものが多く、それは「アマチュア画家として頼まれるままに絵を描いているうちに画名が高くなり、やがて専門家並みに落款を用いるようになった」というようなことであろう(『田中・前掲書』)。

 その関東放浪時代の落款(署名)は、「子漢」(後の「馬孛(ばはい)=ほうき星」「春星・長庚=金星」の号からすると「天の川」の意もあるか)、「浪華四明」、「浪華長堤四明山人」、「霜蕪村」の五種で、印章は「四明山人」、「朝滄」(二種)、「渓漢仲」の四種のようである(『田中・前掲書』)。

 こうして見て来ると、蕪村の関東放浪時代と丹後時代というのは、落款(署名)そして印章からして、俳諧関係(俳号)では「蕪村」、そして絵画(画号)では「四明」「朝滄」が主であったと解して差し支えなかろう。

 その中にあって、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」右隻の第四扇と第六扇との「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印は、これは、蕪村の遊印らしきものの、初めてのものと解して、これまた差し支えなかろう。

 そして、あろうことか、この「丹青不知老(将)至」(蕪村の遊印には「将」は省略されている)の文字が入っている遊印を、何と、若冲も蕪村とほぼ同じ時期に使用し始めているのである(細見美術館蔵「糸瓜群虫図」など)。

 この遊印を捺す作品の中で、制作時期が判明できる最も新しい若冲作は、「己卯」(宝暦九年=一七五九)の賛(天龍寺の僧、翠巌承堅(すいげんしょうけん)の賛)のある「葡萄図」で、蕪村作では、庚辰(宝暦十年=一七六〇)の落款のある「維摩・龍・虎図」(滋賀・五村別院蔵)である。

 しかし、この蕪村の「維摩・龍・虎図」の制作以前の、丹後時代の宝暦九年(一七五九)前後に、上記(掲出)の「十二神仙図屏風」は制作されており、そして、この「十二神仙図屏風」中の、この遊印の「丹青不知老(将)至」が使用さている右隻の第四扇の図柄などは、この遊印のの由来となっている、杜甫の「丹青の引(うた)、曹将軍(そうしょうぐん)に贈る詩」などと深く関係しているようにも思われるのである。

 すなわち、この右隻の第四扇は、「龍に乗る呂洞寶(りょどうひん)」とされているが(『生誕二百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村』図録)、呂洞寶としても、杜甫の「丹青引曽将軍贈」の詩の二十三行目に、「斯須九重真龍出」と「龍」(龍の語源の由来は「速い馬」)が出て来るし、それに由来して、七行目の「丹青不知老(將)至」の遊印を使用しているということは十分に考えられる。

 さらに、この右隻の第四扇は、呂洞寶ではなく「龍の病を治した馬師皇(ばしこう)」としているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)。確かに、呂洞寶は剣を背にして描かれるのが一般的で、蕪村の描く「十二神仙図押絵貼屏風」中の右隻の第四扇の人物は、病気に罹った龍を治したとされる「馬師皇」がより適切なのかも知れない。

 そして、これを馬師皇とすると、杜甫の詩の「丹青引曽将軍贈」の内容により相応しいものとなって来るし、蕪村の遊印の「丹青不知老至」を、この人物が描かれたものに押印したのかがより鮮明になって来る。

 さらに、この「作品解説」(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収)で重要なことは、『生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編集)』図録所収)の「作品解説」の、「大岡春卜の『和漢名筆 画本手鑑』(享保五年=一七二〇刊)の掲載図など、版本の図様を参考にした可能性が指摘されている」を、「右隻第一扇の黄初平図が、享保五年(一七二〇)に刊行された大岡春卜(一六八〇~一七六三)の『画本手鑑』に載る『永徳筆黄初平図』に類似するとの指摘もあり(人見少華『蕪村の画系を訪ねて』『南画鑑賞』八―一〇、一九三九年)、示唆に富む。右隻第四扇の龍も、同書の『秋月筆雲龍図』とよく似ており、こうした版本の図様を参考にした可能性も考えられよう」と、具体的に解説されているところである。


雪舟と探幽の「瀟湘八景」そして蕪村の「夜色楼台図」(その三) [雪舟・探幽・応挙・大雅・蕪村]

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図23 江天暮雪図(「東山清音帖」より) 大雅筆

[ 紙本墨画 一帖 全十六面 各二〇・〇×五二・〇cm
 本図にのみ「九霞山樵写」と落款が入っているので、八景の締めくくりの図である。たっぷりと水墨を含んだ太めの筆を、左側から数回ゆったりと走らせ、たちまちにして主山と遠山を描いてしまう。画面が湾曲している扇面形に、これらの主山、遠山の形と配置だけでもじつは難しいのであるが、大雅の筆にはいささかな迷いもなく、ごく自然に、これしかないという形で決まっている。太い墨線の墨がまだ乾かないうちに水を加えて、片側をぼかしている。白い雪、ふわっとした質感の表現であるが、まさに妙技といえる。折しも、一陣の風に、降り積もった新雪が舞い上がる。図25の《江天暮雪図》(注=掲載省略)と比較しても、本図においてはまた一段と円熟味が増しており、堂々たる風格を備わっていることがわかる。 ]
(『新潮日本美術文庫11池大雅』所収「作品解説(武田光一稿)」)

 大雅は、若いときから、瀟湘八景を繰り返し描いていた。寛延二年(一七四九)、二十七歳の春、親友の高芙蓉(篆刻家・儒学者)と共に北陸を旅し、金沢に数か月滞在した。その折、瀟湘八景図巻(現在焼失)を描き、これは「芥子園画伝」などを参考にし、八景の図様を独創的に作り上げたという。
 爾来、大雅は、画巻・画帖・屏風・掛幅など様々な画面形式で、八景各図を同一させたり同一画面に描き込んだりしてきたが、大雅最晩年期の作とされている、上掲(図23)が収載されている「東山清音帖」では、各図を独立させ、しかもそれを扇面に描いたのであった。さらに各題詩を同形の扇面に書して添えている。
 これらの扇面は折れ目が全く無く、一度も扇子に仕立てられたことがなかった。初めから扇子にする予定はなく、扇面という画面形式を選んだのであろう。少年時代に扇屋として出発し、商売として多数の扇画面を描き、扇面構成に熟達した経験が、五十歳代の晩年期になって結実して来たということなのであろう。
 画題は、紛れもなく「瀟湘八景」なのであるが、この画帖に「東山清音帖」と命名したのは、生涯の友であった高芙蓉である。
 大雅は、安永五年(一七七六)に、その五十四年の生涯を閉じるが、その翌年に、「故東山画隠大雅池君墓」の墓碑が、寺ノ内千本通りの浄光寺に建てられる。この銘の撰者は、若冲の精神的な支援者で知られている大典顕常(禅僧・漢詩人)、篆書は高芙蓉、そして、書者は韓天寿である。
 大雅が、高芙蓉(一歳年長)と韓天寿(四歳年下)と知り合ったのは、寛保元年(一七四一)、十九歳のときで、爾来、この三人は刎頸の友の間柄となる。この三人それぞれが「三嶽道者」と号しているが、それは宝暦十年(一七六〇)に、北陸の白山・立山、そして江戸を経て富士山を踏破したことに因るものとされている。
 大雅・高芙蓉・韓天寿、そして、大典・若冲の背後には、当時の京都の文人墨客ネットワークの中心に位置した、煎茶の祖・茶神と呼ばれている高遊外売茶翁(法名=月海、還俗後=高遊外、呼称=売茶翁)が見え隠れしている。
 この売茶翁は、若冲に「丹青活手妙通神(丹青活手ノ妙神ニ通ズ)」の一行書を呈した。そして、大雅には「寄興罐」と称する湯沸かしを与えている。宝暦十三年(一七六三)に売茶翁が没するが、その遺文を集成した『売茶翁偈語』の「売茶翁伝」を草したのは大典であり、翁の半身像を描いたのは若冲であり、『偈語』の売茶翁の自題を書したのは、大雅その人である。
 売茶翁は、年少(十三歳の頃)にして黄檗宗の本山である京都宇治の黄檗山万福寺にのぼった。以後、生まれ故郷の肥前蓮池(佐賀市)を始め、江戸・陸奥・筑前など各地の放浪を続け、臨済・曹洞の二禅の他、律学をも修した。しかし、六十歳を境にして、京都東山に小さな茶店「通仙亭」を開き、七十歳時に還俗して、法名「月海」を捨て「高遊外」を号し、「売茶翁」を呼ばれるに至った。さらに、八十歳時に売茶業を廃業し、愛用の茶道具も焼却してしまう。
 売茶翁が没した宝暦十三年(一七六三)、大雅は、四十一歳の時であったが、この売茶翁の臨終に際して、売茶翁愛用の「寄興罐」(湯沸かし)が、大雅に与えられたのであろう(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「池大雅略年譜」)。
 売茶翁が茶道具を焼却してしまう時、その茶道具を擬人化して、「私の死後、世間の俗物の手に渡り辱められたら、お前たちは私を恨むだろう。だから火葬にしてやろう」との文章を遺していて、大雅に「寄興罐」を与えたということは、大雅こそ、売茶翁の精神(世俗《売茶翁の売茶業=大雅の売画業》と禅道との融解)を引き継ぐものという意が込められていたのかも知れない。
 この売茶翁の「売茶業」の茶店の名前の「通仙亭」の「通仙」、そして、その茶店の脇に掲げられた旗の「清風」(大典書)は、売茶翁の精神の一端を物語っている、唐代の詩人玉川子廬仝(ろどう)の「茶歌」に因るものとされている。その「茶歌」を次に記して置きたい。

一碗喉吻潤   一碗喉吻潤イ     (一杯飲メバ喉ヲ潤シ)
兩碗破孤悶   二碗孤悶ヲ破ル    (二杯飲メバ孤独ヲ破ル)
三碗捜枯腸   三碗枯腸ヲ捜シ    (三杯飲メバ枯腸ヲ探シ)
惟有文字五千巻 惟ダ有リ文字五千巻  (唯文字五千巻ノミ浮カブ)
四碗発軽汗   四碗軽汗ヲ発シ (四碗飲メバ軽ク汗シ)
平生不平事   平生不平ノ事     (平素ノ不満事モ)
尽向毛孔散   尽ク毛孔ニ向カイ散ズ (毛穴ニ向カイ散リ尽クス)
五碗肌骨清   五碗肌骨清シ     (五碗飲メバ肌モ骨モ清シ)
六碗通仙霊   六碗仙霊ニ通ズ    (六碗飲メバ仙霊ニ通ズ)
七碗吃不得也  七碗吃スルヲ得ザル也 (七碗飲メバモウ飲メナイ)
唯覚両腋習習清風生  唯ダ両腋ノ習々タル清風ノ生ズルヲ覚ユ (唯両脇ニソソト清風ガ起ツヲ知ル)
蓬?山在何處  蓬?山何処ニカ有ル  (蓬莱山ハ何処ニ有リヤ)
玉川子乘此清風欲歸去  玉川子此ノ清風ニ乘リ歸リ去ラント欲ス (清風ニ乗リ蓬莱山ニ帰リタイ)

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図24 「高芙蓉書・東山清音」(「東山清音帖」題籢)

「文人画家池大雅の詩書画三絶の妙味が極点に達したのが、最晩年期の傑作「東山清音帖」であることに誰しも異論はあるまい。瀟湘八景の図に中国歴代の文人画家による七言絶句の書が書き添えられている。略筆の画と達筆の書とが一対となって詩意を香り立たせる様は、まさに圧巻というほかはない。」
(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「大雅の詩書画三絶」)。

 その大雅の「東山清音帖」の題籢「東山清音」は、大雅の刎頸の友の高芙蓉の書である。高芙蓉が、この「瀟湘八景図」と中国歴代の文人画家の「七言絶句」とを書き添えた画帖に、何故、「東山清音」と書したのかは、おそらく、「山水自清音(山水自ラ清音)」(『文選巻二二』「招隠詩(左思)」)などに由来するものなのであろう。
 そして、この「東山」は、「晋の謝安ゆかりの浙江省にある東山と、京都東山を掛けている」(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「大雅の詩書画三絶」)と理解するのが妥当なのかも知れない。
 しかし、この「東山」は、当時の京都の文人墨客ネットワークの中心に位置した売茶翁のバックボーンの「茶歌(玉川子廬仝)」の「蓬莱山=東山(とうざん)」(現実に存しない理想郷)と、その売茶翁が逍遥し、そして、大雅の生涯にわたる京都東山(現実の「知恩院古門前袋町そして祇園 下河原=真葛原草堂」)の「東山(ひがしやま)」をイメージ化したい。
 さらに、この「清音」も、売茶翁の茶旗の由来となっている「茶歌(玉川子廬仝)」の、その一句の「(大雅)乘此清風欲歸去(清風ニ乗リ蓬莱山ニ帰リタイ) 」の、その「清風」の意と同じような意と解したい。

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図25 「高芙蓉書・解衣盤?」(「東山清音帖」題字 )

 高芙蓉は、「東山清音」の題?に続き、続く題字として「解衣盤?=石偏に薄(かいいばんぱく)」の四字を書している。この「解衣盤?=石偏に薄」は、「衣服を脱いで足を投げ出して坐り、体裁にかまわないこと」(『池大雅 中国へのあこがれ(小林忠監修)』「大雅の詩書画三絶」)の意らしいが、『荘子』に由来するもので、「真にその道を得たものは、一切外見を粧はない」の意が込められているのであろう。
 まさに、先に見てきた、探幽や応挙の「晴れの場」の大画面構成による「雪中梅竹遊禽図襖」や「雪松図屏風」に比すると、これぞ普段の日常生活の「褻の場」に相応しい小品の扇面画であることか。しかし、この小品の扇面画の世界は、決して大作たる襖絵や屏風絵の世界に伍して一歩もひけを取らない。
 いや、それ以上に、大作たる襖絵や屏風絵は、それが大作なるが故に、無限なる空間というよりも有限なる大空間という印象を受けるのに比してて、小品たる扇面画は、それが小品なるが故に、有限なる小空間の彼方の無限なる空間を連想させるという、丁度、俳諧(連句)の発句(俳句=五七五=十七音字)の世界が、その小なるが故に、無限の空間を創出していることと軌を一にしている印象を深くするのである。
 ここで、先に、探幽と応挙とを比較した視点で、探幽・応挙と大雅(図23 荒天暮雪図)との世界を対比して見たい。

一 探幽の「余白」が「言葉のない空間」(語らない空間)、そして、応挙のそれは「言葉のある空間」(語っている空間」)とすると、大雅のそれは「言葉を拒否する空間(「余白」ではなく「白」そのもの無限の空間)ということになる。
二 探幽の「省筆」(減筆体)が上記の「言葉のない空間」、そして、応挙のそれが上記の「言葉のある空間」を生むための作為的(計算的)なものとすると、大雅の「言葉を拒否する空間」は、いわば、「破省筆」という無作為的(偶発的)な世界のものである。
三 探幽の「写実」(写生)は、「本絵」を描くための「下絵」的な従たる世界のもの、そして、応挙のそれは「写生=写実=『実体らしきもの』の描写=究極的世界」の主たる世界のものとすると、大雅のそれは「写意」の世界ということになる。
四 探幽の「空間」が平面的な空間、そして、応挙のそれは立体的な空間の、何れも絵画的(造形的)な空間とすると、大雅のそれは「詩書画三絶」の非絵画的(非造形的)な空間を醸し出している。
五 探幽の絵が「近見の絵」(近くで鑑賞する細密描写に気を配ったもの)、応挙のそれは「遠見の絵」(遠くから見て真価を発揮するもの)の時間をかけた「本絵」(「下絵」から「本絵」へと仕上げていくもの)とすると、即興的な「下絵=本絵」の「手元の絵」(手元で鑑賞する絵)という雰囲気である。
六 「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)と「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)の視点からすると、それこそが、探幽様式であり、その探幽様式を、写生(写実)の「実体らしきもの」の新しい応挙様式へと発展させたのが応挙である。それに比して、大雅は、雪舟水墨画に原点回帰し、その「筆墨飄逸」と「余白の美」をさらに深化させたとも言えよう。
七 探幽の「豊穣な空間」、応挙の「人為の極の美的空間」に比すると、大雅は「禅的無我の自在的空間」を感じさせる。
八 探幽が「江戸狩野派」、応挙は「円山四条派」の、それぞれ一大画派集団の長であるのに比して、大雅は「文人画」(南画)という傍流の世界にあって、「詩書画三絶」の「臥遊」の市井絵師に徹したという印象を拭えない。まさに、大雅の世界は、高芙蓉の「東山清音帖」に寄せた題字「解衣盤?(かいいげんぱく)」の、その「衣服を脱いで足を投げ出して坐り、体裁にかまわないこと」の、何らの制約を受けない自由人としての「融通無碍」の世界のものであったということになろう。

 ここで、「東山清音帖」の八景について、玉川子廬仝(ろどう)の「茶歌」に準じて。その八景に大雅が付した漢詩人の七言絶句の一節などを戯画的に紹介して置きたい。

一景(「平沙落雁」)ヲ見レバ、「漁夫自醒還自酔」(漁夫自ラ醒メ、還《マ》タ自ラ酔ウ)
              「不知身在画図中」(知ラズ、身ハ図中ニ在ルヲ)
二景(「遠《烟》浦帰帆」)ヲ見レバ、「無奈遊情日与催」(無奈=ドウニモ、遊情ガ日ニ与ニ催シ)
                「欲畫楚山青萬里」(楚山ト萬山ヲ、画カント欲ス)
三景(「山市晴嵐」)ヲ見レバ、「老向天涯頗見畫」(天涯ニ老イテ、頻リニ画ヲ見レバ)
              「一枝曾折送行人」(曾テ一枝ヲ折リ、行人ニ送ル)
四景(「漁村夕照」)ヲ見レバ、「草堂仍著薜蘿遮」(草堂仍テ薜蘿ヲ著ケ遮リ)
              「地僻林深有幾家」(地僻ニシテ、深林幾家カ有ル)
五景(「洞庭秋月」)ヲ見レバ、「仙家應在雲深處」(仙家応ニシテ、雲深キ処ニ在リ)
              「祇許人間到石橋」(祇《タダ》許ス、人間石橋ニ到ルヲ)
六景(「瀟湘夜雨」)ヲ見レバ、「前村遥望秋烟起」(前村遥ニ望メバ、秋烟起コリ)
             「更在新筝破暁寒」(更ニ新筝ガ、暁寒ヲ破ル)
七景(「遠寺晩鐘」)ヲ見レバ、「百両真珠難買得」(百両ノ真珠、買イ得難キヲ)
              「越峯圧倒漫金濤」(峯ヲ越エレバ、圧倒ス金濤ノ漫《ミ》ツルニ)
八景(「江天暮雪」)ヲ見レバ、「暁角寒聲散柳堤」(暁角ノ寒声、柳堤ニ散リ)
             「千林雪色亞枝低」(千林ノ雪色、枝ヲ亜シテ低シ)
             「行人不到邯鄲道」(行人不到、邯鄲ノ道)
             「一種煙霜也自迷」(一種ノ煙霜、也《マタ》自ラ迷ウ) 
              (董其昌)

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図26 荒天暮雪書(「東山清音帖」より「董其昌・七言絶句」 )大雅書

 「東山清音帖」の最後を飾る「荒天暮雪図」(図23)と対を為している董其昌の七言絶句(大雅書)である。
この中国の明時代の『画禅室随筆』の著を有する董其昌こそ、中国の「文人画」ならず日本の「文人画」の理論的な支柱を据えた人と言って過言ではなかろう。
 その『画禅室随筆』中の、「画ノ六法、一ハ気韻生動ナリ。気韻ハ学ブ不可(ベカラズ)。此レ生マレナガラニシテ之ヲ知り、自ズカラ天授スルニ有リ。然レドモ亦タ学ビ得ル処有リ。『 読万巻書(万巻ノ書ヲ読ミ)/ 行万里路(万里ノ路ヲ行く)』ハ、 胸中ヨリ塵濁ヲ脚芸スレバ、自然ニ丘壑内営シテ、立チニ?(?)鄂ヲ成シ、手ニ随イテ写出スルモ、皆ナ山水ノ伝神タラン」は、当時の大雅のみならず、以後の日本文人画の世界に足を踏み入れている者の金科玉条であったことであろう。
 若き日の大雅は、「已行千里道未読万巻書」(已ニ行ク千里ノ道、未ダ読マズ万巻ノ書)の印章を愛用していたが、これは、董其昌の、『 読万巻書(万巻ノ書ヲ読ミ)/ 行万里路(万里ノ路ヲ行く)』を目指しての、ひたすらに、董其昌の提唱している理想的な文人画家を志してのものなのであろう。
 大雅は、七歳の時に、黄檗宗総本山万福寺の杲堂(こうどう)和尚より「七歳神童書云々」の偈を賜っており、爾来、万福寺との関係は深い。十五歳の時に、大雅は文人画風の扇絵を売る「待賈堂(たいかどう)」を開店、その翌年に文人風の印章を彫る「袖亀堂(しゅうきどう)を併せ開いている。
この頃、大和郡山藩の重臣で日本文人画の先駆者の一人である柳沢淇園(柳里恭)の薫陶を受けることになる。大雅の若い時の号、「玉海」は、淇園の別号の「玉桂」の一字を与えられたものと言われている。また、大雅の妻の「玉瀾」も同じ淇園門で、玉瀾の祖母・母とも歌人で、大雅と結婚した後も、「徳山」の姓を用いている女流専門画家である。
 大雅と玉瀾とは、祇園下河原の真葛原草堂を住居とするが、そこは、玉瀾の家で、大雅は、結婚前に住んでいた、知恩院袋町の家も利用していたことが、『平安人物史』(明和五年=一七一六版と安永四年=一七七五)上の二人の住所を見ていくと判明して来る(『日本の美術26小学館ブック・オブ・ブックス池大雅(吉沢忠著)』)。
 何れにしろ、この二人と淇園との関係は深いものがあり、その淇園は、黄檗僧(万福寺八代住持) 悦峯道章(えっぽうどうしょう)の影響を深く受けており、大雅が董其昌を知ったのは、淇園などを通してのものなのかも知れない。
 董其昌は禅に深く傾倒しており、その『画禅室随筆』で、「禅宗に南北二つの派があるが、(中略) 絵の南北二宗もまた唐の時代に分かれた。(中略) 南宗は王摩詰(注・王維)を祖とする」とし、さらに、「文人の画は王右丞(注・王維)より始まり、(中略) 元の四大家(注・王蒙、倪?=雲林、黄公望・呉鎮)にいたるまで正しくその法を伝えている。わが朝(注・明朝)の文徴明・沈石田なども、遠く王維の奥義に接している」(『日本の美術№4文人画(飯島勇編)』)とし、「北宗画と南宗画、文人画と南宗画」との関係を論じ、文人画(南宗画)の祖を王維としている。

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図27 「倣王摩詰漁楽図」池大雅筆 紙本墨画 一四九・二×五三・八cm 京都国立物館蔵

 日本の文人画(南画)の大成者として、池大雅と与謝蕪村との二人の名が挙げられる(『日本の美術25小学館ブック・オブ・ブックス南画と写生画(吉沢忠・山川武著)』)。

[ 廿四日(注・天明三年《一七八三》十二月)の夜は病体いと静(しずか)に、言語も常にかはらず。やをら月渓をちかづけて、病中の吟あり。いそぎ筆とるべしと聞(きこゆ)るにぞ、やがて筆硯料・紙やうのものとり出(いず)る間(ま)も心あは(わ)ただしく、吟声を窺(うかが)ふに、
  冬鶯むかし王維が垣根哉
  うぐひすや何ごそつかす藪の霜
ときこえつゝ、猶工案のやうすなり。しばらくありて又、
  しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
こは初春の題を置(おく)べしとぞ。此(この)三句を生涯語の限(かぎり)とし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。]
  (蕪村追悼集『から檜葉(高井几董編)』「夜半翁終焉記(高井几董稿)」)

 大雅が亡くなったのは、安永五年(一七七六)四月十三日、五十四年の生涯であった。そして、蕪村が六十八年の生涯を閉じたのは、天明三年(一七八三)十二月二十四日であった。上記は蕪村の終焉時の状況である。
蕪村はその臨終に際して、絶吟三句を遺して瞑目した。その三句のうちの一句目、「冬鶯むかし王維が垣根哉」と、董其昌に南画の祖として仰がれている、盛唐期の高級官僚で、詩人・画家・書家・音楽家として名も留めている王維その人に関する句なのである。
この南画の祖の王維を究極の目標と仰ぐ、蕪村と大雅は、明和八年(一七七一)八月に、国宝の「十便十宜画冊」を競作した。時に、蕪村、五十六歳、そして、大雅は四十九歳であった。蕪村と大雅とは親しく付き合った形跡は見当たらないが、この競作は、尾張鳴海の素封家下郷次郎八(号・学海)が「大雅堂に学んだ」ことなどから、大雅に制作を依頼して、大雅が蕪村に合作の仲介依頼などをして実現したものなのであろう(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
 この画冊(画帖)は、明末清初の文人(戯曲家)で、文人画のテキストとして有名な「芥子園画伝」の著を有する李漁(号・笠翁)の『伊園(注・笠翁の別荘の名)十便十二宜詩(注・実際には十宜詩か伝わっていない)』を主題にしたものである。
その主題のうち、大雅が「十便図」(「耕便=こうべん」「汲便=きゅうべん」「浣灌便=かんたくべん」「灌園便=かんえんべん」「釣便=ちょうべん」「吟便=ぎんべん」「課嚢便=かのうべん」「樵便=しょうべん」「防夜便=ぼうやべん」「眺便=ちょうべん」)、蕪村が「十宜図」(「宜春=ぎしゅん」「宜夏(ぎか)」「宜秋(ぎしゅう)」「宜冬(ぎとう)」「宜暁(ぎぎょう)」「宜晩(ぎばん)」「宜晴(ぎせい)」「宜風(ぎふう)」「宜陰(ぎいん)」「宜雨(ぎう))」を制作している(各絵にそれぞれ該当する賛が記されている)。
もとより、この画帖は絵と書とを鑑賞するように作られており、「画家」と「書家」の両方の専門家である大雅(明和五年の『平安人物史』には両方の部に登録されている)向きの主題で、「画家」と「俳諧師」の蕪村には、やや不向きなものでもあったろう(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。
あまつさえ、大雅の担当した「十便図」の方は、俳諧の世界でするならば、人事の世界(人情機微の世界)で、蕪村が担当した「十宜図」の景気の世界(情景・景色の世界)よりも、蕪村としては、これが逆であったならば、もっと本領が発揮出来たような、やや窮屈な印象すら垣間見える。
これらのこともあってか、この「十便十宜画冊」を基準にしての大雅と蕪村トの評価は、「大雅の逸筆、春星(注・蕪村)の戦筆、(中略) 大雅ハ正ニシテ譎(ケツ)ナラズ、春星ハ譎ニシテ正ナラズ。然レドモ均シク一代覇ヲ作(ナ)スノ好敵手」(田能村竹田『山中人饒舌』)などと、文人画の正統(逸筆=逸格の風)は大雅で、蕪村はやや独自の画風が強い(戦筆=「奇なる(個性の強い)風)との評がなされている。
 それらはそれとして、大雅と合作・競作した蕪村の「十宜図」は、蕪村の一気呵成の気に興ずるままに描く、いわゆる「草画(俳諧画)」などに比すると、大雅の意を汲んで、主題をよく読み込み、当時の文人画の双璧を為す二人の画家の「合作・競作・連作」としての、相互に、「持てるものは全て出し尽くす」という気概が、これまた、特に、蕪村の「十宜図」に濃厚に彩られている印象を深くするのである。
 その蕪村の「十宜図」のうちに「王摩詰(王維)」の名が出て来る「宜晴(ぎせい)」図がある。これは、まさしく、蕪村の、南画の祖たる王維(王維が隠遁している「?川荘」と王維が描く「?川荘」周辺の風景)
に向けての、俳諧でするならば、「挨拶」(問い掛け)以外の何物でもないであろう。
 そして、この「宜晴(ぎせい)」図(図28)は、大雅の「倣王摩詰漁楽図」(図27)などを胸中に抱いての、
いわゆる、「画・俳」の二道を極めた蕪村(春星)の、年下ではあるが文人画の先達者である「書・画」二道を究めた、大雅への「挨拶」以外の何物でもないであろう。

図28 宜晴.png

図28 蕪村筆「十宜図」の「宜晴」図(紙本淡彩 一帖十図 各一七・九×一七・九cm 川端康成記念館蔵)

 その蕪村の「宜晴」図中の、李笠翁の詩は次の通りである。この王摩詰(王維)の「?川荘」周辺の風景(奇鋒)の描法は、文人画家が好んで用いた「披麻皴(ひましゅん)」(麻をほぐしたような柔らかい描線)が遺憾なく発揮され、色彩も軽やかな、蕪村の、文人画(南画)、そして、この合作者・競作者・連作者である大雅へのメッセージなのであろう。

水淡山濃瀑布寒  水淡ク山濃クシテ瀑布寒シ
不須登眺自然寬  登眺ヲ須(もち)イズシテ自然寬ナリ
誰將一幅王摩詰  誰カ将ニ一幅ノ王摩詰ヲ
簪向當門倩我看   當門ニ向カイテ簪(カザ)シ我ニ看ンコトヲ倩ウ

 ここまで来ると、大雅・蕪村が目指したもの、いわゆる、日本の文人画(南画)と、当時の日本の絵画史上主流を為していた狩野派の絵画(その中核にある狩野探幽の世界)と、その狩野派に新しい息吹の「写生(写実)」を吹き込んでの円山四条派の世界(その中核にある円山応挙)の世界)との、この三者のもつれ合いというのが、江戸中期の、十八世紀の、京都の「応挙・若冲・大雅・蕪村」時代ということになる。
 そして、「狩野派=探幽・円山四条派=応挙・奇想派個性派)=若冲」が、「正ニシテ譎(ケツ)ナラズ」、それ比して、「大雅・蕪村=文人画(南画)」は、「譎ニシテ正ナラズ」ということになるのかも知れない。
 ここで問題とする「正と譎」とは、文人画家(大雅・蕪村等)が目指した世界の、「詩書画三絶」「詩画一致」の世界からする「正と譎」であって、純粋に「画(絵画)性」に焦点を当てたものを「正」(絵画における正統派)とすると、文人画(南画)というものは「譎」(非正統派=異端派)の世界のものということに他ならない。
 また、その「正」「譎」は、相互の優劣関係を意味するのではなく、画風の違いを相対的に指摘しているに過ぎないということに他ならない。
 ここで、中国の文人画というのは、職業画家の画(院体画)に対し、文人(士大夫などの上層階級者)が自娯として描いたものを指し、いわば、その身分によって区分なのであるが、日本の文人画というのは、その身分によってのものではなく、様式(上記の画風など)による区分で、ニュアンスが異なっている。
 その文人画と南画との二重の呼称については、北画(北宗画)が、院体画(宮廷画家などの職業画家の画)の系譜を指すのに対して、南画(南宗画)は、上記の文人による画の系譜のものの呼称ということになる。
 そもそも、室町時代の雪舟の時代には、中国においては院体画の北画(北宗画)が盛んな時代で、日本に文人画(南画)が入ってきたのは、実に、十八世紀の江戸時代中期の、大雅・蕪村の時代なのである。この文人画(南画)の日本への伝来には、黄檗宗の移入とその舞台となった京都宇治の黄檗山万福寺が大きな役割を果たしたことであろう。
 もう一つ、中国の文人画(南画)の「八種画譜」や「芥子園画伝」などの画譜(画集。普通には学習の参考となる画を版刻にして載せたもの)の伝来が大きな影響を与えたことは、大雅・蕪村の二人の画歴を見ただけでも一目瞭然となって来る。
その日本の文人画(南画)に大きな影響を与えた「芥子園画伝」初集を編纂・刊行した人こそ、李漁(号・笠翁)なのである。その別荘の「伊園十便十二宜詩(注・実際には十宜詩か伝わっていない)」を主題にしたものが、大雅と蕪村の合作・競作の「十便十宜画冊」ということになる。
ここに、この大雅と蕪村との稀に見る合作・競作の「十便十宜帖画冊(画帖)」が、日本の文人画(南画)におけるバイブル(原書)的な意味合いを擁することになる。
翻って、「王維(文人画の祖)隠棲後の別荘「?川荘」→董其昌の「画禅室」(「南北宗論」の『画禅室随筆』の著者の画室名)→李漁(号・笠翁)の別荘「伊園」「 (文人画のバイブル 『芥子園画伝』初集の編纂・刊行者)の晩年の別荘」と、この文人画の系譜というのは、隠遁者(隠棲者)の系譜と重なるものがある。
 この文人画(南画)の隠遁者の系譜は、日本文人画(南画)の先駆者、祇園 南海(延宝四年=一六七六)、彭城百川(元禄十年=一六九八)、柳沢淇園(宝永三年=一七〇六)に連なり、そして、それが、大雅(享保八年=一七二三)、そして、蕪村(享保元年=一七一六)の二人によって大成され、その頂点を極めたものが、明和八年(一七七一)の、『十便十宜画冊』ということになろう。

 さて、ここで、冒頭の大雅の「江天暮雪図」(図23)に戻りたい。この扇面に大雅が筆を入れたのは、四筆程度で、硯に筆を入れて墨を含ませたのは一・二筆であろう。大雅の、いわゆる「略画」(減筆体と省筆体による簡略画)の最たるものとして差し支えなかろう。
 この「江天暮雪図」が収載されている、大雅扇面画の帰結点とも言うべき「東山清音帖」は、礬水(どうさ)を強くして墨の滲みを防止している熟紙(加工紙)を用いており、この「江天暮雪図」ですると、太目の筆に「濃墨・淡墨」を含ませて、山の輪郭を直筆と側筆の描線で描き、その墨の濃淡などによって、見事に、「山の雪が清風によって吹雪いている」状況を描いている。これは、偶発性の墨の滲みによるものではなく、経験による計算し尽くした、一種のたらしこみ・ぼかしの効果なのであろう。
 そして、この「江天暮雪図」の余白は、全て、「雪」と「空」の白一色の世界なのであろう。ここまで来ると、禅の教理を暗示している禅画という雰囲気を醸し出している。
大雅は、宝暦元年(一七五一)、二十九歳の時に、臨済宗中興の祖と仰がれている白隠禅師に参禅し、その時の大雅が白隠禅師に呈した詩偈が今に残されている。

 耳豈得聞隻手響 (耳ハ豈ニ聞キ得ルヤ隻手ノ響キヲ)
 耳能没了尚心存 (耳能ク没了スルモ尚心ニ存ス)
 心能没了尚難得 (心能ク没了スルモ尚得ルコト難シ)
 却識師恩不識深 (却ッテ識ル師恩ノ深サノ不識ヲ)
 奉(タテマツル)        
 白隠老禅師榻下(ハクインロウゼンシトウカ)
 請教(オシエヲコウ)
 池無名拝具草(イケノアリナハイグソウ)

 これは、白隠禅師が大雅に示した公案「隻手音声(セキシュオンジョウ)」(両手打ツテ音声アリ、隻手ニ何ノ音声アリヤ)に対する、大雅の詩偈(悟りの境地を詩で表現したもの)なのであろう。
 大雅の生涯というのは、七歳の幼少の頃から宇治の万福寺に出入りし、爾来、禅僧との交流が続き、中でも、中国人帰化僧の大鵬正鯤(万福寺第十五世住職のち第十八世再任)や、売茶翁の通称で知られている月海元昭(還俗後=高遊外)、そして、この白隠禅師(禅画の第一人者)と、禅宗のへの帰依というよりも、禅そのものの修行者という思いを深くする。
 この「江天暮雪図」(図23)は、これに添えた「江天暮雪書」(図26)の、その董其昌の七言絶句の理解が必要になって来る。

「暁角寒聲散柳堤」(暁角ノ寒声、柳堤ニ散リ)
「千林雪色亞枝低」(千林ノ雪色、枝ヲ亜シテ低シ)
「行人不到邯鄲道」(行人不到、邯鄲ノ道)
「一種煙霜也自迷」(一種ノ煙霜、也《マタ》自ラ迷ウ) 
     (董其昌)

 この董其昌の「邯鄲ノ道」というのは、『荘子』秋水篇に出て来る「人を真似ていると、全てが中途半端になり、自分の本分すらも失ってしまう」の「邯鄲の歩み」を指しているのであろう。そして、「一種煙霜也自迷」(一種ノ煙霜、也《マタ》自ラ迷ウ) と、「一種ノ煙霜デ、亦シテモ道ヲ迷ウ」というのであろう。
 この大雅の「自迷(自ラ迷ウ)」の、その「自迷」の、文人画の道と禅画の道を引き継いだのは、次の時代の、浦上玉堂と仙崖なのかも知れない。

図29  玉堂.png

図29 浦上玉堂寿像(浦上春琴筆) 林原美術館蔵 

仙厓.png

図30□ 〇△[新月](仙厓義梵筆)出光美術館蔵

 ここで、大雅の「瀟湘八景」の到達点とも言うべき、「江天暮雪図」(図23)と、その「江天暮雪書」(図26)とを、並列して見て行くと、蕪村と大雅の一時代前(江戸時代前期の後半の元禄時代)の、日本の俳聖・松尾芭蕉の悟道の記録とも言うべき、『野ざらし紀行』の「路粮(みちかて)をつつまず、三更月下無何に入(る)といいけむ、むかしの人の杖にすがりて」の、その荘子に由来する「無何有ノ郷」(「〔荘子 逍遥遊〕
の作為のない自然のままの世界=理想郷=ユートピア=「無何有郷(むかゆうきよう)」)が想起されて来る。
 そして、それと、大雅が、その「江天暮雪書」(図26)で引用した、董其昌の「行人不到邯鄲道」(行人不到、邯鄲ノ道)を思い起こすと、芭蕉の全生涯を象徴している、次の一句が浮かび上がって来る。

 此道(このみち)や行く人なしに秋の暮 芭蕉 (『笈の小文』)

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