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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十二) [光琳・乾山・蕪村]

その二十二 乾山の「百合図」

乾山百合一.jpg

尾形乾山筆「百合図」 一幅 紙本着色  大山崎山荘美術館蔵
30×52.5cm

https://www.asahibeer-oyamazaki.com/chinese/collection/050.html

(メモ)

一 上記のアドレスの解説記事を見ると、「柳宗悅」の旧蔵品で、アサヒビールの「山本為三郎」所蔵となった作品のようである。この種のものは何点かあるようである。

乾山百合二.jpg

尾形乾山筆「百合図」一幅 紙本着色 個人蔵 元文三年(一七三八)作
一一六・七×二六・六㎝
【 款記から元文三年(一七三八)、乾山七十六歳の作と判明する。一見素朴ながら味わい深い作。ゆっくりと引かれた線に、乾山らしい重々しさと雅味がある。「燈(ともしび)の夜を残すかと朝露にひかりことなるゆりの一花」は、室町時代の公家歌人三条西実隆の歌。 】(『もっと知りたい 尾形光琳(仲町啓子著)』)

この作品の印章らしきものは、朱で「権平」(乾山の幼時の頃の名)の「平」を図案化した「花押」のようである。この花押の他に、「巾着」形の「花押」があるが、「平」の花押は、主として文書や晩年のものに使用しているのかも知れない。

乾山花押.jpg

(『尾形乾山第三巻研究編(リチャード・ウィルソン、小笠原左江子著)』)
所収「乾山の花押」

二 上記の図の歌賛は、どちらも、三条西実隆の「燈(ともしび)の夜(よ)を残すかと朝露にひかりことなるゆりの一花」である。歌賛がなく、扇面の「百合図」もある。皆、同時の頃の作品なのであろう。

乾山百合三.jpg

尾形乾山筆「百合図扇面」(ファインバーグ・コレクション)

https://blog.goo.ne.jp/shinakoji/e/f72a998bcf1e993d681c44eab1adc0b6

三 乾山の「百合」を主題とした名品も多い。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000888.htm

「乾山銹絵百合形向付」MIHO MUSEUM蔵(益田鈍翁旧蔵) 高:5.2cm 口径:15.8cm 底径:5.8cm
【 型造りの向付で,器表面には型離れを容易にするためにあてられたと考えられる布の圧痕(布目)が残っている。銹絵で花弁の縁どりとしべが描かれ,全体に半透明の釉が掛
けられているが,外底部だけは露胎になっている。
乾山焼ではごく一般的な白泥を塗る手法も,この向付に関しては全く用いられていない。現在,京都の法蔵寺に所蔵されている鳴滝窯跡出土陶片のなかに,ほとんど同一の向付の口縁部破片が存在することから,この種の向付がすでに鳴滝時代には作られていたことが知られ,製作年代を考えるうえでの大きな手掛かりとなっている。
五客中四客に「乾山」の銹絵銘が施されているが,いずれも書体が極めてよく似通っており,同一人物の手によるものと推定される。銘は,くずしの少ない整った書体のもので,これは乾山焼の銘としては古相を示すものと考えられている。】
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十一) [光琳・乾山・蕪村]

その二十一 乾山の「青・白桔梗図」

乾山桔梗一.jpg

Blue and white flowers on slender stalks → 青・白桔梗図(フリーア美術館蔵)
Type Hanging scroll (mounted on panel) → 掛幅
Maker(s) Artist: Inscription and seals of Ogata Kenzan (1663-1743)→尾形(緒方)乾山
Historical period(s) Edo period, 18th-19th century
Medium Color on paper → 紙本着色
Dimension(s) H x W (image): 128.5 × 47.3 cm (50 9/16 × 18 5/8 in)

(メモ)

一 元文五年(一七四〇)、乾山、七十八歳時の作。落款は「京兆七十八翁緒方深省画」。原題は「Blue and white flowers on slender stalks」(細い茎の青と白の花)だが、桔梗の花のようである。

二 この「青と白の花」は、先に紹介した「花籠図」(福岡市美術館・松永コレクション)、そして、「花籠桔梗図扇面」(フリーア美術館蔵)と同じ「青と白の桔梗図」なのであろう。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13



乾山桔梗二.jpg

乾山筆「花籠図」(福岡市美術館蔵)の「部分図」



乾山桔梗三.jpg

乾山筆「花籠桔梗図扇面」(フリーア美術館蔵)の「部分図」

三 晩年の乾山が、執拗に描く初秋の花「桔梗」は、上記のアドレスで、蕪村の「修行者(すぎょうしゃ)の径(こみち)にめずる桔梗かな」の句を引用しながら、『伊勢物語』(第九段「宇津の山」)が、その背景となっているのではないかということについて記したが、
やはり、遠く東国の江戸にあって、生まれ故郷の西国の京都への思いというのが、この「青と白の桔梗」の背景なのではないかという思いを深くする。

(再掲)
【  修行者(すぎょうしゃ)の径(こみち)にめずる桔梗かな
             (蕪村、安永六年=一七七七、六十二歳)

 句意は、「行脚の僧が、小径の傍らの桔梗を見つけ、しばし見とれている」のようなことであろうが、この「修業者」を、黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山、そして、浄土宗の行脚僧・(釈)蕪村と置き換えてみると、この句のイメージが鮮明になって来る。
 その上で、この句の背景は、『源氏物語』(「野分」の段)ではなく、『伊勢物語』(第九段「宇津の山」)が、その背景となって来る。

( 行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」
といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり。) (『伊勢物語』(第九段「宇津の山」) 】

四 そして、乾山の、この望郷の思いは、家兄光琳への思いと繋がっているのであろう。これまた、先に紹介した、光琳の「白地秋草模様小袖」にも、「青と白の桔梗」が描かれている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-11


乾山桔梗四.jpg

光琳筆「白地秋草模様小袖」(東京国立博物館蔵)の「部分拡大図」

五 次の「色絵桔梗文盃台(はいだい)」は、乾山陶器の白眉の一つに数えられている。

乾山桔梗五.jpg

乾山作「色絵桔梗文盃台」一基 色絵(上絵付) 高火度焼成 MIHO MUSEUM蔵
高七・〇 口径五・二 鍔径一四・八 底径六・〇 ㎝
【 盃台とは引盃(ひきさかずき)を乗せる台で、円筒形の高台に鍔(つば)が付き、中央の筒内に盃に残った酒露や湑(したみ)を流すようになっています。茶事の懐石で用いられ、客の数だけ乗せて持ち出します。通常、引盃と対になっているため漆器製品が多いですが、湑穴のない渡盞(とさん)には誠治染付など磁器製のものが見られます。この盃台はとても手の込んだ作りと意匠になっています。まず、そのしっかりとした成形技術。裾広がりの円錐形円筒高台に、透かしを設けた不整形の鍔が付けられていますが、鍔はわずかに下がり気味とはいえ、成形、焼成には高度な製陶技術が発揮されていることに驚かされます。次にそのデザイン性。鍔の表面には白泥と染付で桔梗の花弁が描かれ、さらに金彩で花弁と蕊(しべ)が描かれ、その裏面には白化粧と染付で下地を作り、その上から赤、緑、金の丸文が金の格子文と格子間に施されています。口縁には白化粧下地の上に外側に簡略化された瑞雲文、内側には半花文が赤と染付で施され七宝輪違文、その中に赤で唐花文を施しています。成形技術もさることながら、このデザイン性の素晴らしさは、乾山の卓抜した意匠力のなせる技でしょう。全面に透明釉を掛けて本焼した上絵付け色絵製品で、底は土見せ、きめ細かな白土が確認でき、中央に窯瑕(かまきず)が生じていますが、大きく伸びやかな乾山名が銹絵で記されています。この盃台は乾山の斬新で大胆な感性が存分に発揮された、乾山陶の白眉といっていい作品でしょう。】(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』所収「作品解説8」)

六 乾山には、「桔梗」を主題にした名品が多い。

http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000674.htm

乾山銹絵染付桔梗図筒向付

京都 江戸時代中期 18-19c 乾山陶製、色絵 H-8.8 D-7

https://blogs.yahoo.co.jp/les_fleurs3106/GALLERY/show_image.html?id=45239412&no=6
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二十) [光琳・乾山・蕪村]

その二十 乾山の「乙御前図」

乾山・乙御前図.jpg

Uzume (Okame) and flowers → 乙御前図  (フリーア美術館蔵)
Type Hanging scroll (mounted on panel) → 掛幅
Maker(s) Artist: Signature of Ogata Kenzan (1663-1743)
Historical period(s) Edo period, 18th-19th century
Medium Color, ink, and gold on paper  → 金地紙本着色
Dimension(s) H x W: 29.3 x 53.6 cm (11 9/16 x 21 1/8 in)

(メモ)

一 乾山の、この「乙御前(おとごぜん)図」は、光琳の次の「乙御前図」を念頭に置いたものであろう。

光琳・乙御前図.jpg

尾形光琳筆「乙御前図」(国華百九十七号=明治三十九年十月)

https://www.kosho-zou-zou.net/bookshelf/art/1939-2013-11-21-05-57-44

二 乾山の落款は、「京兆逸士七十七翁 紫翠深省」で、元文四年(一七三九)作ということになる。この前年(元文三年)には、京都の若冲(二十三歳)は、「父没に伴い四代目源左衛門となり家督相続」の頃、蕪村は江戸の夜半亭(日本橋本石町)にあって絵俳書『卯月庭訓(露月ら編)』に蕪村の最初の作品「鎌倉誂物」と題する「自画賛」が収載された頃である。

三 光琳の落款は、「法橋光琳」で、光琳が法橋に叙せられたのは、元禄十四年(一七〇一・四十四歳)で、それ以降の作品ということになる。この落款の署名の前に「以利休居士」云々とあり、この「乙御前」(お多福・ウズメ・オカメ)は、利休居士愛用のものと何か関係があるのかも知れない。

四 因みに、「茶の湯釜の形状のひとつで、丈が低く、口造りは姥口で、全体にふっくらとした形の釜」が「乙御前釜」で、「朝夕になれしなじみの姥口を、人に吸せんことおしぞ思ふ」などの狂歌もあるようである。

http://verdure.tyanoyu.net/kama_otogoze.html


乙御前釜.jpg

五 光琳・乾山とは尾形家(京都有数の呉服商「雁金屋」)とは姻戚関係にある本阿弥光悦作の「赤楽茶碗」の一つに、銘が「乙御前」のものがある。

光悦・乙御前.jpg

本阿弥光悦 赤樂茶碗 「乙御前」 重要文化財 江戸時代(十七世紀) 個人蔵
八・八×十一・五×三・一㎝ (高さ×口径×高台径)

https://otogoze.exblog.jp/10981496/

上記のアドレスでは、「『乙御前』とは『お多福・おかめ』のことで、茶碗を上から見た姿がいかにも「お多福・おかめ」の下膨れの福々しい顔の輪郭とよく似ているところから、表千家不審庵初代の江岑宗左(こうしん そうさ)によって命銘された」と紹介されている。
 この「赤楽茶碗(銘=乙御前)」については、『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』では、次のとおり解説されている。

【 まるみ豊かな、しかもあたかもお多福の面相のように歪んだ口部の作振にちなんで「乙御前」と名付けられたらしく、箱の蓋表に千宗旦らしい筆跡で「ヲトコセ」と書されている。口作りは一方を内に抱えこませ、一方は端反りにつくり、胴から腰にかけてふっくらとまるく、高台はあたかもまるく平らな土片を押し付けたかのように造られている。赤土の上にかかった釉はよく溶けている。口部と高台際に山割れが生じている。大阪の平瀬家、名古屋の森川家に伝来した。】
(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説266」)

六 上記の解説中にある「名古屋の森川家に伝来した」の「名古屋の森川家」が、次のアドレスに出て来る「森川勘一郎(如春庵)」家のことで、いわゆる「新佐野乾山真贋論争」にも、その名が見られる方なのである。下記のアドレスもので、関係するところを「参考」として抜粋して置きたい。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

「参考」
・昭和34年(1959年)、古美術商の斎藤素輝氏と「米政」こと米田政勝氏が、栃木県文化財保護委員の飯塚伊平氏から紹介された太田清平氏のところで佐野乾山といわれる陶器を見せられ、本物と確信しました。
・「米政」は東京国立博物館陶磁室長の林屋晴三氏に佐野乾山の話をし、林屋氏は京都の森川勇氏(森川勘一郎(如春庵)の三男)を「米政」に案内して佐野乾山といわれる陶器を見せました。
・斎藤氏は「米政」から森川氏を紹介され、森川氏が用意した大量の現金を持って佐野に赴き、太田氏所有の約40点の作品を買いました。その後森川氏は精力的に乾山の作品を探し求め、その数は約200 点にのぼりました。また、同時に乾山の自筆による手控帳も多数(現在のところ15冊)発見されました。
・また森川氏が佐野乾山の蒐集を始める前の昭和33年(1958年)暮れ、仏文学者で美術評論家、骨董品収集家でもある青柳瑞穂氏も斎藤氏を通じて数点の作品を買い集めました。(ただし、後述の「桔梗図長角皿」、「朝顔図小角皿」、「秋海棠図小角皿」は青柳氏が京都の骨董屋で発見したものであり、斎藤氏のルートから入手したものではありません)
・昭和36年(1961年)12月、来日中のバーナード・リーチ氏は、助手の水尾比呂志氏から多数の佐野乾山が新発見されたことを聞き、師匠である六代乾山の娘尾形奈美氏と共に京都嵐山の森川氏のもとを訪れました。バーナード・リーチ氏は森川氏の蒐集した約70点の陶器を見て、素晴らしいと絶賛しました。陶器は全て楽焼で、その内6個の陶器には明るいトマト色の赤の釉が使ってあり、明らかに3度目の火に入れたもの(錦窯による上絵付けの手法による)だったそうです。
(出典:http://homepage2.nifty.com/hokusai/sano/kenzan.htm)

七 『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』では、光琳三世・立林何帛の、次の「乙御前図」も紹介されている。

何帛・乙御前.jpg

立林何帛筆「乙御前図」 一幅 紙本着色 個人蔵 一一五・〇×五〇・二㎝
「宝暦辛末臘月日 逸幽於洞房写之」 「方祝」朱方円 「太青之印」白文方
【 画中に横向きの扇面を描き、その中に乙御前(お多福)を描く。画面いっぱいのこの構図法は琳派の特色を示す。さらに衣服の千鳥・流水文を散らし、色少ない画面にもかかわらず、豪華さが感じられる。款記の「宝暦辛末臘月日 逸幽於洞房写之」は宝暦元年(一七五一)の十二月で、制作年が知られるところにいっそう価値が高い。 】
(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収「作品解説198」)

八 光琳の「乙御前」、そして、乾山の「乙御前」、さらに、何帛の「乙御前」の、いわゆる、「初代光琳→二代・光琳(乾山)→三代光琳(何帛)」の、その見事なる継承を証しする、その「乙御前」のオンパレードの、いわゆる、「点」が、一本の「線」に結びついたような、そんな思いが去来するのである。
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十九) [光琳・乾山・蕪村]

その十九 乾山の「秋萩和歌扇面」

乾山絶吟.jpg

尾形乾山「秋萩和歌扇面」 一幅 紙本墨書 寛保二年(一七四二)作
MIHO MUSEUM蔵 三八・〇×五三・七㎝
「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原 紫翠深省 八十歳」

【晩年、乾山は多くの絵画や書を残しています。屏風のような大作も多いことから、老齢にしてはあまりに多く、また、大きい作例に真偽のほどを疑う向きもありますが、七十歳からの十年ほどの間に実に精力的に描き残したといえます。乾山の書画は、むしろ小幅の掛軸に味のあるものが多く見られるのではないでしょうか。瀟洒な花鳥画はじめ、禅機溢れる水墨画まで、中には扇に絵を描いたり書を認めたりした作品も見られます。これは扇の地紙に和歌を認めたものを軸装した作品です。江戸下向以降の乾山の動向は不明な部分が多いのは事実ですが、残された作品や書状などから、その様子はわずかながら見えてくる気もします。求めに応じて書いたものか、自らの手慰みに認めたものかはわかりませんが、末広がりの扇に託して認めた和歌の字間から、最晩年の齢(よわい)八十歳、達観した乾山の優しい心持ちが伝わってくるかのようです。この和歌は三条西実隆が詠んで、『雪玉集』に収められています。】(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』)

(メモ)

一 これもまた、三条西実隆『雪玉集』の一首、「たち残す/錦いくむら/秋萩の/花におくある/宮きのゝ原」、そして、落款は、「紫翠深省 八十歳」と、亡くなる一年前のものである。

二 上記の解説文の、「求めに応じて書いたものか、自らの手慰みに認めたものかはわかりませんが、末広がりの扇に託して認めた和歌の字間から、最晩年の齢(よわい)八十歳、達観した乾山の優しい心持ちが伝わってくるかのようです」の、これは、「自らの手慰みに認めたもの」ではなく、これは、まさしく、「求めに応じて書いたもの」で、この落款「紫翠深省 八十歳」と、その「印章」からして、これは、乾山最晩年の「絶筆」に近いものと解したい。

三 乾山の最期については、いずれの年譜関係も、「寛保三年(一七四三)六月二日、乾山没(享年八十一)」程度で、詳しいことは分からない。これらの年譜の基になっているのは、次の寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」(寛保三年六月二日の項)に因っている。

【 乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて 取仕廻等の儀仕遣はし候者もこれ無く 深省まかり在候 地主次郎兵衛と申者世話致し遣はし候得共 軽きものにつき難儀いたし候由 就而者何卒取仕廻まかりなり候程の 御了簡なされ遣され下され候様に仕つり度由 周防守より左衛門へ申聞候に付 坊官中迄申入候処 何れも相談これあり 御先代御不便にも思召候者の儀不便の事にも候間 仕廻ひ入用金一両下され然るべく候無縁の者の儀に候間 幸ひ周防守世話これあり候につき 周防守より次郎兵衛へ右之段申聞く 尤も吃度御上より下され候とこれ無く、役人中了簡をもつて下され候間 相応に取仕廻ひ遣はし候様に申聞様 周防守へ坊官中申聞られ 金子相渡し 深省事当地に寺もこれ無く候につき 坂本善養寺へ相頼み葬り候由 無縁の者の儀不便の事に候間 右の趣き善養寺へ申談じ 過去帳に記置 同忘年忌回向致し遣はし候様申聞 金一両相渡し是にて右回向これ有る様に取計ひ遺し候様申達し、然るべく旨何れも申談じ 当善養寺は左衛門懇意につきも同人方より申遣し然べく旨申入置候  】
(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』・『尾形乾山第三巻研究研究編(リチャード・ウィルソン、小笠原左江子著)』)

(注など)
1 進藤周防守は、輪王寺宮の側近で、乾山とは知己の間柄のように解せられる。しかし、
乾山がお相手役を仰せつかっていた、輪王寺宮・公寛親王は、元文三年(一七三八)に四十三歳亡くなっており、乾山が没した寛保三年(一七四三)の頃には、輪王寺との関係は疎遠になっていたのであろう。
2 光琳・乾山の江戸での支援者であった深川の材木商・冬木家の当主・冬木都高も、公寛親王と同じ年(元文三年)に亡くなっており、冬木家との関係も、これまた疎遠になっていたのであろう。
3 上記の「深省懇意の医師」というのは、光琳三世を継ぐ「立林何帛」(前加賀藩医官・白井宗謙)のようにも思われるが、その医師が「何帛」としても、乾山の葬儀を取り仕切るような関係でなかったようにも思われる(何帛が乾山より「光琳模写宗達の扇面図」を贈られたのも元文三年で、乾山が没する頃は、やはり交誼は希薄になっていたのかも知れない)。
4 冬木家の関係で交遊関係が出来た、筑島屋(坂本米舟)や俳人・長谷川馬光との関係も、元文二年(一七三七)二月から翌年の三月までの一年有余の、佐野の長逗留などで、やはり、乾山が没する頃は、その交遊関係の密度は以前よりは希薄になっていたのかも知れない。
5 その上で、上記の晩年の乾山を看取った「地主次郎兵衛」というのは、寛永寺近くの、乾山の入谷窯のあった、その「地主・次郎兵衛」で、乾山亡き後、江戸の「二代・乾山」を襲名することとなる、その人と解したい。そして、この「次郎兵衛」は、乾山の佐野逗留時代の鋳物奉行・大川顕道(号・川声)などと交誼のある、天明鋳物型造り師の「次郎兵衛」その人なのかも知れない(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』)。
6 いずれにしろ、乾山が、寛保三年(一七四三)、六月二日(光琳の命日)に、その八十一年の生涯を閉じた時には、その六十九年の生涯を送った「京都時代」、そして、それ以降の、「光琳二世・絵師且つ乾山一世・陶工、尾形深省(乾山)」十二年の「江戸・佐野時代」を通して、その最期を看取ったものは、上記の、寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」の通り、乾山の縁故者は皆無で、乾山が開窯した「入谷窯」(「地主次郎兵衛」他)関係者などのみの寂しいものであったのであろう。

四 この乾山の最期を看取った「地主・次郎兵衛」(「二代乾山・次郎兵衛」)の、「三代乾山・宮崎富之助」宛ての「二代乾山ヨリ三代乾山ヘ譲状」などが、次のアドレスにより紹介されている。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

【 右正伝末期に是を相写、ならびに乾山申銘、末々に相成、陶器に相記可焼事、今相伝者也、尤末に至、横合より違乱申者無之者也。深省儀致病死と 早速武江東叡山准后様御納戸へ我等遂伺公、病死之趣申上庄屋方にて奉願候処、則金子壱両被下置、其方如何共取置候様に被仰付、寺も御末寺被下、医王山  寺へ罷出、右取置可申様被仰付候、尤三日に至、日牌料御付被下置候事。
于時寛保三癸亥歳六月二日
右之通、我等へ末期に相送候処紛無之者也、依之貴方儀、右流れ懇望に付、右逸々相譲者也、為後証添書加へ候処仍如件。
明和三年戌三月 日 二代目也 乾山
弟子宮崎富之助殿          】

五 ここで、「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原 紫翠深省 八十歳」の、この、三条西実隆の、この歌意などに触れて置きたい。

 この「宮きのゝ原」は、次のアドレスのものなどが詳しい。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000213518

「いま宮城野又は宮城野原と呼んでいるのは,榴が岡の東,木の下の北に続く十町に六町ほどの平原で,もとの練兵場即ち現在の各種運動競技場と国立仙台病院並に仙台中央卸売市場などのある所をさしているが,古の宮城野とは遠く海岸地帯まで打ち続いた広漠たる原野であったらしい。かの『東鑑』に見る源頼朝が奥州征伐に向った文治年間頃(一一八五-八九)の国分原は大体この原を指したものと見られている。また,『古今集』に「宮城野の本荒の小萩露をおもみ風をまつごと君をこそ待て」とある本荒(もとあら)の里もこの原のうちであると見れば,相当広い原野であったことが想像される。それが時代の推移につれ,畑となり田となり,また,人の住む所となって次第に草原は減り,地域は狭められて僅かに一角の宮城野原となったのである。(後略)」

 この「花におくある」というのは、咲き始める「春の花」でなく、咲き終わる「秋の花(秋の花野)」の、その「花のおく(奥)ある)」、「花野の、その先に」、それが、上記の、生まれ故郷の京の都から遠く離れた東国の「宮きのゝ原」(宮城野原)、そして、その「奥」は、すなわち、「黄泉(よみ)の国」という暗示なのであろう。

ここまで来れば、この実隆の歌の出だしの、「たち残す/錦いくむら/秋萩の/」の,この「たち残す」は、「断ち残す」と「発ち残す」、と「断つ」と「発つ」が掛けられており、「錦いくむら/秋萩の/」は、「光悦・宗達、そして、光琳・乾山」が目指した、いわゆる、「琳派の雅(みやび)の世界(創作の世界)」ということになろう。

六 さらに続けるならば、この三条西実隆の、「花におくある 宮きのゝ原」は、蕪村の師の夜半亭一世・早野巴人の、次の絶吟に繋がっている。

 こしらへて有りとは知らず西の奧 (夜半亭一世・早野巴人の絶吟)

 そして、夜半亭一世・早野巴人が瞑目した、寛保二年(一七四に)六月六日、その絶吟を記録した内弟子の蕪村(当時の号「宰鳥」又は「宰町)の、その時の様子を、宝暦五年(一七五五)に刊行された、宋阿(巴人)十三回忌追善俳諧遺句集『夜半亭発句帖(雁宕ら編)』に寄せての、その「跋」(蕪村)」に次のように記している。

【阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探て一羽烏といふ文作らんとせしもいたづらにして歴行十年の后、飄々として西に去んとする時、雁宕が離別の辞に曰、再会興宴の月に芋を喰事を期せず、倶に乾坤を吸べきと。(以下略)」(訳「師の夜半亭宋阿(巴人)が亡くなった時、その夜半亭の空屋で、師の遺稿をまとめて一羽烏という遺稿集を作ろうとしたが、何もすることが出来ずに、ついつい関東・東北を歴行すること十年の後に、あてどなく西帰の上洛をしようとした際の、兄事する雁宕の離別の言葉は、「今度再開して宴を共にする時には、月を見て芋を喰らうような風雅のことではなく、お互いに、天地を賭しての勝負をしたことなどを話題にしたい」ということでした。)】
 
 ここからが、蕪村のスタートなのである。その夜半亭一世・早野巴人が瞑目した、寛保二年(一七四に)六月六日の、その一年後の、六月二日(光琳の命日)に、乾山は、その八十一年の生涯を閉じたのである。

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十八) [光琳・乾山・蕪村]

その十八 乾山の「瀟湘八景和歌」

八景和歌一.jpg

乾山「瀟湘八景和歌」一幅 紙本墨書 三九・四×一八・〇㎝ MIHO MUSEUM蔵)
(下部の落款=京兆野叟/紫翠深省拝写/雪玉集)

八景和歌二.jpg

「瀟湘八景和歌」(上部拡大図)

山市晴嵐 山かせの立にまかせて春秋の にしきはおしむ市人もなし
漁村夕照 夕けふり木かくれ深き一村の 入日にかはるいさり火の影
烟寺晩鐘 世中を驚くへくは沖津波 かゝるところの入相のかね
瀟湘夜雨 梶まくらとまもる雨やふるき世の しのふることのねにかよふらむ
遠浦帰帆 行くゆくも猶夕なきのあかさりし 遍りもやらぬ海人の釣舟
洞庭秋月 月影の夜のさゝみしつかにて 氷の千里秋風そふく
平沙落雁 行方もわするゝ貝にましりゐて きよき渚をあさる雁金
江天暮雪 降くらす山もさなから影しあれは 雪のそこなる四方の浦波

【乾山は漢籍や和歌の素質があり、古典に造詣が深かったといわれています。またそれ故、作品の中に文学性がこめられているものが多いこともよく知られるところです。その多くは定家詠十二カ月花鳥和歌や三十六歌仙和歌、源氏物語や伊勢物語、謡曲などからの引用ですが、室町後期の公家、三条西実隆(一四五五~一五三七)の私家集『雪玉集(せつぎょくしゅう)』に本歌が見出せる作品も少なくありません。この掛幅は、乾山が三条西実隆の雪玉集にも傾倒していたことを物語る好例といえるでしょう。本来は粘葉装(※でっちゅうそう)仕立てであったと思われる紙面には、三条西実隆が瀟湘八景にちなんで詠んだ八首の和歌がその名称とともに認められています。「乃」の字など、乾山の書の特徴である定家風と光悦流が混じりあったような書風が顕著に見られます。その下に記された落款から、乾山晩年の書写と推察され、こういった小幅にこそ乾山の魅力が凝縮されているといっても過言ではありません。また、歌仙絵の場合もそうですが、この掛幅にも慶長切りの裂地(※※)が使われているのも見どころのひとつといえるでしょう。 】(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』)
(注)
一 粘葉装(※でっちゅうそう) → 書籍の装丁の一種で胡蝶装(こちょうそう)ともいわれる。
二 慶長切りの裂地(※※)→ 軸装に仕立てる「裂地=生地」で、下記の「裂地」仕立てのもの。
八景和歌三.jpg
慶長切りの裂地(※※)→ 上部の「裂字=生地」

(メモ)

一 この乾山の「瀟湘八景和歌」(一幅)は、「絵」は描かれていない「書」だけのものだが、これぞまさしく乾山の「瀟湘八景」という印象を深くする。

二 これまでに、いわゆる「瀟湘八景」について、下記のアドレスなどで触れて来たが、それらのものと併せ見ていくと、この乾山のものが一際引き立って来る思いがする。

1 探幽(そして雪舟)の「瀟湘八景」など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-01

2 大雅の「江天暮雪図(「東山清音帖」より」) など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-25

3 芦雪の「宮島八景図」など

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-10-10

三 下記のアドレスで紹介した雪舟の「瀟湘八景図」に、今回の乾山が取り上げた三条西実隆の瀟湘八景に因んだ歌を併記すると、次のとおりとなる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306106715-1

山市晴嵐 山かせの立にまかせて春秋の にしきはおしむ市人もなし

図4.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「山市晴嵐」

漁村夕照 夕けふり木かくれ深き一村の 入日にかはるいさり火の影

図2.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「漁村夕照」

烟寺晩鐘 世中を驚くへくは沖津波 かゝるところの入相のかね

図1.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「烟寺晩鐘」

瀟湘夜雨 梶まくらとまもる雨やふるき世の しのふることのねにかよふらむ

図6.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「瀟湘夜雨」

遠浦帰帆 行くゆくも猶夕なきのあかさりし 遍りもやらぬ海人の釣舟

図5.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「遠浦帰帆」

洞庭秋月 月影の夜のさゝみしつかにて 氷の千里秋風そふく

図3.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「洞庭秋月」

平沙落雁 行方もわするゝ貝にましりゐて きよき渚をあさる雁金

図7.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「平沙落雁」

江天暮雪 降くらす山もさなから影しあれは 雪のそこなる四方の浦波

図8.png

雪舟筆「瀟湘八景」(狩野探幽「写」: 寛文十一年《一六七一》「写」=紙本墨画、巻子装、三三・一×五二〇・九cm、早稲田大学図書館 )のうちの「荒天暮雪」

四 雪舟と三条西実隆とは、室町後期の同時代の人である。雪舟は、応永二十七年(一四二〇)~永正三年(一五〇六)、三条西実隆は、康正元年(一四五五)~天文六年(一五三七)、雪舟が日本水墨画の大成者とするならば、三条西実隆は、当時の室町公家文化の代表者で、その六十二年間にわたる日記『実隆公記』は当時の文化界を知る貴重な史料となっている。

五 三条西実隆の『雪玉集』は、次のアドレスの「国立国会図書館デジタルコレクション」で、その全文が閲覧出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561175

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十七) [光琳・乾山・蕪村]

その十七 乾山の「花籠桔梗図扇面」

(表面)

桔梗図扇面表.jpg

Balloon Flowers in a Basket → 花籠桔梗図扇面 (フーリア美術館蔵)
Type Fan →  扇面
Maker(s) Artist: Ogata Kenzan (1663-1743) → 尾形乾山
Historical period(s) Edo period, early 18th century 江戸・十八世紀
Medium Color and gold on paper  紙本金地着色
Dimension(s) H x W: 18.4 x 15 cm (7 1/4 x 5 7/8 in) → 一八・四×十五・〇㎝

(裏面)

桔梗図扇面裏.jpg


(参考)
http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-26


乾山絵二.jpg

尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

『乾山遺墨』(酒井抱一刊)によれば、十二枚屏風絵の一つと考えられ、現在その屏風絵は分散して残るものは少ない。この図はとくに優れ、乾山の画才が非凡で、卓越したことを証明する作品である。図上の歌に「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』)

「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」は、「三条西実隆」の歌である。

(メモ)

一 乾山には、「三条西実隆」の歌賛が多い。冒頭の「花籠桔梗図扇面」(表面)は、「花籠に盛られた桔梗図」なのだが、その裏面に、何と、先に取り上げた「花籠図」(福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵))の歌賛と同じものの、「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」が記されている。
 この歌は、乾山の愛唱歌と解して差し支えなかろう。この乾山の「花籠図」について、この「三条西実隆」の歌から、次のように鑑賞文を綴っているものもある。

【「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」と記すところから、「『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴すると見る説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶なうちにも野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸へ下った六十九歳以後の作品となる。】
(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」) 

 乾山の、その八十一年の生涯において、女性の影というのは見られない。乾山は、九歳の時に下の妹を亡くし、十四歳の時に、母と二人の妹を亡くしている。父を亡くしたのは、貞享四年(一六八七)、二十五歳の時、その時に、名を「権平」から「深省」に改めている。
この「深省」は、文字通り、「深く省みる。反省する」という意で、内向的・内省的な乾山の一面を端的に物語っている。そして、元禄二年(一六八九)、二十七歳にして、御室仁和寺門前、「双ヶ岡(ならびがおか)」の麓に「習静堂」を建てて、隠棲生活に入るのである。
この「習静堂」の「習静」とは、「習禅、すなわち悟るために禅を学ぶ」ことの意で、黄檗宗の禅僧、独照性円の弟子となり、その独照性円より「霊海」の号を授かっている。すなわち、乾山は、出家僧ではないが、在家で禅の修行をしている「修行者」・「居士」というのが、当時の乾山の実像ということになろう。
それらのことは、乾山の他の号の「陶隠・逃禅・傅(扶)陸・尚古斎」等々が、「隠逸を悦び、禅機との結びつきを考え、往古を尊ぶ諸号」の、それらの由来と関係してくるものなのであろう。
 さらに、乾山は「双岡散人(ならびがおかさんじん)」の署名や印章を用いる場合があるが、これもまた、乾山の「習静堂」が、隠士の先達・吉田兼好の、その「双岡法師」に因んでのものなのであろう。
そもそも、乾山が、御室仁和寺門前、「双ヶ岡」の麓に「習静堂」を建てたのは、その「双岡法師」こと、『徒然草』の吉田兼好を慕ってのものと解することも出来よう。もう一つ、乾山が好んで用いる号の「紫翠」は、杜牧の「千峰ハ紫翠ニ横タウ」などの、御室あたりの風景に因んでのものなのかも知れない。
(これらのことは、(『尾形乾山開窯三〇〇年・京焼の系譜「乾山と京のやきもの」展』所収「文人 乾山その人(武内範男稿)」を参考としている。)
さて、この隠士の禅の修行者のような乾山(陶隠・逃禅・傅(扶)陸・尚古斎等々)の生涯に、三条西実隆の「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」の、この『源氏物語』の「野分」の段の背景にある、「あだ(婀娜=艶冶)ならぬ色香」などの日々があったとするならば、それはそれで、乾山の生涯に、一つの彩りを添えるものであろう。

二 上記は、主として、「花籠図」(参考)に関してのものであるが、冒頭の「花籠桔梗図扇面」(表面)と「和歌賛(「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」)」(裏面)に接すると、下記の蕪村の「桔梗」の句に関連させて、別な鑑賞視点というのが浮かび上がってくる。

  修行者(すぎょうしゃ)の径(こみち)にめずる桔梗かな
             (蕪村、安永六年=一七七七、六十二歳)

 句意は、「行脚の僧が、小径の傍らの桔梗を見つけ、しばし見とれている」のようなことであろうが、この「修業者」を、黄檗宗の修業僧・(霊海)乾山、そして、浄土宗の行脚僧・(釈)蕪村と置き換えてみると、この句のイメージが鮮明になって来る。
 その上で、この句の背景は、『源氏物語』(「野分」の段)ではなく、『伊勢物語』(第九段「宇津の山」)が、その背景となって来る。

【行き行きて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたかえでは茂り、物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者あひたり。
「かかる道はいかでかいまする」
といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文書きてつく。
駿河なる 宇津の山辺の うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり  】
(『伊勢物語』(第九段「宇津の山」)

三 冒頭の「花籠桔梗図扇面」(表面)の落款は次のとおりである。

「京兆逸民紫翠深省」 → 「京兆」(首府を意味する)・「逸民」(世俗を離れ隠遁生活に入った者)・「紫翠」(杜牧の「千峰ハ紫翠ニ横タウ」=御室の原風景)・「深省」(杜甫の「人ヲシテ深省ヲ発セ令ム」=内的性向に赴く)などの意が込められているか。「京兆逸民」から、「江戸下向」以降の、乾山、六十九歳以降の作ということになる。

桔梗図扇面落款.jpg

「花籠桔梗図扇面」(表面)の落款(拡大図)

四 三条西実隆については、以下のとおり。

三条西実隆 さんじょうにしさねたか (1455―1537)
室町後期の公卿(くぎょう)、学者。三条西家は正親町(おおぎまち)三条家の庶流。父は公保(きんやす)、母は甘露寺親長(かんろじちかなが)の姉。1460年(寛正1)公保の死没により6歳で三条西家の当主となる。応仁(おうにん)の乱が起こった1467年(応仁1)は13歳のときで、実隆と母は鞍馬寺(くらまでら)の坊に難を避け、母はそこで病没する。後花園(ごはなぞの)、後土御門(ごつちみかど)、後柏原(ごかしわばら)、後奈良(ごなら)の4代にわたる天皇に仕え、とくに後柏原天皇の信任厚く、1506年(永正3)に内大臣に任ぜられる。足利義稙(あしかがよしたね)が将軍職についた1508年から、実隆は義稙政権を支持し、朝廷と幕府のパイプ役を務める。このため1509年から1512年まで、毎年の正月に義稙臣下の大内義興(よしおき)や細川高国(たかくに)の来賀を受けている。1516年廬山寺(ろざんじ)において落飾し、法名堯空(ぎょうくう)、逍遙院(しょうよういん)と号する。1520年に至って、高国が家督をめぐる澄元(すみもと)との抗争に敗れ近江(おうみ)へ敗走すると、それまで親しくしていた高国との関係が薄れ、さらに高国と将軍義稙との不和に遭遇すると、武家社会に対する失望から実隆の現実政治への関心は急速に冷却していき、以前からの学問・文芸の生活に立ち戻っていった。
 実隆は一条兼良(いちじょうかねら)やその子冬良(ふゆら)とともに学才・歌才の誉れ高く、飯尾宗祇(いいおそうぎ)から古今伝授を受けたほか、『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』の権威であった。また当代一流の能書家としても知られ、地方大名などの求めに応じ揮毫(きごう)した。彼の書は富商武野紹鴎(たけのじょうおう)からの援助とともに、貧しい三条西家の経済を支える収入源でもあった。著書に『詠歌大概抄(たいがいしょう)』『源氏物語細流抄』、有職(ゆうそく)に関する『装束抄』、日記に『実隆公記』、歌集に『雪玉集(せつぎょくしゅう)』『聴雪集(ちょうせつしゅう)』、歌日記に『再昌草(さいしょうそう)』などがある。[新井孝重](日本大百科全書(ニッポニカ))



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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十六) [光琳・乾山・蕪村]

その十六 光琳の「白地秋草模様小袖」

光琳・小袖.jpg

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199303

「白地秋草模様小袖」 尾形光琳 東京都 江戸 1領 東京国立博物館 東京都台東区上野公園13-9 重文指定年月日:19740608 国宝指定年月日: 登録年月日: 独立行政法人国立文化財機構 重要文化財(美術品)

白綾地、袷仕立の小袖に、桔梗・菊・薄・萩などの秋草模様が墨・藍・代赭【たいしや】などの色で描かれている。これは光琳が江戸深川の豪商冬木家に逗留した折、その妻女のために麗筆をふるったものと伝えている。白地に軽妙な筆遣いで描かれた淡雅な秋草文様は光琳の個性ある筆致を示している。元禄初頭に流行をみた描絵小袖の数少ない遺品の一つとしても価値が高い。

(メモ)

一 「琳派展開関係略年表」(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』所収)の、宝永元年(一七〇四)の項に、次のような記載がある。

【光琳(四十七歳)「中村内蔵助像」(大和文華館)を描く。中村元伸に道崇の文字考を頼む(文書)。「大公望図」「禊図」このころ描くか。一説には秋ごろ江戸に下向、材木商冬木家に寄寓か。「冬木小袖」(本館蔵)あり。】

 この「材木商冬木家に寄寓」し、その妻女のために麗筆をふるった「冬木小袖」が、冒頭の「白地秋草模様小袖」である。この種の、光琳が絵を描いた小袖は、当時の浮世草子『好色文伝授』(一六九九年刊)の中にも取り上げられているほど、評判の高いものであった(『もっと知りたい 尾形光琳(仲町啓子著)』)。

 また、光琳の肖像画として名高い「中村内蔵助像」(大和文華館)は、次のアドレス(文化遺産オンライン)で紹介されている。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190706

そして、「大公望図」(京都国立博物館蔵・重要文化財)は、光琳の中国明代の版本『神仏奇踪』の仙人を応用したものとして、これまた名高いもので、これまた、次のアドレス(文化遺産オンライン)で紹介されている。

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/150621

さらに、「禊図」(畠山記念館蔵)については、『伊勢物語』第六十五段を絵画化したものとして、これまた、光琳の傑作画として夙に知られているものである。

https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/f5314ad2173ee035efc87bd919572928

二 光琳が、江戸深川宿弁天木場の材木商の冬木家を知り合ったのは、光琳、そして、乾山の支援者であった、五摂家のひとつの名門二条家(当主綱平)に因るものとされている(『乾山都わすれの記(住友慎一著)』)。そして、光琳の江戸在住時代は、宝永元年(一七〇四・四十七歳)から、その間に一時帰京はしているが、宝永七年(一七一〇・五十三歳)の頃までとされている(『前掲年表』)。

三 乾山の江戸下向は、享保十六年(一七三一・六十九斎)の時で、『前掲年表』では、「京都から江戸入谷へ移る。輪王寺の庇護を窯を開く」とある。この「輪王寺の庇護」というのは、「輪王寺宮」(宮門跡の一つの上野東叡山寛永寺貫主が兼務)となった「公寛法親王」(二條綱平の甥)の知遇を得て、乾山の江戸下向も、この公寛法親王に随行してのものとされている。そして、その庇護を受けて、上野寛永寺に近い、当時の入谷村で開窯をしたということなのであろう。

四 乾山が、輪王寺宮となった公寛法親王の、絵や陶芸のお伽衆(側近の役)として、江戸下向したというのは、紛れもないことであるが、実際に江戸在住時代の乾山を支えたのは、光琳が嘗てお世話にになった、深川の材木商の冬木家で、また、入谷窯を開いたのも冬木家の支援によるものであろう(『乾山都わすれの記(住友慎一著)』)。

五 この冬木家(四代・郡高、光琳が世話になったのは三代・政卿)を介して、乾山は、六軒堀の材木商「筑島屋」(坂本米舟=江戸本所の材木商で、屋号は筑島屋。絵をよくして雪花斎と号し,英一蝶とまじわる。尾形乾山の晩年の世話をした)を知り、その坂本米舟の御内室の絵の指導や、また、その米舟の湯島の長屋に住んでいた俳人・長谷川馬光との交遊関係も生じたようである(『乾山都わすれの記(住友慎一著)』)。

六 また、江戸の乾山を佐野へと招聘した、大川顕道(鋳物奉行)、松村広休(佐野奉行代官家)、正田道明(天明鋳物師の宗家)そして、須藤杜川(「越名河岸」の廻船問屋)らも、全て、冬木家と取引関係などの何らかの関係があったのであろう。その冬木家の斡旋や依頼などにより、元文二年(一七三七・七十五歳)から翌三年(一七三八・七十六歳)にかけて、乾山は、下野(栃木県)の佐野に赴き(壬生や黒羽などの滞在も含む)、その須藤杜川の「仙庵」(茶室名)に越名(こえな)窯、さらに、大川邸・松村邸にも築窯して、作陶の指導などに当たったようである(『佐野乾山の実像(住友慎一著)』など)。

七 ここで、いわゆる「佐野乾山」ものなどの蒐集家(「住友ミュウジアム」創設者)で、光琳・乾山研究家である住友慎一関係著書を掲載して置きたい。

一 光琳・乾山関係文書集成(上・下)→ 上巻(解説・資料編) 下巻(資料編)
二 尾形乾山手控集成(下野佐野滞留記期記録)→ 「尾形乾山手控」(手控原文と翻刻文)
三 二條家御庭焼と光琳 乾山  → 「二城家御庭焼」関連の資料と解説など(限定千部)
四 佐野乾山の実像 → 「佐野乾山の作品と箱書」など
五 乾山 都わすれの記 → 「京下向道中記・江戸在住記・佐野道中記」などの翻刻文
六 六十九歳の旅立ち →「江戸への旅路・江戸での不本意な日々」など「五」の解説文
七 光琳・乾山の真髄をよむ →「『杜若素と光琳・乾山』など三十章にわたる鑑賞文等」

八 乾山が佐野から江戸に帰ってきた「元文三年(一七三八・七十六歳)」の「前掲年表」に「何帛 乾山より光琳模写宗達の扇面図を贈られる」とあり、当時の、二代目光琳こと乾山の後継者となる、光琳三代目・「立林何帛(かげい)」(乾山の「京兆逸民」に倣い「鶴岡逸民」の号を有している)の名が記載されている。

何帛一.jpg

立林何帛筆「松竹梅図屏風」二曲一隻 紙本金地着色 東京国立博物館蔵(A-11154)

九 乾山は、法橋画家たる光琳のような、冒頭の描絵小袖などは手に負えない代物と、この種のものは見受けないが、蕪村もまた、「小糸かたより申し候は、白ねりのあはせに山水を画(えが)きくれ候様にとの事に御座候。これはあしき物好きとぞんじ候。我等書き候てはことの外きたなく成候」と、決して、手を染めようとはしなかった。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%81%AE%E6%9B%B8%E7%B0%A1

 しかし、蕪村の愛弟子の呉春は、「白絖地雪中藪柑子図描絵小袖」などを今に遺しており、絵画のゼネラリストの「光琳・応挙・呉春」などは、どのような注文でもこなすだけの技量と経験を有しているのに対し、より、自己の心象風景を大事にする、すなわち、文人気質のスペシャリスト的狭い世界での「乾山・蕪村」の両者は、共通土俵上を歩んでいたとゆう思いを深くする。

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2011.html
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十五) [光琳・乾山・蕪村]

その十五 乾山の「絵画八」(「茄子図」)

乾山・茄子図.jpg

尾形乾山筆「茄子図」一幅 紙本墨色 福岡市美術館蔵(松永コレクション)
二〇・〇×二七・五㎝ 「省(花押)」

https://artsandculture.google.com/asset/茄子図/IgE4VP8xzNkYqg?hl=ja

【一口茄子とでもいえそうな可愛らしいのが三つ。それだけを水墨で描いている。茄子の素朴な描写や用墨法には、すさまじいばかりの魄力と水々しい潤いがある。乾山自筆の賛は「なれ茄子(なすび)なれなれ茄子なるならば ならねば棚の押絵ともなれ」と読める。落款には印の代わりに花押を書いており、よほど磊落な気持でこの作品を描いたのであろう。】(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編)』)

 「茄子」を描いた水墨画というよりも、「書の人」乾山の見事な和歌(狂歌の類いか?)の散らし書きの「書」が主体のものという雰囲気である。
乾山の書体には、「光悦風」「張即之風」「定家風」「普段の走り書きの書体」とかに分けられ、この和歌の散らし書きは、「乾山の定家風書体」(根津美術館蔵)のもののようである(『光琳・乾山の真髄をよむ(住友慎一著)』)。
 次の「兼好法師図」の書体も、その「定家風書体」のものであろう。

乾山・兼好法師図.jpg

尾形乾山筆 「兼好法師図」 一幅 紙本墨色  梅澤記念館蔵
【 兼好法師が粗末な庵で読書しています。筆使いはいかにも素人風ですが、遁世者の精神をダイレクトに表すような描写です。兼好作の画中の和歌は、隠棲したつもりの場所が依然、憂き世であることを詠むもの。江戸生活に対する乾山自身の不本意な思いも投影されているかもしれません。乾山の絵画はしばしば、自らの境遇や内面が反映しているように感じられます。】

http://www.nezu-muse.or.jp/jp/nezunet/nezunet_page87.html


 この「兼好法師図」の和歌(『兼好法師集』)は、次のものであろう(新千載集初出)。

すめば又 うき世なりけり よそながら 思ひしままの 山里もがな (新千載2106)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kenkou.html

学問は.jpg

蕪村筆「『学問は』句賛自画像」 一幅 紙本墨画淡彩
二八・七×二一・五㎝  柿衛文庫蔵
「書窓懶眠 学問は尻からぬけるほたるかな 蕪村 (趙)(大居)」
【句の成立は明和八年と推定。「懶眠」は怠惰なものうい眠りの意。蛍は尻ばかり光らせていることに言いかける。ユーモラスな句に、心地よく眠る蕪村自身とおぼしき人物を描く。新出作品 】(『没後二二〇年蕪村(逸翁美術館・柿衛文庫編)』)

(メモ)

一 この蕪村の「『学問は』自画賛」、もう一つのものがあって、『東と西の蕪村(佐野市立吉沢記念美術館編)』に出品されていた、下記のものがある。

 「学問は」自画賛 紙本墨画淡彩 一幅 八七・二×二七・〇㎝ 個人蔵

二 そこには、「書窓懶眠といふ題を/探りて麦林の句法に倣ふ」との前書きが付与されている。麦林は中川乙由(一六七五~一七三九)の別号で、彼を中心に伊勢蕉門は「麦林派」と呼ばれ、平俗な作風を展開した。蛍の光を集めて夜も学問に励んだ故事(「蛍雪の功」)
と、諺(「尻から抜ける」=聞いてもすぐ忘れる)とを踏まえた句である。

三 この蕪村の自画賛と、上記の乾山の「兼好法師図」とが、同じような雰囲気を有している。どちらも、自画像という趣きで、どちらも、隠士的な「籠り居の詩人」(『与謝蕪村の小さな世界(芳賀徹著)』)という風情である。

 冬ごもり妻にも子にもかくれん坊 (明和七年=一七七〇、蕪村=五十五歳)
 居眠りて我にかくれん冬ごもり (安永四年=一七七五、蕪村=六十歳)
 冬ごもり仏にうときこころかな  (安永三年=一七七四、蕪村=五十九歳)

 この「冬ごもり仏にうときこころかな」の句は、兼好法師の「後の世のこと心に忘れず、仏の道疎からぬ、心憎し」(『徒然草四段』)を踏まえている。

四 冒頭の乾山の、「なれ茄子(なすび)なれなれ茄子なるならば ならねば棚の押絵ともなれ」も、これまた、兼好法師好きの、「隠士・籠り居の詩人」の、「京兆逸民・乾山」と、「名を沽(う)りて俗を引く逸民・蕪村」の、その真底に居する自画像と解して差し支えなかろう。
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十四) [光琳・乾山・蕪村]

その十四 乾山の「絵画七」(「楓図」)

乾山楓一.jpg

尾形乾山筆「楓図」一幅 紙本着色 一〇九・八×四〇・四cm
「京兆七十八翁 紫翠深省写・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
「幾樹瓢零秋雨/裡千般爛熳夕/陽中」
【同じ紅葉でもこちらは、縦長の画面に大きく枝とともに色づいた楓が描かれています。秋雨に濡れて葉は赤みが増し、さらに夕陽に照り映えていっそう赤々と風情は弥増しに増す。そんな詩意を受けてこの絵は描かれたのでしょう。幹にはたらし込みの技法も見られ、これぞ琳派といった絵になっています。ただし、画面上方の着賛は漢詩で、ここには乾山の文人的な部分が色濃く出ています。今にも枝につかんばかりの勢いで所狭しと記された筆づかいは、雄渾で迷いがなく、どこまでも「書の人」であった兼山らしさが滲み出ています。落款から乾山晩年、七十八歳の作と知れます。 】『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』

 乾山、七十八歳は、元文五年(一七四〇)に当たり、蕪村、二十五歳の時で、その翌年の六月六日に、江戸で内弟子として仕えた夜半亭宋阿(早野巴人)が、その六十七年の生涯を閉じる。
 蕪村、晩年の自叙伝「新花積」に、当時のことを次のように記している。

「いささか故ありて、余は江戸をしりぞきて、しもつふさ結城の雁宕がもとをあるじとして、日夜俳諧に遊び、邂逅(たまさか)にして柳居が筑波まうでに逢ひてここかしこに席をかさね、或ひは潭北と上野に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもてをはらひ、外の浜の旅寝に合浦(ごうほ)の玉のかへるさをわすれ、とざまかうざまとして、既に三とせあまりの星霜をふりぬ。」

 この奥羽行脚の際の、寛保三年(一七四三)の作とされている、下野(栃木県)の遊行柳での「柳散り清水涸れ石処々」の句を、蕪村は晩年になって(「溌墨生痕」の押印)、下記のとおり一幅ものを遺している。

遊行寺一.jpg

与謝蕪村筆「『柳ちり』自画賛」 一幅 紙本淡彩 逸翁美術館蔵
五八・六×三六・七cm 款「蕪村」 印「溌墨生痕」(白文方印)
賛「赤壁前後の賦字々みな絶妙/あるか中に山高月小水落石出と/いふものことにめてたく孤霍の群鶏を/出るかことし/むかしみちのくに行脚せしに/遊行柳のもとに忽右の句を/おもひ出て/柳ちり清水かれ石ところどころ」

 冒頭の乾山の書画一体の世界と、上記の蕪村の書画一体の世界とは、乾山のそれがまさしく光琳風の、いわゆる琳派的な世界とすると、蕪村のそれはまさしく、水墨画風の文人画の世界ということで、好対照をなしている。
 しかし、それぞれの画面の、その「画と賛(詩文)と落款」との、この絶妙なる書画一体の空間は、両者の文人的気質の類似性をまざまざと見せつけてくれる。

 それ以上に、七十八歳の乾山と、二十五歳の蕪村とが、共に、故郷の西国(乾山=京都、蕪村=大阪)を後にして、遠く江戸(東京)に移住し、乾山が上野・輪王寺付近の入谷(当時・村)とすると、蕪村はその近くの日本橋本石町に住んでいたということは、まさしく、その境涯を一にしているという思いがする。

 さらに、上記の蕪村の『新花積』に出てくる、「雁宕」(夜半亭宋阿の高弟、結城の俳人、蕪村の兄弟子で江戸座の有力俳人=砂岡雁宕)、「柳居」(幕臣で俳人、「五色墨運動(蕉風復興運動)」の中心人物=佐久間柳居)、そして、「潭北」(夜半亭宋阿の知友、俳人で、『民家分量記』の著書を有する啓蒙家=常盤潭北)というのは、当時の江戸俳壇の一角を占めている著名俳人である。

 そして、乾山が、享保十六年(一七二一)に江戸に下向し、光琳も世話になった深川の材木商の冬木家を介して知り合った、乾山の俳諧の師となる長谷川馬光は、「佐久間柳居・中川宗瑞・松本珪林・大場蓼和」と共に、俳諧集『五色墨』を刊行し、当時の点取り俳諧の風潮を蕉風復古への機運を醸成した「五色墨運動」の中核を担っている著名俳人なのである。

 その馬光の師は、松尾芭蕉の畏友・山口素堂で、素堂が葛飾(東京都江東区深川)に住んで居たことから、この素堂俳諧の系譜は、葛飾派と言われ、一世・素堂、二世・馬光、三世・溝口素丸と引き継がれ、後に、蕪村の次の時代を担う、小林一茶は、この葛飾派の俳人の一人である。

 そもそも、山口素堂は、単に、俳諧だけではなく、「茶・書・能・詩・歌」をよくし,芭蕉との親交を通して、その天和の漢詩文調に多大な影響を与えた隠士的文人として名高い人である。

 まさに、「京兆逸民・華洛散人・陶隠・逃禅・霊海」等の隠士的号を有する乾山が、その晩年の江戸にあって、隠士的な、「俳・茶・書・能・詩・歌」など全般に通ずる、素堂・馬光の葛飾派の世界に身を置いたということは、自然の流れでもあったのかも知れない。

 そもそも、雁宕・蕪村などを育んだ夜半亭宋阿(早野巴人)は、芭蕉門の双璧、其角と嵐雪の高弟の一人で、江戸座点取り俳諧の巨匠の一人であるが、俗化する当時の江戸座俳壇の中にあって、「祗空・巴人は心の芥(あくた)吐き尽して跡すらすらと出でたるこそ泥に染まぬ蓮より潔よし」(『常盤潭北著『今の月日』)と記されているとおり、高邁な精神と、蕪村に教示した「師の句法に泥(なづ)むべからず」の俳諧自在の精神を、終生持ち続けた、すなわち、素堂と同じく、孤高の隠士的な面を多々有する俳人の一人だったのである。

 そして、何よりも、夜半亭宋阿(早野巴人)は、乾山が晩年に居を構えていた、下野(栃木県)の佐野と同じ、その下野の北に位置する那須烏山の生まれ(潭北も同じ)、そして、早くから江戸(東京)に出て、そこで、俳諧宗匠となり、何と、享保十二年(一七二七)、五十二歳の時に、何と、当時、六十五歳の乾山の住む京都へと江戸から移住して行くのである。

 そして、夜半亭宋阿(早野巴人)は、その乾山の住む京都にあって、京都俳壇の一角を占める「望月宋屋・高井几圭・三宅嘯山」等々の名立たる俳人を育み、後に、蕪村が名跡を継ぐこととなる「夜半亭俳諧」の礎を築くのである。

 さらに、その京都在住の夜半亭宋阿(早野巴人)を、再び、江戸へと再帰させた、その人こそ、蕪村の兄弟子の結城の俳人の砂岡雁宕なのである。雁宕は、遠く、奥州の仙台にも、そして、光琳・乾山らが住む京都にも、幅広く交流を有する実業人でもあり、その雁宕の勧めにより、夜半亭宋阿(早野巴人)が、江戸に再帰したのは、元文二年(一七三七)、六十二歳の時で、この時、乾山は七十五歳で、京都より江戸に移住していたのである。

 江戸在住時代の、七十五歳以降の乾山(深川・上野・入谷)と、六十二歳以降の宋阿(早野巴人)と二十二歳以降の蕪村(日本橋本石町)との関係は、これらを証しするものは何ら存在しないが、ただ一つ、蕪村が晩年に記した、上記の『新花積』の、その一節は、当時の、乾山と蕪村とを結びつける有力な背景の一つであることは間違いなかろう。

新花摘一.jpg

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a0600/bunko31_a0600_p0018.jpg

蕪村著・呉春挿絵『新花摘』(左「常盤潭北像」、右「宰町・蕪村」像)

 この左側の人物を、江戸在住時代の、「京兆逸民」の号を名乗る晩年の「尾形乾山」、そして、右側の人物を、次の、「大阪・京都」からの「逸民」たる「若き日の蕪村」と解すると、当時の、「乾山と蕪村」との関係の一端が見えて来る。

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十三) [光琳・乾山・蕪村]

その十三 乾山の「絵画六」(「紅葉図」)

乾山紅葉図.jpg

尾形乾山筆「紅葉図」 紙本着色 一幅 三〇・五四×四三・一cm
「紫翠深省・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
【『新古今和歌集』源信明の「ほのほのと有明の月のつきかけに紅葉吹おろす山おろしの風」を散らし書きし、その歌意と同じように月夜に山の紅葉が舞い落ちている。光琳波模様の川面に散った紅葉の様子は錦を折ったようで、乾山の意匠の豊かさをいかんなく発揮している。歌と絵が渾然一体となり、文人乾山の雅味あふれる一作である。】(『尾形乾山開窯三〇〇年・京焼の系譜「乾山と京のやきもの」展』)

光琳躑躅図.jpg

尾形光琳筆「躑躅図」 一幅 絹本着色 三九・三×六〇・七cm 
畠山美術館蔵 重要文化財

https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/colle008.html

【「たらし込み」で描かれた土坡と流水のほとりに、鮮やかな紅色の躑躅が空に向かって枝を伸ばす。その手前に、白い躑躅がひっそりと咲く姿が、また対照的で美しい。流水を挟んで左右に大小の土坡も配しており、本図は小品ながらも、このような形や色彩の対比が見事に計算されている。まるで箱庭でもみるかのようにすべてが縮小された作品には、洗練された意匠感覚が反映されている。作者の尾形光琳(1658~1716)は江戸時代中期に絵師として活躍した。】

 この光琳の「躑躅図」について、「この大胆なタッチは、雪舟筆と伝える発墨山水画によくみうけるもの。宝永五年(一七〇八)の光琳書状によると、毎日雪舟の絵を模写しているとあるから、光琳が雪舟風発墨山水画から学んだのは確かであろう」(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説87」)と、光琳の小品中の傑作画として、夙に知られているものの一つである。
 冒頭の乾山の「紅葉図」は、この光琳の「躑躅図」を念頭に置いてのものであろう。そして、光琳の「躑躅図」は、宗達の「たらし込み」を意識してのものとも思われる。その宗達の「たらし込み」は、次の「犬図」などで、夙に知られているものである。

宗達犬図.jpg 

俵屋宗達筆「犬図」 一幅 紙本墨画 九〇・二四×四四・六cm
個人蔵 (宗達法橋 対青軒印)

 この宗達の「たらし込み」の犬は、光琳・乾山の次の時代の京都画壇の立役者・円山応挙に、即興的に引き継がれて行く。下記は、その応挙の「たらし込み」の犬で、その応挙の画に、「己か身の闇より吼て夜半の秋 蕪村」と賛をしたのは、与謝蕪村その人である。

犬図.jpg

蕪村賛・応挙画「己が身の・黒犬図」 紙本墨画 一幅
一九・六×二六・八cm 個人蔵

 ここに来て、冒頭の乾山の「紅葉図」の書画一体の世界は、「光琳と乾山」のコラボレーション(共同)の世界であり、そして、その背後には、「宗達と光悦」との、そのコラボレーションの世界が横たわっていることを思い知る。
 そして、その、一時代を画した、「宗達・光悦」、そして、「光琳・乾山」のコラボレーションの世界は、江戸中期の京都画壇に燦然と輝いた、写生派の巨匠・応挙と文人画の樹立者・蕪村、さらには、その時代に共に切磋琢磨した、「若冲・大雅・蕭白・芦雪・呉春」等々の、コラボレーションの世界でもある。
 さらに、特記して置きたいことは、冒頭の文人・乾山の、この書画一体の世界は、画(絵画)・俳(詩)二道を究めた、次の時代の郷愁の詩人・与謝蕪村の、その世界とすこぶる近い世界のものということを付け加えて置きたい。
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十二) [光琳・乾山・蕪村]

その十二 乾山の「絵画五」(「八ツ橋図」)

八橋一.jpg

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/127144

尾形乾山筆「八ツ橋図」 一幅 紙本着色 国(文化庁) 重要文化財(美術品)
縦二八・六cm 横三六・六cm 紫翠深省写之 習静堂・深省印 

本作品は、『伊勢物語』という歌物語(全125段)の第九段を典拠とするものである。『伊勢物語』は、ある貴族の一生を和歌と短い文章によって表したもので、遅くとも11世紀初めには成立していたと考えられている。第九段は、都から追い出された主人公の一行が、八橋という土地に咲いた杜若を見て都に残してきた妻を思いだす和歌を詠み、皆で涙するという内容である。画面には、土地を暗示する橋と場面の重要なモチーフとなる杜若が描かれ、その余白に、第九段の和歌と文章の一部が書きつけられる。
 作者は、我が国陶芸史上に偉大な足跡を残した尾形乾山(1663~1743)である。乾山は、江戸時代を代表する画家の一人尾形光琳の弟で、絵画性と意匠性に富んだ、従来にない陶器を制作したことで知られる。その才能は陶器制作に留まらず、兄光琳の画風を慕いながら、陶器の絵付けを思わせる独特の趣を持つ絵画作品も残した。本作はその乾山の資質がいかんなく発揮された作例で、杜若と橋を描く筆致はのびのびとして律動感があり、線描の単純さは絵でありながら書のような味わいを持つ。書は絵の余白を満たして水紋のように感じられ、白い紙地に広がる絵と書が渾然一体となり、独自の境地を作り出している。乾山の絵画の中でも定評があり、詩歌を愛した乾山らしさの横溢する極めて貴重な作例である。
 なお、款記には「紫翠深省寫之」とあり、白文「習静堂」印と白文「深省」印を伴う。

(メモ)

一 この図の上段には、『伊勢物語』(第九段・東下り)の「かきつばた」の五文字を句の上に据えた一首が記載されている。

  から衣 (唐衣)
  き (着) つつなれ (慣れ) にし
  つま (妻) しあれば
  はるばる来ぬる
  たび (旅) をしぞ思ふ

二 その下段には、その一首の前の、次の文章が記載されている。

  その沢にかきつばた
  いとおもしろく咲きたる
  それを見てある人のいはく
  かきつばたと
  いふ五文字を
  句の上にすへて
  旅の心をよめと
  いひければ
  よめる

三 上記の解説文にあるとおり、「書は絵の余白を満たして水紋のように感じられ、白い紙地に広がる絵と書が渾然一体となり、独自の境地を作り出している」と、書画一体の乾山の世界の代表的な作品に数えられている。

四 白文方印の「習静堂」は、三十歳前の、乾山が京都御室の仁和寺前に建てた別荘の名で、それに因んで乾山の若書きとする説もあるが、「書風や落款の『深省』の『深』字が古字で書かれている(享保五年・一七二〇、五十八歳ごろから用いた)ことから、この図は六十歳以後の晩年作と考えられる」】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説113」)。

五 『伊勢物語』(第九段・東下り)は、上記の解説文の、「都から追い出された主人公の一行が、八橋という土地に咲いた杜若を見て都に残してきた妻を思いだす和歌を詠み、皆で涙するという」というもので、そして、その主人公の在原業平と同じく、都落ちし、江戸下向を享受した、尾形光琳・乾山兄弟にとっては、それぞれの節目を物語るような、忘れ得ざる画題ということになろう。光琳には、その名を不動のものにした、次のような作品群を遺している。

(A図 「燕子花図屏風」・国宝・根津美術館蔵)

八橋二.jpg

(B図 「八橋図屏風」・メトロポリタン美術館蔵)

八ツ橋図三.jpg


(C図 「八橋蒔絵螺鈿硯箱」・国宝・東京国立博物館蔵)

八橋三.jpg

(D図 「伊勢物語八橋図」・東京国立博物館蔵・掛幅)

八橋図四.jpg

(E図 「燕子花図」・大阪市立博物館蔵・掛幅)

八橋五.jpg

六 これらの「八橋図」などの原型は、「伊勢物語図色紙」にあり、その全体については、下記アドレスで見ることが出来る。

file:///C:/Windows/SystemApps/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/Assets/WebNotes/WebNotesContent.htm

その「八橋図」は、「第9段-1 八橋」で、大きさは色紙大「縦30.8×横24.4(図縦23.4×横17.0)」、そして、その全体は、「五十葉」(紙本着色)から成る。

七 これらには、何種類かのものがあり、中でも、「伝宗達」の「出光美術館蔵」や「泉屋博古館所蔵」のものは、冒頭の乾山の「八ツ橋図」のように、書画が一体となっており、それらは、「画=俵屋宗達、書=本阿弥光悦」の、その伝統を踏まえてのものなのであろう。

www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=38368

八 これらのことを踏まえて、冒頭の乾山の、この「八ツ橋図」を隈なく見ていくと、次のようなことが、思い浮かんで来る。

1 乾山の、この「八ツ橋図」は、「縦二八・六cm 横三六・六cm」の、まことに色紙大の、片々たる小品の世界のものであるが、しかし、それは、見事に、家兄たる光琳の広大無辺な多種多様な世界(A図~E図)と対峙して、決して一歩も退けを取るものではない。

2 そして、その根底には、家兄たる光琳が樹立した「琳派」の世界の、その祖に当たる、
「宗達=画、光悦=書」の根元一体となった「書画」の世界の、光琳が、ともすると、「画=宗達」に傾け過ぎたとするならば、それを補完するように、「書=光悦」の世界を、見事に再現したということに他ならない。

3 すなわち、この「八ツ橋図」は、すべからく、乾山その人の「画」であり、その「書」
であるが、ここには、すべからく、「宗達=画、光悦=書」の伝統を引く、「光琳=画、乾山=書」の、次のステップの、すなわち、最晩年の、「乾山=画、乾山=書」の世界であることに、思い知るのである。
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十一) [光琳・乾山・蕪村]

その十一 乾山の「皿二」(「銹絵染付短冊皿」)

乾山和歌皿一.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客① : 裏 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図A(皿の内側)

乾山和歌皿二.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客① : 表 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図B(皿の裏面)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0050564

(注・下記の箱書きの順序に、上記のアドレスの掲載順序を入れ替えしている。)

乾山和歌皿三.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客② : 裏 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図C(皿の内側)

乾山和歌皿四.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客② : 表 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図D(皿の裏面)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0050564

(注・下記の箱書きの順序に、上記のアドレスの掲載順序を入れ替えしている。)


(メモ)

乾山和歌皿五.jpg

一 上記は、「銹絵染付短冊皿」の箱書きの一つである。この順序に、和歌が十首(図A・図C)と、その裏面にそれぞれの和歌に対応する「和歌十体(定家十体)と署名」(図B・図D)が、乾山の自筆で書かれている(上記のアドレスのものは、「和歌」と「和歌十体」とが対応していないので、この箱書きの順序に一部入れ替えをしている)。

二 上記の「和歌十体」(図B・図D)とそれに対応する和歌(図A・図C))は、次のようなものなのかも知れない。

廻雪体(※幽玄様=ゆうげんよう)  
思ひ入るふかき心のたよりまでみしはそれともなき山路かな 藤原秀能 新古今1317
【他出】自讃歌、定家十体(幽玄様)、如願法師集、三五記、東野州聞書、心敬私語、題林抄

高山体(※長高様=ちょうこうよう)
 吹き払ふ嵐の後の高根より木の葉曇らで月や出づらむ  宣秋門院丹後 新古今593
【他出】定家十体(長高様・見様)、三十六人歌合(元暦)、三五記、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄

至極体(※有心様=うしんよう)
 日暮るれば逢ふ人もなしまさき散る峰の嵐の音ばかりして 源俊頼  新古今557
【他出】散木和歌集、和歌一字抄、定家十体(有心様)、詠歌一体、三五記、愚秘抄、愚見抄、桐火桶、六華集、落書露顕、東野州聞書、題林愚抄

美麗体(※麗様=れいよう)
 うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕暮   源俊頼  金葉239
【他出】散木奇歌集、中古六歌仙、古来風躰抄、無名抄、定家十体(麗様)、定家八代抄、後鳥羽院御口伝、近代秀歌、西行上人談抄、詠歌一体、歌枕名寄、夫木和歌抄、三五記、桐火桶、井蛙抄、落書露顕

秀逸体(※事可然様=ことしかるべきよう)
 武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風か末に吹くらむ 源通光 新古今378
【他出】自讃歌、定家十体(事可然様)、新三十六人撰、撰集抄、歌枕名寄、三五記

景曲体(※面白様=おもしろよう)
 見せばやな志賀の辛崎麓なる長柄の山の春のけしきを   慈円 新古今1469

濃体(※濃様=のうよう)
 ながめわび秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん 式子内親王 (新古今380)
他出】正治初度百首、式子内親王集、三百六十番歌合、自讃歌、定家十体(濃様)、定家八代抄、時代不同歌合、新三十六人撰、三五記、六華集、題林愚抄

見様体(※見様=けんよう)
 村雨の露もまだひぬ槙の葉に露たちのぼる秋の夕暮    寂蓮法師 (新古今491)
【他出】寂蓮法師集、自讃歌、定家十体(見様)、定家八代抄、百人一首、三五記

有一節体(※有一節様=ひとふしあるよう)
 君いなば月まつとでもながめやらむあづまの方の夕ぐれのそら 西行 (新古今885)
【他出】西行家集、自讃歌、定家十体(有一節様)、歌枕名寄、西行物語、心敬私語

強力体(※拉鬼様=きらつよう)
 閨の上にかた枝さしおほひ外面なる葉ひろかしはに霰ふるなり 能因法師 (新古今655)

(注)
1 ※印は、「定家十体」の用例である。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/kagaku/t10t.html

2 「誹諧埋木」の「十体」(「十体」と「三十体」)の関連と用例を参考としている。

http://haikai.jp/guide/saho/saho2_umo.html#10tai

三 この「銹絵十体和歌短冊皿」(十客一組)も、寛保三年(一七四三)、八十一歳の、乾山絶筆の一つと数えて差し支えなかろう。すなわち、乾山の絶筆と目せられるものは、先に紹介した、「十二カ月和歌花鳥図」(十二枚一組の色紙を改装した掛幅)と「武蔵野隅田川図乱箱」(桐の乱箱に描いた「蛇籠図」と「薄図)、そして、この「銹絵十体和歌短冊皿」が、乾山の絶筆三部作ということになろう。

四 その上で、「十二カ月和歌花鳥図」も何種類かの遺作があるように、この「銹絵十体和歌短冊皿」も、何種類かの遺作があるようである。その一つは、下記のアドレスの「湯木美術館蔵」のものである。

www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2011_autumn.html

 こちらも十客一組ものであるが、そこに記載されている和歌十首は、上記の「東京国立博物館蔵」のものとは、同一ではないようである。
 また、下記のアドレスの「静嘉堂文庫美術館蔵」のもので、こちらは、三客一組のようである。

http://blossom-soon.seesaa.net/article/38297156.html

五 上記に詳しく紹介した「東京国立博物館蔵」のものは、下記のアドレスのとおり、「本館 13室 2018年5月22日(火) ~ 2018年6月24日(日)」で、展示されているようである。

http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5621

六 また、次のアドレスのとおり、「本館 2室 2018年6月5日(火) ~ 2018年7月8日(日)」で、「国宝 和歌体十種」(壬生忠岑十体)が展示されているようである。

http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5366
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十) [光琳・乾山・蕪村]

その十 乾山の「乱箱一」(「武蔵野隅田川図乱箱」)

乱箱㈠.jpg

乾山筆「武蔵野隅田川図乱箱」(別称・「薄図・蛇籠図」) 大和文華館蔵
上図=箱の内側=「蛇籠図」 下図=箱の裏面=「薄図」
桐材 縦 二七・四cm  横 二七・四cm  高 五・八cm


http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/119/1997_119_3.pdf


箱の裏面=「薄図」

乾山絵・薄図.jpg

落款=華洛紫翠深省八十一歳画 逃禅印

【 箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」) 

(メモ)

一 上記のアドレスの大和文華館の「美のたより」(1997夏№119)では、「薄の原に囲まれた水鳥の遊ぶ河」の風景(意匠)で、『伊勢物語』第九段、在原業平の「東下りの隅田川」場面が背景にあるとしている。すなわち、「名にし負はばいざこと問はむ都鳥/わが思ふ人はありやなしやと」の、乾山の望郷への思いが込められているというのである。それが故に、「武蔵野隅田川図乱箱」というネーミングを呈しているのであろう。

二 さらに、続けて、この裏面の「薄の原」と「落款」の関係について、「乾山は、薄の原を描きながら、途中で、『華洛紫翠深省八十一歳画』の落款を署名し、その後で、また、薄の原を描き足して、その落款の上に、緑青の薄の茎と葉、金泥や墨・朱で薄の葉を被せ、丁度、『落款を薄の原に埋め込んだ』というのである。その上で、最後に、「逃禅」(朱文小長方印)を押印したというのであろう。

三 続けて、「ここにおいて、絵と書とが渾然一体となって融合し、乾山特有の画面空間が表われ、そして、この落款は、「京を遠く離れ、武蔵野に一人立つ乾山自身の姿のようである」と記述している。「まことに、宜(むべ)なるかな」という思いがする。

四 これが、乾山の「八十一歳画」の、その最期の絶筆と、そんな雰囲気を漂わせている。それは、その生涯をかけた「陶磁器」などの世界でもなく、また、日本絵画史上一大の「琳派」の立役者の、実兄たる「尾形光琳」その人の「絵画」の世界でもなく、何と意表を突く、「桐の上箱のない乱れ箱」、そして、それはまことに小さい、縦横、三十センチ(高さ六センチ足らず)の、この木製(桐)に託した小宇宙こそ、「華洛紫翠深省」こと、「輝ける紫翠豊かなる京都の町衆の一人・尾形深省こと乾山」の、その異郷(江戸)に居ての最期の姿と解したい。

(追記)

次のアドレスの、「近世日本陶磁器類の系譜」所収「京焼色絵再考―乾山」は、最もスタンダードのものであるが、只一つ、この「武蔵野隅田川図乱箱」(別称・「薄図・蛇籠図」)が、陶器ではなく、木製の桐の箱に絵付けがされていることなど、その周辺のことを、是非とも追加して、その「京焼色絵再考―乾山」の、その「乾山の全体像」を鮮明にして欲しい。

www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その九) [光琳・乾山・蕪村]

その九 乾山の「絵画四」(「十二カ月和歌花鳥図」)4

乾山十二月.jpg

尾形乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 掛幅 一六・〇×二三・〇cm 個人蔵
紫翠深省八十一歳写 逃禅印 → 上記の作品は「十二月」(和歌賛=色うづむ垣根の雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅が枝(え)/ながめする池の氷にふる雪のかさなる年ををしの毛衣)

【 もと十二枚一組の色紙を改装したもの。掲載した十二月の図に「紫翠深省八十一歳写との落款があるので、前図(注・二月=下記)と同じく寛保三年(一七四三)の作とわかる。ほかにも、没年、八十一歳作の秀れた作品があるから、乾山の芸術、ことに絵画は最晩年に美しい花をさかせたといえよう。
この図は、藤原定家(一一六二~一二四一)が詠じた十二ケ月花鳥の和歌から取材したもので、図上に例によって乾山がその和歌を散らし書きにしている。定家のこの和歌はもともと「月次(つきなみ)花鳥図」への和歌賛として作られたが、江戸初期に好画題として喜ばれ、乾山の父の宗謙や光琳の師とそれる山本素軒なども描いていた。ことに元禄四年(一六九一)刊行の『鴫の羽掻(はねかき)』に挿図が掲載されてからは広く普及した。
乾山焼の絵皿には、その挿図を原本とした作品が、元禄十五年(一七〇二)の年紀のあるものを含めて三種遺っている。それらは絵がいずれも平凡で、果たして乾山が描いたかどうか不明だが、本図は、書・画・作陶に文人的風格を投影させた乾山芸術の棹尾を飾るにふさわしい、愛すべき小品といってよい。乾山の本領はこのような小画面における書画一体の抒情世界にあったのである。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説119・120」) 

(メモ)

一 この落款の「紫翠深省八十一歳写」というのは万感の重みがある。寛保三年(一七四三)六月二日に、乾山は江戸上野の入谷で瞑目する。すなわち、その瞑目する遺作ともいうべき作品である。

二 上記の解説のとおり、もともとは、十二枚一組の色紙に描かれたもので、現在は掛幅に改装されている。そして、その十二枚が、それぞれバラバラになって、所蔵者を異にしているようである。上記の「十二月」と、上記の解説にある「前図(二月)」は、同一所蔵者のようで、その「二月」の作品は次のとおりである」

乾山二月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「二月」(和歌賛=かざし折る道行き人のたもとまで桜に匂うきさらぎの空(そら)/狩人の霞にたどる春の日を妻(つま)どふ雉(きじ)の声(こゑ)にたつらん)

三 「四月」と「六月」は、次のアドレスで見ることが出来る。

http://pt.wahooart.com/@/OgataKenzan

「四月」(和歌賛=白妙の衣ほすてふ夏のきてかきねもたわにさける卯花/ほととぎすしのぶの里にさとなれよまだ卯の花のさ月待つころ(比))

「六月」(和歌賛=大かたの日かげにいとふみなづき(水無月)のそら(空)さへをしきとこなつの花/みじか夜の鵜川にのぼるかがり火のはやくすぎ行くみな月のそら(空))

乾山四月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「四月」

乾山六月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「六月」

四 「九月」(根津美術館蔵)は次のとおりである。

乾山九月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「九月」
九月(和歌賛=花すすき草のたもとの露けさをすててくれ(暮)ゆく秋のつれなさ/人め(目)さへいとどふかくさ(深草)かれぬとや冬まつ霜にうづら(鶉)なくらん)

http://web-japan.org/niponica/niponica19/ja/feature/feature02.html

五 ここで、途轍もない労の多い作業となって来るが、次のような地道な作業が必須となってくる。

1 乾山の「絵画四」(「十二カ月和歌花鳥図」)と、乾山の「角皿二」(「定家詠十二ケ月和
歌花鳥図角皿」)との相互検討

2 そして、その上で、『尾形乾山手控集成 下野佐野滞留期記録(住友慎一・渡邉達也編)』
などの膨大な資料(翻刻文あり)との相互検討が必須となって来る。

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その八) [光琳・乾山・蕪村]

その八 乾山の「角皿二」(「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」)

乾山皿二.jpg

(表)「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」の「十二月」(フーリア美術館蔵)

乾山皿二の一.jpg

(裏)「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」の「十二月」(フーリア美術館蔵)
Square dish with design after Fujiwara Teika, Poems of the Twelve Months, twelfth month
Type Square dish (kakuzara)
Maker(s) Artist: Ogata Kenzan (1663-1743), Narutaki workshop (active 1699 - 1712)
Historical period(s) Edo period, 1699-1712
Medium Buff clay; enamels, white slip, and iron pigment under transparent lead glaze
Dimension(s) H x W: 2.4 x 16.9 cm (15/16 x 6 5/8 in)

(メモ)

一  上記の『裏面』の読みは次のとおり。

十二月 早うめ  
色うつ(づ)むかきねの
雪の花なか(が)ら年のこ
なたに匂ふ梅が枝(※え)
水鳥 なか(が)めする池の
氷にふる雪のかさ
なる年を鴛(をし)の毛衣

二 先に紹介した下記の「新佐野乾山」の「黒地白梅流水八寸皿」の賛「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」)の「みずのうえ」は、この「梅が枝(え)」と同じような用例なのであろうか(?)

佐野乾山二.jpg

(新佐野乾山「黒地白梅流水八寸皿」の賛「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」)

三 この「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」は、「MOA美術館蔵」の十二枚一組の作品の、その「十二月」の裏面に、下記のとおり「元禄十五年《一七〇二》」の落款が施されており、
乾山が、四十歳の頃の作品ということが分かる。すなわち、乾山が鳴滝に開窯した頃の初期の作品で、当時の人気作品ということになる。この種のものは、「表」面の図柄も、「裏面」の和歌の散らし書きも、そのシリーズもので、それぞれ微妙に異なっている。

乾山皿二の二.jpg

「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」(MOA美術館蔵)の「十二月」の裏面

四 「乾山窯」(乾山工房)における乾山の役割は、「プロデューサ(製作者)兼ディレクター(監督)兼クリエイター(創作者)」というゼネラリストととしてのそれで、例えば、光琳は「クリエーター」(「絵付け」のスペシャリスト)ということになる。そして、この「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」での乾山の役割は、この「角皿」の全体の枠組みを考案し、さらに、その「陶法」(白絵具の技法・応用など)を編み出し、それを作陶者(陶工者)や絵付師に指示し・監督し、製品を作り上げるということになろう。そして、この角皿では、「裏面」の和歌を散らし書きしなどを、担当したということになろう。

五 この「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」は、狩野探幽の「定家詠十二ケ月和歌花鳥図画帖」をモデルにして、乾山が考案したものなのであろう。
http://www.nagoya-boston.or.jp/exhibition/past/vessels-201102/point.html


乾山皿二の三.jpg

六 ちなみに、この『定家詠十二カ月』は、藤原定家の自撰歌集『拾遺愚草』の中の「後仁和寺宮花鳥」として収められる、次の月次(つきなみ)の二十四首である。

●一月(正月): 柳竹に鶯
うちなびき春くるかぜの色なれや日をへてそむる青柳の糸
春きてはいく世もすぎぬ朝戸いでに鶯なきゐる里の群竹

●二月(如月): 桜に雉

かざし折るみちゆき人のたもとまで桜に匂うきさらぎの空
かり人の霞にたどる春の日をつまどふ雉のこゑにたつらん

●三月(弥生): 菫に雲雀

ゆく春のかたみとやさく藤の花そをだに後の色のゆかりに
すみれさくひばりの床にやどかりて野をなつかしみくらす春かな

●四月(卯月): 卯花に郭公

白妙の衣ほすてふ夏のきてかきねもたわにさける卯花
郭公しのぶの里にさとなれよまだ卯の花のさ月待つ比

●五月(皐月): 橘に水鶏

ほととぎすなくや五月のやどがほにかならず匂う軒の橘
まきの戸をたたくくひなのあけぼのに人やあやめの軒のうつり香

●六月(水無月): 撫子に鵜飼

大かたの日影にいとふ水無月の空さえをしきとこなつの花
みじか夜のう河にのぼるかがり火のはやくすぎ行くみな月の空

●七月(文月): 女郎花に鵲
 
秋ならでたれにあひみぬをみなえし契りやおきし星合の空
ながき夜にはねをならぶる契とて秋待ちたえる鵲のはし

●八月(葉月): 萩に雁
 
秋たけぬいかなる色と吹く風にやがてうつろふもとあらの萩
ながめやる秋の半もすぎの戸にまつほどしきる初かりのこゑ

●九月(長月): 尾花に鶉

花すすき草のたもとの露けさをすてて暮ゆく秋のつれなさ
人目さへいとど深草かれぬとや冬まつ霜に鶉なくらん
 
●十月(神無月): 残菊に鶴(たづ)

神無月しも夜の菊のにほはずは秋のかたみになにをおかまし
夕日影むれたつたづは射しながら時雨の雲ぞ山めぐりする

●十一月(霜月): 枇杷に千鳥

冬の日は木草のこさぬ霜の色を葉がへぬ枝の花ぞまがふる
千鳥なく賀茂の河せのよはの月ひとつにみがく山あゐの袖

●十二月(師走): 早梅に鴛鴦

色うづむかきねの雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅がえ
ながめする池の氷にふる雪のかさなる年ををしの毛ごろも
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その七) [光琳・乾山・蕪村]

その七 乾山の「角皿一」(「銹絵観鴎図角皿」)

銹絵観鴎図角皿(さびえかんおうずかくざら)
1口 陶器 尾形光琳・深省合作(おがたこうりん・しんせい) 高2.9 縦横22.1 江戸時代 18世紀 重文  東京国立博物館蔵
尾形光琳の弟尾形深省は元禄12年に京都の鳴滝に窯を開き,作品には「乾山」の銘款を付けた。乾山焼の中でも兄光琳が絵付をした兄弟合作の作品は特に名高く,この角皿もその代表作である。中国宋代の詩人黄山谷が鴎を眺めている図を光琳が軽妙な筆致で描き,裏面には深省が見事な筆で銘款を記している。

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=G32


乾山皿一.jpg

(「寂明光琳畫」)

乾山皿一の一.jpg

(「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所屋※尚古亝※(斎)」)

乾山皿一の二.jpg



www.emuseum.jp/detail/100517/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%85%89%E7%90%B3&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=7

尾形光琳の弟深省は、元禄12年(1699)に京都近郊鳴滝の地に陶窯を開き、以来陶工として生きた。そしてその地が都の乾(いぬい)(北西)の方角にあたることから陶号を乾山(けんざん)と称し、作品に乾山の銘を書したので、世上乾山焼と呼ばれた。
そうした乾山焼のなかに、兄光琳が下絵付けした兄弟合作品があり、光琳の絵画としても優れた作品があることから声価が高く、それらは主として宝永6年(1709)から正徳6年(1716)の間に焼造されたことが近年明らかになってきた。
この作品は、そうした兄弟合作品の一つで、型造り方形の白化粧下地楽焼質の皿の見込みに、宋代の詩人黄山谷観鷗の図を光琳が鉄呉須(てつごす)で下絵付けし、裏面には乾山が「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所※(居)尚古※(斎)」の銘文を同じく釉下に書しており、立ち上がった縁の外側には雲唐草、内側には枠取りした牡丹文と雲唐草が描かれている。光琳の絵には「寂明光琳(花押<かおう>)」の署名があり、その署名や花押から宝永6年から正徳2年の間の作と推定されている。
この種の兄弟合作銘角皿は20点ほど知られているが、なかにあって光琳の軽妙な筆致もさることながら、裏面に大書された乾山の銘文の見事さと併せて、合作品中の代表作として名高い。明治11年(1878)に当館が購入したもので、昭和59年度に重要文化財に指定された。

別称「墨絵黄山谷観鷗図」(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説115」) 
光琳筆 乾山作 東京国立博物館蔵 角皿 寂明光琳画 乾山銘 縦二二・〇cm 横二二・一cm 高三・〇cm
【 この角皿はもっぱら絵付のために乾山が考案したと思われるもの。絵は「寂明光琳畫」の落款から明らかなように光琳の筆で裏面に「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所※(屋)尚古亝(※斎)」という長い乾山の銘がある。絵は水墨画で好まれた画題で、中国宋時代の有名な詩人、黄山谷(こうざんこく)が鷗(かもめ)をみて詩を作るところ描く。観る者の目は光琳の落款から黄山谷へ、そして、鷗へと動く。また、黄山谷から鷗や落款へと動くといってもよい。まことに気のきいた構図で、筆致も簡略ながら巧みに、人物の表情や姿態をとらえ、しっとりとした味わいがある。乾山がその『陶法伝書』で、「最初の絵は皆々光琳自筆」と書いているのと、光琳の落款が「法橋光琳」となっていないので、元禄十二年(一六九九)末に鳴滝窯を始めてまもなく、光琳が法橋になる元禄十四年以前の作とされてきた。しかし当時の光琳の絵はこれほど情趣的ではない。裏の乾山の堂々とした書風も宝永末(一七一〇)のものに近いから、そのころ江戸から上京した光琳が窮地に陥っていた乾山焼を助けるために描いたと考える。光琳が「寂明」の号を用いたのもその頃である。裏面の長い乾山銘には、かれの衒学(げんがく)的な臭味も感じられるが、得意な書を楽しんだものとみたい。乾山焼は光琳の絵付と乾山の書のある陶器ということで評判を得ていたのであろう。 】 (注) ※=異体字

(メモ)

一 「光琳・乾山合作」ものの、重要文化財指定のものである。上記のとおり、この作品を東京国立博物館が購入したのは、明治十一年(一八七八)のことという。この前年に西南戦争があり、この年に大久保利通が暗殺された年で、フェノロサが来日した年である。
後に、フェノロサは、日本の重要美術品の海外流失などに関し毀誉褒貶の評価を受けるが、この頃から、そういう風潮が根差していたのかも知れない。

二 「光琳・乾山合作」ものは、元禄十二年(一六九九)に乾山が鳴滝に開窯してから、宝永元年(一七〇四)に光琳が江戸へ下向する、鳴滝時代の「鳴滝乾山」(鳴滝自窯)と、宝永六年(一七〇九)に光琳が帰京してから没する享保元年(一七一六)までの、二条(丁子屋町)時代の「二条乾山」(清水・粟田口借窯)とがある。

三 そして、この作品は、上記の「作品解説115」のとおり、「元禄十二年(一六九九)末に鳴滝窯を始めてまもなく、光琳が法橋になる元禄十四年以前の作」の「鳴滝乾山」時代のものとされてきたが、「裏の乾山の堂々とした書風も宝永末(一七一〇)のものに近いから、そのころ江戸から上京した光琳が窮地に陥っていた乾山焼を助けるために描いたと考える。光琳が「寂明」の号を用いたのもその頃である」とする「二条乾山」時代のものとする説が有力になっている。

四 先に紹介した「近世日本陶磁器類の系譜」所収「京焼色絵再考―乾山」では、「鳴滝時代」のものとし、その「鳴滝時代」を次のような三区分により解説をしている。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html



乾山皿.jpg

① 低下度焼成の釉下色絵や銹絵の作品
これらは錦窯と呼ばれる低下度専門(800度位)のかなり小さな窯で焼かれたものです。おそらく乾山が押小路窯の技法を発展させ、さらに独自の形態に創造昇華させたものと考えられます。(上記が例示として掲載されている。)

② 本焼き焼成(高火度焼成)の作品
この技術は御室焼(仁清)から導入し、当時主流をなしていた織部焼や唐津焼などを積極的に写しました。これも乾山風に意匠された作品を多く産出しています。(例示省略)

③国焼意匠の作品
御室焼の特徴でもある国焼意匠も積極的に取り入れ、御室焼を踏襲しながら乾山焼を完成させていきました。
下の百合型向付では、仁清は最初から土をこねて作ったと思われる百合の花びらの先にかすかに銹の色付けがあるだけなのに対し、乾山は型取りされた白地の向付けに、単純化された百合の花を描いたと思われます。(例示省略)

五 いずれにしろ、「光琳・乾山合作」ものは、乾山窯の名を不動のものにし、さらに、華麗な琳派意匠による色絵型物の量産化などは、「二条乾山工房」(乾山を中心とする陶器工房)の乾山焼が、当時の山城国(京都)土産に取り上げられるほどに、その評価は高かったのであろう(正徳三年刊の『和漢三才図絵』)。

六 上記掲載の「中段・左側」のものは、「色絵石垣文角皿」(乾山作・五客)は、鳴滝時代の初期の作品で、「乾山に私淑していた近代陶芸の巨匠、富本憲吉の旧蔵品である」(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)。現在は、「京都国立博物館蔵」で、その裏面(中段・右側)の銘は、「日本元禄年製乾山陶隠(花押?)」で、この「花押(?)」は、乾山の号の一つの「尚古」を合成したもののように思われる(「巾着型」の花押)。ちなみに、富本憲吉も、川端康成と同じく「新佐野乾山」の「否定派」である。

七 上記掲載の「下段」のものは、「色絵定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」(出光美術館蔵)で、乾山窯の代表的な作品とされている。「白化粧をほどこした角皿に、狩野派や土佐派を学んだ絵師の手によって粉本を写した花鳥画が描かれ、裏面には、能書家であった乾山が銹絵具を用いて和歌を散らし書きしている」(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)。
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光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その六) [光琳・乾山・蕪村]

その六 乾山の「絵画三」(「四季花鳥図屏風」)

乾山絵三.jpg

尾形乾山「四季花鳥図屏風」(左隻)江戸時代・寛保3(1743)年 大東急記念文庫蔵

(メモ)

一 上記は、次のアドレスのものである。

https://serai.jp/hobby/71115

尾形光琳(おがたこうりん)の弟、尾形乾山(おがたけんざん)が81歳で描いた「四季花鳥図屏風」も、華やかで目を惹きます。柳、桔梗、萩や菊、雪の枯れ芦など、四季の草花に白鷺を絶妙な構図で配した屏風です。
乾山といえば、絵付けをほどこした焼き物で知られていますが、じつはこういった絵画にも才能を発揮しているのです。
五島美術館・大東急記念文庫学芸部さんによると、「五島慶太が亡くなる3ヵ月前に購入した作品で、川端康成が所有していたことでも知られている」とのことです。

二 この乾山ものの旧所蔵者の、ノーベル賞作家・川端康成が、「佐野乾山に関する真贋論争」の「贋作派(否定派)」の急先鋒なのである。

 次のアドレスの「川端康成の否定意見」は、次のとおりである。

http://kaysan.net/sano/ronsou.htm

「ニセモノと見る私の印象は、きわめて簡単明白である。絵が悪い。書が悪い。騒々しくて品格が卑しい。器の形も悪い。ここで悪いというのは、乾山のものとはちがう、乾山のニセモノであるという意味よりも強い。乾山であるかないかより、それ以前の否定である。つまり、誰の作であろうと芸術品として「悪い」のである。(略) 乾山ほどの人には、こんな劣弱粗雑な絵はできるはずがないのである。」

四 この「川端康成」評に対する反論ではなく、「新発見『佐野乾山』展」を見たままの「芸術は爆発だ」とかで知られている「岡本太郎の肯定意見」は次のとおりである。(同上アドレスによる)

「2つ3つと見るにつれ、なかなかイイジャナイカ。色が鮮やかなハーモニイで浮かび上がっている。筆捌きも見事だ。(略)気取りやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものが無い。(略)たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーの盛り上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ。」

五 川端康成の「新佐野乾山」ものに関する否定論というのは、例えば、冒頭の、自分が所蔵していた「四季花鳥図屏風」などを基準として、「乾山ほどの人には、こんな劣弱粗雑な絵はできるはずがないのである」という見方なのであろう。

六 それに対して、岡本太郎は、「これだけ豊かなファンテジーの盛り上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ」と、その基準を「新佐野乾山」そのものに置き、例えば、小林秀雄の「ギブツの臭いなんかしないじゃないの」の印象評価を一歩進めている。そして、このお二人は、下記の「参考」論考の中にも、その名があるとおり、こと「真贋」関連については、一家言を有している方々なのである。。

七 これは、何処まで行っても、両者の見方は、相互に交叉することはなく、平行線のままに終わるような、そういう領域内のものということと、その上で、「新佐野乾山」ものに関連しては、次のような問題があることを付記して置きたい。

1 「佐野乾山」ものは、次の『初代乾山(尾形乾山)』から、「京都派」と「江戸派」に引き継がれて、少なくとも、「京都派」は三代、そして、江戸派は六代にわたり、その制作が続けられていたこと。

     ( 京都 )   ( 江戸 )
初代      尾形乾山
二代    猪八     次郎兵衛
三代    清吾     宮崎富之助
(三代)  宮田呉介
四代           抱一上人
五代           西村藐庵
(六代)          玄々斎
(六代)          三浦乾也
六代           浦野繁吉

2 「手控え」ものの「偽書」関連で、「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山記載中の「乾山は81歳で亡くなる前、病床で次郎兵衛に「江戸伝書」や「佐野伝書」には記されていない陶技のコツを口述筆記させました」の『口述筆記』などは重要な点になって来る。すなわち、「乾山自筆手控え」と「乾山口述手控え」と「転記」の問題の検討などである。また、「言葉使いに現代仮名遣いがあり、万葉仮名が殆ど使われておらず、バビブベボには半数例以上濁点が付けられている」(小森松菴氏)などの指摘は、致命傷になりかねないものを内包しているであろう。

3 「佐那具(さなぐ)乾山」(「陸軍特務機関」)、「湖東乾山」(『真贋尾形乾山の見極め(渡辺達也著)』所収「序」「第十二章佐野乾山を贋作とした要因」)関連となると、「真佐野乾山」とか「新佐野乾山」とかとを問わず、例えば、下記参考のうちの、次のような観点からの「古美術真贋」総ざらいということが、その前提となって来よう。

無署名「陶磁—1—染付(古美術真贋ガイド—1—)」、『芸術新潮』、第28巻1号、新潮社、1977年、153—160頁
無署名「陶磁—2—美濃(古美術真贋ガイド—2—)」、『芸術新潮』、第28巻2号、新潮社、1977年、155—162頁
無署名「陶磁—3—信楽 伊賀(古美術真贋ガイド—3—)」、『芸術新潮』、第28巻3号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—4—備前 丹波(古美術真贋ガイド—4—)」、『芸術新潮』、第28巻5号、新潮社、1977年、163—170頁
無署名「陶磁—5—越前 珠州(古美術真贋ガイド—5—)」、『芸術新潮』、第28巻6号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—6—常滑 渥美(古美術真贋ガイド—6—)」、『芸術新潮』、第28巻7号、新潮社、1977年、147—154頁
無署名「陶磁—7—瀬戸 猿投(古美術真贋ガイド—7—)」、『芸術新潮』、第28巻8号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—8—中世の陶器(古美術真贋ガイド—8—)」、『芸術新潮』、第28巻9号、新潮社、1977年、149—156頁
無署名「陶磁—9—青磁(古美術真贋ガイド—9—)」、『芸術新潮』、第28巻11号、新潮社、1977年、145—152頁
無署名「陶磁—10—白磁 青白磁(古美術真贋ガイド—10—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—11—三彩 緑釉(古美術真贋ガイド—11—)」、『芸術新潮』、第29巻1号、新潮社、1978年、157—164頁
無署名「陶磁—12—唐津(古美術真贋ガイド—12—)」、『芸術新潮』、第29巻2号、新潮社、1978年、147—154頁
無署名「陶磁—13—天目 黒釉(古美術真贋ガイド—13—)」、『芸術新潮』、第29巻4号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—14—仁清 乾山ほか(古美術真贋ガイド—14—)」、『芸術新潮』、第29巻5号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—15—長次郎 光悦/萩(古美術真贋ガイド—15—)」、『芸術新潮』、第29巻6号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—16—朝鮮の古陶磁(古美術真贋ガイド—16—)」、『芸術新潮』、第29巻7号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—17—中国の古陶磁(古美術真贋ガイド—17—)」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、127—134頁
無署名「陶磁—18—近世の陶磁——茶陶/民窯(古美術真贋ガイド—18—)」、『芸術新潮』、第29巻9号、新潮社、1978年、123—130頁
無署名「陶磁—19—伊万里 鍋島 柿右衛門(古美術真贋ガイド—19—)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、135—142頁
無署名「肉筆北斎の真贋—里帰り展を機に(アート・ニューズ 話題)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、13—16頁
無署名「陶磁—20—色絵(古美術真贋ガイド—20—)」、『芸術新潮』、第29巻11号、新潮社、1978年、115—122頁
無署名「陶磁—21完—(古美術真贋ガイド—21—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1978年、123—130頁

(参考)

http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/2001Hazama/07/7400.html

■贋作(注・「真贋」の見極め関連の論考など)

城戸勘太郎「鉄斎作品の贋物について」、『三彩』、第38巻、1950年、美術出版社、55—56頁
小林秀雄『眞贋』、新潮社、1951年
岡本太郎「(本ものと偽ものと)鉄斎をめぐって」、『芸術新潮』、10号、1953年
河北倫明「鉄斎の贋作」、『図書』、1955年、7—8頁
大西芳雄「偽物作りの実態—『鉄斎画帖』などをめぐって」、『ミュージアム』、第83巻、東京国立博物館、1958年、21—23頁
小高根太郎「鉄斎のニセモノ」、『現代の眼』、第60巻、1959年、6頁
田中一松「にせもの礼賛」、『現代の眼』、第60巻、国立近代美術館、1959年、2—3頁
隈元謙次郎「真贋の話」、『現代の眼』、第60巻、国立近代美術館、1959年、4—5頁
千沢禎治「彫刻の真贋について」、『現代の眼』、第60巻、国立近代美術館、1959年、7頁
野間清六『にせもの 本もの』、朝日新聞社、1961年
ゼップ・シュラー『贋作者 商人 専門家』、関楠男訳、河出書房新社、1961年
多田道太郎『複製芸術論』、勁草書房、1962年
土方定一『画家と画商と収集家』、岩波新書、1963年
鈴木進「三つの『十便十宜』(真贋—1—)」」、『芸術新潮』、第15巻1号、新潮社、1964年、92—98頁
瀬木慎一「マルスカート偽作事件(真贋—2—)」、『芸術新潮』、第15巻2号、新潮社、1964年、112—119頁
水尾比呂志「永徳と伝永徳(真贋—3—)」、『芸術新潮』、第15巻3号、新潮社、1964年、116—122頁
大島辰雄「ファンメーヘレン事件(真贋—4—)」、『芸術新潮』、第15巻4号、新潮社、1964年、98—106頁
白崎秀雄「藤田嗣治の世界(真贋—5—)」、『芸術新潮』、第15巻5号、新潮社、1964年、118—125頁
久保貞次郎「滝川製ヨーロッパ絵画(真贋—6—)」、『芸術新潮』、第15巻6号、新潮社、1964年、102—111頁
白崎秀雄「魯山人の贋作(真贋—7—)」、『芸術新潮』、第15巻7号、新潮社、1964年、110—118頁
柳生不二雄「円空の贋作(真贋—8—)」、『芸術新潮』、第15巻8号、新潮社、1964年、120—127頁
竹田道太郎「鉄斎に保証なし (真贋—9—)」、『芸術新潮』、第15巻9号、新潮社、1964年、116—122頁
瀬木慎一「クライスラー家の偽作事件(真贋—10—)」、『芸術新潮』、第15巻10号、新潮社、1964年、106—113頁
小野忠重「写楽の謎(真贋—11—)」、『芸術新潮』、第15巻11号、新潮社、1964年、92—99頁
久保貞次郎「先達狩野享吉の鑑定(真贋—12—)」、『芸術新潮』、第15巻12号、新潮社、1964年、134—141頁
ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』、川村2郎他訳、紀伊国屋書店、1965年
道上寿一「私のレンブラント(真贋—13—)」、『芸術新潮』、第16巻1号、新潮社、1965年、102—109頁
白崎秀雄「肉筆浮世絵の怪(真贋—14—)」、『芸術新潮』、第16巻2号、新潮社、1965年、120—128頁
徳大寺公英「西洋絵画の鑑定への疑問(真贋—15—)」、『芸術新潮』、第16巻3号、新潮社、1965年、100—105頁
宗左近「複製だったピカソ陶器(真贋—16—)」、『芸術新潮』、第16巻4号、新潮社、1965年、70—77頁
深井晋司「オリエントのにせもの(真贋—17—)」、『芸術新潮』、第16巻5号、新潮社、1965年、132—138頁
白崎秀雄「天平の地宝論争(真贋—18—)」、『芸術新潮』、第16巻6号、新潮社、1965年、84—91頁
神代雄一郎「遠州の庭(真贋—19—)」、『芸術新潮』、第16巻7号、新潮社、1965年、50—61頁
佐々木剛三「南画のにせもの(真贋—20—)」、『芸術新潮』、第16巻8号、新潮社、1965年、138—145頁
久保貞次郎「ドガのパステル事件(真贋—21—)」、『芸術新潮』、第16巻9号、新潮社、1965年、96—104頁
針生一郎「雪舟5点説(真贋—22—)」、『芸術新潮』、第16巻10号、新潮社、1965年、102—110頁
無署名「原子炉で調べた藤田の『猫』(真贋—23—)」、『芸術新潮』、第16巻11号、新潮社、1965年、132—140頁
竹内健「黒田清輝の補修をめぐる怪談(真贋—24—)」、『芸術新潮』、第16巻12号、新潮社、1965年、94—100頁
白崎秀雄『真贋: 美と欲望の11章』、講談社、1965年
坂本光聰『世界の鉄斎』、浪速社、1965年
村木明「ルーヴルのスキャンダル(真贋—25—)」、『芸術新潮』、第17巻1号、新潮社、1966年、92—98頁
ハリー・パッカード「新発見の写楽(真贋—26—)」、『芸術新潮』、第17巻2号、新潮社、1966年、108—117頁
山中蘭径「大雅の魚目(真贋—27—)」、『芸術新潮』、第16巻3号、新潮社、1966年、152—158頁
無署名「国会でケチをつけられた名画—西洋美術館のドランとデュフィ(真贋—28—)」、『芸術新潮』、第17巻4号、新潮社、1966年、134—143頁
瀬木慎一「ルネッサンス彫刻の偽作事件(真贋—29—)」、『芸術新潮』、第17巻5号、新潮社、1966年、116—124頁
矢田三千男「生きている春峯庵(真贋—30—)」、『芸術新潮』、第17巻6号、新潮社、1966年、146—152頁
瀬木慎一「ゴッホのにせもの(真贋—31—)」、『芸術新潮』、第17巻7号、新潮社、1966年、100—108頁
重森完途「雪舟の庭(真贋—32—)」、『芸術新潮』、第17巻8号、新潮社、1966年、56—65頁
瀬木慎一「グラフィック・デザイン盗作史(真贋—33—)」、『芸術新潮』、第17巻9号、新潮社、1966年、142—147頁
富山秀男「岸田劉生謎の二点(真贋—34—)」、『芸術新潮』、第17巻10号、新潮社、1966年、114—121頁
桑原住雄「ロダンの贋作事件(真贋—35—)」、『芸術新潮』、第17巻11号、新潮社、1966年、134—141頁
小川正隆「ルソーの人物画(真贋—36—)」、『芸術新潮』、第17巻12号、新潮社、1966年、94—101頁
小高根太郎「鉄斎の偽物と戦う」、『芸術新潮』、第18巻6号、新潮社、1967年、88—91頁
クリフォード・アーヴィング『贋作』、関口英男訳、早川書房、1967年
白崎秀雄「茶入『猿若』の謎(真贋—37—)」、『芸術新潮』、第18巻1号、新潮社、1967年、118—125頁
海上雅臣「棟方板画のにせもの事件(真贋—38—)」、『芸術新潮』、第18巻2号、新潮社、1967年、128—132頁
嘉門安雄「新発見のリューベンス(真贋—39—)」、『芸術新潮』、第18巻3号、新潮社、1967年、88—95頁
瀬木慎一「ピカソの贋作(真贋—40—)」、『芸術新潮』、第18巻4号、新潮社、1967年、106—112頁
内藤昌「まぼろしの伏見城(真贋—41—)」、『芸術新潮』、第18巻5号、新潮社、1967年、86—94頁
大島辰雄「パリの国際贋作組織X(真贋—42—)」、『芸術新潮』、第18巻6号、新潮社、1967年、152—158頁
瀬木慎一「これも写楽か(真贋—43—)」、『芸術新潮』、第18巻7号、新潮社、1967年、140—148頁
無署名「現代絵画の贋作(真贋—44—)」、『芸術新潮』、第18巻8号、新潮社、1967年、128—135頁
村木明「ルーブル美術館の科学調査(真贋—45—)」、『芸術新潮』、第18巻9号、新潮社、1967年、142—147頁
安藤更生「国宝修理綺譚(真贋—46—)」、『芸術新潮』、第18巻10号、新潮社、1967年、80—87頁
白崎秀雄「『国華』掲載の陳謝文(真贋—47—)」、『芸術新潮』、第18巻11号、新潮社、1967年、110—115頁
森洋子「権威の座を揺るがされたギリシャ彫刻の至宝(真贋—48—)」、『芸術新潮』、第18巻12号、新潮社、1967年、106—114頁
瀬木慎一「北斎の油絵(真贋—49—)」、『芸術新潮』、第19巻1号、新潮社、1968年、132—140頁
無署名「罷りとおる『光琳・乾山展』(真贋—50—)」、『芸術新潮』、第19巻2号、新潮社、1968年、94—99頁
山田智三郎「メトロポリタンの『馬』(真贋—51—)」、『芸術新潮』、第19巻3号、新潮社、1968年、156—160頁
江原順「その後のルグロ事件(真贋—52—)」、『芸術新潮』、第19巻4号、新潮社、1968年、129—134頁
無署名「ある竹田贋作ものがたり(真贋—53—)」、『芸術新潮』、第19巻5号、新潮社、1968年、96—100頁
J・R・カスティル「ニューヨークを騒がせたD.スタイン(真贋—54—)」、『芸術新潮』、第19巻6号、新潮社、1968年、106—110頁
瀬木慎一「市民が告発した贋作美術館(真贋—56—)」、『芸術新潮』、第19巻8号、新潮社、1968年、120—126頁
内藤昌「虚構のデザイナー・小堀遠州(真贋—57—)」、『芸術新潮』、第19巻9号、新潮社、1968年、116—124頁
中村渓男「古画を切った利休(真贋—58—)」、『芸術新潮』、第19巻10号、新潮社、1968年、122—128頁
瀬木慎一「雪舟の『山水長巻』は二本あった…(真贋—59—)」、『芸術新潮』、第19巻11号、新潮社、1968年、122—130頁
朝日晃「佐伯祐三をめぐる謎(真贋—60—)」、『芸術新潮』、第19巻12号、新潮社、1968年、106—114頁
辻成史「レンブラントとセーヘルス(真贋—61—)」、『芸術新潮』、第20巻1号、新潮社、1969年、138—145頁
上村達雄訳・編「トルコの出土品密売事件の謎(The Dorak affair Kenneth Pearson and Patricia Connor)(真贋—62—)」、『芸術新潮』、第20巻2号、新潮社、1969年、104—109頁
中島健一郎「田舎町をさわがせた北斎(真贋—63—)」、『芸術新潮』、第20巻3号、新潮社、1969年、124—129頁
陳舜臣「殷周青銅器の贋作者たち(真贋—64—)」、『芸術新潮』、第20巻4号、新潮社、1969年、72—77頁
無署名「作られた天平の『緑釉薬壷』(真贋—65—)」、『芸術新潮』、第20巻5号、新潮社、1969年、128—136頁
久保尋二「レオナルドの彫刻『フローラ像』の謎(真贋—66—)」、『芸術新潮』、第20巻6号、新潮社、1969年、126—131頁
小潟昭夫「名画の運命—新発見のコレジオの二作品をめぐって—(真贋—67—)」、『芸術新潮』、第20巻7号、新潮社、1969年、86—93頁
青柳瑞穂「わが光琳と乾山(真贋—68—)」、『芸術新潮』、第20巻8号、新潮社、1969年、134—141頁
下村寅太郎「『モナ・リサ』はモナ・リサであるか(真贋—69—)」、『芸術新潮』、第20巻9号、新潮社、1969年、144—149頁
陳舜臣「名画への挑戦—中国画家趙万氏の秘密—(真贋—70—)」、『芸術新潮』、第20巻10号、新潮社、1969年、112—117頁
江原順「新発見の『ボッシュ』への疑問(真贋—71—)」、『芸術新潮』、第20巻11号、新潮社、1969年、124—132頁
無署名「ボッテイチェルリ騒動の1ヶ月(真贋—72—)」、『芸術新潮』、第20巻12号、新潮社、1969年、76—83頁
鈴木八司「エジプト美術の裏(真贋—73—)」、『芸術新潮』、第21巻1号、新潮社、1970年、128—133頁
瀬木慎一「鑑定家ベレンソン(真贋—74—)」、『芸術新潮』、第21巻2号、新潮社、1970年、106—111頁
菅原明郎「東大寺2月堂の謎(真贋—75—)」、『芸術新潮』、第21巻3号、新潮社、1970年、100—105頁
馬杉宗夫「サン・ドンの彫刻(真贋—76—)」、『芸術新潮』、第21巻4号、新潮社、1970年、130—137頁
嘉門安雄「レンブラントの大作『ジュノー』への疑問(真贋—77—)」、『芸術新潮』、第21巻5号、新潮社、1970年、90—95頁
佐々木静一「ルグロ事件・贋作者の告白—アーヴィング著『贋作者』による—(真贋—78—)」、『芸術新潮』、第21巻6号、新潮社、1970年、96—104頁
瀬木慎一「古今書画鑑定秘話(真贋—79—)」、『芸術新潮』、第21巻7号、新潮社、1970年、110—105頁
辻成史「『ヨシュア画巻』—自己欺瞞の芸術(真贋—80—)」、『芸術新潮』、第21巻8号、新潮社、1970年、106—111頁
小川熙「新発見?ミケランジェロのタブロー(真贋—81—)」、『芸術新潮』、第21巻9号、新潮社、1970年、92—99頁
無署名「永遠の秘仏・善光寺如来(真贋—82—)」、『芸術新潮』、第21巻10号、新潮社、1970年、128—133頁
北村由雄「二つのラファエルロ事件(真贋—83—)」、『芸術新潮』、第21巻11号、新潮社、1970年、132—138頁
安東次男「蕪村の俳仙図(真贋—84—)」、『芸術新潮』、第21巻12号、新潮社、1970年、134—140頁
ル・マール編『複製時代の思想』、富士ゼロックス、1971年
瀬木慎一「ゴッホ研究の総決算(真贋—85—)」、『芸術新潮』、第22巻1号、新潮社、1971年、108—115頁
桑原住雄「オリジナルと複製の価値転倒—脱芸術状況の仮相の真相(真贋—86—)」、『芸術新潮』、第22巻2号、新潮社、1971年、96—100頁
神吉敬三「もしベラスケスが本物ならば(真贋—87—)」、『芸術新潮』、第22巻3号、新潮社、1971年、120—127頁
邦光史郎「似せ絵をかいたお城絵師—絵金—(真贋—88—)」、『芸術新潮』、第22巻4号、新潮社、1971年、100—107頁
朝日晃「佐伯祐三の虚と実(真贋—89—)」、『芸術新潮』、第22巻5号、新潮社、1971年、108—113頁
長谷川仁「画商四十五年のあれこれ(真贋—90—)」、『芸術新潮』、第22巻6号、新潮社、1971年、120—125頁
澤野久雄「崋山の『冨岳風雨』をめぐって(真贋—91—)」、『芸術新潮』、第22巻7号、新潮社、1971年、108—113頁
瀬木慎一「フェルメールへの科学的挑戦(真贋—92—)」、『芸術新潮』、第22巻8号、新潮社、1971年、128—133頁
佐々木剛三「竜安寺石庭の謎(真贋—93—)」、『芸術新潮』、第22巻9号、新潮社、1971年、122—127頁
田中英道「『夜の画家』(ジョルジョ・ドゥ・ラ・トゥール)影の男(真贋—94—)」、『芸術新潮』、第22巻10号、新潮社、1971年、108—115頁
村重寧「法橋以前の宗達作への疑問(真贋—95—)」、『芸術新潮』、第20巻11号、新潮社、1969年、132—137頁
無署名「再燃する古伊万里の謎(真贋—96—)」、『芸術新潮』、第22巻12号、新潮社、1971年、106—112頁
由水常雄「古代ガラスの怪(真贋—97—)」、『芸術新潮』、第23巻1号、新潮社、1972年、136—141頁
辻茂「ルーヴルの『田舎の合奏』はジョルジョーネか(真贋—98—)」、『芸術新潮』、第23巻2号、新潮社、1972年、130—135頁
徳永弘道「周文に真蹟はあるのか(真贋—99—)」、『芸術新潮』、第23巻3号、新潮社、1972年、148—153頁
森洋子「二人の若手研究者に否定された八十余点のブリューゲル(真贋—100—)」、『芸術新潮』、第23巻4号、新潮社、1972年、128—135頁
神吉敬三「須磨コレクションの『大いなる幻影』(真贋—101—)」、『芸術新潮』、第23巻5号、新潮社、1972年、108—116頁
江坂輝弥「縄文土偶・岩偶偽物考(真贋—102—)」、『芸術新潮』、第23巻6号、新潮社、1972年、116—123頁
中山正実「『幻の名画』を追って十年—ムリリョ『帯の聖母』—(真贋—103—)」、『芸術新潮』、第23巻7号、新潮社、1972年、104—111頁
江原順「ピカソ・エルンストの贋作を描いた画家(オスカール・ドミンゲス)(真贋—104—)」、『芸術新潮』、第23巻8号、新潮社、1972年、98—103頁
瀬木慎一「ワシントンで開かれた『ロダンの真贋展』(真贋—105—)」、『芸術新潮』、第23巻9号、新潮社、1972年、148—153頁
飯田喜四郎「パリのノートル・ダムの偽りの部分(真贋—106—)」、『芸術新潮』、第23巻10号、新潮社、1972年、120—128頁
友部直「迷宮の中の虚構(真贋—107—)」、『芸術新潮』、第23巻11号、新潮社、1972年、168—173頁
加瀬藤圃「経裏に描かれた円空絵画への疑問(真贋—108—)」、『芸術新潮』、第23巻12号、新潮社、1972年、144—149頁
ル・マール編『続・複製時代の思想』、富士ゼロックス、1973年
鈴木友也編『日本の美術 茶湯釜』、第89号、至文堂、1973年
小川熙「贋作と格闘するデ・キリコ(真贋—109—)」、『芸術新潮』、第24巻1号、新潮社、1973年、126—132頁
瀬木慎一「新発見 北斎絵馬をめぐって(真贋—110—)」、『芸術新潮』、第24巻2号、新潮社、1973年、140—147頁
川添登「元伊勢をさぐる(真贋—111—)」、『芸術新潮』、第24巻3号、新潮社、1973年、164—170頁
大川達雄「鉄斎展異聞 新発見の『北の大茶湯図』(真贋—112—)」、『芸術新潮』、第24巻4号、新潮社、1973年、128—135頁
仁科又亮「新発見広重の『絵日記』(真贋—113—)」、『芸術新潮』、第24巻5号、新潮社、1973年、148—155頁
宗左近「幽夢譚—私の大雅と鉄斎(真贋—114—)」、『芸術新潮』、第24巻6号、新潮社、1973年、134—140頁
嘉門安雄「鑑定・世評の価値へのはね返りかた(真贋—115—)」、『芸術新潮』、第24巻7号、新潮社、1973年、134—140頁
伊藤和男「隠者・白幽子考(真贋—116—)」、『芸術新潮』、第24巻8号、新潮社、1973年、148—155頁
仁科又亮「アメリカにもある春峯庵の浮世絵(真贋—117—)」、『芸術新潮』、第24巻9号、新潮社、1973年、154—159頁
五来重「円空仏の謎を解く(真贋—118—)」、『芸術新潮』、第24巻10号、新潮社、1973年、104—109頁
由水常雄「正倉院の怪(真贋—119—)」、『芸術新潮』、第24巻11号、新潮社、1973年、126—131頁
佐藤昭夫「東京国立博物館の『飛鳥仏』(真贋—120—)」、『芸術新潮』、第24巻12号、新潮社、1973年、132—136頁
富岡益太郎「鉄斎画の鑑定」、『現代日本美術全集』、第1巻、集英社、1973年、1—4頁
小川熙「エトルスクの贋作工房(真贋—121—)」、『芸術新潮』、第25巻1号、新潮社、1974年、132—141頁
鈴木史楼「書聖・王義之『蘭亭序』偽作説(真贋—122—)」、『芸術新潮』、第25巻2号、新潮社、1974年、146—151頁
都城範和「ルーヴルの『写し、にせもの…』展(真贋—123—)」、『芸術新潮』、第25巻3号、新潮社、1974年、102—107頁
加瀬藤圃「白昼夢・徽宗の『白鷹』図(真贋—124—)」、『芸術新潮』、第25巻4号、新潮社、1974年、118—125頁
大川達雄「鉄斎鑑定会控え(真贋—125—)」、『芸術新潮』、第25巻5号、新潮社、1974年、104—109頁
吉田小五郎「キリシタン美術私見(真贋—126—)」、『芸術新潮』、第25巻6号、新潮社、1974年、161—166頁
宗左近「鑑定所見聞録(真贋—127—)」、『芸術新潮』、第25巻7号、新潮社、1974年、171—176頁
瀬木慎一「北斎晩年の謎を解く手紙(真贋—128—)」、『芸術新潮』、第25巻8号、新潮社、1974年、195—200頁
加瀬藤圃「佐野乾山に決着を…(真贋—129—)」、『芸術新潮』、第25巻9号、新潮社、1974年、176—182頁
朝日晃「電柱円空始末記(真贋—130—)」、『芸術新潮』、第25巻10号、新潮社、1974年、205—210頁
無署名「『劉生の会』が発見した劉生(真贋—131—)」、『芸術新潮』、第25巻11号、新潮社、1974年、160—166頁
由水常雄「西洋骨董買い手鑑(真贋—132—)」、『芸術新潮』、第25巻12号、新潮社、1974年、160—164頁
草野守立「画家・贋作者・滝川太郎(真贋—137—)」、『芸術新潮』、第26巻5号、新潮社、1975年、168—173頁
岡田利兵衛「芭蕉筆蹟のほんものとにせもの(真贋—143—)」、『芸術新潮』、第26巻11号、新潮社、1975年、201—206頁
荻久保泰幸「ある偽作家の生涯『特集 井上靖—歴史とロマン—井上靖・作品』」、『国文学 解釈と教材の研究』、第20巻3号、学灯社、1975年、95—98頁
塩野七生「にせもの作りの告白」、『思想』、第609巻、岩波書店、1975年、435—422頁
那須頼雅「"The Mysterious Stranger"—その偽作から真作へ」、『同志社アメリカ研究』、第11巻、同志社アメリカ研究会、1975年、35—43頁
藤枝静男「偽仏真仏(真贋—133—)」、『芸術新潮』、第26巻1号、新潮社、1975年、189—194頁
加瀬藤圃「光琳『紅白梅』の謎(真贋—134—)」、『芸術新潮』、第26巻2号、新潮社、1975年、128—133頁
江原順「ルーブルに入ったフラゴナールはコピーか?—崩壊した『ロイユ』誌の告発(真贋—135—)」、『芸術新潮』、第26巻3号、新潮社、1975年、177—182頁
森洋子「小ピーテル・ブリューゲルの『量産』(真贋—136—)」、『芸術新潮』、第26巻4号、新潮社、1975年、140—147頁
草野守立「画家・贋作者・滝川太郎(真贋—137—)」、『芸術新潮』、第26巻5号、新潮社、1975年、168—173頁
渡辺利馗「留学生とエトルスク(真贋—138—)」、『芸術新潮』、第26巻6号、新潮社、1975年、100—103頁
水上勉「私版『偽仏真仏』(真贋—139—)」、『芸術新潮』、第26巻7号、新潮社、1975年、150—154頁
加瀬藤圃「『国華』掲載の乾山『花鳥図』屏風への疑問(真贋—140—)」、『芸術新潮』、第26巻8号、新潮社、1975年、132—137頁
中島純司「『雪舟』という不倒翁—1—(真贋—141—)」、『芸術新潮』、第26巻9号、新潮社、1975年、125—131頁
中島純司「『雪舟』という不倒翁—2—(真贋—142—)」、『芸術新潮』、第26巻10号、新潮社、1975年、132—138頁
岡田利兵衛「芭蕉筆蹟のほんものとにせもの(真贋—143—)」、『芸術新潮』、第26巻11号、新潮社、1975年、201—206頁
脇坂淳「新発見『等伯』の価値(真贋—144—)」、『芸術新潮』、第26巻12号、新潮社、1975年、162—167頁
滝口進「イギリスを震撼させたパーマー贋作事件(ルポルタージュ)」、『芸術新潮』、第27巻11号、新潮社、1976年、170—177頁
五味康祐「贋作モーツァルト(西方の音)」、『芸術新潮』、第27巻12号、新潮社、1976年、128—130頁
臼井吉見『物言わぬ壷の話』、筑摩書房、1976年
新藤武弘「学会を騒がせた石涛の手紙(真贋—145—)」、『芸術新潮』、第27巻1号、新潮社、1976年、193—198頁
ポール渡部「不況の中の版画大安売り(真贋—146—)」、『芸術新潮』、第27巻2号、新潮社、1976年、184—188頁
宮沢四郎「青山二郎の『眼』—信州の一陶芸家との対話(真贋—147—)」、『芸術新潮』、第27巻3号、新潮社、1976年、180—184頁
宗左近「『大雅』と大雅の弟子と(真贋—148—)」、『芸術新潮』、第27巻4号、新潮社、1976年、140—147頁
中原良三「骨董50年(真贋—149—)」、『芸術新潮』、第27巻5号、新潮社、1976年、189—194頁
海上雅臣「棟方志功贋作事件(真贋—150—)」、『芸術新潮』、第27巻6号、新潮社、1976年、100—107頁
江原順「パリの偽作者たち(真贋—151—)」、『芸術新潮』、第27巻7号、新潮社、1976年、196—204頁
細見古香庵「欺し欺される話(真贋—152—)」、『芸術新潮』、第27巻8号、新潮社、1976年、126—130頁
岸田勉「宮本二天に大作なし(真贋—153—)」、『芸術新潮』、第27巻9号、新潮社、1976年、128—132頁
由水常雄「『明治ガラス』いまむかし(真贋—154—)」、『芸術新潮』、第27巻10号、新潮社、1976年、156—162頁
安藤実「贋作横行・美濃の古陶に御用心(真贋—155—)」、『芸術新潮』、第2711号、新潮社、1976年、204—208頁
無署名「素人コレクション開帳録—ルポルタージュ(真贋—156—)」、『芸術新潮』、第27巻12号、新潮社、1976年、166—172頁
瀬木慎一『真贋の世界』、新潮社、1977年
富岡益太郎「偽筆再考」、『NHK日曜美術館 第2集』、学習研究社、1977年
種村季弘「制服犯罪者の喜劇—追放された詐欺師はやがて芸術化や道化として返り咲く『特集 ロッキード社会の内的系譜』」、『朝日ジャーナル』、第19巻1号、1977年、28—32頁
今泉元佑「再検討すべき重文の柿右衛門(真贋—157—)」、『芸術新潮』、第28巻1号、新潮社、1977年、166—169頁
吉田幸三郎「速水御舟の鑑定(真贋—158—)」、『芸術新潮』、第28巻2号、新潮社、1977年、112—121頁
無署名「陶磁—1—染付(古美術真贋ガイド—1—)」、『芸術新潮』、第28巻1号、新潮社、1977年、153—160頁
無署名「陶磁—2—美濃(古美術真贋ガイド—2—)」、『芸術新潮』、第28巻2号、新潮社、1977年、155—162頁
無署名「陶磁—3—信楽 伊賀(古美術真贋ガイド—3—)」、『芸術新潮』、第28巻3号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—4—備前 丹波(古美術真贋ガイド—4—)」、『芸術新潮』、第28巻5号、新潮社、1977年、163—170頁
無署名「陶磁—5—越前 珠州(古美術真贋ガイド—5—)」、『芸術新潮』、第28巻6号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—6—常滑 渥美(古美術真贋ガイド—6—)」、『芸術新潮』、第28巻7号、新潮社、1977年、147—154頁
無署名「陶磁—7—瀬戸 猿投(古美術真贋ガイド—7—)」、『芸術新潮』、第28巻8号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—8—中世の陶器(古美術真贋ガイド—8—)」、『芸術新潮』、第28巻9号、新潮社、1977年、149—156頁
無署名「陶磁—9—青磁(古美術真贋ガイド—9—)」、『芸術新潮』、第28巻11号、新潮社、1977年、145—152頁
無署名「陶磁—10—白磁 青白磁(古美術真贋ガイド—10—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1977年、151—158頁
宮沢四郎「『小布施北斎』の虚像をはぐ(真贋)」、『芸術新潮』、第28巻11号、新潮社、1977年、118—125頁
仁智栄坊「贋作西東三鬼伝—あるいは四月馬鹿の話—続—」、『俳句研究』、第45巻1号、富士見書房、1978年、132—145頁
仁智栄坊「贋作西東三鬼伝—あるいは四月馬鹿の話—続—」、『俳句研究』、第45巻2号、富士見書房、1978年、134—142頁
滝口進「贋作者トム・キーティング会見記」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、8—11頁
瀬木慎一「戦後の贋作事件〔年表〕」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、20—21頁
ギー・イスナール『真贋』、田中梓訳、美術公論社、1978年
ジェラルディン・フランク・ノーマン『贋作者』、滝口進訳、新潮社、1978年
無署名「陶磁—11—三彩 緑釉(古美術真贋ガイド—11—)」、『芸術新潮』、第29巻1号、新潮社、1978年、157—164頁
無署名「陶磁—12—唐津(古美術真贋ガイド—12—)」、『芸術新潮』、第29巻2号、新潮社、1978年、147—154頁
無署名「陶磁—13—天目 黒釉(古美術真贋ガイド—13—)」、『芸術新潮』、第29巻4号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—14—仁清 乾山ほか(古美術真贋ガイド—14—)」、『芸術新潮』、第29巻5号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—15—長次郎 光悦/萩(古美術真贋ガイド—15—)」、『芸術新潮』、第29巻6号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—16—朝鮮の古陶磁(古美術真贋ガイド—16—)」、『芸術新潮』、第29巻7号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—17—中国の古陶磁(古美術真贋ガイド—17—)」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、127—134頁
無署名「陶磁—18—近世の陶磁——茶陶/民窯(古美術真贋ガイド—18—)」、『芸術新潮』、第29巻9号、新潮社、1978年、123—130頁
無署名「陶磁—19—伊万里 鍋島 柿右衛門(古美術真贋ガイド—19—)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、135—142頁
無署名「肉筆北斎の真贋—里帰り展を機に(アート・ニューズ 話題)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、13—16頁
無署名「陶磁—20—色絵(古美術真贋ガイド—20—)」、『芸術新潮』、第29巻11号、新潮社、1978年、115—122頁
無署名「陶磁—21完—(古美術真贋ガイド—21—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1978年、123—130頁
勝又浩「懸命に生き抜いた生涯——トム・キーティング他著滝口進訳『贋作者』」、『潮』、第239巻、潮出版社、1979年、206—209頁
白州正子「日本のたくみ—8—贋物作り—横石順吉」、『芸術新潮』、第30巻8号、新潮社、1979年、93—97頁
三山進「近世の贋物作りたち(緑陰随筆号)」、『陶説』、第317巻、日本陶磁協会、1979年、14—17頁
大岡信「秋から春へ・贋作吉岡実習作展『特集 吉岡実』」、『現代詩手帖』、第23巻10号、思想社、1980年、50—56頁
阿川弘之「『落首九十九』讃歌——贋作落首七つ『特集 谷川俊太郎—私は言葉を休ませない』」、『国文学 解釈と教材の研究』、第25巻12号、学灯社、1980年、87—90頁
富岡益太郎—聞き手編集部「贋作は新作の五倍から十倍—鉄斎美術館館長 富岡益太郎氏に聞く—『特集 鉄斎その魅力—高まる市場性と鑑定の現状』」、『月刊美術』、実業之日本社、1980年、50—52頁
S・J・フレミング『美術品の真贋 その科学的鑑定』、妹尾学・安部裕子訳、共立出版、1980年
伊野部重一郎「古事記と同序文の偽作説について—粕谷氏及び大和氏の所論にふれて」、『神道学』、第106巻、神道学会、1980年、40—61頁
大川栄二「絵の値段とほんもの・にせもの—サラリーマンコレクターへの戒め」、『芸術新潮』、第32巻3号、新潮社、1981年、90—92頁
峰恭介「ハーフ・ミラー—10—私は贋作者—日本の『真贋の森』を嗤う」、『みづゑ』、第919巻、春鳥会、1981年、108—109頁
室伏哲郎「政治家の贋作は版画界と同質—政治家の巻(現代ニセモノ大博覧会『特集』)」、『現代の眼』、第23巻12号、現代評論社、1982年、50—55頁
鈴木八司「メトロポリタンの倉庫にもあった贋作」、『芸術新潮』、第33巻9号、新潮社、1982年、54—55頁
ペーター・エーレブラッハト「エジプト贋作ひとすじの『巨匠』たち(ルポルタージュ)」、オリオンプレス訳、『芸術新潮』、第33巻9号、新潮社、1982年、56—59頁
石黒孝次郎「贋作の掃き溜めになるか?日本」、『芸術新潮』、第33巻9号、新潮社、1982年、60—61頁
田辺勝美「古代イラン美術の展開」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、19—46頁
深井晋司「『ペルシア秘宝展』所感」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、47頁
杉山二郎「『ペルシア秘宝展』の教える真贋問題」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、48頁
石黒幸次郎「再び—贋作の掃き溜めになるか?日本」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、49頁
吉田秀和「かいえ・どぅ・くりちっく—92—もう一つの『真贋』」、『音楽芸術』、第40巻1号、音楽の友社、1982年、20—25頁
黒岩徹「ヒトラー日記贋作事件四つの謎」、『中央公論』、第98巻7号、中央公論社、1983年、163—171頁
徳岡孝夫「世紀の贋作『ヒトラー日記』騒動」、『諸君』、第15巻7号、文芸春秋、1983年、196—216頁
田中穣「贋作の思想(松本清張・脱領域の眼—松本清張・体験と創造)」、『国文学 解釈と教材の研究』、第28巻12号、学灯社、1983年、12—17頁
瀬木慎一「肉筆浮世絵の贋作『春峯庵事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、46—49頁
田中穣「泰西名画展を飾った『滝川製』マチスなど」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、50—53頁
出川直樹「未だに謎をはらむ『佐野幹山事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、54—57頁
出川直樹「重文指定を取り消された『永仁の壷』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、58—60頁
安井収蔵「国立西洋美術館を直撃した『ルグロ事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、61—64頁
田中英道「稀代の贋作者による『フェルメール事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、65—67頁
生尾慶太郎「贋作意欲をそそるかフジタ、棟方の贋作」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、68—70頁
瀬木慎一「体験的『耳鑑』論」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、71—72頁
田中英道「鑑定の現場から」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、73—74頁
池田瓢阿「私の見た贋作工房(投稿)」、『芸術新潮』、第34巻10号、新潮社、1983年、130—132頁
出川直樹監修・芸術新潮編集部編『やきもの鑑定入門』、新潮社、1983年
諸井誠「音楽裏拍子—3—レコードの真贋」、『芸術新潮』、第34巻3号、新潮社、1983年、86—87頁
匠秀夫・岸信夫「ウルトラ難度の劉生真贋問題(アート・ニューズ)」、『芸術新潮』、第34巻6号、新潮社、1983年、16—18頁
原章二「本物(オリジナル)・贋物(コピー)・紛い物(シミュラクル)—小林秀雄の『真贋』をめぐって(南英耕教授定年退職記念号)」、『教養諸学研究』、、1983年、71—73頁
久保貞次郎『美術の世界11 絵画の真贋』、叢文社、1984年
陳舜臣編『欺視欺され美の真贋』、日本経済新聞社、1984年
上島有「篠村の高氏願文偽作説に対する疑問」、『日本歴史』、第433巻、日本歴史社、1984年、1—16頁
赤羽学「芭蕉の『割』の訓み方を論じて狐屋本『野晒紀行』偽作説を駁す」、『俳文芸』、第23巻、俳文芸研究会、1984年、1—12頁
無署名「アムステルダム大学が開いた『真贋展』(アート・ニューズ)」、『芸術新潮』、第35巻2号、新潮社、1984年、48—51頁
日月山人「東山焼の真贋(東山焼と播磨のやきもの)」、『陶説』、第373巻、日本陶磁協会、1984年、48—49頁
多田道太郎『複製芸術論』、講談社、1985年
種村季弘「オットー・ヴァッカー——あるいはゴッホという幻想(贋作者列伝—1—)」、『ユリイカ』、第17巻1号、青土社、1985年、254—267頁
種村季弘「ファイVSロータール・マルスカート——またはブロマイドから生まれたマリア(贋作者列伝—2—)」、『ユリイカ』、第17巻2号、青土社、1985年、258—269頁
種村季弘「イスラエル・ルコモフスキー——またはサイタフェルネス王の王冠(贋作者列伝—3—)」、『ユリイカ』、第17巻3号、青土社、1985年、225—237頁
種村季弘「アルチェオ・ドッセナ—映画化された贋作過程(贋作者列伝—4—)」、『ユリイカ』、第17巻4号、青土社、1985年、260—272頁
種村季弘「ベッピ・リフェッサー—贋作を作らなかった贋作者(贋作者列伝—5—)」、『ユリイカ』、第17巻5号、青土社、1985年、234—243頁
種村季弘「無署名のデューラーたち(贋作者列伝—6—)」、『ユリイカ』、第17巻6号、青土社、1985年、236—247頁
種村季弘「ジョヴァンニ・バスティアニーニ——胴着を着た哲学詩人の胸像(贋作者列伝—7—)」、『ユリイカ』第17巻7号、青土社、1985年、257—267頁
種村季弘「ハン・ファン・メーヘレン—1—愛国者か贋作者か(贋作者列伝—8—)」、『ユリイカ』、第17巻9号、青土社、1985年、250—261頁
種村季弘「ハン・ファン・メーヘレン—2—画家VS批評家(贋作者列伝—9—)」、『ユリイカ』、第17巻11号、青土社、1985年、266—279頁
種村季弘「ハン・ファン・メーヘレン—3—コレクターVS批評家(贋作者列伝—10完—)」、『ユリイカ』、第17巻11号、青土社、1985年、258—273頁
ジャン・ファブリス「パリ発ユトリロ贋作事情(ユトリロの栄光と無惨)(特集)」、越川倫明訳、『芸術新潮』、第36巻11号、新潮社、1985年、37—45頁
樋口隆一「現代のバッハ研究—9—バッハの真作と偽作」、『音楽芸術』、第43巻11号、日本音楽雑誌、1985年、76—83頁
岸本良彦「呂氏春秋十2紀偽作説とその批評」、『明治薬科大学研究紀要 人文科学・社会科学』、明治薬科大学、1985年、1—27頁
島弘之「ショーレム以前以後—ユダヤ神秘主義の『真贋問題』(ユダヤのノマドたち—極限のアジア極限のヨーロッパ)」、『ユリイカ』、第17巻8号、青土社、1985年、172—179頁
木村重圭「講座『古画の真贋について』を実地して」、『博物館研究』、第20巻6号、日本博物館協会、1985年、4—8頁
種村季弘『贋作者列伝』、青土社、1986年(増補新判、1992年)
樋口穣「司馬江漢『春信偽作』鈴木春信」、『文化史学』、第42巻、文化史学会、1986年、22—41頁
山尾悠子「ラブクラフトとその偽作集団(偽書渉猟—20—)」、『ユリイカ』、第19巻9号、青土社、1987年、8—11頁
清水展「『石器時代人』タサダイ族の真贋をめぐって」、『東南アジア歴史と文化』、第16巻、山川出版社、1987年、113—121頁
石川透「山岸文庫蔵『落窪の草子』奥書の真偽—『阿漕の草子』から多田義俊偽作説に及ぶ」、『芸文研究』、第52巻、慶應義塾大学芸文研究会、1988年、28—53頁
細江光「谷崎の作品ではなかった 偽作『誘惑女神』をめぐって」、『国文学 解釈と教材の研究』、第33巻8号、学灯社、1988年、134—137頁
山口文憲「真贋1如のユートピア—東京質屋協同組合書画骨董美術品特別大会見聞録(天下のにせもの—実態調査・近代日本画編)」、『芸術新潮』、第39巻12号、新潮社、1988年、44—49頁
町田甲一「ガンダーラ菩薩像真贋騒動—『鑑定家の失敗は自惚れから来る』児島喜久雄」、『日本歴史』、第476巻、吉川弘文館、1988年、51—54頁
瀬木慎一『迷宮の美術—真贋のゆくえ』、芸術新聞社、1989年
無署名「『ギリシアの壷真贋事件』の真実」、『芸術新潮』、第40巻5号、新潮社、1989年、85—87頁
屋山太郎「激突書簡経営者・真藤恒の真贋」、『文芸春秋』、第67巻6号、文芸春秋、1989年、122—131頁
石光輝子「現実の真贋—ヒルデスハイマ—の『マーボット』について」、『ドイツ文学』、第82巻、日本独文学界、1989年、120—129頁 
町田甲一「宙に迷ったままのガンダーラ菩薩像真贋問題」、『日本歴史』、第488巻、吉川弘文館、1989年、33—35頁
野村義博「国際美術市場を席捲するジャパンマネー『贋作天国』の不思議な投資感覚」、『世界週報』、第71巻23号、1990年、41—45頁
荒俣宏『帯をとくフクスケ: 複製・偽物図像解読術』、中央公論社、1990年
荒俣宏「贋作世界史(万国贋作博覧会「特集」)」、『芸術新潮』、第41巻7号、新潮社、1990年、57—69頁
杉山二郎『真贋往来 文化論的視点から』、瑠璃書房・六興出版、1990年
市川浩他編『コピー』、岩波書店、1990年
三上直光「ラームカムヘン王碑文の文字表記—偽作の可能性をめぐって」、『慶應義塾大学言語文化研究所紀要』、第22巻、慶應義塾大学言語文化研究所、1990年、199—213頁
沢田瑞穂「南宋真贋列伝—3人の天1坊と2人のアナスタシア皇女」、『2松学舎大学人文論叢』、第43巻、二松学舎大学人文学界、1990年、138—147頁
藤原かすみ「消え去る『レンブラント作品』—真贋の科学判定を探る」、『科学朝日』、第50巻6号、1990年、30—34頁
矢田三千男「幻の肉筆浮世絵『春峯庵』贋作1家、長兄の告白—春峯庵事件の真相を明かす」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、37—44頁
小川煕「エトルスクの贋作工房(抜粋)(真贋—121—74年1月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、48—51頁
藤枝静男「偽仏真仏(抜粋)(真贋—133—75年1月号)」、『芸術新潮』、42巻11号、新潮社、1991年、51—54頁
鈴木八司「エジプトには髭のあるミイラがある?『エジプト美術の裏』より抜粋(真贋—73—70年1月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、55—57頁
白州正子「悲運の『古伊万里』名人『にほんのたくみ八贋物づくり—横石順吉』(79年8月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、58—60頁
陳舜臣「鑑定人Yさんと青銅器『殷周銅器の贋作者たち』より抜粋(真贋—64—69年4月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、61—63頁
玉利勲『墓盗人と贋物作り—日本考古学外史』、平凡社、1992年
宮本三郎「もう一人の『宮本三郎』—にせもの受難記(抄)」、『芸術新潮』、第42巻9号、新潮社、1991年、80—82頁
野村茂男「『古文尚書』の偽作についての若干の考察—『帝王世紀』との関連を中心に」、『日本中国学会会報』、第43巻、日本中国学会、1991年、61—75頁
高宮利行「西洋書物学事始—9—歴史をもてあそんだ男—18世紀イギリスの偽作者チャールズ・バートラム」、『ユリイカ』、第23巻12号、青土社、1991年、8—15頁
養老孟司「モーツァルトの頭骨の真贋は?(科学で解読『モーツァルト』)」、『科学朝日』、第51巻10号、朝日新聞社、1991年、13—15頁
竹西寛子「耳目抄—113—贋物の話」、『ユリイカ』、第23巻12号、青土社、1991年、36—39頁
丹尾安典「贋作の汚名挽回か!?滝川製セザンヌ」、『芸術新潮』、第43巻2号、新潮社、1992年、75—80頁
野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』、新潮社、1992年
種村季弘『贋作者列伝』、 青土社、1992年
村上幸造「押韻から見た蘭亭詩—蘭亭叙の偽作に関連して」、『大阪工業大学紀要 人文社会篇』、第37巻1号、大阪工業大学、1992年、17—29頁
福富太郎「福富太郎のアート・キャバレー—19—贋作の山の果てに入手したこれこそ我が家宝 司馬江漢」、『芸術新潮』、第42巻12号、新潮社、1993年、116—119頁
平山三郎「百鬼園の本—続—(3)『贋作猫』から『日没閉門』まで」、『日本古書通信』、第58巻3号、1993年、4—6頁
レアル・ルサール『贋作への情熱 ルグロ事件の真相』、鎌田眞由美訳、中央公論社、1994年
高橋健三「李文田、郭沫若の『蘭亭』偽作説をめぐる—小論—書体の変遷を追って」、『桜美林大学中国文学論叢』、第19巻、櫻美林学園、1994年、155—168年
佐々木三味・大澤晋之輔校訂『骨董にせもの雑学ノート』、 ダイヤモンド社、1995年
大場建治『シェイクスピアの贋作』、岩波書店、1995年
平兼虎「贋作汚染列島日本を斬る」、『中央公論』、第110巻8号、中央公論社、1995年、228—238頁
平兼虎「贋作汚染列島日本を斬る—続—」、『中央公論』、第110巻9号、中央公論社、1995年、242—250頁
三杉隆敏『真贋物語』、岩波新書、1996年
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—7—発掘で甦った『古代の秘宝』」、『月刊美術』、第22巻7号、実業之日本社、1996年、100—106頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—8—学者VS商人『佐野乾山』論争」、『月刊美術』、第22巻8号、実業之日本社、1996年、116—134頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—9—『花の女神』の微笑の陰に」、『月刊美術』、第22巻9号、実業之日本社、1996年、100—106頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—10—振子のように揺れたゴッホの真贋」、『月刊美術』、第22巻10号、実業之日本社、1996年、91—98頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—11—書画・陶磁『贋作北大路魯山人』」、『月刊美術』、第22巻11号、実業之日本社、1996年、95—103頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—12—貧しかった『贋作者の中の貴族』」、『月刊美術』、第22巻12号、実業之日本社、1996年、100—101頁
安次富哲雄「特定の者の作として美術品を販売のために陳列している百貨店が右美術品につき贋作の疑いがあるとの週刊誌の記事により名誉又は信用が毀損されたとしてその公刊者に対してする損害賠償又は民法723条所定の処分の請求と右美術品の真贋に対する立証責任(東京高裁判決平成6・9・22)」、『判例時報』、第1549巻、判例時報社、1996年、189—193頁
白州正子「真贋のあいだ(特集加藤唐九郎—桃山に挑んだ陶芸家)」、『太陽』、第34巻12号、平凡社、1996年、6—7頁
無署名「こんな佐伯があるものか—吉薗コレクション真贋レポート(特集佐伯祐三の真実)」、『芸術新潮』、第47巻4号、新潮社、1996年、70—74頁
ナンシー・K・シールズ『安部工房の劇場(原題: Fake fish: the theatre of Kobo Abe)』、安保大有訳、新潮社、1997年
野崎六助『超・真・贋』、講談社、1997年
無署名「イタリア美術紙の指摘に安田火災は困惑—58億円ゴッホ『ひまわり』は贋作!?」、『週刊文春』、第39巻23号、文芸春秋、1997年、167—169頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—14—ナーンチャって《古伊万里》譚」、『月刊美術』、第23巻2号、実業之日本社、1997年、124—138頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—15—フェルメール・贋作者の復讐と打算」、『月刊美術』、第23巻3号、実業之日本社、1997年、93—108頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—16—もし聖母子像が栃材(カスタニエン)の木彫ならば」、『月刊美術』、第23巻4号、実業之日本社、1997年、104—110頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—17—偽鑑定証付きもあった贋作棟方志功『前編』」、『月刊美術』、第23巻6号、実業之日本社、1997年、139—145頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—18—偽鑑定証付きもあった贋作棟方志功『後編』」、『月刊美術』、第23巻7号、実業之日本社、1997年、115—125頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—19—もうひとつの贋作ゴッホ事件」、『月刊美術』、第23巻7号、実業之日本社、1997年、115—125頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—20—『キリコ』を巡るキリコの謎」、『月刊美術』、第23巻8号、実業之日本社、1997年、116—125頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—20—『あんな絵なら誰だって描ける』」、『月刊美術』、第23巻10号、実業之日本社、1997年、99—105頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—22—『ロダン「最後の弟子」は悪質な贋作者だった』」、『月刊美術』、第23巻11号、実業之日本社、1997年、115—123頁
山田和「贋作の面白さ」、『本』、第22巻12号、講談社、1997年、18—20頁
木内宏「NHKの犯罪 盗まれた追分節(第4回)贋作」、『金曜日』、第5巻16号、金曜日、1997年、50—53頁
岩根圀和『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽物騒動』、中公新書、1997年
青木茂「よろず手控え帖(5)『にせものほんもの』考」、『近代画説』、第6巻、明治美術学会、1997年、113—117頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—22—『盗難ルノアールと二百点の泰西名画』—前編—」、『月刊美術』、第24巻8号、実業之日本社、1998年、112—121頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—24完—『盗難ルノア—ルと二百点の泰西名画』—後編—」、『月刊美術』、第24巻2号、実業之日本社、1998年、116—126頁
長谷川公之「拾遺贋作犯科帳—手掛けた巨匠は50人 稀代の贋作者キ—ティング」、『月刊美術』、第24巻8号、実業之日本社、1998年、112—121頁
無署名「贋作にもいろいろあるという物語 真作への命がけの挑戦も」、『選択』、第24巻2号、選択出版、1998年、120—123頁
シルビアコクセー「オークションハウスの出来事(4)贋作を見破る7つの方法」、『日経アート』、第11巻8号、日経BP社、1998年、86—89頁
松浦潤『真贋・考』、ふたばらいふ新書、1998年
青山二郎『骨董鑑定眼』、角川春樹事務所、1998年
長浜功『真説 北大路魯山人 歪められた巨像』、新泉社、1998年
鈴木正士「閉じられるテキスト『ドン・キホーテ』—『贋作ドン・キホーテ続編』の導入を中心にして」、『Hispanica』、第42巻、日本イスパニヤ学会、1998年、49—60頁
平尾良光・山岸良二編『石器・土器・装飾品を探る(文化財を探る科学の眼2)』、国土社、1998年
仲畑貴志「この骨董が、アナタです。(3)真贋」、『本』、第23巻3号、講談社、1998年、30—32頁
川島幸希「古書歴訪(11)署名本の真贋(その1)」、『日本古書通信』、第63巻11号、日本古書通信社、1998年、14—16頁
川島幸希「古書歴訪(12)署名本の真贋(その2)」、『日本古書通信』、第63巻12号、日本古書通信社、1998年、16—17頁
黒岩徹「ワールド・ナウ 欧州美術界を震憾させる贋作事件」、『世界週報』、第80巻3号、時事通信社、1999年、60—6頁
無署名「基礎知識2 さらば『贋作』—ニセモノをつかまないためのコレクター心得帳(「特集」絵画購入バイブル99)」、『日経アート』、第12巻3号、日経BP社、1999年、38—40頁
中村啓信「事件推理『古事記』贋作事件の顛末『特集ワイド 徹底比較「古事記」「日本書紀」と古代史料』」、『歴史読本』、第44巻4号、新人物往来社、1999年、167—172頁
古谷可由「あのデッサンが贋作?話題の著書『ゴッホの遺言』をめぐるエピソード(「特集」3つのエピソード)」、『ミュージアム・マガジン・ドーム』、第47巻、日本文教出版株式会社・日本文教出版企画開発部、1999年、4—11頁
山崎真臣「『コラム』贋作・『永仁の壷』顛末記(「特集」偽書の日本史)」、『歴史民俗学』、第15巻、歴史民俗学研究会批評社、1999年、80—83頁
木下長宏編・訳『ゴッホ 自画像の告白』、二玄社、1999年
エリック・へボーン『お騒がせ絵師 自伝—わが芸術と人生』、朝日新聞社、1999年
黒川博行『文福茶釜』、文藝春秋、1999年
トマス・ホーヴィング『にせもの美術史 鑑定家はいかにして贋作を見破ったか』、雨沢泰訳、朝日新聞社、1999年 無署名「気鋭の美術評論家が告発—巨匠アンディ・ウォーホル1億3000万円『名品』に贋作疑惑」、『週刊文春』、第41巻19号、文芸春秋、1999年、34—37頁
飯尾恭之「偽物・本物の判定学序論—特集号にあたっての考古学的視点からの提言(「特集」偽書の日本史)」、『歴史民俗学』、第15巻、歴史民俗学研究会批評社、1999年、28—32頁
水野和彦「『コラム』にせものの価値(「特集」偽書の日本史)」、『歴史民俗学』、第15巻、歴史民俗学研究会批評社、1999年、68—70頁 
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(38)」、『ニューリーダー』、第12巻5号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、82—89頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(39)」、『ニューリーダー』、第12巻6号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、80—86頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(40)」、『ニューリーダー』、第12巻7号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、94—98頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(41)」、『ニューリーダー』、第12巻8号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、82—86頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(42)」、『ニューリーダー』、第12巻9号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、84—88頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(43)」、『ニューリーダー』、第12巻10号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、72—78頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(44)」、『ニューリーダー』、第12巻11号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、82—87頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(45)」、『ニューリーダー』、第12巻12号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、74—79頁
光谷拓美「年輪年代法による年代判定と真贋判定(美術を科学する)」、『日本の美術』、第400巻、至文堂、1999年、80—85頁
長友恒人・横田勝・外山潔「范の熱ルミネッセンス真贋判定とX線回析法による成分分析」、『泉屋博古館紀要』、第16巻、泉屋博古館、1999年、32—48頁
長谷川公之『贋作 汚れた美の記録』、アートダイジェスト、2000年
長谷川公之「現代贋作版画事情」、『月刊美術』、第26巻2号、実業之日本社、2000年、77—85頁 
大谷満「贋作を国宝とする愚かしさ」、『正論』、第329巻、サンケイ新聞社、2000年、56—59頁 
落合莞爾「『佐伯公開作』と『吉薗佐伯』の真実——米子夫人加筆画は贋作ではない『緊急検証 陸軍特務吉薗周蔵の手記(番外編)』」、『ニュ—リ—ダー』、第13巻、はあと出版株式会社・はあと出版、2000年、40—45頁
妹尾浩也「本物よりも本物らしい偽物の行方『特集 写真—世界を写す装置—写真撮影の現場から: 世界をいかに見せるか?—写真の今』」、『国際交流』、第22巻4号、国際交流基金、2000年、26—29頁 
松村喜秀「偽造鑑定人マル秘調査ファイル—偽物がまかり通る日本社会に警鐘」、『世界週報』、第81巻48号、時事通信社、2000年、68頁
今栄蔵「芭蕉の関防印『山昨木』の本物と偽物」、『連歌俳諧研究』、第99巻、俳文学會、2000年、7—19頁
福富太郎「巻頭エッセイ学術的視点と真贋」、『近代画説』、第9巻、明治美術学会、2000年、7—9頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(46)」、『ニューリーダー』、第13巻1号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、76—80頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(47)」、『ニューリーダー』、第13巻3号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、46—51頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(48)」、『ニューリーダー』、第13巻4号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、64—69頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(49)」、『ニューリーダー』、第13巻5号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、68—73頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(50)」、『ニューリーダー』、第13巻6号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、66—71頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(51)」、『ニューリーダー』、第13巻7号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、70—76頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(52)」、『ニューリーダー』、第13巻8号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、70—75頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(53)」、『ニューリーダー』、第13巻9号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、72—77頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(54)」、『ニューリーダー』、第13巻10号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、66—71頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(55)」、『ニューリーダー』、第13巻11号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、70—76頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(56)」、『ニューリーダー』、第13巻12号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、44—50頁
榎本隆司「『贋物』(特集葛西善蔵・嘉村礒多の世界—葛西善蔵作品の世界)」、『国文学解釈と鑑賞』、第65巻4号、、2000年、96—100頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(57)」、『ニューリーダー』、第14巻1号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、72—77頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(58)」、『ニューリーダー』、第14巻2号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、42—48頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(59)」、『ニューリーダー』、第14巻3号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、66—72頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(60)」、『ニューリーダー』、第14巻4号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、46—52頁
松浦潤「古美術界の真贋事情(特集秘宝・名宝の日本史—天皇・戦国武将・伝説の「宝」—特集検証名器・名宝の虚実)」、『歴史読本』、第46巻5号、、2001年、142—149頁
立花隆『立花隆・サイエンスレポート なになにそれは? 緊急取材・立花隆「旧石器ねつ造」事件を追う』、朝日新聞社、2001年


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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その五) [光琳・乾山・蕪村]

その五  乾山の「絵画二」(花籠図)

乾山絵二.jpg

尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

『乾山遺墨』(酒井抱一刊)によれば、十二枚屏風絵の一つと考えられ、現在その屏風絵は分散して残るものは少ない。この図はとくに優れ、乾山の画才が非凡で、卓越したことを証明する作品である。図上の歌に「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」 (『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』 )

(メモ)

一 「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」は、「三条西実隆」の歌である。

二 この歌の表記で「花といへは」の「へ」は平仮名の「へ」の表記である。「新佐野乾山」もので、「黒地白梅流水八寸皿」(『新発見「佐野乾山」展(「芸術新潮」主催」』頁8・昭和三十七年=一九六二 )に、「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」(乾山発句)の賛がある(乾山筆)。この「うえ」の「え」の表記は、乾山の表記として、『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』が開催された、昭和四十七年(一九七二)の頃から何となく気にかかっていたものの一つである。「へ」と「え」と「ゑ」の表記は、「俳諧(連句)・俳句」の世界では、非常に意を払う人が多い。

佐野乾山二.jpg


http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」

「『新発見「佐野乾山」展(「芸術新潮」主催」』頁8)では、上記の左の「黒地白梅流水八寸皿」は、モノクロであったが、上記のアドレスもので、カラーのものを目にすることが出来た。

二〇一八年五月二十六日(土)

これまで、主として連句・俳句の表記は、「水の上」は、「上」か「うへ」のものばかりで、
この時代(江戸中期)の発句の表記で、「うえ」は珍しい感じを受ける。また、上記の「花籠図」は、その落款から、乾山が江戸下向する六十九歳以降の作品とされている(下記五)。
そして、上記の「佐野乾山」もの(「黒地白梅流水八寸皿」)は、元文二年(一七三七・七十五歳)二月から翌年の三月にかけて一年二ヶ月の間で、両方とも、ほぼ、同年代(晩成期)のものなのである。
「花籠図」は、国の重要文化財に指定されているもので、こちらを「乾山の真蹟」とすると、この「黒地白梅流水八寸皿」のものは、やや異質という印象は付き纏う。

三 しかし、『西鶴新新攷』の著書を有する元禄文学(「西鶴・光琳・乾山の時代」)の権威者・野間光辰先達は、「新佐野乾山」肯定派のようで、何らかの別な観点からの見方があるのかも知れない。

四 たまたま、『西鶴新新攷(野間光辰著)p318』の中で、次の発句に遭遇した。(これは直接の参考にはならないが、何かしらの参考情報になるのかも知れない。)

(前書き) 形見嵐残置経本来之一(かたみにあらしのこしおくきやうほんらいのいち)
(発句)   きえてゆく身も月の名よ草の霜  


五 『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」は次のとおり。

花籠図 尾形乾山筆 神奈川松永記念館 掛幅 紙本着色 京兆逸民紫翠深省 霊海印
 乾山は陶芸・書・顔で知られているけれども、かれが終生もっとも愛着と自信をもっていたのは書であった。書は人なりというように、内面的なもの、教養や人となりを直接に現わすので、古来の文人高士は諸芸のうちでもとくに書を重視していた。内省的で読書を好んだ乾山が書を重んじたのは当然であろう。早くも三十歳のころには、家風の光悦流を離れて本格的に中国の書を学び、みずみずしい一家の風をなした。乾山が陶器にも絵にも好んで書筆をとった大きな理由もそこにある。
 この図は乾山が自ら、《花といへは千種(ちぐさ)なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな》と記すところから、『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴するとみる説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶(えんや)なうちに野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸に下った六十九歳以後の作品となる。

六 この「京兆逸民」というのは、「京都からの隠棲者」というようことを意味するのかも知れないが、次のような「蕪村の出郷」と重なる。

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)

七 蕪村が西国(大阪・京都)から江戸へと出郷したのは、享保二十年(一七三五)、二十歳の頃であるが、乾山が江戸へ下向したのは、享保十六年(一七三一)、六十九歳の時で、この時の乾山の心境は、まさに、落剝たる「京兆逸民」という思いであったであろう。

八 乾山の江戸下向は、表向きは、「輪王寺宮公寛法親王随い江戸下向」(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』)とあるが、その実態は、「兄(次兄)の光琳も没し、そして、長兄が継ぎ、光琳が引き継いだ隆盛を誇った『雁金屋』も破敗(ははい)し、『雁金屋』一族は、それぞれが身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置き、いわゆる、「一家(一族)離散」というようなことが、陰に陽に何らかの糸が引いているような感じで無くもない。

九 ここで、蕪村は、元文二年(一七三七・二十二歳)に日本橋本石町の夜半亭(一世)宋阿(早野巴人)の内弟子になるが(実態は、宋阿と蕪村とは京都での出逢いがあり、その縁でのものと思われる)。この年、乾山(七十五歳)は、その近くの、上野の入谷で、陶・・画の制作を続けていたのであろう。

十 そして、この江戸下向、そして、江戸(入谷)・佐野時代には、乾山の養子となる「猪八」(仁清の妾腹の子)も同行していて、殊に、製陶関係については、乾山のスタッフとなっていたような記述もある(参考『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』他)。

十一 先の「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」に、次のような貴重な情報の紹介がなされている。

江戸時代

享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮(注4)公寛法親王(東山天皇第三皇子)が江戸に下向する際に、法親王の孤独な趣味生活のお相手として同行して江戸に移りました。「小西家文書」によると、乾山は「王城の地を、自からのなせる不首尾のままに去りつる事、この上もなき、不屈者に候こと重々肝に命じ候」と、京都での生活をさびしくあきらめて、公寛法親王の仰せもあり、お供して江戸に下向することとなったようです。「自からのなせる不首尾」というのが何なのか明確にはわかりませんが、とにかく京都に居れないような重大な事件があったと想像されます。

江戸に着いた乾山は、兄の尾形光琳が江戸に居た時の寄寓先でもあった深川木場の材木商冬木屋に寄寓し、また、寛永寺領入谷(注5)に窯を築いて焼物を焼きました。乾山は、この数年後下野の佐野に一年余り逗留して作陶しましたが、公寛法親王の病気の知らせを聞いて佐野から急ぎ江戸に戻りました。佐野逗留を挟んだ江戸入谷における作品を「入谷乾山」と呼びます。

法親王は元文3年(1738年)3月に亡くなり、その後乾山は再び焼物を焼いたり絵を描いたりしていましたが、寛保3年(1743年)81歳で亡くなりました。『上野奥御用人中寛保度御日記』には「乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下された」と記してあったということです。
この次郎兵衛が江戸の二代乾山を襲名しました。乾山は81歳で亡くなる前、病床で次郎兵衛に「江戸伝書」や「佐野伝書」には記されていない陶技のコツを口述筆記させました(注6)。この伝書は代々の乾山に受け継がれましたが、六代三浦乾也の没後一時大槻如電が保管していましたが、その後行方不明になっています。

十二 上記の、「『上野奥御用人中寛保度御日記』には『乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下された』と記してあった」というのは、これが、今に轟く、江戸三大陶工の一人、「京兆逸民紫翠深省」こと、尾形乾山の「最期の実像」であったのであろう。

十三 「江戸三大陶工」は、乾山の他に、「野々村仁清・青木木米(もくべい)」で、この三人とも、京都の代表的な陶工である。そして、この青木木米は、蕪村の流れの文人画(日本南画)の傑出した画人の一人である。

(追記)先の「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」掲載の「歴代乾山」は次のとおり。これからすると、乾山が江戸下向する時に、「猪八」は京都に残り、乾山と一緒の江戸下向は無いと解すべきなのであろう。

(参考)歴代乾山

初代乾山が江戸に下向して作陶したため、二代からは京都と江戸に分かれました。
初代乾山が著した「陶工必用」「陶磁製法」「乾山楽焼秘書」などが伝書として伝えられました。乾山はそれぞれの伝書の中で「他見無用」と秘伝であることを強調していたにも拘わらず、乾山の弟子や歴代の乾山から各地の陶器にその秘伝は伝えられました。猪八の弟子清吾から伊勢萬古焼の沼波弄山へ、6代三浦乾也から仙台堤焼の乾馬(庄司義忠)へ、4代抱一上人から江戸の隅田川焼、隅田川焼の佐原(梅屋)菊塢から京都の尾形周平(仁阿弥道八の弟)を介して摂津の桜井焼、播磨の東山焼、淡路の淡路焼などに乾山焼の伝統が伝えられたことは、むしろ喜ぶべきことでした。

      京都    江戸
初代 尾形乾山
二代 猪八(注7)   次郎兵衛(注8)
三代 清吾(注15)   宮崎富之助(注8)
(三代) 宮田呉介(注16)
四代       抱一上人(注9)
五代       西村藐庵(注10)
(六代)       玄々斎(注11)
(六代)      三浦乾也(注12)
六代       浦野繁吉(注13)
(七代)       バーナード・リーチ(注14)

(注7)猪八は乾山の養子で、鳴滝窯を手伝った二代仁清の息子(初代仁清の孫)です。聖護院窯を構えて乾山焼を続けました。

(注8)次郎兵衛と宮崎富之助は入谷の住人。初代乾山にはもう一人宮田彌兵という弟子がいました。

(注9)酒井抱一のこと。抱一は姫路藩主酒井忠仰の次男。尾形光琳に私淑して、琳派の雅な画風に俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風を作り上げ、江戸琳派の祖となりました。37歳で西本願寺の法主文如に随って出家しました。「陶法伝書」は宮崎富之助の妻はるから受け継ぎました。

(注10)西村藐庵(みゃくあん)は吉原江戸町二丁目の名主で、近衛三藐院(このえ-さんみゃくいん)流の書にすぐれ、茶・俳諧・陶芸などにも長じていました。

(注11)玄々斎は西村藐庵(みゃくあん)の次男で、一時六世乾山を襲名していたことが天保十三年(1842年)の『広益諸家人名録』の記述からわかります(書 陶工 乾山。名乾山号玄々斎。緒方深省六世。同所西院乾山藐庵次男)。
しかし、三浦乾也が六代乾山を襲名することになったため、弘化2年(1845年)頃藐庵と同業の吉原江戸町一丁目の名主竹島二左衛門の養子となりました。
藐庵が五代乾山を襲名したのが文政7年(1824年)でしたので、文政年間の後半から天保年間にかけては、玄々斎が六代乾山であったと推測されます。

(注12)三浦乾也は江戸の銀座で徳川家御家人の長男として生まれました。3歳の時父の姉夫婦である井田吉六・タケに引き取られましたが、吉六は江戸焼物を代表する陶工で、将軍家斉(第11代)の前で席焼を行うような名工でした。乾也はその吉六から製陶の手ほどきを受けました。
15歳の時西村藐庵と出会い乾山流陶法を学びました。弘化2年(1845年)24歳で六代乾山を襲名しますが、嘉永6年(1853)浦賀に入港したペリー率いる黒船を見て造艦の必要性を幕府はじめ諸藩に説きました。その後幕末の動乱に巻き込まれて波乱の人生となります。安政元年(1854年)には幕府から命じられ、勝安房(海舟)と共に長崎に行き、オランダ人に洋船製造技術を学びました。更に、安政3年(1856年)には仙台藩に造艦棟梁として招かれ、我が国初の洋式軍艦『開成丸』の建造にあたりました。明治になってからは東京に住んで陶工としてその名を馳せましたが、六代乾山を名乗ることを許されていたにも拘わらず、恐れ多いと生涯乾山の名を用いなかったそうです。

(注13)三浦乾也の弟子の浦野繁吉は、師匠の乾也さえ称えなかった六代乾山を弟子の自分が名乗るのはおこがましいと再三辞退しました。しかし、尾形家(尾形圭助)の養子となっていたので、乾山流陶法の保存の意味で六代乾山を継いだそうです。圭助は乾山の後裔で、東京都町田市の円福寺の過去帳には乾山以来数代の記載があるそうですが、歴史上は乾山は生涯独身だったと考えられています。なお、繁吉は元今戸焼の陶工でした。

(注14)イギリス人の陶芸家バーナード・リーチは浦野繁吉に師事しましたが、繁吉亡き後(大正12年没)昭和44年に娘の尾形奈美(乾女:画家で陶芸家)や乾山顕彰会と計らって、乾山の号は第六代を以て完結することとしたため、リーチは正式には七代目乾山とは名乗っていません。

(注15)清吾は猪八の弟子で、猪八から自筆の陶法伝書を授けられたと言われています。後に桑名の商人沼浪弄山と懇意になり、弄山に猪八の伝書を伝え、これをもとに弄山は伊勢萬古焼を創始しました。

(注16)宮田呉介(弥兵衛)は、文化・文政・天保年間に京都で作陶しました。猪八とは時代的に隔たりがあり、一説によると「勝手に三代乾山を名乗っていた(自称)」ということです。天保年間に京都で乾山の100回忌を開き、かつて乾山が窯を開いた鳴滝の土を用いて追福の香合を百個作陶しました。

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その四) [光琳・乾山・蕪村]

その四 乾山の「絵画一」(フリーア美術館蔵)

乾山絵一.jpg

Flowers on a hillside   → 「丘野辺花図」屏風
Type Screen (four-panel) → 四曲一隻
Maker(s) Artist: Attributed to Ogata Kenzan (1663-1743) → 尾形乾山筆
Historical period(s) Edo period, dated 1741
Medium Color, ink, gold, gold leaf and silver on paper → 紙本金箔・金銀泥・着色
Dimension(s) H x W: 175.7 x 374.2 cm (69 3/16 x 147 5/16 in)

(メモ) 

一 画人としての尾形乾山は、兄の尾形光琳が没した後、その琳派絵画の継承者として、特に、江戸(入谷)にて、絵画作品を遺している。この大作も、江戸(入谷)・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ )の、乾山の晩成期の作品の一つなのかも知れない。

二 上記の第一扇(拡大図) → 落款(詳細不明)

乾山絵一の一.jpg

 上記の第一扇に落款が施されているが、詳細は読み取れない。しかし、その出だしは「七十六」か「七十八」の感じである。乾山の七十六歳は、元文三年(一七三八)に当たり、その前年の九月に、野州(栃木県)佐野に赴き、いわゆる、「佐野乾山」と称せられる、多くの陶芸作品(「新・真」とを問わず)を遺している。

三 乾山の、江戸(入谷)・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ )については、例えば、『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』で、「最後に一言だけ断っておきたいのは、近年世を騒がせた新佐野乾山なる陶器群は、筆者(佐藤雅彦)の乾山観と相容れないので、ここでは採らないことである」と、どうにも、この江戸(入谷)・佐野時代の十二年間が空白になっている。

四 しかし、これほどおかしいことはない。いわゆる「新佐野乾山の真贋論争」(昭和三十年代)という、一種の「佐野乾山タブー」という亡霊が未だに跋扈していて、肝心かなめの「尾形乾山生涯」のその晩成期にあたる十二年間が、全く闇に葬り去られているのである。

五 この「『光琳・乾山そして蕪村』周辺覚書」のスタートは、いわゆる「新佐野乾山の真贋論争」の、その「真贋」ということを見定めることではなく、そのゴール地点は、その「尾形乾山生涯」のその晩成期にあたる、その十二年間を見定めたいという、ただ、その一点にある。
(追記)

上記の落款を拡大すると次のとおり(七十九翁紫翠深省画)。即ち、寛保元年(一七四一)、七十九歳の時のもので、亡くなる一年前に、この大作を制作しているということは驚きである。

乾山落款.jpg
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その三) [光琳・乾山・蕪村]

その三 乾山の「御室から鳴滝へ」

乾山遺物.jpg

「鳴滝窯跡出土遺物」(法蔵寺蔵)
隠棲生活に浸っていた乾山は、三十七歳になって洛西鳴滝泉谷の山中で、やきものつくりの道を開いた。鳴滝山は、刀剣の研磨に用いる砥石の産地であったという。光悦の孫・空中斎光甫や楽一入、押小路焼の孫兵衛、仁清などに学んだ乾山の作陶は、嵯峨本や染織意匠、歌意図や物語絵、山水図、また外国陶磁器の文様など時代の好みを大胆に採り入れて、幅広い作品を生み出していた。(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)

(メモ)

一 空中斎光甫=本阿弥光甫(ほんあみこうほ)

「没年:天和2.7.24(1682.8.26)  生年:慶長6(1601)
江戸前期の芸術家。本阿弥光悦の養子光瑳の子。光伝の父。空中斎と号した。家業である刀の磨礪,浄拭,鑑定の三業を行うかたわら、祖父光悦にならって茶の湯、作陶、絵画など多才な芸術活動を行った。作陶では手捏ね内窯の楽焼を行い、空中信楽とも呼ばれる信楽風の作品も多く、楽茶碗には「寒月」「侘人」、信楽写しの茶碗には「不二」「武蔵野」などがあり、また信楽写しの桐文水指などが代表作。尾形光琳・乾山(深省)の生家、雁金屋とは姻戚関係にあり、光悦より伝わった楽焼の陶法伝書を尾形権平(深省)に授けたとの伝えもある(佐原鞠塢『梅屋日記』)。光悦の生涯を中心とする本阿弥家の家記『本阿弥行状記』3巻本の内,光悦について記した上巻は光甫の作とされる。法橋となり,寛永18(1641)年には法眼に叙せられた。生年を慶長7(1602)年とする説もある。 (伊藤嘉章) 」出典 朝日日本歴史人物事典

二 楽一入(らくいちにゅう)

「没年:元禄9.1.22(1696.2.24) 生年:寛永17(1640)
江戸中期の陶工。楽家4代。幼名を左兵衛,明暦2(1656)年吉左衛門を襲名。元禄4(1691)年養子宗入に家督を譲り一入と改める。茶碗の器形には3代道入(のんこう)の影響はあまりみられず、むしろ長次郎の作を倣っており、高台などに一入らしさがあるが古格がある。釉技は道入の技を受け継ぎ、赤楽は道入の砂釉に近いものを用いながら、黒楽では道入に稀にみられる黒釉のなかに赤い斑文の現れる朱釉を完成させ、赤楽、黒楽ともに古格の造形にあった落ち着きのある釉調に仕上げている。印は道入の自楽印に似るが「自」の部分が「白」となり、やや小振りで高台内や胴裾から高台脇に捺している。玉水焼初代一元は一入の庶子である。(伊藤嘉章) 」 出典 朝日日本歴史人物事典

三 仁清=野々村仁清=ののむらにんせい 

「生没年未詳。江戸初期(17世紀後半)の京焼の名工。丹波(たんば)国(京都府)野々村の出身と伝えられ、本名は清右衛門(せいえもん)。早くから京都粟田口(あわたぐち)で修業し、ついで瀬戸に赴き茶陶を学んだ。帰洛(きらく)後、茶人金森宗和(かなもりそうわ)の推挙で洛西の御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)門前に開窯。門跡から仁和寺の仁と清右衛門の清をとった仁清の号を賜り、以後これを銘印とした。
 仁清の名は慶安(けいあん)2年(1649)の文献に初出する。作品のほとんどが茶器や懐石道具で、当時すでに時流は、従来の「わびさび」から「きれいさび」にかなう華美な茶風に移行し始めていたため、みごとにこの傾向をとらえ、すでに京で試みられていた色絵上絵付(うわえつけ)法を習得し、新様式の頂点にたつ陶工として絶大な声価を得た。その指導者として宗和の存在は大きく、もっぱら宗和好みの「きれいさび」の美意識に基づく茶陶が焼かれた。1656年(明暦2)宗和が没するまでには色絵法を大成し、以後1660年代~70年代が全盛期と推測される。仁清の作陶を代表する色絵陶磁の多くはこの時期の焼造とみられ、梅月・藤(ふじ)・吉野山・若松・芥子(けし)などの茶壺(つぼ)、梅・牡丹(ぼたん)・菊水などの水指(みずさし)、雉子(きじ)や法螺貝(ほらがい)の香炉などが著名で、国宝、重要文化財の指定も多い。茶人や宮方の需要にちなんで形や文様に堂上趣味の意匠の著しいのも仁清作品の特色といえる。
 1694年(元禄7)までには2代清右衛門が家督を継いでいるが、その力量は初代にはるか及ばず、御室焼とも称された仁清窯も一挙に凋落(ちょうらく)したと考えられる。したがって遺品には2代目の作品もあるはずであるが、その弁別は不詳。作品は量産品と一品制作とを区別したものと思われ、現存する「仁清」の捺印(なついん)のある遺品のほとんどは一品制作であり、類型的なものの大半が消失していることが、窯址(ようし)出土の陶片と伝世品との比較から判じられる。[矢部良明]」出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
『河原正彦編『日本陶磁全集 27 仁清』(1976・中央公論社) ▽満岡忠成編『世界陶磁全集 6 江戸(1)』(1975・小学館)』  

四 押小路焼の孫兵衛(まごべえ)

「?-? 江戸時代前期の陶工。京都の人。寛永12年(1635)伝蔵らとともに伊勢津藩主藤堂高次にまねかれ,伊賀(三重県)阿拝郡(あえぐん)丸柱で伊賀焼の茶器などをつくった。」出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

「【尾形乾山】より
…近くにあった御室焼の陶工野々村仁清から本格的な陶法を学び,99年仁清の嫡男清右衛門から仁清の陶法伝書を受け、旧二条家山屋敷を拝領して鳴滝泉谷に乾山窯を興して陶工としての生活をはじめた。開窯当初より兄光琳が絵付けや意匠面で協力し、成形,施釉などは押小路(おしこうじ)焼の陶工孫兵衛が担当した。乾山は仁清窯の陶法に押小路焼の交趾(こうち)釉法などを加え〈乾山一流の法〉を案出した。… 」出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

五 尾形乾山(おがたけんざん)

「没年:寛保3.6.2(1743.7.22) 生年:寛文3(1663)
野々村仁清と並ぶ江戸中期の京焼の代表的名工、画家。江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の3男。次兄には尾形光琳がいる。曾祖父道柏の妻は本阿弥光悦の姉で,祖父宗柏が鷹ケ峯の光悦村に居を構えていたように、光悦との繋がりも強い。初名は権平、のちに深省と改名、諱は惟允、扶陸とも称し、習静堂、尚古斎、陶隠、霊海、逃禅、紫翠、伝陸などと号した。乾山はもと京都鳴滝泉谷に開いた窯名であるがのちに号としても用いた。本阿弥光甫から光悦以来の楽焼の陶技を伝授されたとの伝えもあるが(佐原鞠塢『梅屋日記』)、元禄2(1689)年、洛北御室仁和寺の門前双ケ岡の麓に居を構え習静堂と号し、このころから御室窯にいた野々村仁清のもとで陶技を学んだ。元禄12年8月に2代仁清から正式に陶法を伝授され、二条家から拝領した鳴滝泉谷に居を移し尚古斎と号し、仁和寺からの許可を得て窯を開き、この地が京都の西北、乾の方角に位置するところから作品に「乾山」の銘を記した。 乾山窯には押小路焼の陶工孫兵衛が細工人として参加しており、押小路焼の交趾釉法と仁清伝授の釉法とを合わせながら、白化粧と釉下色絵などに代表される乾山窯独特の釉法が確立されていった。作品は「最初之絵ハ皆々光琳自筆」(『陶磁製方』)とあるように兄光琳が絵付し、乾山が作陶と画賛をする合作が主体で、この時代の作品が鳴滝乾山と呼ばれる。正徳2(1712)年洛中の二条丁字屋町に移り、窯は共同窯を使い、独自の意匠による食器類を作り出し、乾山焼の名は広く知られるようになった。享保年間(1716~36)のなかごろには江戸へ下向し、輪王寺宮公寛法親王の知遇を得て入谷に住み作陶を行い、この時期の作品は入谷乾山と呼ばれる。元文2(1737)年には下野国(栃木県)佐野に招かれて作陶を行い、この時期の作品は佐野乾山と呼ばれる。関東時代には絵画制作にも力を注ぎ,また,元文2年,江戸で『陶工必用』,佐野で『陶磁製方』というふたつの陶法伝書を著している。<参考文献>小林太市郎『乾山』,五島美術館『乾山の陶芸 図録編』 (伊藤嘉章) 」出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

六 陶磁器のかけらは情報の宝庫

www.pref.tottori.lg.jp/195730.htm

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二) [光琳・乾山・蕪村]

その二 乾山の花押・年譜など

乾山一の一.jpg

乾山一の二.jpg

尾形乾山「鉄絵染付大根文茶碗」(てつえそめつけだいこんもんちゃわん)江戸時代中期
高8.2cm 口径11.4cm 高台径5.9cm  徴古館蔵 掲載図録=「鍋島家伝来陶磁器名品展」(平成25年)
胴と見込み一面に大根模様を描く。まず大根を白の硝土で描き、呉須で輪郭を取る。葉は呉須絵の部分と錆絵の部分とがある。最後に透明釉をかける。高台脇に落款「乾山(花押)」。花押によると鳴滝時代(1699-1712)のもので、乾山としては早い時代のもの。

www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=260#sub_unit_a

(メモ)

一 「乾山」という号は、「1699=元禄12=37歳」時に、京都の郊外「鳴滝泉谷」に窯場を開き、その窯場が、都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号した。また、「乾山窯」の名称でもある。

二 この花押は、本名の「権平」の「平」を図案化したものともいわれている(『乾山(佐藤雅彦著)』)。なお、乾山の印章の一つの「尚古」の「古」の図案化のようにも取れる。

三 乾山の「陶工・絵師」としての大雑把な時代区分は次のとおり。

御室時代(「1689=元禄2=27歳」~ ) → 学習期(初代野々村仁清門)
 鳴滝時代(「1699=元禄12=37歳」~ )  → 模索期(二代任清などが細工人)
二条時代(「1712=正徳2=50歳」~ )  → 完成期(「光琳・乾山合作」など)
 江戸・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ ) → 晩成期(「佐野乾山」など)

四 次の花押は、間違いなく、本名「権平」の「平」の花押化である。

乾山一の三.jpg

http://worksshare.seesaa.net/article/58031765.html

五 「乾山年譜」は次のとおり

●乾山関係年表 (参考=法蔵禅寺HOMEPAGE ※=光琳追加 ※※=蕪村追加 )

http://hozo-ji.sakura.ne.jp/

1663=寛文3=1歳   尾形乾山生まれる        ※光琳六歳
1671=寛文11=9歳   祖母一樹院没。妹没(小西家文書)
1672=寛文12=10歳  石川丈山没(90)
1676=延宝4=14歳   母かつ(慈勝院)没。妹二人没(小西家文書
1678=延宝6=16歳   東福門院和子没(72)     ※光琳二一歳
1679=延宝7=17歳   妹二人没。(小西家文書)
1682=天和2=20歳   本阿弥光甫没(82)
1683=天和3=21歳   権平、新三郎と共に伊藤仁斎宅へ年頭挨拶。尾形藤三郎、勘当を解かれ家督を相続。(仁斎日記)
1684=貞享元=22歳   市之丞宛宗謙遺産譲状(小西家文書) ※光琳二七歳
1687=貞享4=25歳   尾形宗謙没(67歳)。印月江墨跡・書簡一式等権平分遺産請書(小西家文書)「深省」と改名。(同年から元禄元年の間)山本素軒、法橋となる。
1689=元禄2=27歳 「習静堂」を建つ。「御門前尾形深省」仁和寺宮寛隆法親王に初御目見得『御室御記』 市之丞と共に二条綱平家へ挨拶『二条家日次記』 市之丞、「浩臨」と改名。
1690=元禄3=28歳  深省、独照および月潭を習静堂へ招待 「霊海」の道号受理(『直指独照禅師後録』)
1692=元禄5=30歳 詩仙堂に遊び、『過凹凸カ記』(出光美術館)を認める。独照、再度習静堂を訪問する(『後録』)市之丞「光琳」と改名か(『内々御番日次記』)※光琳三五歳
1693=元禄6=31歳  二条綱平深省宅御成『二条家日次記』
1694=元禄7=32歳  鳴滝泉谷二条家山屋敷拝領『法蔵禅寺文書』直指庵独照性円寂(78)
1696=元禄9=34歳  光琳宛返金催促書簡『小西家文書』 楽一入没(57)
1699=元禄12=37歳  3月「御門前緒方深省」泉谷築窯並焼物家業許可 「焼物之銘乾山と付申候而焼物商売仕候」 『御室御記』『京都御役所向大概覚書』『陶工必用』 7月薪拝領許可『御室御記』 8月13日仁清陶法伝授『陶工必用』 9月築窯完成『御室御記』 11月20日初窯  仁和寺宮に「緒方深省手作茶碗始而献上之号乾山焼」12月7日「鳴滝村深省近日焼物仕」『御室御記』 ※光琳四二歳
1700=元禄13=38歳  3月「自焼御香炉」二条家へ献上『二条家日次記』 ※光琳四三歳=この頃から乾山焼の絵付を助けるようになる。
1701=元禄14=39歳  2月27日 光琳=法橋(44)
1702=元禄15=40歳  色絵藤原定家十二ヶ月和歌組物①、②、③、④(MOA)
1703=元禄16=41歳  二条家年始御祝焼物皿献上『二条家日次記』色絵石垣皿「日本元禄年製」
1704=宝永元=42歳   8月二条家へ茶碗献上『二条家日次記』 光琳江戸下向 光琳筆「中村内蔵助像」 ※光琳=四七歳=江戸に下向
1705=宝永2=43歳   銹絵山水図四方鉢「宝永乙酉」
1706=宝永3=44歳   銹絵山水図四方鉢 銹絵牡丹唐草文鉢
1708=宝永5=46歳   二条家年頭御礼茶碗献上『二条家日次記』
1710=宝永7=48歳   8月朔二条家へ茶碗献上『二条家日次記』 銹絵松鶴図六角皿「宝永庚寅歳」 ※光琳五三歳=前年に京都に戻る
1711=正徳元=49歳   正月二条家へ御礼火入献上『二条家日次記』 銹絵六歌仙額皿「宝永辛卯」 銹絵梅図角皿「宝永辛卯歳三月五日造」(根津美術館) 銹絵松図角皿「宝永辛卯春」 銹絵柳文重香合「乾山尚古斎 正徳年製」(大和文華館) 色絵唐子図筆筒「宝永年製」
1712=正徳2=50歳 鳴滝泉谷屋敷桑原空洞へ譲渡廃窯 「二条通寺町西入ル北側」に移居 「焼物商売仕」「三条粟田口五条坂辺」て借窯 『京都御役所向大概覚書』『法蔵禅寺文書』
1713=正徳3=51歳 『倭漢三才図会』山城国土産瓷器の中に乾山の名所見 月潭道澄寂
1714=正徳4=52歳 2月公寛法親王、江戸へ下向
1715=正徳5=53歳 正月二条家年始花筒茶碗献上『二条家日次記』 「錦手乾山音羽焼」(近松『生玉心中』) 台獅子香炉「正徳五年」(スタンフォード大学)
1716=享保元=54歳 6月光琳没(59)『小西家文書』 ※※蕪村生まれる=一歳
1717=享保2=55歳  3月光琳後家尚貞(多代)売主の家屋敷売券状に「売請人二条通丁字屋町尾形深省」『小西家文書』
1718=享保3=56歳  5月公寛法親王上洛
1725=享保10=63歳  「乾山焼ノ皿」『槐記』
1728=享保13=66歳  独楽園記大鉢「享保年製」
1731=享保16=69歳  10月公寛法親王に隨行。江戸下向か『佐野伝書』 4月公寛法親王上洛 百拙和尚鳴滝泉谷に幽棲か
1732=享保17年=70歳  瀧図 2月二条綱平薨(61)
1733=享保18年=71歳  乾山焼所見『近代世事談』 4月百拙和尚法蔵禅寺寺籍を鳴滝泉谷に移す ※※蕪村の江戸下向は享保二〇(二十歳)の頃か
1737=元文2=75歳  江戸伝書『陶工必用』(大和文華館) 9月野洲佐野に遊ぶ 佐野伝書『陶磁製法』 「愚息猪八京聖護院宮様御門境にて本焼内焼共に相勤罷在」『陶磁製法』
1738=元文3=76歳  公寛法親王薨(42)
1739=元文4=77歳  春柳画(大和文華館)、人参図 法蔵禅寺堂宇落成
1740=元文5=78歳  雪松画(MOA)、松梅図、蝶・菊図、楓図、「輪王寺宮追善歌」
1741=寛保元=79歳  桔梗図(MOA)、燕子花図屏風、雪竹図、百合紫陽花図、竹図扇面、梅図(根津美術館)、雪松図(根津)、松・燕子花図屏風
1742=寛保2=80歳  朝妻船歌賛、呉竹画賛、春草図扇面
1743=寛保3=81歳  6月2日没(辞世和歌並偈)『上野寛保度御日記』 柳図(福岡市美術館)、十二ヶ月和歌花鳥図、波図、竹図、雪松図(五島美術館)、四季花鳥図屏風(五島) 蛇籠薄絵乱盆(大和文華館) 短冊皿「乾山八十一歳写」(湯木美術館) ※※この翌年(寛保四=延享元年=二九歳)蕪村、宇都宮で「歳旦帖」を刊行、号を蕪村に改める 

六 蕪村の花押関係は、次のアドレスなど。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%81%AE%E8%8A%B1%E6%8A%BC
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その一) [光琳・乾山・蕪村]

その一 光琳書状(「光琳」の基本的姿勢)

書状一.jpg

(尾形光琳書状) 宝永五年八月四日付 上嶋源丞宛書状 大和文華館蔵

※ 上記書状の下段の「読みと意味の要約」は次のとおり。(参考文献『別冊太陽 尾形光琳』など)

有増ノ貌手足ノ
しるし斗して其余ハ
中にてぐわさ(ぐわさ)と
御書ならひ可被成候
雪舟之絵毎日
五七幅つヽ見申候 随分
写申候 とかくねぶり付
たる様ニ書申候ハ絵ニて
なく候 とかく我か物ニ
成やうニ御心へ何とそ(何とそ)
上手に御成可被成候
(以下略)

(要約) 顔とか手足は細かく描かず、「がさがさ」と大胆に描くようにしなさい。雪舟の絵を、毎日五・七幅を写しているとは、相当なものですが、「粘っこく」描くと、絵にはなりません。感ずるままに自分の心を満たすことを第一に、何とぞ頑張ってください。

 この文面の前に、次のような文面がある。

とかく常ノ消息を
相認候心ニ絵も書
候ハねば絵よくハ無之候
焼筆などもあまり
とくとあてぬがよく候

(要約) 日常の手紙を書くような心で絵も描かなければ絵はよくなりません。(下書きに用いる)焼筆などもあまりじっくりあてない方がいいのです。

(メモ) 

一 宝永五年(一七〇八、光琳・五十一歳)、光琳は江戸に居た。この前年に、「酒井家より十人扶持を受け、一時帰京したが、妻(多代)を伴って再下向している(この年に、富士山の噴火があった)。

二 この書状は、江戸(光琳)から京都(上嶋源丞宛)へのものである(上嶋源丞は、京都の町衆の光琳門の一人なのであろう)。

三 この書状に、光琳の「基本的な姿勢」が窺える。

「とかくねぶり付たる様に書申候ハ絵ニテなく候」(要約=粘っこい重たい線で作り込んだものは、絵にはならない。(伸びやかに大胆に生きた線で描くことが何よりも大切だ。)

四 この書状は、光琳の「基本姿勢。書体」などの基本となるとともに、「乾山」等の「基本姿勢・時代背景・書体」などの、その前提になるものとして、すべからく、ここからスタートとすることとしたい。

五 「光琳書状」などは極めて少ないが、「乾山書状・手控えもの」などは、いわゆる、「佐野乾山真贋論争」などに関して、極めて多く、その「肯定・否定」とは問わず、その意味でも、この書状を基本に据えたい。

六 そして、「光琳・乾山」と「蕪村」とのかかわりは、次のとおり。

1 享保元年(一七一六)、光琳が没した年(享年・五十九、この時、乾山、五十四歳)に、与謝蕪村(一歳)は誕生した。

2 元文二年(一七三七)、乾山(七十五歳、江戸へは六十九歳の時)、この九月に東国の「野州路(佐野)」を遊行していた。この頃、蕪村(二十二歳)は、西国(大阪・京都)から東国(江戸)へと移住している。

3 寛保三年(一七四三)、乾山は八十一歳の生涯を東国(江戸)にて閉じた。

4 寛保四年(延享元年=一七四四、蕪村、二十九歳)、東国(宇都宮)にて、『歳旦帖』を刊行して、ここで、終生の号となる、「蕪村」を名乗ることとなる。

5 すなわち、蕪村は、光琳が没した時に誕生し、そり光琳の後継者の乾山が没した時に、その終生の号の「蕪村」を得ることとなる。

6 「佐野乾山窯」の背景は、蕪村の東国出遊時代と重なる。しかし、あくまでも、この「覚書」の主たる狙いは、「乾山」その人にある。
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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その一) [金と銀と墨の空間]

(その一)池田孤邨の「表・紅葉に流水図屏風」と「裏・山水図屏風」

池田孤邨一.jpg

池田孤邨「紅葉に流水図屏風」 六曲一双(表) 紙本金地着色 安政三年(一八五六)

池田孤邨二.jpg

池田孤邨「山水図屏風」 六曲一双(裏) 紙本墨画 安政五年(一八五八)
各一六六・〇×三四三・〇cm フリーア美術館蔵
【 色鮮やかな紅葉が流水の上に浮き沈みし、水辺には秋草が咲き乱れる。『光琳百図』に掲載されるような光琳の楓図屏風に影響を受けながら、抱一の「夏秋草図屏風」のモチーフも取り入れている。孤邨は「雨風にちれる花紅葉露霜にをれ伏す秋芒」が雅で哀れ深い我が国の心である、と述べており(『抱一上人真蹟鏡』序文)、まさに彼の信念を謳いあげた晩年の大作。対照的に裏面は水墨山水となっており、批判しつつも「もろこしの画」に造詣の深かった孤邨の両面をみることのできる作品である。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の美(監修=岡野智子)所収「池田孤邨(岡野智子稿)」)

Pair of six-panel screens: Maple leaves on a stream (front); mountain views (reverse) → 屏風表・「紅葉に流水図屏風」、屏風裏・「山水図屏風」
Type Screens (six-panel) → 六曲一双
Maker(s) Artist: Ikeda Koson 池田孤村 (1801 - 1866)
Historical period(s) Edo period, 1856-1858
Medium Ink and color on gilded paper; ink on paper
Dimension(s) H x W (image, each screen): 166.3 × 343.2 cm (65 1/2 × 135 1/8 in)

 これまでの「風神雷神図幻想」そして「江戸の金と銀との空間」などの、そのゴール地点に位置するものとして、単純に「琳派(装飾画)」と「文人画(水墨画)」とを両睨みしている、江戸琳派の創始者・酒井抱一の高弟・池田孤邨(孤村)の、上記の「表・『紅葉に流水図屏風』」と、その「裏・『山水図屏風』」とを、その筆頭に挙げることも面白いであろう。

 この「表・『紅葉に流水図屏風』」は、まさしく、光琳そして抱一の後継者の一人である池田孤邨の真骨頂の作品と解して差し支えなかろう。

 そして、その「裏・『山水図屏風』」は、例えば、孤邨が師筋としている「宗達→光琳→抱一」の「琳派(公的空間)」に比して、そのアンチの「文人派(私的空間)」を象徴するところの「山水図」(「漢画」の私的投影的「山水図」)と、これまた解して差し支えなかろう。

 そして、それは、これまでの「金(ゴールド)」と「銀(シルバー)」の対比の世界ではなく、「表・『紅葉に流水図屏風』」が、公的な「晴(ハレ)」の空間(琳派的「公的空間」)とすると、「裏・『山水図屏風』は、私的な「褻(ケ)」の空間(文人派的「私的空間)」ということになる。
 と同時に、「金(ゴールド)」と「銀(シルバー)」とは、どちらも、「着飾った」空間を醸し出すということに対して、「水墨(水と墨)」の世界は、「着飾らない・地そのもの」の空間を醸し出すということに他ならない。
 また、「琳派(装飾画)」と「文人画(水墨画)」とを両睨みしているということは、たまたま、上記の「表・『紅葉に流水図屏風』」と「裏・『山水図屏風』」とに関してのものであって、池田孤邨その人に関してのものではないということは、やはり、特記しておく必要があろう。

(再掲) http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-14

【  池田孤邨(孤村)   没年:慶応2.2.13(1866.3.29) 生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』 (仲町啓子稿) 】『朝日日本歴史人物事典』

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江戸の「金」と「銀」の空間(その十一) [金と銀の空間]

江戸の「金」と「銀」の空間(その十一)

(その十一)光琳の「金と銀(縮図)」(『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」)

新撰百図㈠.jpg

(『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」29/38)

新撰百図二.jpg

(『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」30/38)

 上記は、抱一が編んだ『光琳百図』ではなく、抱一の高弟・池田孤邨が編んだ『光琳新撰百図』所収「松島図屏風」のものである。
 この池田孤邨のプロフィールは次の通りである。

【  池田孤邨(孤村)   没年:慶応2.2.13(1866.3.29) 生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』
(仲町啓子稿) 】『朝日日本歴史人物事典』

 上記の作者紹介中の「檜林図屏風」(バークコレクション)は、下記のものである。

水墨画㈠.gif

池田孤邨「檜図屏風」紙本墨画 二曲一隻 ㈠五〇・六×㈠六〇・二cm
メトロポリタン美術館蔵 バークコレクション
【 紙の素地に水墨のみで檜の樹林が描かれる。墨の濃淡で檜の幹、細やかな葉を表わし、静寂な世界が広がっている。檜の樹林は宗達以来の琳派の画題で、光琳画にもあったことが『光琳百図』後編・上からも知られる。其一がこれを大胆にアレンジした「三十六歌仙・檜図屏風」や「夏秋渓流図屏風」があるが、孤邨は全く異なる情趣的な捉え方を試みている。 】 (『江戸琳派の美 抱一・其一とその系脈(岡野昌子監修)』所収「作品解説(岡野昌子稿)」)

 江戸琳派の創始者・酒井抱一が、文政十一年(㈠八二八)没した後、「江戸琳派」には、抱一の名跡を守る「雨華庵(うげあん)」(二代「鶯蒲(おうほ)」・三代「鶯㈠(おういつ)・四代道一(どういつ ))の流れ、抱一の一番弟子の「其一(きいつ)」の流れ、そして、その他の「池田孤邨他の抱一門の流れ」の、三つの支流に分かれて行くこととなる。
 そういう三つの流れの中で、抱一が編んだ『光琳百図』に続く、(『光琳新撰百図』を編んだ、抱一の一番弟子の其一と並び称せられる「池田孤邨」という存在は、単に、「江戸琳派」という関連だけではなく、上記の「檜図屏風」の如く、江戸後期の「水墨画」の名手として、「装飾画(金・銀・濃彩)」と「水墨画(水・墨・淡彩)」との、その止揚を試みた画人という観点でも、異彩を放っている。
 そして、「金(ゴールド)」「銀(シルバー)」の世界が、公的な「晴(ハレ)」の空間(「客間的」空間)とすると、「水墨(モノクロ)の世界」は、私的な「褻(ケ)」の空間(「居間的」空間)」という印象を深くする。
 ここで、これまでの「江戸の『金』と『銀』の空間」を、「江戸絵画(『金』と『銀』と『墨』)の空間」とネーミングを変更し、また、これまで「江戸時代(前期・中期・後期)」を中心としてきたが、長谷川等伯らの「桃山時代」まで、範囲を広げて行くこととする。

『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850483
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江戸の「金」と「銀」の空間(その十) [金と銀の空間]

(その十)光琳の「金と銀」(「白楽天屏風図」)

白楽天図屏風一.jpg

尾形光琳筆「白楽天図屏風」 紙本金地着色 六曲一隻 個人蔵
一四八・〇×三六一・〇cm → A図
【 白楽天と住吉明神が問答する謡曲「白楽天」を題材とする。向かって右の唐船に乗る のが白楽天。左の小舟上の老人が住吉明神。室町時代の大和絵屏風に出てきそうな古風な山の造形と、唐船の大胆な構図とのバランスが面白い。同工異曲の作品が他にもう一点ある。 】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)

 この「作品解説」の「同工異曲の作品が他にもう一点ある」というのは、次の「根津美術館蔵」作品(B図)のことであろう。

白楽天図屏風二.jpg

尾形光琳筆「白楽天図屏風」 紙本金地着色 六曲一双 根津美術館蔵
一五四・〇×三六二・〇cm  → B図

 ここで、上記の「個人蔵」作品(A図)と「根津美術館蔵」作品(B図)との、「浪」などに関する表現の違いについて触れて置きたい。

一 「個人蔵」作品(A図)の波は、「浪」というよりも「山」という感じで、本来のものは、「根津美術館蔵」作品(B図)の「浪」のように、「銀泥・胡粉・群青」などが施されていて、その「銀泥」などは、酸化して「黒変」しているような印象を受ける。
 この「銀(泥)」の酸化による「黒変」は、「松島図屏風」(大英博物館蔵)の「白い波濤」の「黒変」と酷似している(「その九」の「C図」)。

二 「根津美術館蔵」作品(B図)の波は、上部の金箔・金砂子の「金雲」、左辺の緑青の「土坡」と調和して、墨線・胡粉(白)・銀泥・群青などで「波」を表現し、特段に、この「波」の異様さは見られない。しかし、波の背の銀(泥)などは、制作時のものに比すると酸化(黒変化)は免れないのであろう。

 なお、下記のアドレスで、光琳の波濤図関連のものは、北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵)などに大きな影響を与えているのだろうということについて触れたが、今回の「白楽天図屏風」との関連で、その「船」の傾きなども、やはり、光琳の影響というものが垣間見えてくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30

神奈川沖浪裏.jpg
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江戸の「金」と「銀」の空間(その九) [金と銀の空間]

(その九)宗達と光琳の「金と銀」(「松島図屏風」)

松島一.jpg

俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

松島二.jpg

俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

松島図屏風一.jpg

尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)

 上記の「作品解説」のとおり、光琳の「松島図屏風」は何点かある。その代表的なものが、上記のボストン美術館蔵(六曲一隻・B図)もので、宗達作品の右隻(A-1図)を基としている。
その他に、大英博物館蔵(二曲一隻・C図)のものが知られているが、それは、宗達作品の右隻(A-1図)の一扇、上記の光琳作品(B図)の一・二扇に基づいている。
 現在では、これらの宗達作品(A-1図・A-2図)も光琳作品(B図・C図)も、「松島図屏風」の名で知られているが、これらは、日本三景の松島を描いた作品ではなく、かつては「荒磯屏風」と呼ばれていて、宗達作品は、堺の豪商・谷正安が作成を依頼し、堺の祥雲寺に寄贈されたもののようである(上記「特記事項」など)。
 そして、この「荒磯屏風」から「松島図屏風」の、このネーミングの改変には、どうやら、尾形光琳の後継者を自負して、その百回忌をも主催した「江戸琳派の創始者」たる「酒井抱一」が絡んでいねようなのである。
 ここで、決定的なことは、「江戸琳派の創始者」たる「酒井抱一」は、その元祖を「尾形光琳」に置き、その光琳が目標として「俵屋宗達」は、さほどの重きを置かなかったということに他ならない。
 抱一にとって、宗達が描いたとされる西国の堺周辺の「荒磯屏風」は、それを模した光琳の「荒磯屏風」を通して、「海(波)に浮かぶ『松・島(屏風)図』」として、西行・芭蕉に通ずる『東国』の『奥の細道』を象徴する『松島』」などは、思いも浮かばなかったのであろう。

松島図屏風二.jpg

尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。

 この解説文の、「白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている」に注目したい。この「白い波濤」は、「金(ゴールド)」に比する「銀(シルバー)」の世界だったのである。
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江戸の「金」と「銀」の空間(その八) [金と銀の空間]

(その八)光琳の「金と銀」(「紅白梅図屏風」)

紅白梅図屏風.jpg

尾形光琳筆「紅白梅図屏風」二曲一双 各一五六・〇×一七二・二cm MOA美術館蔵

一 主題 → 「暗香疎影(あんこうそえい)」 → 「どこからともなく漂う花の香りと、月光に照らされた木々の影の情景。または、梅のこと。「暗香」はどこからか漂う良い香りのこと。「疎影」はまばらに広がる木々の影のこと。」 

林和靖(りんなせい)「山園小梅」

「衆芳揺落独嬋妍  衆芳 揺落して 独(ひとり)嬋妍たり
占尽風情向小園  小園にて 風情を占め尽くす
疎影横斜水清浅  疎影 横斜して 水 清浅
暗香浮動月黄昏  暗香 浮動して 月 黄昏
霜禽欲下先偸眼  霜禽 下らんと欲して 先ず眼を偸む
粉蝶如知合断魂  粉蝶 如(もし)知らば 合(まさ)に魂を断つべし
幸有微吟可相狎  幸に微吟の相い狎なるべき有り
不須檀板共金樽  須(すべからず)もちいず 檀板と金樽とを 」

二 描写技法

1 没骨法(もつこつほう)→筆線でていねいに物象の輪郭をとらえる鉤勒法(こうろくほう)に対し、輪郭線を引かずに、水墨や彩色の広がりある面によって形体づける技法。中国では唐代中期からみられるが、宋代に確立、山水・花鳥・人物画に用いられ、とくに花鳥画では北宋初期の徐崇嗣(じょすうし)の系統を受けた、いわゆる徐氏体を特徴づける手法であった。これに対し鉤勒法は黄氏体(こうしたい)に特徴的である。広い意味では、わが国の俵屋宗達や尾形光琳に代表される琳派の画法や、円山・四条派の付立法(つけたてほう)なども没骨法の一種である。

2 たらし込み → 色を塗ってまだ乾かないうちに他の色をたらし、そのにじみによって独特の色彩効果を出すもの。自覚的に用いたのは宗達が初めで、以後、琳派がさかんに用いた。

3 点苔(てんたい) → 岩石・枝幹などの苔を点によって表現するもの。群がり生えている草木,遠くの樹木などを描くのにも用いる。また,画面の調子を整えるための,重要な技法ともされる。

三 使用されている色

 紅と白(梅の花)、緑(苔)の三色、その他は、禽・銀と水墨だけである。

四 特殊な金箔

 箔足(金箔を貼った境目)があるが、金箔としても最も薄いもので、「強い光沢ではなく、やわらかな金色を求めていた」ことが窺える(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。

五 流水の妙

 意匠的な流水の紋様は、宗達の伊勢物語絵のものをモデルとしている。銀箔が使用されているという説もあるが(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「紅白梅図屏風(中部義隆稿)」)、「二〇〇三~〇四の調査で銀の使用はみられないことが確認された」(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。
 しかし、この流水には、銀が浮かび上がっている感じで、何かしらの細工が施されているのであろう。

六 水くぐりの枝

 左隻には、白梅の枝と水流が重なったところがある。墨倍図などに伝統的にみられる「水くぐりの枝」をイメージしている。

七 その他

 この作品は、明治時代には津軽伯爵家に伝えられたもので、「婚礼の儀式を飾るにふさわしい。紅梅を描く右隻の前に新婦、白梅を描く左隻の前に新郎が座れば、人物の背景になることで、画面の奥行きはより自然に感じられ、左右の隻の対照的な表現も際立つ。この作品に用いられた色彩は、梅の花の紅白と苔の緑にすぎない。その他は、金銀と水墨である。光を受けて輝く様子はさぞかし華やかであっただろう」(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「紅白梅図屏風」(中部義隆稿)」)。  

(追記)

 「『紅白梅図』の金地ともなれば、もうほとんど金の輝きは失われているといってもよいであろう。そもそもこの屏風は夜のシーンなのだ。このような金地における宗達から光琳の変質の先に、抱一が愛した銀地の絵画世界が広がっている。金地が陽光だとすれば、銀地は月光のイメージを内包しているのだ」(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「光琳の金地表現」(河野元昭稿)」)。



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江戸の「金」と「銀」の空間(その七) [金と銀の空間]

(その七)探幽の「金」(雪中梅竹遊禽図襖)と応挙の「金」「雪松図屏風)

雪中梅竹図襖.jpg

狩野探幽筆「雪中梅竹遊禽図襖」四面 紙本淡彩金泥引 各191.3cm×135.7cm 名古屋城蔵  → 図21

雪松図屏風二.jpg

応挙筆「雪松図屏風」 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm → 図22

 上記の、「雪中梅竹遊禽図襖」(探幽筆)と「雪松図屏風」(応挙筆)とについては、次のアドレスで触れている。そこでの要点を以下に抜粋して置きたい。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-07

(抜粋)

 名古屋城上洛殿の「雪中梅竹遊禽図襖」(図21)は、寛永十一年(一六三四)、探幽、三十三歳の時のもので、安土桃山時代の狩野永徳の「豪華壮麗」の世界を、探幽様式の「瀟洒淡泊」の世界へと一変させた作品として、夙に知られているものである。
 この「瀟洒淡泊」の探幽様式は、その後の江戸狩野派を規定するばかりではなく、江戸絵画の母体を規定する時代様式になったとまで評さられている(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』)。

 この探幽様式は、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、「豊穣な余白」
(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)とが、その大きな特色とされている
(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))。

具体的に、その「水墨画の初発性」というのは、この二等辺三角形(右隻一・二面と左隻
一面)の中に描かれている老梅の墨の濃淡や筆割れや掠れは、先に触れた、画体の「真行
草・省」体の意識的な混交が見られ、緩急自在に「付立」(下絵などに頼らずじかに一筆の運びで表現する)や「片ぼかし・外隈」(雪を表現する時によく用いられ、枝の片側に墨を施し、その外側空間の部分にも墨を掃いて積雪を表現する)を多用している。

 それにも増して、この襖四面の、金泥引きに胡粉の白を刷毛掃きしたような「余白の美」
は、これこそが「瀟洒淡泊」のネーミングの底流を流れているものであろう。雪・梅・竹
・遊禽(雀・尾長・雉など)が「言葉のある空間」とすると、この余白は「言葉のない空間」
という雰囲気で無くもない。

 この探幽の「瀟洒淡泊」は、「江戸文化を象徴する粋(いき)という言葉には、軽みが付随
する」(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』と関連し、その「粋」と「軽み」は「秘
すれば花/秘せずは花なるべからず」(『花伝書(世阿弥著)』)に通じているのであろう。

 さて、次に「雪松図屏風」(図22)なのであるが、一見すると、先の探幽の作品(図22)が
姉とするならば、この応挙の作品は妹の、姉妹関係にあるようにも思われる。しかし、両
者を仔細に見ていくと、一見、同じような志向で、同じような技法とで為されていると見
えるものが、実は、この応挙の作品は、この探幽の作品の、その真逆に近いいものを意図してのものということが察知される。

[「雪松図屏風」は、近くで観察すると筆の省略が見られるなど、いわゆる精密な写生図ではない。しかし「遠見の絵」として鑑賞されるとき、画面の向こうに広がる雪世界にあたかも実際に松が生えているかのような印象を与える。この「本物らしさ」こそ、応挙が目指した新画風である。本図の地には金泥が引かれているが、これは単なる装飾ではない。応挙が描いたのは、陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである。また、松の樹下に光る金砂子とて、伝統的・工芸的な装飾技法ではありえない。朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである。(略) 牧谿をはじめとする中国の水墨画が、日本で規範として受容され、独自の変容をとげ、日本の水墨画となっていった。円山応挙「雪松図屏風」の光り輝く大気が充溢する空間は、日本水墨画史の系譜上に位置している。 ] (「聚美《2011・1》特集円山応挙と呉春」所収「雪松図屏風の空間と形式の成立―円山応挙の大画面構成について―(樋口一貴稿)」)。

 ここで、両者の顕著なる異同やその感想などについて触れておきたい。

一 探幽の「余白」は、「言葉のない空間」(語らない空間)に比して、応挙のそれは「言葉のある空間」(上掲の引用ですると、「陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである」「朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである」と「語っている空間」)ということになる。

二 探幽の「省筆」(減筆体)は、上記の「余白」の「言葉のない空間」と一体を為しているものとすると、応挙のそれは、まさしく、「言葉のある空間」と一体を為していて、それぞれ意味のある「省筆」(減筆体)なのである。それは、「何も描かない」(省筆=減筆体)で「雪」そのものを写生(実)しているのである。

三 探幽の「写実」(写生)は、後に「探幽縮図」として膨大な遺産を遺すほどに、いわゆる「本絵」を描くための「下絵」的な従たる世界のものに比して、応挙のそれは「写生=写実=『実体らしきもの』の描写=究極的世界」と、それこそが、主たる世界のものとして、その創作活動の基本に据えて、隅々まで、その「写実」(写生)を徹底させている。

四 探幽の「空間」が平面的な空間とすると、応挙のそれは立体的な空間で、「中央に余白を設け、右隻では右上方奥から左下方手前へ、左隻では左下方手前から右上方手前へという大きな動きが看守される。(略) 全体として時計回りの立体的循環が生じ、余白が立体的空間として把握されるようになる」(「樋口一貴前掲稿」)。応挙は若年時玩具商に奉公し、「眼鏡絵」制作に携わった経験があり、そこで得た「遠近法的画面構成法」が、応挙の立体的空間作りの源となっている。

五 探幽の絵が「近見の絵」(近くで鑑賞する細密描写に気を配ったもの)とすると、応挙のそれは「遠見の絵」(遠くから見て真価を発揮するもの)ということになる。
探幽の「雪中梅遊禽図襖」の右隻一面に、老梅にたむろしている雀の上に一羽の雀が空中に飛んでいる。そして、左隻の二面に、空中に飛んでいる尾長が、左隻一面の老梅の細い枝の先端を振り返って見ている。中央の右隻二面に、枝に留まっている雉か尾長の尻尾が描かれている。その胴体が失われているが(完成後、損傷し修復したのかどうか不明)、その胴体が空間の中に隠れている感じすら受ける。右隻一面の老梅の枝先に、三本の若梅の枝が垂直に空間の上に伸びきっている。その下方に雪を被った竹の枝と葉が描かれている。この全体の、詩情性豊かな軽やかな、余白空間には圧倒される。

六 応挙の「雪松図屏風」については、「樋口一貴前掲稿」の中で、次のように細かく描写の記述の後に、「遠見の絵」であることを述べられている。
「松は輪郭線を用いない没骨法を描かれおり、枝には付立の技法も使用され、モチーフの立体感を表現している。樹皮には筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている。右扇には直線的で力強い松が唯一本あるばかりで、一方左隻には曲線的で柔らかい二本の若木が配される。雪のハイライトが眩しい松叢の描写も、左隻では直線的、右隻では曲線的と、樹幹の形態と対応している。雪の部分は、紙の地そのままを生かして効果的に表現されている」。続けて、「『雪松図屏風』は、近寄ってみると松葉が存外粗い筆遣いで描かれているのだが、十分に間を取って見た場合には雪原の中に松樹が立体的に浮かび上がってくる。まさに『遠見の絵』である」としている。
 これを先に触れた探幽様式の、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、と「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))とで比較検討すると、両者の相違点が浮き彫りになってくる。
 すなわち、探幽が「水墨画の初発性」という偶発性の厭わないのに比して、応挙のそれは、それを回避するように「筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている」と、全て「写生(実)」の、その「実体らしきもの」を描出するための、あたかも実験的且つ作為的な技法を露出そのものなのである。これは、探幽と同じ視点の「近見の絵」として鑑賞すると、どうにも「重い」という印象は拭えない。

七 同じように、探幽の「豊穣な空間」に比すると、応挙のそれは、これまた、「光」とか「大気」とかの、その「実体らしきもの」を描出するための、すなわち、実験的な試行錯誤の末の作為に作為を重ねている、「人為の極の空間」という印象を深くするのである。
 それは、この屏風一扇一扇は、それぞれ一枚の紙に描かれていて、画面に紙の継ぎ手のないものを使用していることや、その紙の地肌の真っ白さを利用して塗り残して表現していること、さらに、墨の滲みを抑える紙を使用し、墨の濃淡であたかも紙に墨が滲んでいるような印象を与える描法を取っていることなど、「人為の極の空間・紙の選択・描法」等を駆使していることからも裏付けられるものであろう。

八 この「雪松図屏風」に使われている紙の大きさや滲まないものは、当時の日本製の和紙ではなく、中国南部からの輸入紙であったろうとされている(「聚美《2011・1》特集円山応挙と呉春」所収「紙の万華鏡(増田勝彦稿)」)。
 そもそも、「雪松図屏風」のような大画面を描く場合に、「遠見の絵」を目指したというのは、応挙の言葉が多数抄録されている、応挙の支援者であった、三井寺円満院の祐常門主の『萬志』に書き留められているものであって、それは、応挙の創出した画法の一つと理解すべきなのであろう。

九 「真物を臨写して新図を編述するにあらずんば、画図と称するに足らんや」(『仙斎円山先生伝(奥文鳴著)』)、この「真物臨写」が、応挙が目指した「写生」とされているが、応挙が編み出した「写生」は、「(真物)らしきもの」の飽くなき追及で、それはまた、若き日に身に着けた「眼鏡絵」の「からくり絵」的描写を根底に有するように思えるのである。

十 いずれにしろ、三代将軍徳川家光が上洛する折の名古屋城上洛殿の一角を飾った「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽と、今に続く三井財閥の惣領家・北三井家(京都の豪商)の宮参りや正月などの祝いの席を飾ったとされている「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽とが、前者は、膨大な「探幽縮図」を、そして、後者は、懐帖形式の「写生帖」や浄写形式の「草花禽獣写生帖」等を今に遺し、この両者は、無類の「模写・臨写・写生・写実」のテクニシャンであったということは、単に、この「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」との二点を見ただけでも察知出来るであろう。

十一 最後に、この大画面構成たる「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」とを、付かず離れず見て行くと、これは、名古屋城とか三井記念美術館とかの「晴れの場」には相応しいかも知れないが、日常手元に置いて、普段の日常生活の「褻の場」には、どうにもしっくり来ないということは、どうにも拭えないのである。

(追記)

一 探幽様式の「瀟洒淡泊」の世界というのは、安土桃山時代の狩野永徳らの「豪華壮麗」の世界との対比において、浮き彫りされる。それらの「豪華壮麗」というのは「金碧・濃彩」を基本としている。

1 「檜図屏風」(狩野永徳筆) → 紙本金地着色 八曲一隻
2 「唐獅子図屏風」(狩野永徳筆) → 紙本金地着色 六曲一隻
3 「四季花木図襖」(狩野光信筆) → 紙本金地着色 八面
4 「牡丹図襖」(狩野山楽筆) → 紙本金地着色 十六面
5 「老梅図襖」(狩野山雪筆) → 紙本金地着色 四面
6 「牡丹図襖」(狩野孝信筆) → 紙本金地着色 四面
7 「楓図壁貼付」(長谷川等伯筆) → 紙本金地着色 四面
8 「桜図壁貼付」(長谷川久蔵筆) → 紙本金地着色 四面
9 「松図襖」(俵屋宗達筆) → 紙本金地着色 十二面
10 「松島図屏風」(俵屋宗達筆) →  紙本金地着色 六曲一双

二 探幽の「瀟洒淡泊」の世界の萌芽は、次の「長谷川等伯・海北友松」などに見られる。

1 「松林図屏風」(長谷川等伯筆) → 紙本墨画 六曲一双
2 「枯木猿猴図」(長谷川等伯筆) → 紙本墨画 二幅
3 「花鳥図襖」(海北友松筆) → 紙本墨画淡彩 四面
4 「松竹梅図襖」(海北友松筆) → 紙本墨画 十二面

三 「狩野探幽」を中心にしての年譜(主要画人との関連年譜)

天正十八年(一五九〇)     狩野永徳没(一五四三~)
慶長七年(一六〇二)   一歳 狩野探幽出生(~一六七四)
同 八年(一六〇三)      江戸開府
同十五年(一六一〇)      長谷川等伯没(一五三九~)
元和元年(一六一五)      海北友松没 (一五三三~)  
寛永三年(一六二六)      この頃俵屋宗達「風神雷神図屏風」を描く
寛永十二年(一六三五) 三十四歳 江戸にて江月宗玩より「探幽斎」の号を与えられる。
同 十五年(一六三八) 三十七歳 剃髪して「法眼」となる。
同 十七年(一六四〇) 三十九歳 日光「東照宮縁起絵巻」完成。
同 十八年(一六四一) 四十歳  大徳寺本坊方丈に「山水図」襖絵を描く。
万治元年(一六五八)      尾形光琳出生(~一七一六)
正保四年(一六四七)  四十六歳 江戸城本丸・西の丸・黒書院などに障壁画を描く。
明暦三年(一六五七)  五十六歳 西本願寺黒書院の障壁画などを描く。
寛文二年(一六六二)  六十一歳 後水尾院の尊影を描き「筆峰大居士」の画印を賜る。また「法印」に叙せられる。
同 四年(一六六四)  六十三歳 河内国に知行二百石を拝領。
同 七年(一六六七)  六十六歳 安信ら画『四時幽賞』刊。『富士山図』を描く。
同 十年(一六七〇)  六十九歳 痛風を病む。翌年本復する。『波濤群燕図』を描く。
延宝二年(一六七四)  七十三歳 十月没、池上本門寺に葬られる。
享保元年(一七一六)      尾形光琳没(一六五八~) 
同(正徳六年)         伊藤若冲出生(~一八〇〇)
同               与謝蕪村出生(~一七八三)
享保十八年(一七三三)     円山応挙出生(~一七九五)
宝暦二年(一七五二)       松村月渓(呉春)出生(~一八一一)
宝暦十年(一七六〇〉       葛飾北斎出生(~一八四九〉
宝暦十一年(一七六一)      酒井抱一出生(~一八二九)
寛政七年(一七九五)      鈴木其一出生(~一八五八)
タグ:探幽
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江戸の「金」と「銀」の空間(その六) [金と銀の空間]

(その六) 呉春の「銀(浅黄地絹本)」(白梅図屏風)と蕪村・応挙の影

白梅図一.jpg

 呉春筆「白梅図屏風」六曲一双 浅黄地絹本淡彩 (右隻)
 各隻 一七五・五×三七四・〇cm 落款 各隻「呉春写」 印章 二顆(印文不明)
 逸翁美術館蔵

白梅図二.jpg

呉春筆「白梅図屏風」六曲一双 浅黄地絹本淡彩 (左隻)
 各隻 一七五・五×三七四・〇cm 落款 各隻「呉春写」 印章 二顆(印文不明)
 逸翁美術館蔵
【 梅林で梅の木をよく眺めた上で、この屏風を見ると、よくもこれだけに描いたものと驚くほかはない。青い布を貼って描かれたこの梅は薄暮に、幹は黒ずんでゆき白い花だけが浮き出して来ることを作者は充分計算に入れて描いたものと思われる。馥郁たる匂いをただよわせる白梅がやがて夜の闇に閉ざされてゆく現実の梅林に立つ思いがする。 】
(『呉春 財団法人逸翁美術館』)

 俳人・夜半亭二世蕪村(夜半亭一世=夜半亭宋阿=早野巴人)の後継者は、高井几董(夜半亭三世)で、画人・与謝蕪村の後継者は、上記の「白梅図屏風」の作者、呉春(松村月渓)その人ということになろう。

 「蕪村と呉春そして応挙」については、下記のアドレスなどで、陰に陽に触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306120300-1

 ここでは、それらの三者関係については、末尾に、上記のアドレスものの「抜粋」などを記述することにして、それらを省略し、上記の「白梅図屏風」関連に絞って、これらの三者の関係について、以下、記述して行くこととする。

 この呉春「白梅図屏風」が、前回の蕪村筆「白梅紅梅図」(四曲一隻屏風=襖四枚改装)を念頭に置いたということは、画人・蕪村の後継者としての所業として、一点の疑問を挟む余地もなかろう。
 ここに付け加えることとしたら、蕪村が絶命するときの、その臨終の三句のうちの一句「白梅の吟」を書き留めたのは、まさしく、呉春その人なのである。

 しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり  (蕪村の絶吟)

 とすると、これは、上記の「白梅図屏風」の解説の、「青い布を貼って描かれたこの梅は薄暮に、幹は黒ずんでゆき白い花だけが浮き出して来ることを作者は充分計算に入れて描いたものと思われる。馥郁たる匂いをただよわせる白梅がやがて夜の闇に閉ざされてゆく現実の梅林に立つ思いがする」の、「薄暮の白梅」ではなく、「夜明けの白梅」と解すべきであろう。

 さらに、この「白梅図屏風」は、銀箔などの「銀地」ではなく、「青い布地」(浅葱色の粗い紬裂(つむぎぎれ)を貼り合わせたもの)に描かれており、これも「薄暮の白梅」や「月下の白梅」ではなく、薄っすらと浅葱色に変化して行く「夜明けの白梅」をイメージしてのものと思われる。
 その上で、この呉春の「白梅図屏風」は、蕪村の「金」(ゴールド)を背景とした傑作「紅白梅図屏風」(四曲一隻)に対して、それを「銀」(シルバー)に近い「浅葱色」をもって反転させ、蕪村に捧げたオマージュ(追慕)的作品と解したい。

 ここで、この呉春の「白梅図屏風」は、呉春の、もう一人の師である円山応挙の傑作「雪松図屏風」を念頭においての作品であるとする説を紹介して置きたい。

【 この画面構成(注・呉春の「白梅図屏風」)は明らかに応挙の「雪松図屏風」に倣っている。すなわち左右端中程下方から中央に斜めに土坡(どは)を配し、その向かって右隻に画面いっぱいに大木の白梅を一本写し、左隻には同じく画面いっぱいにやや小ぶりの二本の白梅を描いている。そして、その背景には紬地の浅葱色である。この画面構成の原本になった応挙の「雪松図屏風」は、その右隻の画面いっぱいに一本の雪松を配し、左隻には二本の雪松を描写し、さらにその背景には金泥や金砂子を活用した金色の濃淡の輝としている。両者は土坡の構成にいたるまでその画面構成が近似しているのである。 】(「聚楽2011№1円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術(冷泉為人稿))

雪松図屏風.jpg

応挙筆「雪松図屏風」国宝 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm

 それよりも、応挙には、「老梅図襖」(東京国立博物館蔵)、「松竹梅図障壁画(東本願寺・桜下亭)・「白梅図襖(梅之間・北面)」そして「雪梅図襖・壁貼付」(草堂寺蔵)などの「梅図」関連の傑作障壁画が目白押しなのである。

雪梅図襖.jpg

応挙筆「雪梅図襖・壁貼付(部分画)」(草堂寺蔵) 

 上記は、下記のアドレスの、「芦雪指頭画」で触れた、草堂寺(南紀白浜・富田)の応挙の障壁画であるが、これなども、年代的に、呉春は、いわゆる、円山応挙工房で、これらの制作過程などを実見する機会は多々あったことであろう。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-17

 こうしたことからすると、「この『白梅図屏風』を蕪村の方から見ると、蕪村との決別を表象する作品と考えられ、応挙の側から見ると応挙画風への変容宣言ともとれるのである」
(「聚楽2011№1円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術(冷泉為人稿)ということも、やはり、肯定的に解すべきものなのかも知れない。

(抜粋)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306120300-1

 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。
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江戸の「金」と「銀」の空間(その五) [金と銀の空間]

(その五) 抱一の「銀」(紅白梅図屏風)と蕪村の影

紅白梅図屏風.jpg

酒井抱一「紅白梅図屏風」六曲一双 紙本銀地着色 各一五二・五×三一九・六cm
出光美術館蔵
【『光琳百図』に掲載された金地『紅白梅図屏風』を参考にしているが、白梅の瀟洒な造形などには抱一の生き生きとした解釈があふれている。屏風は折り畳むと互いに接触し、長い時を経るとその接触面に顔料痕跡がつく。本図の顔料痕は通常とは逆の面にあるため、当初は裏絵として今とは逆に折り畳まれていたようだ。表絵は光琳の金地の作品だったのだろうか。】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」)

 上記の解説文の「当初は裏絵として今とは逆に折り畳まれていたようだ。表絵は光琳の金地の作品だったのだろうか」と、ここにも、抱一は、「金」の「表絵」に対して、「銀」の「裏絵」を以て、丁度、俳諧(連句)用語ですると、「反転」(「反転法」による「反転」)させているということになろう。
 この「反転の法」というのは、抱一が追慕する蕉門筆頭格の俳人、「江戸座の創始者・宝井其角」が、その『句兄弟』で編み出したところのもので、これを多用した俳人の筆頭こそ、「芭蕉に帰れ」の「中興俳諧」の祖の一人になっている、「与謝蕪村」その人である。
 そもそも、抱一は、俳号を「白鳧(フ)・濤花、後に杜陵(綾)」と称し、宝井其角を祖とする江戸座(馬場存義門)の俳人で、文化九年(一八一二)には自撰句集『屠龍之技』を刊行している。
 また、文化三年(一八〇六)には、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像(百幅)を描き、そこに其角の句を付け知人に配っているのである。これが一つの契機になって、まもなく迎える光琳の百回忌を大々的に興行することと結びついて行くこととなる。
 これらのことについては、次のアドレスで触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

 そこで、下記のとおり、画・俳二道を究めた「与謝蕪村」と「江戸琳派の創始者・酒井抱一」とは、「画」の面においては「南画」と「琳派」と違いはあるが、「俳」の世界においては、「宝井其角」に通ずる「江戸座」の俳人として、同一門の俳人ということになろう。

【 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。】
抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。 】

 さて、与謝蕪村の、俳人としてのスタートとは、寛保四年(延享元年=一七四四、二十九歳、)の『宇都宮歳旦帖』に於いてであるが、画人としてのスタートは、それに前後しての、次の「結城・弘経寺」での、「梅花図(墨梅図)」などが挙げられよう。

墨梅図.jpg

蕪村筆「梅花図(墨花図)」紙本墨画淡彩(元襖絵四面=捲り画四枚) 各一三七・五×七一・五cm  弘経寺蔵

 上記の、二十歳代の「梅花図(墨梅図)」以来、どれほどの、このような画題を、蕪村が制作したものなのかどうか、もはや、例えば、『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』を丹念に見ただけでも、想像を絶するものがある。
 そして、その頂点が、次の、安永七年(一七七八、六十三歳)以降の作とされている晩年の「白梅紅梅図」ということになろう。
 そして、これは、蕪村にしては珍しく、「金(ゴールド)」の「紅白梅図」で、この蕪村の、「金(ゴールド)」に対峙出来る、「銀(シルバー)」のものは、冒頭の抱一の「「紅白梅図屏風」以外には見出し難いであろう。

城梅紅梅図.jpg

与謝蕪村「白梅紅梅図」四曲一隻屏風(襖四枚改装) 一六七・五×二八六・〇cm
款「夜半翁写於京華楼上」 印「謝春星」(白文方印) 「謝長庚」(白文方印)
角屋保存会蔵
 ↑
http://archive.fo/3etH5#selection-229.0-564.1
 ↓
美の巨人たち 与謝蕪村『紅白梅図屏風』 2014.04.26

角屋さんはこの建物そのものが重要文化財。
一歩中へ入れば意匠をこらし贅の限りを尽くした設え。
扇の間には天井一面に見事な扇絵が貼りめぐらされています。
この角屋さんに謎めいた作品があるのです。
作者は与謝蕪村。
江戸中期に京都で活躍した文人画の巨人です。
それがこちら。
黄金を背景に怪しげな幹がうねるように伸びています。
あっ梅が咲いている。
江戸寛永年間よりこの地で店を構えていた角屋は粋な旦那衆が集まるサロンのような場所でした。
では今日の作品が描かれた230年ほど前にタイムスリップした気分でご覧いただきましょう。
縦167センチ横286センチ。
4曲の屏風です。
これもまた…。
金箔地に描かれているのは4本の梅の木。
隣同士の木々が重なり合い複雑な構図になっています。
根元から四方に分かれた幹は朦朧としてまるで影絵のよう。
対照的にそこから伸びる枝は鋭く確かな筆致で描かれています。
その枝先で咲き誇る可憐な白梅。
一輪一輪おしべやめしべ赤褐色の萼まで丁寧に描きこまれているのです。
金地に映える白梅の白。
とその傍らにまだつぼみの紅梅が1本だけ。
白と赤の絶妙なバランス。
その幻想的な描写のなかにほのかな梅の薫り。
与謝蕪村の住居跡があります。
彼が生きた18世紀の京都はまさにルネサンスのような時代でした。
強烈な個性を持った絵師たちが同じ時代同じ街で腕を競い合っていたのです。
ですからこんな人がいたかもしれませんよ。
はぁ…またやられてもうた。
わては絵師の先生方に御用を聞いて回る商人なんです。
もともとは岩絵具をお売りしてたんですがやれ筆を持ってこい!紙を持ってこい!といつの間にか…。
絵師の先生方を相手の商売っちゅうんはホンマ大変ですわ。
曾我蕭白先生のお宅にお代をいただきにうかがったんですがもぬけの殻。
いつもの放浪癖ですわ。
また踏み倒されてしまいました。
ほな行ってくるわ。
今日は蕪村先生のところへ御用を伺いに行きます。
蕪村先生は小さな長屋に奥様とかわいいお嬢さんと慎ましく暮らしてはります。
お人柄はいいんですがものすごいこだわりがおありで筆や刷毛そして紙や墨にもこだわりはります。
どの紙にどの筆を使ってどういうふうに描いたらいいのか。
まるで何かの実験をしてはるみたいですわ。
でも先生の絵には不思議な魅力がありますな。
近所にお住まいの円山応挙先生の絵はまるで本物というかそれ以上に迫力があります。
蕪村先生の絵は簡単に描いてはるように見えますがちゃんと雰囲気を掴んではってそれでいて絵に温かみがあるっちゅうか心の奥のほうがほんわかしますのや。
だからわて蕪村先生のお宅に伺うのがいつも楽しみなんですわ。
旦那様!はいはい!大変です!どないしたんや?七之助!若冲様が久しぶりに鶏が描きたいとおっしゃられてもういつもムチャばっかりおっしゃるんやから。
こないなところにおるかいな!ほらほら!鶏や鶏や!与謝蕪村は絵の世界を遊ぶように旅した人です。
心のおもむくままに新しい画風を追い求めました。
最後までこだわったのは質感と光。
今日の作品にもそれが色濃く反映されています。
ところが謎も多いのです。
なぜ金箔を選んだのか?なぜ梅だったのか?なぜ幹がぼんやりとしていて枝はくっきりと描かれているのか。
白梅は満開なのになぜ紅梅はつぼみなのか。
その一つひとつを検証していくと蕪村の恐るべき狙いが見えてきたのです。
それはいったい何か?与謝蕪村の代表作『夜色楼台図』は日本美術史上初めて描かれた都市の夜景です。
夜の雪の中窓にほんのり差された朱色は行灯の光です。
微細な光が織り成す人々の営みの寂寥とぬくもり。
そう今日の作品にも巧みな光の表現が隠されているのです。
与謝蕪村は松尾芭蕉小林一茶と並ぶ江戸時代を代表する俳人です。
絵師の道を志したのは旅の僧として長い漂泊の日々を送っていた20代後半の頃だといわれています。
蕪村には絵の師匠はいません。
やまと絵や中国画古今東西の名画を模倣し独学で自らの画風を築き上げていきます。
そのなかでとりわけ強く興味を引かれたのが多様な筆致の表現でした。
擦れた筆のままスーッと描くとそれは厳しく険しい山肌となり。
輪郭を描かずただ墨の点を重ねていくと幽玄な山の佇まいに。
下敷きを敷かずに畳の上で直接描くと浮かび上がった畳目はゴツゴツとした岩肌へと変貌を遂げます。
蕪村は…。
蕪村にとって不自由さこそが新たな世界の発見でした。
40歳を過ぎた頃蕪村は京に移り妻をめとりささやかな家庭を持ったのです。
先生のこだわりは半端じゃありません。
以前こんな話を聞いたことがあります。
あるとき先生が突然富くじを買ってきたことがあったそうです。
不思議に思ったお弟子さんが当たったら何に使うのかと尋ねたところ先生はどうしても絖張りで屏風を描きたいからそれを買いたいとおっしゃったそうです。
絖というのは独特な光沢のある絹糸で織られた生地でとても高価なんですわ。
不憫に思ったんかそれ以来お弟子さんたちがお金を出し合って高価な画材を先生に提供するようになったそうです。
蕪村は描く紙や生地がもつ光沢や質感までも自分の表現に取り込んでいきます。
そんななか出会ったのです。
魅力的で不自由な素材に。
旦那様大変です!どないしたんや?蕪村様が金箔が欲しいっておっしゃってます。
蕪村様が金箔を?今日の作品…。
金箔地に4本の梅の木が描かれています。
幹は朦朧としていてまるで影絵のよう。
対照的に枝はくっきりと墨で描かれています。
これには理由があるのですがそれはまたのちほど。
白梅の花びらには胡粉を。
紅梅には臙脂が使われています。
金箔と墨は決して相性はよくありません。
そのまま描くと表面の油分が墨を弾いてしまうからです。
蕪村はこの不自由な金箔のどこに惹かれたのか?っていうところに蕪村のこだわりがあると思われるんですけれども1つには…。
1つにはそこに白梅を描いたということも。
白い梅の花を白い紙に描くと墨で輪郭線をとっていくだけになるんですけれども…。
まるで梅林にいるような雰囲気がかもし出されるんですね。
蕪村は白梅の優美ではかなげな白をより生かすために不自由な金箔を選んだのかもしれません。
与謝蕪村は60歳を過ぎてなお独自の画風を突き詰めていきます。
風雨に立ち向かう鳶と降りしきる雪に耐え忍ぶ2羽の烏。
雪は塗り残しという技法で描かれています。
ひと粒ひと粒の不規則な形が舞い落ちる動き反射する光の揺らめきまでも感じさせます。
これは冬の富士を描いた作品。
視線を右から左へ動かしていくとなぜか左端の松林だけが薄く描かれています。
実はこれ時雨です。
蕪村は濃淡を使って突如降り出した通り雨を表現したのです。
見逃してしまいそうな繊細な光。
まるで西洋の印象派のように蕪村は光を自在に描こうとしたのです。
金箔の注文をいただいてしばらくしたある晩。
わて蕪村先生のお宅に伺ったんです。
そしたら…。
暗い部屋の中に白い梅の花が
230年ほど前の夜は今よりもっと深いものだったでしょう。
描かれた当時の光のもとではどう見えるのか?そうこの絵はわずかな光のなかで向き合ってこそ本当の意図がわかるのです。
果たして蕪村の狙いとは何か?京都にある北野天満宮は梅の名所です。
見頃の時期には境内に植えられた1,500本もの梅が咲き乱れます。
俳人でもあった蕪村は多くの梅の句を詠んでいます。
今日の作品もまた梅です。
与謝蕪村はこの絵にどんな思いを込めたのか。
さてこんな実験をしてみました。
作品が描かれた当時の夜の灯りで照らすと果たしてこの絵はどう見えるのか?江戸時代の灯りといえば当然ロウソクですが残念ながら重要文化財の建物内では火気厳禁。
そこでなるべく照明を離し可能なかぎり光量を落として撮影しました。
光源を離し光量を落としていくと…。
どうですわかりますか?サイズを変えてもう一度。
ほら白梅の花が浮かび上がってきました。
2つを並べてみるとその違いは歴然。
おそらく鮮やかな白梅の白を強調するために紅梅はつぼみでなければならなかったのでしょう。
その幻想的な画面からはほのかな梅の香り。
幹のもやもやっとした感じ…。
それに対して非常に鋭い枝。
下からの光に照らされてるような感覚じゃないかと思うんですよね。
提灯の灯りで夜の梅を見れば枝と花に光が当たり幹の部分はぼんやりと見えたのでしょう。
ほんのりと灯りに照らされた夜の梅。
その艶やかさと儚さ。
与謝蕪村光の集大成。
絵師の先生いうんは皆さん生き方も描きはる絵もさまざまですな。
応挙先生はほとんど画風は変えはりまへん。
それに対して蕪村先生はいろいろな絵を描きはります。
なんか頭の中で旅してはるみたいや。
花に例えたら応挙先生の絵は桜やな。
華やかでっしゃろ。
蕪村先生はやっぱ梅やな。
渋いっちゅうんかどこか哀愁がありますな。
旦那様大変です!応挙様が今度は幽霊を描きたいって。
どこにいるんでしょう?もう知らんがな!旦那様!応挙様がお待ちですって…。
旦那様!今日の作品を描いた3年後の冬蕪村はこの世を去りました。
辞世の句もまた梅。
春の訪れを告げるように鮮やかに咲き誇っています。
金箔に映える白梅の花。
その傍らにはまだつぼみの紅梅。
光の中で漂う梅のほのかな香り。
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